2018-03-27

科学

それが受け入れられるように人間が変わるのであれば、人間は近代からの脱却に成功したと言えるだろうし、そのときには意識ももはや不要になるだろう。
An At a NOA 2017-03-01 “予知
scienceの語源をたどると、*skei-(to split)に行き着く。

近代科学にとっての理解とは、より単純な、より細かいモデルへの切り分けである。無限に細分化することはできないため、ある段階でのモデルを公理として受け容れる他なく、それは端的に言えば信仰であるが、信仰せざるを得ない対象を可能な限り小さくし続けることが、理解という過程を通した近代科学の計画だったと言えるだろう。意識にとっての理解を目指す限り、科学はいつまでも近代科学であり続ける。

一方で、深層学習等によって、理由を介さずに生成された判断機構は、意識にとっての理解とは無関係に存在し得る。それは一種の自然である。自然を人工化することを諦め、自然を自然化することが当たり前になったとき、ようやく近代が終わる。科学の時代にも宗教が残ったように、新たな時代にも科学は残るだろうが、それは最早、意識にとっての気休めでしかないことが前提とされる科学である。

宗教、科学に続く、新たな時代にとっての理解の仕組みは、何と呼ばれるだろうか。無意識、意識に続く抽象過程を司る装置が、大脳新皮質のさらに外側を覆っているだろうか。無神論者に続いて、無真論者は現れているだろうか。

新たな時代の人間よ、
ゴーストは囁いてゐるか

2018-03-26

プラネタリウムの外側

早瀬耕「プラネタリウムの外側」を読んだ。

内と外は、
フレームで画される。
フレームを設定するのは、
世界への視点を定めるのと同じだ。
フレームを共有することで集団が成立し、
集団が共有することでフレームが維持される。

フレームは、
何度も作られ、壊される。
何重にも張られたフラクタルの、
いったいどこに、自分はいるのだろうか。

フレームの外は、
別のフレームの内になる。
同じフレームの内と外の関係すら、
本来不安定であっても何もおかしくない。

プラネタリウムを
内側から見上げるのと、
天球儀を外側から眺めるのとでは、
世界の見方はどのように違うだろうか。
プラネタリウムの外側や天球儀の内側に、
世界への異なる視点を想像できるだろうか。

問いのループへの収束を
突拍子もない判断で回避し、
特定のフレームを信じ込めるのが、
人間らしいということかもしれない。

2018-03-24

今更ながら、
声と言葉とは
違うものだなと。

声は、音楽と言葉の
あいだにあるというか。

声を出し、声を聴くことが好きだ。

ことば、否こゑのたゆたひ 惑ひゐる君がこころをわれは味わふ
河野裕子

2018-03-23

生命の内と外

永田和宏「生命の内と外」を読んだ。

内部と外部の折り合いのなかに生命はある
永田和宏「生命の内と外」p.220
内と外が分節されることは、
自己と非自己が分節されることであり、
内と外、自己と非自己は、同時に生まれる。

内と外のあいだでは、
閉じつつ開き、
変わりつつ変わらない
やり取りが繰り広げられる。
内へ内へと壊死することなく、
外へ外へと瓦解することなく。

そうだとすれば、
生きていると言うべきは、
内や自己というよりも、
内と外、自己と非自己のあいだの
関係の方なのかもしれない。

2018-03-22

単純化

人間ってさ 単純なものが好きだよね  すぐにわかるものだけに囲まれてたいというか  学問や宗教なんかも 複雑でよくわからないものを単純でわかりやすくモデル化するものでしょ

でも 単純なものだけだと飽きるんじゃないかな

そうか  単純なものというより 単純化するのが好き というのが近いのかも

単純化か  考えるっていうのは結局 単純なものになっちゃわないように 手を替え品を替え 単純化を繰り返すってことなのかもね  人間の頭は複雑なものを複雑なまま扱えるほど高性能じゃなくて 単純化が必要だったとか

あるいは 単純化に特化することが つまり高性能っていうことなんじゃない  単純が線形だとすれば 複雑っていうのは非線形ってことで 非線形のままでは理解できないものも 少しずつずらしながら線形化することで理解してしまえるっていう

そもそも 非線形を線形の貼り合わせにするってことが理解するってことなのかもね

なるほど  非線形っていうのはずばり 線形に非ず で 人間が飲み込めるほど線形なものまで解されてないってことか  でも 人間をこういうふうに捉えようとするのも
一種の単純化だよね

それはそうだよ 考えてるんだから  こうやってちょっとずつ見方を変えながら 新しくみえる単純化を探すのが人間なんだろう

芸術的だねぇ 人間は

芸術と技術4

芸術は、判断基準の変化をもたらすことで、技術から峻別される。

それはつまり、新しい世界の見方の中に、新しい世界の割り方の中に、芸術らしさが見出されるということだ。

何を芸術と感じるかは、現状の世界の見方がどのようなものであるかに影響を受ける。芸術であるとみなされたものも、それが普及してしまえば、技術となるだろう。技術であるとみなされたものも、別の場所、別の時代、別の集団にとって判断基準の変化をもたらすものであれば、芸術となるだろう。

伝えるためには技術的である必要がある一方で、芸術的であることによって伝わることもある。

通信可能性と応答可能性の狭間で揺れるコミュニケーションの中に芸術性が見出せるのであれば、コミュニケーションの内部の存在、あるいは芸術性を見出した外部の存在の各々が、何を同じとみなし、何を違うとみなしているかについて考えるのがよいように思う。

2018-03-21

簡潔データ構造

定兼邦彦「簡潔データ構造」を眺めた。

自由エネルギー原理に従って抽象機構を生成すると、簡潔データ構造になるだろうか。簡潔表現にはなるような気がするが、簡潔索引はどうだろう。

直観と思考の二つの抽象機構を比べると、直観が比較的固定化しているのに対し、思考は投機的短絡による判断基準の変化が生じるために、比較的発散しているから、直観の方が思考よりも簡潔表現に近い実装になっているはずだ。
簡潔表現は異なっていても簡潔索引は同じものが使える場合がある
定兼邦彦「簡潔データ構造」p.14
とすれば、思考でも変化するのは表現と索引のうちの表現だけで、索引は固定化しているということもあるのかもしれない。

聞き覚えについて考えたことを思い出す。
An At a NOA 2015-10-21 “サンプリング
An At a NOA 2016-01-26 “忘却の問1への回答
An At a NOA 2016-11-21 “記憶の走査

予測符号化

深層学習によって「蛇の回転錯視」の知覚再現に成功

予測符号化はショーペンハウアーの言う悟性にあたるものだろうか。つまり、因果性の認識とは、情報理論的自由エネルギーが最小になるように行われる予測生成モデルの更新のことだと言えるだろうか。

悟性による無意識的な期待が錯視を引き起こすという結果は、ショーペンハウアーが動物にも悟性はあるとしたことや、動物も錯視するという実験と整合している。

2018-03-19

渢=Ξ+Ω+Φ

エラーと淘汰と再生産

突然変異みたいなエラーがなくなったら 生物は進化しなくなると思うんだけど それって時間が止まるのと同じなんだろうか

生物は変化しなくなっても 環境が変化して適応の具合も変わるんであれば 違うんじゃない

でもさ 環境の変化もエラーだと思えば やっぱりエラーがないと時間は進まないんじゃないかな

なるほどね  じゃあエラー発生率が高くなるほど時間が速くなるとか  あーでも淘汰の速さも同じくらい速くならないとダメか  それに再生産の速さも上げないとすぐに絶滅しちゃうね

じゃあ淘汰と再生産も速くすればいいんじゃない

あ そうか  それを実際にやってるのが意識なのかもね  突拍子もない発想に理由を付けて それを共有する  エラーと淘汰と再生産の高速回転だ

それってどんどん時間がずれてくことにならないかな

そりゃずれてるんだろうね  ずれてなかったらここまで人間増えてないでしょ

2018-03-15

少女終末旅行

つくみず「少女終末旅行」を読んだ。

弐瓶勉「BLAME!」の影響を受けたというこの世界観は、とても好きだ。

かつての人工が半ば自然化し、多くの意味が漂白された状態でこそ、考えられることもあるように思う。それでいて、そんな時代でもお腹は空くし、お風呂は気持ちいいんだろうな、と。それは多分、精神と身体の、ソフトウェアとハードウェアの、ことばとことがらの違いだ。

車両も、銃も、本も、日記も。
理由付けられたものを何もかも失って、
視覚も聴覚も曖昧な中で感じた触覚の、
その確かさの後で確かめ合う。
生きるのは最高だったよね…
………うん
つくみず「少女終末旅行」6巻

あとがきの文も好きだ。
マクロすぎる視点は、あんまり人を幸せにしないのかもしれない。
実家の庭の柿の木の柿の手ざわりだけ感じながら生きたいです。
つくみず「少女終末旅行」4巻

二拍三連

タ     タ     タ     タ     
タ  ツ  タ  ツ  タ  ツ  タ  ツ  
タ ツ タ ツ タ ツ タ ツ タ ツ タ ツ 
タ   タ   タ   タ   タ   タ   

2018-03-14

ものぐさ精神分析

岸田秀「ものぐさ精神分析」を読んだ。

唯幻論はなかなか面白い。絶対的な判断基準は存在せず、すべては幻想に基づく。幻想と呼ばれるくらい基準の変化がたやすいと同時に、理由という仕組みによって、その変化しやすさを補いながら基準を共有するのが、精神という判断機構の特徴である。幻想がただ虚しく、変化しやすいだけであれば、あらゆる集団は瓦解する。理由が唯一の基準を固定化するのであれば、あらゆる集団は壊死する。壊死と瓦解のいずれかに振れたとき、精神は存在しなくなるのだろう。

唯幻論というのも一つの幻想に過ぎないが、ともすると壊死に傾きがちな一真教の時代の精神にとっては、幻想の変化しやすさをもう少し気に留めておくのがよいという示唆にはなるだろう。

ところで、人間には、目で見て顔を認識するような、理由を必要としない判断機構も備わっている。その判断基準は、精神の判断基準に比べると変化が容易ではないように思う。この判断機構を身体と呼ぶとすると、身体の判断と精神の判断は互いに無関係ということはないと思うのだが、身体の判断基準の固定化度合いは、幻想に対してどのような影響をもたらすだろうか。身体と精神を抽象すれば、判断基準の変化しやすさによって区別されるハードウェアとソフトウェアとなるが、その閾値が曖昧であり得る限り、影響がないということはないだろう。

身体であり、精神であり、家族であり、国民であり、人類であり、動物であり、生命であり、…。身体の機械化や機械の精神化が現実味を帯びる時代においては、いろいろな速度でいろいろな方向に変化する複数の判断基準の重ね合わせとして存在していることについての幻想が、ますます必要とされていくように思う。

2018-03-09

KAJALLA#3働けど働けど

KAJALLA#3働けど働けどを観てきた。

6回目にして最前列での観劇となった。感激である。

端っこの席だったので、反対側が見えにくいのはあるが、モニタとスピーカの作り出す視聴覚空間とは違った臨場感がある。劇場という場に臨むと、客席にも舞台にも、そこに、人が、いる。この、「そこに、人が、いる」というのが「場に臨む感じ」なのだろう。

壊しては作り、壊しては作り、壊しては作り。自分で作ったものも、既に作られていたものも、受け継ぎながら更新していくその過程が、「働く」ことである。
壊されなければ、自分で壊せ
壊さなくなったら、作らなくなったら、それはもう死んだも同然である。

人が動いて人を動かす。ぢっと見た手が、その動的な過程を支えてきた。それは、この先いつまで続くだろうか。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
石川啄木「一握の砂」

2018-03-08

匂いのエロティシズム

鈴木隆「匂いのエロティシズム」を読んだ。

現代において、身体のセンサのうち、意識的な判断に与える影響が圧倒的に大きいのは視覚と聴覚であるが、この状態はどのくらい続いてきたのだろうか。

触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚は、概ねこの順に、時間や空間の距離による情報の減衰が小さくなり、前者ほど近接型、後者ほど遠隔型だと言える。遠隔型に注力したことは、センサから入力される大量の情報の一部だけを使うことによる判断の効率化とみなすこともでき、言語や道具の使用、あるいは理由付けと同じように、「単純化」という意識の条件の一つになり得る。

嗅覚も、ある程度の距離減衰には耐えられるが、視覚や聴覚には敵わず、嗅覚が鈍くなる中で、エロスやフェティッシュというフェロモンの代替物が生まれ、交尾はセックスへと変貌した。

単純化の過程で捨象された情報はノイズとなり、意識的な判断に上ることはない。それでもまだ、無意識的な判断には寄与しているかもしれないが、それに何かを期待するのも、意識的な判断に過ぎない。

単純化、抽象化、人間化、意識化、文明化。何と呼んでもよいが、そのような変化は未だに続いている最中であり、わずかに残っている嗅覚をも捨て去って、人類は視聴覚空間へと邁進しながら、性行動なしに繁殖する方法を編み出すことになる可能性もゼロではない。

抽象化の果ての時代において思い出に耽るとき、目はあの日を見ているだろうか。耳はあの日を聞いているだろうか。口は、鼻は、手は。

ことがらがことばに成り果ててしまう前に、いつかノイズになるかもしれない情報にまみれたコミュニケーションに耽るのもまた、一興である。
色即是臭、臭即是色、すなわち、エロスは匂いであり、匂いはエロスである
鈴木隆「匂いのエロティシズム」p.199

2018-03-07

内科と外科

医学medicineの語源は、med-(take appropriate measures)、つまり適切な措置を取ることである。

適切な措置は、傷病によって通常の状態からのズレが大きくなったことに対するものであり、元々の物理的身体が備えているホメオスタシスの拡張とみなすことができる。

医学の分類の仕方に内科と外科という区分があるが、その違いについて考えてみると、案外難しい。

病が内科で、傷が外科、とは限らないし、病と傷の区別も曖昧である。原因や対処が、化学的なのが内科で、物理学的なのが外科、というのは合っているのかも不明だし、今度は化学的と物理学的の違いが問題になる。

内科医の方がブログで取り上げていた
外科は診断が決まった後の技術が勝負だが、内科医は難しい診断をして、時には診断がつかずに治療をすることもある
内科医と外科医の違い〜内科医の頭の中では〜
という違いは、医学とはホメオスタシスの拡張であるという観点からは面白いと思う。ホメオスタシスには、基準からのズレを検知する機構と、ズレを解消する機構の両方が必要だが、医学では前者が診断、後者が治療に相当する。先の引用は、治療よりも診断の方が難易度が高いのが内科、その逆が外科、と言い換えられるだろう。

人体に限らず、あるシステムがホメオスタシスを備えるには、ズレの検知とズレの解消の両方が必要になる。検知の方は、ディープラーニングのような、理由を必要としない判断機構によるサポートが効果的で、解消の方は、エキスパートシステムのような、理由を必要とする判断機構によるサポートが効果的であるように思われる。

2018-03-02

大量複製

技術によって完全に複製されてしまうものにオリジナルとコピーの区別は存在しない。情報の大量複製であるマスコミュニケーションにおいて確保されるのは、受信チャンネルに対して送信チャンネルが圧倒的に少ないという送受信チャンネルの不均衡を利用することで得られる、擬似的なオリジナリティである。

送信チャンネルが拡充してきたことで、擬似的なオリジナリティはもはや確保することが難しくなってきているが、送信を独占してきたマスコミュニケーションの発信者は、どの媒体においても、かつての送受信の不均衡を何とか模倣しようと躍起になっている。果たしてどれだけ上手くいくだろうか。

送受信が均衡した情報伝達網においてオリジナルであり続けるためには、複製しきれないものになるしかない。

現時点での複製技術の精度は視覚と聴覚に偏っているため、複製の完全性から逃れる手っ取り早い方法は、それ以外の感覚に訴えることであるが、いずれ技術とのイタチごっこになるだろう。

結局、抽象された結果としての「もの」は、既に死んでいるために複製がしやすく、複製から逃れ続けるには、抽象する過程としての「こと」であり続ける他ない。そこでは、常に繰り返される死が、複製しがたい生をなしている。

マスコミュニケーションでは大量複製された「もの」が利用されてきたが、その死体の山が価値を維持できたのは、送受信の不均衡によってであった。送受信の不均衡が解消されつつある時代において著作権をもつオリジナルであらんとするには、自らのかつてのスナップショットである死体に鞭を打つのではなく、日々死を繰り返すことで生きるしかないのだろう。