2018-11-30

対称性バイアス

対称性とは、非自明な自己同型nontrivial automorphismを有することである。

非自明な自己同型が多いほど、わずかな手がかりから総体を構成することができるので、プロセッサの処理能力が低い場合には多くの対称性が埋め込まれざるを得ないし、プロセッサの処理能力が高い場合でも、高い対称性を仮定したモデルから始めて、次第に対称性を減らしていくのが、戦略的には妥当だ。

つまり、対称性バイアスは、次第に強まるのではなく、次第に弱まるのではないかということだ。対称性の破れである。

修正されながら更新され続ける総体が、実際の全体にどの程度一致しているかは、究極的には知る術はなく、長い期間をかけてチューニングされた総体をもって、実際の全体だとするしかないように思う。それが身体への信であり、構成された総体のことを、現実と呼んでいるのである。

2018-11-28

dataとinformationの相対性

dataはformを与えられることでinformationになる。このdataからinformationへの抽象過程は、解釈と呼ぶことができる。

dataとinformationの区別は、解釈の前後関係によって相対的に生じるものであり、元のdataから抽象されたinformationが、次のinformationにとってのdataとなることもあれば、元のdata自体が既にある解釈を経たinformationであることもある。

絶対的に解釈を経ていないdataが存在するようにみえるとすれば、それは生まれ持った身体という感覚器sensory systemに由来するのだと思われる。data=dare(to give)であるから、所与の大元である感覚器まで遡ると、そこには絶対的な所与があるように想定されるのだろう。眼鏡、顕微鏡、望遠鏡、補聴器、箸、スマホ。感覚器とともに絶対的にみえる所与も増えていき、環世界は拡がっていく。

dataは所与、informationは情報と訳し分けるのがよいかもしれない。

2018-11-26

眼がスクリーンになるとき

福尾匠「眼がスクリーンになるとき」を読んだ。

無限集合から有限集合をつくり出す方法は2つある。ひとつは、有限個の要素だけを選び出して部分集合をつくる減算モデル。もうひとつは、整数の集合Zを、7を法として合同とみなす同値関係によって7つの同値類に分割するのと同じように、商集合をつくる除算モデル。

減算が「何をよいとみなすか」の判断基準に基づく濾過であるのに対し、除算は「何を同じとみなすか」の判断基準に基づく同一視である。

観念論と実在論の両極を拒否するベルクソンには同意できるが、その間において、無限の情報dataである全体から、有限の情報informationである総体を抽出する知覚や理解といった抽象過程は、減算ではなく除算とみなした方がすっきりとして、ベルクソンもドゥルーズもメイヤスーも、抽象を除算ではなく減算としてモデル化するから無理が生じるのではないかと思う。商対象と部分対象は双対であるから、結局は除算と減算のどちらでモデル化してもよいのだろうが、ある宇宙で考えると簡単なことも、別の宇宙で考えると複雑になるという事態はあるはずだ。

「何を同じとみなすか」の判断基準に相当する、商環をつくる際のイデアル、あるいは商対象をつくる際の余等化子を固定化してしまえば、生成される総体も固定化され、そこに重なり合うように想定される全体も、固定化したものとして捉えられてしまう。これは適用主義が犯すのと同じ過ちだ。

ドゥルーズの言う「見たまま」や「素朴さ」、あるいは「眼がスクリーンになる」というのは、イデアルや余等化子という判断基準を固定化せず、いつでも除数を変えながら世界を割り直すことで、更新される秩序である生命を、壊死と瓦解の間に留めるということであるように思う。

自在に除数を変えながら、
世界を別のしかたで割り直す。
ときにはゆっくりと。
ときには急激に。
その除数の変化の緩急が、
身体というハードウェアと、
思考というソフトウェアの差となる。
瓦解を免れるために身体を欲する一方で、
壊死を免れるために思考を欲する。
これは、究極的には天才の所業である。

「シネマ」は、壊死させられかけていた映画に対する、ドゥルーズなりの救命措置だったのかもしれない。

専門家と機械学習

社会を構成する個体のうち、特定少数のものだけを使ってネットワークを構成し、高速かつ高効率な学習を通して判断基準を最適化する。この「効率的な通信網の構築による判断基準の高速な最適化」というのがつまり専門分化であり、そこに参画した個体は専門家と呼ばれる。

専門家集団による知識の醸成過程は、抽象的にはニューラルネットワークを用いて行う機械学習と同じであり、専門知識や専門用語といったものは、この過程を通じて抽出される特徴量のことである。

専門家以外の個体に対しては、特徴量の抽出過程をブラックボックスとしたまま、特徴量を用いて下される判断だけを共有することが、これまでは一般的であったが、社会に余裕が生じるにつれて、速度や効率を犠牲にしてでも、ブラックボックスを開こうとする傾向が現れてきている。この開示請求は、専門家の説明責任という面が強調されることも多いが、要点は専門家と専門家以外の個体間での特徴量抽出過程の共有にあるのだから、双方の変化が要求されるはずだ。

囲碁や将棋では既に始まっているように、専門家集団のノードを人間が担う必然性は段々と減っていく。それを人間に任せておくこと自体をアトラクションとしない限り、置き換えはどんどん進んでいくだろう。

コヒーレントな社会

ボース=アインシュタイン凝縮した超流体のようにコヒーレントな状態に相転移した社会は、遠くから眺められた場合にはユートピアと呼ばれ、近くから眺められた場合にはディストピアと呼ばれる。

人間の意識は、ボース=アインシュタイン統計に従うだろうか、フェルミ=ディラック統計に従うだろうか。

2018-11-24

受け売り

受け売りでない知識は、最初のうちは妄言と見分けがつかない。

あらゆる情報は、受け売られていくうちに、少しずつ知識と呼ばれるようになっていくのだ。

消化

消化digest=dis(apart)+gerere(carry)とは、消費consumeの別名である。

更新される秩序としての生命は、自らの秩序を更新し続けるために何らかの意味での消費者であり続けるが、消化能力は秩序の更新能力の一部であり、吸収能力や代謝能力と合わせて、生命としての活性度のよい指標になる。

老化とは、消化、吸収、代謝の各能力の衰えであり、肉体的な老化は食品の、精神的な老化は概念の摂取を困難にする。

別の側面では、精神的な消化能力が足りないために、食品の摂取に障害が出ることもある。あまりにも元の生物のかたちを維持したままの食品には、元の秩序の情報informationが残り過ぎているために、精神的な消化が困難であり、摂取するのがためらわれる。

元の秩序を予め解消し、肉体と精神の両面において、消化のハードルを下げる過程が調理cookである。「文明的な」社会ほど、調理による秩序の解消が大々的であり、肉体的にも精神的にも消化能力の衰えた人間が多いように観察される。

emptyとvacant

emptyはアナログな値が0の状態、vacantはデジタルな値が0の状態、というのが個人的なイメージだ。

日本語で言うと、empty=空(から)、vacant=空き(あき)、だろうか。

2018-11-23

こだわりをもたないというこだわり

判断基準の固定化を避けるという意味では、何事にもあまりこだわらないのがよいように思うが、その態度が行き過ぎるのはよいのだろうか。つまり、「こだわりをもたないというこだわり」もまたこだわりだろうか。

これはツェルメロ=ラッセルのパラドックスであるから、抽象度が一階上のものを混ぜこぜにしなければパラドックスは生じないという単純型理論風の回避方法が使える。

あ段

あかさたなはまやらわ
あらたなまはさわやか
新たな間は爽やか

2018-11-20

対称性

レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル「対称性」を読んだ。

あらゆる保存則の問題を対称性の問題に置き換えたネーターの定理は、革命的と形容するにふさわしい。本書はそんなネーターの定理への敬意に溢れている。

変換に対する系の不変性によって対称性を定義するのであれば、対称性=保存則を見出すのはイデアルによって商環をつくるのと同じである。自然それ自体が対称性をもっているというよりも、認識や理解によって把握するということと対称性とは表裏一体であり、「何かを把握すること」と「何かが対称性をもつこと」には見分けがつかないということ
なのではないかと思う。

何かを把握しているにも関わらず、その把握にどんな対称性が埋め込まれているかに無自覚だった人類は、ネーターの定理によって気付かされた。統一理論の探求は、そんな自己反省の旅なのだろう。

2018-11-15

まなざしの装置

平芳裕子「まなざしの装置」を読んだ。

様々なメディアを介して自動的に志向される複製の完全性が、正統なものAuthenticity=auto+accomplishを彫琢する過程は、技術の完成に取り憑かれた近代特有の現象だ。

ファッションもまた同じ過程を辿り、ファッション・プレート、パターン、ショーウィンドウ、ファッション展などを介して、「飾る女性」、「縫う女性」、「模る女性」、「巡る女性」というイデアル=理想の下、現実が理想の複製となるようにイメージが反復されてきた。理想に追随するように現実が更新されていくこの過程が、モードと呼ばれるものだろう。

ファッションはなぜ女性のものと見なされるのかという問いを起点に、近代アメリカを中心として組み立てられる本書のストーリィ自体もまた、近代科学の作法に則った論文構成や論理展開の上に成り立っており、何もかもを単一のイデアルの下に飲み込んでしまえる近代というシステムの無慈悲なまでの強力さをひしひしと感じる。

2018-11-12

自己嫌悪

整合した体系は、不整合なものよりも理解しやすい。

むしろ、不整合だらけの現実から切り出した、幾分整合的なサブセットを全体に重ね合わせようとする過程のことを、意識による理解と呼ぶべきだろう。

整合的なサブセットとはつまりイデアル=理想であり、整合性の判断基準に応じて様々な理想が立ち上がる。

あるイデアルを固定化して、現実を理想に合わせるフィードバック回路を形成することは可能だろうか(これはつまり、商環をつくることと同じか)。意識が自身についてそれに失敗し続ける過程は、自己嫌悪と呼ばれる。

2018-11-07

やばい

「やばい」は「普通」からずれている様を意味し、何が「普通」であるかのコンテクストに応じて、その都度意味が変わる。個別の対象と普通の対象の排他的論理和のようなイメージだ。

コンテクストチェックを省略した「やばい」によるコミュニケーションが高速で便利なのは確かだが、コミュニケーション不全を回避するには、文脈が共有できていないことを想定し、別の言葉に置換することも必要になる。何でもかんでも「やばい」と形容することに反発があるのは、この辺りが関係しているように思う。つまりは、急激な文脈変化についていけないことの現れである。

コンテクストに応じて意味が変わる語といえば、指示代名詞もそうである。「やばい」は、暗黙の指示を内蔵した指示形容詞だとみなせるかもしれない。

自分の文脈を固定化したい人間ほど、指示形容詞「やばい」の濫用に頑なに反発する一方で、己は指示代名詞「あれ」に頼りがちという傾向はあるだろうか。

帽子は何色?

Cは残り二人の帽子の色を見なくても自分の色がわかるのでは。

A「……わかりません」
→B赤C赤、B赤C白、B白C赤のいずれか
B「……わかりません」
→B赤C白の可能性が消え、Cは赤しかない

2018-11-03

技術の完成

フリードリヒ・ゲオルク・ユンガー「技術の完成」を読んだ。

試行錯誤によって編み出された方法は、科学によって手法となり、技術によって道具になる。
An At a NOA 2017-02-10 “方法・手法・道具
職人から科学者を経て技術者へと至るこの一連の過程の中で、合理性を定める判断基準は次第に固定化していき、その到達点である技術においては、ある一つの判断基準に基づく複製の完全性を志向するようになる。あらゆるものの差異が消滅し、すべてが同じ判断基準に従うことによる「総動員」という技術の完成を。

単一の判断基準に基づく自動的な抽象は、既存のまとまりを解体しながら、その基準に基づく新たなまとまりを形成し続ける。既存の側からみれば、この過程は剥離という止めどなき破壊、歴史的なものを上回る大災害に映るだろうし、反対側からみれば創造に映るだろう。判断基準ごとに安全性の基準が異なるため、新たな技術に基づく安全性と既存の技術に基づく安全性への欲求の相違も顕になる。

技術が生まれる前、あるいは技術が生まれて間もない頃には、この秩序の更新過程はさしたる問題にはならず、むしろあらゆる生命を生命たらしめる過程ですらある。その段階においては、技術の先に待っていると期待されるものはユートピアと呼ばれるが、ただ一つの技術だけが優勢になることで、判断基準が完全に固定化し、唯一絶対のものとなってしまうと、あらゆるものが死んだ時間の中で正確に反復するものとして捉えられるようになり、それはディストピアと名指される他ない。すなわち、技術の完成とは、固定化の果ての壊死である。

生命が秩序の上に成立するのだと考えれば、あらゆる生命は少なからず秩序の形成を推し進める技術的な過程に負っている。F・G・ユンガーが失われると危惧している何ものかもまた、ある技術によってもたらされたものであるかもしれず、そのことに気付かないことこそは、その技術が完成しつつあることを裏付けているとも言える。

ある対象を作用物質という単位で捉えることと、リンゴという単位で捉えることの違いは、依拠する判断基準の差であり、後者を優位とするのは単に歴史的経緯によるものでしかない。しかし、仮に後者が物理的身体というハードウェアに依拠した技術であり、人間が物理的身体から逃れられないのであれば、その技術の完成を拒否するのは妥当なのだろうか。まさにこの歴史的経緯こそを頼りにすることで、人間というカテゴリが維持されているようにも思われる。

2018-11-01

U.S.A.

今更ながらDA PUMPの「U.S.A.」を聴いて感心している。

1990年代。アメリカはバリバリに世界の警察官をやっていて、音楽はCDという形態で爆発的に売れていた。ソ連の崩壊、湾岸戦争、オスロ合意、EUの誕生、WWWの誕生、Windows95発売。20世紀の後片付けがドタバタで進められる裏で、21世紀の準備が着々と進んでいた。インターネットはまだまだ縁遠い世界だった。

そんな時代を取り戻そうする大統領がいる時代に、そんな時代に書かれた曲を、そんな時代に生まれた歌手が、そんな時代のJ-POPを席巻したAvex調のアレンジで歌ったものが、音楽パッケージメディアを殺したインターネットの上でバズりながら、巻き込まれているほとんどの人に批評的な素振りがみられない。

多くのことが変わってしまったと思っていたところに現れた、ちょっとしたものだけど身体に染み付いた思い出。久々に実家に帰ったときに開けた引き出しの奥から出てきた、初代ゲームボーイのずっしりとした重みのような。単に懐かしいだけでなく、ある種の安堵感に溢れている。とても喜劇的だ。

q~b(゚∀゚)カモンベイビーアメリカ