「すばらしい新世界」でバーナードやヘルムホルツのための
抜け道となった島を、ハクスリーは「島」という作品で示した
とも言えるが、ラダーのセリフを借りれば、この「島」という
答えもまた、絶対的なものではないはずだ。
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「島」p.76
扉にもあり、作中でもたびたび現れるシヴァの
モチーフが、この作品をよく表していると思う。wikipediaの言を借りれば、「不変絶対のブラフマンであり、
同時に世界の根源的なアートマン(自我、魂)である」、
「曖昧さとパラドックスの神などとも表現される」ような
存在であるシヴァの在り方は、固定化と発散の体現であり、
パラの究極の理想となっている。
パラでは抽象的物質主義よりも具体的物質主義がよしとされ、
さらにそれを具体的精神性まで変容させることを目指している。
「ことばとことがらのちがい」である。
過度なシンボル化が批判されていながら、「島」という一つの
小説として、一つのシンボルに落とし込まなければならない
ことの困難さは、相当なものだったと想像する。
それは、カーシャパにブッダへの答えを言語化させることと
同程度に酷であるはずだ。
「ただにこっとしただけ」とアミヤがつけたした。シンボル化なしには意識は存在しないが、シンボル化が
「だからわかったということがブッダにもわかったの。
だからブッダもわらいかえして、ふたりでにこにこわらいながら、
ずっとにこにこしていたの」
同p.251
行き過ぎると無意識に対する意識の優位性は極端に
低下するようにも思われる。
クモはハエの罠をしかけずにはいられないし、人間は
シンボルをつくらずにはいられません。
同p.207
シンボル操作の才能の持主は、たえざるシンボル操作にシンボルについては
おちいりがちです。そしてたえざるシンボル操作が障害に
なって、ものごとを具体的に経験することや、無償の恩寵を
うけることができにくくなるからです
同p.215
An At a NOA 2017-01-24 “教育の抽象化”
An At a NOA 2017-01-25 “何かを抽象化する”
An At a NOA 2017-01-25 “シンボライズとデジタイズ”
などにも書いた。
ハクスリーは「すばらしい新世界」のソーマに代わって、
「島」ではモクシャ薬を登場させた。
ドクター・ロバートが言うには、「大文字の〈意識〉が、あなたの
小文字の意識のなかへ流れこむにまかされる」そうだが、
最終章でモクシャ薬を体験するウィルと、「ハーモニー」で
ヌァザの実験体となったミァハには違いがあるだろうか。
「島」も「ハーモニー」もとても仏教的な作品と言え、モクシャ薬や
ハーモニープログラムは無我や悟りの境地に通ずる。
それは、投機的短絡たる意識の投機性を、本物の投機へと昇華させる
ということなのかもしれない(あるいは、理由付けの投機性は、
既に何らかの到達の跡だと考えるのは、あまりにも意識を持ち上げすぎ
だろうか)。
わたしをしてわたしでないものが何をしているかを、いつの日か意識が病気とみなされることで 、その理想は「正しい」
もっと意識的にならせること
同p.230
ものとして受け入れられるのかもしれないが、それを受け入れるのは
果たして何者なのだろうか。
どちらがいいのだろう―賢い社会に愚かに生まれるのと、意識のエゴイズムとしては、たとえこれらがある種の理想ではあるにせよ、
狂った社会に賢く生まれるのと?
同p.215
意識を存続させることに「正しさ」を見出すしかないのではないかと思う。
ハクスリーとしても、そういう意味でこのラストとしたのかもしれない。
「カルナ。カルナ」そして半音ひくく、「気づきなさい」
同.333
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