2020-04-20

日本語の文法を考える

大野晋「日本語の文法を考える」を読んだ。

ウチとソトの区別の意識が強い文化において、主にウチ同士で使われてきたために、字面の文脈に加えて、言外にある事実の文脈での情報伝達も多い言語。同じウチにいる相手とのコミュニケーションでれば、共有している事実の文脈を頼りにしながら、分析して普遍化するよりも感覚のままに反応し、単語も文法も発音もどんどん簡略化していくというのは合理的である。

ソト(奈良~平安の中国、鎌倉~室町の東国、明治の西洋)との交流によって大きく変化しつつも、根本に残っている特徴を捉えながら展開される、
  • ガとハの違い
  • 抽象名詞の少なさとオノマトペの多さ
  • 人称代名詞の豊富さ
  • ク活用形容詞は状態、シク活用形容詞は情意
  • 倒置表現による強調→連体形終止による係り結び→終止形と連体形の一致
  • ガとノの違い
  • 動詞活用形の起源、簡単化
といったことの説明は、ありえそうなストーリーでとてもエキサイティングだ。

こういう変遷があり得ることを踏まえると、ラ変やナ変が五段活用に合流し、二段活用が一段活用に合流したのと同じように、「ら」抜き言葉のような「正しくない」表現も、いつか「正しい」表現になるのだろうなと思う。「本来の」表現はあっても、「正しい」表現はどんどん変遷していく。でも、「正しい」を維持しようとする姿勢は、生命としての日本語のホメオスタシスを見ているようで微笑ましい。

2020-04-14

「シェルパ」と道の人類学

古川不可知「「シェルパ」と道の人類学」を読んだ。

自然科学にせよ人文科学にせよ、近代以降の学問は、普遍かつ不変に適用可能なモデルを見つけることを旨として発展してきた節がある。船や羅針盤を得て行動範囲が広がり、接する場所や人のバリエーションが豊かになることで、中世に比べると格段に撹拌された情報の流れの中において、共同体が一つの個として存続するためには、普遍かつ不変なモデルを共有することが有用だったのだろう。インゴルドの天候―世界モデルにおけるSKYとEARTHの流れに曝された人間の位置に、西洋共同体がいたのだ。自由度が低いけれども圧縮率の高いモデルを用いて、まずは情報の強烈な流れを大雑把に捉えるところから始まり、モデルの自由度を高めながら徐々に解像度を上げていく過程が、近代以降の学問の発展であった。その中途で、後から振り返れば過ちであった差別や偏見も生んできたが、その教訓も反省として取り込みつつ、近代西洋の学問の流れはガリレオから数えても400年近く続いている。

本書における、道や「シェルパ」といった対象の融解と再結晶も、モデルの自由度の向上による学問の発展の一例として捉えることができるように思う。なるべく普遍かつ不変なままモデルの自由度を向上させる融解の過程(「常に変動する環境において一時的に取り持たれるアレンジメントとして立ち現れる事物」)と、地域や身体といった極めて局所的な実践を基にモデルを具体化する再結晶の過程(「ロープや積み石が道になったり、職業によってシェルパになるという事例」)。名づけによる対象化とは、この融解と再結晶のことである。再結晶によって得られるモデルは、もはや普遍でも不変でもなく、極めてローカルなものであるが、融解したモデルの妥当性を裏打ちするものとなる。雪崩、土砂崩れ、霧などの流れに影響されつつ、個々の身体感覚に応じてその都度立ち現れる「道」と、西洋文明の大きな流れに影響されつつ、労働形態や旅行者に応じてその都度立ち現れる「シェルパ」。融解したモデルが、山中の「道」を歩むことと「シェルパ」としての人生を歩むことの同型性を示す経糸になっているのが、とてもよい軸になっていると思う。