2018-06-26

デカルトとパスカル

ポール・ヴァレリー「デカルト」「『パンセ』の一句をめぐる変奏」を読んだ。

一個の「わたし」によるクーデタcoup d'État。自然という多様な現象に溢れた国Étatに対し、「わたし」が果敢に加える一撃coupこそ、精神、意識、思考、投機的短絡であり、デカルトが「方法」と呼んだものだ。

肉体がなくなったとしても、一撃一撃の積み重なりに対して、他人から多様な一撃が加えられることによって、その人は生き続ける。本当に死ぬのは、加えられる一撃が固定化してしまったときだ。

「説得」という行為は、それをする精神の能力が大きければ大きいほど、まわりの精神を殺してしまうものであり、生きたエゴティズムに関心を寄せるヴァレリーにとっては、パスカルほどの能力を有する精神が「パンセ」で垣間見せるデマゴーグ的側面が、受け入れ難いものだったのだと思われる。

生きたエゴティズムの戯れ。デカルト観、パスカル観、ヴァレリー観もまた、各々が一個の「わたし」として思考し続ければよいだけのことだ。

そのような一個の「わたし」でありたいし、そのような一個の「わたし」にあいたい。

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