2016-06-30

定住

あたりで、移動することについて書いたが、電源とネットワークがあればどこにいてもよくなる時代で、人は移動することをやめるだろうか。

かつて、人間は食料事情によって移動を強制されていた。農耕の発明によりその強制から解放されることで、人間は定住生活に移行した。それはエネルギィ的な問題からの至極まっとうな帰結である。

現在、人間は社会的な条件によって移動を強制される側面を多々抱えている。インターネットの発明によりその強制から解放され得るはずが、未だに「定住」生活に移行できていない。エネルギィの問題は盛んに議論されるのに、その解決策として次なる「定住」の議論が出てこないのは何故なのだろう。


At the period when we can be anywhere with electrical power and network, will people stop moving?

Once, human beings were forced to move by food matters. As they got free from it by invention of agriculture, they started a settled way of life. It seems quite a natural answer for energy problems.

Now a days, human beings are forced to move by social matters. We can be free from it by invention of the Internet, but we are not ``settled'' yet. Compared to energy problems being discussed well, why are there few suggestions of being ``settled''?

エントロピー

エントロピーとは、端的に言えば、取り得る状態の数と
概ね同じ概念だ。
意味付けは、ある情報に対してその解釈可能性を狭める
ことであるから、エントロピーを下げることになると
考えられる。

熱力学の第二法則では不可逆過程におけるエントロピーの
増大が述べられているが、それに抗うこと自体が生命の
何たるかなのではないか。
あるいは、生命がエントロピーを下げることを生きることとして
体系化しているために、物理学の体系がそのようなものとして
構築されたということなのかもしれないが。

2016-06-29

VRとAI

VR=Virtual RealityとAI=Artificial Intelligenceは
同一現象への異なるアプローチのように思われる。

人体はセンサの複合体で、外界から入力される情報を
複数のセンサで受け取り、その情報を統合しながら
処理している。
プロセッサ内部における情報の統合のされ方、処理の
され方が無意識あるいは意識と呼べるものに相当する。

VRはセンサシステムを所与のものとしたとき、入力情報の
構造を発見することを目的としている。
つまり、誤解を恐れずに言えば、情報が実在するとして、
それとどのような同一性をもつ情報を与えればセンサシステムの
内部状態を再現できるかという探究である。

一方のAIは、入力情報を所与のものとしたとき、システムの
内部構造を発見することを目的としている。
このとき、内部状態の再現程度を確認するのが難しいと
感じられるかもしれないが、それはVRを体験する人間の場合も
同じ話である。結局は、言語等の記号化を用いた報告を通してしか
確認ができない。

AIにVRを体験させたらどうなるか。
現実Realityが一連の情報から構築されるものだとすれば、
Virtualの各パターン毎に、それをRealityとして再構築することが
可能である。
人間も可塑性はかなり高いと思うが、それでも年齢とともに
次第に固定化していく。
AIの場合、ハードウェアの可塑性を如何に獲得するかという
技術的な問題はあるものの、人間に比べるとはるかに高い
可塑性を実現可能だと考えられる。

AIの方を可変にしておけば、VRの情報量に合わせてそれを現実だと
思うことができるAIになっていけるだろう。
逆にAIの処理過程を固定し、VRを可変にすれば、AIは自らが
現実だとみなす情報を任意の精度で外部出力できるようになるに違いない。
生まれたばかりの赤ちゃんをVR空間の中に置いた場合が前者である。
後者は、ちょうど今の人類である。
いや、自らの内側に、任意の遅延をとった上で外部からの入力情報を
再現し、それを再び外部に出力することも可能な装置として言語を
発明した頃から、人間のVRへの挑戦は続いているのかもしれない。

2016-06-28

脆弱性

エンジニアがあるシステムを設計するときには、
システムの一部で生じた不具合が他の領域に
連鎖的に不具合をもたらさないような冗長性を
もたせることが多い。
宇宙開発や原子力施設等、影響が大きいものの
設計であればなおさらだ。
これは、リスクがゼロにはできないという自覚が
基本としてあり、ゼロでないリスクと如何に
向き合うかを可能な限り突き詰めるからだと思う。

そういう点でみると、現代の資本主義体制にある
政治や経済のシステムはとても脆弱だと感じる。
リーマン・ショックしかり、今回のBrexitしかり。
多分、そこに冗長性をもたせないことがグローバル
資本主義の特徴なので、誰も何とかしようとは
思わないのだろう。

When engineers design a system,
they add some kind of redundancy to the system
so that a trouble at a part of the whole system
would not affect other parts in chain.
Even more so for space developments,
nuclear power plants, or etc. which have a high impact.
This is because they basically be conscious that
they cannot eliminate all risk, and thinking as much as
possible about how to cope with the risk.

At that point of view, politics and economics under
capitalism seem to be really vulnerable indeed.
Not to mention about Financial crisis, Brexit, or etc.
I guess it is characteristics of global capitalism
that it don't have redundancy, and no one thinks of
changing the situation.

2016-06-27

集団と真理

真理なしには集団は存在できない。
集団なしには真理は存在する資格がない。
If a group doesn't come with truth, it wouldn't exist.
If truth doesn't come with a group, it wouldn't deserve to exist.

特許庁

東京特許許可局
とうきょうとっきょきょかきょく
きょうきょときょくとかっきょう
今日、居と局と活況


居と局って似てるね。

2016-06-26

音の色

J.J.ギブソンの「生態学的知覚システム」を読んでいて、
視覚と聴覚の違いとして反射情報に対する解釈の話が出てきた。

視覚の場合、ある面での反射光は反射面のもつ色という特性
として理解される。その波長の色を有するという光源の特性として
理解されることは通常は起こらない。
一方、聴覚では逆に、反射音は音源の特性を表すものとして
理解される。あらゆる音を跳ね返す壁が「白い」と言われたり、
あらゆる音を吸収する壁が「黒い」と言われたり、特定の周波数帯を
跳ね返しやすい壁(そもそもあるのか知らないが)が「赤い」とか
「青い」とか言われたりすることはない。

この違いは、光が電磁波で、音が空気を媒質とした振動だということに
由来するのだろうか。
仮に、多くの物体の音に対する反射・吸収特性の周波数依存性が高かったら、
聴覚に色をつけるのは一般的になっただろうか。

聴覚VR

バイノーラル録音+イヤホンorヘッドホンは聴覚のVRの
第一歩だと思うが、視覚のVRと決定的に異なる点が、
身体の移動に伴う入力の調整ができていない点だ。

ヘッドマウントディスプレイを用いた視覚のVRでは、
目の動きに合わせて出力する光を変更することで、
それを実現している。
バイノーラル録音+イヤホンorヘッドホンの場合、
現状では録音時のマイクの位置によって向きが
決まってしまうため、聴いている状態で耳の位置を
変えると、音源も一緒に動くという奇妙な現象が発生する。

全方位の特性が全く同じな集音マイクで録音した音源に、
バイノーラル録音で用いるダミーヘッドマイクの特性を
畳み込むことで、聴覚のVRでも身体の動きに合わせた
入力の調整が実現できそうなものだが。

ボトルネック

あらゆる変化のボトルネックは人間だった。

それは、予測可能性を最大限に持続させようとする意識の特性によるところが大きい。

平和

平和とは、正義が一意的に決まる状態のことである。
象 “平和
というものだとすれば、ユートピアには意識が不要である。

その状態においては判断の余地がない。
あらゆることにたった一つの理由付けが与えられ、
すべては理由付けなしに意味付けされているのと同じことになる。
コンセンサスが一通りしか生まれないのであれば、個体に意識を
実装しておく必要性に乏しい。

それをディストピアと呼ぶのであれば、ユートピアは原理的に
ディストピア以外の何物にもなれないのだろう。

2016-06-25

なみだ

雀の涙
すずめのなみだ
だすなみずのめ
出すな、水飲め(もう吐きそう)

線対称

(介+北)÷2=化
(口+H)÷2=冗
(小+林)÷2=朴

2016-06-24

n.tion

Nation, how notional and/or relational it is.

at Rio

「2020年のオリンピックはリオで、ですか?」
「       」

UK referendum

イギリスのEU脱退の国民投票がまさに開票中だ。
BBCの速報によれば、12時過ぎの時点で
 LEAVE: 10,303,991
 REMAIN: 9,870,102
でLEAVEがやや優勢である。

ニュースでは残留REMAINになってくれればと
願う各国政府のコメントを山ほど紹介しており、
市場もものすごい速さで一喜一憂している。

結果はあと数時間で判明するだろうが、
いずれにせよ、五分五分という状況まできている
状況自体が、もはやEUへの期待感の無さを示している。
もはや延命治療に入っているということに変わりはない。
もちろん、EUに限らず、資本主義あるいは国民国家という
枠組み自体の限界を示している可能性もある。

イギリス国民、特に若い世代は、EUに残ることが
インターナショナルだと考えているのだろうか。
透明人間の存在を前提しない限り、不透明人間という呼称が
不要なのと同じことなのではないか。

今月上旬のスイスでのベーシックインカムの一件に続いて、
大きなテーマの国民投票が連続した。

一抜けする集団はどこから出てくるだろうか。

p.s.
そういえば、こういうときの市場では概ね円高が進む。
それは、
どちらかというと、人工知能の普及が先行し、失業対策問題に
にっちもさっちも行かなくなった結果としてベーシックインカムが
導入されるイメージの方が強い。
An At a NOA 2016-02-01 “ベーシックインカム
というような日本のイメージを、およそ世界中の人が共通して
もっているということの証左なのかもしれない。
つまり、日本はthe last nationだと思われているわけである。

開票速報のサイトでは、
 ・BBCはLEAVEが左、青色でREMAINが右、黄色
 ・NHKは残留が上、青色で離脱が下、赤色
 ・ロイターはREMAINが左、青色でLEAVEが右、灰色
配置や色づかいに思惑が見て取れて面白い。
一番中立っぽく感じられるのはBBCだろうか。


12:40過ぎにBBCが離脱で確定を報道したようだ。
ベーシックインカムは動かなかったがこちらは動いた。
一抜けに一歩近づいたか。

2016-06-23

可塑性

音楽を聴いて鳥肌がたつ人とそうでない人では脳にどのような違いがあるのか?


感情の特徴と脳の構造の特徴に相関があるというのはとても面白い。
中村雄二郎の言う体性感覚的統合を行う際に、脳の物理的な構造も
変えられるのか、あるいは電気的な構造しか変えられないのかは、
センサとしての可塑性の高低に影響すると考えられる。
変化に対してソフトウェアだけでアップデートするのか、ハードウェアも
アップデートするのかの違いだ。

年少時代の方が変化の幅が大きいのも、このあたりが関係するのかもしれない。
あまりにフレキシブルであることも不安定な構造を生みやすいので、
成熟するとともにハードウェアアップデートは止まっていくのだろう。
せめてソフトウェアだけでも固定化しないようでありたい。

風は青海を渡るのか?

「風は青海を渡るのか?」を読み終えた。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?

だんだんと百年シリーズを始めとする他のストーリィと
絡み始めている。

・ナクチュの人々がハギリたちを見ないようにするのは
 「女王の百年密室」の神に対する振る舞いと同じであり、
 あの「目にすれば失い、口にすれば果てる」という
 言葉が出てくる。
・本作中、何度か月の描写が出てくる。というか章題に「月下」
 がもれなく入っている。
 ルナティック・シティやミナス・ポリスと関係あるのだろうか。
 ナクチュという名前はチベットに実在するようだが、
 この名前には月の要素がないように思われる。
 (ナクチュとは「黒い河」のことのようだ)
・天文台で見つかった砂の曼荼羅は「迷宮百年の睡魔」の
 イル・サン・ジャックでクラウド・ライツが描いていたものと
 同じだろうか。
・カンマパのフルネームはカンマパ・デボラ・スホのようだ。
 デボウ・スホとは微妙に違う。スホ家はジュラ・スホ、ササン・スホ、
 クロウ・スホ、メグツシュカ・スホと合わせて6人目だったか。
 「赤目姫の潮解」は未読だ。
 デボラと言えば、真賀田研究所の音声アシスタントシステムの名前である。
・巨大な人間の頭の形をしたコンピュータが発した「私はどこから
 来たのか、私は何者か。私はどこへ行くのか?」という問は
 どこで見たか覚えていないが、犀川先生と真賀田四季の間でも
 交わされていた。
・そして「シキ」である。


キャラクタのつながりを追うのも面白いが、それよりも
圧倒的に面白いのが意識や生命に関する考察の方だ。
小説というかたちを借りた思想書や哲学書の類と言ってもよい。
(森博嗣はそもそもそういった分類をおそらく嫌うだろうが)
「…夢とか未来とかいった方向性は、人間並の機能を持った
思考回路ならば、必ず行き着く概念だろう。逆にいえば、
その概念を捉えることが、意識というものを形成する。
自分たちが生きていることを明確に認識させるものだ。」
「認識というよりも、錯覚かもしれませんね。」
「それは言葉だけの解釈、あるいは分類にすぎない。認識も
錯覚も、機能としては本来、同じものだよ。」
森博嗣「風は青海を渡るのか?」p.33
「たとえば、肉体を持たない頭脳には、意識はあるでしょうか?
五感もない頭脳です」
同p.56
これは後述のように、「共通感覚論」の文脈で考えると、意識はないと考えられる。
ただし、ヴォッシュ博士が過去の報告として言っているように、後天的に五感を
失った場合には、五感を有する間に形成された意識を保持することは
可能だと考えられる。
「…優秀な頭脳は、現実以外のものまで予想する。すなわち
自分の内側に外界を作る。そして、仮想の刺激によって
反応するようになる。これが意識と呼ばれるものであって、
反応であることには変わりない。」
同p.60
意味付けと理由付けのもう一つの違いかもしれない。
(あるいは同じことなのかもしれないが。)
内側に外界を作ることで再帰的な構造ができあがる。
このあたり、ダグラス・ホフスタッター「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を読んでみたい。
「秩序という概念が、限りなく生命的ですね」僕は言った。
「我々が作ったものを、そう呼ぶだけです。生きている、という
認識とほぼ同じ概念ですね」
同p.61
秩序については、野矢茂樹「心という難問」の話が思い出される。
身体機能を維持するために意味付けや理由付けによって秩序を作り出す。
秩序正しい世界が元からあるわけではなく、秩序を作り続けること自体が
生きることである。

途中、ハギリが開発した人間とウォーカロンを見分けるためのシステムの
説明が出てくる。質問に対する反応(言葉による返事でも、頷きでもよい)
を通し、脳波や挙動を複合的に判断するのが特徴のようだ。
どことなく、「共通感覚論」を読んだときに思ったことに通ずる。
これは、先に引用した、肉体をもたない頭脳に意識があるのか、という
問とも絡むと思う。
つまり、センサとして、外部刺激への反応を、どのくらい、どういったかたちで
統合しているか、ということ自体が意識だと観察される。
特定の要素が決め手として卓越することはなく、総合的な判断によるしか
ない、という点も言いたいことはよくわかる。
そして、その観察における判断は理由付けではなく意味付けによる。
「面白いね。工学的というか、人間的判断の極みだ」
同p.66
こうした肉体と意識の関係は、ヴォッシュ博士がペィシェンスをバージョンアップ
しないこととも関係している気がする。
別の人格として育てたウォーカロンに、旧型の記憶や習慣などの情報を
ポスト・インストールするという工程になるのだろう。それは、もはや同じ
人格とはなりえない、と僕は感じてしまう。おそらく、ヴォッシュもそう考えたのに
違いない。
同p.109
別の肉体=回路+センサに、蓄積した意味付けや理由付けを移したとき、
新しい肉体に対してそれらの修正・更新を余儀なくされる。センサの入出力と
身体の統合の様子が意識として観察されるのであれば、それは身体がなじまない、
というよりも、意識が変容する、という状況に近いはずだ。
ただ、記憶が残っているのであれば、外部からは同一人物とも観察できるだろう。
そもそも、同一なものがあるというよりは、同一化するということでしかない。

ウォーカロンの暴走について、思考回路のリンクの話が出てくる。
人間の意識で言えば、他人とのコミュニケーションによってコンセンサスを
得ていく過程がリンクである。ネットワークの発展によって速度、範囲の両面で
そのリンクは強化されてきたが、最終的なリンク先である人間の脳に遊びが
あることが、フェールセーフになるのだろう。ウォーカロンや人工知能のように、
ネットワーク自体にも個々のノードにも遊びがない状況は不静定次数が小さすぎる。

ウォーカロンが変異によって人間になる、というのは、意識が異常とみなされる時代
到来を予感させる。それでも人工知能に意識を実装したいと思うだろうか。
それは、ウォーカロンにとってというよりも、人類にとって、この世界にとって、
どんな意味を持つだろう?
その最後の疑問は、今は棚上げにするしかない。
忘れられる能力によって、先送りしよう。
同p.228
忘却もまた、人間の脳が備えた遊びの中で実装が難しいものの一つだと思う。
最後の方で、ヴォッシュ博士が青い鳥の話を持ち出しているあたり、意識を実装する
ことの是非への言及だろうか。
ようするに、憧れている間は綺麗に見える。
同p.241

p.s.
ヴァウェンサがプログラム分野なのに対し、ドレクスラが所長であることから
ハギリが彼を生体分野=現場出身と予想したところは建築のゼネコンネタだろうか。

意識的

宗教とは説明の集合体である。
An At a NOA 2015-12-03 “宗教
と以前書いたが、説明の集合体という点では科学も同じである。
数奇にして模型を再読して以来、科学は宗教的か、ということを
何度か書いたが、科学と宗教は説明の集合体という点で、どちらも
とても意識的なものである。

森博嗣の著作ではよく、犯人の動機や犯行の手法に対する記述について、
古典的なミステリィとは異なる立場が取られる。
それは、上記のような考えと通ずるところがあるし、おそらくこういった
発想をするようになったのも森ミステリィが好きなことと独立ではないはずだ。

動機や手法等、あらゆる説明の真性はコンセンサスにより決まっていき、
唯一不変のものではない。
ミステリィ制作部のXシリーズのページ、「サイタ×サイタ」の解説で
こういうのは一度書いてみたいとまえから考えていました
と書いているのはこういうことなんだろうか。

2016-06-22

ショートサーキット

認知症予防へ大規模調査 生活習慣のリスク探る


国立精神・神経医療研究センターが認知症の発症に関わる
リスクの調査に乗り出すようだ。

発症に関わる生活習慣、食事や運動などの生活習慣が
発症に関わる可能性、記憶力の低下につながる生活習慣の要因、
等の言葉が並ぶが、端的に言って、習慣という思考の短絡自体を
認知症とカテゴライズしているだけなのではないか。

記憶力が低下しているというよりも、習慣がルーチンとして
固定化され、その部分の記憶は劣化しない一方で、
ルーチンでない新しい記憶が形成、定着されづらくなっている
ということなのであれば、特定の生活習慣を原因とみなすことに
あまり意味はないと思われる。

習慣という、ある意味での最適化を敢えてかわさないといけないほどに、
物理的身体の寿命が一方的に延びてきた故の、当然の帰結なのかもしれない。

2016-06-21

夏至

夏至タルト崩壊
Summer Solstitial Tart Fall

SummerなのにFallとは、これ如何に。
だってゲシュタルト崩壊はGestaltzerfallだし、
Decompositionでもいいかもしれないけど、
タルトの周縁部を城壁だと思うと国家の滅亡
みたいなイメージだし、いいじゃない。

意味付けと理由付け

いずれもコンセンサスによるものという点では同様だが、
「意味付け」と「理由付け」は違った表現として用いている。

「意味付け」は、端的に言って特徴抽出である。
場合によっては、言語を核にすることで、より具体的な概念として
抽象することもある。
特徴抽出の過程で大量のデータセットを必要とするが、
ある程度収束し、追加情報による修正幅が微小になれば、
高速な判断が可能になる。

「理由付け」は、意味付けされたもの同士の対応付けのうち、
データ数が十分でないものである。
原因と結果という前後関係に限らず、共起する関係も含む点では、
因果律と同値というわけではない。時間という順序構造を
認識するだけのバッファが得られて初めて因果律と結びつく。
「理由付け」はデータ数の不足により訓練が十分ではないため、
「意味付け」に比べると低速な判断しかできないが、判断不能に
陥ることに比べると有利である。

「意味付け」と「理由付け」はどちらが高度ということもない。
個々の形成にかかるコストは前者の方が圧倒的に大きいが、
一旦できてしまえば性能は優秀だ。
そのあたり、ディープラーニングと似ている。
後者は、形成するためにプロセッサに要求されるコストが大きく、
判断性能では劣るものの、カバー領域の広さが魅力的だ。

意識は後者がなければ生まれない。
というよりも、「理由付け」を行う過程自体を意識と呼んでもよいくらいだ。

「理由付け」は「データ数が十分でない」という点が解消されていくにつれ、
「意味付け」に漸近していく。
その結果が痴呆であり、伝統であり、またある種の自然である。

filtering

意識のようなものが先に存在して、それが何かを知覚すると考えるから、知覚には意味によるフィルタリングが常につきまとう、という発想になってしまう。

そうではなく、先にセンサへの入力という知覚があり、その特徴抽出という抽象段階で意味が付けられていく。そこに、それまでに得てきた意味の影響があるのは当然だ。しかし、その関係は、意味というフィルタによって知覚が変容させられているというものではなく、知覚によって意味が更新されているという種類のものだ。

もし意味が固定化され、フィルタの役割を果たすのであれば、その意味は偏見と呼ばれてしかるべきものだ。その観点では、錯視は一種の偏見にあたるとも言える。

固定化された意味は、枯れた技術というよりはメンテナ不在という状況に近い。

J.J.ギブソンの「生態学的知覚システム」を読み始めた。まだ序章の2ページ目だが、すでに感動している。ギブソンの言う「感覚作用」を「意味」と読み換えてよければ、
つまり、感覚作用なき知覚はあるが、情報なき知覚はありえない。
J.J.ギブソン「生態学的知覚システム」p.2
という一文は、まさに上記のような理解に対応したものだ。

2016-06-19

AIへの課税

AIがヒトの仕事を奪うかって?もちろう奪うだろう。
ならば高度な自立AIシステムには住民税をかければ良い。
ヒトよりも高度ならば当然高額になる。
その税収でベーシックインカムは実現される日が来るだろう。
AIから取り立てた税金でヒトは遊んで暮らそう。
武井一雄@PA㌠
@meza3
https://twitter.com/meza3/status/744389994773520385
というツイートと、それを受けた
AIがまずいのは「高度な収益を上げる主体的存在なのに、
納税をしない」点だという考え方は盲点だった。法人にも
法人税があるし、生産設備にもものによっては資産課税が
あるわけで、ハードウェアの資産価値以外の納税があっても
良いかもしれない
早稲田 治慶(本名)@クロマキーAR
@waseda_fablab
https://twitter.com/waseda_fablab/status/744429083870662657
というツイートは面白い点に着目している。

サイバネティックスを読んだときに考えた、
人工知能による共産主義の上に人間が乗っかるような社会
An At a NOA 2016-04-12 “サイバネティックス
に近いかもしれない。

課税に関しては国は積極的になれるだろうから、是非ベーシックインカム
実現に向けて動いて欲しい。

telexist

人体の神経系と同様の構造をもった回路に、諸感覚器官と概ね同じ位置に配置したセンサを組み合わせた機械があるとする。その機械には動力と通信装置を装備しておき、プロセッサは不要とする。各センサに入力された情報は回路を経由して通信装置に送ることができるものとし、逆に通信装置から回路を通じてセンサの位置や方向を変更できるものとする。

人間の脳に別の通信装置を接続し、この機械を別の場所に置いた上で、2台の通信装置を介して情報をやり取りすることを考える。このとき、人間はどのような存在感覚をもつだろうか。

もし、元の人体の神経系に対する脳からの通信を遮断すれば、慣れるための期間は要するものの、機械が置かれた位置に存在するように感じると考えられる。(そうでない場合は、つじつまを合わせるために、どちらか一方の存在感覚が卓越し、もう一方はないものとされるか、つじつまが合わなくなり、現実という存在感覚が薄弱になるのかもしれない)

通信時間の都合上、センサの入力からセンサへの指示までに人体の場合よりも時間がかかるのは確かだが、その遅延は当初は引っかかるものの、次第に脳で自動的に処理されるようになり、気付けなくなるに違いない。

完全に慣れてしまえば、もはやプロセッサとメモリとしての脳があれば、自分という存在感覚が維持できるようになる。このことから、脳の中に意識があると言えるだろうか。いや、そんなことはないだろう。脳の役割はプロセッサとメモリに相当する機能だけでよい。そこにセンサが接続され、その姿勢を制御できる状況において、姿勢制御と入力情報の変化の対応付けを行うところから、存在するという間隔は生まれるはずだ。異なるタイミングの入力情報間で対応付けを行うために、入力情報に対して特徴抽出をする処理自体が、まさに理由付けによらない意味付けに相当するものと考えられる。そこには何を同一とみなすかというフィルタが既にかかっている。そして、その存在するという感覚を維持するために、入力情報に理由付けを行うところから、意識が生まれるはずだ。

意識が存在するのではない。
存在し続けるために意識を実装するのだ。
It's not that consciousness exists.
It implements consciousness to continue existing.

2016-06-18

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、
日本語で言えば、最初の「我」の時点で
既に誤っている。

個人的な感覚としては、
知覚の連携に意味を与えていたのは私だった
That gives meaning to link of senses was me.
くらいがちょうどよい。

2016-06-17

プログラミング教育2

プログラミング教育について、文科省から議論のまとめが
公開されていた。
小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について(議論の取りまとめ)


こういう議論で必ず出てくる、「人間にしかできないこと」という
表現はとても気になる。人間もセンサの一種だと考えれば、
コンピュータとはその特性が異なるために得意不得意が
生じるだけで、原理的に不可能なことはないと思っている。

深層学習による飛躍的進化を認識しながら、それを人間の
学習過程に似ていると考えられなくもないとした上で、
人工知能は与えられたことしかできず、人間だけが
あるフレームの枠外に出られると述べているあたりは
何だかなあという感じである。

あえて人間とコンピュータを区別し、その特徴を挙げるとすれば、
 ・演算の速度、精度はコンピュータが有利。
  明確な目的が固定された状態における性能の比較では人間には勝ち目がない。
 ・人間は精度の粗さによってできる幅に意味を見い出せせる、あるいは見出してしまう。
  よく言われるファジーネスにあたる。
  コンピュータは定義や演算の精度が高いためそういった余地がそもそも少ない。
 ・人間は無意味あるいは未定義という状態を保持するのが苦手。
  逆に、あらゆるものにとりあえず意味を付与してしまうことが新しい判断に
  つながることもある。
  コンピュータはこれらが可能なことで遅延処理が可能になるが、
  判断不能というリスクも負う運命にある。
 ・人間は判断不能のリスクを極力小さくするために、無意味であることに
  耐えられなくなっているのかもしれない。
 ・意味付けあるいは理由付けを不可避的に行ってしまうことが
  因果律という強い前提や時間の概念につながるのかもしれない。
  現行のコンピュータのほとんどは、相関の概念はわかっても因果の概念はわからないだろう。
 ・記憶の耐久性は、時間経過に対する精度維持の点でコンピュータの方が高いように思われる。
  ただし、人間には忘却という仕組みが実装されており、判断不能に陥らないために
  不可欠なものとなっているように感じる。
  今後、コンピュータを人間に近づけようと思うのであれば、忘却を如何に実装するかも
  一つの大きな問題になるだろう。
 ・センサとして比べたとき、異なる種類の知覚情報の統合の点では、人間が圧勝している。
  視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚等の諸感覚が体性感覚的統合を果たすには、
  身体にあたるものが必要になるが、それをもったコンピュータでも統合の程度は
  まだまだ低い。あるいは、これらを統合する際に、人間は言語を核としてその統合を
  保持、変化、伝達することができるが、このあたりの仕組みもまだまだ弱い。
 ・コンピュータに正しい、美しい等の概念をもたせる上手い方法が実装されていない。
  これはむしろ実装している人間側の問題な気がするが、こういったコンセンサス
  基づく概念を一台の孤立したコンピュータ内で成立させるのはほぼ不可能だ。
  絶対的な正義や美があると想定してリストアップ形式でこういった概念をもたせようと
  しているうちは無理である。

文科省の言う「プログラミング的思考」とは、こういった特性をもつ、
人間とは異なるシステムとのコミュニケーション能力に近い。
目的を明確にすることで、あらゆることを精度よく高速に行えるが、
明確化の精度をかなり高いものにしないと思ったようには動かない。
ある種のカルチャーギャップである。
それはいつか、ジェネレーションギャップになるのかもしれない。
これからの時代、人間とのコミュニケーションだけに慣れた人間でも
よくないし、コンピュータとのコミュニケーションだけに慣れた人間でも
よくない、そのためにプログラミング教育を導入しようということだと思う。

人間の価値観を変えながらの教育になるので、ネックになるのは
どちらかというと子ども側よりも教師側の方が大変だろう。
おそらく、教育というものは常にそうだったはずだ。
その先にはベーシックインカムのある社会が待っているだろうか。
ない社会が待っているだろうか。
あらゆる問は絡み合っている。
人間がどちらに進んで行くか、想像している人間が音頭をとってくれているのを願う。

ブログデザイン

6月前半でいろいろとブログのデザインを変えた。

  • ヘッダ画像
  • 選択範囲
  • 訪問済みリンク(a:visited)
  • 引用箇所(blockquote)
  • コード(pre, code)

ヘッダ画像は6/1の記事にしたsvgと同内容で、
デザインの各過程を並べたものだ。
同記事ではアニメーションを付けてある。

選択範囲はグレースケールにした。
後述のcode部分(正確にはpre要素内)は背景色が
異なるため、code::selectionのbackgroundを
変えることでほぼ同色になるようにしている。
background-colorは一般部が#fff、選択範囲が#666、
pre要素#1d1f21なのだが、範囲選択時の背景色の
演算がわからず、((f-2)+6)/2≒10から#aaaとして
みたら大体同じになったのでよしとする。

訪問済みリンクは元々#888で本文とほぼ同色だったせいで
リンクかどうかわかりづらかったので、橙#ff8832にしてみた。

引用箇所は枠で囲み、文字は斜体にした。
先頭にはquot.を付けてある。
引用範囲

コードはターミナルウインドウっぽくした。
タイトルバーはborderを上だけ太くし、右上の丸はafter要素で作っている。
code

2016-06-18 追記
引用箇所をコードに合わせて枠囲いからbox-shadowに変更

概念の言語化

概念と言語の関係は、雪における氷の結晶とエアロゾル粒子の
関係に近いように思う。

雪の場合、エアロゾル粒子のような核になる微粒子がない空気中だと
過冷却が起こりしばらく結晶化しないが、これは結晶化するための
拠り所がなく、不安定なためである。
同様に、拠り所抜きで一定の情報を概念として結集させようとしても、
不安定であり、なかなか固定できないように思われる。
拠り所としては必ずしも言語を用いなくてもよいが、パターンの多さと
クラスタリングの明確さにより伝達と保存に有利なためか、現時点で
人間に最も流行している。

ある言語のある単語を核にして、どのような概念を結晶させるかは
人によりまちまちであるし、時代、場所の影響を大いに受けて
一人の人間の中でも次第に変化していく。
結晶が大きく、その単語に意味の幅がある場合もあれば、
反対に意味が鋭く決まっている場合もある。
コミュニケーションを通して結晶の大きさや形を調整するのがつまり、
他人と意思疎通するということだ。

言語は概念に付けられた名札ではなく、概念を結晶化するための
核になっている。
Language is not a name tag attached to notions,
but a core which notionts are crystallised around.

ベーシックインカム3

ベーシックインカム導入の是非については、財源がどうので議論を泥沼化させる前に、実現することの是非がもっと議論されてしかるべきだと感じる。

合唱でも、音程と表現のどちらも重要である。ピッチ重視でハーモニーを固めた後に表現をつけることも可能だし、曲の世界観重視で表現をつめた後にハーモニーの精度を上げていくことも可能だ。ある程度の上級者が集まって曲作りをする場合、後者の方が圧倒的によいと感じている。

ベーシックインカムの議論について、日本人に限らず人間は「ある程度の上級者」なんだろうか。経済や政治等の専門知識に関しては、前提として飲み込まなければならない用語や知識が多すぎて、万人がそうであることは難しい。しかし、生活がどうあるべきか、労働がどうあるべきか、といったことに関して、各々が自分の言葉で構成した自分なりの理想をもつことはそれほど難しいようには思われない。日本人に限って言えば、そういった考えを受容する側に慣れきってしまっているだけだと思う。

ベーシックインカムが実現する世界とは、労働からの解放である。人間が生きる意味は何も労働することだけにあるわけではなく、思考やコミュニケーションそれ自体、あるいは生存に関わらない生産、表現行為でもよい。そして人間は働かなくなるのではなく、むしろ働けなくなるのである。移動は緩やかになるし、居住の局所集中化は解消されていく。それは老後の生活が早期に訪れる状態に近い。意識の存続の問題はより顕著になるだろう。存続させるにはどうしたらよいか、存続させるべきか、も含め。

一方、ベーシックインカムが実現しない世界とは、労働価値の継続的な礼賛である。労働は経済における価値につながるかもしれないが、それ以上に勤労の美徳というかたちで人間が生きる意味につながる。労働にありつける間は美徳に浸ることができるため、機械化への抵抗あるいは新しい労働の創出によって、終わりなき労働のための労働が継続される。よりよい労働を求めるため、忙しなく移動することになり、居住の一極集中も加速する。

さて、どちらが「正しい」だろうか。それはもちろん、願わくは皆が「ある程度の上級者」になったあらゆる人間同士が話し合う中で、コンセンサスを形成することにより決まっていく。財源等のテクニカルな話は、「正しさ」の方針が決まった後であれば、どうにでもなるはずだ。

2016-06-16

義務教育の限界

【悲報】2~3年後、小中学校において「道徳心」「愛国心」に成績をつける、と文科省が決定。


これ、本当ならすごいな。。。大丈夫かよ、文科省。。。
何と言うかもう、子どもができたら小学校に上がるまでに
教えなければならないことがどんどん増えていくみたいだ。

道徳心も愛国心も一意的ではないし、その判断が先行して
コンセンサスを取っていくものでもない。
時代、場所に応じて、コンセンサスが得られていく中で、
その判断内容が決まっていくものだ。

小中学校での教育は、ある一意的な判断の一方的な伝達
に陥りやすい。
ある程度までそういった方式で進めることが、既往の知見を
年少者に伝達していく近道であることを否定しづらいのは
確かだが、行き過ぎるべきではない。
義務教育の限界は、ある特定の正しさを仮想しなければ
成立させるのが難しい点にあると思う。
それをかわすためには、教育する側にかなり高度な対応力が
求められるが、果たしてそんな教師なんているんだろうか。

「学問に王道なし」において王道がないのは、単に学問が
平易でないからだけではない。
学問それ自体、常に正しい目標はどこなのかと探究する
営為であるからして、一意的な距離概念が成立しないからでもある。
There is no royal road to learning.
It's not only because learning is not easy, but also
because learning itself is a kind of researching for
what the rightness is and there is no unique notion of distance.

ハードリンク

golangでバックアップ用のプログラムを書いたのは
多分2013年の7月だった。

当時はgoのバージョンが1.1で、windowsでは
ハードリンクがサポートされていなかったので、
exec.Command("cmd", "/c", "mklink", "/H", dst, src)
という方法でハードリンクを生成していた。
goroutineを駆使していくら並列度をあげても、
os/exec.Commandを使っているのがボトルネックで、
75GBのバックアップに15分以上かかっていた。

1.4からwindowsでも
os.Link(src, dst)
でハードリンクが作れるようになっていたらしく、
これに差し替えたところ4分くらいで終わるようになった。
Go 1.4 Release Notes

リリースノートはちゃんと読まんといかんね。
(でもリリースノートにはSymlinkについてしか書かれていない)

2016-06-15

労働価値のコンセンサス

人工知能・ロボット時代に人間はどんな職業を選ぶべきか


記事の題名からすると「はい、はい」という感じなのだが、
最後まで読んでみると、なかなかどうして悪くない。
労働倫理の書き換え、という部分にどのくらいの人が
共感できるのかは不明だが、ともかくもこういった論旨の
議論が増えていくのは個人的にはよいことだ。

労働をつくるために労働をする状況はいかにも滑稽だが、現状は
それに近づいていないだろうか。
その原因は、資本主義だけなのか、労働価値のコンセンサス自体なのか。
共産主義の失敗は労働価値を捨てきれなかったことが原因なのではないか。

労働価値が勤労の美徳というコンセンサスに支えられて
いることは、決して幻想として切り捨てることはできない。
むしろそういったコンセンサスを成立させ続けることが
意識であり、社会であり、その同一性を担保する。
コンセンサスの急変はそういったものの崩壊につながるため、
変化は緩やかにしか起こせない。

例えば100年後、労働に縛られることもなく、ベーシックインカムのもとで
生活できるように変化したとする。
豊かな生活を営んでいるという自覚をもった人々が、21世紀初頭の世界の
状況を学び、スイスでのベーシックインカムの否決等の事例を知ることで
当時の人間を憐れむことは容易だろう。
しかし同時に、その「22世紀初頭の豊かな」生活を、今の人間が
仔細に知ることができたとしたとき、それを憐れむこともまた容易だろう。
お互いにそれを嫉妬とみなすことも可能だが、真理と同様、
豊かさもまたコンセンサスによってその意味が形成される。

働かなくても生きていける反面、必要以上の所得にありつくためには
激しい競争を勝ち抜く必要がある生活。
その世界では、多くの人間は何もする必要がなくなる。
何もしなくてよいというのは、如何にして行動をし続けるかを目指して
形成されてきた判断機構=意識に対する、究極の試練となるように思われる。
さて、100年後の意識のあり方はどのようなものだろうか。

2016-06-14

知覚統合の較正

なぜ13歳未満の子供は、Oculus Riftを使用してはいけないのか?医学的な見地からの警鐘


上記の記事では、年少者が立体視を行うことによる身体への影響が
述べられている。

視力が悪くなるという話ではなく、内斜視を引き起こす可能性があるとのこと。
これが十分有り得る話だと思うのは、「共通感覚論」で中村が言うところの
体性感覚的統合は、各知覚と広い意味での触覚との関係の中で達成されるため、
その関係が変わることで各感覚器官の配置も変わると考えられるからだ。
キャリブレーションにおけるゼロ点がずれるのと同じである。

「共通感覚論」では、視覚情報が上下逆転するメガネをかけた状態で数日間
生活する、逆転レンズの実験が取り上げられていた。
この実験でも、しばらくすると体性感覚的統合が再構成されることで、各知覚の
ずれが解消されるという。そのときに身体的な変化を伴うような記述はなかった。
これは、ある程度成熟した身体が変化するには実験期間が短すぎることに
よるものと思われる。

6歳くらいまでの未成熟な身体は、比較的短時間でもそちらに合わせられて
しまうだけの流動性を備えているということのようだ。
身体で調整可能な場合には身体レベルでの調整も行われ、それが難しい場合には
情報処理レベルでの調整が主になる。ハードウェアとソフトウェアの関係に近い。

これが困ることになるのは、常にVRのかたちで世界を受け取るわけでは
ないからだ。そういったデバイスを装着しない状態をデフォルトに据える
のであれば、身体はそちらに適合しておく方が都合がよい。
逆に、知覚の仕方の変化に合わせて身体をも変えていけるだけの可塑性を
もっているのは、人間に限らず多くの自然物の利点だと言える。
おそらく、ハードウェアとソフトウェアを分離している段階ではそういった
人工物はつくられないだろう。

共通感覚論

中村雄二郎「共通感覚論」を読み終えた。

コモン・センスを、常識の面と共通感覚の面から、
歴史的な経緯も踏まえて捉え直している。
近代では常識としてのコモン・センスが強調されてきたのに対し、
アリストテレス以来、中世までは注目されていた共通感覚の面を
再発見するという点で、コンセンサスについての話の参考になる。

第1章「共通感覚の再発見」において、二種類の常識が示される。
一つは、
共通感覚による諸感覚の統合の或る仕方が惰性化されて
人々に共有されたもの
中村雄二郎「共通感覚論」p.30
もう一つは、ちょっと具体的な箇所としては引用しにくいのだが、
一つ目のような共通感覚の統合を打ち破るために、組み換えられた
ようなものを言っており、「体性感覚的統合」と呼ばれている。

前者についても、引用箇所の直後で、まったく無用だなどというのではない、
と言われているように、野矢先生風に言えば、物語を共有することは
むしろ必要なことであるとしている。

ヴィーコを引きながら、
真実らしいもの、つまり蓋然的にいって正しいもの、に対するわれわれの
感覚(判断力)は、真理の不十分な認識などではなくて、それは、
もっと広範囲の根柢的なものである。そして、正当とか証明可能とかいう
意味での正しさや真実(単純明快な真理)の方がかえってコモン・センスの
上にもとづいている。われわれ人間の生において重要なのは、物事の
在り様と周囲の状況に照らして判断を行うことであり、それこそが
コモン・センスの本質にほかならない。
同p.41
としているあたり、小坂井先生や野矢先生の話にも通ずる。
ブランケンブルクや木村敏の著作を例に取りながら、コモン・センスという自明性の
喪失が精神病につながるという話もとても興味深い。

共通感覚というのは、一つ目の意味で想起されるような、複数の人間間での
共通であるだけでなく、同時に、二つ目の意味で想起されるような、一人の人間の
中での複数の知覚の共通あるいは統合でもある。
体性感覚的統合が重要なのだとすれば、能動的に動かせる躯体なしでは
センサには共通感覚は生じない。

逆に、体性感覚的統合が可能なかたちで各センサの入力を処理できるプロセッサを、
能動的に動かせる躯体に組み込むことで、共通感覚は再現可能だろうか。
このとき、共通感覚はすなわち意識となるだろうか。
つまり、そういった仕組みで動くロボットに意識をみることは可能だろうか。

思うに、それは可能である。
問題は中身のアップデート方法だ。
各センサの入力を統合する方法をハードコードしただけでは、どんなに上手くやっても
惰性化につながる。
仮に、そういった統合方法を都度ソフトウェアアップデートするとしても、そこには
支配された共通感覚のようなものしかできない。
そこにも、場合によっては意識をみることができるかもしれないが、
本当に意識がみられるとしたら、統合方法のアップデートを自ら行う仕組みも含めた
ハードウェア+ソフトウェアを実現するしかないだろう。
それは、ハードウェアでもソフトウェアでもなく、EX_MACHINAでwet wearと
呼ばれたようなものなのかもしれない。
これこそが、訓練データの正義を疑う機構になるのだろう。

2016-06-13

異常だとあげつらうことは恐ろしく簡単であると同時に、それ以上に危険だ。自らが異常になること、むしろ異常だと名指されることを恐れている状態の方が安全だと言える。

「正義の味方」というのは順序が逆なのである。集団がその代表を正義と呼んでいるに過ぎないという意味では、「味方の正義」の方がむしろしっくりくる。

2016-06-11

ししゃも

こもちししゃも
もしもちゃこし
もしも茶こし〜 (CV.大山のぶ代)

2016-06-10

知覚

書籍部で触楽フェアをやっている。

そこで中村雄二郎「共通感覚論」を見つけたので購入。
関連してメルロ=ポンティの「知覚の哲学」も買ってしまった。

コンセンサスについて書いた記事のような話が書かれていることを
期待しているのだが、そこから知覚できるものだけが真実だみたいな
方向にいってしまっていないかだけが気がかりだ。

意識と呼べるものが何かを知覚しているというのはイメージが違っていて、
センサとして知覚したものに対して理由付けをしていく過程が、
後から振り返って意識として理由付けされる、というようなイメージだ。
そういう意味で、
意識とは、理由付けを備えた評価機関である。
An At a NOA 2016-03-09 “意識に関する考察
ということなのである。

それにしても積読中の書籍は増える一方だ。
取り急ぎ読みたいものは、

  • フランシス・ベーコン「随筆集」
  • フランシス・ベーコン「学問の進歩」
  • フランシス・ベーコン「ノヴム・オルガヌム」
  • イアン・ハッキング「表現と介入」
  • アンドレ・ルロワ=グーラン「身ぶりと言葉」
  • モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の哲学」
  • 中村雄二郎「共通感覚論」

ベーコンとハッキングは帰納と演繹について、
グーランは音楽と言葉について、
メルロ=ポンティと中村はコンセンサスについて、
というように大ざっぱには読みたい理由が分かれるが、
大本は同じなのだろう。

積読リストはおそらくこの5倍くらいあるだろうか。
30になるまでに一度整理しよう。

音楽と言葉3

音楽と言葉
音楽と言葉2


音楽とは、コミュニケーションのための振動を伴う動作である。
振動のパターンと伝達される内容を結びつけることでコミュニケーションが
可能になっているが、振動パターンと伝達内容のいずれも、
固定度は低いように思う。
つまり、送信側はある程度の幅をもった振動パターンを用いることが
できるし、受信側はある程度の幅をもった内容を受け取ることができる。

言葉にももちろんそういった側面があるが、音楽に比べると
固定度が高い。クラスタリングの仕方がはっきりしている。
画像処理で言えばポスタリゼーションをかけた状態に近い。
同じ言葉でも意味にはぶれがあるし、時代や場所毎に変化するものだから
完全に固定化したものではないが、音楽に比べるとこういった記号化の
側面が強く発達している。
音楽でも、和声進行のパターンが記号的に使われること等もあるだろうし、
そもそも譜面として記せること自体、記号化の恩恵にあずかっているのだから、
程度問題であり、記号化の度合いがより強いか弱いかの違いでしかない。

何にせよ、記号化の度合いを強められたことに、言葉を生み出すきっかけが
あったように思われる。
記憶や記録として残しておくにはクラスタの数を絞るのが有利であるし、
伝達内容をより精確にすることが可能になる。

こういった記号化度合いの面から考えると、やはり音楽が言葉に
先行するのが自然だと考えられる。


さて、知覚の共有という点では、聴覚情報に意味付けや理由付けをしていくという
ことにしか触れなかったが、視覚や触覚もまた音楽や言葉の要素たり得る。
味覚や嗅覚も多分そうだろう。
そういった各種の知覚情報に付けた意味や理由をリンクさせるというのが、
現時点でのロボットには不足しているように思う。

アヒルのように歩き、アヒルのように鳴くだけでは、アヒルの映像をみたときにしか
アヒルだと推定できない。そのとき得られるすべての知覚情報が、これまでに
付けられた意味や理由と一致することで、アヒルをアヒルだと思えるのだ。
ここで、すべての一致をみてもまだアヒルではないのではないかと疑うことも
できるが、それにどんな意味があるだろうか。
それは、上記のように判断できるロボットができたときに、それが意識を獲得したと
思うかどうかにも通ずる話だ。

意識とは、そこにあるものというよりも、そこにみるものに近いと思う。

2016-06-08

高い

「先生ってジェットコースタは得意な方ですか」
「得意の意味がよくわからないけど、地面から遠いところは専門外だね」
「要するに高いところが苦手ということでは」
「失われるポテンシャルエネルギーが高い、という意味ならそうだよ」
「理屈っぽい指摘はうけないですよ」
「だから地面から遠いところ、と言ったじゃないか」
「屁理屈も好きではないです」
「それは、好きなものを理屈、そうでないものを屁理屈と呼んでいるだけだよ」
「屁理屈の『へ』は、ど忘れの『ど』みたいなものだね」

逆転

正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが
生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.166
悪い行為だから非難されるのではない。我々が非難する行為が
悪と呼ばれるのです。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.129
「正」、「善」、「美」、「真」とは、あるコンセンサスに至っていること。
「不正」とは、正しいことに関するコンセンサスに反すること。
「偽善」とは、善いことに関するコンセンサスをでっちあげること。

では、コンセンサスと判断の逆転にはどんな名称が与えられているか。
それは多分、「支配」のような概念に近い。
絶対的な正義や絶対的な真理を信仰するというのは、そういうことである。

あるいは教育もまた、そういった逆転現象の中で実施されることがほとんどである。
それは良い悪いという判断とは別に、集団の絶え間ない同一化のために
ある程度必要なことである。
伝統が、理屈抜きに、ただひたすらに形式を守ることに徹することで生まれる
というのも、このあたりと関係があるのではないか。

共有されない知覚

ASIMOが演じる手話への違和感についての話を読んだ。
その違和感は、ある点では、日本の電車内において携帯電話での
通話が原則的に禁止されていることと通ずるものがあると思う。

手話による視覚的な、あるいは会話による視覚的、聴覚的な情報伝達は、
本来は知覚の共有を目的として行われるため、二つ以上のセンサが
やりとりすることを前提とする。
上記のできごとに共通しているのは、その受け取り手が明示的には
同時的、同地的に存在していない点である。

今の世の中、同時性や同地性はいくらでも改竄できるので、
それが明示的な方法で担保されていなくても、知覚の共有は可能になっている。
携帯電話では、(おそらくバンドパス等でフィルタされた)聴覚情報の
一部だけしか伝わらないものの、当人同士だけが改竄された同地性の中で知覚の
共有を行っている。テレビ電話も普及はしているから、視覚情報を共有するケースもある。
ASIMOの場合はかなり遠回りではあるものの、例えば映像で見た人間が
科学未来館にフィードバックを寄せるというようなかたちで、技術的には
その手話を利用した知覚の共有が可能だ。

それを周囲から観察したときに覚える違和感というのは、知覚の共有を
行えていないという疑念に近いものではないかと思う。
そして、おそらくだが、近代はそれを精神病と呼び始めたのだろう。
コンセンサス=知覚の共有が意識あるいは社会等のことなのだとすれば、
これはある意味で防衛である。

他にも、宇宙との交信、人形への話しかけ等に対する感覚も近いものかもしれない。
こういったことを年少のものが行うことに対しては、「まだ未発達であるから」という
理由付けを施すことで違和感を回避できるが、ある程度の年齢に達した人間が
行っているのを見た場合には、上記と同様の違和感が生じるのではないかと思う。

昨今、端末への音声入力が発達し、利用する人も増えているが、
街中でボタン操作をしていた人間が全員音声入力をするようになったとき、
人間はそれに耐えられるだろうか。
おそらく耐えられないのは旧来の人間だけで、新世代の人間はそこに意味付けを
行うことで慣れていくだろう。
どちらも無意味に耐えられないところは相変わらずだ。

でも、よくよく考えると、明示的に共有されている様を感じて安心したいというのは、
人間がそれぞれ独立したものだという認識が前提としてあるので、個人という
近代的な人間像に浸っているせいなのかもしれない。

2016-06-07

セッションズ

ビートルズの「ザ・セションズ」が公演中止になったとのこと。
チケット取れていたので残念だ。

でも、こういうものこそ、もっとハードウェアの負担を減らして
ソフトウェアの技術で実現していけばよいと思うので、
わざわざ武道館に人を集めるのではなく、VRで視聴するかたちで
提供されればと思う。

同時性も同地性もずらした状態でも、現実と同じように熱狂する
ところまで、技術と人間は変化できるだろうか。

思考のパターン化

一度考え抜いて思考を整理したテーマについてはスムーズに話せるのだけど、
年齢を重ねるにつれて考えたことのあるテーマに遭遇する機会がだんだん
増えていき思考がどんどんパターン化していった結果、自己が入力から適切な
パターンをただ検索しているだけで創造的ではなくなっている感覚がしてしまう
Nami Ogawa
@namicha_1
https://twitter.com/namicha_1/status/573222903811985408
思考のパターン化自体は創造性の低下にはつながらないと思う。
というのも、それはもちろん思考の短絡につながるのだが、言語化あるいは
概念化というのはすべからくパターン化の産物だからだ。
むしろパターン化抜きには創造的になることすらできないと言える。

では、何故こういった感覚に同意することもできるのか。
それは、パターン化は一意的でないはずなのに、それを固定してしまうことがままあるからだ。
以前書いた意識をなくすための方法の一つ、
試行回数を増やすことで、理由付けによらない意味付けをする
An At a NOA 2016-05-05 “無意味に耐える
というパターン化は、それを一意的なものにするという過程だ。

創造性というのはコンセンサスが常に不完全にしか実現しないことの表れである。
逆に、もしそれが完全なものとして実現できてしまうのであれば、他我の境界は
消え去るだろう。
創造性のない世界というのは、この上なく合理的なディストピアになる。

2016-06-06

ベーシックインカム2

スイスのベーシックインカムに関する国民投票は
圧倒的多数で否決されたようだ。
BBCの記事

記事中、反対派の意見として、
Critics of the measure said that disconnecting the link between work done and
money earned would have been bad for society.
とあるが、下記のツイートでも指摘されているように、work doneと
money earnedのつながりはベーシックインカムによってはなくならない。
「働かなくても生きていける」ことを問題視するなら(賛否は置くとして)
批判としては成り立つけど、ベーシックインカムは生活保護と違って
「よく働くと収入が増える」仕組みでありそこが重要な点なので、
批判としてはおかしいよね。
久保田裕之(家族社会学)
@hkubota1016
https://twitter.com/hkubota1016/status/739603097983455234
どうも、そういった批判の根底には20世紀後半の社会主義の失敗を
意識しているところがある気がしてならない。

さて、ここで言われているような「働かなくても生きていける」ことを
問題視した批判にはどれだけもっともらしさがあるだろうか。
以前書いたように、
勤労の美徳というものは、仕事をすることがよいことだという正義を
掲げないと人間社会が成立しなかった時代の名残に、いつかなっていく。
An At a NOA 2016-05-26 “もったいない?
と思っているので、現状の倫理観で言えばもっともらしくも聞こえるが、
そうではない方向に舵を切るほうがよいのではないかと思う。

勤労の美徳というコンセンサスが得られなくなった時代がきたら、
あのときはまだ早かったと振り返ってもらえるだろうか。

統合

一つの人体の中でのコンセンサスがとれなくなる状態を
統合失調症と呼ぶのであれば、社会としてコンセンサスが
取りづらくなっている現代は、統合失調症的な状況に
あるのかもしれない。

政治は唯一絶対の正義というものを振りかざしがちな気がしてならない。
その幻想を解き、次の行動に向けてどういったコンセンサスをとるのかを
決め、統合失調症に陥らないようにしないといずれ瓦解する。

これまでは政治家の間でそのような運用がされてきたのかもしれないが、
通信速度の向上、あるいは範囲の拡大に伴う弊害が出ているように感じる。
比較手段の発達の遅れが著しいあたり、センサと同じ状況なのかもしれない。

だあれ

うしろのしょうめんだあれ
ろしあのうめだれんしょう
ロシアの梅田、連勝

consensus

コンセンサスconsensusは、wiktionary英語版によれば、
consentio=con+sentio、つまり「知覚の共有」から来ている。

共有するには二つ以上の知覚するもの(センサ)が必要になり、
大ざっぱに言えば、共有は通信段階と比較段階に分けられる。

センサは別個のものとして意味付けられるものである必要はなく、
結果としては同一視されるものであってもよい。
同一のセンサが異なるタイミングで知覚したものの共有もまた、
コンセンサスを形成しうる。
逆に、孤立した単一の知覚からはコンセンサスは生まれない。

人間というセンサに意識というコンセンサスが実装できたのは、
神経系という通信路に発生する、異なる二つ以上の知覚を
共有するだけのバッファを手に入れることができたためだ。
あるいは、社会というコンセンサスを実現できているのは、
知覚を共有するための通信手段があるからだ。
それはもちろん言語に限らないし、どちらかと言えば、言語は
後発の共有手段のように思われる。

このように考えると、あらゆるセンサに意識や社会のようなものを
実装することが可能だと考えられる。
知覚の共有方法がそのあり方を決めることになるが、
現時点でのいわゆるセンサの多くは、通信手段の実装に比べて、
知覚同士の比較手段の実装が遅れていると感じられる。

比較手段の決定とは、同一性の決定である。
真理、正義等も、ある同一性の上に築かれるコンセンサスでしかないが、
だからと言って悲観あるいは軽視するようなことではないと思う。
次の行動に対する指針としてコンセンサスが役に立つのであれば、
それを利用して行動を続けるということがつまり生きるということなのではないか。

2016-06-04

誤解

思うに、最も誤解を恐れているのは研究者である。
その逆は政治家のように思われる。
そして、敢えて誤解を誘引することを旨とする、
検事や弁護士、マスコミのような場合もある。

2016-06-02

ベーコン

書籍部でフランシス・ベーコンの「随筆集」を買う。
フランシス・ベーコンの訳書は岩波文庫の青にいくつか
出ているのだが、どれも絶版のようで、仕方なく中古を発注した。

中公クラシックス版「随筆集」についている一ノ瀬正樹氏による冒頭の
解説を読んでいるが、フランシス・ベーコンの経験論の考え方は、先日読んだ
野矢先生の「心という難問」にも共通するところがあるように思われる。
一定の排除をした後には、なにも断定的な結論はできないとして
混乱したままでいるより、自然の解明という仕事を肯定的な仕方で
試みることを知性に許してやる方が有益だ、というのである。
フランシス・ベーコン「随筆集」成田成寿訳 p.18
この400年の間、哲学はこの観点からすると不健康な歩みも
してきたように思うが、それもまた必要な寄り道だったというように
回想される日がくるだろうか。

OS

この差はローカルへの依存度に因るものだと思う。

スマートフォンはローカルファイルへのアクセスを意識することが少ない。
iOSはわからないが、Androidに公式のファイラがないあたりにも
そのことが表れている。
しかし、データ以上に違いが顕著なのはアプリケーションの方だ。
Androidのアプリケーションは一般的にはGoogle Playからダウンロードして
インストールすることが多い。
Windowsのアプリケーションも最近ではウェブからダウンロードする形式の
ものが増えているが、データがリモートで完結するものはまだまだ一般的ではない。

そして何よりローカルにしばられているのがOSそのものだ。
既にWindowsもローカルには縛られていないとは言え、歴史的経緯により、
WindowsPCはローカルと強く結びついている。
それは、Windows95以来の伝統だ。
1995年当時、ネットワークは規模と速度の点で圧倒的に性能が足りていなかった。
その時代に個人個人の端末として普及させるには、PCは手元に存在するものであり、
ネットワークはそこから繋がるものというイメージで売られる以外になかったはずだ。

ローカルをネットワークから切り離すというイメージ戦略は、近代的な人間像と通ずるところがある。
PCの世界では、Windowsは大苦戦中だと言ってよい状況だ。
人間が近代的な人間像から抜け出すのも、同程度以上の困難をはらんでいるに違いない。
もしこの比喩が妥当なものであるなら、通信速度の爆発的上昇は、人間のシンクライアント化を
もたらすだろうか。

p.s.
Twitterの埋め込みに対してBloggerからHTTPSでないという警告が
出るようになった。次から別の方法を検討しよう。