2016-05-31

痛みを感じる

ついに「痛み」を感じて反応するロボットが開発される


開発されるのは「痛み」を感じるロボットではなく、
所定の入力に対し所定の反射を行う機構と、
そこに「痛み」を見る人間の心である。

しかし、それに意義がないということは全くなく、
ロボットが物語を生きるためには必要な機構だと
思われる。

ど忘れ

「ど忘れ」の「ど」に込められるのは、
「どうして忘れてしまったんだろう、
本当は忘れたくなかったのに」
という他人への(ときには自分への)
アピールだとも言える。

教育

教育というのは、端的に言うと、可能性を絞ることである。
別に将来なりうる職業の選択肢を狭めるとかそういう話ではなく、
あるものに特定の意味付けを行うこと自体が、それ以外の解釈可能性を
減らすことになるからだ。

それが良いか悪いかは別にして、集団を作るということは本質的に
ある少数の可能性に絞ることにつながり、教育はその集団による限定を
維持するために不可欠な仕組みとなっている。
それは、野矢先生の言葉を借りれば、物語を共有する必要があるからだ。
物語の共通部分が増えるほど、他者の不完全性はより高まり、
集団はより一体のものとして感じられるようになる。
小坂井先生が言っていたような、集団を実体化するからおかしなことに
なるというのも、このことと関係しているはずだ。

磁気モノポール

東大と理研が磁気モノポールを実験的に再現したらしい。
発表資料


助教の先生がファーストオーサーなのだが、この金澤先生、
たぶん同い年くらいだ。
セカンドの新居先生も2つ上くらいなので、30歳前後の
研究者が中心になっている模様。
とてもよい傾向だと思う。
でも、発表資料の頭に日付くらい入れておいて欲しい。

磁気モノポールが発見されると磁場の発散が0とは限らなく
なるので、マックスウェル方程式が書き換わる。
たぶん電場の回転の式にも項が加わるんだろう。

ところで、磁気モノポールは磁気モノポールという名前のままで
行くんだろうか。
せっかくなので、「磁子」みたいな語で置き換えて欲しいと思うが、
既に磁気モーメントの単位をもつ定数として「核磁子」や
「ボーア磁子」という単語があるので混乱を招くか。

2016-05-30

流浪の民

くうねるところにすむところ
こねろとむすこにとくるろう
捏ねろと息子に説く流浪
うるむこねこにくととろろす
潤む子猫、肉とトロロス

数学の現在

書籍部で「数学の現在」のe、i、πを買う。

eが赤、iが青、πが緑の装丁なんだけど、
 ・RGBの順だとe→π→i
 ・オイラーの公式でよく見る順だとe→i→π
なので、どの順で並べるかちょっと迷う。
さらに、各巻の奥付を見ると、
 ・e巻はi→π
 ・i巻はπ→e
 ・π巻はi→e
なので、i→π→eとなる。
これはRPN電卓でオイラーの公式を計算するときと同じ順だ。
(i、π、×、exp。HP35sだとEnterを一回も押さずに済むのが
素晴らしいが、虚部が2e-13と微妙に0にならない。)
3!=6通りから3通りには絞られたが、さて、どれで並べよう。
あと、3巻同時刊行なのだが、4巻目を出すとしたら
1巻だろうか、あるいは-1巻だろうか。

パラパラとしか目を通していないけど、面白そうな反面
結構ガッツリな内容なのでどのくらいフォローできるかは
謎である。


e巻の第3講で、確率論の基本定理として
  • 大数の法則
  • 中心極限定理
  • 大偏差原理
が挙げられている。
人間が理由付け、あるいは野矢先生の言葉を借りれば秩序付けを
行うようになったのも、大数の法則や中心極限定理から説明できたり
しないだろうか。
反応拡散方程式もそうだが、不規則なものや一様なもの、可逆なものから
規則化、局在化あるいは不可逆化が起きる過程に、意識の発生のきっかけは
ある気がする。
それは神秘的でも何でもなく、純粋に系の発展として記述され得ると思われる。

相関と因果

相関関係と因果関係を峻別する方法があるとすれば、
因果の説明にコンセンサスが得られるかどうかのみである。

2016-05-29

心という難問

野矢茂樹の「心という難問」を読んだ。

野矢先生と言えば、学部1年のときに「科学哲学」の講義を聞いた。
人気講義の一つで、大教室に立ち見が出るほどだったが、
高校の時とは全く違う内容、進め方に嬉しくなったものだった。

素朴実在論へ回帰し、ノイズとも言える情報に秩序付けを行うことで
心がつくられていくというのはメイヤスーの「有限性の後で」に通ずる
ところも感じられ、
で考えていた、「意識とは、理由付けを備えた評価機関である」という
ことにも通ずる。


第I部では素朴実在論、二元論、一元論等の問題点を順を追って
簡潔に説明しており、「科学哲学」の講義を思い出させるような
雰囲気だった。

第II部で、素朴実在論を基にして、眺望論と相貌論と呼ばれる持論を展開する。
世界は無視点的にも有視点的にも把握される。
野矢茂樹「心という難問」p.72
というテーゼを基本とし、空間、身体、意味を変数として有視点的把握を
捉えることで、自他の違いや時間的な認識の変化(錯視や幻覚を含む)を
説明しながら素朴実在論を守っている。

6-7節に出てくる知覚の形成に関する例がわかりやすい。
音だけの世界に人間が誕生した後、生き延びるために音の継起に
秩序を見出そうとする。この秩序は対象、空間、身体、意味によって
支えられ(あるいは支えられると想定され)、知覚のあり方が決まっていく。
対象・空間・身体という枠組はそもそも経験を秩序づけるために
要請される。そして私たちはそこに、自分たちの生活や実践に応じた
意味を付与していくのである。
同p.108
というあたりは、「科学と仮説」でポアンカレが述べたような、科学の
あり方にも通ずるところがある。

8-5節では色についての議論の中で「定義よりも弱い意味上の関係」という
ものが出てくる。「絶対にそうだとはかぎらないが、そう考えて当然」という
評価に相当し、それは認識よりも行動に価値をおくことに関係しているとしている。
私たちは状況の認知をもとに行動しなければならない。そのためには
判断の正確さだけでなく、スピードも必要とされる。
(中略)誤りうることを鵜呑みにするのは不合理であると考えられてしまう
かもしれないが、そうではない。誤りえない判断を求めて一歩も前に
進めなくなることこそ、不合理だろう。
同p.192
生き延びるために世界に秩序付けを施すのであって、秩序の「正しさ」を
追求することはときに本末転倒になってしまう。

相貌論では、知覚が時間性、可能性と関連付けられることを「物語の内に
位置づけられる」と表現している。
物語に応じて異なった意味づけを与えられる知覚のこの側面を「相貌」と呼ぶ。
同p.207
ディープラーニングにおいても、訓練データによって物語が用意され、
人工知能の知覚がその物語の内に位置付けられていく。
画像から特定の概念に対応する要素を抽出するという例が多いが、原理的には
全ての知覚において同様のことができるし、少なくとも人間はやっている。
(知人から聞いた話だが、車好きの父親が子どもにエンジン音を聞かせていたら、
エンジン音からメーカ名が判断できるようになった、ということもある。)
しかし、9-2節で挙げられたクリーニャーの例にあるように、
分類が知覚に反映されるためには、さらにその分類のもとに典型的な
物語が開かれる必要がある。
(中略)概念はそこに典型的な物語を開き、それによって対象は相貌を
獲得するのである。
同p.210
現在のディープラーニングでは、この「物語を開く」部分がまだ弱い気がする。
つまり、概念をもってはいても、対象が相貌を獲得しきれていない段階だと思う。
視覚という特定の知覚データしか蓄積が多くないのと、異なる知覚間、あるいは
知覚と言語表現との間のつながりが弱い。そして何より、人工知能が秩序付けを
必要としているように見えないというのが大きい気がする。
私はその物語を「生きて」いなければならない。たんなる絵空事には相貌を
生み出す力はない。相貌は私自身がどのように未来に向かおうとしているかに
かかっている。
(中略)私がその物語を生きていない以上、知覚に反映されることはない。
同p.220
人工知能の教育は絵空事を超えられるだろうか。それにより、人工知能は物語を
生きることができるだろうか。

脳科学に対する議論において、脳状態が知覚と一対一に対応するわけではないと
示す中で、スワンプ脳の例が取り上げられる。
カンブリア紀に突如あらわれた脳に、大仏を見るという脳状態を再現したとき、
この脳は大仏を見ているだろうか。
何かは見るだろうが、それは大仏としての意味をもつことはおそらくない。
人工知能はスワンプ脳であることを抜け出せるだろうか。

動物やロボットに知覚的感受性があるかという問に対し、それがもっともよい説明か
どうかに関わるという答えは、万人を満足させるものではないかもしれないが、
個人的にはそれで十分だと思う。
ポアンカレも言うように、科学もまた一つのモデル化に過ぎず、実在そのものがどうあれ、
次の行動への指針を与えてくれる十分な説明であることが必要十分となる。
そしてそれが「正しい」とされるかどうかはコンセンサス次第だ。
この本を通して語られる眺望論と相貌論自体もまた、もっともよい説明として
次の行動への指針となり得るという点も、科学的な側面を感じさせる。

野矢先生はロボットもいつか物語を生きられるようになることに対して楽観的だ。
それにはロボットが人間の生活により入り込んでくる必要があると思う。
ここには、人間の側の受け入れ体制が整うかどうかがかかっているが、そこでもまた、
人間が変化についていくという構図が再現されると思われるので、まずは率先して
変化させるものが出てくることになる。
それはすでにGoogleやApple等によって始まっているとも言えるが。

他我問題への解答として、物語の共有の不完全性が提起される。
複数の人が、生まれてから現在までのすべての時間にわたって物語を共有し、
かつ、あらゆる細部をも共有することなどありえない。
これが「他者性」の正体である。
同p.334
他者は他者であることによって不可避的に私と物語を部分的に共有しており、
つねに完全な他者では有り得ず、不完全な他者となる。
巻末の補足において、この物語の同一性のありえなさは論理的な不可能性であるとの
見通しが示されている。
物語が全く同一であれば同一人物とされるという点には同意する。
もし、人間が現在の身体から解放されることを望むのであれば、生まれた瞬間から
あらゆる知覚を記録し、物語をリアルタイムで複製することで、同一人物を交換可能な
身体の上に再現することも技術的には可能になると思う。
そんな複製技術時代に生きるときに、心の捉え方は全く違うものになるだろう。

ただし、結びの中で述べられているように、全てのノイズに秩序が与えられているわけではなく、
どの程度ノイズが残っているのかもわからない。
秩序から漏れたノイズの影響如何ではコピーは完全なものにはならず、それは精度の
無限遠において本物に漸近する何かにしかなれない。
そういった意味での論理的不可能性を野矢先生は感じているのかもしれない。
世界はなお圧倒的に無意味である。
同p.340

2016-05-27

0.5ゲーム差

昨日の時点で全ての勝ち星が広島に集まった。
勝ち星7つというのがドラゴンボールみたいでよい。

今日、下3つが勝つと2位から6位までが
0.5ゲーム差におさまる。
そして20:16現在、中日-ヤクルト戦以外は
そこへ収束しようとしている。
7回表、5-4で死球、四球、四球の末に絶賛ピンチの様子。
面白いので今日は負けてもいいぞ。

20:20 追記
追いつかれた。

馬のように聞き、兎のように見る

少し前に考えた充足的視覚空間の話。

馬の目と同じように、人間の耳は頭の側面についている。
兎の耳と同じように、人間の目は頭の正面についている。

馬の視覚による空間把握は、人間の耳によるそれに近く、
兎の聴覚による空間把握は、人間の目によるそれに近いだろうか。

解像度は大きく違うだろうが、指向性に関しては良い線ではないかと思う。

2016-05-26

ヴィダルサスーン

ヴィダルサスーンの名言
The only place where success comes before work is in a dictionary.
とその対訳
成功が努力より先に来るのは辞書の中だけだ。
はどちらもよく出来ている。

言語によって辞書順(日本語文字列照合順番)が変わってしまうから、
success<workを保つように、成功<努力としている。
日本語から原文を推測するとsuccess>effortになってしまうため、
workが使われているが、どちらかと言うと日本語の単語の組み合わせの方が
自然な感じがあってよい。

日本語でもいろは順だと努力の方が先に来てしまうが、いろは順だと「せ」の後は
「すん」しかないので、難易度が飛躍的アップする。

中国語やアラビア語なんかでも上手いこと対訳が作れるだろうか。

時計回り

北半球に置かれた日時計の影は、
上から見ると時計回りに動く。
というよりも、その方向を時計回りと
呼び始めたというのが実際のところだろう。

地球の自転の方向は、北極側から南極側に向かって
回転軸方向に見たときに反時計回りだというふうに
習った気がするが、上記のように考えるとこれはむしろ逆で、
地球の自転が東向きであり、地軸が傾いているために
北半球では太陽が東→南→西の順に移動し、それに対応する
日時計の影の動きの向き(西→北→東)を時計回りと呼ぶように
なった、というのが時系列的にはより忠実なのかもしれない。

南半球で文化の発展が先行すれば、時計回りは逆転していただろう。

もったいない?

「京大出て専業主婦なんてもったいない」と言う人は、じゃあわたしが何をすれば許してくれるのか


数日前に話題になったらしいエントリィ。
家事が「サイコーにクリエイティブ」かどうかについては肯定も否定も
しないが、そんなこととは無関係に、最も重要なのは
わたしは、京大に、勉強をしに行っただけだ。
という箇所だと思う。
これは大学、というかすべての教育機関あるいは教育という行為そのものの
行き着く究極である。ただ知識を欲するがために知識を得る。

仕事をするしないなんてどちらでもよい。勤労の美徳というものは、仕事を
することがよいことだという正義を掲げないと人間社会が成立しなかった
時代の名残に、いつかなっていく。

就職するためだけに必要以上に多くの人間が22歳まで高等教育機関に
所属している現状ははっきり言って異常だ。
仕事が機械化されることを危惧する向きが多いが、自動運転と同じで
人間がやる方が様々な点で悪いという状況になるのは時間の問題だ。
しかもそれはそう遠くない未来に実現し得るし、一番のボトルネックは
人間側の仕事を手放したくないというこだわりだ。

そういう時代が来たとき、現状に慣れ親しんだ多くの人間はあまりの
やることのなさに、自我が崩れていく可能性すら有り得ると思う。
若年性認知症の蔓延だ。
それはもはや意識を実装しなくても生き残れる程に人間が発達したという
ことなのかもしれない。
その時代において、意識を保ち続けるためのおそらく唯一の方法が、
常に新しい情報に触れ、新しい意味を構築していくような行為だと思う。
生命体としての三大欲求は睡眠欲、食欲、性欲だが、その上に実装された
意識を維持するためにはさらに知識欲が不可欠に違いない。

2016-05-25

責任

今年の御柱祭では建て御柱で死者が出た。
こういった際に、現代社会はどういった対応がとれるだろうか。

当然、死者がなるべく出ないように最善の努力を
するということは連綿となされてきただろうが、
それでもリスクはゼロにはならない。

現代社会では責任を追求するために主体の自由が想定されるが、
御柱祭は1000年以上前から続くお祭りであり、
警察機構どころか、近代的な人間像が誕生する以前から
存在している。
かつては大いなる原因である神に転嫁することで、
死を受け入れてきたと考えられる。
神が死んだ後、それに代わる虚構として個人や国家が生まれ、
原因は分散処理されるようになった。
そういった世界観をバックポートするのは果たしてどこまで
可能なのだろうか。技術的には可能かもしれないが、
それを正当化するだけの論理を受け入れるのはとても困難だと
思われる。

一方では、Googleがフランスで脱税というニュースも流れている。
次の虚構を作り出し隠蔽するべき段階にきているのかもしれない。

Allo

Google I/Oで発表されたAlloについてギズモードに
こんな記事が出ている。

Googleの新メッセージアプリで、人は感情を失う


既にInboxにも搭載されている自動返信の機能に対する
危惧のようなものを述べている。
「メッセージ受け取った側は、それが心から思って1つ1つ
タイプされたメッセージなのか、それともアプリが提案した
メッセージなのか、それを知る術はあるのか?」と問いかけています。
との文言があるが、とても的外れだと感じる。

社会心理学講義」や「責任という虚構」で展開された話、そもそもは
デュルケムの「社会学的方法の規準」かもしれないが、個人の行動
というのはかなりの程度、集団の影響を受ける。
ここでの例で言えば、相手のメッセージや写真を見たときに、どのような
反応を示すかという原因が、完全に個人に由来していると思い込むのは錯覚だ。

むしろこういった機能の嫌なところというのは、その個人が影響を
受ける集団についての情報を機能提供側が完全には得られないため、
影響元になる集団が縮小され、歪められたかたちで再現されることで、
思い浮かぶ文面と提案される文面に微妙な(ときには大きな)ズレが生じる点だと思う。
もし集団が完全に再現されるのだとすれば、人間がタイプしようとした文面と
提案された文面は一致するはずだ。

その再現性が飛躍的に上がったために、不気味の谷にはまっているだけだよね、
というのが率直な感想である。

2016-05-20

責任という虚構

社会心理学講義」に続いて「責任という虚構」を読んでいる。
「社会心理学講義」の方が後に出ており、「責任という虚構」の
おおよその内容は書かれているので、前者だけ読むだけでも
よいかもしれない。
ただ、「結論に代えて」という章で、「責任という虚構」を上梓した
意図を、ストレートな言葉で表現しているあたりは読んでみて
よかったなと思える。
しかしそんなに簡単に世界の虚構性を認めてよいのか。
逆説的に聞こえるかもしれないが、根拠に一番こだわっているのは
私の方なのだ。(中略)人間が作り出した規則にすぎないのに、
その経緯が人間自身に隠される。物理法則のように客観的に
根拠づけられる存在として法や道徳が人間の目に映るのは何故か。
これが本書の自らに課した問いだった。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.257

自動車会社のスズキの燃費計測方法の話題は、結果の数値としては
安全側に違っていたらしい。
これが「不正」として取り上げられるのは何故か。
それは、この場合の正や不正の判定は法に基づいて行われるからだ。
エンジニアとしては法で定められている方式よりもよりよいと思われる
方式があれば、そちらをとるのが善だと考える場合もあるだろう。
その場合には善悪の判定は自然法則等に基づいている。

小坂井氏の言葉にあるように、普遍的な真理や正しさが存在するという
信念こそが危険なのである。
正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが
生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
同p.166
規則を守るだけでは善にはならないという教育がよくされる一方で、
正しさや善さというのは規則のようなものによって形成される。
より正確には、「コンセンサスはすべてが明示されるわけではなく、
唯一不変であるわけでもない」といったところか。
真善美は集団性の同意語に他ならない。
同p.257
倫理判断は合理的行為ではなく、一種の信仰だ。
同p.259
「社会心理学講義」の記事に書いたディープラーニングと虚構の話は、
どちらかというと、虚構がないというよりは、人間以外によって作られた
虚構だけがあるということかもしれない。
ベルクソンが社会を「神々を生み出す装置」と言い、デュルケムが
「社会が象徴的に把握され、変貌したものが神に他ならない」と言ったように、
神ですら人間以外から与えられたものではない。
神の死によって成立した近代でも、社会秩序を根拠づける<外部>は
生み出され続ける。虚構のない世界に人間は生きられない。
同p.247
本書で<外部>と呼ばれているものを作り出すのが自分以外になった世界で、
人間は、あるいは意識は生き続けられるだろうか。
それは虚構がある世界なのだろうか、ない世界なのだろうか。
もしかしたら、その状況のことを「支配」と呼ぶのかもしれない。

2016-05-19

Google I/O 2016 keynote

Google I/O 2016のkeynoteを見ている。

Google Homeのデモ映像の未来感はわかるけど、
やはり音声入力というのはかなり冗長なインプットメソッドだ。
それは良い面もあるし悪い面もある。
一人暮らしで使うとなると気が滅入りそうだな、という感想を
もったのが正直なところだ。
でも、「すべてがFになる」に出てきたデボラのようなものが
個人レベルで使えるようになるのはいいかもなー。
「OK, Google」とか「Hi, Google」だけじゃなくて、名前が
付けられたらいいのにと思った。

このまま最後まで見てしまいそうだ。

2016-05-18

五輪開催権

2020年の東京五輪開催権が剥奪になるかもという話が出ているらしい。どこまで本気なのかよくわからない。

正直なところ、建築業界全体としては先細りになり始めて久しい。そこに、東日本大震災があり、東京五輪招致があったことで、建設機会が一時的に増加し、謎の好況が発生しているのが現状だと感じている。数年前はゼネコン各社とも儲かる仕事で床が埋まっており、公共建築が不調に終わる事態が続出していた。

仮に五輪開催権が剥奪された場合、現在建設中あるいは建設予定の五輪用施設は竣工するだろうか。あるいは、既に建っているものも含めて、五輪に期待していた収入がゼロになって採算が合うだろうか。ゼネコンも今回の施工費はもらえるだろうが、施主の経済的な体力が弱ると次の工事を発注してもらえないことになる。

アトリエ事務所の仕事はどちらかというとそういう状況の影響を受けにくく、工事費をふっかけられなくなるというよい面もあるが、業界全体の元気がない状態というのは仕事がしづらいだろう。

こういう状況が、2020年の数年後には訪れるだろうと思っていたが、予定を前倒ししてやってくることになりかねない。

成長曲線が狭義の単調増加であることを期待するのは、資本主義の最大の弱点だと思う。これから数十年は、無理な成長戦略の下での格闘が続くのかもしれない。どの集団が一抜けするだろうか。それはどこぞの国家だろうか。それともミナス・ポリスのような団体だろうか。

2016-05-17

熊本地震被害調査速報会

土曜日に建築学会主催の熊本地震の速報会に参加してきた。

ニュースでは五十田先生のコメントが取り上げられているものが
多いが、ややずれたかたちで伝えようとしているあたり、まあ
こんなもんか、という感じである。

現行の設計体系では、二次設計において気象庁の震度で言うと
6強〜7程度の地震に対して倒壊しないことが求められる。
設計ルートによって計算の仕方は様々だが、どれも検討対象とする
地震動が一回分というのは同じだ。
今回の熊本地震のように、数日おきにレベル2の地震が立て続けに
起こるということは想定していない。

こういうことをもって、現行の設計体系の不備を指摘するのは
的外れだと思うが、やはり建築の構造設計の考え方が一般に
知られていないんだなというのは痛感する。
技術的な話にはエンジニアリング的な考え方が多分に含まれる。
リスクはゼロにはならないし、リスクを減らそうと思うとコストが
飛躍的に上がっていく。
そういった話を感情を爆発させずに冷静に対話することが必要である。

医者の世界はどうやってその辺りをこなしているんだろうか。
あちらはあちらで問題があるのかもしれないが、少なくとも建築に
比べると、ある治療方法にかかるリスクやコストを伝えた上で、
必要に応じてセカンドオピニオンも交えながら、患者が納得した状態で
医療行為に臨んでいるようなイメージがある。

建築の設計もそういった部分をもっと重視していく必要があるのではないか。
建築基準法では震度7クラスでは倒壊しないことが求められるが、
地震後に部分的な補修だけで使い続けたり、資産価値が残るような
状態に留めたりすることまでは求めていない。
そこまで求めようと思うと、構造体にかかるコストは増大していくから、
仕上げ等の構造体以外のグレードを落とすなり、建設費を増やすなり
する必要がある。
構造設計の考え方や、施主としてどういったレベルの構造体を求めるのか
といった話ができていれば、地震後に自宅に戻るのが安全なのかどうか
という判断はずっと容易になるだろう。

といった感じで、もう少し建築士と施主が対話をしましょうというのが
五十田先生の話の中で一番よかった所だと思ったが、それよりも
現行基準の甘さを指摘したり基準を厳しくすべきだという方が目立つような
伝え方が見られるのは残念だ。

こういう対話をするようになることで、建築士の立場も少しはよくなっていく
ような気もする。そもそも世の中の建築士で構造が専門でない人達は
ちゃんと一次設計と二次設計の思想がわかっているんだろうか。
まずはそこからか。

まあ、医者と違って一生に一回世話になるかどうかという職業だから、
建築士側も施主側も何となく専門的なことは曖昧なままに任せておくという
状態が続いてしまっているが、もう少しなんとかしないとね。

2016-05-16

社会心理学講義

小坂井敏晶「社会心理学講義」を読んだ。
有限性の後で」のp.s.に書いたが、書籍部で手に入れた
UP4月号に掲載された連載を読んで氏に興味をもった。
よい考えに出会えたと思う。


少ない言葉で要約するのがとても難しい本だが、
共感できる内容がいくつも出てくる。
そのうちのいくつかはここ最近考えていたことでもあるし、
また他のいくつかは自分にとっては新鮮であった。
〈私〉とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に
繰り返す虚構生成プロセスです。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.106
自由意志は責任のための必要条件ではなく、逆に、因果論的な
枠組みで責任を把握する結果、論理的に要請される社会的虚構
に他ならない。
(中略)人間は責任を負う必要があるから、その結果、自分を自由
だと思い込むのだ。
同p.126
悪い行為だから非難されるのではない。我々が非難する行為が
悪と呼ばれるのです。
同p.129
科学的真理とは科学者共同体のコンセンサスにすぎない。
同p.133
意志が行動を決めると我々は感じますが、実は因果関係が逆です。
外界の力により行動が引き起こされ、その後に、発露した行動に
合致する意志が形成される。
(中略)つまり人間は合理的動物ではなく、合理化する動物である。
同p.162
正しい社会ほど恐ろしいものはありません。社会秩序の原理が完全に
透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界です。
同p.216
正しい答えが一つしかないと信じるからこそ、(中略)安定した規範が
生まれるのです。
同p.236
犯罪と創造は多様性の同義語であり、一枚の硬貨の表裏のようなものです。
同p.269
犯罪のない社会とは理想郷どころか、(中略)人間の精神が完全に圧殺される
世界に他ならない。
同p.270
失業者の存在は資本主義経済の論理的帰結です。
同p.272
システムを壊す要因がシステム内部から生まれてくるだけでなく、システムの
論理構造自体にすでに組み込まれている。普遍的価値は存在しない。
開放系として社会を把握するとは、こういう意味です。
同p.276
人や物に対して、これは友人だとか、あれは机だとかいった判断をする際に
我々を支えている確信は、そのような解析的方法からは決して生まれない。
単なるデータの集積と合理的判定を超えた何か、宗教体験に通じるような
質的飛躍がここにあります。
同p.279
対象の異なる状態を観察者が不断に同一化する。これが同一性の正体です。
同p.320
集団を実体化するから、同一性の変化などという、表現自体が形容矛盾に
陥ったような状況の前で右往左往するのです。発想を転換しましょう。
世界は同一性や連続性によって支えられるのではない。反対に、断続的な
現象群の絶え間ない生成・消滅が世界を満たしている。虚構の物語を無意識に
作成し、断続的現象群を常に同一化する運動がなければ、連続的な様相は
我々の前には現れません。
同p.323
世界が同一構造の繰り返しだから比喩が有効なのではない。人間の思考パタン、
世界を理解するためのカテゴリーが限られているからです。
同p.346
最終的根拠は論理的演繹によっては成立しない。根拠は社会心理現象です。
同p.366
「虚構」という表現がよく用いられているが、まさにこの「虚構」をつくることによってしか、
社会を形成し得ないし、そもそも意識すら成立しない。
「虚構」をつくるだけの余力が脳にできたから意識ができたのだろうか。
それとも、「虚構」は必要とされてできあがり、それに合わせて脳が増大したのだろうか。
人間は他の動物に比べると弱く、高度に集団化することでしか生き残れなかったのかも
しれない。その集団形成の中で、不断の同一化が起こり、意識や社会が生まれたというのは
ありうる説明だと感じられる。
こういう説明を欲するのもまた人間らしさの一つだ。

p.279から引用した内容はディープラーニングにも通じるところがあるように思う。
ディープラーニングが一つのブレイクスルーたり得たのは、それが人間にとっての合理性の
説明を敢えて捨て去ったからだ。それによって、ここで言われているような「確信」の
レベルでの判断が可能になる。
結果として得られるものは、ある部分では虚構を含んでいないがために、人間が拒否反応を
示す場合もあるだろうが、それは多分、人間の無意識的な虚構への慣れのせいだとも思う。

p.320、p.323、p.346からの引用は、何を同一とみなすかが認識の、ひいてはそれぞれの意識の
特徴のキーになるというイメージに通じる。

こういう本を読む度に、伊藤計劃の射程の遠さが感じられる。
ハーモニー」で、意識という虚構を後天的に獲得したミァハが、老人たちにスイッチを
押させることで虚構生成プロセスを終了させる。その後に成立する「合理的な社会」は
もはや今でいうところの社会ではなく、虚構性は持ち合わせていないだろう。

p.s.
序においてポアンカレの「科学と仮説」が引用されているが、引用箇所が
ちょうど「事実の集積が〜」のところであった。結構有名な言葉らしい。

2016-05-11

充足的視覚空間

ポアンカレの「科学と仮説」の第四章「空間と幾何学」において、
「充足的視覚空間」という言葉が出てくる。
視覚が二つの次元の概念を生じさせ、筋肉感覚が第三次元を
生じさせるという。

二つの網膜により、ずれた二次元の像を観測することで三次元を
獲得しており、それは感管の教育によることから、光が複雑に
屈折するような媒質中を通過した光に慣れていれば四次元の
充足的視覚空間を獲得するという例は大変興味深い。

もし二次元の網膜が三つあったら四次元を観測可能だろうか。
これは、独立なベクトルの数は空間の次元より大きくはならない
ことから、偽かもしれない。
あるいは、一つの網膜だけでも、上記のように時間的な位相が
ずれた像を観測できれば、空間二次元+時間一次元の三次元空間を
得られるだろうか。

そんな世界も見てみたい。
後者であれば、おそらくVRで再現可能だろう。

そういえば、ライオン等のように両目が近い動物では、空間の把握の
仕方は自然と人間に似てくると思うが、シマウマ等のように両目が遠く、
視野の共通部分が少ない動物ではどうなんだろうか。

科学と仮説

アンリ・ポアンカレの「科学と仮説」を読んだ。

誰から聞いたのか覚えていないのだが、アンリ・ポアンカレには最後のユニバーサリスト(多くの学問に通じていた人物)というイメージがついている。おそらく高校時代の数学教師にサイバーグ・ウィッテン理論を習ったときだ。

この書で最も強調されているのは、科学とは充足理由律に基づいたモデル化であり、それ以上でもそれ以下でもない、ということだ。

実験物理学と数理物理学の関係を述べた第九章で、
事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である。
ポアンカレ「科学と仮説」p.171
と述べているのがとても気に入った。

経験それ自体は高次元空間に分布する。しかし、充足理由律により、その分布はある低次元の多様体上に分布することが期待される。元の高次元空間を眺めているだけでは石を積んでいるだけである。その次元はあまりに高く、石はいつまで積んでもかまくらにすらならないが、低次元の多様体を見出し、積み方を心得ることで、大伽藍は可能になるのだ。

それにしても驚くのはポアンカレの先見性だ。初版の1902年は相対性理論も量子力学も確立される以前である。当然、ラーモアやローレンツによるローレンツ変換やプランクによる量子仮説の影響により、これらができつつある壌土は整いつつあっただろうし、数回の改定の中で修正されたものもあるのかもしれないが、20世紀物理学の2大理論を予見する内容を、その世紀の初頭に書ける人間がどれだけいるだろうか。
数学的理論は事物の本性を我々に解き示すことを目的とするものではない、(中略)そのただ一つの目的は実験が我々に知らせる物理法則に座標を与えることである。しかし数学の助けがなければ、我々はその法則を述べることさえできないであろう。
同p.241
という言葉に続き、
  • エーテルの実在性は物理学の関知する範囲ではなく哲学者の畑であること
  • (当時の)物理学にとってはエーテルの存在を仮定するのが便利であること
  • エーテルが放棄される日がもちろんいつかくること
を述べた上で、それでもなお、科学はあるモデル化に過ぎないということのおかげで、エーテルを仮定していた時代の科学が(少なくとも第一次近似としては)真であり、有用であり続けるとしているのは、相対性理論が確立された現代から見て鮮やかである。

さて、「有限性の後で」においてメイヤスーは数学が祖先以前性を記述する能力について触れていた。このあたりは、第一章で数学的帰納法を例にとった数学の無限性に触れているところと関わりがあるのではないかと思う。メイヤスーはどこかでポアンカレの思想について言及しているだろうか。残念ながらフランス語はわからない。

一堂に会する

Google I/O 2016基調講演のライブストリーミングがあるらしい。
INTERNET Watchの記事


正直、Googleというテック企業の中でも先端中の先端の企業が、しかもその先端性を示すためのイベントを開催するにあたって、わざわざ人間を一箇所に集めるようなことをするのはとてもがっかりだと感じる。これは、ちょっと前にニュースになっていた、N高等学校の入学式でも同様であった。

森博嗣の小説、特に最近のものでは、現実と夢の描写を敢えて曖昧にしている箇所が多い。スカイ・クロラシリーズなんかは顕著だ。近作だと、「χの悲劇」において、すっかり真賀田四季の思想に染まった島田さんは、しきりにリアルの限界を意識していた。そこでのリアルの対義語は夢やドリームではなくバーチャルである。

少し前まで、身体の物理的運動を伴わない運動体験というのは夢以外には存在しなかった(少なくともメジャではなかった)。インターネットの誕生後、コンピュータの処理速度や通信速度の急発展により、バーチャルという選択肢がそこに加わった。原理的には、移動のみならず身体を変形させることすらなく、あらゆる運動体験は可能だと考えられる。

Googleのような会社には是非ともそちらの方向を突き詰めて欲しい。大勢が一堂に会するライブビューイングは、はっきり言って疑似体験のためにリアルの力を借りすぎているように思う。参加者の各々は一人でいるのに、もはや全員がマウンテンビューにいるかのような疑似体験を如何に創りだすかは、テック企業としての腕の見せ所である。それは、単なるリアルの模倣や再現でなくてもよい。せめて、HMDを参加者全員に装着させるというような愚行には走らないで欲しい。懐古趣味を超えて悪趣味である。

2016-05-09

電子書籍の引用

森博嗣のXシリーズで文庫化されていない
「ムカシ×ムカシ」と「サイタ×サイタ」を読みたくなり、
電子書籍版をGoogle Booksで買ってみた。

PC上のブラウザでもスマートフォンでも読めるし、
スマートフォン側ではPCで読んだ分も同期してくれるので便利だ。
PCでは上手くいかなかったが、スマートフォンでは検索もできる。
読み返すのにとても便利である。

さて、1つ気になったのが、電子書籍からの引用方法である。
紙の書籍はページという概念が固定しているため、ある書籍の中での
位置を指定するのにページ数が使える。
文字サイズや行間が可変である電子書籍ではページという概念は
かなり曖昧である。
(そもそも電子書籍にページという概念を含めておく必要はないと思うが、
現状ではそのままになっている。)

Google Booksでは文字サイズ等によらず、ページに相当する量が
設定されているようだ。
「ムカシ×ムカシ」では総数が213で、その中での現在位置が数字で示される。
文字サイズによっては1ページが数画面にわたって表示されることになるため、
画面遷移回数と数字はもちろん一致しないものの、書籍の中での位置特定を
するためにはこの形式がよい。
他のソフトウェアによっては%表示をしている場合もあるだろう。

%表示や節番号等、何でもよいが、電子書籍の引用形式を定めて、
電子書籍リーダ上で選択したテキストから自動生成できるようにしておくのが
よいだろう。
引用元も引用先も電子書籍なのであればリーダ内で<a>タグと同じように
直接リンクできる。
しおりやマーカの機能用に、ある箇所を同定する仕組みは既にあるのだろうから、
それをhrefに使い、タグの中身を人間にとってリーダブルな形式にするだけで
そのまま使えるはずだ。

2016-05-08

χの悲劇

「χの悲劇」を読んだ。
Gシリーズも最初は文庫版を買っていたのだが、
ここ3冊くらいはノベルス版を買っている。

懐かしい話がいろいろと出てきた。時系列や人物関係が整理しきれていないけど、自分でやるとなると億劫だな。海月くん目線のシリーズとかやってくれないだろうか。

個人的なハイライトは、島田さんとカイが初めてリアルで会ったシーンでの会話。
でも、気付いたんだけど、私たちって、理由のないものを受け入れない文化に染まっているのよ。
(中略)
そういうのの上に科学というものが築かれていて、私たちはずっと、その科学を信仰しているわけ。その神髄は何かと言えば、物事には説明ができる理由があるってことなの
森博嗣「χの悲劇」p.185
あとは、これを受けるように、エピローグ手前の夢の中。
その問いが、すなわち命なの。
同p.286

メイヤスーの「有限性の後で」の主題である理由律の問題は、個人的には森博嗣の著作で、真賀田四季の思想として触れたのが最初だったと思う。

それにしても、島田さんの能力は凄まじい。ホテルを脱出してから山の中の小屋に4日、沖縄で2日、カナダで1年+3日+3週間+2週間+4週間+8週間+数日+1週間と1日だから、入院するまでおよそ1年と5ヶ月だ。入院からカイが訪れるまで1ヶ月半で、その2週間後に亡くなったとき享年89歳なのだから、事件時には−1歳半だとすると87〜88歳だったことになる。その歳でリアルでもネットでもあれだけ動き回れるとは驚異的だ。

「すべてがFになる」では島田さんは「まだ若そうである」と表現されているので、20〜30代だとすると、それから約60年後の話ということか。あと2作もこの時代のストーリィなんだろうか。


2016-05-09 追記
ミナス・ポリスはつまり、百年シリーズのルナティック・シティということか。森ぱふぇにある年表を参照すると、
 ・1997年、「有限と微小のパン」の時点で島田さんが32歳
 ・2013年、ルナティック・シティ建設
とある。「χの悲劇」の舞台が1997+89-32=2054年であるから、既に建設後のはずだ。カイ=海月及介?はミナス・ポリスのプロジェクトに関わっている。「女王の百年密室」に出てくるカイ・ルシナとは関係あるんだろうか。

そういえば、真賀田研究所にいたという小山田真一のアカウント名はジェリィjellyであり、クラゲはjellyfishである。小山田=保呂草潤平で、保呂草さんと各務亜樹良の息子が海月くんということなんだろうか。同年表によれば海月くんの生年は1979年頃で、そのとき保呂草(34)、各務(39)だからあり得なくはないか。

あと、金さんは飛行機事故で姉を亡くしたと言っているから、金子勇二と同一人物で、奥様がいると言っていたのはラヴちゃんのことだろうか。というか、島田さん以上に西之園萌絵を知っていると言っているんだから間違いないだろう。このとき、金子くんは2054-1991+17=80歳である。

プロトコルの統一

2016年現在、英語ができることはある一定の優位性をもつものとして
扱われている。
これは、現時点での人間間の通信プロトコルの中で、英語が最も汎用性が
高いものと認識されていることによると思われる。

将来的には、しかもかなり近い将来という意味において、
この優位性は漸減していく可能性が高いと見積もるのは妥当に思える。
それは、翻訳というプロトコル変換が技術的に可能であり、またそこに
リソースが割かれるだけの理由が十分にあるように思えるからである。

遅く見積もっても100年もすれば母国語の如何によらず、
コミュニケーションによる不利益を被らない世界は実現できる。
主要な言語にとっては50年もあれば十分過ぎる。
現在はどちらかというとプロトコルは統一される傾向が強調されるが、
プロトコル変換のコストが下がった世界ではむしろ個々人の使用する
プロトコルはコミュニティ毎に多種多様であっても不便が生じにくく、
発散する可能性も十分にあると考えられる。

ただ、このような世界における異種プロトコル間での通信では、
最大公約数的な意味しか伝達できないと考えるのが妥当だ。
一方のプロトコルではその像に含まれるものが、他方のプロトコルでは
含まれないということは有り得る。
その場合、両プロトコルの像の積集合のみを像とするしかない。

以前、単一プロトコルへの危惧についての記事を書いたが、
自動翻訳が完璧なまでに普及し、ユーザ層以外の部分でプロトコル変換により
その単一性が実現される場合にも、同種の懸念は生じるものと思われる。

2016-05-05

通信方式

通信がその役割を果たすために重要なことに下記2点があると思う。

  1. 送信者が送信した内容と受信者が受信した内容が同一であること
  2. 送信者が一意に定まること、必要であれば受信者も同様であること

もちろん、通信の種類によってはセキュリティに関する性質が追加されること等が
あると思うが、上記2点の性質を満たせない通信は、通信としての用をなさない。

1に関しては、送信者が意図した意味と受信者が受け取った意味がずれることは
仕方がないものの、その間、つまり通信プロトコルにのっている間に変化がおきない
ことが重要である。
2に関しては、単一でも複数でもよいが、送信者を特定しようと思ったときに
特定が行えない通信というのは通信内容の意味がなくなる。
受信者に関しては、不特定の相手への通信という形態があるため、必ずしも特定
しなければならないわけではないが、特定の受信者へ送信したいときにそれが
できないというのでは双方向性が得られない。

会話、電話、FAX、電子メール、SMS、LINE、どれも通信を担う一プロトコルである。
電子メール以降に挙げた3つはインターネット経由でのデータ送受信がメインであり、
上記2性質を備えているかが長く不審がられてきたように思う。
最近では電子メールはもう克服しただろうか。
仕事での利用となると、通信の秘匿性の問題、送受信内容の保存の問題、送受信履歴の
検索の問題等も出てくる。そういう用途ではプロプライエタリなプラットフォーム上でしか
通信できないものは避けるのが無難だ。

ということを、上記のツイートを見たときに思ったのだが、生まれたときから
インターネットが普及していた世代とは通信観が違う可能性は大いにある。
それはもしかしたら、会話に用いるプロトコルで上記2点が当然担保されていると
無条件に前提していること、むしろそれを前提することで通信が成功していると
半ば信仰していることと、本質的には同じなのかもしれない。

無意味に耐える

伊藤計劃の「ハーモニー」の文庫版に付いている佐々木敦による
解説には、伊藤計劃へのインタビューが抜粋されている。

その中で、伊藤計劃は
無意味であることに耐えられないんですよ人間は。
絶対何かを見ちゃうじゃないですか。ランダムなパターンや
砂嵐にも何かが見える、みたいな。科学が差し出すものに
意味がなければないほど、そこで耐える力をみんなで
勉強すべきだと(笑)。
伊藤計劃「ハーモニー」p.375
と述べている。

意識というものが情報に意味を与えることで成立しているのだとすれば、
意識は正に自己の存続のために意味を与え続けることをやめられない。

五感から入力される情報にも、絶えず意味付けがなされ、それは視覚に
おいて顕著だ。日常で接する光景は、それを「見た」ときには常に何らかの
意味が付随してしまっている。
聴覚や味覚、触覚や嗅覚では、多くの人間は視覚ほどに訓練されていない
ために、意味抜きの情報として受け取る機会も多いと感じられる。


理由付けはとても遠回りな意味付けである。遠回りでもそれをしてしまうのは、
「無意味であることに耐えられない」ために、多少遠回りでもあらゆることに
意味を付けておこうとする、ある種の定めだ。
それは、判断不能な状況から如何に逃れるかという、生命としての本能に
起因するのかもしれない。

意識をなくすには2通りの解がある。
1つは、試行回数を増やすことで、理由付けによらない意味付けをすることだ。
これは短絡であり、痴呆、習慣、常識、宗教、本能等が該当すると考えられる。
もう1つは、判断不能を受け入れることだ。

ありとあらゆることの判断ができないとしても、生命を維持するだけであれば、
1つ目の範囲の判断ができるだけで、かなりの程度事足りる。
しかし、そこに留まらずに判断不能な領域を狭めようと、解空間を拡げようとして
きたのが人間であり、つまりは意識である。

ハーモニーのラストは、もう解空間を拡げることをやめた世界だ。
解空間を有限とみなすことで初めて「合理的」の意味が定まる。
訓練データの外に出られない人工知能もまた、有限な解空間の中にいるのだろうか。
そこから外に出るためには、何をしたらよいのだろうか。
そこから外に出る必要はあるのだろうか。
人間の意識は果たして訓練データの内外どちらにいるのだろうか。

2016-05-02

自動化

自動化による雇用減少の話。
AI・ロボット活用しないと30年の雇用735万人減 経産省試算
労働人口の日本49%、米国47%、英国35%がAI・ロボットに取って代わられる?


雇用自動化の適用範囲は技術的な問題よりも人間の都合により
決まると思われる。
なので、技術的なコストの低さで言えばホワイトカラーの仕事が
自動化しやすいとしても(これはおそらく真だ)、自動化はたぶん
ブルーカラーの仕事から始まっていく。
なぜなら、自動化を適用する人間の仕事はホワイトカラーに分類
されるからだ。

仕事をしなくて済むのがよいと口では言うものの、やはり仕事を
していたいと思うのが、意識を保ちたい人間の性なのだろう。