2017-08-30

社会思想の歴史

生松敬三「社会思想の歴史」を読んだ。

帯にあるように「簡潔で平明な叙述による初学者のための恰好の入門書」であることは確かだが、生松敬三のウェーバーにも通ずるような冷静な視点は、短い中にも鋭さがあり、なるほど名著であることが納得できる本である。

社会という問題が自覚され、人間の共同生活を社会と名づける習慣がはじまったのは、十八世紀のことであった。
生松敬三「社会思想の歴史」p.2
加速する合理化が局所の範囲を引き伸ばすに連れて、大域が局所と同一視されるようになるのが、社会という発想、近代という時代の始まりだろう。いかなる合理化も局所最適化の一つでしかないのに、近代ではそれが大域最適化に化けてしまう。本書で描かれる社会思想の歴史は、合理化とそれに対する抵抗のせめぎ合いであるが、その抵抗すら、理性によって語る限りは別の合理化でしかないから、合理化そのものへの抵抗と言うよりも、局所最適化としての合理化が不可避的に伴う、局所の大域化に対しての抵抗のように思われる。

カントはこのせめぎ合いを「非社交的社交性」と呼び、ヘーゲルは局所同士の矛盾が次々と止揚される運動である弁証法を大域最適化とみなし、「理性の狡知」を見出した。ヘーゲル学派が、その内容からして当然のように、
ヘーゲルの哲学体系そのものが、一面からすれば絶対精神すなわち神の自覚としての神学的形而上学にほかならず
同p.61
と指摘されるような局所の大域化に陥った後で左右に分裂することで、フォイエルバッハやマルクスといった、次の局所最適化の流れが始まり、大域化によって神に占められていた主役の座は人間へと明け渡される。

フォイエルバッハの言う「疎外」は、その自体抽象過程の集合であり、幾通りにも抽象し得る人間が、一面的な抽象過程のみとして捉えられている状態を表したものだろう。マルクスは、「類的存在」=「交通でつながれた局所」として人間を捉えることで大域化に抵抗した。商品が生みだされる呪物崇拝という自己疎外の過程は、局所の大域化がもたらす、ある種のフェティシズムと呼べるかもしれない。

テンニエスのゲマインシャフトからゲゼルシャフトへのやむことなき進行は、合理化に伴う局所の大域化が避けられないことへの言及であるが、これが諦めとしてよりも警告として捉えられることで、後のワイマール文化や「狂騒の20年代」につながったのだろう。

ウェーバーは禁欲的プロテスタンティズムに端を発した合理化が、「資本主義の精神」として大域化したことを鮮やかに示した。それは既に「鋼鉄のように堅い外枠」となり、未だに神として君臨している。ウェーバーは合理化がやむことなく進展する現実と、それが孕む局所の大域化の危険性を冷静に見つめ、神に自覚的であり、「知的廉直」であることを要求する。それによって、盲目的な合理化への反対による絶対的な唯一神の交代劇から、合理化自体によっては基礎づけられない相対的な神々の争いへと移行し、局所の大域化を免れた合理化が可能になる。マルクスの唯物史観も、それが唯一神をもたらす限りにおいては非難されるが、相対的な神々の一柱としては有用であり、ウェーバーはそこに別の視角を加えることで、マルクス理論に貢献したという見解も納得のいくものである。

フロイトによるエロスとタナトスの永遠の戦いというアンビヴァレントな感情もまた、大域化の傾向とその解体の現れである。エロスの敵であるタナトスを無害化するために、攻撃を自分自身へ向けることによってできた自我と上位自我の緊張状態の自覚としての良心や罪意識は、集団の瓦解を防ぐ機構として有用だったかもしれないが、合理化が加速した近代においては、むしろ局所の大域化を過度にもたらしてしまっているように思われる。

最後に現代(と言っても50年前だが)の社会思想として、マルクーゼが紹介される。マルクーゼは特定の局所へ固定化する様を一次元的人間として非難し、これを非合理とする「大いなる拒否」によって脱却を目指す。確かに、合理化が局所の大域化を伴う限り、過度に進行した合理は非合理と見分けがつかないことになると思うが、その拒否の仕方は、暴力のような秩序の破壊ではなく、別の秩序の形成によるのがよいように思われる。ともかく、そうして「必然の国」から質的に変化した「自由の国」において、「労働」と「遊び」が一致するという視点は興味深い。
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
何もしなくてよいというのは、如何にして行動をし続けるかを目指して形成されてきた判断機構=意識に対する、究極の試練となるように思われる。
An At a NOA 2016-06-15 “労働価値のコンセンサス
「自由の国」において、意識をもつ「人間」が存続するのはなんと難しいことだろうか。そこは、現代以上に神の死んだ「宗教上の平日」であり、ウェーバーが指摘するように、「知的廉直」であることによって、無目的的な合理化による「精神のない専門人」「心情のない享楽人」への堕落を避けない限り、意識は保てないように思われる。
最高段階にまで到達したとうぬぼれる「精神のない専門人」、「心情のない享楽人」の出現―これはそのまま現代への痛烈な批判の言葉となっているといってよいであろう。
同p.133

2017-08-28

神話と科学

上山安敏「神話と科学」を読んだ。

ウェーバーは「職業としての学問」の中で、専門分化
によって精緻化しつつ、判断基準としては収束する
学問の姿を描き出した。
それはアポロン的、固定化、エートス、ロゴス、父権制、
一神教、西洋、といった方向性をもつ認識の檻であり、
ゲオルゲに象徴される、ディオニュソス的、発散、パトス、
ミュートス、母権制、多神教、東洋、といった方向性をもつ
詩人の王国と対照的である。

しかし、学問によって収束することで己の「神」を明確化
すると同時に、他の「神」があり得るとして発散することも
可能であり、それによって集団の壊死と瓦解が防がれる。
固定化と発散は両方あって初めて生命的になるのであり、
いずれか一方のみへの偏りは壊死と瓦解をもたらす。
そのようなものとしてウェーバーの価値自由が理解され得る
からこそ、本書で描かれるような、詩人の王国に分類される
人々とウェーバーの交流も生じたはずだ。

集団を維持するには、倫理的であることも必要である。
ただしそれは、「何を是とするか」を決めるというだけであり、
それ以上でもそれ以下でもない。
道徳というのは、抽象過程の破綻を避けるための、
発散する特性を制御する枠組みだと言える。
An At a NOA 2017-06-10 “技術の道徳化
正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが
生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.166 
そこで前提した「是」を絶対視したり、「是」としただけである
ことを忘れたりするところから、集団は少しずつ壊死し始める。

どんなストーリィでも、それを唯一無二の正しいものだと仮定
することが、既に父権制的であり、エスタブリッシュメントへの
対抗として母権制を支持する側が、別の父権制の乱立になって
しまうだけでは、逆に集団は瓦解する。
「Ⅶ 神話の古層」で指摘される、
ただ一ついっておきたいことは、西欧文明の根幹をつき、
科学のパラダイムの組替えを要求した人びとの現実政治
への感覚的鈍さである。
上山安敏「神話と科学」p.376
というのも、これに通ずることだろう。

2017-08-23

職業としての学問

マックス・ウェーバー「職業としての学問」を読んだ。

学問は、それが拠って立つところの前提を基にして、
専門分化によって精緻化し続ける。
それは常に一本道であり、いつか後代の仕事によって
打ち破られることを欲しながら、特定の判断基準に
従って理由付けに邁進する。
そこには一つの局所が形成され、局所の判断基準を
信じるという主知化、合理化を徹底することによって、
すべてが理由で塗り固められた「魔法からの世界解法」
の状態でいることができる。

一方で、いずれの前提がよいかを決める手立ては
学問には存在せず、前提同士、すなわち「公理
あるいは「神」同士の争いに、学問は口を出さない。
これらの神々を支配し、かれらの争いに決着をつける
ものは運命であって、けっして「学問」ではない。
学問が把握しうることは、それぞれの秩序にとって、
あるいはそれぞれの秩序において、神に当たるものは
なんであるかということだけである。
マックス・ウェーバー「職業としての学問」p.55

以上のような、ゲーデルの不完全性定理にも通ずる
ウェーバーの学問観には、とても共感できる。

ウェーバーの言う「価値自由」な状態とは、判断基準の
前提=公理=神について明確であるということであり、
その手助けとなるのが学問である。
各人は、価値自由になることで、責任をもって
善悪の彼岸」に立つことができる。
逆に、価値自由になれず、善悪の此岸に留まっていては、
自らの局所の判断基準を、別の局所を含んだ大域へと
拡張するという過ちを犯す。

学問は、特定の判断基準に収束するという意味では
すこぶる技術的であるが、技術的に突き詰めることに
よって価値自由になることなくしては、芸術的で
あり続けることもできなくなるのである。

局所と大域

研究テーマが局所安定性と大域安定性の話に至り、
熱力学や統計力学、エントロピーに関する本を
読んでいる。

イリヤ・プリゴジンとディリプ・コンデプディの
「現代熱力学」は、非平衡系まで視野に入れて
エントロピーと安定性の話が整理されているので、
何かしら応用できるかもしれない。
系から流出するエントロピーは常に系内に流入する
エントロピーより大きく、その差は系内の不可逆過程
によるエントロピー生成により生じる。
(中略)
エントロピーを生成する不可逆過程によって組織化
された状態がつくり出されるのである。
(中略)
不可逆過程はこのような秩序を生み出す駆動力である。
イリヤ・プリゴジン、ディリプ・コンデプディ「現代熱力学」p.73
という部分が、おそらくシュレーディンガー
ネゲントロピーが否定される所以だろう。
秩序が形成される部分系には、負のエントロピーが
流入するようにも見えるが、それは秩序の形成が
不可逆過程であるために正のエントロピーが生成
されることの裏返しなだけである。
熱素やエーテルのように、ネゲントロピーも
除霊されたということだ。

相対性原理との兼ね合いでは、熱力学の第一法則、
第二法則がともに局所的だという話が出てくる。
エネルギー保存およびエントロピー生成の非局所的法則は、
同時性の概念は相対的であるので、認められない。
同p.247
ネーターの定理により、エネルギー保存則は時間の
並進対称性と同値であることと、「エントロピー再考
のように、比較仮説によって時間やエントロピーが
定義できることを踏まえると、このことは、「局所」
というものが、ある一つの順序構造を共有することに
よって規定されることの言い換えだろう。

数学の分野では局所大域原理というものもあるようだ。
部分を見ることでどれだけ全体を再構成できるか
という意味では、通ずるものがあるようにも思う。

微視的な可逆性がどのように巨視的な不可逆性に
つながるかという不可逆性問題は、統計力学の
分野でも決着がついていないようなので、どこまで
踏み込めるかはわからない。

ランダウアーの原理についても、元論文を含む論文集
「Maxwell's Demon 2」を読んでみたが、量子力学の
話まで拡張すると、まだ反論もあるらしい。

あらゆる局所において同じ順序構造が共有されており、
大域でも同じ順序構造が共有されるのであれば、局所と
大域の差はなくなる。
それが啓蒙主義によって進められてきた、近代的な、
機械論的な、要素還元主義的な見方だろう。

順序構造の異なる局所が存在するのであれば、大域に対して
一義的に設定できる順序構造は存在しない。
それは、一意的な理由付けができないことを意味するが、
それでも大域に対して一意的に理由付けすることによって、
局所と大域の間で失われる情報量が、不可逆性につながる
というのが妥当な見方な気がしている。

ゾンビとショッピングモール

ジョージ・A・ロメロ「ゾンビ」以来、ゾンビと
ショッピングモールの組み合わせは定番になっている。

水晶宮、パサージュ、百貨店の系列に連なる
ショッピングモールと、「生ける死体」としての
ゾンビはいずれも、全体を部分に分解し、それを集積
すると元の全体に一致するという、要素還元主義的な
発想に支えられている。

ゾンビとショッピングモールの組み合わせを見出したのは
ジョージ・A・ロメロの達見であるが、その組み合わせが
いろいろな点で人間と符合するように思われるのは、
部分化によってゲシュタルト崩壊した世界観に慣れている
ことの現れなのかもしれない。

2017-08-21

公理

何故という問いに対する答えがなくなる場所は、
「公理」あるいは「神」と呼ばれる。

2017-08-18

何を構造主義として認めるか

ジル・ドゥルーズ「何を構造主義として認めるか」を読んだ。

構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
An At a NOA 2015-11-02 “構造
事象間に共通部分が見出されることで通信が可能になり、その際、共通部分である構造は通信プロトコルとなる。
たとえ秘教的な言葉であれ、非音声的な言葉であれ、言葉であるものにしか構造はない。
ジル・ドゥルーズ「何を構造主義として認めるか」
「ドゥルーズ・コレクションⅠ」p.55
と言うときの「言葉」は、言語languageよりも広い概念としての通信規約protocolに近いと思われる。

通信プロトコルとしての言葉に着目することが構造主義者の特徴となるわけだが、ここでは七つの規準が与えられる。

「1. 記号界」は現実界とも想像界とも異なる構造の世界であり、そこは「2. 局所あるいは位置」が問題となるトポロジカルで関係的な空間である。言葉による結合で溢れ、意味の過剰生産としての無意味な状況にある空間において、特定の構造=言葉を見出すことで意味が産出される過程は、抽象と呼べるものだろう。別の構造=言葉を見出すことによって別の意味を生み出すという構造変動は、つなぎ替え可能な抽象=理由付けである。
思考すること、それはサイコロを投げることである。
同p.64

態度と呼称、あるいは関数と変数としての「3. 微分と特異」の二面から構造は構成され、それは現働的actualの反対としての潜在的virtualであるとされる。構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualでありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。それが「4. 分化させるもの、分化すること」の過程である。

もう半面として、構造は「5. セリー」的であることで機能する。同一化されない複数のセリーが存在し、そこに含まれる項が移動することで、構造は確定し、機能する。セリー間での移動はメタファー=意味付け=空間であり、同一セリー内での移動はメトニミー=理由付け=時間である。セリーを駆け抜ける「6. 空白の桝目」である対象=xは、自己という主体とともにあり、「生命壱号」を彷彿とさせる。
構造は、根源的な第三者によって、しかし自己自身の根源を欠いている第三者によって動かされる。構造全体に差異を配分し、自らの移動で微分的関係を変化させることで、対象=xは、差異そのものを差異化して分化するものとなる。
同p.85
空白の桝目に伴うものがいなくなることで神という病に陥り、空白の桝目を占めるものが現れることで人間という病に陥る。「7. 主体から実践へ」で述べられるのは、その構造の二つの病に陥らない主体になるための規準である。
神でも人間でもなく、人称的でも全称的でもなく、同一性もなく、非人称的な個体化と前―個体的な特異性から形成されるヒーローである。
同p.96

おそらく、構造を有することで微分化の意味ではある程度固定化しつつも、投機的短絡によってサイコロを振ることで緩やかに変動しながら、分化の意味では発散した状態というのが、壊死と瓦解の間で集団を維持するにあたって適した状態だと思われる。そのような視点をもてるのが構造主義的であり、それによってのみユートピア=ディストピアに陥らないユートピアを描くことができるような気がしている。

random

「乱断(ランダン)」はrandomの当て字として有用だと
思うのだけど、明治期に流行らなかったのだろうか。

「亂し斷ずる」で意味も通るし、乱数や乱択のように、
randomに「乱」の字は当てられているのに。

2017-08-16

アウフヘーベン

愛するときに立ち止まってしまうようであれば、
あらゆる愛は固定化をもたらす重荷となる。
私たちが愛するのは、いつも過去においてであり、
情熱は、まず記憶に固有の病いなのである。
ジル・ドゥルーズ「カフカ、セリーヌ、ポンジュの先駆者、ジャン=ジャック・ルソー」
「ドゥルーズ・コレクションⅠ」p.245

変化することのないこちら側への統合は、
集団自体を壊死させるものであると同時に、
集団形成のレベルにおいては、その思想が
集団形成を瓦解させるものになる。
今ここの善が普遍/不変的であるという思想そのものが、
既に悪性を帯びつつある。
An At a NOA 2017-08-09 “昨日の善は今日の悪

ヘーゲルの言うアウフヘーベンは、こちら側と
あちら側の変化を伴う愛であり、
あちら側をあちら側のままに愛すること
An At a NOA 2017-07-31 “愛が重い
というのは、アウフヘーベンによって達成される
と言えるのかもしれない。

性善説と性悪説

性善説は固定化の傾向に着目し、
性悪説は発散の傾向に着目する。

そして道徳論に留まる限りにおいて、
両者はいずれも、最終的には固定化を
促すことになる。
道徳というのは、抽象過程の破綻を避けるための、
発散する特性を制御する枠組みだと言える。
An At a NOA 2017-06-10 “技術の道徳化

「性」は「人間の本性」と説明されるが、
むしろ固定化と発散という集団としての
本性のことだと思われる。

集団なしには固定化も発散もし得ないので、
政治哲学で言うところの自然状態における
「性」についての議論は意味をなさない。

2017-08-15

過去に生きる

過去=記憶の変化率として現在が定義される
のであれば、固定化によって変化しなくなった
世界には、現在が訪れない。

「ハーモニー」のスイッチが押された後のような、
エントロピーが増大しないシミュレーションの
世界では、時間が経過しなくなると想像されるが、
そこには引き延ばされた現在があるのではなく、
変化しない過去が残るのだと思われる。
それはつまり、過去に生きるということである。

氷河

2年ぶりに田舎を訪れる。

変化しないようでいてゆっくりと静かに変化
している様は、さながら氷河のようである。

田舎が氷河なのであれば、都市は河川である。
いずれも自らの重さによって流動する点では
同じであるが、結合の強さの違いが速度差を
もたらす。
その結合は、ポジティヴに評価されるときは
つながりと呼ばれ、ネガティヴに評価される
ときはしがらみと呼ばれる。
結合の強さはつまり、判断基準の強固さの現れ
なのだろう。

氷河と河川のどちらがよいというわけではなく、
ただそれぞれの在り方があるだけである。
そのバランスが崩れることは、地球温暖化や
氷河期のように「異常」と認識されるだろうが、
それもまた、ある時代、ある集団の固定化した
視座がもたらす「正常」があってこそのものに
過ぎないことは、念頭に置くとよいと思う。

ひとつ言えることは、氷河と河川のいずれか
一方のみよりは、両方にいる機会がある方が
面白いのではないかということだ。

2017-08-11

壊死と瓦解

固定化の果てにあるものは壊死であり、
発散の果てにあるものは瓦解である。

更新される秩序としての生は、
更新の不在によって死に至り、
秩序の不在によって解かれる。

生物学的には壊死Necrosisの反対は
アポトーシスApoptosisだが、
アポトーシスは多細胞生物における
局所的な瓦解だと言えるだろうか。

大局的な壊死や瓦解を防ぐための、
局所的な壊死や瓦解は、あらゆる
集団において必要なように思われる。

2017-08-10

マッハとニーチェ

木田元「マッハとニーチェ」を読んだ。

村上陽一郎「熱学とロマン主義の時代」によれば、啓蒙主義こそが自然科学を生み出した。それは理性によって世界を部分に切り刻んでいくものであったが、その反発として十八世紀末から十九世紀初頭に生まれたロマン主義が、
人間の小さな頭脳に与えられた理性ではとても摑み切れない不可思議として受け入れる、という態度
村上陽一郎「熱学とロマン主義の時代」
「近代熱学論集」p.xii
とともに、熱学の発展をもたらしたことは、たしかに「ホーリスティックな存在」としての人間を、可能な限り部分化することなく捉えるのに大いに貢献したことだろう。

固定化からの脱出としての発散という点では、マッハとニーチェの二人も、このロマン主義の後継にあたるはずであり、理解することが不可避的に含んでしまう部分化を受け止めつつ、特定の部分化に固定化することから何とか逃れようとしたのだと思われる。

マッハは、自我とは「比較的強固に連関しあっている要素群」にすぎず、「暫定的概観のための実用的統一体」とみなすべきだと主張している。
木田元「マッハとニーチェ」p.290
というマッハの自我観には共感できる。感覚によって世界が生成されると言うときに、それを受容する何かとして自我を想定するのは誤りであり、自我もまた、抽象によって生成されるものである。
絶え間ない流れに、理由という杭が立てられることによってできたよどみ。そのよどみのことを、心理的身体と呼んでいるのだろうか。
An At a NOA 2017-04-07 “よどみ
「今、ここ、私」がすべて生成されるものなのだとしたら、要素還元主義によって特定の判断基準を基にパーツを用意するのは、時間と空間と自我を固定化することに他ならない。

ある判断基準に従ってゲシュタルト崩壊して得られたパーツからは、その判断基準に沿うような全体は再構成できても、他にあり得た判断基準は消え去ってしまうように思う。

パッチワーク

あらゆることについて《似たものへの前進》が
起こるほどに異常発達してしまった抽象能力。
そのバグを補うために、その都度あてられる
パッチが、理由なのではないか。

抽象という部分化

抽象することで、全体であった無相の情報は、部分である
有相の情報に分けられる。
An At a NOA 2017-07-31 “生命に部分はない
世界が部分からできているようにみえるのは、
認識や理解という抽象過程自体が、部分化
することであるからだ。

意味付けや理由付けによって、世界を認識
しようと、理解しようとすればするほど、
世界はどんどん部分化されていく。

それがゲシュタルト崩壊である。

2017-08-09

ゲシュタルト崩壊

要素還元主義というのはつまり、考え過ぎに
よって陥るゲシュタルト崩壊のことだろうか。

昨日の善は今日の悪

或る時代が悪と感じるものは、通常、かつて善と感じられて
いたものの時節はずれの余韻である。―旧い理想の隔世遺伝。
フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」p.139
悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る。
ハンナ・アーレント
芸術を技術にするところに、あらゆる懸念が詰まっている。
それは、ユートピア=ディストピアの到来の予感である。
An At a NOA 2017-07-31 “芸術と技術3
今ここの善が普遍/不変的であるという思想そのものが、
既に悪性を帯びつつある。
この思想を善とすれば、これもまた当然悪性を帯びつつ
あるに違いない。
つなぎ替え可能性はつなぎ替えることによってしか成立
せず、言葉によって十全に表現できないのはもどかしいが
仕方のないことである。
この未来を受け入れたくないのであれば、常に新しい情報を求め、
これまでに経験していない判断をする機会を増やしていく以外にない。
意味のない、余計なことは、むしろどんどんやるべきなのだ。
マグロは泳ぐことを止めたら死んでしまうのである。
An At a NOA 2016-03-02 “早すぎる最適化

2017-08-08

あまりに現実的な夏の夕暮れ

台風が通り過ぎた影響なのか、西日が明るいのに、
夕立とは一味違う雨がパラパラと降っている。

耳ではミンミンゼミの声を聴き、鼻と肌で
圧倒的な湿気と蒸し暑さを感じながら、
雨粒自体は心地よい冷たさをもつのが不思議だ。

こういう膨大な入力を、一つの全体として
構成するのが現実だな、ということを
思わずにはいられない情報量の多さ。

写真や文字として抽象するには、
失われる情報があまりに多すぎる。

善悪の彼岸

フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」を読んだ。

近代という物語の中では、人間は一人ひとりが専門家という畜群の一員となる。
何もかもが専門分化した世界では、人間は個としてはまったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を手に入れることになってしまう。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団
それは「単純化」という、人間の、あるいは人間の集団の性質によって、半ば強制的にはまっていく、固定化の陥穽である。
おお、《聖なる単純》よ!何という稀有な単純化と偽造のうちに人間は生きていることか!
フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」p.51
真理、善、美、《先天的》綜合判断といったものも、固定化のもたらす信仰の対象である。それは集団の瓦解を防ぐためには必要なものだと思われるが、「善悪の此岸」に留まり続けていたのでは、その愛の重さによって、畜群は壊死するのみである。

常に同様な不都合な諸条件との不断の戦いは、一つの類型が固定し強くなることの原因である。しかるに、ついにいつかは幸運な状態が発生し、巨怪な緊張が弛緩する。
同p.318
とあるように、固定化と発散の争いは寄せては返すように続くが、「善悪の彼岸」は近代という固定化からの大きな揺り戻しのように思われる。
この自然的な、余りにも自然的な、《似たものへの前進》を、類似なもの、通常のもの、月並みなもの、畜群的なものへの―卑俗なものへの!―人間の進展を遮るためには、巨怪な対抗力を喚び起こさなければならない。
同p.328
《似たものへの前進》をやめようと思うのであれば、
われわれの義務を万人にとっての義務にまで引き下げようなどとは決して考えないこと。自己の責任を譲り渡そうと欲せず、頒ち合おうと欲しないこと。自己の特権とその行使を自己の義務のうちに数えること。
同p.334
というように、集団の大きさに頼ることなく、自らに責任を回収する他ない。

「善悪の彼岸」の思想をただただ後追いすることは、これに反し、発散ではなく固定化をもたらす。
「私の判断は私の判断である。他人はそれをたやすく自分のものにする権利がない」―と恐らくそうした未来の哲学者は言うであろう。
同p.80
最後の二九六節にニーチェが述べるように、今まさに書き記した、あれほど多彩で発散するようにみえた思想もまた、早くも固定化し始めるのだから、常に考え続ける以外に、畜群を逃れる道はないのかもしれない。
すでにお前たちはその新味を失い、しかもお前たちの幾つかは―私を恐れるのだが―早くも真理になろうとしている。それらはすでに何と不滅に、何と悲痛なほど正直に、何と退屈に見えることか!
同p.354
いくら言葉を尽くしても、特定の言葉として表現すること自体が一つの固定化をはらみ、次の発散を促すしかなくなる。それが、「わかろう」とし続けることの難しさだ。

大いに争いなさい。固定化と発散の争いなきところに人間はいないのだから。
An At a NOA 2017-07-31 “生命に部分はない

2017-08-06

エネルギー保存則の哲学

エネルギー保存則にあたる概念は、デカルトや
ライプニッツも考えていたらしいが、熱力学的
には1842年のマイヤーの論文が最初になる。

マイヤーは今で言うところのエネルギーにあたる
〈力〉について、
〈力〉は原因である。これにたいして原因と
結果は等しいという根本原理が直接に適用される。
(中略)
原因は量的に不滅で質的には可変な対象である。
山本義隆「熱学思想の史的展開2」p.318
と述べており、山本も指摘するように、
〈力〉とは、あえて言うならば、この関係連関
そのものないし関係連関相対によって定義される
不変量ということになる。
同p.320
熱を〈力〉概念に包摂することにより〈力〉の保存則
を維持する、というよりむしろ、保存則を維持する
ように〈力〉概念を熱にまで拡大するのである。
同p.325
というかたちで、原因と結果が不滅なままに一連の
数珠つなぎとなっているという、マイヤーが提示した
エネルギー保存則の哲学は、150年以上にわたって
継承されてきている。

ネーターの定理によれば、この哲学こそ「並進対称性を
もつ時間」という近代的な時間観そのものなのである。

2017-08-03

教養

すぐに役に立つ知識ばかりを蓄えることは、教養を培う
とは言われないように思う。

いつか役に立つかもしれない知識を蓄えていくにつれ、
教養のある人間になっていくかもしれないが、それを
すべて披露してしまうと、知識は豊富だが教養のない
人間にみえるおそれがある。

ある人が蓄えていると想像される知識から、その人が
披露した知識を差し引いたものが、周囲には教養として
映るのではないか。
当人にとっては、教養と知識の差はあまり重要でない。

教養とは、未だ披露されていない知識のことである。

マジョリティ

「マジョリティが正しいとは限らない」という言明の裏には、
「正しいからコンセンサスに至る」という誤った仮定が
含まれているように思われる。
正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが
生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.166

2017-08-02

ダブルスタンダード

複数の視点をもつという意味では、ダブルスタンダードは
むしろ歓迎されるべきことである。

いわゆるダブルスタンダードが非難されるのは、ダブルと
言いながら、実際には特定の意識の利己主義という一つの
判断基準に収束するからである。
共有されないという点で、それはスタンダードですらない。

「ものづくり」の科学史

橋本毅彦「「ものづくり」の科学史」を読んだ。

標準という考え方についてよくまとまっており、
とても面白い内容だった。
標準化に対する職人の反抗、標準と個性との
ジレンマといったものもまた、固定化と発散の
せめぎ合いである。

言語、文字、習慣、法律など、人間が集団活動を
営む際に、必然的につきまとうこのような集団の
成員間で規約された共通の規則、道具、概念、
言語などについて、ハリマンは標準化の起源を
見てとるのである。
橋本毅彦「「ものづくり」の科学史」p.178
というノーマン・ハリマン「標準と標準化」の考え方は、
集団と表裏一体に存在する正義が、標準という思想
そのものであることをよく表している。
標準化によって正義を共有することで通信が可能になり、
集団が維持される一方で、それは交換可能性を高め、
「これ」でなくてもよいという状態を作り出し、
集団の構成要素よりも集団そのものが強調された結果、
個性との対立を生み出す。
さらに、標準化によって固定化の側面が強調されて
しまうと、終いには集団を壊死させてしまう。
また標準化の硬直的な強制がもたらす別の問題点として、
技術的な進展を阻害したり、技術的な進歩と標準規格が
そぐわなくなることが指摘される。
同p.193
バウシンガー効果で有名なヨハン・バウシンガーが
採用した、「議論は自由に行い、決議は拘束力を
もたないこと」という一見非効率的な手続きが、
つなぎ替え可能性という柔軟性によって上手く機能
し得るというのは、ことあるごとに思い出されて
よいだろう。

標準化というと、固定化につながるイメージが強いが、
第七章のコンテナの例のように、標準化によって可能に
なる発散というものもある。
それは、全く異なる集団であったもの同士の間に、
標準という共通の通信プロトコルが成立することで、
新しい集団が形成されることによる。
一つのレベルで標準化することが、別のレベルで
多様性を生み出す。
同p.228
これは、「事実によって」成立するデファクト・
スタンダードよりも、「法律によって」成立する
デジューレ・スタンダードによって起こりやすい
と言えるだろうか。
ただし、言語は典型的なデファクト・スタンダード
であるが、共通言語をもつことによって、会話や
詩といったものが成立することを思うと、あらゆる
標準化が別のレベルでの発散可能性を秘めている
ようにも思われる。

デファクトもデジューレも、あらゆる標準化には
歴史的経緯が考慮されるため、最適になるとは
限らず、あるときには最適だったとしても、
いつの間にか最適でなくなることもある。
標準は経路依存によって決まってくる、すなわち
歴史を背負って姿を現してくるのである。
同p.255
また、標準化は集団を形成するため、少なくない
個性の犠牲の上に成り立っているが、著者も指摘
するように、個性の礼賛になってしまっては、
逆に集団が瓦解する。
標準と個性の対立を指摘し、個性を強調することは、
標準化による利便性を過小評価することになりかねない。
同p.262
結局のところ、ここでもまた固定化と発散の
どちらに振れてもいけないという話に戻って
くるのだが、標準化もまた生命あるいは人間の
行いなのだから、そういうものなのだろう。
現代のグローバル化された世界で、グローバル・
スタンダードに合わせる努力は必要である。
だがそれとともに単純に設定された標準では
カバーしきれない個性や地域性が出てきてしまう
ことにも配慮がなされるべきだろう。
同p.263
というのは、人によっては物足りないかもしれないが、
バランスのよいまとめ方だと思う。

2017-08-01

自然な拘束条件

問いに問うて問い抜いて、それでも問えないもの。

デカルトはそれを「我」として称揚したが、
結局それはディストピアにおける倫理と同じで、
意識されないほど自然になった拘束条件という
ことなのではないか。