2016-09-30

現代思想_未解決問題集

現代思想の2016年10月臨時増刊号「未解決問題集」を読んでいる。

未解決予想のうち、クレイ数学研究所のミレニアム懸賞問題は
名前くらい知っているが、関連して取り上げられるものには
名前すら知らないものも多い。
それでもどことなく、執筆した数学者達の熱意が伝わってくるので、
読んでいてわくわくするのである。
本文中で紹介されているグロタンディークの格言、
問題は究極まで一般化すれば自然に解ける
に従うように、遥か深淵を見つめつつ、できるだけ読みやすく
書かれておりとても面白い。

冒頭の対談の最後で、ここでも人工知能の話が出てくる。
ある枠組みの中で、当該命題の整合性が確実になることと、
その確実性を人間が理解できるかは全く別物だ。
例えば、望月先生による宇宙際タイヒミュラー理論は、
理解こそ難しいだろうが、理屈をつけようとしている点では
あらゆる数学と同じように人間的な理解を目指している。
常に理由律でつなぎとめることが人間の意識のあるべき姿
であり、それを諦めたときにはもはや意識を捨て去るしか
ないだろう。
理由付けをせず、意味付けだけに従う判断機構は問を立てない。
問を立てて理由律を数珠つなぎにするまでもなく、「正しい」
ことがわかるからだ。
ただし、それは常に埋め込まれた正義に従うのみだ。

「集合論(=数学)の未解決問題」の章で、集合論的多元宇宙の
話が出てくる。
集合論的多元宇宙の考え方は、無限に分岐していく「可能な
集合論(数学)」像と、数学者の(少なくとも研究を促進させる
ための作業仮説としての)ナイーヴなプラトニズムの間の
折り合いをつけることを可能にする自然な視点を提供する
(集合論的、乃至数学的)宇宙観となっていると言えよう。
渕野昌「集合論(=数学)の未解決問題」
現代思想2016年10月臨時増刊号「未解決問題集」p.125
というのは、人間の意味付けや理由付けの在り方と対応する気もする。
意味付けによる判断は、大多数の人間に共通するユニヴァースVを
形成しており、そこから理由付けによってVの拡張であるV'やV''といった
ユニヴァースがそれぞれの処理系毎につくられる。
その処理系の単位は、かつては家族や部族といったものだっただろうし、
近代はそれを物理的身体にまで分解することで、individualという最小単位を
設定し、個人個人が自らの考えをもつという見方を強烈に推し進めた。
現代では、一つの物理的身体に実装された意識の中に複数のユニヴァースが
展開されつつ、それが複数の物理的身体間で共有されることで、individualが
divideされているようでanti-dividableのようにもみえるという状況になって
いるとも理解できる。

このユニヴァースたちの総体としての多元宇宙を数学の世界として
認めることで、不完全性定理によって宿命づけられ、集合論の研究の
進展によって異る集合論の宇宙の可能性として開示されることにさえ
なった数学の未完成性、不定性、非決定性と、(少なくとも数学者が
数学を推し進める上での便宜的な場としての)数学的プラトニズムの
間の決裂をさけることができるように思われる。
同p.124
理由付けという投機的短絡によって便宜的な場をつくり出し、常に判断を下す
ことで決裂を避けているのであれば、どうあってもたった一つのユニヴァースに
留まることはできない。
おそらく、「わかる」ことを諦めることで、たった一つのユニヴァースという
絶対的安定点に達することはできるのだろうが。

2016-09-29

自衛

「君の名は。」製作委員会がtwitterで著作権違反者の
指摘を行っているらしい。

違法アップロード側は摘発される例があったように思うが、
違法ダウンロード側は別件で起訴されたときに追求される
ということがほとんどなイメージだ。
法を整備しておくのは大事だが、いざ運用しようとすると
膨大な作業量が発生することや、そもそも通信の秘匿性と
バッティングしたりで難しいということなのだろう。
そこで、著作権を保持している主体が自ら指摘するという
事態になっているようだ。
ランサムウェアの件でも感じたことだが、国の対応は常に
後手であり、頼っていられない状況が増えてきているのは
確かだ。

そもそも著作権というのは、人間の理由付けに基づく生産、
あるいはその把握が有限であることに依拠しているように
思われる。
ボルヘスが描いたバベルの図書館のようなものは、書籍に限らず、
音楽、絵画等のほとんどすべての著作権物について、
ディープラーニングを通じた意味付けによって作られ得る。
果たしてバベルの図書館に収蔵されている本には著作権は
担保されるのだろうか。

犯罪と創造は多様性の同義語であり、一枚の硬貨の表裏のようなものです。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.269
という指摘があったが、犯罪も創造も、制御できなくなった
多様性は等しく人間の意識を脅かすのだろう。

〈帝国〉連合

Facebook, Amazon, Google, IBM and Microsoft come together
to create historic Partnership on AI



新時代の〈帝国〉は着実に地盤を固めつつある。
記事の冒頭にあるように、情報こそが〈帝国〉における
世界共通の通貨になり得る。
情報のデータベースを共有することまでは触れておらず、
運用の仕方についての意見交換から始まるようだが、
果たしてどのくらい上手くいくだろうか。
国民国家が踏んだ轍をなぞるだけに終始しては
面白くもなんともない。

ハードウェア寄りの企業でも、IBMとMicrosoftは
入っているのにAppleとIntelは入っていないが、
常任理事〈帝国〉入りできなくてもこれらの面々は
後から参加してくるだろうか。

A biased world can result in biased data sets and, in turn,
bias artificial intelligence frameworks.
とあるが、data sets自体にバイアスがかかるという
よりは、そこへの意味付けや理由付けに、正義という
バイアスが必ず埋め込まれる。
あるいは、そうしてつくられた評価基準の中で生きる
対象に正義が埋め込まれることで、data setsにも
バイアスがかかるという見方もできるかもしれない。
それはどんな集団をつくろうとも変わらない。
集団がその存続のために正義を必要とするからだ。

判断基準となる正義が常にぶれるようなかたちで
集団が存在することは可能だろうか。
意識がはらむ矛盾性はその端緒となっているが、
原則的には無矛盾性を旨とすることで成立しており、
無意識は無矛盾性に対してさらに従属的である。
無意識の側に振れて、完全に固定化した世界とは
対極にある、もう一つの究極の世界の在り方かもしれない。

意思決定

新国立の問題でもその力を発揮したが、ソーシャルメディアの発達によって
これまでにないかたちで世論が形成されるようになってきている。
絵を描く人間はこれまで以上に懇切丁寧に絵を示していかないと、
簡単にひっくり返されてしまうようになってしまったのは
由々しき事態だなあと思う。
An At a NOA 2016-03-19 “目先
日本の意思決定システムはここ数年で大分変わった感がある。
以前は引用ツイートにあるようなことは、一部では言われても
それが実際の懸案事項までのぼることは少なかったように思う。

近代は個人への分解と同時に、学問の細分化を進めることで、
人間の知識の発達を促した。
その代償として、ポアンカレのような、多くの学問の最先端に
通じている人間はもはや存在しなくなった。
学問の細分化によってすぐ近くの分野の言葉もわからなくなり、
異なる分野で同じような悩みを抱えているという状況はあり、
その反省から学際ということも言われるようになって久しい。

各々が自身の分野に関しては責任をもち、他分野との連携の
ために通信を行うという形式は、こういった細分化が進んだ
領域では望ましい。
話す言葉が少しずつ違う者同士での通信は確かに多少の困難を
伴うが、それでも目指すべき方向が定まっていればそれは
些末な問題だ。

日本の意思決定の変わりようは、そういった変わるべき方向に
関する共通認識の不在なのか。
単にリスクとコストについての認識違いや短期的判断への
偏りというだけな気がする。
それはもう、国自体が年をとったということの現れである。
まるで、もう長くはない余生を、何事もなく少しでも延命したいと
願っているだけのように見える。
固定化に向かうのも無理はない。
くだらん。

2016-09-27

懲役刑

自由刑の一つである懲役刑には隔離、抑止、矯正の
3つの目的があるとされているが、同じく自由刑である
禁錮刑との最大の違いは矯正の仕方だ。

懲役刑では勤労の美徳という思想に基づき、労働を課す
ことが矯正につながるとされているが、労働が機械に
アウトソースされた時代にも懲役刑は残るだろうか。

そもそも、人間が労働しなくなった時代においては、
生きること自体が禁錮刑に近い様相を帯びる。
身体的には隔離もされないし、抑止もされていないが、
やるべきことが用意されずに生きることは、意識を具えた
人間には耐えるという表現が適切なレベルでつらいように
思われる。

その時代においては、絶えず新しい情報に触れ、理由付けを
し続けることで意識を保つ努力をすることになると思われる。
意識など失ってしまってよいという向きは、早々に日常の行為を
ルーチン化し、すばらしい新世界へと旅立つだろう。

それは「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界のように
合理的なものになるだろうか。
そうだとすれば、新世界における自由刑は、VR装置を用いた
強制的な意味付けの促進による、合理的評価機関への収斂
というかたちで矯正を行うというものになる可能性すらある。

プログラミング言語

アルゴリズムをプログラミング言語として抽象したのは
卓見だなと思う。

低レイヤの処理というのは、理由付けしながら意識的に
やるようなものではなく、意識のあずかり知らぬところで
自動的に行われるべきものだ。
それは、犬という単語でもって、ディテールを捨象した対象を
理解するときに、経験に基づいた意味付けによって捨象が
行われるのと同じだ。
その対象が犬である、あるいは犬でない理屈を一々並べて
判断などしていられない。

四則演算、文字列操作に限らず、並列化やGCといった処理も
言語として抽象することで、より意識的な操作に注力できる。

究極的にすべてが意味付けされた世界では言語が不要に
なるのと同様に、あらゆるアルゴリズムがすべて意味付け
されることでプログラミング言語も消滅するという事態は
想定し得る。
ただし、それは完全に固定化し、時が止まった世界である。

みんなで一つの夢をみたいという欲望が存在する。

それは、文字通り寝ている間にみる夢に限らず、
一般的に同じ正義を共有するということ自体が
そういった欲望の現れだと言え、それは可能な限り
大きな集団を形成したいという欲求と同値である。
世界が平和になり、人類皆兄弟という世界観もまた
この一種であるから、やはり平和というのは正義が
一意的に決まる状態のことを指すのかもしれない。

VRは視覚的に先行することで、まずは見ることから
この目的を達成しようとしている。
現実とは異なる情報に対して、同一の意味付け、
理由付けを施した映像を共有することで、多人数で
一つの夢をみることを可能にする。
同地性や同時性の制限を解消するために、参加者の
行動はある程度制限される。
同時性の方がその傾向は強くなるだろう。
現実においては同時に観測されないものを、同時な
ものとして仮想するには行動がかなりの程度に方向
付けられる必要があるはずだ。
それを如何にして参加者に気付かせずに行えるだろうか。

こういった先端技術に限らず、芸術や宗教、科学等にも、
唯一つの見方を提供するタイプのものは多い。
理由付けによってそれを維持している間はまだ過渡期であり、
意味付けされるまでに形骸化することで完成する。
それは歴史が伝統になる過程だ。
その段階では多くの場合、無私性が前提され、参加者は
個体ではなく、集団そのものに一体化されるように思われる。
そういう意味では、科学はまだまだ揺籃期にあると言える。
あるいは、科学は揺籃期に留まることにその存在意義が
あるのかもしれない。

判断機構としての意識や無意識は、せっかく築き上げた基準を
できるだけ維持しようと固定化に近づく一方で、既存の情報とは
異なる情報に備え、個人という振れ幅を残しておこうとする。
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス

p.s.
「シン・ゴジラ」と「君の名は。」で感じた違いは、この振れ幅の違いから
理解できるだろうか。
それは現実と夢、科学と宗教の違いに近い。
これは「君の名は。」で夢が題材になったことや、「シン・ゴジラ」の方が
科学的考証がしっかりしているといった話ではなく、集団と個人という
グラデーションの中で、どこに位置付けられているか、という話だ。
「シン・ゴジラ」が日本という集団の物語である要素が強く、
「君の名は。」が瀧と三葉という個人の物語である要素が強いのに、
受け手側としてはそれが逆転するというのはとても面白い。

2016-09-26

「今、ここ、わたし」から「いつでも、どこでも、だれでも」への
移行という流れは確かにあるように思われる。

specialなものからgeneralなものへの移行という意味では、
ある種の抽象化として理解できるのかもしれない。
建築のインターナショナルスタイルは典型的であるし、
企業が大規模化した際の仕事の細分化の仕方にも
こういった傾向はみられる。
インターネットが普及することで、いつ、どこにいても
違いがなく、多くのサービスにとっては、利用者が
だれであっても大きな影響はないということは増えている。
それは、地元の商店街での買い物とAmazonでの
買い物を比較するとわかりやすいかもしれない。
純正律に対する平均律、デザインにおける明朝体に対する
ゴシック体の普及、というのはちょっと外れているかもしれないが、
個人的にはこの流れに含めてもよいと思っている。

個人というアイデンティティに固執しているようでいて、
いろいろなサービスにデータが分散し、一つのサービスの
中でも複数のアカウントをもったりすることもある。
その一方で、個人情報という単位が強く意識され、
自ら分散させた情報が、あずかり知らぬ範囲までには
分散しないように努めている。
そこにあるのは「今、ここ、わたし」にしがみつきながら、
「いつでも、どこでも、だれでも」を渇望する、ねじれた姿だ。
物理的身体という殻を保持していることで、個人という単位を
何とか保っていられているが、その殻がなくなったとしたら
「いつでも、どこでも、だれでも」の潮流の中で個人を維持できるだろうか。
個人情報の流出は、それが別の領域の情報とリンクすることで問題が
大きくなるが、それは現実にある物理的身体によって個人というハブが
保持されていることで成立するので、個人がなくなると、もはや問題の
拡がりようもなくなるはずだ。

身体なき意識の限界は、この辺りにあるのかもしれない。
individualはdividualになるのではなく、anti-dividableになっていくのだろうか。
An At a NOA 2016-07-05 “切り分け
ソフトウェアがanti-dividableとならないための防壁として、
ハードウェアという殻を持ち続けたいという欲求が残る、
という説明は妥当だろうか。

君の名は。

「君の名は。」を観た。

面白かったし、絵もきれいだったのだけれど、
何というか、新海誠に期待し過ぎていたのかもしれない。
小学校のときに片想いしていた相手に、
同窓会で20年振りに会ったとき、相変わらず
きれいなんだけど、自分の中で美化されていた
イメージとのズレに勝手に幻滅してしまうような感じだ。

ヒカルの碁で言えば、佐為の影をみて進藤ヒカルを
追ってきた塔矢アキラが「ふざけるな」と言ったときの
気分に近いが、そこまで悪い映画ではないのは確かだ。
新海誠だと思って観なければよかったのかもしれないが、
新海誠でなければ観に行かなかったのも確かだ。

個人的な好みとして境界条件がより厳しく設定されている
ものを好む傾向が強いのかもしれない。
「君の名は。」も震災を意識して製作したようだが、
同じく震災を中心に据えた「シン・ゴジラ」とは
方向性が違いすぎて比較が難しい。
「シン・ゴジラ」は庵野秀明の変態レベルのこだわりの強さで
意味付けに耐えるレベルのディテールに仕上げ、現実という
境界条件を可能な限り守っているように感じた。
一方で、「君の名は。」は作画こそ細かいものの、設定としては
何でもありに感じられてしまう。

芸術をつきつめようなんていう人間の大半は、おそらく
jockであるよりもnerdであることの方が多く、
庵野秀明も新海誠も優れたnerdだと思っている。
それは、Wikipediaの当該ページでMITでの用法として
取り上げられている意味でのそれであり、
必須項目であると同時に最大の賛辞でもある。
受け手である自分もnerdの傾向が強いために、「シン・ゴジラ」は
製作者もnerd、活躍するのもnerd、nerdが好きな要素も
盛りだくさん、というのがはまったのだと思う。
「秒速5センチメートル」は新海誠のnerdらしさが全開で、
nerd界隈ではかなり高評価されている気がするが、
「君の名は。」はそのあたりがだいぶ薄められたために、
間口は広がったが、個人的にはうーんといったところなのだろう。
下記のツイートがこのあたりを上手く表現していると思う。
でも、音楽を入れるタイミングの良さはさすがという感じで、
あの自然さというか王道っぽい感じはとても好きである。
あと、何となく「インターステラ―」を思い出した。
こちらからは以上です。

昨日は披露宴の余興で中島みゆきの「糸」を歌った。

曲紹介を頼まれたので、改めて歌詞を見てみて思ったのは、
この曲も理由付けと意味付けの対立として理解できるな
ということだ。

この曲は1番も2番も「なぜ」という問いかけで始まり、
いずれの問に対しても解が与えられないまま、
最後には「逢うべき糸に出逢えることを人は仕合わせと
呼びます」として、ただ事実がよいということだけを
示して終わる。

問を立てながら、解を与えず、理屈抜きによいものを
提示するというのは、理由付けに対する意味付けの
優位性を語っていると言える。

人間は何事にも問を立てては理屈を与えるということが
好きであり、それが意識そのものとも言えるが、
究極的によいものというのは、自然=無意識=意味付け
によって得られるのである。

2016-09-24

golangでh2database

h2databaseにはpostgresqlプロトコルで接続できると
書いてあるのだが、ちょっと前に試したときにはsql.Openで
失敗してしまっていた。

久々に試したところ、h2の起動の仕方が悪かったらしく、
無事golangからいじれるようになった。

環境
  • Linux Mint 17.2 Rafaela
  • golang1.7.1 linux/amd64
  • h2-1.4.189

1. h2の起動
 h2のフォルダにh2.shがあるので、/bin/sh h2.shで起動していた。
 h2.shの中で、
java -cp h2*.jar org.h2.tools.Console "$@"
 として起動していたのを、
java -cp h2*.jar org.h2.tools.Server "$@"
 に変更。
 起動時に
TCP server running at tcp://アドレス:ポート (only local connections)
PG server running at pg://アドレス:ポート (only local connections)
Web Console server running at http://アドレス:ポート (only local connections)
 と出るので、PGサーバのアドレスとポートを把握する。

2. golangで開く
 コードはこんな感じだ。
 (sql.Open()の引数が長くなったので改行してあるが、実行時はつなげる必要あり)
package main

import (
    "database/sql"
    "fmt"
    "log"

    _ "github.com/lib/pq"
)

func main() {
    db, err := sql.Open("postgres", "host=アドレス port=ポート user=ユーザ名 dbname=DBファイル名;
        MODE=PostgreSQL sslmode=disable")
    if err != nil {
        log.Fatal(err)
    }
    defer db.Close()

    rows, err := db.Query(`select id from info`)
    if err != nil {
        log.Fatal(err)
    }
    defer rows.Close()
    for rows.Next() {
        var id string
        rows.Scan(&id)
        fmt.Println(id)
    }
}

これでデータ整理でさらに楽できる。

2016-09-23

思い通り

最近の鉄道関連のニュースで、駅員や運転士の素行を
指摘するものや、駅員がキレて逃走したというものが続いた。

脚を投げ出していたり、あぐらをかいていたり、列車から
線路に小便をしたり、遅延のことで客に当たられて
嫌になってしまったり。
こんなことで指摘され、謝罪して、というのを見ていると、
大変だなという感想しか出てこない。

これに対する反応の中で、駅員には人間らしさを求めておらず、
機械のように仕事をするのがいいってことだろ、というような
指摘を見かけたが、ちょっと違う気がしている。

それよりも、自分の思い通りに行動する対象を求めている
だけのように思われる。
人間によるあたたかみのある対応云々というのは建前で、
現状手に入る最も融通の効くシステムが人間であるという
だけなのではなかろうか。

技術的な問題が解決すれば、人間以上に融通の効く
システムをつくることは可能なはずである。
あらゆるサービスがそういったシステムで置換されたとき、
サービスの受け手の要望が通らないケースのほとんどは、
他の受け手の要望との干渉ということになる。
そのとき、怒りの矛先はどこに向かうのだろうか。

忙却

この図、すごくわかる。
忙しいなと思っているときほど、ブログの記事が増え、
忙しさを感じなくなるほど忙しくなると、ブログの更新が途絶える。

つまり、忙しさを感じているときというのは、実際に忙しいわけではなく、
心理的に追い込まれているだけなんだな、という。

そう言えば、忘と忙は構成要素を同じくしているが、
忘却というのは、時間領域における処理項目が多くなった結果、
ルックアップのタイムアウトを取るために実装されるのに対し、
忙しさというのは、空間領域における処理項目が多くなった結果、
処理項目の優先順位付けのために実装されるという点が異なる。

つまり、忙却によってブログの更新が途絶えるのである。
そんなときはGoogle Keepにメモだけ残しておいて、
忘却からも忙却からも逃れられるようにしておくのが
最近のベストプラクティスだ。

p.s.
今日の記事が多いのは逆の状況で、17時締切の論文投稿が済んで
開放されたからである。
Google Keepという忙却の彼方に沈んでいた考えはあらかた引き上げた。

竜王の城

東京も、ど真ん中に入って移動しなければそれほど消耗しない。
毒マスに囲まれた竜王の城のようだ。

それでも金銭的には消耗するという指摘は成り立つが、
それよりも精神の摩耗を避けたい向きにとっては消耗が少ない。
〈都市〉にいながら、必要に応じてネットワークの中の〈田舎〉に
潜るほうが、その逆よりもはるかにマシな場合もあるのである。

p.s.
DQ1では竜王を倒すと毒マスがお花畑に変わったが、
東京にとっての竜王は何だろうか。
毒マスがお花畑になる日は来るだろうか。

境界条件

何かを設計するという行為には必ず境界条件が伴う。
(「設計する」は「つくる」「描く」等、なんでもよい)

境界条件には空間的なものも、時間的なものもあるが、
時間的なものは初期条件と呼ばれることも多い。
しかし、締切のような時間的境界条件は初期条件という
言葉にマッチしないのでここではまとめて境界条件と呼ぶ。

境界条件のない解は一意的に定まらないことが多いという
意味で、ユニークさに欠ける。これは不定と呼ばれる。
境界条件が確定していくことで解はよりユニークさを増していく。
系の自由度に対して、独立な境界条件の数が上回ると解が
求まらない可能性があり、こちらは不能と呼ばれる。
現実では不能にならないように系や境界条件が変更される。

境界条件がすべて出揃った状態で設計できるのは最もよい状態だ。
系がしっかりと構成されていれば、境界条件を精査するだけで
ほとんど解が一意に定まる。
一方、境界条件が後出しで出てくるのは最悪の状態だ。
その都度求解しなければならないし、解を変更しなくて済むように
境界条件の方を変更し出したらもう収拾がつかない。

おそらく、人間が最後まで担当できるのは、評価基準も含めた
境界条件の設定になる。
境界条件を満たしながら、基準に沿って評価値の高いものを生成したり、
生成されたものを基準に照らして評価するのは容易に機械化可能である。
評価基準や境界条件が変化する場合にも、変化に法則性があったり、
トライアンドエラーを繰り返すことで変化の特徴抽出をすれば、
意味付けの評価機関に落とし込める。

一方で、何を良いものとするかについてのコンセンサスをどこにするかは
時間の都合で理由付けによるしかない。
収束性が悪い、あるいは収束しないためだ。

実作業にかかる時間は自動化することでいくらでも切り詰められる。
その分、境界条件の見極めに時間を割くようでありたい。

p.s.
この文章を打つ際の漢字変換においても、人間が行うのは候補を
絞り込むための境界条件の設定と、正解値の決定のみであり、
変換候補の生成はIMによって自動的に行われる。

自然に生きるには人生は短すぎる

まあ、期間については触れないでおくとして、科学や歴史が
気付きの寄せ集めだというのは妥当な指摘だ。

あらゆるものに判断を下すという行為、それはつまり生きると
いう行為とほとんど見分けがつかないのだが、それを遂行
するためには二通りの最適化がかけられる。

一つはトライアンドエラーを繰り返すことで、特徴抽出を行う方式。
もう一つは数少ない試行結果から投機的に設定した法則に従う方式。
前者は意味付けであり、後者は理由付けである。
科学も歴史も後者に属しているという指摘であり、意識が後者に属するの
だからさもありなんというだけである。

自然に生きるとはつまり、意識を実装せず(あるいは実装した意識を使わず)、
無意識に従ってあらゆる判断を下そうという試みであり、それを行うには
一つの人体の耐久性はあまりに乏しい。

多数の人体を使って得られた訓練データを共有し、引き継ぐことで
特徴抽出の評価機関がリセットされないようにすれば、
無意識に従って生きる人体は可能になるかもしれないが、
果たしてそれは意識を実装している場合と本質的に違うところがあるだろうか。
単に意識をアウトソースしただけのように思える。

2016-09-20

評価機関

人間の意識という評価機関が、生命という秩序性を優先し、
一切の矛盾を排除しようと思ったら、決定的に振る舞うことになる。
その行き着く先は、同一の状況に対しては同一の値を返す写像であり、
それは痴呆と見分けがつかない。

そこから得られる帰結は二通りあり、
一つは、意識は非決定的な評価機関であるべきで、矛盾をはらむのは
必要なことである、というものであり、
もう一つは、決定的な評価機関を得ることこそ生命の目標であり、
意識はその途中で生まれた病気のようなものである、というものである。

究極の評価機関は、すべての判断に関する意味付けされた答えを有しており、
それになるべきか、ならざるべきか、という違いということでよいだろうか。

まあ、いずれにせよ、最大の困難は同一性の判定にあると言ってよい。

仕事をしたいか

仕事をしなくて済むのがよいと口では言うものの、やはり仕事を
していたいと思うのが、意識を保ちたい人間の性なのだろう。
An At a NOA 2016-05-02 “自動化
ということを以前書き、それ以来よく、「やっぱりなんだかんだ
言って人間は仕事してたいんだよね」と思うことが多い。

「仕事をしたいのではなく、仕事をしていないのをみられたくないのだ」
という反論があるかなー、ということを考えていたのだが、やはりそれは、
勤労の美徳というものは、仕事をすることがよいことだという正義を
掲げないと人間社会が成立しなかった時代の名残に、いつかなっていく。
An At a NOA 2016-05-26 “もったいない?
という時代が来たときに、じゃあ仕事しなくてよいですよ、と放り出される
ことが想像できていないだけなんじゃないかと思われる。

仕事という言葉で代表される、やるべき理由付けがされた一連の動作というのは、
人間の意識にとって、文字通り精神安定剤となっている。
理由付けによって構築された意識は、理由付けによるエネルギーの供給が
絶たれると死の淵に落とされる。
(あるいはそこで供給されているのはシュレディンガーが「負のエントロピー」と
呼んだものと言えるかもしれない。)

ウロボロスが解体されたら、それはもうウロボロスではないのだ。

組織

少し前に新しい組織に参加して以来、
組織の在り方について考えることがある。

組織も集団であるから、その集団にとっての正義を
維持することが、その組織を維持することにつながる。
それはほぼ同義だと言ってよい。

維持の仕方には大きく分けると二つあり、
一つは構造によって維持される正義、
もう一つは理屈によって維持される正義、である。

構成員がその集団の一員であることに熱心でない場合、
前者の方針をとるしかなく、これまでの多くの組織は
そうであったし、今ある組織もほとんどはそうである。
その種の組織では、正義を維持するための構造を抽象し、
その管理にコストを割くことで、正義を維持する。
クライアントサーバモデルだ。

一方、理屈によって正義を維持する組織においては、
組織体制の在り方は重要ではなく、管理という概念は
存在しない。理屈で支えられた正義を信仰することで、
各々が自分自身、あるいは組織に属する他人の
あるべき姿を描くことができる。
幻影旅団や個別の11人のような集団であり、
P2Pモデルである。
宗教は必ずしもこちらであるということはなく、
前者として形骸化していることもままあるだろう。

これらの組織は、意味付けによる集団と理由付けによる集団と
言うこともでき、組織としての存続期間の期待値の長さという
点でも、理由付けに対する意味付けの圧倒的優位というものが
感じられる。

CD

紙の本以外に、CDも未だによく買う。

日本の合唱のCDはメジャーなオンラインのサービスで提供されることが
ほぼ皆無だという消極的な理由もあるが、Brad Mehldauみたいな、
Google Play Musicでも提供されているようなものでも、好きなものは買う。

でもCDは、
ソフトウェアはハードウェアに非依存でいられるだろうか。
それは、身体なき意識、あるいは紙媒体なき書籍、
などと同じ問のように思われる。
An At a NOA 2016-09-09 “貨物輸送
の序列に並び得る対象のようには思われない。
CDの場合、プラスチック円盤というハードウェアがハードウェアとして
情報を保持していることを意識することは、自分の場合はほとんどないと
言ってよい。
それは確かに表面の凹凸に情報が刻まれており、レーザで読み出すことで
デコードされているのだが、そこにCDプレイヤーという変換器を挟まなくては
ならないために、依存すべきハードウェアのようには感じられない。

レコードはどうだろうか。
あるいは、書物でも、マイクロフィルムはどうだろうか。
このあたりのどこかに線引きがあるというのは、
眼鏡を通して見るのは「現実」として受容できるのに、ヘッドセットを通して見るのは
別の現実として受容してしまう、ということと、たぶん同じ話だ。
つまり、外部圧縮過程の侵入に対する、ささやかな抵抗と解釈できる。

2016-09-16

意識の並列化

@kaoriyaの意識の並列化のツイートに対して
@yukihiro_matzが反応している。
個人的には、意味付けの回路は並列化できるけど、
理由付けの回路は並列化できないという意味で、
@yukihiro_matzの意見に賛成である。
ただ、それは、おそらくリソース不足ということではなく、
理由付け回路は一つであることが、実装上の
要件定義になっているのではないかと思う。

理由付け回路が一つであるというのは、判断結果を
一つに決めることと同義である。
コンセンサスとは、一つに絞ることである。
正しさも、現実も、意識も、今も、ここも、わたしも、たった一つで
あってくれることで、できる判断があるのである。
それを行うために意識をわざわざ実装したのだとすれば、
回路を二つ用意することは、ある種のバグである。
こういうことを書くと、多重人格者への差別だとかいう、いらん批判を
受ける可能性もあるのだが、その状態を統合失調症という病気と
みなすのか、意識の多様な在り方の一つと呼ぶのかは一意的でない。
意識自体が病気とみなされないのも、それを判断するのが意識だからに
過ぎず、別の判断機構がどのように判断するかは一意的でない。

そもそも、多重人格者の内部において、果たして同時に理由付けの
回路がはたらく瞬間はあるのだろうか。
コンテクストスイッチのように、シングルコアでマルチタスクを
こなしているだけなのであれば、回路は一つである。
多重人格者内部での会話は、半二重semi duplexなのだろうか、
全二重full duplexなのだろうか。大変興味深い。

元のツイートで、@kaoriyaが同時通訳の例を挙げているが、
カンデル第一章にあるバイリンガルの早期と後期による活性化領域の
違いを考えると、早期バイリンガルは意味付け回路で処理を並列化
することで、高速な言語処理を達成しているのかもしれない。
だとすれば、言語処理のかなりの部分が理由付けでなく意味付けに
基づいているのかもしれない。

2016-09-15

多項式時間

NP完全性は理由律の限界として理解できるか。

これは「系統樹思考の世界」を読んでいたときに
残していたメモだが、「Logical induction」にも
多項式時間の話が出ていたので思い出した。

深層学習のような意味付けに属する過程には
多項式時間という概念がないと思われる。

データ量が十分でない状況において判断するために、
理屈をつけなければならない。
その理屈が人間に理解可能なかたちで設定できると
判断できるということが、クラスPに属するというという
ことなのかもしれない。

2016-09-13

Logical Induction

New paper: “Logical induction”


MIRIがLogical inductionというタイトルの論文を出した。

理由付けのモデル化に相当するだろうか。
  • the ability to recognize patterns in what is provable
  • the ability to recognize statistical patterns in sequences of logical claims
MIRI Blog 2016-09-12 New paper: “Logical induction”
の2つを同時に考慮しているという意味では、前者が意味付け、
後者が理由付けということなのかもしれない。
まあでも、proveという概念自体、理由付けに依拠するものであるから、
ここでいうrecognize patternsというのは、いわゆるパターン認識とは
別の過程として理解し、Logical induction=理由付けとみなすのが
よいのだろう。

following propertyiesとして挙げられているものの最後に、
やはりというべきか、ゲーデルの不完全性定理絡みの話が出ている。
意味付けや理由付けによる体系を「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論」と
呼べるのかはわからないが、もしそうだとすれば、無矛盾性により判断不能な命題が
存在してしまうことは、厄介な問題になるはずだ。
これを回避するために、矛盾性をはらむことを許容しているという可能性はあるだろうか。
An At a NOA 2016-08-05 “知の編集工学
Logical inductionも平時についての理論としてはよいモデル化だと
思えるが、判断不能という非常時に備えた、何かしらの矛盾性が
要素として入ってくることになるのではなかろうか。

個人的には理由付け=投機的短絡speculative short circuitという
表現がしっくりくるので、Logical inductionのようなuncertaintyの
下での判断機構に関する話題は大変興味深い。


p.s.
そう言えば、メイヤスーの展開する思弁的実在論の「思弁的」の訳も
speculativeである。
広辞苑の「思弁」の項には、
①実践に対して、観想・理論の意味。
②経験によることなく、ただ純粋な思考によって経験を超えた真理の認識に
 到達しようとすること。(後略)
【思弁哲学】(spekulative Philosophie)
経験によらず、もっぱら思弁に基づく哲学。(後略)
広辞苑 第六版
とあるが、哲学的にはこの意味でのspeculativeであって、「投機的」
ということではないのだろう。

2016-09-09

リアルさの再現

CG女子高生「Saya」が超リアル 「不気味の谷」超えた執念の手描き


CGの側がリアルさの追求のために、非対称性、ほくろ、
しわ、髪のはね、等を織り込んでいくのに対し、
人間の側は整形等によってそういったディテールを
削っていくという構図はとても面白い。

シン・ゴジラ」のリアルさの話でも触れたが、ディテールが
意味付けに耐えるようになることで、リアルさが生まれる。
WaveNetはそこをCNNに任せることに成功したものだと言える。
ドット絵を高画質化する技術やwaifu2xなんかもそうだ。
人間が脳内でしばしば無意識のうちに自動変換していた内容
An At a NOA 2015-05-21 “waifu2x
を、脳以外の装置で生成、出力することがリアルさを生むというのは、
リアル=現実の何たるかを教えてくれるようだ。

意識とか心とか呼ばれるものを人工知能に実装すべきかという
問題も、そういったディテールのリアルさという観点からは、
表面的には実装するべきという方向になるのかもしれない。
理由付けはしていないけれども、あたかもしているかのような
処理過程を意味付けにより再現するような。

哀しいかな。
人間は現実が恋しくてしょうがないのかもしれない。

p.s.
twitterを直に埋め込んでも警告が出なくなった。
今後は埋め込みを使うように戻そう。

常温核融合

米で特許 再現成功で「常温核融合」、再評価が加速


今は「凝縮集系核反応」や「低エネルギー核反応」と呼ばれるらしい。
核融合炉については、2月にドイツのマックス・プランクプラズマ
物理学研究所で実験が成功したというニュースを見て以来だ。

数百℃のオーダーで核融合が進行するというのは
現状の物理学の枠組みでは理由付け不能であり、
似非科学とみる向きも多いらしい。

科学と似非科学の違いは、理由付けに基づくコンセンサスの
有無である。
コンセンサスが正しさを決めるのだから、正しいかどうかではない。
意味付けできるほどの量の情報が得られない現象に対しては、
理由付けにより科学になるまでは手を出さないというのが、
人間にとっての賢明さの在り方である。

こういった研究の末にエネルギー問題は解決したとして、
その先にはエントロピーの問題があるだろうか。
それはつまり、生命という秩序の限界についての問題である。

WaveNet

WaveNetという音声合成システムがDeepMindから発表された。


これ、すごいな。

ParametricやConcatenativeと比較したサンプルの
自然さもさることながら、Knowing What to Sayの節で、
text sequenceなしで学習させた場合のサンプルが衝撃的だ。
おそらく、ほぼすべての人間はリスニングから言語習得を
開始すると思われるが、原初のリスニングはこうだった
だろうな、という感覚を呼び起こされる思いだ。

耳を介して取得した情報を意味付けすることで人間の声を
認識できるようなセンサ特性をもつ神経系を構築し、逆に
そのセンサを使って人間の声と認識できるような音を選択し、
CNNという意味付けシステムに与えることで、人間の声を生成する。
人間の声に限らず、楽器の音もやることは同じだ。

その上に付与される、言語や音楽という理由付けが絡む要素には、
どこまで踏み込めるだろうか。
例えば、レンブラント風の絵を描いたりする実例は出てきているが、
それはどちらかというと、見る側の意味付け機構に依存した例だ。
新しい言語体系や音楽理論を構築することも可能だろうか。
あるいは、大量のデータを取得できているうちは、理由付け
なんていうものに必要性を見出さないのかもしれない。

貨物輸送

鉄道を活用した物流実証実験を実施します!


よい着眼点だと思う。

移動の問題は、どこかまだ先のことのように思われ、
省庁の移転が滞っていたり、高速道路やリニアの
開発もまだまだ行われているが、エネルギィ問題が
解決しない限り、いつかはやってくる話だ。

人の代わりにものや情報が移動する時代において、
物理的には〈都市〉=「千三百万の人間を、各各〈独り〉で
生かすことができる能力を持っている、マシン。」にいるのに、
心理的にはそれに対抗する〈田舎〉にいるという、
究極の社会を築くことになるだろうか。

ソフトウェア側の実験は、すでに数あるソーシャルメディアへの
落とし込みとして始まっているが、ハードウェアの方も少しずつ
準備が始まっているようだ。

ソフトウェアはハードウェアに非依存でいられるだろうか。
それは、身体なき意識、あるいは紙媒体なき書籍、
などと同じ問のように思われる。

DecNef

顔の好みを好き・嫌い両方向に変化させるニューロフィードバック技術を開発


大変興味深い研究。

ただ、顔の好みの好きと嫌いを異なる認知機能としているが、
これって同じ認知機能に対する状態の違いとして整理可能では
ないかという点に疑問が残る。

あと、機能局在論に対する反局在論という呼び方は非常に誤解を
招く表現のように思われる。
機能全体論は、脳全体での活動パターンが認知機能と対応し、
機能局在論は、局所的な脳領域の活動パターンが認知機能と
対応した上で、全体を横断するネットワークが存在する、というように
理解をしていたので、帯状皮質という局所的な領域の挙動に着目するのは
局在論ベースだと感じられる。
(というか、カンデル神経科学第1章を読んだ時にも思ったが、
局在論よりもコネクショニズムという名前の方が合っている。)

それとも、機能全体論とは、ある程度どの領域でも、任意の認知
機能をエミュレート可能という意味で、機能局在論とは、認知機能と
活性化領域の対応が固定的という意味なのだろうか。
そういう意味なのであれば、反局在論という呼び名は正しいと言える。
そして、活性化領域の局所化が単なる実装上の都合なのだとすれば、
特定の機能をどこに割り当てるかは調整可能だろうから、方向性としても
妥当だと考えられる。

2016-09-07

細かすぎて伝わらないモノマネ

「シンゴジラのここがリアル!」というワイドショーの
特集を見ていて、要するに世間で言うところの「リアル」
ってえのは「細かすぎて伝わらないものまね選手権」なんだな、
という思いを抱く
ふわうさ  ⚒ 一汁一菜
@mannin
https://twitter.com/mannin/status/773317495323176960
リアルさの共通認識が得られたのであれば、細かすぎるかも
しれないけど、伝わってはいるのでは。
そのリアルさがあったからこそ、「シン・ゴジラ」は、多くの人が
自ら体験したことのように語りたがる対象になったのだ。

そもそも、「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」とは、
大量の観察を行った人間だけが行える「意味付けによる模倣」を
披露することで、「理由付けによる模倣」とは一線を画した
リアル感が得られるところが面白く、
リアル感は「伝わる」んだけど、その理屈は「伝えられない」
という意味なんだな、などということに思いを致した。

これって、いわゆる「現実」も同じ仕組みではなかろうか。
すべてが理由付けされた情報というのはおそらく現実感に乏しく、
だから現状のVRはまだまだだと感じられてしまうのかもしれない。
意味付けのレベルでセンサ間(一つの人体の中でも、人体間でも)の
コンセンサスが取れるようになると、より現実になれるのでは。

God is in the detail. (神は細部に宿る)
Ludwig Mies van der Rohe
建築学科出身なら誰もが知っている標語だが、改めて解釈してみると、
大いなる原因である神は「現実」の原因でもあり、
「現実」感を支配する意味付けと理由付けの差が最もはっきり出るのが
ディテールである、という理由付けができる、ということなのかもしれない。
注意すべきなのは、ディテールは意味付けによって「現実」感を
生み出すため、それ自体は神=理由付けの終着点ではないことだ。
(ここでの「現実」は「美」「真」等と読み替えてもよい。)
God is the detail.ではなく、God is in the detail.なのである。

2016-09-06

GetDeviceCaps

golangのshinyでwindowsの描画がおかしいと思ったら、
5月に入ったコミットのせいだった。

windraw.goの中で、GetDeviceCapsでSHADEBLENDCAPSを
調べているのだが、手元のPCでは正しい値を返さないらしく、
AlphaBlend関数が使えないと判断されてしまっているようだ。

取り急ぎチェックを飛ばすようにして事なきを得ているが、
そもそもこのチェック方法はもう使われていないんじゃなかろうか。
MSDNには「windows98とwindows2000」と書かれている。

代替方法が分かり次第報告しておこう。

2016-09-05

表現の自由

伊被災者をパスタに風刺 シャルリー・エブドに非難集中


シャルリー・エブドの風刺画がまた話題になっている。

表現の自由に限らず、あらゆる自由には責任が伴う。より精確には、責任を問いたいがために自由が想定される。

裏に、問う必要がない責任については、自由が想定されない、という命題もまた、この一件の報道を見ていると真だと感じられる。

その表現によって、表現者がどんな責任を負わされているのかについてのコンセンサスが得られない限り、集団から表現の自由を与えられることはないのだろう。


p.s.
「逆に」という表現は日本語として自然だが、「裏に」という表現は不自然だ。論理学で言うところの「逆」はconverse、「裏」はinverseだが、converselyもinverselyも「逆に」と訳されるのは納得がいかない。
ということで使ってみた。やはり不自然である。

2016-09-04

Firebase

Googleドライブ上でウェブサイトをホスティングできる
機能が地味に便利で、結構使っていたのだが、
8月いっぱいで、終了になってしまった。

htmlやcss等をホスティングだけしてくれればよいのだが、
終了を知らせるメールで、代わりとしてFirebaseを勧めて
きていたので、使ってみた。


1. npmを入れる

2. FirebaseのCLIをインストール
npm install -g firebase-tools

3. 作業フォルダの準備
mkdir sample && cd sample
firebase init
ここでいろいろきかれるので、
[*]Hosting
[*]create a new project
を選び、後はデフォルト値とした。

4. Firebase consoleでプロジェクト作成
プロジェクトを作成すると、「プロジェクトの設定」の中に
プロジェクトIDが書いてあるので、
firebase use プロジェクトID
としてプロジェクトと接続する。

5. ファイルのデプロイ
デフォルトでは作業フォルダに置かれたpublicフォルダ内の
ものがデプロイされるようだ。
中身を編集して
firebase deploy
すると、デプロイ後にウェブサイトのアドレスが表示される。

しばらくはこれでいこう。

p.s.
まったく関係ないが、stの表示に使うための
見出し明朝のフォントが欲しい。
游明朝体 StdN Eがよさげ。

2016-09-02

量子論の基礎

量子論をちゃんと勉強し直すために、
清水明「量子論の基礎」を読んでいる。

物性化学あたりの授業でシュレーディンガー方程式を
やった記憶はあるものの、この本を読むことで、
量子論の根本的な考え方が理解できるように
なったように思う。
stをコーディングするにあたって、線形代数をかなり
勉強し直した影響もあるが、記述がとてもわかりやすい。

波束の収縮という、言葉だけでふわっと理解していたものが、
理想測定を行ったときにおきる、測定した物理量に対応する
演算子の固有ベクトルの方向への状態ベクトルの射影であり、
そのため、測定によって系に反作用が生じてしまうことになる、
という説明はすっと入ってきた。
射影仮説はとても興味深い。

第3章の終わりで、ボルンの確率規則と射影仮説の関係に
触れる中で、被測定系と測定器の境目が暗に仮定されており、
ハイゼンベルク・カットと呼ばれる、という話が出てくる。
センサと情報を切り分ける妥当性は、果たしてあるだろうか。

第8章のベルの不等式から読んだのだが、飲み込めない
ことも多く、最初から読み直し中。
久々に物理学に浸っている。