2018-04-11

資本主義リアリズム

マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」を読んだ。

資本という評価基準を、唯一かつ汎用なものにすることで、あらゆる秩序の更新過程を「消費consume」として抽象した資本主義は、その評価基準が当たり前のものとしてこびりつくことで、「この道しかない」ものになる。そのハードウェア化した資本主義が生み出すリアリティに対抗するには、リアルを暴き出す以外になく、著者は精神保健と官僚主義に着目する。

精神保険において、原因が政治的・社会的なものから化学的・生物的なものに変化していくように、責任を負い得る単位が個人へと収束していくと同時に、あらゆる仕組みが、官僚主義的に非人格化された構造として埋め込まれることで、原因となるべき「大いなる他者」には、ついぞ出会うことができない。

規律型から管理型へと移行し、脱中心化された社会では、もはや神も死んで久しく、「父親不在のパターナリズム」となっているにも関わらず、それでも「大いなる他者」という中心をみようとしてしまう。原因の追求を一点に集約するという、近代の一真教的な傾向を巧みに利用しつつ、その一点の先を雲散霧消することによって、抽象的な構造はますます強固なものとなり、資本主義リアリズムが強化される。
そこに中心はなくとも、私たちは中心を探さずにはいられないし、その存在を断定せずにはいられない。
マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」p.164
この中心を求める傾向は、一真教の後遺症だろうか。それとも、充足理由律という仮定に付随するものなのだろうか。もしこの傾向によって意識が互いを認識しているのだとしたら、意識と資本主義リアリズムは一蓮托生ということになる。

例えば、抽象的な構造を代表する中心としてAIを据えることで、表面上は構造を具体化できるかもしれないが、リアリズムへの陥りに対する有効な手段になるだろうか。

行為主体性を押し付ける対象が健康やAIなどになったとして、その状況がまた構造的に固定化してしまうのであれば、「新たな記憶をつくることができない」というリアリズムが何度も繰り返し到来するだけである。「ハーモニー」のような、主体性の解消という手段以外に、その状況を脱却する方法はあるだろうか。

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