2017-01-31

科学と神

ノーバート・ウィーナー「科学と神」を読んだ。

全知全能の存在としての神には、宗教の思考様式が
最も表れており、それはある種の思考停止を伴う。
充足理由律の観点から言えば、あらゆることについての
理由として神を設定できるということであり、それは
不可避的に固定化をもたらすはずだ。

宗教への対比として、科学がホメオスタシス的な機能を
果たしうるということを述べている。
ホメオスタシスというものは、個体におけるものでも
種族におけるものでも、その基盤そのものを早かれ
おそかれ考えなおさねばならなくなるはたらきである。
ノーバート・ウィーナー「科学と神」p.89
執筆当時の東西が対立した世界を評して、
致命的なのは、それがどんな形の石頭だかということでは
なく、それが石頭であるということ自体である。
同p.90
というような状況では、ホメオスタシスは成立しないと
しており、石頭では科学もホメオスタシス的な機能を
果たせないということに触れているが、前後の章も考慮すると、
ウィーナーは機械という存在を石頭をもった判断機構として
描いているように読める。

原題は「GOD AND GOLEM, INC.」であり、
機械は、(中略)ゴーレムの近代的化身である。
同p.101
と述べていることを踏まえると、いずれもホメオスタシス的でない
固定化への警鐘としてGODとGOLEMを表題に挙げたのだろうから、
それを「科学と神」としてしまうのは不適切だと思われる。

機械の自己複製について、画像的pictorialな像と機能的operativeな
像の対比が出てくるが、後者として複製されるのはシミュレータ
だと言える(必ずしも前者がエミュレータだとは限らない)。
ある判断基準を設定すれば、ウィーナーが述べるような方法で
「完全な」シミュレータを複製することは可能だが、基準が変われば
その完全性は失われる。
結局、機械がホメオスタシス的なものになるためには、判断基準
としての基盤が移り変わることを前提にした複製をせざるを得ない
とも思われ、哲学者や生化学者の反発があるのもよくわかる。
しかし、エミュレータとして複製するしかないとしてしまうのは、
一種の怠惰なのではないかとも思う。

ウィーナーとしてはその変動的な部分は「機械ー人間混成系」を
つくることで補うのがよいとしているようだが、果たしてそうでない
選択肢はあり得るだろうか。
逆ベイズ理論に基づく判断機構が実装できて、投機的短絡をすることが
できれば、機械はホメオスタシス的になれるのかもしれない。
それともやはり、
そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊
An At a NOA 2017-01-09 “
にみえてしまうだろうか。
a hen is only an egg's way of making another egg.
Samuel Butler "Life and Habit"p.134
「鶏とは、卵が卵を産むための手段にすぎない」
サミュエル・バトラー「生活と習慣」
伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」p.294
鶏は人間か、機械か。

好奇心


好奇心と時間とお金は、長期的にみればこの順に枯渇するだろうし、この順に自分以外の力で補填することが難しいと思われるので、好奇心のあるうちは無理に時間とお金を節約しなくてもよいのだと自分に言い聞かせ、今日も本を買い、読書に耽るのである。

2017-01-29

ことばになったことがら

人間が視覚に支配されやすいのは、知覚の中で最もシンボル
への置き換えが進んでいるのが視覚だからだろうか。

対象はシンボル化されることで共有可能になり、
再現性を有するようになる。
例えば、コーヒーやピアノといったら、多くの人が
おおよその視覚入力を想像できるはずだ。
目に浮かぶというやつだ。
コーヒーの匂いやピアノの音も多くの人が想像できる
かもしれないが、コーヒーの音やピアノの匂いとなると
その知覚に集中したことがある人間以外には難しいだろう。
それらはまだことばとしてシンボル化されていないためだ。

ことばになったことがら」は、シンボルとして抽象される
ことで、同一な部分だけが残り、差分は棄てられてしまうため、
再現性の代償としてその対象への集中力を損なう。
処理能力の向上には向いているかもしれないが、すべてが
シンボル化された世界はある種のディストピアである。

2017-01-28

オルダス・ハクスリー「島」を読んだ。

「すばらしい新世界」でバーナードやヘルムホルツのための
抜け道となった島を、ハクスリーは「島」という作品で示した
とも言えるが、ラダーのセリフを借りれば、この「島」という
答えもまた、絶対的なものではないはずだ。
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「島」p.76
扉にもあり、作中でもたびたび現れるシヴァの
モチーフが、この作品をよく表していると思う。
wikipediaの言を借りれば、「不変絶対のブラフマンであり、
同時に世界の根源的なアートマン(自我、魂)である」、
「曖昧さとパラドックスの神などとも表現される」ような
存在であるシヴァの在り方は、固定化と発散の体現であり、
パラの究極の理想となっている。

パラでは抽象的物質主義よりも具体的物質主義がよしとされ、
さらにそれを具体的精神性まで変容させることを目指している。
「ことばとことがらのちがい」である。
過度なシンボル化が批判されていながら、「島」という一つの
小説として、一つのシンボルに落とし込まなければならない
ことの困難さは、相当なものだったと想像する。
それは、カーシャパにブッダへの答えを言語化させることと
同程度に酷であるはずだ。
「ただにこっとしただけ」とアミヤがつけたした。
「だからわかったということがブッダにもわかったの。
だからブッダもわらいかえして、ふたりでにこにこわらいながら、
ずっとにこにこしていたの」
同p.251
シンボル化なしには意識は存在しないが、シンボル化が
行き過ぎると無意識に対する意識の優位性は極端に
低下するようにも思われる。
クモはハエの罠をしかけずにはいられないし、人間は
シンボルをつくらずにはいられません。
同p.207
シンボル操作の才能の持主は、たえざるシンボル操作に
おちいりがちです。そしてたえざるシンボル操作が障害に
なって、ものごとを具体的に経験することや、無償の恩寵を
うけることができにくくなるからです
同p.215
シンボルについては
An At a NOA 2017-01-24 “教育の抽象化
An At a NOA 2017-01-25 “何かを抽象化する
An At a NOA 2017-01-25 “シンボライズとデジタイズ
などにも書いた。

ハクスリーは「すばらしい新世界」のソーマに代わって、
「島」ではモクシャ薬を登場させた。
ドクター・ロバートが言うには、「大文字の〈意識〉が、あなたの
小文字の意識のなかへ流れこむにまかされる」そうだが、
最終章でモクシャ薬を体験するウィルと、「ハーモニー」で
ヌァザの実験体となったミァハには違いがあるだろうか。
「島」も「ハーモニー」もとても仏教的な作品と言え、モクシャ薬や
ハーモニープログラムは無我や悟りの境地に通ずる。
それは、投機的短絡たる意識の投機性を、本物の投機へと昇華させる
ということなのかもしれない(あるいは、理由付けの投機性は、
既に何らかの到達の跡だと考えるのは、あまりにも意識を持ち上げすぎ
だろうか)。
わたしをしてわたしでないものが何をしているかを、
もっと意識的にならせること
同p.230
いつの日か意識が病気とみなされることで 、その理想は「正しい」
ものとして受け入れられるのかもしれないが、それを受け入れるのは
果たして何者なのだろうか。
どちらがいいのだろう―賢い社会に愚かに生まれるのと、
狂った社会に賢く生まれるのと?
同p.215 
意識のエゴイズムとしては、たとえこれらがある種の理想ではあるにせよ、
意識を存続させることに「正しさ」を見出すしかないのではないかと思う。
ハクスリーとしても、そういう意味でこのラストとしたのかもしれない。
「カルナ。カルナ」そして半音ひくく、「気づきなさい」
同.333

2017-01-25

1^2+2^2+3^2+4^2

=1/6×4×(4+1)×(2×4+1)=30
ということで30になった。
十進だと区切りがよく見えるが、
二進だと来年の0b11111とか、
再来年の0b100000の方が区切りがよい。

ふと去年のエントリィを見返してみると、
なんかまともっぽいことを書いているな
という感想を覚える。
この一年で一番変わったなと思うのは、
ベーシックインカムについて肯定的な
意見を見る機会が多くなった気がしていて、
労働はやはり減る方向に進むのかもなという
実感を覚えつつあるということだ。

問を立てることはとても楽しい。
今年も一年頑張ろうというよりは、
今年も一年楽しもうと言えるようでありたい。

シンボライズとデジタイズ

アナログとデジタルの違いって
解像度の違いのことでしょ?
An At a NOA 2015-07-15 “A/D
という、ものすごく言葉足らずな投稿をしていたが、
抽象度の差がアナログとデジタルの違いを生むのだと
すれば、案外的を射ているようにも思う。

アナログの方が抽象度が低く、デジタルの方が高い。
抽象した結果のために用意される容れものはsymbolであり、
日本語で言うと記号とか象徴とかシンボルである。
シンボルは、非常に少ないデータ量data sizeでより多くの
情報informationを伝えることに長けているが、
形骸化することでその性能は大幅に減ずる。
そういったシンボルによって、データを置き換えることが
アナログをデジタル化することであり、人間の抽象能力が
洗練されるに従って、世の中は必然的にデジタイズされて
いく運命にあるようにも思う。

VRは、シンボルのみによって現実を再構成しようとしている
ように感じられ、「なお圧倒的に無意味である」世界を、
そういったシンボルで埋め尽くせるということにして
しまうことが、外部抽象機関を強制的に挟まれるように
感じられてしまうことで、ある種の居心地の悪さのような
ものを感じるのかもしれない。

それはつまり、何かを抽象化することから逃れることも、
時には必要だということだ。

2017-01-24

openBD

openBDという書誌情報取得APIができたようだ。

https://api.openbd.jp/v1/get?isbn=415031019X&pretty
のようにISBNを指定すると、必要な書誌情報が
ほぼすべて手に入る。
書影の.jpgファイルのリンク先も取得できるのだが、
この画像はブログで借用してもよいのだろうか。

蔵書の管理に使えるかもしれん。

dataとinformation

An At a NOA 2016-10-07 “科学と文化をつなぐ
でも書いたが、情報という単語には少なくとも二つの
意味がある。

情報理論における意味での情報という語を使うことが
ほとんどで、その英訳としてinformationを用いてきた
ものの、dataとする方がよいかもしれないと思った。

in+formとあるように、informationは既にformを
もったものであるが、抽象される前の段階では
一切のかたちをもたないはずである。
dataという語を使うのはよいにしても、この単語を
データとしか訳せないのはどうにかならないだろうか。

p.s.
wikipediaの「情報」の項には、「情報」という語の
いろいろな使われ方が載っており、結構面白い。

整合性と歴史的経緯

「男性保育士に着替え業務をさせるな」は差別?千葉市長と議論

千葉市長の熊谷さんは、LGBTの件や今回の件でも
整合性が高い論理を展開するなと感じており、
個人的にはとても好感がもてる。

こういった問題は、人種差別と同じような経緯を経て、
次第に境界が薄れていくのかもしれない。
人種差別だって未だに陰に陽に行われているのかも
しれないが、帝国主義全盛期の頃に比べれば、かなり
なくなったと言えるだろう。

そこに投機的短絡を持ち込むことで、整合性を破綻させる
代わりに、とてつもなく短い時間スケールの中で判断および
変化するようになったのが、理由付けに基づく意識という
判断機構である。
An At a NOA 2016-12-02 “整合性の破綻
理由付けの代償として失われた整合性に代わり、歴史的経緯
という理屈が持ち出されることで、統計的差別が行われる。

余りに常識的であることは良識に反し、また余りに良識的で
あることは常識に反する。
三木清「哲学入門」
「常識」を「歴史的経緯」、「良識」を「整合的」と読み替えても
同じことが言える。
熊谷さんの話は決してすぐに万人に受け入れられるとは思えないし、
その答えだけが広まるのはかえって危険だと思うが、ゆっくりとでも
こういった問が広まればよいなとは思う。

何かを抽象化する

An At a NOA 2016-01-24 “教育の抽象化
で書いた話は、何も教育に限ったことではない。

例えば、読書というものを、文字や絵等として
符号化された情報を受け取る行為として抽象する
のであれば、紙の書籍だろうが、電子書籍だろうが、
あるいはオーディオブックのように聴覚として
受け取る形式でさえも、同一の行為になる。

それで十分だと思えるなら、読書をそのようなもの
として抽象すればよいし、紙の書籍でページをめくる
際の指の動きや、紙のにおいも含めて、より抽象度の
低いものとして読書するのであれば、それもそれでよい。
個人的には、抽象度の低い読書の方が好きだ。

本棚を整理すること、日々背表紙を眺めること、
読む前に表紙を一瞬目にすること、紙のにおいを
嗅ぐこと、ページを指でめくること、文字を目で
追うこと、頭のなかで声に出してみること。
多くの要素が読書の一部を形成することで、
符号化された情報の受け取り方にも影響すると
思っているというだけだ。

あるいは、喫茶というものを、カフェインの摂取として
抽象するのではなく、豆を買いに出掛け、毎朝手で挽き、
沸かした湯の温度を測り、加減よく注ぎ、豆が膨らむのを
見て、立ち上がる香りを嗅いで、ゆっくりと味わうことの
総体として、抽象度が低いままに遂行するという贅沢。

ある行為の結果を効率よく求めるのであれば、
可能な限り抽象化するのがよいと思われる。
しかし、答えよりも問を大事にしたいのと
同じ意味において、結果よりもその行為自体を
大事にしたいこともあり、そういうときには
抽象化をしないままのその行為に耽りたいのである。
それが趣味というものだ。

教育の抽象化

教育が言葉のみによって行えるとは到底思えないが、
教育の抽象化が進むに連れて、そのような側面が
強まっているようには感じる。

一人の人間が短期間に仕入れる(圧縮された)情報の
量があまりに多い場合には、それを言葉という
プロトコルで送信することで、通信量を可能な限り
減らす必要がある。
言葉の形式で圧縮しておけば、再現性も高レベルに
維持しておけるので、言葉やその内容、あるいは
通信媒体が劣化するまで、比較的長い期間、
メンテナンスが不要になるというメリットもある。

一方で、そういった圧縮された情報を、圧縮された
状態でしか受け取らないことにはリスクも存在する。
圧縮前の、伸長した状態の情報から、何をどのように
何故そのかたちで抽象したのかが伝達されなければ、
圧縮された情報は形骸化する。
さらに、それに慣れるということは、単一の評価基準を
受け入れやすくなるということであり、固定化に
収束する可能性を高め、それは扇動にもつながる。

体験学習のようなかたちで、視覚、触覚、聴覚などの
言葉以外の情報も同時に与える教育というのは重要
だと思うが、いかんせん時間的、金銭的なコストがかかる。
その上、伝達方法を工夫しないと、教育を受ける側で
何も抽象することができず、結局知識としては残らない
可能性もかなり高い。

学校教育は歴史も長く、既に教える側がその体系に
かなり依存した考え方をもっている。
言葉だけでは伝達困難な内容があることは承知しつつ、
抽象化した方が高速で安価で安易であるから、
時には抽象化していることすら忘れて教育に邁進する。
それは近代化の成果であり、近代化に不可欠なものだったが、
せっかくそれを駆使して機械の性能を上げてきたのだから、
ある領域は外部化することで、教育のスピードを落とし、
圧縮していない情報の伝達にコストを割り振るというのも、
一つの手なのではないかと思う。

身体という抽象機関は、抽象し続けることでメンテナンス
しないと容易に劣化するように思われ、抽象することに
慣れていない、あるいは抽象することを忘れている身体は、
問を省略して安易に答えを求める傾向にあると感じる。
心理的身体が劣化した個体の方が、集団として制御するには
抵抗が少なくて楽なのかもしれないが。

2017-01-23

細部のリアリティ

GRAVITY DAZE 2のPVがとても凝っていて面白かった。

本編を見たときに、人間以外はCGかもなと思ったら、
意外にもほとんどが実物のようだ。

紙のはためきみたいなものは、物理演算で再現するのが難しい。
伸びなし変形を厳密に計算するとなると結構面倒で、大量になるほど
演算量も膨大になる。
そういう細部ほど、映像にしたときにどうしても目についてしまい、
ものによって重力が反転していたりしていなかったりすることよりも
気になってしまうだろうから、CGだとコストパフォーマンスが悪すぎる
ために、実写でやるのがベターなのかもしれない。
ディテールが意味付けに耐えるようになることで、リアルさが生まれる。
An At a NOA 2016-09-09 “リアルさの再現
シミュレーションというのはそもそも、ある基準を設けて抽象する
ことであるから、ディテールは削ぎ落とされることが多い。
建築の構造解析であれば、実験のあらゆる境界条件を厳密に再現して、
実験とピッタリ同じ物理現象を再現することは重要ではなく、
着目した物理現象に関係する必要十分な情報だけを如何にして
抽象するかが腕の見せ所だ。

ディテールに凝ることは、場合によっては抽象度を下げることに繋がるため、
シミュレータというよりはエミュレータに近づくことになる。
ゲームのような映像作品ではどちらかというと物理エミュレータが
必要になってくるということなのだろう。
運動方程式に従う粗い弾性体のモデルに、深層学習で構築した細部の変形特性を
重ね合わせるような方式で、人間のセンサによるチェックにも耐え得るだけの
性能を備えつつ、コストの面でも実物に勝るような物理エミュレータが現れるのも、
そう遠くはないのかもしれない。

2017-01-22

正論

あらゆる数学の証明が、結論としては
自明な内容を導くのと同じ意味において、
あらゆる正論は、自明であるが故に、
積極的に状況を変えるものではない。

ただし、数学において命題が証明できることに
意味があるのと同じように、正論もそれを
述べることに意味があることも多い。

2017-01-19

吹き溜まり

抽象のイメージは吹き溜まりに近い。

落ち葉が風に吹かれてあちこちへと舞う。
ちょっとした障害物のために風の流れができ、
ある場所では落ち葉が舞いやすく、
また別の場所では落ち葉がとどまりやすい。
そうしてできた吹き溜まり。
そこに新しく舞い込んでくる落ち葉もあれば、
去っていく落ち葉も少なからずある。
落ち葉の去来とともに移り変わる吹き溜まりの
かたちに意味はないが、
無意味に耐えられない人間は、
誰かの営為としてみてしまう。

個々の落ち葉が情報だとすれば、
吹き溜まりは抽象され圧縮された情報であり、
つまりは過去という記憶だ。
そこに見出されたかたちがその意味であり、
かたちの変化とともに記憶も意味も変化する。
そして、吹き溜まりのまわりで風に吹かれて
舞っている、あるいは合流するのを今か今かと
待っている落ち葉、それが未来だ。

実在の抽象は空間の中でも時間の中でもない
領域で行われているはずだ。
その得体のしれない吹き溜まりを、吹き溜まり自身が
シミュレートすることで、空間や時間という構造を
浮かび上がらせている。

偶然か必然か

シミュレーションは決定論的だが、そのシミュレーションの結果と一致することをもって、実在が決定論に従うとすることには飛躍があるということを書いた。
An At a NOA 2017-01-18 “理由欲

実在は、偶然でも必然でもない在り方をしているはずだ。
「情報が存在している」という言及すら不正確さを含んでしまうような在り方で、端的に情報が在るようなイメージだ。
An At a NOA 2016-08-27 “ぼくらは都市を愛していた
と書いたように、情報が実在するという言い方すら既に誤解を含むが、その在り方は偶然でも偶発的でも決定論的でも必然的でもないはずだ。偶然と必然は、抽象する段階においてはじめて発生する性質である。

大人が必然だと感じていることも、この世界を抽象し始めたばかりの赤ちゃんにとっては偶然と感じられることも多いだろう。人間以外の動物では、センサ特性が異なることで、人間にとって偶然のことが必然だったり、その逆だったりすることもあるだろう。むしろ、赤ちゃんや他の動物には、偶然ということの意味すらわからないかもしれず、偶然と必然の区別は意味付けのレベルではわずかで、ほとんどが理由付けによって発生するのかもしれない。

何かをある理由でもってシミュレーションし、そのシミュレーションとの一致をもって実在を「理解」したことにする。そのシミュレーションに用いるモデル化が収束しているのであれば、理解された実在は必然だと感じられるし、発散あるいは振動しているのであれば、偶然だと感じられるだろう。

ある意味では、この種の「理解」可能か不可能かの判別不可能性をもって、実在を偶発的と形容することに不具合はないとも言えるが、「偶発的に在る」という理由で塗り固めるよりもむしろ、野矢茂樹のように「世界はなお圧倒的に無意味である」としたり、吉川浩満のように「理不尽である」としたりすることで、理由の連鎖で埋め尽くせない対象だと言っておくのが素直なように思われる。

2017-01-18

島というユートピア

「すばらしい新世界」の光文社版には、1946年の新版に
合わせてハクスリーが書いた前書きがついており、
他にも、植松靖夫による解説や年譜が充実している。

前書きの中でハクスリーは、出版から15年経った今
新しく書くのであれば、ジョンに第三の選択肢を
与えると述べている。
その第三の選択肢は、
理由の不在としての自然と一意的な理由の存在としての人工の狭間に 、
都合のいいニッチとして意識の居場所が設定できるだろうか。
An At a NOA 2017-01-18 “AIと理由
で触れた「都合のいいニッチ」に対応するだろうか。

いずれにせよ、ハクスリーは何かしらディストピアからの
抜け道を示す方向へ志向しているように感じられる。
それは、バーナードやヘルムホルツが島へ行くことにした
ことにも表れているし、晩年にまさしく「島」という題で
ユートピア小説を著していることにも対応していると思う。

ハヤカワの新訳版で、大森望は御冷ミァハをジョンの後継者と
呼んでいるが、無理を承知で対比すれば、ベータに所属するであろう
零下堂キアンや、バーナードやヘルムホルツになりたくて
ムスタファ・モンドに甘んじていた霧慧トァンを含め、この世の
すべてを道連れにして、ジョンである御冷ミァハが永遠のソーマの
休日を成就させたのが「ハーモニー」だと言えるだろう。

そこには、「すばらしい新世界」の島にあたる抜け道はない。
真実や美よりもしあわせを選んだ文明も、皆がWatchMeをつけた
生命主義社会も圧倒するほどの理由の一意性が成立した状態を描くことで、
伊藤計劃は究極のディストピア兼ユートピアを示したと思っているが、
果たしてハクスリーは「島」をどのように書いたのだろうか。

ということで、「島」の邦訳版を買ってみた。
「すばらしい新世界」以外の新訳も出してくれないだろうか。

理由欲

宇宙論ではよく始まりが問題になるが、それは単に
モデル化が破綻しているだけのように思われる。
しかし、どれだけモデル化が破綻していようとも、
始まりを設定することだけは、科学は避けなければ
いけないように思う。
それは、科学が宗教へと堕することを意味するからだ。

実在には、時間も空間もないだろう。
それらはすべて、抽象によって見出される構造だからだ。
しかし、人間の無意識や意識が実在に触れることができず、
シミュレーションの世界に生きているのかというと、
そんなふうに仮定する必要はないと思う。
むしろ物理的身体や心理的身体は常に実在に接しており、
そのセンサによって、センサ特性に応じてそれを抽象している。

宇宙の始まりにむかって、あるいは宇宙の終わりに向かって
考察ができるのは、モデルを設定することでシミュレーションが
可能になるからである。
宇宙に対応する実在は、宇宙論に従って決定論的に振舞っている
のではなく、観察によって得られる、抽象された実在の振る舞いと
シミュレーションの結果の一致をもって、モデル化の妥当性を
判断し、徐々にモデルが精緻になっているだけに過ぎない。
シミュレーションが定義的に決定論的に振る舞うことをもって、
実在も決定論的に振る舞うとすることには論理的飛躍がある。

観察できない領域についてのモデル化の詳細は、観察できた領域との
整合性によってしか決められないため、結局どのようなモデルを
飲み込むと決めるかにしかならない。
観察できる範囲を拡げるために、顕微鏡や望遠鏡等の外部センサの
性能は日進月歩でよくなっているが、その改良に終わりはない。
終わりの設定は、神の設定に等しいのだ。

改良が続いているという事実は、新しい理由の供給を促すので、
理由不足を補うのには十分だろう。
物理的身体にとっての睡眠欲や食欲と同じように、心理的身体に
とっての理由欲にも、一時的であれ何かしらが供給されていれば
身体の維持には困らないはずだ。

AIと理由


意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続
理由を気にすることをもって意識を特徴付けるのであれば、
理由を気にするアルゴリズムは意識と呼ばれるべきである。

しかし、最近書いたように、人間の意識が自らと同カテゴリと
みなせなければ、それは意識になることができない。
理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、
そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のように
みえるだろう。
(中略)
他の人間の意識を意識として受け入れられるのは、
単に自分と同じカテゴリとして判断しているからに過ぎない。
(中略)
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、
いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに
なると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “
その前には、とてつもなく大きな不気味の谷が口をあけているように思われる。

こういった機構は、AIが意識を獲得する過程というよりは、
むしろ人間の意識が理由付け回路を拡張する過程として
捉えるべきなのかもしれない。
つまり、世の中全般にありふれている、筋を通すというのと
同じように、受け手側の理由不足の解消でしかないのだ。

理由の不在が自然を特徴付けるのであれば、一意的な理由を供給することで
理由不足を解消するというのはすなわち、自然を人工にするということだ。
だから、理由で塗り固めていたはずのプログラムが深層学習によって
理由の連鎖から逃れてしまったことに対して、そのプログラム自身に
理由を提供させるというのは、人工知能を自然知能にしておかないための
適切な方法だと言える。
まあ、それを意識のエゴイズムと言ってしまえば、それまでであるが。

あらゆることに対して理由付けを行う意識は、その理由付けを一意的なものに
するのであれば、自然を人工に変換する装置だとみなせてしまう。
意識とは何かという問題に特定の回答を与えることは、意識を人工化すること
になるが、果たしてそれを望んでいるのだろうか。
理由付け回路としての意識は説明されることを嫌う。
それは、ある型枠に嵌められることで、過度に固定化
されることを避けたいためであろう。

…という説明すら、されるのを嫌うだろう。
An At a NOA 2016-11-25 “説明
理由の不在としての自然と一意的な理由の存在としての人工の狭間に 、
都合のいいニッチとして意識の居場所が設定できるだろうか。

2017-01-17

すばらしい新世界

オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」を読んだ。
光文社から出ている黒原敏行の訳を読んだことはあったが、
表紙に惹かれて大森望による新訳版を買ったので。

伊藤計劃「ハーモニー」、貴志祐介「新世界より」が好きなので、
当然というか、オリジナルとも呼べるこの本も大好きだ。
しかしそれは、安定のために支払うべき代価だ。
幸福か、芸術か。どちらかひとつを選ばなければならない。
オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」p.306
アルファだけの世界は、かならず不安定で悲惨なものになる。
同p.308
労働者のためだよ。
余分な余暇で彼らを悩ますのは、まったく残酷きわまりない。
同p.311
なんらかの理由で自意識と個性が強くなりすぎて、共同生活に
適応できない人たち。まともな生活に満足できない人たち、
独自の考えを持っている人たち。要するに、だれもがそれぞれ
個性を持つ人間ひとりひとりなんだ。
同p.315
しあわせをなんの疑問もなく受け容れるように条件づけされて
いない場合、しあわせは、真実よりもはるかに苛酷な主人になる
同p.315
社会という車輪を安定的にまわしつづけるのは、万人の幸福だ。
真実や美に、その力はない。そしてもちろん、大衆が権力を握ったとき、
問題になるのは真実と美ではなく、幸福だった。
同p.316
だから、哲学とは、人間がろくでもない根拠で信じていることに、
それとは別のろくでもない根拠を見つける学問だよ。
同p.325
アルファからイプシロンが共存する安定した文明を笑えないのと
同じ程度に、アルファだけを集めたキプロス島も笑えない。
かと言って、ニューメキシコ州の保護区にも戻れないだろう。
しかし、ハクスリーが「島」という抜け道を残したことで、ディストピア
小説でありながら、完全には絶望的になっていないように思える。
伊藤計劃による、意識という理由付けの強制停止というエンディングに比べれば。

バーナード・マルクス、
ヘルムホルツ・ワトスン、
ムスタファ・モンド、
ジョン。
真実としあわせを天秤にかけ、
真実を選んだ者、
しあわせを選んだ者、
あるいは天秤にかけることを許されなかった者。
この中で、最も理由を気にしているように見えるのが
ジョンであるということが、最大の皮肉だろう。

自分は、島に行くことを拒否したムスタファ・モンドであることに
耐えられるだろうか。
それからため息をついて、心の中でつぶやいた。
しあわせのことを考えずに済んだら、どんなに楽だろう!
同p.244
あるいは、島に行くことに耐えられるだろうか。
僕は不幸になる権利を要求する
同p.333

2017-01-16

装幀

「すばらしい新世界」の新訳が出たのだが、
装幀が「ハーモニー」の文庫版ととても似ており、
好感がもてる。
どちらも水戸部功の作品のようだ。

スカイ・クロラシリーズの文庫版も同じように
シンプルで、個人的にはこういうものが好きである。
(こちらは松田行正+相馬敬徳)

たぶん、シンプルな装幀が好きというよりも、シンプルな
装幀とマッチした内容の本が好きなのだろう。
「ハーモニー」もスカイ・クロラシリーズも、
一時期アニメ化とタイアップした装幀が並んでいたが、
あれにはあまり食指が動かなかった。
S&Mシリーズの新装幀は好きなのだが、金額の問題
よりも置き場所に困るので、おそらく買い直さないだろう。

ブックカバーは長いこと使っていない。
表紙が傷んでしまうのはしょうがないが、それよりも
今読んでいる本に対する一つの書評としての表紙を
見ていたいのだ。

生命、エネルギー、進化

ニック・レーン「生命、エネルギー、進化」を読んだ。

ベルクソンの哲学書もあれはあれでよいのだが、
問を立て、多くの可能性を提示し、可能なものは
検証した上で、検証に耐えるものをもって予測する
というスタイルは、とても科学的であり、個人的には
こちらの方が好きだ。

科学的というのはつまり、真理を仮定した上で
オッカムの剃刀を振り回すということになるが、
それがいわゆる真実であるかどうかよりも、
その理由付けの過程自体がとてつもなく面白い。
対象を抽象することでシミュレート可能になり、
空間的にも時間的にも隔たった対象についての
考察が可能になる。

抽象によってできる秩序がつまり生命だとすれば、
アルカリ熱水噴出孔の周囲における、エネルギーの
継続的な流れがつくる散逸構造が生命であるという
見方にも共感できる。
H2やCO2、岩石といった無機物から、天然のプロトン
勾配を有する膜を介して、HCOOHのような有機物ができる。
その地球化学的プロセスが、対向輸送体の誕生によって
生化学的プロセスへと分離され、細胞になる。
地球化学的、生化学的というのは便宜的な弁別に過ぎず、
「生命」という語の定義の難しさを表しているように思う。
しかし、そこには常に炭素やエネルギーの流れが伴っており、
静的平衡状態に至るまでに維持される、淀みのような
動的平衡状態としての秩序のことを、抽象された生命と
捉えるのがよいのかもしれない。

なぜ古細菌と細菌が異なるのか。
なぜ真核生物は古細菌を宿主として細菌が共生したものと
みなせるのか。
なぜ真核生物には、核、有性生殖、死といった共通の
特徴があり、古細菌や細菌にはないのか。
なぜ真核生物はこんなに大きくなれるのか。
なぜ性はふたつなのか。
なぜプログラム細胞死は起きるのか。

その他にも、たくさんのなぜが詰まっている。
高校生物程度の知識しかないので、詳細についての整合性は
わからないが、これらに対する理由付けが一つ一つ丁寧に
なされており、とてもスリリングだ。
先にも触れたように、この内容が真実であるかはあまり
重要ではなく、その科学的態度の誠実さがよいのだ。
むしろ、コンセンサスが得られている様を正しいと形容
するのであれば、誠実な科学的考察に基づく推論こそが
正しいと形容されるようになるべきだろう。

p.s.
本文の中で、著者はシュレーディンガーの「What is Life?」は
「What is Living?」であるべきだと述べているが、むしろ本書全体を
通して、WhatではなくWhyなのだということを大切にしているように
感じられる。
「Why is Life the Way it is?」という原題にもそのことが現れており、
問いかけの素朴さと論理展開の明快さがとてもよく集約されていると
感じるのだが、ここからWhyもthe Wayも抜いた邦題にしてしまうのは
どうかと思う。

2017-01-11

ハードネス

文科省が機密情報の伝達を紙で行うと発表した件で
時代錯誤という話が出ているが、ソフトウェアに
比べるとハードウェアのハードネスは依然圧倒的だと思う。

不特定のハードウェア上で再生可能な情報に比べれば、
特定のハードウェアのみに刻まれた情報の機密性は
格段に高い。
だからこそ、紙の本も物理的身体を備えた意識も
そうそうなくなりはしないのだろう。
攻殻機動隊SACの最終話、笑い男が図書館にいるシーンを
思い起こさせる話だ。

この件で笑えるとすれば、紙に落としこむ情報を作成する段階で、
一度ソフトウェアを経由するだろうことが容易に想像できる点である。

2017-01-09

山中伸弥×羽生善治「AIは"勘"を再現できるか」 人間らしさの本質に迫る

投機的短絡は、理由の連鎖により補強されることで
正当な正答になり、その過程が巧みに隠蔽されることで、
よい判断を思いついたとみなされる。
通常は投機的である短絡の投機性が、意味付けによって
特異的に低減されると、この理由付けが勘と呼ばれるのだと思う。
認知バイアスは、投機性が依然として高いときに、
この仕組みを暴露してくれているような気がする。

羽生さんのような将棋の達人が発達させた将棋用の意味付け回路は、
普通の人間には備わっていないため、その短絡は勘と呼ばれる
ようになる。
当事者もそれを勘と表現するが、投機性が異常に低いために、
ほぼ確信として感じられるはずだ。
人間の顔を人間の顔として視認できることは、普通は勘がいいとは
表現されないが、それは同じ意味付け回路を有する人間が多いためで
あって、皆でその凄さを忘れているだけに過ぎない。

機械に勘が備わらないとすれば、それは人間の意識が
それを許さないからだ。
要するに、自分のあずかり知らぬところで勝手に短絡して欲しくないし、
その理由を受け入れる筋合いもないという、エゴイズムのようなものだ。

理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、
そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のように
みえるだろう。
そして、AIはAIの方で、理由付けによって意識が実装され、
同じように人間の意識を、自己正当化を続けるバグの塊と
みなすのかもしれない。

他の人間の意識を意識として受け入れられるのは、
単に自分と同じカテゴリとして判断しているからに過ぎない。
それを受け入れなければ自らの意識の正当性が危うくなる。
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、
いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに
なると想像される。

ゆとり教育

ゆとり教育の理念は正しかった 文科省が目指す21世紀型教育とゆとり教育の類似性

「我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。」

上記は、その後「ゆとり教育」と呼ばれることになる教育について、1996年に中教審から出された答申のようだ。この内容自体はとても優れているし、「正しい」という言葉を避けるならば、「極めて妥当だ」と評価できる。

ゆとり教育の理想形は、灘で橋本武先生が行っていた「銀の匙」を使った授業のようなものだろう。問題設定が必ずしも一意的には定まらない対象に対して、基準を設定し、問を立て、理由を組み立て、相手に説明し、理解を得る。そして、設定した基準が絶対的なものでないことを知るからこそ、時には譲歩することで、コンセンサスとしての判断が下せるようになる。

結局、教師は教師で文科省や中教審に対して受け身にとどまり、保護者は保護者で学校に対して受け身にとどまったままでは、ゆとり教育の理念は達成しようがなかったというだけだ。次の世代の人間を、そういう人間ではなく、引用文に掲げたような人間に育てるために、真っ先に変わろうとしなければならなかった前の世代の人間が、案の定変われなかったことが最大の敗因だろう。

ある世代に新しい教育をすることの一番のネックは、その教育を受けなかった前の世代だ。21世紀型の人間に育てようとするのに、育てる側の人間が20世紀型のままでよいわけがない。教育なんていう行為が本当に存在するのかはわからないが、存在することを信じてそれを行うからには、せめて己も変われるようでありたい。

2017-01-08

役に立つ

「役に立つ」という評価を現状の評価基準をベースにして
下すのであれば、極めて短期的な視野になってしまう。

長期的な視野をもって「役に立つ」ものを探そうとすれば、
必ず評価基準の変化も見据えた発想が必要になる。
評価基準の変化を見込んだ「役に立つ」ものの最大の敵は、
極めて短期的な視野でもってそれを「役に立たない」と
評価する人間である。

2017-01-07

現実・同時・同地

同時性や同地性は、同じ情報を抽象しているという
感覚から生まれるのだろうか。

現実という言葉によってコンセンサスが得られていることを
確認するとき、それが同一の情報を抽象した結果得られた
ものであることも、現実感を強化する一因となると思われる。

simultaneousはsimul+timeから成っているが、simulは
simulationに通じる。
シミュレーションもまた抽象を基礎にしている。

リアルタイムというのは、同時性を有する現実として抽象できる
情報量の閾値のことを言うのだろうか。

2017-01-04

感覚への織り込み

「人間にしかできないこと」がなくなったとしても、
「人間がやるべきこと」はなかなか消滅しないように思われる。

それは、何かをしたことの受け手に人間が含まれる限り、
「人間がやった」という事実が情報として織り込まれることが
重要だとみなされるためである。

かつて、トルコ人という名のオートマタは、人間がやったものを
機械がやったふうにみせたが、それがばれるとやはり当時の人間は
がっかりしたのだろうと想像する。
それがいつの間にか機械が高性能になり、機械がやったものを
人間がやったふうにみせ、それがばれるとがっかりする時代になった。
トルコ人が流行った200年前から、目や耳等の知覚センサはほとんど
変化していないように思うが、感覚センサはだいぶ変化したということだ。
このスピード感が、物理的身体によらない心理的身体レベルでの
エラー導入の強力さである。

おそらく、VRの問題は、知覚ではなく感覚の問題である。
そういう意味では、近距離信仰の話やセックスの話も同根である。
VRやARをやるのであれば、デバイスの開発よりも、「現実」とは何か
という問題に、もう少し真剣に取り組む必要があるだろう。
無意味に耐えられない人間の特性を上手く利用すれば、
今の技術レベルでもいろいろな「現実」の在り方を探れるはずだ。

似姿

神はその似姿として人間を造ったとされるが、
意識が理由の塊であり、神が大いなる原因なのであれば、
むしろ意識がその似姿として神を造ったのである。

良識

良識とは、常識を疑う能力のことである、と言ったのは
誰だったか。
Who says good sense is the ability to doubt common sense?

常識と良識の関係もまた、固定化と発散のバランスを
表すものだろう。
余りに常識的であることは良識に反し、また余りに良識的
であることは常識に反する。
三木清「哲学入門」

2017-01-03

屍者の帝国、あるいは

年末に「屍者の帝国」の映画を観た。

原作とはかなり違う内容になっているが、そもそも原作も
伊藤計劃のプロローグを基に円城塔が書いたものなのだから、
それはそれでよいのかもしれない。
ただ、中途半端に円城塔のストーリィをなぞろうとした結果、
問題設定がよくわからなくなってしまっているのは、とても残念だ。
円城塔が費やした紙幅を縮めた上で同じ内容を表現するためには、
円城塔以上に円城塔の問題設定の抽象とその具象への落とし込みを
やる必要がある。
このことがうまくいっていたようには感じられなかった。
(その点、「ハーモニー」の映画は原作をほぼなぞれたので、
そのあたりの難しさは少なかったのかもしれない)

同じく年末に、「伊藤計劃記録」を手に入れ、「侵略する死者たち」
を読んだ。
我々が死者に安らかであれ、と願うのは何故だろうか。
それは死者が往々にして安らかではないからだ。
伊藤計劃「伊藤計劃記録」p.138 
この小論では「死者の帝国」という単語が何度も出てくるが、伊藤計劃は
何故「屍者の帝国」という題で新作を書き始めたのだろうか。

死者と屍者の違いについて、「屍者の帝国」を読んだときに
物理的身体が機能停止することで死者になるのに対し、
心理的身体が機能停止することで屍者が生まれ、その物理的身体は
至って健全である。
An At a NOA 2016-12-28 “屍者の帝国
と書いた。
伊藤計劃が書いた「屍者の帝国」のプロローグの中では、死人、死者、
屍者という単語が入り混じっているので、この違いはおそらく伊藤計劃
本人の意図するところとは違うだろう。
しかし、「死者が安らかでない」と言うことができるためには、死者の
心理的身体が生者の心理的身体の中で生き続ける必要があるように思われる。
生者の中に生き残っていた死者の心理的身体が機能しなくなることで
はじめて、死者は屍者という物になる。
屍者は物として扱われるため、安らかであるか否かが問題にならない。
屍者は死者と違って生者を「呪縛し、規定し、衝き動かす」こともなく、
むしろ労働力として生者を助ける存在として描かれる。
これらの点から考えても、死者と屍者の区別を意識して「屍者の帝国」を
描くのは、あり得る展開の一つのように思われる。

ハーモニープログラムが、生者の心理的身体を強制的に奪うことで、
「生者の帝国」を「屍者の帝国」へと変換するスイッチなのだとすれば、
「死者の帝国」を「屍者の帝国」へと変換する機構、あるいは、
「生者の帝国」を「死者の帝国」へと変換する機構として「屍者の帝国」を
描くことは可能だろうか。
前者の機構によって、生者は死者の呪縛から解放されるが、そのための
屍者技術はプロローグで描かれており、ワトソンをはじめとするこの世界の
生者たちは、既にこの状態にあるように感じられる。
そこで、前者の帰結として後者が実現される様を描くとすると、
生者は労働のアウトソーシングによって物理的身体を強制的に剥奪され、
心理的身体のみを有する「死者」として生き残る―。
ハードウェアなきソフトウェアの問題として面白そうではあるが、
労働からの撤退が心理的身体の喪失に至るというプロットよりも
楽観的なストーリィに思えてしまうのは、心理的身体としての私という
意識が生き残るためだろうか。

しかし、楽観している私よ。
貴様の在り様は物理的身体というハードウェアを有していたときとは
まるで違うということも十分にあり得るのだ。
ハードウェアを失った死者の心理的身体が、代替のハードウェアとして
生者を利用して生きながらえるのと同じように、「死者の帝国」における
心理的身体は、何かに寄生して生きながらえさせられる。
その「何か」は、屍者だろうか、あるいは、死者同士だろうか。
死者同士が互いにその心理的身体を生きながらえさせるのであれば、既に
ネットの海は「死者の帝国」の様相を帯び始めているようにも思われる。

2017-01-04追記
「屍者の帝国」の展開に伊藤計劃の影を追い求めること自体、
各人が死者としての伊藤計劃を生き続けさせていることの
証左である。
任意の屍者をして伊藤計劃たらしめるために、己が伊藤計劃の
死者を召喚してその屍者にインストールする作業。
その意味で、「屍者の帝国」の発展のために、生者は死者に
なるのかもしれない。

2017-01-02

意識に直接与えられたものについての試論

アンリ・ベルクソン「意識に直接与えられたものについての試論」
を読んだ。

ベルクソンが継起、持続、質等の単語で呼ぶものが理由付け、
同時性、延長、量等と呼ぶものが意味付けによって抽象される
対象にそれぞれ相当する。
より正確に言えば、理由付けの対象は、理由が付けられていない
状態において、あらゆる理由付けが行えるということが持続たる
所以であり、抽象された後には過去=記憶という延長として
残るのである。
この内的状態の外的顕現こそ、まさに自由行為と呼ばれるものであろう。
アンリ・ベルクソン「意識に直接与えられたものについての試論」p.185
内的状態は理由付けによって外的顕現へと切り出される。
併置ではなく浸透によって常に変化しつつある物理的身体や
心理的身体に対して、あらゆる理由付けをし得ること、
任意の物語として語れることが、自由ということだ。
われわれは自分がいかなる理由によって決断したのかを
知りたがるが、われわれは、自分が理由なしに決断した
ということ、それも、おそらくは一切の理由に反してさえ
決断したのだということに気づく。しかし、まさにそれこそ、
場合によっては最良の理由なのだ。
同p.189
内的状態を外的顕現へと切り出すための理由は、常識等の既存の
理由であってもよい。
しかし、一切の既存の理由によらず、判断の後からでも理由が
設定できること、むしろ判断自体が先行する理由をもたず、
投機的短絡であることが自由をもたらす。
理由が先行するというのは機械論的発想であり、あらゆる機械論は
理由の連鎖がユニークであると仮定することと同値である。
だから、理由の連鎖が組み上げられた後で、それを決定論的にみなす
ことは容易であるが、その連鎖を組み上げるまさにその開始点にこそ、
自由があるのである。

天文学者の話は、シミュレーションとエミュレーションの違いである。
シミュレーションでは、構造を抽象することで対象の延長的な性質のみを
考慮するおかげで、時間は単なる媒介変数として扱えるようになる。
一方、エミュレーションの場合には、具象のまま対象の持続的な性質を
考慮したい場合が多く、時間は空間のように等質なものではなくなる。
あらゆる過去が、理由付けを経て圧縮されているためにシミュレーションの
対象となるのに対し、未来については、対象の延長的な性質を語る場合に
限ってシミュレーション可能であり、持続的な性質が関わる場合には
エミュレーションによるしかない。
それはつまり、直接経験するということに他ならない。
想起される過去や力学モデルとして抽象した未来が、実時間よりも遥かに
高速に再生できるのは、それらが抽象によって圧縮されることで、
シミュレーション可能になっているからである。
実際、天文学的予見と同一視されるべきは、まさに過去の意識的事象
であって、将来の意識的事象の先取的認識ではない。
同p.218
因果律もまた、抽象によって生じるのだから、それはシミュレーションの
世界にしか適用できない。
つまり、物理法則や過去の記憶といった対象である。
それをエミュレーションの世界に持ち込むことで、その因果律が想定する
抽象が理由の連鎖のユニークネスの仮定につながり、 決定論へと収束する。

過去、現在、未来というのは、ある数直線上にこの順で置かれた同じ種類の
何かではない。
ベルクソンの言う持続とは、情報を抽象する過程であり、特徴抽出としての
意味付けと投機的短絡としての理由付けがある。
過去とは、抽象機関が抽象する度に、その抽象内容に応じて変化させつつある
抽象機関の性質自体のことであり、記憶と呼んでもよい。
未来とは、未だ抽象されていない情報のことである。
未来は過去を利用することでシミュレーション可能だが、シミュレーションは
必ず何らかの抽象を伴うため、失われる情報がある。
その損失は、「未来を用いてシミュレートされた過去simulated past」と
「来たるべきエミュレートされた過去emulated past」の間に齟齬をもたらす。
それは、理由の連鎖がユニークでないことの現れである。
現在とは、それこそ、流れる時間というモデル化とともに現れる、
「機械論的な説明の物質化された残滓(p.165)」に他ならない。

シミュレーションのみの世界は「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界と
同じである。
そこではすべての抽象が不変であり、決定論的に振る舞う以外にないため、
自意識も自由もなくなり、時間は媒介変数になるだろう。
エミュレーションのみの世界は悩み多き世界であり、宗教や科学を手に入れる以前の
「動物的」段階への回帰である。
そこでは、過去=記憶が存在せず、やはり自意識はなくなるだろう。

人間はシミュレーションの領域を少しずつ増やしながら、エミュレーションと
上手く両立させてきた。
ベルクソンが、「自由とは何か」という問を「時間は空間によって十全に
表されうるか」と換言した上で、
流れ去った時間については諾だが、流れつつある時間については否である、と。
同p.241
とするのも、その両立を表す。

本当の来たるべき過去を知るには、エミュレーションによるしかない。
そこに、自由の自由たる所以が現れており、エミュレーションの中で行われる
短絡の投機性を自由と呼ぶのだろう。
There is no knowing about the Coming Past other than emulating it.
It represents the attribute of free will, and speculativeness of short circuit
during the emulation is called as free will.

2017-01-01

#c83200


鳥と富士で「酉」。
デザインに赤を入れるときには、
#c83200(R=200,G=50,B=0)をよく使う。
今年は例年と違い、旧年中にデザインが決まった。