2018-12-31

2018年

今年読んだ本。
  1. グロテスクの系譜
  2. デジタルデザイン
  3. 内田祥哉 窓と建築ゼミナール
  4. 「シェア」の思想
  5. 時がつくる建築
  6. ヨーロッパ的普遍主義
  7. 人新世の哲学
  8. 貨幣論
  9. 共にあることの哲学
  10. AI vs. 教科書が読めない子どもたち
  11. 共にあることの哲学と現実
  12. 近代日本一五〇年
  13. 棋士とAI
  14. 専門知と公共性
  15. 血か、死か、無か?
  16. 赤目姫の潮解
  17. 匂いのエロティシズム
  18. ものぐさ精神分析
  19. 少女終末旅行
  20. 簡潔データ構造
  21. 生命の内と外
  22. プラネタリウムの外側
  23. 「百学連環」を読む
  24. 我々は人間なのか?
  25. 資本主義リアリズム
  26. ある島の可能性
  27. 系統体系学の世界
  28. 〈危機の領域〉
  29. 西部邁 自死について
  30. 感応の呪文
  31. 人形論
  32. 少女コレクション序説
  33. 夢の宇宙誌
  34. エロスの涙
  35. 人と貝殻
  36. 天空の矢はどこへ?
  37. デカルトとパスカル
  38. 海辺
  39. エコラリアス
  40. 亡霊のジレンマ
  41. 言説の領界
  42. 空間〈機能から様相へ〉
  43. 批判的工学主義の建築
  44. ロボット工学と仏教
  45. 神の亡霊
  46. 先史学者プラトン
  47. フェティッシュとは何か
  48. ドローンの哲学
  49. 異端の時代
  50. はざまの哲学
  51. 機械カニバリズム
  52. 流れとよどみ
  53. 考える皮膚
  54. 見知らぬものと出会う
  55. 免疫の意味論
  56. 人間のように泣いたのか?
  57. 技術の完成
  58. まなざしの装置
  59. 対称性
  60. 眼がスクリーンになるとき
  61. タコの心身問題
  62. 文系と理系はなぜ分かれたのか
  63. 抽象の力
  64. HALF-REAL
今年観た映画。
  1. DEVILMAN crybaby
  2. 宝石の国
  3. 風立ちぬ
  4. 夜は短し歩けよ乙女
  5. ザ・スクエア
今年は博論を出して研究に一区切り。ドクタを取ってからは、ポスト専門分化の在り方に興味が移ってきている。

専門家として知識の構築に邁進する一方で、専門家以外とどのように共有していくか。安全を安心に読み替える時代は終わりつつあるが、ポピュリズムに陥らずに安心を維持するには何をしたらよいのか。

設計では年の後半からマニラでのプロジェクトに関わり出し、異なる価値体系同士のすり合わせの在り方についても考えることが増えた。

両者はいずれもひとつの根本的な問題のバリエーションなのかもしれない。

来年も引き続き考え事をするだけの余裕を持とう。

2018-12-30

廃墟の美術史

松濤美術館の「終わりのむこうへ:廃墟の美術史」を観た。

万物は流転するが、流転の速度には差異がある。その中で、本来とは異なる速度で流転している領域のことを、自然に対する人工と呼べば、人工は自然との速度差を維持する働きによって保たれているとみなせる。

秩序の更新過程を制御する働きが止めば、当該領域は再び自然の流れに合流するが、速度差が解消するには時間を要する上に、合流した結果が元の流れと同じものに戻るとは限らない。

そのような人工の発散過程が廃墟であり、一種の過渡現象として近似できるだろう。近代の理想が、絶対時間の実現、すなわち時定数を無限大にすることだったとすれば、近代文明は廃墟になることを想像しないことで「進歩」してきた。廃墟への眼差しは、そういう意味で退廃的なものとして認識されるかもしれないが、その視点を失った文明は既に壊死している。

2018-12-24

HALF-REAL

イェスパー・ユール「HALF-REAL」を読んだ。

あるデータを、何らかの判断基準に基づいて同一視すると、データが捨象されてサイズが小さくなるとともに、データに生じた偏りが意味を担うようになる。抽象過程における情報の捨象と意味の形成は表裏一体であり、減算モデルと除算モデルの双対関係に対応する。

ルールとフィクションの関係も同じであり、両者の相互作用というのは、一つの抽象過程を両方から見ることができることを言ったものなのではないかと思う。ゲームというのは、判断基準が比較的安定的に変化する抽象過程であり、一つの価値体系が維持されるプロセスの一種とみなせる。

古典的ゲームでは、ボールや駒、ボードなどの物体に頼ることで判断基準の安定化を図るが、不確定性を有する人間だけがプレイヤーとなることがほとんどであるため、判断基準の急激な変化に伴う価値体系の崩壊=ゲームオーバーの可能性と常に隣り合わせである。それに対し、ビデオゲームでは、リアルタイムにプレイヤーを仮想化することで、より高度に判断基準を安定化できるようになったことが、時間や空間をはじめとするあらゆるものを刷新する複雑な価値体系を維持する上で重要になったのではないかと思う。

一つの価値体系の維持という意味では、いわゆる現実Realも同じである。大文字の現実とゲームの間に区別が設けられるのは、前者が強烈なハードウェアに強く依存しており、通信可能な範囲内にいるプレイヤーのほとんどがそのことを忘れられるためである。通信範囲が拡がり、異文化、異人種、異種、異星、といった存在に触れ、忘れていた判断基準に気づかされる度に、大文字の現実は変化してきたはずだ。パラダイムシフトである。

逆に、プレイヤーが少数のうちはImaginaryなものであるゲームも、十分多数のプレイヤーが参加することでRealに漸近する。人間の意識が一つであることで機能するように、現実もまた一つであることが求められるために、当初はImaginaryであったゲームが現実に近づき過ぎると、両者の間には軋轢が生じる。キリスト教、貨幣経済、虚数、相対性理論のような新しい価値体系が生じる度に、かつてゲームだったものが現実の一部をなすようになる。Real partとImaginary partに明確に分けられるうちは、ゲームはゲームのままであり、それが峻別できないほどに判断基準が変化したとき、現実と呼ばれるようになるのだろう。ポケモンGoのようなARもいずれそうなるだろうか。

現実が変化しなくなることは、現実が突如としてゲームオーバーするのと同じくらい脅威である。人工知能の発達を待たずとも、現実は知らぬ間にビデオゲーム化しつつある。判断基準が過度に安定化した社会は、ユートピア=ディストピアである。

2018-12-21

群盲象を評す

一匹の同じ象という仮定は、素朴過ぎるという謗りを免れないかもしれないが、「同じ」であるというコンセンサスに至ることをもって実とする他はないように思う。

一匹の同じ象はコンセンサスがみせる虚像であるという発想の裏にこそ、実なる唯一不変のものがあるとか、あらゆるものは虚であるといった、極端で素朴な仮定が含まれているのではないか。

ぬいペニ

つまりは、藪から棒(直球)。

「飼い犬に手を噛まれる」ではなく、「天災は忘れた頃にやってくる」だと思えば、少しは教訓になるか。

理想化したモデルと複雑な現実との齟齬がもたらすカタストロフ。

分身ロボットカフェ


大きく分けると二つのことについて考えている。

ひとつは意識を意識することについて。
OriHime-Dに意識が見出だせるとしたら、それは生身の人間が制御していることそのものよりも、「生身の人間が制御している」という情報が、応対が人間らしいことの理由として受け入れられることの方が影響が大きいと思う。ロボットに心が宿るか、義体化を進めたときにどこまで意識が残るか、といった問題は的外れで、刺激に対する反応が不確定な系のうち、自らと「同じ」ものとしてカテゴライズ可能なものを、意識は意識として意識するのではないか。自らもまた不確定な系である意識は、相対した系が意識であるか否かを投機的に決定するために理由を必要とする。逆に、理由が受け入れられて、投機的な決定を裏切るような情報が得られなければ、実際に意識を介しているかは関係がない。というよりも、「同じ」ような姿形をしていて、「同じ」ような入出力特性を備えた系だけにあると、漠然と信じられてきた意識なるものの概念の方が変化するのだろう。いずれThe Turkと逆のことが起こったりする中で、意識と人工知能の境界は現在信じられているほど確固たるものではなくなり、その境界を死守することに価値を見出す思想は、一種の差別思想とみなされるようになるのかもしれない。

もうひとつは働くことについて。
働けるようになることは社会参加として肯定的に受け止められ、時間、空間、身体などのあらゆる制限を克服して就労機会が確保されようとする。人間の労働が機械で代替できるようになり、大部分の人間が働く必要がなくなったとしても、このサイクルは止まらないのではないか。むしろ次々と労働の対象を変化させることで、意識を維持するための理由を供給し続ける。それはさながらゲームのようだが、十分多数のプレイヤーが参加したゲームは現実になる。意識の維持を是とすることに、自らが意識であること以外の根拠はないし、不要であると思うが、この労働化のゲームはいつまで続くだろうか。労働化のゲームが続かなくなった世界では、意識のメンテナンスは苛酷だろうと想像される。

2018-12-15

抽象の力

岡崎乾二郎「抽象の力」を読んだ。

dataがinformationになる過程。
何らかの判断基準に基づく同一視によって、無数のdataが少数のinformationへと圧縮され、判断基準に応じた形式を帯びる。把握、認識、理解を包含するその除算の過程を、「抽象」として取り出そうとする過程もまた、抽象である。

そのような絶え間ない抽象の重なり合いについての自覚が、19世紀末から20世紀にかけて、科学、美術、文学などの様々な分野において、互いに呼応するかのように生じたのだろう。

ある状況を高圧縮率で抽象し、単線的なチェインや対称性を多く有する形態のように、自由度の小さい単純なモデルで元の状況を置き換えれば、把握することは容易になる反面、表現できることは限られる。単純なモデルへの抽象は持続する傾向を有し、元の状況は静的なものへと固定化されてしまう。「善」とは、この傾向のことを言うものである。

逆に、ほとんど圧縮しないでいては、それを把握したことにならない。人間の処理能力は、世界を圧縮せずに把握できるほど高くない。仮に、世界を圧縮せずに把握できる神のような把握能力があったら、社会、国家、主体、人間、といったかたちで集合することはなく、それは単なる状況そのものとして存続するだけだろう。

いくつものチェインを描きながら、それらが絡み合うようにしてネットワークをなしている様をあぶり出すことで、元の状況を動的なものとして抽象する。そのアナーキーな抽象過程は、単一の静的モデルを用いた抽象過程にはない不確定性を有し、不確定性は自由意志として認識される。抽象美術が目指したであろうこの方向性を、本書もまた共有しており、この本自体が一つの抽象美術となっている。

あらゆる抽象は、元の状況のすべてを表すことができないという犠牲を払うことで、人間が把握できるものとなる。そのことを忘れれば、単純なモデルと複雑な状況の齟齬がもたらすカタストロフ、すなわち天災を招くだけだ。単一の判断基準に基づく抽象へと固定化することなく、発散しない程度に少しずつ判断基準を変えながら、壊死と瓦解の間で抽象し続ける。その小さな死の積み重ねがなすエネルギー変換の過程だけが、終わりなく存続することができる。

2018-12-11

Beyond the Limits of Reality

A complete knowledge of the material world is hardly probable, therefore, the mistakes we make in departing from reality are of but little importance. If revelations do not come true, it is not the fault of the prophet, the dynamic complexity of the world may change their realization on the way. Common sense reposes within the limits of reality, but supreme intelligence travels beyond.
John D. Graham “System and Dialectics of Art” p.128

物質世界に関する完全な知識というのはほとんど存在し得ないため、現実を起点とすることで我々が犯す過ちはさほど重要ではない。もし黙示録が現実のものとならないとしたら、それは預言の誤りではなく、世界の動的複雑さの現れ方が途中で変化することによるのだろう。常識は現実の限界の内に安寧を求めるが、卓抜した知性はその限界を超えていく。

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所与dataを情報informationへと抽象する際の判断基準は、抽象する度に更新される。更新されるうちに偏りを有するにようになった判断基準のことを知識knowledgeと呼べば、物理的身体というプロセスの上に構築される知識のことを現実realityと呼んでいるのだ。

心理的身体という別のプロセスが駆動し、別様の知識が構築可能になることで、単一の知識の不完全性が露呈する。あらゆる知識は、偶々現れる偏りであり、元の世界の断片的な一面だけを現出させる。現実もまたその例外ではない。

一方で、意味をつくり出すのは知識の偏りだ。偏りのない知識は何も現出させない。あるいは、現出とは、あまりに情報量の多い世界に偏りを付与することである。断片化されていない世界を、人間は処理することができないだろう。

限界は、檻であると同時に殻である。あらゆる限界を放棄するのは、一つの限界の内に留まるのと同じくらい死を招くだろう。限界を超えては、別の限界をつくるという、絶え間ない限界の更新のプロセスだけが、生であるはずだ。

2018-12-06

文系と理系はなぜ分かれたのか

隠岐さや香「文系と理系はなぜ分かれたのか」を読んだ。

文系と理系については何度か書いた。
An At a NOA 2014-06-12 “理系文系
An At a NOA 2016-03-06 “理系文系への解釈

文系と理系の区別の仕方に唯一の決まった方法はないし、両者を区別した結果自体にはそれほど意味はないと思う。しかし、文系・理系や人文科学・社会科学・自然科学、自由学芸七科や百科全書派の「人間知識の体系図」のように、人間の知的活動を少数のクラスに分けようとする傾向自体は、分類思考の現れとしてとても興味深い。

複雑で情報量が多すぎる現実は、単純なモデルへと分解しなければ人間には理解できない。
むしろ、不可逆な抽象の連鎖による情報の絞り込みこそ、理解や判断と呼ぶべきものだろう。
An At a NOA 2018-05-07 “系統体系学の世界
何らかの判断基準に基づいて情報を同一視することで、元の現実を人間が処理可能なまでに単純なモデルへと除算する過程が、すなわち理解である。その過程で情報に生じるバイアスが体系性や意味であり、バイアスのかかっていない情報はホワイトノイズと同じように無意味である。あらゆる理解は同一視による情報の捨象と表裏一体であるがために、単一の理解によって元の現実を完全に表すことには無理がある。

元の現実を少しでも把握しようと、少しずつ判断基準を変えながら、何度も世界を割り直そうとし続けるのが、知的活動の本来の在り方に近いのだろう。その活動は、判断基準を元のままに留めようとする力と、変えていこうとする力の拮抗によって維持される。とても生命的なプロセスだ。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス

現実を理解しようとする知的活動がそうであるのと同じように、知的活動を理解しようとする知的活動もまた、そのような拮抗状態にあろうとするのだろう。

生まれつきの才能やジェンダーに限らず、「適性」という発想が、既にバランスの崩壊の前兆である。バランスが崩れること自体は、新たな平衡点への移動をもたらしてくれるが、特定の「適性」に固執し過ぎれば、「最適な状態」という一つの静的平衡へと壊死してしまう。様々な「適」が次々と現れ、止めどなくバランスが崩れ続けることによってのみ、動的平衡としての拮抗状態は維持されるはずだ。

2018-12-05

タコの心身問題

ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題」を読んだ。

少し距離をおいてmindというものを考えるのに、タコはちょうどよいのかもしれない。

神経系の自由度が増加することで、同じ刺激に対して示すことのできる反応の選択肢は指数関数的に増加する。それによって生じる刺激に対する反応の不確定性を、ベルクソンは主観性と関連付けた。

乖離してしまった刺激と反応の不確定な関係の中で繰り返される、判断できない状態と判断してしまった状態の間でのスイッチング。「不安」と「安心」と名付けられるであろう二つの状態の狭間で、「不安」に陥ることを可能な限り回避しようとするのは、複雑な神経系の上に現れる刺激と反応の乖離としての心の運命なのだろう。

あるいは遠心性コピーのように自己の内部において。
あるいはオクトポリスのように自他をまたぐように。
様々な形態のコミュニケーションを介して、心は「安心」を志向し続ける。

2018-12-03

モデルの自由度が増えるほど、同じ刺激に対して示すことのできる反応の種類は増える。

単純なモデルでは一対一に対応していた刺激と反応の関係が、複雑なモデルでは不確定になる。

一対一対応であれば選択の余地はなく、刺激とともに反応が即座に生じる。不確定性を帯びることで選択の余地が生じ、刺激の入力に対する反応の出力は遅延する。

その刺激と反応の乖離gapのことを、心と呼んでいるのだろう。
Mind is the gap.

2018-12-01

抽象的膠着状態

こだわりをもたないというこだわり」という抽象的膠着状態に陥っている過程のことを、生命と呼ぶのかもしれない。

そのこだわりをも捨て去り、さらに上の抽象性へと旅立つのは構わないが、それはつまり、生命であることをやめるということである。

2018-11-30

対称性バイアス

対称性とは、非自明な自己同型nontrivial automorphismを有することである。

非自明な自己同型が多いほど、わずかな手がかりから総体を構成することができるので、プロセッサの処理能力が低い場合には多くの対称性が埋め込まれざるを得ないし、プロセッサの処理能力が高い場合でも、高い対称性を仮定したモデルから始めて、次第に対称性を減らしていくのが、戦略的には妥当だ。

つまり、対称性バイアスは、次第に強まるのではなく、次第に弱まるのではないかということだ。対称性の破れである。

修正されながら更新され続ける総体が、実際の全体にどの程度一致しているかは、究極的には知る術はなく、長い期間をかけてチューニングされた総体をもって、実際の全体だとするしかないように思う。それが身体への信であり、構成された総体のことを、現実と呼んでいるのである。

2018-11-28

dataとinformationの相対性

dataはformを与えられることでinformationになる。このdataからinformationへの抽象過程は、解釈と呼ぶことができる。

dataとinformationの区別は、解釈の前後関係によって相対的に生じるものであり、元のdataから抽象されたinformationが、次のinformationにとってのdataとなることもあれば、元のdata自体が既にある解釈を経たinformationであることもある。

絶対的に解釈を経ていないdataが存在するようにみえるとすれば、それは生まれ持った身体という感覚器sensory systemに由来するのだと思われる。data=dare(to give)であるから、所与の大元である感覚器まで遡ると、そこには絶対的な所与があるように想定されるのだろう。眼鏡、顕微鏡、望遠鏡、補聴器、箸、スマホ。感覚器とともに絶対的にみえる所与も増えていき、環世界は拡がっていく。

dataは所与、informationは情報と訳し分けるのがよいかもしれない。

2018-11-26

眼がスクリーンになるとき

福尾匠「眼がスクリーンになるとき」を読んだ。

無限集合から有限集合をつくり出す方法は2つある。ひとつは、有限個の要素だけを選び出して部分集合をつくる減算モデル。もうひとつは、整数の集合Zを、7を法として合同とみなす同値関係によって7つの同値類に分割するのと同じように、商集合をつくる除算モデル。

減算が「何をよいとみなすか」の判断基準に基づく濾過であるのに対し、除算は「何を同じとみなすか」の判断基準に基づく同一視である。

観念論と実在論の両極を拒否するベルクソンには同意できるが、その間において、無限の情報dataである全体から、有限の情報informationである総体を抽出する知覚や理解といった抽象過程は、減算ではなく除算とみなした方がすっきりとして、ベルクソンもドゥルーズもメイヤスーも、抽象を除算ではなく減算としてモデル化するから無理が生じるのではないかと思う。商対象と部分対象は双対であるから、結局は除算と減算のどちらでモデル化してもよいのだろうが、ある宇宙で考えると簡単なことも、別の宇宙で考えると複雑になるという事態はあるはずだ。

「何を同じとみなすか」の判断基準に相当する、商環をつくる際のイデアル、あるいは商対象をつくる際の余等化子を固定化してしまえば、生成される総体も固定化され、そこに重なり合うように想定される全体も、固定化したものとして捉えられてしまう。これは適用主義が犯すのと同じ過ちだ。

ドゥルーズの言う「見たまま」や「素朴さ」、あるいは「眼がスクリーンになる」というのは、イデアルや余等化子という判断基準を固定化せず、いつでも除数を変えながら世界を割り直すことで、更新される秩序である生命を、壊死と瓦解の間に留めるということであるように思う。

自在に除数を変えながら、
世界を別のしかたで割り直す。
ときにはゆっくりと。
ときには急激に。
その除数の変化の緩急が、
身体というハードウェアと、
思考というソフトウェアの差となる。
瓦解を免れるために身体を欲する一方で、
壊死を免れるために思考を欲する。
これは、究極的には天才の所業である。

「シネマ」は、壊死させられかけていた映画に対する、ドゥルーズなりの救命措置だったのかもしれない。

専門家と機械学習

社会を構成する個体のうち、特定少数のものだけを使ってネットワークを構成し、高速かつ高効率な学習を通して判断基準を最適化する。この「効率的な通信網の構築による判断基準の高速な最適化」というのがつまり専門分化であり、そこに参画した個体は専門家と呼ばれる。

専門家集団による知識の醸成過程は、抽象的にはニューラルネットワークを用いて行う機械学習と同じであり、専門知識や専門用語といったものは、この過程を通じて抽出される特徴量のことである。

専門家以外の個体に対しては、特徴量の抽出過程をブラックボックスとしたまま、特徴量を用いて下される判断だけを共有することが、これまでは一般的であったが、社会に余裕が生じるにつれて、速度や効率を犠牲にしてでも、ブラックボックスを開こうとする傾向が現れてきている。この開示請求は、専門家の説明責任という面が強調されることも多いが、要点は専門家と専門家以外の個体間での特徴量抽出過程の共有にあるのだから、双方の変化が要求されるはずだ。

囲碁や将棋では既に始まっているように、専門家集団のノードを人間が担う必然性は段々と減っていく。それを人間に任せておくこと自体をアトラクションとしない限り、置き換えはどんどん進んでいくだろう。

コヒーレントな社会

ボース=アインシュタイン凝縮した超流体のようにコヒーレントな状態に相転移した社会は、遠くから眺められた場合にはユートピアと呼ばれ、近くから眺められた場合にはディストピアと呼ばれる。

人間の意識は、ボース=アインシュタイン統計に従うだろうか、フェルミ=ディラック統計に従うだろうか。

2018-11-24

受け売り

受け売りでない知識は、最初のうちは妄言と見分けがつかない。

あらゆる情報は、受け売られていくうちに、少しずつ知識と呼ばれるようになっていくのだ。

消化

消化digest=dis(apart)+gerere(carry)とは、消費consumeの別名である。

更新される秩序としての生命は、自らの秩序を更新し続けるために何らかの意味での消費者であり続けるが、消化能力は秩序の更新能力の一部であり、吸収能力や代謝能力と合わせて、生命としての活性度のよい指標になる。

老化とは、消化、吸収、代謝の各能力の衰えであり、肉体的な老化は食品の、精神的な老化は概念の摂取を困難にする。

別の側面では、精神的な消化能力が足りないために、食品の摂取に障害が出ることもある。あまりにも元の生物のかたちを維持したままの食品には、元の秩序の情報informationが残り過ぎているために、精神的な消化が困難であり、摂取するのがためらわれる。

元の秩序を予め解消し、肉体と精神の両面において、消化のハードルを下げる過程が調理cookである。「文明的な」社会ほど、調理による秩序の解消が大々的であり、肉体的にも精神的にも消化能力の衰えた人間が多いように観察される。

emptyとvacant

emptyはアナログな値が0の状態、vacantはデジタルな値が0の状態、というのが個人的なイメージだ。

日本語で言うと、empty=空(から)、vacant=空き(あき)、だろうか。

2018-11-23

こだわりをもたないというこだわり

判断基準の固定化を避けるという意味では、何事にもあまりこだわらないのがよいように思うが、その態度が行き過ぎるのはよいのだろうか。つまり、「こだわりをもたないというこだわり」もまたこだわりだろうか。

これはツェルメロ=ラッセルのパラドックスであるから、抽象度が一階上のものを混ぜこぜにしなければパラドックスは生じないという単純型理論風の回避方法が使える。

あ段

あかさたなはまやらわ
あらたなまはさわやか
新たな間は爽やか

2018-11-20

対称性

レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル「対称性」を読んだ。

あらゆる保存則の問題を対称性の問題に置き換えたネーターの定理は、革命的と形容するにふさわしい。本書はそんなネーターの定理への敬意に溢れている。

変換に対する系の不変性によって対称性を定義するのであれば、対称性=保存則を見出すのはイデアルによって商環をつくるのと同じである。自然それ自体が対称性をもっているというよりも、認識や理解によって把握するということと対称性とは表裏一体であり、「何かを把握すること」と「何かが対称性をもつこと」には見分けがつかないということ
なのではないかと思う。

何かを把握しているにも関わらず、その把握にどんな対称性が埋め込まれているかに無自覚だった人類は、ネーターの定理によって気付かされた。統一理論の探求は、そんな自己反省の旅なのだろう。

2018-11-15

まなざしの装置

平芳裕子「まなざしの装置」を読んだ。

様々なメディアを介して自動的に志向される複製の完全性が、正統なものAuthenticity=auto+accomplishを彫琢する過程は、技術の完成に取り憑かれた近代特有の現象だ。

ファッションもまた同じ過程を辿り、ファッション・プレート、パターン、ショーウィンドウ、ファッション展などを介して、「飾る女性」、「縫う女性」、「模る女性」、「巡る女性」というイデアル=理想の下、現実が理想の複製となるようにイメージが反復されてきた。理想に追随するように現実が更新されていくこの過程が、モードと呼ばれるものだろう。

ファッションはなぜ女性のものと見なされるのかという問いを起点に、近代アメリカを中心として組み立てられる本書のストーリィ自体もまた、近代科学の作法に則った論文構成や論理展開の上に成り立っており、何もかもを単一のイデアルの下に飲み込んでしまえる近代というシステムの無慈悲なまでの強力さをひしひしと感じる。

2018-11-12

自己嫌悪

整合した体系は、不整合なものよりも理解しやすい。

むしろ、不整合だらけの現実から切り出した、幾分整合的なサブセットを全体に重ね合わせようとする過程のことを、意識による理解と呼ぶべきだろう。

整合的なサブセットとはつまりイデアル=理想であり、整合性の判断基準に応じて様々な理想が立ち上がる。

あるイデアルを固定化して、現実を理想に合わせるフィードバック回路を形成することは可能だろうか(これはつまり、商環をつくることと同じか)。意識が自身についてそれに失敗し続ける過程は、自己嫌悪と呼ばれる。

2018-11-07

やばい

「やばい」は「普通」からずれている様を意味し、何が「普通」であるかのコンテクストに応じて、その都度意味が変わる。個別の対象と普通の対象の排他的論理和のようなイメージだ。

コンテクストチェックを省略した「やばい」によるコミュニケーションが高速で便利なのは確かだが、コミュニケーション不全を回避するには、文脈が共有できていないことを想定し、別の言葉に置換することも必要になる。何でもかんでも「やばい」と形容することに反発があるのは、この辺りが関係しているように思う。つまりは、急激な文脈変化についていけないことの現れである。

コンテクストに応じて意味が変わる語といえば、指示代名詞もそうである。「やばい」は、暗黙の指示を内蔵した指示形容詞だとみなせるかもしれない。

自分の文脈を固定化したい人間ほど、指示形容詞「やばい」の濫用に頑なに反発する一方で、己は指示代名詞「あれ」に頼りがちという傾向はあるだろうか。

帽子は何色?

Cは残り二人の帽子の色を見なくても自分の色がわかるのでは。

A「……わかりません」
→B赤C赤、B赤C白、B白C赤のいずれか
B「……わかりません」
→B赤C白の可能性が消え、Cは赤しかない

2018-11-03

技術の完成

フリードリヒ・ゲオルク・ユンガー「技術の完成」を読んだ。

試行錯誤によって編み出された方法は、科学によって手法となり、技術によって道具になる。
An At a NOA 2017-02-10 “方法・手法・道具
職人から科学者を経て技術者へと至るこの一連の過程の中で、合理性を定める判断基準は次第に固定化していき、その到達点である技術においては、ある一つの判断基準に基づく複製の完全性を志向するようになる。あらゆるものの差異が消滅し、すべてが同じ判断基準に従うことによる「総動員」という技術の完成を。

単一の判断基準に基づく自動的な抽象は、既存のまとまりを解体しながら、その基準に基づく新たなまとまりを形成し続ける。既存の側からみれば、この過程は剥離という止めどなき破壊、歴史的なものを上回る大災害に映るだろうし、反対側からみれば創造に映るだろう。判断基準ごとに安全性の基準が異なるため、新たな技術に基づく安全性と既存の技術に基づく安全性への欲求の相違も顕になる。

技術が生まれる前、あるいは技術が生まれて間もない頃には、この秩序の更新過程はさしたる問題にはならず、むしろあらゆる生命を生命たらしめる過程ですらある。その段階においては、技術の先に待っていると期待されるものはユートピアと呼ばれるが、ただ一つの技術だけが優勢になることで、判断基準が完全に固定化し、唯一絶対のものとなってしまうと、あらゆるものが死んだ時間の中で正確に反復するものとして捉えられるようになり、それはディストピアと名指される他ない。すなわち、技術の完成とは、固定化の果ての壊死である。

生命が秩序の上に成立するのだと考えれば、あらゆる生命は少なからず秩序の形成を推し進める技術的な過程に負っている。F・G・ユンガーが失われると危惧している何ものかもまた、ある技術によってもたらされたものであるかもしれず、そのことに気付かないことこそは、その技術が完成しつつあることを裏付けているとも言える。

ある対象を作用物質という単位で捉えることと、リンゴという単位で捉えることの違いは、依拠する判断基準の差であり、後者を優位とするのは単に歴史的経緯によるものでしかない。しかし、仮に後者が物理的身体というハードウェアに依拠した技術であり、人間が物理的身体から逃れられないのであれば、その技術の完成を拒否するのは妥当なのだろうか。まさにこの歴史的経緯こそを頼りにすることで、人間というカテゴリが維持されているようにも思われる。

2018-11-01

U.S.A.

今更ながらDA PUMPの「U.S.A.」を聴いて感心している。

1990年代。アメリカはバリバリに世界の警察官をやっていて、音楽はCDという形態で爆発的に売れていた。ソ連の崩壊、湾岸戦争、オスロ合意、EUの誕生、WWWの誕生、Windows95発売。20世紀の後片付けがドタバタで進められる裏で、21世紀の準備が着々と進んでいた。インターネットはまだまだ縁遠い世界だった。

そんな時代を取り戻そうする大統領がいる時代に、そんな時代に書かれた曲を、そんな時代に生まれた歌手が、そんな時代のJ-POPを席巻したAvex調のアレンジで歌ったものが、音楽パッケージメディアを殺したインターネットの上でバズりながら、巻き込まれているほとんどの人に批評的な素振りがみられない。

多くのことが変わってしまったと思っていたところに現れた、ちょっとしたものだけど身体に染み付いた思い出。久々に実家に帰ったときに開けた引き出しの奥から出てきた、初代ゲームボーイのずっしりとした重みのような。単に懐かしいだけでなく、ある種の安堵感に溢れている。とても喜劇的だ。

q~b(゚∀゚)カモンベイビーアメリカ

2018-10-31

uuu

うずく
うつす
うつる
うるむ
くくる
くぐる
ぐぐる
くずす
くすむ
ぐずる
くゆる
くるう
くるむ
すくう
すくむ
すすぐ
すすむ
すずむ
すする
つぐむ
つくる
つつく
つづく
つつむ
つづる
つむる
つるす
つるむ
ぬぐう
ぬくむ
ぬすむ
ふくむ
ふるう
むくる
ゆすぐ
ゆする
ゆずる
ゆるぐ
ゆるす
ゆるむ

2018-10-23

人間のように泣いたのか?

森博嗣「人間のように泣いたのか?」を読んだ。

人間の形をしていたり、有機体でできていたり、血を流したり、汗を流したり、涙を流したり、理由を気にしたり。人間というカテゴリの境界は、人間が自分自身と同じと認めることによって決まっていくため、どうしても「人間の形」や「有機体」のように、自己言及が多くなってしまう。究極的には、「人の人たるは、人を人とす」だ。

予め想定していなかった事態への発作的な応答を、「泣く」と表現するのであれば、Bサイドの攻撃も、マガタの一人笑いも、ウグイの涙と同じだろう。それが「人間のよう」であるかの判断の決め手は、応答内容に対して自ら理由付けするか否かだろうか。

Wシリーズはこれで完結。この物語自体が、厨房から出された料理だ。一流の料理人は、料理が冷めないかを一瞬気にして、ぼんやりと月夜の空を眺めているだろうか。

かき氷シロップ

かき氷シロップが全部同じ味という話は、味覚というセンサが視覚や嗅覚などの他のセンサと独立に機能するという発想に基づいているように思う。

そもそもシロップ自体が、イチゴやメロンといったものから、視覚の大部分や触覚を捨象し、風味だけを抽象しようとするものであるから、シロップを作ろうという立場も、それらは全て味覚的には同じだとする立場も、大同小異であると言える。

センサ間に成立するコンセンサスのことを現実と呼ぶならば、近代の要素還元主義は、一つの物理的身体に備わる多種類のセンサがつくり出す現実に加え、複数の物理的身体に備わる一種類のセンサがつくり出す現実を発展させることを可能にした。

この新しい現実はVRと呼ばれる。かき氷シロップもVRの一種だ。

2018-10-19

醍醐味

粗大ごみには醍醐味がある。

2018-10-17

諸悪の根源

超システムの機能不全である老化現象に唯一の本質的な原因がないことを指して、多田富雄は「むいてもむいても芯の出ないラッキョウの皮のような印象を与える」と書いていた。

あらゆる存在が可塑的な超システムであるとすれば、唯一の本質的な原因なるものは、認識することで可塑性を削がれてしまった超システムの抜け殻にしか含まれない。

「諸悪の根源」という発想は、抜け殻だけを相手にしている間しか有効でない。いつか、諸善の根源であった神が死んだのと同じ意味で、諸悪の根源が死んだと言われる日が来るだろうか。

免疫の意味論

多田富雄「免疫の意味論」を読んだ。

免疫系という判断機構による是と非の振り分けは、多義的で曖昧で冗長な仕組みに支えられている。ランダムな変異の中で次第に生じる判断の偏りは、洗練された一つのまとまりをなしていくと同時に、固定化を免れるようにして、常に変容し続ける。免疫系を境界として現れる物理的身体の「自己」は、そのような可塑性をもつ超システムとして振る舞う。

超システムは、柔軟であるが故に不安定でもあり、メンバーの多様性、エレメントの自己言及的な補充可能性、メンバー同士の相互調節できる関係性といったものが一つでも欠ければ途端に破滅に至る。是への非が止まらなくなる老化、是と非の判断がなされなくなるエイズ、是非への過剰な固執によるアレルギーといった超システムの機能不全は、意識、言語、都市、国家などの他の超システムでも、認知症やポピュリズムなどのかたちで顕在化しつつあるように思われる。

超システムという発想に立てば、確固たる「自己」というのは、認識論的には成立しても、存在論的には成立しない。むしろ、あらゆるものが可塑的な超システムとして存在する中で、可塑性を無視した第一近似によって情報を大幅に圧縮するのが認識という過程であり、その最たる例が、意識による理解なのかもしれない。

何かを理解するにはその近似も必要なのだろうが、固定化と発散の間で生成される超システムを殺してしまわぬように、理解の仕方もまた超システムたらんとしなければならない。

2018-10-15

ザ・スクエア

リューベン・オストルンド「ザ・スクエア」を観た。

ザ・スクエアは、失くした時に顕になるのか。あるいは、暴かれることで失われるのか。

いずれにせよ、大いなる唯一のザ・スクエアを失くした時代においては、それを取り戻そうとする行為と、それを取り壊そうとする行為の、いずれもが同様に通信不全をもたらす。

ザ・スクエアなしに通信可能性を手に入れるには、その時、その場所で、その人々が、それぞれのア・スクエアをつくる他ない。

クロノスだと思い込んでいたものが、カイロスであったことを思い出さなければならない。

2018-10-07

見知らぬものと出会う

木村大治「見知らぬものと出会う」を読んだ。

直接コミュニケーションを取って判断基準を共有することを「見知る」と表現すると、文明とは、見知らぬ人間同士が間接的に判断基準を共有することで密集した状態だと言える。
An At a NOA 2018-06-14 “文明
判断基準という規則性を共有していないもの同士が通信を始めるには、通信可能性の取っ掛かりを探るための投機的な跳躍が必要とされる。その跳躍が滑らかに接続されるソフトランディングの過程が、つまりは「出会い」である。

一方で、一度確立されたと思った通信可能性も、固定化してしまえば逆に通信を不要にしてしまい、通信が継続するには、通信不能にならない範囲での規則性の変化をもたらす応答可能性も必要になる。

通信可能性と応答可能性の狭間で規則性が変化することが、規則性の探索を内向きにも外向きにも困難にし、アルゴリズム的複雑性を計算不能にする。それはつまり、dataとinformationの違いだろう。むしろ、その状況において、当座の解を投機的に決めてしまい、不具合があれば随時更新していくのが本来の姿であり、その過程を形容するのが「正しい」という言葉であるはずだ。

規則性の探索やアルゴリズム的複雑性の計算が可能だとするのは、唯一普遍の「正しい」ものが存在し、そこに向かって収束していくことができるという近代的な発想である。その仮定が成立するのは、時間的にも空間的にも有限な集合についてだけであろう。技術の発達とともに、より広範囲の時間や空間と通信できる可能性が生まれつつある中で、もはやその仮定に起因する不整合は隠し切れなくなってきているように思う。

さまざまなプログラムとパターンの階層において、枠=固定化=通信可能性と投射=発散=応答可能性の間で、壊死も瓦解もしないように規則性が変化しながら通信を続けようとする。その「ゲーム」を「なんとかやっていっている」状態こそ、「生きている」ということだ。

家族、友人、外国人、人工知能、宇宙人。相手が何であろうと、その「ゲーム」を続けようとする志向性が、双方の生命を生み出すだろう。
「接触にそなえたまえ」

考える皮膚

港千尋「考える皮膚」を読んだ。

内と外を隔てる境界は、内や外の在り方を決める重要な役割を担っている。人間の身体という内にとっては、皮膚が最大の境界であり、境界侵犯へのアラートである触覚は、内と外の関係にとって最も重要な感覚だと言える。

むしろ、境界を定めることによって内と外の区別が生じることを考えれば、内ありきで境界を重視することすら既に転倒しており、本質は表面にあるということなのだろう。

網膜という小さな境界によって厳然と区切られた精神という内こそが自己であるという近代的な信念にすがったままでは、内と外、あるいは内同士の関係は次第に矮小化し、各々がアリジゴクへと収束していくだろう。

皮膚や情報通信網、あるいは別の新しい「皮膚」における触覚を通じて、内と外の関係の更新が続いてこそ、人間は生きていることになるはずだ。

2018-10-06

衣と住

衣と住の違いの一つとして、「人間がその中から外に出るときに、それを動かして出るものが衣、それを動かさずに出るものが住」というものが考えられる。

この違いを採用した場合、テントは住よりも衣に近いと言える。逆に、大掛かりで重たい着ぐるみは衣よりも住に近いことになる。

そう考えるとむしろ、「それの形状を維持するための構造として、人間の身体を要するものが衣、要しないものが住」の方がよいのかもしれない。

2018-10-01

流れとよどみ

大森荘蔵「流れとよどみ」を読んだ。

よどみが流れの中にあり、よどみと流れは異なっていながら、両者の境界を確定できない
An At a NOA 2018-01-24 “人新世の哲学
流れているところとよどんでいるところ。その区別をしないではいられないことを、「人間は無意味であることに耐えられない」と伊藤計劃は表現した。

その区別の仕方に唯一真なるものがあるという信念から生まれた二元論は、その信念自体が枷となり、ひたすらによどみの内へ内へと向かいながら、デカルトやラッセルの陥穽に収束せざるを得ない。

流れとよどみの区別を固定化することに執着することなく、様々な区別がそれぞれに変化しながら重ね描きされることで、一元論的な世界が百面相に立ち現れるとみなす。それこそが、生きているということだろう。

そのような意味で生きた世界であれば、いつかロボットと人間を同じよどみとみなす区別が現れる日も来るだろうか。
理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のようにみえるだろう。
(中略)
他の人間の意識を意識として受け入れられるのは、単に自分と同じカテゴリとして判断しているからに過ぎない。
(中略)
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、いつかは意識として受け入れられることになるだろう。それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことになると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “

2018-09-30

芸術と逸脱

芸術には逸脱が必要だが、歴史を踏まえない逸脱はただの狂気に過ぎない。

逸脱を歴史と関連付ける視点が、逸脱を芸術と呼ばしめるのだと思う。

ただし、逸脱を歴史と関連付けるのは、必ずしも逸脱をなした当人である必要はない。

むしろ、それを周囲が積極的になしてくれる存在が芸術家として名指され、そうでない存在が狂人として名指されるのかもしれない。

この差をどう捉えるか。

2018-09-26

機械カニバリズム

久保明教「機械カニバリズム」を読んだ。

自己と他者、主体と客体、文明と未開、社会と自然、現実と虚構、内部と外部、人間と機械。様々な此岸と彼岸の二項対立を頑なに維持したまま此岸から彼岸を望もうとするのが近代的な態度だとすれば、「食人の形而上学」や本書が提示するのは、彼岸から此岸を彼岸としてみる目を通して、彼此が部分的にでもコミュニケーションできる状態を探る中で、それぞれの形を変えていくような態度であり、可塑的な比較やカニバリズムと呼ばれる。

長いこと神の代理を務めてきた「超越的な此岸たる人間」はいなくなり、剛体や弾性体だった「人間」が塑性化することで、いつかウォーカロンが「人間」になるように、「人間」は滑らかに形を変えていく。そもそも、超越的な此岸というルール自体が、近代の慣習に過ぎなかったのだ。

思うに、ルールからの逸脱であるバグをバグでないとみなすという可塑化の契機となる過程は、まさに投機的短絡を理由によって滑らかに接続するという理由付けの過程そのものだ。理由付けの詳細が隠蔽されることで、あたかも此岸だけが理由付けする意識をもった超越的な人間であるかのようにみえるが、どの逸脱を理由でつなぎとめ、どの逸脱をバグとみなすかの判断基準が変化すれば、意識の捉え方も変わり、人工知能に意識があるとされることもあり得るだろう。

人工知能やロボットを含みながら大きく形を変えた人間はどこまで人間と言えるのかという発想自体がとてつもなく近代的だ。現在の人間にとってどれほど人間として受け入れられないものであっても、その時代の「人間」にとっては「人間」であることがあり得るはずだ。その時代の「人間」という語の意味するところは想像を絶するが、想像しようとするだけの好奇心をもつことが、己の可塑性を高めるように思う。

2018-09-25

はざまの哲学

野家啓一「はざまの哲学」を読んだ。

あまりに複雑な過程を捉えようと、ある基準の下に過程の情報量を圧縮したものが実在であるという意味で、ホワイトヘッドの言うように、実在とは過程なのだと思う。

一定の傾向をもつ情報の作用によって基準が偏ってくると、いつしかそれは文化、慣習、常識、癖、などの信念・技能体系となり、変化に対する慣性を有するようになる。

特定の信念・技能体系への固定化に陥らないためには、フッサールの言う還元が要るのだろうし、いかなる偏りも有しない圧縮という無意味な状況への発散を免れるには、メルロ=ポンティの言うように、完全な還元は不可能なのだろう。固定化と発散、壊死と瓦解の間において、過程の圧縮の仕方=パースペクティヴの変化が続く様を、生成と呼ぶのである。

一つのパースペクティヴから、別のパースペクティヴへ。その「理解」と呼ばれる還元のさなかに現れる「はざま」という危機の領域に身を挺することなしに、情報内存在は生きていられない。

2018-09-23

深層学習によるパラダイムシフト

アンリ・ポアンカレは、
事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である。
ポアンカレ「科学と仮説」p.171
と言ったが、ランダムに集積された石の中に家として機能するものが存在し得るように、事実の単なる集積がたまたま判断基準として利用できることはあり得る。

集積したビッグデータを用いて理由抜きに行われる深層学習は、まさにこの種の判断基準を構築していると言える。

その判断基準は科学とは呼べないであろうが、科学とは別の判断基準として受け入れられていく可能性は大いにあり、深層学習によるパラダイムシフトが今まさに起きようとしているのかもしれない。それはあたかも、長きに渡り優勢だった精神から身体への揺り戻しのようである。

ホワイトヘッドが危惧したように、科学が哲学的でなくなり、仮説の雑多な寄せ集めに堕すのであれば、パラダイムシフトも滑らかになされるであろう。

深層学習の成果を科学の文脈で扱うのか、あるいは新しいパラダイムにおいて扱うのか。それを決めるのは科学者や哲学者だけでなく、人間がどのように受け入れるかにかかっている。

その行く末は意識の在り方も変えていくはずだ。

2018-09-22

否数え歌

非ひ
不ふ
未み
余よ
逸いつ
無む

2018-09-21

異端の時代

森本あんり「異端の時代」を読んだ。

正統と異端というものもまた生命的であり、それらが対象として抽象されるためには、固定化=形成と発散=批判のバランスが取れた情報の流れが必要となる。

その流れは「信仰」と呼ぶべきものであり、流れの中に秩序が見出されては正統、異端、正典、教義、などと名付けられ、流れの変化とともにそれらの秩序は更新されてきた。

流れが完全によどんでしまえば、正統は自己隠蔽したまま絶対化されてしまい、流れが完全に枯れてしまえば、正統も異端もなくなる。

従来の宗教が陥ったのは、一つの固定化=形成への収束による信仰の壊死であったが、ポピュリズムがもたらすのは、発散=批判への傾倒による信仰の瓦解であり、両者は信仰の死という点では同じことである。

自由とは、秩序が更新される様のことを言うのであり、秩序が解消されたまま形成されないことを言うのではないことを思えば、ポピュリズムは中世の宗教並みには非-自由だと言えるだろう。

ポピュリズムを現代の宗教と言うこともできるかもしれないが、瓦解の傾向をもつポピュリズムは、もはや宗教の体をなしているとは言い難いように思われる。

2018-09-18

[世界を変えた書物]展

[世界を変えた書物]展に行ってきた。

展示された書物はあまりの貴重さに触れられず、見られるのも展示用に開かれた見開きだけ。著者名と年代、内容に関する短い説明だけが書かれたキャプションが付される。書物同士は系統樹思考によって大いなる連鎖へとつなぎ合わされ、全体が一つの物語として
提示される。

これは考古学の展示だ。
エジプトやマヤといった地理的な場所ではなく、「紙の書物」という一つの「場所」において、この560年あまりの間に堆積した情報に関する「遺跡」発掘調査の結果を基にした考古学、言わば考近代学の展示である。

その「遺跡」は、活版印刷術が複製可能性を高めたことによって現れ、現在に至るまで、発掘されると同時に堆積してきている。堆積が続いている間は、これが考古学であることはあまり認識されず、本当に考古学らしくなるとすれば、紙の書物が廃れた、もっと後の時代のことだろう。

こうした物理的な展示品や展示空間を用いた考古学的展示が可能なのは、複製可能性が高まったとは言え、紙やインクといった複製されない情報があることで、原著の初版本が「オリジナル」の資格を有するという認識が共有されるからである。完全な複製が可能であるという共通認識がもたれた情報に対してこの種の展示を行うことには、どうしてもある種の滑稽さがつきまとうように思われる。

そういえば笑い男も、出版物の保存という「索然とした仕事」を行っていた。オリジナルの不在がオリジナルなきコピーをつくり出すという文脈において、紙の書物に拘ることは、どういう意味をもつだろうか。

コピーに優るオリジナルなるものが存在するという発想自体が、そもそもとてつもなく近代的なものだったのかもしれない。



2018-09-09

ドローンの哲学

グレゴワール・シャマユー「ドローンの哲学」を読んだ。

物質的な遠近感に応じて把握される物理空間の中に、観念的な遠近感に応じて把握される別の空間をオーバーレイすることは「情報化」と呼べるが、ドローンがもたらす距離空間の変化もまた、一種の情報化であると言える。

ドローンの生み出す「距離」が新しいからこそ、それによって可能になった現象を、戦闘や道徳、法、権力といった既存の「距離」で表現することへの違和感が生まれ、一方的に別の距離空間を採用することへの非難がなされる。どのようなかたちであれ、その違和感を解消するには慣れるための時間が必要になる。

会話、教育、受精、介護、戦闘、…。あらゆるかたちのコミュニケーションにおいて、距離空間の変化は、当初は脱-人化unmanned、無人化として受け取られる。

根底には、人間は人間に何かをしてほしいという願望があり、この「人間に」という感覚を決めるのが「距離」の近さなのだろう。

その「距離」感は、当然「人間は」の部分にも跳ね返ってくる。それがつまり「私は何者になろうとしているのか」という行く末の問題であり、ドローンだけでなく、あらゆる「情報化」において現れる問題なのだ。

2018-09-08

人はなぜ「音楽」をするのか?

人はなぜ「音楽」をするのか?

発音における、言語と喃語。
発声における、音楽と言葉。
聴覚における、音楽と物音。
文章における、韻文と散文。
身振りにおける、舞踊と動作。
前者と後者を区別することには、リズムと拍子を分けたクラーゲスの精神に通ずるものがあるように思われる。

発音、発声、聴覚、文章、身振り的な情報の流れの中に、何らかの構造が抽象できたとき、その情報が前者として対象化されるのであれば、クラーゲスの意味でのリズム的なものは、抽象化一般に拡張することができる。

音のない世界にも「音楽」をみることを突き詰めると、上記の組み合わせにおける前者、すなわち抽象されたものすべてを「音楽」と総称することができ、Musicは語源となった
ムーサΜοῦσαの広がりを取り戻す。「人はなぜ「音楽」をするのか?」という問いは、「人はなぜ抽象するのか?」という問いにつながり、「なぜ」自体もまた理由を介した抽象の一つであることを思えば、最も抽象的には「抽象化とは何なのか?」に行き着くように思われる。

人間同士がコミュニケーションを取ることで抽象の仕方を共有している様を「文化」と呼べるのであれば、文化人類学とはまさに「抽象化とは何なのか?」を考えることである。抽象の仕方は、時代、場所、人によって異なり、「今、ここ、私」にとって「音楽」でないものが「音楽」であることにも、その逆にも、際限なく出会い得るだろう。

そのそれぞれの「音楽」を楽しめるようでありたい。

2018-08-30

フェティッシュとは何か

ウィリアム・ピーツ「フェティッシュとは何か」を読んだ。

物理的身体というセンサを介して「自然に」構築される判断基準によって認識されるものを「物質」と呼ぶとすると、それとは別の「不自然な」判断基準によって認識されるものは、「観念」と呼ぶことができる。

「認識」というのは、情報量を削る過程であり、削り方には部分対象的な方法と商対象的な方法があるように思う。物理的身体が抽象する情報について言えば、物質が部分対象であり、観念が商対象だ。

一意的に定まっていく「自然」な判断基準に対して、余計である「不自然な」判断基準には無数の候補が存在し、現れては消え、現れては消えを繰り返す。その中のあるものが偶々維持されるようになると、物理的身体にとっては「不自然な」判断基準に支えられた抽象過程、言うなれば心理的身体、つまりは意識が生じ、世界は物質的かつ観念的に認識されるようになる。

この物質と観念の恣意的な対応が価値体系であり、シニフィアンとシニフィエの恣意性にも通ずる。各々の意識にとっては、自らの依拠する価値体系はあまりに「自然な」ものであり、真理に映るが、価値体系はいずれも本質的に恣意性を帯びており、同じような物理的身体でありながら、全く異なる価値体系に依拠するものは数多に存在し得る。

同じような物理的身体で同じ物質をみているはずなのに、全く異なる観念をみている存在に出会うと、ある種の不気味さを覚える。このとき、自らのものとは異なるという意味で「正しくない」価値体系に与えられた名前が、フェティッシュという概念であるように思う。

フェティッシュと名指すとき、己もまた当の相手からフェティッシュと名指され得ることに自覚的であることは、なんと困難であることか。

君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。
フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」p.138
このとき、君にとっての深淵は深淵であることを自覚しておらず、むしろ君のことをこそ深淵とみなしているのだ。

2018-08-22

rhythmとrhyme

媒体が何であれ、情報はパターンによって伝達される。

パターンpatternはpatron (= model to be imitated)、すなわち、模倣による「同じもの」の再現に関係し、情報には常に「同じもの」に対する観点が含まれる。

rhythmとrhymeはともに何かしらのパターンであり、それぞれの「同じもの」に対する観点をもつはずであるが、両者はどのように同じで、どのように違うだろうか。音楽と言葉が峻別できないとき、両者はどのように区別できるのだろうか。

2018-08-21

先史学者プラトン

メアリー・セットガスト「先史学者プラトン」を読んだ。

考古学、人類学、言語学、神話学、宗教学、気候学、地球科学、…。高度に専門分化した枝葉の先を伸ばす研究が存在する一方で、それぞれの枝の伸び方を俯瞰して大きな流れを見出そうとする本書のような研究も存在する。それはちょうど、伝言ゲームの答えを探るのに、一つの列でより前の人の情報を聞き出すのか、複数の列の人から情報をかき集めるのか、という二種類のアプローチがあるのと同じである。

一つひとつの伝言ゲームの経路からは誤り訂正の不完全な情報しか復元できなくても、様々な媒体を介した複数の経路の情報を突き合わせることで、紀元前六千年紀中頃に、ザラスシュトラの誕生を契機としたアポロン化が生じたという、それらしいストーリィが組み立てられる。アポロン化とは、混沌としたディオニュソス的なものを、一つの判断基準に基づいて整理整頓する過程であり、メアリー・セットガストによる推論自体もまた、一つのアポロン化である。

結局、歴史というストーリィを組み立てるには、各分野の伝言ゲームは唯一の同じ答えを共有しているという信念の下に、オッカムの剃刀を振り回すしかないのかもしれない。この系統樹思考に基づいて組み立てられた歴史にできることがあるとすれば、「史実」というものがあったとして、その一面を表すことくらいに留まるように思うが、それでもこういう理由付けをし続けられるところに、人間の面白さを感じる。

そういえば、口承だけに比べると、文字化によって伝言ゲームの経路数は大きく増加したように思うが、電子化はどのような影響をもたらすだろうか。プロトコルの伝承が途絶えた場合、そもそもそこに情報がエンコードされていることに、後世の人間は気付けるのだろうか。

2018-08-18

これがあれを滅ぼすだろう

「ああ!これがあれを滅ぼすだろう」
ヴィクトル・ユゴー「ノートル=ダム・ド・パリ」p.175

建築術の生み出す荘厳な石の書物に支えられた教会から、印刷術の生み出すマスな紙の書物に支えられた国家へ。

この中世から近世への変化が起きてからおよそ500年経ち、通信術の生み出す網状の光の書物に支えられた〈帝国〉によって、国家が滅ぼされる番が来た。

近代化によって教会や建築が消滅したわけではないように、情報化によって国家や書籍がなくなるわけではない。しかし、判断基準の軸は確実に移行しつつある。

大聖堂の象徴的な空間。
摩天楼の均質的な空間。
次の空間は、必ずしも物理的な情報だけで成立するような空間であるとは限らない。
人間の思想はその形態が変わるにつれて表現様式も変わっていくのだ
同p.177

2018-08-17

伝言ゲーム

通信手段を制限したり、通信内容の冗長性を廃したりすると、誤り検出訂正は難しくなる。伝言ゲームで列の途中にいる人間にとっては、伝わってきた情報が全てであるということだ。

最近では3DCGや合成音声で実物と遜色のないものも見かけるようになりつつあるが、その遜色のなさの多くは、誤り検出を通常よりも困難にすることで達成されているように思う。

究極的には、人間による通常どおりの誤り検出によっても実物と見分けのつかない情報も生成できるようになるだろう。むしろ、人間というセンサ同士が通信する過程において、誤り検出訂正の繰り返しによって彫琢された情報のことを、「実物」や「現実」と呼んでいるだけだ。

誤り検出されないことに気付かない情報の違いは、その「現実」にとってはどうでもよいものであるが、誤り検出の特性が異なる別の「現実」との境界において、その違いが際立つことがある。

国家間、宗教間、異文化間、リアルとネット、RealityとXR (VR, MR, AR)、人間と自然。境界は遍在しており、衝突するまではどのようなものかもわからないが、そのようなものがあり得ると考えておくだけでも、少しは衝撃が和らぐだろう。

2018-08-14

正R角形












An At a NOA 2010-12-22 “正*数角形

正π角形が美しい。

2018-08-10

神の亡霊

小坂井敏晶「神の亡霊」を読んだ。

説明、理解、納得、解釈、といった、「意識特有の」という意味で意識的な抽象過程は、いずれも「理由」というものがあるという信念に支えられている。

その信念に支えられ、ネットワーク状につながる相関の網の中に、因果と呼ばれるツリー状やチェイン状の順序構造を埋め込もうとする確信犯的過程において、ツリーやチェインの先端が必要とされる。

先端は、定義によりそれに先立つものをもたないため、根拠なしに信仰される他なく、先端が先端として機能するにはその信仰過程を隠蔽する必要がある。こうして虚構が生まれる。

大いなる先端であった神が死んだ後にも、近代が自由意志という細分化された先端を創り出したように、順序構造の先端を担う神の亡霊としての主体は、人間が意識をもつ限り必要とされるのだろう。因果律の信念とともにある意識は、理由のない状況に耐えられない。虚構が暴かれたとしても、次の虚構を創出するだけだ。次に先端を担うのは、人工知能だろうか。

あるいは、人工知能の発達は、順序構造の埋め込みを回避する方向に向かうのかもしれない。それはつまり、意識を放棄するということに他ならない。ルネサンス以来、少なくとも500年に渡って精緻化されてきた意識という判断機構が別の判断機構に取って代わられるとき、近代という物語はようやく終焉を迎える。

そもそもネットワーク状の相関の網もまた、人体というセンサのフィルタリング特性がみせる構造に過ぎず、異なる物理的身体には異なる環世界が広がるだろう。情報の流れの中に構造を見出す抽象過程の判断基準次第で、世界はいかようにも捉えられるはずだ。

コミュニケーションが円滑になされるとき、共有された判断基準は忘却されており、そのまま固定化すれば壊死してしまう。一方で、判断基準の変化が激し過ぎれば、コミュニケーション不全によって瓦解する。その両極のあいだに留まろうとする機構を備えたものが、すなわち生命だろう。

2018-08-07

仮想サイボーグ化

地震、津波、大雨、猛暑、…。災害がある度に、外部化されていた生命維持装置が顕になる。

現代文明の恩恵に与る人間のほとんどは、内部ハードウェアの大々的な入れ替えを経ることなく、仮想的にサイボーグ化されているような状態だと言える。

徐々に進行してきた仮想サイボーグ化は、既に世界中に蔓延しており、これから先もさしたる抵抗なく拡大していくだろう。

次は人工知能による仮想電脳化だろうか。その先には、思考停止という電脳硬化症が待っていてもおかしくないように思われる。

濾過

雑多な情報が濾過されることで、特定の情報だけが抽出される。その抽象過程を経たものを形容する言葉が、「きれい」である。

コーヒー、報道、夜景、思い出。濾過のされ方はそれぞれに異なるものの、どれも「きれい」だ。

「きれい」なだけでいたいとき、フィルタや残渣は覆い隠される。

想い出はいつもキレイだけど
それだけじゃおなかがすくわ
YUKI「そばかす」

2018-08-06

ロボット工学と仏教

森政弘、上出寛子「ロボット工学と仏教」を読んだ。

一貫性をもった整合的な判断の積み重ねからは、善悪についての一つの判断基準が生じ、それに拘泥すれば、二元論のアリジゴクに陥る。

そこを抜け出すには、「何を同じとみなすか」の判断基準について自覚的になることで、別の同一視の基準に飛躍することが必要になる。元の理解では異なっていたものを同一視することは矛盾をもたらすが、その不連続点を理由で滑らかにつなぎとめながら、自在に飛躍を繰り返すのが「二元性一原論」的な「理会」の過程なのだと思う。

矛盾をきたす飛躍の瞬間である「無記」は、分化から未分化への変化であり、それが自在にできることこそ、天才の空っぽさである。emptyの語源が“at leisure, not occupied”であることを踏まえて、無記をEmptiness (as undifferentiated state)と訳すのはどうだろうか。

完璧な安全」が危険性をはらむように、「完璧な安心」は不安と紙一重である。固定化によって陥るこの危機を回避し、壊死と瓦解の間で飛躍を繰り返すことの中でしか、安全や安心は維持されない。そのような、更新される秩序としての生命的な在り方こそが「三性の理」だろう。

オルダス・ハクスリー「」にも出ていた拈華微笑の物語のように、以上のようなことは各々が自ら納得するしかないように思うが、その一つの試みとしての文通の記録を読むのは、意外に面白いものであった。

2018-07-31

ちのかたち

「藤村龍至展 ちのかたち」を観てきた。

Deep Learning Chairが面白かった。

9か国語でのGoogle画像検索によって得られた「椅子」の画像を用いた深層学習によって形態化された「それ」は、ある意味で「椅子というもの」、「椅子のシニフィエ」を表しているとも言える。猫を認識したGoogleの画像認識技術の話を思い出す。

言語や理由を介した設計は、手続き型プログラミングのように、人間が理解できる線形化のプロセスとなっているが、深層学習による抽象は言語や理由を介さないため、全く新しい「ちのかたち」になっているように思う。それが新しい「理由」になるかどうかは、受け入れる側の問題である。このあたり、3Dプリントされた橋の安全性(というより安心性)にもつながり、興味深い。

塚本さんが言っていたように、建築を物理的に作る限り、超線形設計プロセスのある切断面を実現するしかないため、時間軸方向のコンセンサスの形成が課題となる。これは、実現した切断面が「正義」として埋め込まれてしまうことに対する懸念である。Deep Learning Chairでも、検索で得られたデータセットが、暗黙の正義として埋め込まれたハードウェアとなるため、Tayのような事態にならないための理由付けによる制御は必要なのではないかと思う。
An At a NOA 2016-06-21 “意味付けと理由付け
An At a NOA 2017-07-14 “埋め込まれた正義
An At a NOA 2017-09-15 “専門分化

果たしてこれは椅子なのだろうか。それはつまり、人間はこれを椅子と呼ぶのだろうか、ということと同じである。もしかすると、Deep Learning Chairには、言語や理由に代わる「ち」が垣間見えているのかもしれない。


批判的工学主義の建築

藤村龍至「批判的工学主義の建築」を読んだ。

情報化によってもたらされた情報空間が物理空間と最も異なる点は、距離空間の設定の変更可能性だと考えられる。物理空間においては、距離関数は一意に定められるという前提が強制的に共有されることで、遭遇可能性や空間的熱狂が生じる。それに対し、情報空間においては、距離関数の設定が容易に変更できるため、「近い」ことの判断基準を状況に応じて変化させることで、図式的明瞭性や検索可能性を上げることができる一方で、その判断基準に強制力はないため、必ずしも共有されるとは限らない。情報空間と物理空間の統合とは、一意的なままにする必要がなくなった距離空間を、瓦解が生じないように変更していく過程だと言える。つまりは、「現実」の構成方法の変化ということだ。

距離空間の変化が分野や場面ごとに独立に生じるようになると、暗黙の裡に距離空間に巻き込まれることで、技術依存によってコントロールされた状態に陥る。これは人工が自然化した状態だとみることができ、工学主義的建築とは、距離空間というデータベースに高度に依存することで自然化しつつある建築のことだと考えられる。自然化が行き過ぎれば建築は壊死し、その究極には「BLAME!」の建設者がいるだろう。

このような状況において、距離空間の変化を受け入れつつ、制御しながら再構成していくのが批判的工学主義の建築であり、その方法として「超線形設計プロセス」が提案される。線形の積み重ねによって非線形になっていく超線形のプロセスは、近代以降の科学が、非線形を線形化する過程を「理解」と名付けたのとちょうど向きが逆転しており、「納得」の仕方を形式化したものだとみなせる。いずれも理由の連鎖によって判断を滑らかに接続する過程であり、理由を必要とする存在=意識のための手法だと思われる。意識=心理的身体であると同時に物理的身体でもある人間にとって、物理空間はハードウェアであり、そこでのコミュニケーションは強烈かつ高速であるから、距離空間の再構成に関するコンセンサスをとるためのコミュニケーションに模型という物理的存在を介しているのは巧みだと思う。

様々な集合知による雑多な変化に曝された距離空間を、物理空間にも頼りつつ、制御して再構成することで、壊死にも瓦解にも至らない「モア・イズ・モア」の多様性を維持することはできるだろうか。

2018-07-27

空間〈機能から様相へ〉

原広司「空間〈機能から様相へ〉」を読んだ。

近代の空間概念が掲げた「機能」とは、特定の様相の固定のことであったように思う。それを突き詰めることで得られるのは、予断された真・善・美に縛られた密着空間である。一方で、その否定が、任意の様相を可能にする方向で突き詰められると、結局は様相がない状態への収束を招き、均質空間という離散空間が生み出された。密着空間=終対象と離散空間=始対象の両極端だけが、近代の一真教的な空間概念が提示し得た空間であった。

「機能から様相へ」という題は、特定の様相への固定を免れることで、両極端に回収されないような空間概念を宣言したものとして捉えることができる。

建築に限らず、何かを作る際には、具体的なものとして作らざるを得ないが、具体的なものを立ち上げるには、特定の境界を設ける他なく、それは判断基準を設定することにつながり、少なからず「Aである」という宣言を含んでしまう。それが「Aである」に留まって近代的な機能にならないために、「A・非A・非A非非A」、ΓΓA、〈非ず非ず〉によって、境界=判断基準を固定化することなく、様相の重なり合いに展開していく道に進む。それは三次元空間+時間という絶対的時空概念から、四次元時空という相対的時空概念への変化とも符合している。

一つの判断基準があるのでもなく、ないのでもなく。重なり合うことで、ダブルスタンダードではなくデュアルスタンダードとして現れる。重なり合った様相によって様々に彩られる、〈秋の夕暮れ〉の建築を、作っていけるだろうか。

2018-07-26

滑らかな跳躍

跳躍は滑らかに接続されることで有意義になるのであり、ただの跳躍は孤立を招くのみである。

不意の跳躍不連続点の、滑らかな関数による接続が、理由付けという抽象過程をなす。前者を欠けば固定化し、後者を欠けば発散する。

嵐の海にカッツォが投げ出されたときのゴンの跳躍は、クラピカとレオリオがいたからこそ役に立ったのだ。きらめく才能は放っておいても接続してもらえるが、多くの場合においては、自ら接続しなければならず、何よりも跳躍すること自体が難しい。

理に適う

rationalとreasonableは、どちらも理由付けされている状態を意味しているが、両者では理由に対するスタンスが異なるように思う。

理由には唯一の真なるものがあり、理由の付け方は一意に定まると思っているふしがあるのがrationalで、日本語の「合理的」もこちらに近い。

一方、理由付けに破綻がないことだけに触れ、理由の付け方の違いには比較的寛容なのがreasonableで、日本語だと「筋が通る」だ。

Rational vs Reasonableという記事では、両者の違いについて、rationalが自分に対するものであるのに対し、reasonableは社会的なものであるとか、Overton windowで言うと、rationalは狭く、reasonableは広いといった説明がされているが、これも理由に対するスタンスの違いの現れだと思われる。

つまりは「理に適う」に対する許容誤差をどうするかの違いということだ。「理に適う」の境界は病的なpathological事象によって常に脅かされており、それを受け容れるか否かという固定化と発散の問題である。

2018-07-25

政治的位相空間

位相空間から台集合への忘却関手をFとすると、集合を密着空間とみなす関手GはFの右随伴で、集合を離散空間とみなす関手HはFの左随伴である。

空集合と全体集合だけが開集合である密着空間は、皆が同じ意見をもつとする全体主義のようであり、任意の部分集合が開集合である離散空間は、どんな異論も許される自由主義のようである。

いずれの両極端も望ましいとは思われないが、右随伴が全体主義で左随伴が自由主義というのは示唆的である。

2018-07-26追記
nLabにも、cofree functorを“fascist functor”と呼ぶというジョークが紹介されていた。

夜は短し歩けよ乙女

映画「夜は短し歩けよ乙女」を観た。

お酒と本と祭と風邪と。
長くて短い夜をこめて、
人から人へとご縁は巡り、
夜明けとともにひとつなぎ。

2018-07-24

王国のアリス

マリアの心臓で「王国のアリス」を観てきた。

ギャラリーのヴンダーカンマー感が好きだ。一人の人間の趣味によって蒐集されたものでありつつも、蒐集品それぞれが独自の雰囲気をもつことで、純粋でありながら複雑であるという独特の空気感に溢れている。展示品の方が観者よりも数が多いというのも、ヴンダーカンマーらしさにつながるのかもしれない。

博物館での展示は、あまりにも純粋になり過ぎ、展示品に対する観者の数があまりにも増え過ぎた。これもまた一種のマスコミュニケーション化だが、近代にはこの形式の方がマッチするのだろう。

人形を眺めながら、「人形」には「人」が入っているのに、「doll」には人間に相当する語がないということを考えていた。調べてみると、dollの語源はDorothy=gift of Godということらしい。

天野可淡という神様の贈り物には、独特の魅力があるように思う。二つの顔をもつ人形が鏡に映りながら回転するオルゴールが特によかった。

2018-07-23

Cryptoeconomics

日常生活の基底となる時間や空間の絶対性は、「光速度が無限大である」という暗黙の前提に長らく支えられていた。そのことが暴かれ、代わりに「光速度が有限の一定値である」という前提を採用した場合に、時間と空間がどのように見えるかという観点が「相対性理論」として提唱されたのは、つい100年ほど前のことだ。時間も空間も、ある前提の下でなされる便宜的な解釈であり、時空概念の妥当性の問題は、それが依拠する前提の妥当性の問題に読み替えられる。

貨幣経済の基底となる貨幣もまた、国家のように半ば絶対的な前提に長らく依拠してきた。暗号経済Cryptoeconomicsが目指しているのは、ブロックチェーンという充足理由律に基づく別の前提を持ち込むことで、相対性理論が時間と空間に対してやったのと同じことを、貨幣に対してやり遂げることだと思う。提唱される新たな貨幣観が広く共有されるかは、前提の妥当性にかかっており、暗号のもたらす「固さ」がそれを担保し得るのだろう。

AIとCryptoeconomicsを対置させる話も見かけるが、両者の違いの中で最も面白いのは、「理由」というものにどれだけ期待しているかという点だと思う。

2018-07-20

言説の領界

ミシェル・フーコー「言説の領界」を読んだ。

冒頭で表明される不安は、飛躍がもたらす瓦解に対するそれである。

不安を解消するには拠り所が必要であるが、拠り所があまりにも確固としたものであれば飛躍することが叶わず、その先には壊死という別の死が待っている。この拠り所へのアンビヴァレンスを述べたのが「逆転」の原則であり、意味を生み出す拠り所となるポジティヴな面と、特定の「真なるもの」にむけての排除、制限、占有を生むネガティヴな面を併せもつ「権力」の問題へとつながる。権力は、抽象過程における判断基準や除算モデルにおける商と同じように、同一性の基準を与えるものである。

長い間充足理由律に縛られ続けてきたことで、「人間学的思考」という一真教へと壊死しつつある秩序から解放し、拠り所をもちながらも、時折飛躍できるような、壊死と瓦解の狭間で更新される秩序へ。そのような「生きた」言説を、「生きた」ままに捉えようとするのが系譜学なのではないかと思う。

系譜学もまた一つの飛躍であり、この講義自体が系譜学の対象となるような言説だったからこそ、フーコーは不安を吐露したのだろう。

2018-07-16

ETERNA

一枚ごとに完結しない、流れを持った写真。連作にすることなくそれを表現するのは難しいが、よいテーマかもしれない。

2018-07-13

Coastal Colonies

マッシモ・ヴィターリ写真展「Coastal Colonies」を観てきた。

大判カメラが捉えた海岸は、休暇を満喫しているであろう人々で溢れている。一枚一枚の写真はどれも大きく、解像度も高いので、それぞれのストーリィを想像してしまいたくなる。そういう意味では、ピーテル・ブリューゲルの絵に似たものを感じる。

自然と人工がせめぎ合っているかのように、海と空の青の間に人間や建物がおさまった構図が、とても海岸らしくて好きだ。


2018-07-08

亡霊のジレンマ

カンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」を読んだ。

絶対者という究極の理由が固定され、そこから唯一の理由の連鎖が連なるという、最も厳しいかたちでの充足理由律に縛られた形而上学的哲学においては、その理由の連鎖に予め含まれた潜勢的なものにしか考えが及ばない。それに対し、絶対者に到達する能力があるという意味で思弁的ではありながら、充足理由律を緩め、理由の連鎖、あるいは絶対者までをも、別のものへと逸脱、飛躍させることで、潜在的なものへの視野を拓くことが可能であること、すなわち、思弁的でありながら形而上学に陥らずにいられることを、メイヤスーは示そうとしているように思う。

宗教的でも無神論的でもないことによる「亡霊のジレンマ」の解消、SFでなくFHSたらしめるもの、韻律詩と自由詩のはざまでの「賽の一振り」、メイヤスーによる突飛とも捉えられかねない「賽の一振り」の解釈。そこには逸脱、飛躍、脱線、遮断による、理由なき新たな絶対者の戴冠がある。

あまりに形而上学的であることが幽閉や壊死をもたらす一方で、逸脱が激しすぎれば、消散や瓦解というもうひとつの死が訪れる。壊死と瓦解の間で揺らいでいるのが生きているということであり、瓦解するほど激しい変化でなければ、経験的な世界は安定的なものとして感じられるのだろう。

Ⅵ章ではベルクソンを受けて減算モデルを提案しているが、個人的には除算の方がイメージが近い。減算は部分対象であるから、物質から表象への単射を考えることで、表象は物質を節制したものになるが、除算は商対象であるから、物質から表象へのエピ射を考えることで、表象は物質を綜合すると同時に節制したものになる。それはつまり、エピ射が何らかの判断基準に基づく同一視であることで、複数の物質の要素が綜合されつつ、一つの表層の要素に対応することで、節制されるということだ。整数環Zから3を法とした同値関係によって剰余類環Z/3Zを作るように、無限の物質から有限の表象が現れることも考えられる。ベルクソンの「縮約の記憶力」とはこのエピ射のことであり、記憶の更新は判断基準の変化のことだと考えることができる。また、意味というものが、結局は何をもって同じとみなすかという判断基準に支えられているのだとすれば、「想起」というのは「縮約」の裏返しでしかないように思う。メイヤスーも節制と綜合を区別しているが、除算モデルでは、それらは同じことの両面でしかない。

メイヤスーの話には共感できる部分も多いが、個人的には、逸脱というのは本来的には投機的になされる賭けであり、ある種のバグに過ぎないと考える方がしっくりくる。その投機的短絡speculative short circuitを思弁的speculativeと読み替えるという別の飛躍によって、意識、理性、精神と呼ばれるものは自らを称揚する傾向にあるが、行き過ぎるのもどうかと思う。メイヤスーの思考も自分の思考も含め、あらゆる逸脱を、ただ面白いものとして戯れているのがちょうどよい。

2018-07-04

エコラリアス

ダニエル・ヘラー=ローゼン「エコラリアス」
を読んだ。

記憶することによって秩序が形成され、忘却することによって秩序が解体される。そのような記憶と忘却の連鎖の中で更新される秩序が言語を支えているのは確かであるが、意識されない記憶や忘却というものもまた、言語を支えるものとして存在する。いや、意識されないものであるからには、それを記憶と忘却に区別することはできないし、「存在する」と言うこともできないだろう。そもそも、意識されるものと意識されないものという区別すら、意識による理由付けによって生み出されるものだ。

そういう全体をひっくるめた、{意識|無意識}による{記憶|忘却}の過程のことを、著者は谺Echoと呼んでいるのだと思う。

残響する谺は、記憶することであると同時に忘却することでもある流れをなしている。そのことを「記憶の大部分は忘却によって作り上げられている」とボルヘスは語っていた。その流れの所々を記憶と忘却のどちらか一方に決めることで、言語といううたかたを見出してしまいたくなるのは、判断機構である意識の性なのだろう。

千の詩句を暗唱した後に忘却するという試練を乗り越えたアブ−・ヌワースのように、「層」、「言語の死」、「原初の言語」といったものを谺の中から抽象できる一方で、そこに拘泥せずにいられてこそ、凡才は天才になれる。

天才の空っぽさをもってしてもなお、谺の中に、ベンヤミンが「忘れえぬもの」と呼んだ秩序が響いているのであれば、それは人間の物理的身体のセンサ特性を反映したものになっているのだと思われる。

風立ちぬ

宮崎駿「風立ちぬ」を観た。

美しいものを求める過程は、それ自体もまた美しい。むしろ、何もかもが一つの純粋さへと向かう過程が、総体として美しいのだろう。

複雑さが純粋さへと抽象される過程において、多くのものが捨象される様を、人は残酷さと呼ぶ。このあまりに複雑な世界においては、美しさは残酷さを帯びざるを得ない。

だが、その複雑さを抱えることこそ、生きるということなのかもしれない。

2018-06-28

写真の虚実

判断の一致によって「真」が定まる過程において、真には実部real partの他に虚部imaginary partが含まれる。

「実部と虚部」という分類は、「物理的身体と心理的身体」や、「知覚と感覚」という分類から生まれ、実realityというのは物理的身体の判断によって定まる真truthの一種だと言える。

実部を取り出すことを「写実photo-realistic」、虚部を取り出すことを「写虚photo-imaginary」と呼べば、真が実部と虚部からなることで、写真にも写実性と写虚性とが綯い交ぜになる。

写真に写実性だけをみて真と実を同一視するのは、近代以降の科学がやろうとしたことと同じ方向を向いている。その機械論的傾向は、写真機を目になぞらえることが多い一方で、現像過程を思考になぞらえることが少ないことにも表れているように思う。

写真が必ずしも写実的でないことが問題になるのは、デベロッパやフィクサの仕事があからさまになり過ぎて、思考を誘導されると感じるからだろう。報道や広告と同様、良し悪しである。

2018-06-27

海辺

海は可能なものをわたしの目に示し続けている
ポール・ヴァレリー「海への眼差し」
「ヴァレリー・セレクション〈下〉」p.11
とヴァレリーは述べた。

海は未だ理由付けられていない自然の宝庫であり、言葉の本来の意味での「未来」のイメージだ。

その手前に溢れる理由付けられた人工との、鮮やかなコントラスト。

海辺は、そんな人工と自然の境界線であり、そこには理由付けされる瞬間としての「いま」の風景が広がっている。

海辺に注がれるテラスからの眼差しは、様々な「いま」の入り混じるものとして、「マネ」「地中海」「パリ」「東洋」を楽しんだのだろう。

その眼差しこそが、ヴァレリーのもつ「きわめて勝手なただひとつの好奇心」の発露なのだと思われる。
それは精神のなかで思い描かれ、対象となり、決定されるさまざまなことがらよりも、精神そのものへ関心をもつということです。
ポール・ヴァレリー「デカルト」
「ヴァレリー・セレクション〈下〉」p.202

2018-06-26

デカルトとパスカル

ポール・ヴァレリー「デカルト」「『パンセ』の一句をめぐる変奏」を読んだ。

一個の「わたし」によるクーデタcoup d'État。自然という多様な現象に溢れた国Étatに対し、「わたし」が果敢に加える一撃coupこそ、精神、意識、思考、投機的短絡であり、デカルトが「方法」と呼んだものだ。

肉体がなくなったとしても、一撃一撃の積み重なりに対して、他人から多様な一撃が加えられることによって、その人は生き続ける。本当に死ぬのは、加えられる一撃が固定化してしまったときだ。

「説得」という行為は、それをする精神の能力が大きければ大きいほど、まわりの精神を殺してしまうものであり、生きたエゴティズムに関心を寄せるヴァレリーにとっては、パスカルほどの能力を有する精神が「パンセ」で垣間見せるデマゴーグ的側面が、受け入れ難いものだったのだと思われる。

生きたエゴティズムの戯れ。デカルト観、パスカル観、ヴァレリー観もまた、各々が一個の「わたし」として思考し続ければよいだけのことだ。

そのような一個の「わたし」でありたいし、そのような一個の「わたし」にあいたい。

2018-06-25

実証的モデル

似たような経験が繰り返されると、そこにパターンをみてしまうのが人間であり、そのパターンを抽象するために、厳密に繰り返される経験が、つまり実験である。

実験によって実証的なモデルを構築するという点では、近代以降の科学と神話は同じである。媒介変数としての時間や、円環的な時間は、実験と相性がよいのだろう。

一方で、歴史という概念が、厳密には同じ状況が来ることはないという発想を含み、直線的で不可逆な時間を想定するのだとすれば、実験という考え方とは相性が悪いのだと思われる。

実証的モデルは、それを抽象する際に用いられたセンサの特性を反映する。神話が場所によらず共通しているのは、人体のセンサが概ね同じであることの現れであり、科学が世界中で通用し得るのは、同じ測定機器を利用し得る限りにおいてである。

他の動物やロボットのように、人体とは異なるセンサをもつ存在にとっては、神話や科学も違ったものになるはずだ。

2018-06-23

天空の矢はどこへ?

森博嗣「天空の矢はどこへ?」を読んだ。

かつて、「神」という絶対的な理由がいた時代と場所があった。そこから数百年をかけて、人間が自分達で作った理由で埋め尽くす方向へ、少しずつシフトしてきた。それは自然を人工に置き換える行為であり、つまりは「理解する」ということだ。

一つひとつの理解は単純でも、それを続ければ膨大な数の理解が積み重なることで複雑になる。複雑化した人工はやがて新たな自然となり、それを理解する過程において、元の人工性は忘却される。そうしてウォーカロンは人間になるのだろう。農作物が自然食品と呼ばれるのと同じだ。

ここから先、人間は理由の担い手であることを放棄する方向に進むだろうか。次に理由を担うのは人工知能だろうか。そもそも個は理由を必要としなくなるだろうか。いずれにせよ肉体に紐付けられた個々の意識は薄れることになるが、共通思考の志向する方向とは一致するように思う。

イシカワの社員、カンナ、マガタ・シキ。
あるいは、人間、人工知能、神。
それぞれの天空の矢はどこへ行くのだろう。

2018-06-22

揮発性

更新される秩序を生命と呼ぶならば、更新による変化がなくなった秩序は、既に死んでいると言える。ヴァレリーはこのことを固体と液体の比喩で表現した。

固体と液体のあいだで相転移しながら流動する生命の大部分が、死とともに揮発してしまった後でも、貝殻、化石、書物、建造物などの残滓が、その生命の面影を宿す。

揮発性メモリとしての作者と、不揮発性メモリとしての作品。

作品もいつかは揮発してしまうが、少しでも不揮発性を高めようとする傾向が葬制につながったのだとすれば、作品を残すこともまた、人間的な行為なのだと思われる。

源は水の元。

雨として降り落ち、
地に染み入った水は、
やがて染み出し筋をなし、
川と呼ばれるほどに育った後に、
海としてたゆたう。
そしてまた空へと昇る。
その循環に始まりはあるだろうか。

水の元は定かでなく、
定められることによって
定かになる。

あらゆる源もまた同じであるが、源を辿り、それを共有する過程には、直線状に不可逆に進む時間の概念が現れており、最も人間的な行為の一つであるように思う。

語源etymologyという語が、ギリシャ語のἐτεός (true)に由来するのは、定められた源が真実となることを示すようで面白い。

ちなみに、日本語では時間的にも空間的にも「源」だが、英語では時間には「origin」、空間には「source」という使い分けがあるように思う。

2018-06-21

人と貝殻

ポール・ヴァレリー「人と貝殻」を読んだ。

このエッセイには透明感がある。
天才の空っぽさに通ずる透明感だ。

貝殻を前にして繰り返される素朴な問い。
いったい、だれがこれを作ったのだ
ポール・ヴァレリー「人と貝殻」
「ヴァレリー・セレクション〈下〉」p.157
このあまりに人間的な問いに、意識による理由付けの有り様が集約されている。shapeは背後にcreationを暗示する。

固体から、液体の相を経て、固体へと移る《生きた自然》は、収束と発散のあいだで揺れながら、一つの全体をなす。貝殻の形成過程もその一つだ。

「因果律」にしむけられてそれを「理解」することによって、有用性、《完成した》、必要性、《偶然》、理由、意図、…、その他もろもろの人間的な説明が生まれ、《生きた自然》の非線形性は線形性の組み合わせへと解体される。

「理解」することを通して、私は貝殻の形成過程を、その《生きた自然》を、果たして捉えられたのであろうか。

たとえ結論にはいたらずとも、貝殻に呼び寄せられた多くの思考との戯れが、一つの《生きた自然》をなすように思われる。

2018-06-19

逸脱の対義語

逸脱 = 逸れる + 脱する。
英語だと「deviate = de (off) + viate (way)」。
スティーヴン・グリーンブラットの書いた本の題名「SWERVE」も逸脱を意味する。

逸脱の対義語としては、「服従、遵守・順守、従属、順応」のように、「したがう」と訓読する漢字が入るイメージがある。「守破離」の「離」が逸脱だとすれば、「守」が入る「遵守」もよさそうな気がする。

社会学や心理学ではconformity and devianceがセットであり、conformityの訳語は「同調」であるようだ。conformityは「一致、遵守、調和」などとも訳すことができる。

逸脱のない調和harmonyによって意識が不要になることを描いたのが「ハーモニー」であった。

エロスの涙

ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」を読んだ。

理性による労働がつくる習慣的な流れと、それを中断する、笑い、涙、遊び。

演繹的側面と逸脱的側面からなる過程は、パースのアブダクションと同じであり、個人的には「投機的短絡」という表現がしっくりくる。

投機的短絡によって投機的短絡の過程自体が抽象されることが意識の端緒となるが、労働的な演繹過程だけでは壊死へと固定化する一方であり、おそらく意識は維持されない。

労働の習慣的な流れからの遊び的な逸脱、陰に陽に禁止される逸脱の過程によって、意識が意識を意識するという自意識のプロセスが駆動し続けるのだと思われる。そのプロセスにおいては、sujetとobjetの関係が解体、再構築されることで、両者の不連続性は絶対的なものではなくなる。

行き過ぎた逸脱は発散へとつながり、壊死とは別の瓦解という死をもたらすが、逸脱しなければ壊死する他はない。壊死を免れつつ、瓦解には至らない逸脱のことを、バタイユは《小さな死》と呼んでいるように思う。

エロティシズムもまた《小さな死》の系列にあり、それらは単なる発散なのではなく、固定化の流れを踏まえた上での発散、アポロンがいた上でのディオニュソス、古典主義を受けた上でのマニエリスムであり、壊死と瓦解のあいだにある逸脱のことを言うのだと思われる。

慣習、アポロン、古典主義といった正統派は、逸脱を「永続的でないもの」として怖れるが、逸脱によって意識が駆動し続けるのであれば、人間を人間たらしめるのは逸脱なのである。
意識的でないものは、人間的でないのだ。
ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」p.298

2018-06-18

完璧な安全

変化が止むことのない世界においては、「完璧な安全」という観念そのものが、安全に対する脅威の一つになる。

2018-06-17

夢の宇宙誌

澁澤龍彦「夢の宇宙誌」を読んだ。

ひたすらに部分を志向し、分化を続ける、真面目で古典主義的で労働的な固定化の流れの行く末には、壊死しかない。

部分ではなく全体を志向するバロック的で遊び的な逸脱によって、その収束過程から飛躍し、未分化を経て別の分化へとメタモルフォシスする。その夢想したもうひとつの分化形態、貝殻のようなユートピアに、自動人形、天使、アンドロギュヌスが戯れる、球体の完全性をみる。

既存の判断基準に絡め取られた末の壊死を避ける衝動的な飛躍こそ、生殖本能ともセクシュアリティとも区別される、「こちら」の拡張としての愛欲の本質なのだろう。

2018-06-16

その世

この世に生きているわけでもなく、死んであの世にいるわけでもない。

人形の超然さには、その世という言葉がしっくりくるように思う。

「ソ」のリズムである。

2018-06-14

文明

直接コミュニケーションを取って判断基準を共有することを「見知る」と表現すると、文明とは、見知らぬ人間同士が間接的に判断基準を共有することで密集した状態だと言える。

その判断基準の共有は、国家などの間接的なコミュニケーション機構によって媒介されており、それによって文明人は、至近距離の見知らぬ相手から危害を加えられる可能性に目をつぶることができる。

見知らぬままの赤の他人とどこまで物理的に接近できるかは、文明化の一つの尺度になり、満員電車や渋谷の交差点などは最高に文明的だと思うが、目をつぶった危害の可能性は、決してゼロにはならない。

危害の可能性の端的な発露である通り魔の蔓延は文明の病であるが、その対策を間接的なコミュニケーション機構だけに頼る解決方法の先にはディストピアしかないように思われる。しかし、至近距離の相手と見知ることによって危害の可能性を減らすという選択肢が閉ざされつつある現状では、それ以外に選択肢があるのかは大いに疑問である。

主客のハーモニー

一体だったsujetとobjetを対立させたのは、近代の発明だろうか。

近代的なsujetはobjetのひっかかりによって維持されるため、sujetはobjetをひたすらに蒐集する。そのひっかかりとは、sujetとobjetを内と外として峻別する膜のことであるように思う。

伊藤計劃「ハーモニー」で、御冷ミァハは後天的に意識を実装したと描かれるが、本来はすべてのsujetが、言語や文化、常識などの膜によって後天的に獲得される。多くのsujetは、そのことをほとんどの時間において忘れているだけだ。

そのことを束の間強制的に思い出させるかのように、sujetとobjetを隔てる膜を消し去るハーモニー・プログラム。その是非を判断する役目は、何が担えるだろうか。

少女コレクション序説

澁澤龍彦「少女コレクション序説」を読んだ。

少女というからっぽなobjetのコレクション。
その窮極としての人形愛。
バランスを取るかのように、sujetはナルシシズムへと向かう。

ひたすらにobjetを蒐集するのは、確固たるsujetになるためだろうか。

人形を愛する者と人形とが同一なのであれば、sujetとobjetは表裏一体ということなのだろう。

2018-06-12

セーラー服と女学生

弥生美術館で開催中の「セーラー服と女学生」を観に行ってきた。

大正期のセーラー服は着物にも似ているという江津匡士の話は、なるほどなあと思う。プリーツスカートなんか女袴そのものだ。

肌の露出が少ないことやスタイルが強調されないこと、黒髪や三つ編みが似合うことなどが、抑制された感じを醸し出すことで、対象はオブジェに近づく。

澁澤龍彦が「少女コレクション」と呼んだ情熱が、セーラー服と女学生の結びつきをここまで定着させたのではないかという気もしてくる。

2018-06-05

分別

具体的な物体を区別するときは「ぶんべつ」。
抽象的な概念を区別するときは「ふんべつ」。

VR空間に存在する対象を区別するときは、どちらになるだろうか。

もし「ぶんべつ」になるのであれば、「ぶんべつ」と「ふんべつ」の違いは、視覚情報の有無によるのかもしれない。

あるいは、VR空間の対象の捉え方が、概念から物体に変化したのかもしれない。

2018-06-04

腕時計

腕時計は、近代が発明した絶対時間の手枷であるように思う。

限りなく精確かつ半永久的に時間を刻む機械を肌身離さず持ち歩くことによって、絶対時間という看守による監視watchが四六時中作動し続けるという点で、腕時計watchはパノプティコンと同等の監視機能を有する規律型の装置であると言える。

若者の腕時計離れは、規律型から管理型への移行を反映しているのだろうか。

移行先であるスマートフォンにインストールされた、電話、チャット、カメラなどの無数のアプリを用いて行われる、多種多様かつ密なコミュニケーションがなす網のことを、管理型の装置とみなせるだろうか。

複雑なものの単純化

3Dスキャン、3D解析、3Dプリントを組み合わせれば、こういう複雑なものも作れるようになりつつある。

物質的なレベルでの単純化が不要になったとしても、その物体について理解し、説明し、納得するという、人間の人間による人間のための単純化は、それを人間が使う限りは必要なのではないかと思う。

設計とは、複雑なものを単純化する過程であり、具体的なレベルでの設計がブラックボックスの中に覆い隠されることで物体が複雑化していったとしても、抽象的なレベルでの設計が明快であることが、人間にとっては必要なのではないかということだ。

抽象的な設計をも省略するようになるとしたら、もはやその物体はハードウェアとして組み込まれているも同然であり、人間はその物体を、意識的にではなく、無意識的に使用することになる。それをよしとする選択肢も、当然あるだろう。

空っぽ

知識にしろ、夢にしろ、肉にしろ、脂肪にしろ、何かが詰まったものに魅力があるのは確かだが、その一方で、空っぽさの中に詰め込める可能性が見出されることで魅力につながるというのは、とても人間らしいように思う。

超然としていながら、いつでも空っぽになれる。人形は、そのような天才性を帯びる可能性を秘めているのかもしれない。

声の具体性

音楽と言葉を抽象的な記号体系と捉えると、同じ情報を符号化するときの媒体や方式の違いが際立つが、もっと具体的なレベルで捉えると、両者の区別は曖昧になる。その最たるものがであり、歌声と話し声は滑らかに接続されている。

人形が物質性をもたなければならないように、声もまた、振動する息の流れという具体的なものに支えられており、個々の身体の違いが声音となって現れることで、声の具体性が身体の同一性につながっている。

abstractに対するconcrete、generalに対するspecificの両方の意味において具体的なものであることが、人形や声にとって大切なことなのだと思われる。

2018-06-03

三浦悦子人形展覧会

マリアの心臓で開催中の「三浦悦子人形展覧会」を観に行ってきた。

人形をじっくりと観たのは初めてかもしれない。三浦悦子の人形以外にも、天野可淡や恋月姫のものや、市松人形なども数多く展示されていた。

こちらがみつめても決してみつめ返すことなく、つくられた時点での抽象作用を超然と維持することで、自らの現実を提示し続ける。とりわけ、天野可淡の人形が提示する現実は、超然さが際立っていたように思う。

観賞する人間とは決して同じ現実を構成せず、人間がそれを虚ろなものに感じることこそが、人形の人形たる所以なのだろう。

つくられた瞬間から壊死し続けることによって獲得される人形の超然さ。人間がそれを獲得できるとしたら、死の直後の一瞬を措いて他にはないだろう。

人形論

金森修「人形論」を読んだ。

こういう人形論を読んでみたいと思っていた。

無関心な物理世界を、意味付けや理由付けによって単純化する〈亜物〉化の過程によって、存在が生じる。そのプロメテウスの精神の発露が、自らの周りのほんの一部に限られることで臨在性が生まれ、愛玩へとつながるが、依然として物質性を帯びていることで、自存性も保たれる。〈亜物〉には自存性と臨在性が共存しており、近いようで遠いような存在感を有している。

臨在性の究極として、自らと同じ存在として〈亜物〉化しようとする過程によって〈亜人〉が生まれ、その極限に〈人間として見做す〉ことに支えられた人間が存在する。臨在性の高まりに合わせて、高い自存性が要求されるために、〈亜人〉性や人間性を帯びるには、物質性の観点からも厳しい判定をクリアしなければならない。このプロメテウスからピュグマリオンへの跳躍が、生命と非生命、人間と人間以外、人形と彫刻といったものの違いにつながる。一つの時点での〈亜人〉化を超然と維持する人形には、〈清潔な人間〉という表現がとてもしっくりくる。

著者自身が言うように、物質性をもたなければならない人形によって示されることと、その抽象的な把握である人形論によって語られることの間に大きな隔たりがあるのは確かだが、人形にまつわるコミュニケーションを抽象する過程そのものが、「大規模な環境に抗うように、自分の周囲に〈人間的なものの痕跡〉を残す」行為であり、人形論そのものに、どこか人形に似た部分があるように思う。

2018-05-28

感応の呪文

デイヴィッド・エイブラム「感応の呪文」を読んだ。

周囲から受け取っている情報が同じでも、センサの特性が異なれば、受け取られ方は違ってくる。それはつまり、受け取るという過程が、抽象という不可逆な過程であることの現れだ。

抽象過程は、センサ特性に相当する「膜」あるいは「肉flesh」を挟んだ情報の流れであり、かたちが与えられることによって生じる膜の両側での情報量の差に基づいて、情報量が少ない方を「内」、多い方を「外」とみなすことで、内外の区別が生まれる。「情報を受け取るセンサ」と、「受け取られる情報である周囲」というのも、そうして生まれる区別だ。

更新される秩序としての生命は、抽象過程そのものを指すものであるはずが、膜が硬くなり、内外の区別が固定化されるにつれて、自らの内だけが生きているという錯覚に陥る。

言語、特に表音文字によって、
  • ギリシャ語のpsyche
  • ヘブライ語のruach
  • 日本語の気
という情報の流れが完全に複製可能なものとみなされるようになることで、人間という膜が硬直化し、内としての意識が閉じ籠もった結果として、人間と人間以上more-than-humanの乖離が生じたのだとすれば、これもまた複製技術の問題の一つである。

複製技術とは、「完全な複製」を定義する硬い膜をえいやで設定する投機的短絡である。それは、圧倒的大量の情報の流れが次第に定常状態へと収束する「局所的な膜の硬直化」の回避になることもあれば、それ自体が硬い膜として居座ることで、「大域的な膜の硬直化」をもたらすこともある。

局所と大域のいずれにせよ、膜が硬直化してしまえば、生命は壊死へと向かう他ない。

2018-05-24

納得

本来、納得は自分自身でするしかない。

それを他人に任せるところから、責任なるものが生じている。

自己責任というのはつまり納得のことであり、むしろ責任の方が委託納得なのである。

2018-05-23

潔癖症

必要十分なまでにパラメータが整理されている状態が「きれい」である。
An At a NOA 2016-02-08 “美しい/きれい
判断基準を固定することで「きれい」な状態が定まり、その判断基準に従って収束することで、だんだん「きれい」になっていく。

「清潔」や「きれい」をひたすらに目指す潔癖症は、一つの構造を抉り出す過程であり、とても近代的であるように思う。

2018-05-20

西部邁 自死について

富岡幸一郎編「西部邁 自死について」を読んだ。

仮説の形成と棄却の連鎖が織り成す精神という過程。
消化、吸収、代謝の連鎖が織り成す肉体という過程。
二つの過程はそれぞれに生命であるとみなせるが、両者がほとんど一蓮托生と言えるまでに混淆しているのが人間である。

しかしそこには、肉体が死ねば精神も死ぬのに対し、精神が死んでも肉体は死なないという違いがあり、精神と肉体は完全には一蓮托生ではない。その一蓮托生の不完全性をどのように捉えるかは、精神にとっての一大事であり、西部邁の思想、あるいはその表明としての自裁は、単なる精神への礼賛ということではなく、精神と肉体の一蓮托生を完遂することに人間の条件を見出すものだと思われる。

近代以降、肉体の代謝が無限に思えるほど長期化するにつれて、一蓮托生の不完全性の影響は増しているにも関わらず、専門人の烏合の衆となった近代的大衆人の精神は、各々が限られた対象と限られた発想だけに拘泥することで代謝が低下し、それについて考えることのできる精神が少なくなっている。個人レベルだけでなく、集団レベルにおいても、精神と肉体の一蓮托生が、肉体の側から一方的に解消される危機にあると言えるだろう。その極限には、精神が死に絶え、肉体だけが無限に生き延びるというディストピアが待っている。

一蓮托生の行く末の他の選択肢としては、精神と肉体の複製技術が発達し、ハードウェアからハードウェアへとソフトウェアを移植するように、精神を別の肉体へと移植できるようになることで、一蓮托生が双方から解消されるという可能性もある。精神にとっては肉体のドラスティックな代謝であり、肉体にとっては精神のドラスティックな代謝であるともみなせるが、それはつまり、マクロな不連続性をマクロな連続性で覆ったものを生命とみなすということであり、ミクロな不連続性をマクロな連続性で包んだものを生命とみなす現在の感覚からすると、大いに違和感を覚えるものであるように思う。

見ようによっては、あらゆる過程の連続性は、不連続に取得するデータに対して微分可能な解釈を与えることで仮想されているとも言えるが、そのような理解が普及すれば、もはや誕生や死の不連続性すら連続なものとして縫合されるような時代も来るのかもしれない。その時代においてこそ、永続しかねない連続性に対して不連続性を与えることが、思想の表明として効果的になるのだと想像される。

2018-05-18

〈危機の領域〉

齊藤誠「〈危機の領域〉」を読んだ。

「専門家specialist」が誕生したのは近代以降だろうか。generalな個人はspecialな専門家へと分化され、専門家は、各自の専門においてのみ、責任を負うことによって自由を手に入れる、という構図が出来上がる。膨大な情報の中から、何らかの判断基準に基づいて同一性を見出すことで情報量を減らすという「理解」や「判断」の過程を効率よく実行するには、専門分化という戦略はとても有効だと言える。

しかし、情報を欠落することが「理解」や「判断」である限り、そこには常に、欠落した情報に応じた〈危機の領域〉が存在し、その領域を覗くには、その「理解」や「判断」が基づいた判断基準、すなわち「理由」が必要になる。「理解」や「判断」の結果にはアクセスできるのに、「理由」にはアクセスできないという事態が生じると、リテラシーが失われてしまい、突如として直面することになる〈危機の領域〉において破滅的な状況を迎えるのだと思う。

専門分化によって高度に効率化した体系がもたらす恩恵に与るには、同程度に高密度なコミュニケーション=熟議によってリテラシーを維持しなければならない。熟議によって「理由」を共有し、リテラシーを維持することが、〈危機の領域〉に直面したときの納得や、「判断」の時間整合性につながるのだと思う。

もし熟議が効率を低下させるのだと言うのであれば、その効率は破滅をもたらすほどの高さに達しており、専門分化はもはや一種の虐殺器官になっていると言える。専門分化の発達と熟議の不足という不均衡は、資本主義によってあらゆるものが資本を介して「消費」できるようになったことで生み出されたと言えるだろうか。

自分の専門である建築構造からすれば、2章から4章の例はどれも身近であったが、高度に専門分化した現代においてどのように〈危機の領域〉と向き合うかという意味では、具体例が身近であるかどうかに関わらず、抽象的にはすべての人間にとって身近な問題として受け取ることができるはずだ。

2018-05-13

知識と教養

知識と教養は、いずれも言語化された記憶であるが、知識がspecialであるのに対し、教養はgeneralである。

教養とは、抽象化された知識である。

おそらく、本当に愛している対象については、知識の代わりに教養を欲することはないだろう。

抽象化の範囲

状況に応じて最適なspecialへと分化するだけでなく、generalへと抽象化することで局所最適化を免れることができるのは、人間の強みだろう。何でもかんでも抽象化しておけるのは余裕の現れである。

多くの抽象化の恩恵に与っている人間でも、自分にとって身近な対象は抽象化することができず、分化したspecialのままにしておきたいという傾向はあるように思う。一般論は、自分から遠くにあるものをみるときだけに持ち出されがちだ。

対象を抽象化から可能な限り遠ざけておく行為は、愛と呼べるだろうか。

2018-05-07

系統体系学の世界

三中信宏「系統体系学の世界」を読んだ。

生物体系学が様々な判断基準に基づいて生物を抽象するように、生物体系学それ自体もまた、生物の抽象の仕方に応じて抽象することができる。体系学曼荼羅はそのようにして抽象された“風景”であり、本書は、言うなれば、生物体系学の体系学である。

体系学曼荼羅に記された多くの記号や矢印、あるいは文章によって描き出される経緯を読むにつけ、生物体系学という科学が一筋縄には抽象できないのだろうことを想像する。文字通り一筋のチェイン構造としてはおろか、ツリー構造としても表現しきれないのだろう。それはおそらく他の学問も同様であるし、生物だって本来はそうだろう。

それでも何かしらの抽象を行うと、判断基準に応じた構造が付与されると同時に、情報が失われる。抽象はデータ圧縮と同じだ。可逆圧縮であれば情報は失われないが、その抽象はおそらく実質的に無意味であり、不可逆圧縮によって情報を減らすことが理解や判断につながるのだと思われる。むしろ、不可逆な抽象の連鎖による情報の絞り込みこそ、理解や判断と呼ぶべきものだろう。

情報の欠落がある限り、理解や判断の仕方には唯一真なるものはなく、この基準に基づくとこのようにみえるということにしかならないはずだ。理解や判断の「正しさ」は、抽象による情報の欠落の仕方によって決められるかもしれないが、その「正しさ」もまた一つの判断である。別の理解や判断ができるようであるためには、理解や判断に伴って失われる情報を埋め合わせ、具象を想像できるだけのリテラシーをもつ必要がある。それは、判断基準をとっておくことで可能になり、その判断基準こそ、充足理由律が仮定する「理由」であるように思う。抽象から具象への復元の精度の高さを、より少ない量の理由によって確保しようとするのが、最節約原理だと言えるかもしれない。

科学史や科学哲学は理由を維持する営みであり、それによって別の理解の仕方が可能になる。著者自身が
本書に示した“曼荼羅”もまたいずれその誤りが指摘されることを私は切に期待しています。
三中信宏「系統体系学の世界」p.426
と述べるように、生物体系学の体系学もまた見る人間によって“風景”が異なり、生物体系学の体系学の体系学を描くことができるだろう。

そういった理由を維持する営みの連鎖が崩れ、抽象する際に基づいた理由を忘れてしまうと、何を理解しているのかを見失うことになる。それは既に意識的な抽象ではなく、無意識的な抽象だ。機械学習の分野での近年の成果をみていると、無意識的な抽象だけが重宝される時代が来ないとも言い切れないが、意識ある存在としては、意識による意識的な抽象を楽しめるようでいたい。

2018-04-29

範囲攻撃

ここで「範囲攻撃」と呼ばれているのは行き過ぎた演繹のことであるように思う。それは一種のハラスメントであり、論理的には大いに誤謬を含んでいる。

具体的なものをまとめて抽象的なものに置き換えるという「範囲化」をえいやでやってしまえるような、誤謬可能性をはらんだ投機的短絡の過程が意識であるとも言えるが、その範囲化の判断基準が変更可能であることもまた意識の特徴であり、変更可能性を失い投機性だけを残した範囲化は範囲攻撃へと転ずる。常識も慣習も言語も文化も宗教も科学も、意識的な行為は常にその可能性を秘めているはずだ(という指摘もまた範囲攻撃になり得るはずだ)。

自分がどんな判断基準に従っているか。
他にどんな判断基準があり得るのか。
それは常に気にしていたい。

2018-04-28

ハラスメント

ハラスメントとは、判断基準の押し付けである。

一方で、コミュニケーションが可能になるためには、常識、慣習、言語、文化といった、何らかの判断基準を共有することが不可欠であり、広い意味での教育は、常に判断基準の押し付けと隣り合わせでもある。

集団は、ハラスメントを指摘することで壊死を免れ、教育することで瓦解を免れるというバランスの上で維持される。

教育とハラスメントの境界線は常に変動しており、それを固定すること自体が一種のハラスメントになってしまうだろう。

2018-04-17

偏見

Text Embedding Models Contain Bias. Here's Why That Matters.

判断が一貫性をもつ限り、それは何らかの意味での偏見だと言える。「これは偏見である」という判断が一貫性をもつのであれば、それもまた偏見となるので、「偏見とは一貫性のある判断のことである」というのも偏見だ。

偏見に対する批判には、「その偏見は多数派の偏見と異なるからダメだ」と要約できるものも多いが、偏見であることに問題があるとすれば、一貫性は固定化につながりやすく、固定化した判断基準は忘れられがちだという点だと思う。この問題意識も、固定化することはよくないことだという判断基準に基づいているが、公理のない数学が存在しないのと同じように、どこかの段階では自分なりの偏見をもつしかないので、その偏見の裏にある判断基準を忘れないようにすることで、別の偏見があり得ることを憶えておくしかないのだと思う。

記事の中で出てくる「unwanted」という評価もまた一つの偏見であるから、何を「unwanted」としているのかという偏見を常に意識できるようでありたい。unwanted biasを取り除いた気になってそれを怠ると、本当にbiasが埋め込まれることになるのだろう。biasが埋め込まれた判断機構は、物理的身体に備わったセンサと同じく、ソフトウェアでなくハードウェアである。可視光線しか見えなかったり、人の顔が人の顔に見えたりすることを通常は偏見と言わないのと同じように、biasが埋め込まれたハードウェアによる判断は偏見と言われなくなるはずだ。

全ての判断をハードウェアで処理するべきという偏見が多数派になったら、意識なんてものは判断の一貫性をかき乱すバグでしかなくなるだろう。
判断基準とは、受け取った情報に対する判断の履歴が作り出す、判断の偏りのことである。それは、これまでもこれからも変化するものであるはずだが、変化は忘却されやすい。
An At a NOA 2018-02-25 “世界は上手くできている

2018-04-15

耳の焦点

つまり、無限の受動性(不可視の強制的な受容)こそが人間の聴覚をなしているということだ。煎じ詰めればこうなる。耳にはまぶたがない。
パスカル・キニャール「音楽への憎しみ」p.99
耳に欠けているのは、情報の選択的受容機構だ。耳に焦点を調節する機能があったら、聴覚だけで対象までの距離を測れるようになるのに。

聴覚デバイスの役目は、そこにあるだろうか。

2018-04-13

ある島の可能性

ミシェル・ウェルベック「ある島の可能性」を読んだ。

DNAと人生記に書き込まれた情報からまったくの同一人物を複製し、生殖や発生の省略と〈至高のシスター〉という基準によって徹底的にエラーを排除することで、ネオ・ヒューマンは不死となる。

その不死性によって、ひたすらに壊死へと向かうネオ・ヒューマンに可能性の光明はなく、時間が媒介変数と化した「終わりのない静止状態」を生きる他ない。ネオ・ヒューマンは、「幼年期の終り」のオーバーロードと同じように、進化の袋小路に追い込まれている。

旧人類が夢に見て、ネオ・ヒューマンが辿り着けなかった、「時間の真ん中に存在する可能性の王国」に至れるものとして想定される未来人は、ネオ・ヒューマンの先には存在せず、まったく別のところから現れるのだろう。

2018-04-12

Looking to Listen

Looking to Listen: Audio-Visual Speech Separation

視覚と聴覚を組み合わせることで話し声を分離できるというのは、多様な情報の流れの中に何らかの一致を見出すことが、個を認識することにつながっていることを示唆しているようで興味深い。

センサの種類や数を増やすと、個の特定の精度は上がっていくが、精度を上げ過ぎると、人間が同一個体と判定する対象を別個体として判定するようになり、「精度の悪化」と表現されることになるだろう。精度の頭打ちを決めるのは、人間のセンサの仕様だ。

複数の情報の間での齟齬を察知して、個の同一性をチェックする仕組みも作れるだろう。「今日は風邪を引いているから聴覚情報がずれている」というように、理由付けによる一時的なパッチも当てられるようになるだろうか。その過程がブラックボックス化したものは、マガーク効果と同じであるように思う。

2018-04-11

資本主義リアリズム

マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」を読んだ。

資本という評価基準を、唯一かつ汎用なものにすることで、あらゆる秩序の更新過程を「消費consume」として抽象した資本主義は、その評価基準が当たり前のものとしてこびりつくことで、「この道しかない」ものになる。そのハードウェア化した資本主義が生み出すリアリティに対抗するには、リアルを暴き出す以外になく、著者は精神保健と官僚主義に着目する。

精神保険において、原因が政治的・社会的なものから化学的・生物的なものに変化していくように、責任を負い得る単位が個人へと収束していくと同時に、あらゆる仕組みが、官僚主義的に非人格化された構造として埋め込まれることで、原因となるべき「大いなる他者」には、ついぞ出会うことができない。

規律型から管理型へと移行し、脱中心化された社会では、もはや神も死んで久しく、「父親不在のパターナリズム」となっているにも関わらず、それでも「大いなる他者」という中心をみようとしてしまう。原因の追求を一点に集約するという、近代の一真教的な傾向を巧みに利用しつつ、その一点の先を雲散霧消することによって、抽象的な構造はますます強固なものとなり、資本主義リアリズムが強化される。
そこに中心はなくとも、私たちは中心を探さずにはいられないし、その存在を断定せずにはいられない。
マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」p.164
この中心を求める傾向は、一真教の後遺症だろうか。それとも、充足理由律という仮定に付随するものなのだろうか。もしこの傾向によって意識が互いを認識しているのだとしたら、意識と資本主義リアリズムは一蓮托生ということになる。

例えば、抽象的な構造を代表する中心としてAIを据えることで、表面上は構造を具体化できるかもしれないが、リアリズムへの陥りに対する有効な手段になるだろうか。

行為主体性を押し付ける対象が健康やAIなどになったとして、その状況がまた構造的に固定化してしまうのであれば、「新たな記憶をつくることができない」というリアリズムが何度も繰り返し到来するだけである。「ハーモニー」のような、主体性の解消という手段以外に、その状況を脱却する方法はあるだろうか。

2018-04-10

consume

consumeの語源をたどると、"to destroy by separating into parts which cannot be reunited"に行き着く。

消費者とは、己の秩序を維持するために、別の秩序を解体するものであり、更新され続ける秩序のことを生命と呼ぶのであれば、あらゆる生命は何らかの意味での消費者であるはずだ。

消費対象の秩序の再生速度を超えた消費を行い、消費対象が少なくなったら次の消費対象を探すという行為は、歴史的に何度も繰り返されてきたように思う。資本主義によって新しくなったことと言えば、唯一で汎用な評価基準が生まれたことで、あらゆるものが潜在的な消費対象になったことだ。

一度消費対象になってしまったものは、消費し尽くされるまで消費対象であることをやめられない。選択肢は、緩やかな解体と急激な解体のいずれかだ。緩やかに解体される合間に別のものを解体するのが、つまり「生きている」ということであり、その過程をひっくるめて抽象化したのが資本主義だと言える。

漫画の海賊版サイトは、資本主義の制御された解体の循環に対する乱獲であり、消費の急激な高速化を食い止めるための対策が取られようとしている。その一方で、常に単調に増加するという資本主義の前提を崩さないために、正規とされる仕組みの中では、瓦解しない範囲で極限まで消費を高速化する。

人間は器用だなと思う。

2018-04-09

VR, AR, Reality

現実は、入力される情報に応じて構成されるものであり、何らかの意味で「近い」情報のみが選択的に共有されることで、異なる現実が構成される。VRとARとRealityの違いは、距離空間の取り方の違いだと言える。

Realityの場合には、空間的、時間的に近いという物理的な制約によって、共有される情報が決まる。むしろ、Realityを構成する情報のことを、空間的、時間的に近いと認識すると言うべきかもしれないが、その違いはあまり重要ではない。

通信技術が変化することで、物理的には遠かった情報が共有できるようになったり、近かった情報を共有せずに済んだりするようになると、Realityは別の現実へと変化する。それは、新しい「近さ」や「遠さ」が設定されるということであり、現実の変化は距離空間の変化として捉えることができる。蓄音機、印刷、電車、写真、電話、ネットあたりは比較的わかりやすい例だが、眼鏡、耳栓、望遠鏡、顕微鏡、言語なども、現実を変化させる通信技術の一種だと言える。

VRとARの違いを生むのは、変化した距離空間において、Realityの「物理的な」距離空間がどの程度継承されているかということになるが、その閾値は曖昧であり、VRとARとRealityは、「物理的な」距離空間の影響度が小さいものから大きいものへのグラデーションとして捉えるのがよいように思う。

Realityの「物理的な」距離空間に生きる人間と、それ以外の距離空間に生きる人間との間には、「近くて遠い」という感覚が生まれる。それはつまり、不気味であるということだ。距離空間を一致させれば不気味さは解消されるが、別の距離空間の取り方があることを認識するだけでも、不気味さはある程度和らぐだろう。

2018-04-07

聴覚AR

スピーカとヘッドホンでは、音空間の再現の仕方が異なる。スピーカの作る空間は、聴く人間の位置や向きの影響を受けない固定された座標系をもつのに対し、ヘッドホンはこれらの影響を受けて移動と回転が生じる座標系をもつ。聴覚VRとはつまり、スピーカ的な音空間の座標系をヘッドホンで再現する技術である。

スピーカとヘッドホンでもうひとつ異なるのは、音空間の共有の仕方だ。スピーカがその場にいる人間に対して否応なく音空間の共有を強制するのに対し、ヘッドホンは基本的にはそれを装着した人間一人のための音空間を用意する。スピーカ的な音空間の共有をヘッドホンで再現する技術は、聴覚VRよりも聴覚ARに近い。

音空間を共有するにはヘッドホン間で音源の位置を同期させる必要があるが、両耳間のわずか20cm余りの間隔で音源からの距離差を測定しないといけないので、音源と各耳の三点に置いたデバイス間での通信にしないと、十分な精度が得られないかもしれない。

美術館での展示品の解説のように、大人数が集まる空間において、音源の位置が移動しない音を個々の人間に別々に聴かせるものは、聴覚ARと相性がよい。あるいは、待ち合わせ相手だけに聴こえる声を、声のする方向を指定して送るというのも、聴覚ARならではになり得ると思う。電話やチャットでは再現できないし、同じ機能を視覚ARで実装しようと思ったら、草食動物のような目が作る視空間に慣れる必要があるはずだ(それはそれで面白い視覚体験になるが)。

各々が別々の音空間に閉じこもる状況を普及させたのはウォークマンだと思うが、聴覚ARによって、選択的に音空間を共有する状況が生まれる。この物理的な制約以外による選択的な共有というのが、ARをRealityやVRから隔てるaugmentの本質だと思う(以前、言語は一種のVRであると書いたことがあるが、むしろ言語は一種のARである)。

選択的共有であることによって、ARは常に不気味さを背負う運命にあり、全員がaugmentされない限り、その不気味さは消えないのだろう。
augmentされていない人には見えない何かが見えている人達が集まることは、それ自体が脅威になり得るだろうか。
An At a NOA 2016-07-29 “augmented

2018-04-06

我々は人間なのか?

ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー「我々は人間なのか?」を読んだ。

作るものによって作られるもの。
本書で示される「デザイン」のイメージは、エッシャーの「Drawing Hands」に近い。

デザインする者とデザインされた物という区別があるのではなく、ものの相互作用の過程がデザインであり、その過程自体がほとんどもう人間なのだが、通常は敢えて者と物に分けて、者の側を人間と呼んでいるに過ぎない。「生命の内と外」と同じだ。

道具と装飾、あるいは機能と遊びの違いは、相互作用の途中で一時的に決まるものであり、装飾や遊びがエラーとして発生することで、相互作用は収束という死を免れることができる。エラーが引き起こす不確定性、不安定性が、すなわち思考である。

「我々は人間なのか?」という問いは、最大のエラー誘発装置となることで、人間という過程、デザインという過程を駆動させているように思う。

factorとcause

日本語だと、「要因」と「原因」。

因数分解のことをfactorizationと言うように、factorという語には、「全体とは部分の集合である」という発想があり、何らかの全体に対する部分を指す語であるように思う。

一方、causeという語には、「物事には順序がある」という発想があり、何らかの物事に対する前段階を指す語であるように思う。

factorは空間的、causeは時間的だと言える。factorは分類思考、causeは系統樹思考であると言ってもよい。

2018-04-04

情報共有

特定の情報は特定の人間だけが取り扱い、その情報を基に下した判断のみを、それ以外の人間と共有する。コミュニケーションの範囲が特定の人間に限られることで、特有の言語や常識の形成を通して、判断基準についてのコンセンサスを迅速に成立させることが可能になる。この抽象的な情報共有の仕組みによって、判断という抽象過程を効率的に洗練することができる。

近代は、この仕組みを専門分化と名付け、大いに利用してきた。近代的な一真教の教徒にとって、効率や洗練といった言葉が示す方向は一意的に決まるため、抽象的な情報共有は近代ととても相性がよい。

最近では特定の言語や常識をもつことが必ずしもよしとされず、情報公開が進められているが、情報公開というのは、情報共有の抽象度を下げることである。これまで具体的な情報を取り扱ってきた人間以外の人間とは、言語や常識を共有していないため、その情報をどのように抽象するかについてコンセンサスを取るためにはコストがかかり、それは効率の低下とみなされる。

コミュニケーションのコストが変わらないとすれば、判断基準のコンセンサスに関する効率の高さとは、つまりコミュニケーション主体の多様性の低さであり、具体的な情報にアクセスする主体の多様性を取るか、効率を取るかというのは、どちらがよいかという問題ではなく、どちらをよしとするかの問題であると思う。

巨人の肩の上に全員は立つことができない状況で全員がかなたの景色を見渡すには、どんな方法があるだろうか。あるいは、より上に、よりかなたに、という方向が一意的に決まるはずだという発想が、そもそも近代的なのかもしれない。

3D-Printed Steel Bridge

The First 3D-Printed Steel Bridge Looks Like It Broke Off an Alien Mothership

3Dプリントされた鋼橋。
さすがに現場でプリントするまでには至っていないようだけど、工場に置かれた橋は3DCGと見紛うばかりだ。

一本の直線もない形態へのこだわりは、非線形を線形の張り合わせに置換することこそ「理解」という言葉の意味するところであった「近代」という時代への決別を表明するかのようである。
直線の覇権とは文化一般にみられる現象ではなく、近代の現象なのである。
ティム・インゴルド「ラインズ」p.238
しかし、安全性の確認をはじめとして、あらゆる部分が科学や技術といった近代を受け継ぐものに支えられているはずであり、実際のところは、非線形の線形化がvirtualなレベルで高速かつ精密にできるようになったことで、actualなレベルでの線形化が不要になったということなのだろうと思う。

橋の側面がトラス状になっているのを見て、virtualなレベルでも保存される形式こそ構造的だと言えるなということを考える。
構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualでありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。
An At a NOA 2017-08-18 “何を構造主義として認めるか
こうやって、複雑な形状でもトラスとして捉えてしまうのは、単純化という近代的な理解の一形態だろうか。でも、virtualにおいて高速化され精密化された線形化を人間が再現できなくなったときにこそ、人間の人間による人間のための単純化が必要とされるように思う。単純化とは、より離散的な記号への置き換えであり、つまりはdigitizedesignである。

理由が明快なものを「人工」、そうでないものを「自然」と呼ぶとすると、近代までは、人間の作るものはactualなレベルまで線形化された人工的なものばかりであり、何かを作るというのはすなわち自然の人工化ということだったと思う。専門分化が進むとともに、個々の人間レベルでは難しくなっても、集団としては依然としてかなりの程度に人工化していると思うが、人間の作るもの、人間の作るものが作るもの、人間の作るものが作るものが作るもの、というように、人工化のレベルがよりメタになっていくにつれて、actualなものは次第に人工から自然へと近づいていく。その過程の中で、次々と生まれる新たな自然の人工化を諦めたとき、「BLAME!」のような、かつての人工が自然化した世界が訪れ、「意識」や「理解」といったものが時代遅れになるのだろう。

こういう構造物の安全性については、壊れるところを何度も観察することで形成した力学的な直観で判断できることもあるだろうし、精緻なFEAモデルを用いた解析を通して判断できることもあるだろう。しかし、抽象化の解像度は、粗過ぎても細か過ぎても、その
判断を伝達するのには向かないように思う。個人的には、その両極の間にある、適度な単純化を通した判断もできるようでありたい。

2018-04-01

「百学連環」を読む

山本貴光「「百学連環」を読む」を読んだ。

西欧人が自然を読んで西欧学術をなし、西周が西欧学術を読んで「百学連環」をなし、山本貴光が「百学連環」を読んで「「百学連環」を読む」をなし、私が「「百学連環」を読む」を読んでこの文章をなす。

受け取った抽象から、それが想定していた具象を再構成し、自らの判断基準に従って、判断基準の変化も伴いながら、新たに抽象する。この抽象過程の連鎖は、学と術の連鎖であり、
文學なくして眞の學術となることなし。
西周「百學連環」第二一段一一〜一五文
というのは、抽象から具象を再構成する能力であるリテラシーの重要性を言ったもののようにも思える。言葉をつくるというのは、最も抽象的な行為であり、西欧学術の多くの概念を日本語に抽象した西周の抽象能力は抜群であると思う。

学術の分類について、普通commonと殊別particularの違いは抽象度の差、心理intellectualと物理physicalの違いは判断基準の固定度の差ではないかと思う。時代、場所、集団によって判断基準が異なることで、普通と殊別、心理と物理の境界は変化するはずであり、むしろその境界こそ、判断基準の個性にあたるものだと言える。唯物論とは、物理が幅を利かせ、判断基準が完全に固定化した世界観である。それを採用すれば、あらゆることがわかるものとして捉えられるようになるかもしれないが、ソフトウェアのないハードウェアは脆弱である。その逆もまた然りだ。

心理的な部分がなければ、集団は固定化し、物理的な部分がなければ、集団は発散する。心理と物理の均衡が取れていなければ、どのような学術も、壊死と瓦解の間で存続することはできないように思われる。

2018-03-27

科学

それが受け入れられるように人間が変わるのであれば、人間は近代からの脱却に成功したと言えるだろうし、そのときには意識ももはや不要になるだろう。
An At a NOA 2017-03-01 “予知
scienceの語源をたどると、*skei-(to split)に行き着く。

近代科学にとっての理解とは、より単純な、より細かいモデルへの切り分けである。無限に細分化することはできないため、ある段階でのモデルを公理として受け容れる他なく、それは端的に言えば信仰であるが、信仰せざるを得ない対象を可能な限り小さくし続けることが、理解という過程を通した近代科学の計画だったと言えるだろう。意識にとっての理解を目指す限り、科学はいつまでも近代科学であり続ける。

一方で、深層学習等によって、理由を介さずに生成された判断機構は、意識にとっての理解とは無関係に存在し得る。それは一種の自然である。自然を人工化することを諦め、自然を自然化することが当たり前になったとき、ようやく近代が終わる。科学の時代にも宗教が残ったように、新たな時代にも科学は残るだろうが、それは最早、意識にとっての気休めでしかないことが前提とされる科学である。

宗教、科学に続く、新たな時代にとっての理解の仕組みは、何と呼ばれるだろうか。無意識、意識に続く抽象過程を司る装置が、大脳新皮質のさらに外側を覆っているだろうか。無神論者に続いて、無真論者は現れているだろうか。

新たな時代の人間よ、
ゴーストは囁いてゐるか

2018-03-26

プラネタリウムの外側

早瀬耕「プラネタリウムの外側」を読んだ。

内と外は、
フレームで画される。
フレームを設定するのは、
世界への視点を定めるのと同じだ。
フレームを共有することで集団が成立し、
集団が共有することでフレームが維持される。

フレームは、
何度も作られ、壊される。
何重にも張られたフラクタルの、
いったいどこに、自分はいるのだろうか。

フレームの外は、
別のフレームの内になる。
同じフレームの内と外の関係すら、
本来不安定であっても何もおかしくない。

プラネタリウムを
内側から見上げるのと、
天球儀を外側から眺めるのとでは、
世界の見方はどのように違うだろうか。
プラネタリウムの外側や天球儀の内側に、
世界への異なる視点を想像できるだろうか。

問いのループへの収束を
突拍子もない判断で回避し、
特定のフレームを信じ込めるのが、
人間らしいということかもしれない。

2018-03-24

今更ながら、
声と言葉とは
違うものだなと。

声は、音楽と言葉の
あいだにあるというか。

声を出し、声を聴くことが好きだ。

ことば、否こゑのたゆたひ 惑ひゐる君がこころをわれは味わふ
河野裕子

2018-03-23

生命の内と外

永田和宏「生命の内と外」を読んだ。

内部と外部の折り合いのなかに生命はある
永田和宏「生命の内と外」p.220
内と外が分節されることは、
自己と非自己が分節されることであり、
内と外、自己と非自己は、同時に生まれる。

内と外のあいだでは、
閉じつつ開き、
変わりつつ変わらない
やり取りが繰り広げられる。
内へ内へと壊死することなく、
外へ外へと瓦解することなく。

そうだとすれば、
生きていると言うべきは、
内や自己というよりも、
内と外、自己と非自己のあいだの
関係の方なのかもしれない。

2018-03-22

単純化

人間ってさ 単純なものが好きだよね  すぐにわかるものだけに囲まれてたいというか  学問や宗教なんかも 複雑でよくわからないものを単純でわかりやすくモデル化するものでしょ

でも 単純なものだけだと飽きるんじゃないかな

そうか  単純なものというより 単純化するのが好き というのが近いのかも

単純化か  考えるっていうのは結局 単純なものになっちゃわないように 手を替え品を替え 単純化を繰り返すってことなのかもね  人間の頭は複雑なものを複雑なまま扱えるほど高性能じゃなくて 単純化が必要だったとか

あるいは 単純化に特化することが つまり高性能っていうことなんじゃない  単純が線形だとすれば 複雑っていうのは非線形ってことで 非線形のままでは理解できないものも 少しずつずらしながら線形化することで理解してしまえるっていう

そもそも 非線形を線形の貼り合わせにするってことが理解するってことなのかもね

なるほど  非線形っていうのはずばり 線形に非ず で 人間が飲み込めるほど線形なものまで解されてないってことか  でも 人間をこういうふうに捉えようとするのも
一種の単純化だよね

それはそうだよ 考えてるんだから  こうやってちょっとずつ見方を変えながら 新しくみえる単純化を探すのが人間なんだろう

芸術的だねぇ 人間は

芸術と技術4

芸術は、判断基準の変化をもたらすことで、技術から峻別される。

それはつまり、新しい世界の見方の中に、新しい世界の割り方の中に、芸術らしさが見出されるということだ。

何を芸術と感じるかは、現状の世界の見方がどのようなものであるかに影響を受ける。芸術であるとみなされたものも、それが普及してしまえば、技術となるだろう。技術であるとみなされたものも、別の場所、別の時代、別の集団にとって判断基準の変化をもたらすものであれば、芸術となるだろう。

伝えるためには技術的である必要がある一方で、芸術的であることによって伝わることもある。

通信可能性と応答可能性の狭間で揺れるコミュニケーションの中に芸術性が見出せるのであれば、コミュニケーションの内部の存在、あるいは芸術性を見出した外部の存在の各々が、何を同じとみなし、何を違うとみなしているかについて考えるのがよいように思う。

2018-03-21

簡潔データ構造

定兼邦彦「簡潔データ構造」を眺めた。

自由エネルギー原理に従って抽象機構を生成すると、簡潔データ構造になるだろうか。簡潔表現にはなるような気がするが、簡潔索引はどうだろう。

直観と思考の二つの抽象機構を比べると、直観が比較的固定化しているのに対し、思考は投機的短絡による判断基準の変化が生じるために、比較的発散しているから、直観の方が思考よりも簡潔表現に近い実装になっているはずだ。
簡潔表現は異なっていても簡潔索引は同じものが使える場合がある
定兼邦彦「簡潔データ構造」p.14
とすれば、思考でも変化するのは表現と索引のうちの表現だけで、索引は固定化しているということもあるのかもしれない。

聞き覚えについて考えたことを思い出す。
An At a NOA 2015-10-21 “サンプリング
An At a NOA 2016-01-26 “忘却の問1への回答
An At a NOA 2016-11-21 “記憶の走査

予測符号化

深層学習によって「蛇の回転錯視」の知覚再現に成功

予測符号化はショーペンハウアーの言う悟性にあたるものだろうか。つまり、因果性の認識とは、情報理論的自由エネルギーが最小になるように行われる予測生成モデルの更新のことだと言えるだろうか。

悟性による無意識的な期待が錯視を引き起こすという結果は、ショーペンハウアーが動物にも悟性はあるとしたことや、動物も錯視するという実験と整合している。

2018-03-19

渢=Ξ+Ω+Φ

エラーと淘汰と再生産

突然変異みたいなエラーがなくなったら 生物は進化しなくなると思うんだけど それって時間が止まるのと同じなんだろうか

生物は変化しなくなっても 環境が変化して適応の具合も変わるんであれば 違うんじゃない

でもさ 環境の変化もエラーだと思えば やっぱりエラーがないと時間は進まないんじゃないかな

なるほどね  じゃあエラー発生率が高くなるほど時間が速くなるとか  あーでも淘汰の速さも同じくらい速くならないとダメか  それに再生産の速さも上げないとすぐに絶滅しちゃうね

じゃあ淘汰と再生産も速くすればいいんじゃない

あ そうか  それを実際にやってるのが意識なのかもね  突拍子もない発想に理由を付けて それを共有する  エラーと淘汰と再生産の高速回転だ

それってどんどん時間がずれてくことにならないかな

そりゃずれてるんだろうね  ずれてなかったらここまで人間増えてないでしょ

2018-03-15

少女終末旅行

つくみず「少女終末旅行」を読んだ。

弐瓶勉「BLAME!」の影響を受けたというこの世界観は、とても好きだ。

かつての人工が半ば自然化し、多くの意味が漂白された状態でこそ、考えられることもあるように思う。それでいて、そんな時代でもお腹は空くし、お風呂は気持ちいいんだろうな、と。それは多分、精神と身体の、ソフトウェアとハードウェアの、ことばとことがらの違いだ。

車両も、銃も、本も、日記も。
理由付けられたものを何もかも失って、
視覚も聴覚も曖昧な中で感じた触覚の、
その確かさの後で確かめ合う。
生きるのは最高だったよね…
………うん
つくみず「少女終末旅行」6巻

あとがきの文も好きだ。
マクロすぎる視点は、あんまり人を幸せにしないのかもしれない。
実家の庭の柿の木の柿の手ざわりだけ感じながら生きたいです。
つくみず「少女終末旅行」4巻

二拍三連

タ     タ     タ     タ     
タ  ツ  タ  ツ  タ  ツ  タ  ツ  
タ ツ タ ツ タ ツ タ ツ タ ツ タ ツ 
タ   タ   タ   タ   タ   タ   

2018-03-14

ものぐさ精神分析

岸田秀「ものぐさ精神分析」を読んだ。

唯幻論はなかなか面白い。絶対的な判断基準は存在せず、すべては幻想に基づく。幻想と呼ばれるくらい基準の変化がたやすいと同時に、理由という仕組みによって、その変化しやすさを補いながら基準を共有するのが、精神という判断機構の特徴である。幻想がただ虚しく、変化しやすいだけであれば、あらゆる集団は瓦解する。理由が唯一の基準を固定化するのであれば、あらゆる集団は壊死する。壊死と瓦解のいずれかに振れたとき、精神は存在しなくなるのだろう。

唯幻論というのも一つの幻想に過ぎないが、ともすると壊死に傾きがちな一真教の時代の精神にとっては、幻想の変化しやすさをもう少し気に留めておくのがよいという示唆にはなるだろう。

ところで、人間には、目で見て顔を認識するような、理由を必要としない判断機構も備わっている。その判断基準は、精神の判断基準に比べると変化が容易ではないように思う。この判断機構を身体と呼ぶとすると、身体の判断と精神の判断は互いに無関係ということはないと思うのだが、身体の判断基準の固定化度合いは、幻想に対してどのような影響をもたらすだろうか。身体と精神を抽象すれば、判断基準の変化しやすさによって区別されるハードウェアとソフトウェアとなるが、その閾値が曖昧であり得る限り、影響がないということはないだろう。

身体であり、精神であり、家族であり、国民であり、人類であり、動物であり、生命であり、…。身体の機械化や機械の精神化が現実味を帯びる時代においては、いろいろな速度でいろいろな方向に変化する複数の判断基準の重ね合わせとして存在していることについての幻想が、ますます必要とされていくように思う。

2018-03-09

KAJALLA#3働けど働けど

KAJALLA#3働けど働けどを観てきた。

6回目にして最前列での観劇となった。感激である。

端っこの席だったので、反対側が見えにくいのはあるが、モニタとスピーカの作り出す視聴覚空間とは違った臨場感がある。劇場という場に臨むと、客席にも舞台にも、そこに、人が、いる。この、「そこに、人が、いる」というのが「場に臨む感じ」なのだろう。

壊しては作り、壊しては作り、壊しては作り。自分で作ったものも、既に作られていたものも、受け継ぎながら更新していくその過程が、「働く」ことである。
壊されなければ、自分で壊せ
壊さなくなったら、作らなくなったら、それはもう死んだも同然である。

人が動いて人を動かす。ぢっと見た手が、その動的な過程を支えてきた。それは、この先いつまで続くだろうか。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
石川啄木「一握の砂」

2018-03-08

匂いのエロティシズム

鈴木隆「匂いのエロティシズム」を読んだ。

現代において、身体のセンサのうち、意識的な判断に与える影響が圧倒的に大きいのは視覚と聴覚であるが、この状態はどのくらい続いてきたのだろうか。

触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚は、概ねこの順に、時間や空間の距離による情報の減衰が小さくなり、前者ほど近接型、後者ほど遠隔型だと言える。遠隔型に注力したことは、センサから入力される大量の情報の一部だけを使うことによる判断の効率化とみなすこともでき、言語や道具の使用、あるいは理由付けと同じように、「単純化」という意識の条件の一つになり得る。

嗅覚も、ある程度の距離減衰には耐えられるが、視覚や聴覚には敵わず、嗅覚が鈍くなる中で、エロスやフェティッシュというフェロモンの代替物が生まれ、交尾はセックスへと変貌した。

単純化の過程で捨象された情報はノイズとなり、意識的な判断に上ることはない。それでもまだ、無意識的な判断には寄与しているかもしれないが、それに何かを期待するのも、意識的な判断に過ぎない。

単純化、抽象化、人間化、意識化、文明化。何と呼んでもよいが、そのような変化は未だに続いている最中であり、わずかに残っている嗅覚をも捨て去って、人類は視聴覚空間へと邁進しながら、性行動なしに繁殖する方法を編み出すことになる可能性もゼロではない。

抽象化の果ての時代において思い出に耽るとき、目はあの日を見ているだろうか。耳はあの日を聞いているだろうか。口は、鼻は、手は。

ことがらがことばに成り果ててしまう前に、いつかノイズになるかもしれない情報にまみれたコミュニケーションに耽るのもまた、一興である。
色即是臭、臭即是色、すなわち、エロスは匂いであり、匂いはエロスである
鈴木隆「匂いのエロティシズム」p.199

2018-03-07

内科と外科

医学medicineの語源は、med-(take appropriate measures)、つまり適切な措置を取ることである。

適切な措置は、傷病によって通常の状態からのズレが大きくなったことに対するものであり、元々の物理的身体が備えているホメオスタシスの拡張とみなすことができる。

医学の分類の仕方に内科と外科という区分があるが、その違いについて考えてみると、案外難しい。

病が内科で、傷が外科、とは限らないし、病と傷の区別も曖昧である。原因や対処が、化学的なのが内科で、物理学的なのが外科、というのは合っているのかも不明だし、今度は化学的と物理学的の違いが問題になる。

内科医の方がブログで取り上げていた
外科は診断が決まった後の技術が勝負だが、内科医は難しい診断をして、時には診断がつかずに治療をすることもある
内科医と外科医の違い〜内科医の頭の中では〜
という違いは、医学とはホメオスタシスの拡張であるという観点からは面白いと思う。ホメオスタシスには、基準からのズレを検知する機構と、ズレを解消する機構の両方が必要だが、医学では前者が診断、後者が治療に相当する。先の引用は、治療よりも診断の方が難易度が高いのが内科、その逆が外科、と言い換えられるだろう。

人体に限らず、あるシステムがホメオスタシスを備えるには、ズレの検知とズレの解消の両方が必要になる。検知の方は、ディープラーニングのような、理由を必要としない判断機構によるサポートが効果的で、解消の方は、エキスパートシステムのような、理由を必要とする判断機構によるサポートが効果的であるように思われる。

2018-03-02

大量複製

技術によって完全に複製されてしまうものにオリジナルとコピーの区別は存在しない。情報の大量複製であるマスコミュニケーションにおいて確保されるのは、受信チャンネルに対して送信チャンネルが圧倒的に少ないという送受信チャンネルの不均衡を利用することで得られる、擬似的なオリジナリティである。

送信チャンネルが拡充してきたことで、擬似的なオリジナリティはもはや確保することが難しくなってきているが、送信を独占してきたマスコミュニケーションの発信者は、どの媒体においても、かつての送受信の不均衡を何とか模倣しようと躍起になっている。果たしてどれだけ上手くいくだろうか。

送受信が均衡した情報伝達網においてオリジナルであり続けるためには、複製しきれないものになるしかない。

現時点での複製技術の精度は視覚と聴覚に偏っているため、複製の完全性から逃れる手っ取り早い方法は、それ以外の感覚に訴えることであるが、いずれ技術とのイタチごっこになるだろう。

結局、抽象された結果としての「もの」は、既に死んでいるために複製がしやすく、複製から逃れ続けるには、抽象する過程としての「こと」であり続ける他ない。そこでは、常に繰り返される死が、複製しがたい生をなしている。

マスコミュニケーションでは大量複製された「もの」が利用されてきたが、その死体の山が価値を維持できたのは、送受信の不均衡によってであった。送受信の不均衡が解消されつつある時代において著作権をもつオリジナルであらんとするには、自らのかつてのスナップショットである死体に鞭を打つのではなく、日々死を繰り返すことで生きるしかないのだろう。

2018-02-28

酒盛

酒を飲んでは言葉を交わし
歌を歌っては声を枯らし
そうして何年過ごしてきたか

日々の死が生をなすように
忘れ去られた瑣末なことが
この思い出をなしている

今日もまた飲んで歌って忘れよう
いつかもう死を重ねなくなった日に
忘れがたき日々を残すために

名付ける

數學とは、異なった事柄に同一の名稱を與える技術である
アンリ・ポアンカレ「科学と方法」p.37
受け取った情報の中に見出した類似性を、同じであるとみなすことが名付けであり、名付けることで、新たな同一性が誕生する。そこには、類似から同一への単純化がある。

名付けとは、割り算の除数を新たに設定することで商としての対象を生み出す、極めて数学的な過程である。

人間以外の動物は、あるいは人工知能は、名付けることができるだろうか。そもそも名付けを必要とするだろうか。

2018-02-27

勤労の美徳

過労死を放置するような使用者には、管理能力が足りていないか管理している認識がない可能性があるので、他人の仕事を管理する側にいない方がよいと思うが、管理を目指した結果が過労死するほどの労働時間をもたらすのだとすれば、それは全体として人間が働き過ぎなのだ。

勤労の美徳は、ときに虐殺器官となる。

読書時間

第53回学生生活実態調査の概要報告

読書時間0分の割合がこれだけ増えていると、何か有意な理由があるのではないかと想像してしまうのが人間というものだ。

コミュニケーションは、言語や常識、慣習など、「何を同じとみなすか」の判断基準に、暗黙のうちに支えられている。情報伝達網が変化すると、バランスを取るかのように、共有される判断基準も変化する。

送信チャンネルが限られている割に膨大な受信チャンネルが存在する情報伝達網においては、少数の判断基準によって編集された情報の大量複製としてのマスコミュニケーションが、判断基準の共有の権化であった。書籍、雑誌、新聞、テレビ、映画、ラジオは、いずれもが同じ情報を知っている多数の人間を生み出す装置だった。

受信チャンネルと同じだけの送信チャンネルが存在可能なように情報伝達網が変化した結果、同じ判断基準を共有するものだけで集まるという、マスコミュニケーション以外の判断基準の共有方法が誕生した。この共有方法は、送信と受信のチャンネル数の平衡が取れている情報伝達網では容易に行なえ、マスコミュニケーションより遥かに昔から存在しているが、物理的な実体に起因する制限が減ったのがこの数十年の成果だろう。

マスコミュニケーションの媒体は、いずれもがそれ自体娯楽のための媒体として存在し続けると思うが、それは数ある送信チャンネルの一つとしてである。送受信のバランスが再び崩れない限り、かつて謳歌したような青春は戻らないように思う。

2018-02-26

労働の裁量

裁量労働制やホワイトカラーエグゼンプションに関して疑問なのは、仕事の管理における労働者側と使用者側のバランスが変化することについて、双方がどのようなイメージをもっているのかだ。

個々の仕事にかける時間や手間や、結果の質、それに対する報酬などの管理にはコストがかかるし、技術と責任が必要になる。管理職の給与が高いのは、管理の対価であるはずだ。

管理が部分的にでも使用者側から労働者側に移れば、使用者側の管理コストが減る分、労働者側の報酬が増える代わりに、労働者側には経営能力と経営責任が求められることになる。

もちろんこれは一つの理想化した状況であるが、管理バランスの変化のイメージが抜けた議論にあまり意味があるように思えない。

思った通り

人工や技術は、「思った通り」を実現することだと思うが、それだけではつまらない。

思った通りにできるのはよいとしても、思った通りのものができるのであれば、もはややる必要がない。シミュレーションで十分だ。

局所的な再現性の高さと、大域的な再現性の低さが、「思った通り」からのズレを生み、芸術となるのだろう。

大域的には複雑な抽象過程も、局所的には単純な抽象過程で近似し得る。それは、曲線に接線を引くのと同じである。よりパラメタの少ない接空間tangent spaceで対象に触れるtangereことが理解することであり、あらゆる理解は多かれ少なかれ割り算による単純化を含んでいる。認識による把握もまた同じだ。

局所での単純化を大域に拡げることによって、芸術は技術へと堕する。その一方でまた、芸術が伝わるためには、接線を引けることが、つまりは微分可能であることが必要なのだろう。芸術の微分可能性は、技術に支えられている。

思うことによって得られるものもあれば、思うことによって失われるものもある。理由付けは、やってみてわかったことから逃れることと、やらなくてもわかることに逃れることの両方に開かれている。

構図

写真を撮るときには、ファインダーを覗く前、あるいはシャッターを切る前に、露出、焦点距離など、いろいろなものを想像するが、一番楽しいのは構図だ。

それは、今立っている視点とは別の判断基準の可能性を探る行為である。

2018-02-25

世界は上手くできている

世界は上手くできているという判断の基準は、その当の世界の情報を元にして形成されている。世界がどんなものであろうと、その情報を元に学習して形成された判断基準に従って判断する抽象機関にとっては、世界は上手くできていると感じられるのではないか。

判断基準とは、受け取った情報に対する判断の履歴が作り出す、判断の偏りのことである。それは、これまでもこれからも変化するものであるはずだが、変化は忘却されやすい。

これまでの変化の忘却は世界五分前仮説へ、これからの変化の忘却は決定論へと繋がる。

生者の前に死者がいたことが、
生者が後に死者になることが、
忘れ去られることのなきよう。

2018-02-23

赤目姫の潮解

森博嗣「赤目姫の潮解」を読んだ。

これは抽象についての話だ。
抽象的な話ではなく、
抽象についての話。
「認識」も「理解」も、
ある基準に沿った抽象であり、
その基準はいつも変化している。
今のままでよいというこだわりと、
今のままではだめだという憧れ
のなす固定化と発散の間で、
判断基準を変えながら
抽象し続けるのが、
更新される秩序
=生命である。
判断基準は、
慣習や常識、
宗教や科学など、
様々なものに縛られ、
判断基準の変化しづらさが
粘性を生み出すことによって、
個の集合はより大きな個となる。
その粘性に固執してしまうのが
凡才の凡才たる所以であり、
天才の天才たる所以は、
データを無にして、
いつでも胎児に
戻れるという
判断基準の
柔軟さ、
つまりは
無邪気さにある。
壊死と瓦解の間で、
除数を変えつつ
割り直せる。
そういう
存在に
わたしは
なりたい。
わたし
とは

2018-02-22

血か、死か、無か?

森博嗣「血か、死か、無か?」を読んだ。

細胞や国民が日々入れ替わっても、個人や国家は同じものとして認識され続ける。あるレイヤの個の同一性にとっては、それよりも低レイヤの個の同一性は問題にならないという特徴が、意識による抽象にはあるのだろう。

クローン、頭部を移植した存在、冷凍保存から蘇生した存在、直接会ったことのない存在、トランスファのように物理的身体をもたない存在。これらの同一性をもたらす基準はなんだろうか。それはつまり、こういった存在は、如何にして存在しなくなったことになるのかという問いと同じだろう。

ジュラ・スホ、マイカ・ジュク、サエバ・ミチル、マガタ・シキ。表面上の姿は変えつつも、100年単位で存続している存在を同一視することと、毎日顔を合わせている知り合いや自分自身を同一視することの間には、何か違うところがあるだろうか。

寿命がのびて、入力される情報が増えれば増えるほど、同一視の基準となる割り算の除数を大きくしなければいけないのかもしれない。いつでも除数を自在に設定し、駱駝にすらなれるのが、天才の天才たる所以だろう。

2018-02-21

同人と類人

同人誌はあるけど、類人誌はない。類人猿はいるけど、同人猿はいない。

類人猿をHominoideaだとすれば、同人猿はHomoだろうか。普通は人類と呼ばれるものだ。sameを意味する接頭辞のhomo-と、humanを意味する名詞のhomoの関係については不明だが、人間は自分自身と同じ存在を人間とみなすということは言えるかもしれない。

類人誌はどのくらいの趣味嗜好の幅をもてるだろうか。あるいはそれはいつまで同人誌にならずにいられるだろうか。

ὁμόςとὅμοιος。ホメオスタシスは、homeoであって、homoではない(対義語はヘテレオスタシス?)。如何にしてhomoに回収されずに、homeoに留まるか。

より多くのものを同じとみなそうとする抽象化への傾向が、常に存在する。大きい除数で割られた世界は、矮小化した分、把握しやすいのかもしれない。
人間たちは、観察する時間が短ければ短いだけ、それだけたがいに似てくるものだ――そのきわみには、瞬間的には彼らは区別がつかない。
(中略)
類似そのものが同一性にまで増大してしまうのは、彼らの情動の激しさに由来する
ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」p.142

2018-02-20

ニクソン・ショック

ドルが金との兌換を停止して久しいが、中央銀行によって金の「固さ」は埋め合わされ、瓦解するようなハイパーインフレは起きていない。既存の通貨との兌換を停止した暗号通貨が乱高下を免れるには、「固さ」を埋め合わせる仕組みが必要になるのだろう。金との兌換がもはや意識されないように、かつて「固さ」を担保していたものは、いずれ忘れられていくように思うが、次のものが現れない限りは、いつまでも残り続ける。

意識もまた、貨幣と同じように、慣習や神様、科学的真理など、人それぞれ、その時々に応じていろいろな「中央銀行」に支えられているが、そもそもの始めは、何かとの兌換によって形成されるのだろうと想像される。意識は、生まれつつあるときに「固さ」をもたらしてくれた何かのことを、親と呼ぶのだろう。

それぞれの個人にとってのニクソン・ショックは、いつ頃だっただろうか。あるいは、人類にとってはどうだっただろうか。いずれにとっても、それは徐々に起きるのだろうし、相対的なものなのだろう。

現在の通貨や意識よりも、よりvirtualな通貨や意識は、どちらが先に通用するだろうか。言葉の「固さ」に頼れる分、意識の方が先だろうという見方もできるかもしれない。

生物学的な親が不要になった時代には、日本語や英語のことを「親」と呼ぶようなこともあるだろうか。

2018-02-18

flesh

身体bodyは、抽象過程を意味する
An At a NOA 2016-11-18 “身体
抽象過程は、抽象前後のエントロピー差によって、内と外の区別を生み出す。

それと同時に生じる内と外の境界のことを、fleshと呼ぶのだろうか。

2018-02-15

じゃんけん

じゃんけんであいこにならないのは、出された手がちょうど2種類のときである。手の出し方は全部で3^n通りで、手がちょうど2つになる出し方は3×(2^n-2)通りなので、n人でじゃんけんすると、あいこになる確率は、Draw(n)=1-(2^n-2)/3^(n-1)になる。あいこにならない場合、出された手をすべて反対にすると勝ち負けがひっくり返るので、勝つ確率と負ける確率は同じで、Win(n)=Lose(n)=(2^(n-1)-1)/3^(n-1)だ。

n→∞でDraw(n)→1なので、人数が増えれば増えるほど、じゃんけんで決着がつかなくなる。「キュー」を加えるとしたら、あいこに勝敗をつけるようなルールを設定すると、目的が書きやすいと思う。

「キュー」を含まない手があいこなら「キュー」の勝ちで、あいこでないなら「キュー」以外で普通のじゃんけんとして勝敗をつけるというルールを考える。全員「キュー」ならあいこ、一人だけ「グ|チ|パ」ならその人の一人勝ちとする。

n人でじゃんけんしていて、n-m人が「キュー」を出すと、「キュー」の勝率は、Draw(m)=1-(2^m-2)/3^(m-1)、「グ|チ|パ」の勝率は、Win(m)=(2^(m-1)-1)/3^(m-1)だ。Draw(2)=1/3、Draw(3)=1/3、Draw(4)=13/27、…、Win(2)=1/3、Win(3)=1/3、Win(4)=7/27、…、のように、常にDraw(m)≧Win(m)で、mが大きくなるにつれて差はどんどん開いていくので、「グ|チ|パ」を出す人間が多いほど、「キュー」の勝率が高くなる。「グ|チ|パ」を出すのが有利になるのは、n人中n-1人が「キュー」を出して、自分一人だけが「グ|チ|パ」を出す一人勝ちの状況に限られる。「キュー」のあいこが続く中、抜け駆けしようとした人間同士が爆死するだろうと予想され、もはやじゃんけんよりも、たけのこニョッキに近い。

少しルールを変更し、「キュー」がいてあいこでない場合には、「キュー」以外の人間が全員勝つとしてみる。つまり、「キュー」がいてあいこでなかったとき、既に出ている手で勝敗をつけるのではなく、「キュー」以外の全員でもう一回じゃんけんをやって勝敗をつけるということだ。

この場合、「グ|チ|パ」の勝率が2倍になるので、n人中4人以下が「グ|チ|パ」なら、「グ|チ|パ」を出した方が勝率が高くなる。自分一人だけが「グ|チ|パ」でないと分が悪く、もはやたけのこニョッキと化すであろう元のルールに比べると、だいぶじゃんけんの面影が残っている。

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『じゃんQ』
  1. 「グー」「チョキ」「パー」「キュー」の四通りの手を出せる
  2. 「キュー」は人差し指と小指だけを立てた形状とする(9=0b1001)
  3. 「キュー」がない場合の勝敗はじゃんけんと同じとする
  4. 「キュー」がある場合、残りの手が一つだけなら、その手の勝ちとする
  5. 「キュー」がある場合、残りの手があいこなら「キュー」の勝ちとする
  6. 「キュー」がある場合、残りの手があいこでなければ「キュー」だけ負けとする
  7. 「キュー」だけの場合、あいことする

2018-02-13

専門知と公共性

藤垣裕子「専門知と公共性」を読んだ。

様々な意見がある中で妥当性境界を更新していく
査読システムは、科学者集団におけるIPUSモデル
そのものだと言える。
著者の言う科学的合理性というのは、科学者集団に
おける社会的合理性であり、科学的合理性と社会的
合理性という対比が適切なのかは疑問だ。

整理としてはむしろ、妥当性境界という判断基準を
形成するときの集団と、その判断基準に沿って行った
判断が影響する集団が異なることが問題である、
という方が適切なように思う。
専門家の判断が客観的であるとは限らないことが
問題なのではなく、客観的であることをよしとする
ことで、暗黙のうちに主観的な判断の責任から逃れて
いることが問題なはずだ。

マックス・ウェーバーの「プロ倫」をもじった
「The Public Ethic and the Spirit of Specialism」と
いう英題がいみじくも表しているように、Publicという
主体の判断に伴う責任の権化が専門家である。
専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、
医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する
責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団
ある集団が、その集団自身の社会的合理性をもとうと
思ったら、別の集団の社会的合理性を借用することは
できず、自分たちで形成し、維持しなければならない。
その社会的合理性に基づく判断にどのような責任が付随し、
どのように責任をとるのかということもまた同様である。
専門家という責任主体を抽出しない道を選ぶのであれば、
集団全体として責任を負う方法を模索する必要がある。

個人という単位でも、いろいろな考えがめぐる中で、
何らかの判断を下しながら、個人であることについて
多かれ少なかれ責任を負っている。
そこには個人という主観の合理性がある。
それと同じように、集団が集団自身に対して形成する
主観的合理性が、社会的合理性なのではないかと思う。