2018-03-02

大量複製

技術によって完全に複製されてしまうものにオリジナルとコピーの区別は存在しない。情報の大量複製であるマスコミュニケーションにおいて確保されるのは、受信チャンネルに対して送信チャンネルが圧倒的に少ないという送受信チャンネルの不均衡を利用することで得られる、擬似的なオリジナリティである。

送信チャンネルが拡充してきたことで、擬似的なオリジナリティはもはや確保することが難しくなってきているが、送信を独占してきたマスコミュニケーションの発信者は、どの媒体においても、かつての送受信の不均衡を何とか模倣しようと躍起になっている。果たしてどれだけ上手くいくだろうか。

送受信が均衡した情報伝達網においてオリジナルであり続けるためには、複製しきれないものになるしかない。

現時点での複製技術の精度は視覚と聴覚に偏っているため、複製の完全性から逃れる手っ取り早い方法は、それ以外の感覚に訴えることであるが、いずれ技術とのイタチごっこになるだろう。

結局、抽象された結果としての「もの」は、既に死んでいるために複製がしやすく、複製から逃れ続けるには、抽象する過程としての「こと」であり続ける他ない。そこでは、常に繰り返される死が、複製しがたい生をなしている。

マスコミュニケーションでは大量複製された「もの」が利用されてきたが、その死体の山が価値を維持できたのは、送受信の不均衡によってであった。送受信の不均衡が解消されつつある時代において著作権をもつオリジナルであらんとするには、自らのかつてのスナップショットである死体に鞭を打つのではなく、日々死を繰り返すことで生きるしかないのだろう。

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