2018-11-03

技術の完成

フリードリヒ・ゲオルク・ユンガー「技術の完成」を読んだ。

試行錯誤によって編み出された方法は、科学によって手法となり、技術によって道具になる。
An At a NOA 2017-02-10 “方法・手法・道具
職人から科学者を経て技術者へと至るこの一連の過程の中で、合理性を定める判断基準は次第に固定化していき、その到達点である技術においては、ある一つの判断基準に基づく複製の完全性を志向するようになる。あらゆるものの差異が消滅し、すべてが同じ判断基準に従うことによる「総動員」という技術の完成を。

単一の判断基準に基づく自動的な抽象は、既存のまとまりを解体しながら、その基準に基づく新たなまとまりを形成し続ける。既存の側からみれば、この過程は剥離という止めどなき破壊、歴史的なものを上回る大災害に映るだろうし、反対側からみれば創造に映るだろう。判断基準ごとに安全性の基準が異なるため、新たな技術に基づく安全性と既存の技術に基づく安全性への欲求の相違も顕になる。

技術が生まれる前、あるいは技術が生まれて間もない頃には、この秩序の更新過程はさしたる問題にはならず、むしろあらゆる生命を生命たらしめる過程ですらある。その段階においては、技術の先に待っていると期待されるものはユートピアと呼ばれるが、ただ一つの技術だけが優勢になることで、判断基準が完全に固定化し、唯一絶対のものとなってしまうと、あらゆるものが死んだ時間の中で正確に反復するものとして捉えられるようになり、それはディストピアと名指される他ない。すなわち、技術の完成とは、固定化の果ての壊死である。

生命が秩序の上に成立するのだと考えれば、あらゆる生命は少なからず秩序の形成を推し進める技術的な過程に負っている。F・G・ユンガーが失われると危惧している何ものかもまた、ある技術によってもたらされたものであるかもしれず、そのことに気付かないことこそは、その技術が完成しつつあることを裏付けているとも言える。

ある対象を作用物質という単位で捉えることと、リンゴという単位で捉えることの違いは、依拠する判断基準の差であり、後者を優位とするのは単に歴史的経緯によるものでしかない。しかし、仮に後者が物理的身体というハードウェアに依拠した技術であり、人間が物理的身体から逃れられないのであれば、その技術の完成を拒否するのは妥当なのだろうか。まさにこの歴史的経緯こそを頼りにすることで、人間というカテゴリが維持されているようにも思われる。

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