2017-09-29

食人の形而上学

エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ「食人の形而上学」
を読んだ。

「アンチ・ナルシス」という、とうとう世に出ることの
なかった書物についての紹介というかたちをとることで、
「アンチ・ナルシス」という構想は成立し得るのだろう。
元の書物が不在であることによって特定の分割線への
収束を回避し、「アンチ・ナルシス」が成立している
と見れば、それは松岡正剛が「」で取り上げていた
磯崎新の「始源のもどき」にも通ずるように思う。
西洋で培われてきた学問という伝統が、道徳として
一貫性を求めるために「大いなる分割」を不可避なもの
にしてしまうのであれば、未分化な状態について言及する
にはこういった抽象の重ね塗りが必要なのかもしれない。

別様の理由付けや意味付けがあり、それぞれの範囲も
変わり得るという「多文化と多自然」という見方。
抽象自体がそもそも、複合的なもの、二重にねじれた
ものであり、「理由付けと意味付け」という分割も
また一つの抽象でしかない。
ひとつひとつの抽象はもちろん分割を設定するが、
翻訳、擬、抽象による分割の重なり、交換、循環が、
大いなる分割のないリゾーム的多様体となる。
松岡正剛はそれを「世」と名付けた。
おそらくそれは、一つの視点から抽象すればするほど、
かえって遠ざかってしまう類のものである。

2017-09-28

松岡正剛「擬」を読んだ。

松岡正剛は抽象のことを「編集」と呼ぶが、書名の
「擬(もどき)」というのも、いわば抽象のことだ。

ひとつひとつの擬は何らかの基準をもった模倣であり、
「つもり」と「ほんと」がないまぜになっている。
それはそもそも一つの見方でしかないから大いに
「つもり」でもあるし、それが共有されることで
大いに「ほんと」にもなれる。
「ほんと」というものは、ある擬が一時的にでも共有
されている状態のことを言うのである。

だからこそ、擬くことによってしか見えてこない「世」
なるものは、別様な可能性を秘めたcontingentなもので
あってよく、「あべこべ」で「ちぐはぐ」なものとして
「かわるがわる」擬くのが面白い。
逆に、それをconsistentなものとするために、ある基準、
ある擬だけを共有しようとするのはひどくつまらない。

一つの全体へと収束する傾向、「ほんと」への希求、
アーリア神話、グローバリゼーション、局所の大域化が、
擬の仕方、抽象の基準を固定化することによって現れる
壊死の兆候である一方で、新しい擬をもたらすマレビトは、
発散の担い手、瓦解の兆候となる。
壊死と瓦解のバランスは、擬が「つもり」と「ほんと」の
いずれでもなく、いずれでもあることで成り立っている。

個々の擬がもつ基準は、その擬にとっての道理となるが、
複数の擬が重なり合ったときに、道理までは必ずしも
一致せず、道理の差が生まれると、一方から見た他方の
道理は義理となる。
「借り」や「負い目」によって義理が発生するのは、
新しい擬があてがわれるからなのだろう。
義理が軽んじられていくのは、擬の一元化のためだろうか。
擬き方が一つになったディストピアにおいては、
義理は存在しなくなるだろうか。

この本自体、列挙するのも骨が折れるほどの多数の先人に
よる擬を、松岡正剛が擬いたものである。
専門分化という近代西洋の擬をまたぐ、圧倒的な読書量に
支えられたその編集力、擬きぶりにはただただ感服するが、
松岡正剛の擬をただ単になぞるだけでは主題に反する。
日々「好奇心をもち」、「相手と親しくなり」ながら、
マレビトたらんとして擬き続けるべし。

物理層

物理層は、インターネットを構成するケーブルの配線だけ
でなく、人間の物理的身体や国家の制度など、至るところ
に遍在している。
分散化だ、リゾームだ、プロトコルだ、ネットワークだと
言ったところで、結局のところP2Pな形態に移行できない
のは、物理層の変化がアプリケーション層の変化に比べて
ゆっくりだからなのだろう。

その変化の遅さがつまり短絡の堅実性、ハードネスであり、
それによって複数の抽象過程=身体が重層的に存在できて
いるように思う。
ハードウェアの変化が十分に遅いことで、ハードな「自然」
とソフトな「文化」の分割の共有に支障がなくなると同時に、
その共有によって、ソフトな部分もまた、別な抽象過程に
とってのハードとなる。

人間でありつつ、村でありつつ、国家でありつつ、地球で
ありつつ、臓器でありつつ、細胞でありつつ、原子である
という、抽象過程=身体の重層性。
地球も、国家も、村も、人間も、細胞も、臓器も、原子も、
何かしらの集合であり、集合は基準とともにある。
集団を抜きに真理が存在しないのと同程度に、真理の共有なしには
集団は存続できない。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
それはそれで見方としてはよいのかもしれないが、要素の
集合が全体になるという、要素還元主義的な発想になり
かねない。
むしろ、それらはそれぞれ抽象過程=身体であり、あらゆる
抽象過程は同一性の基準とともにあるという見方の方が
しっくりくるように思う。

2017-09-27

理学と工学

意味付けに基づく無意識は、端的に特徴抽出であるが故に、
理屈による理解とは無関係、一定のエラーが避けられない、
等の特徴を有しており、それは理学よりも工学に似ている。
逆に、理由付けに基づく意識は理学に近いとも言える。
An At a NOA 2016-07-31 “工学的
理学が、公理という前提とそこから演繹される体系を重視し、
可能な限りデジューレ・スタンダードに留まりながら、
デファクト・スタンダードによる抽象を「予想」や「仮説」
と呼んで区別するのに対し、工学では比較的デファクト・
スタンダードの比率が大きく、デジューレ・スタンダードと
デファクト・スタンダードの区別も曖昧なように思う。

もちろん、理学と工学という区別自体、割と新しいもの
だと思うので、私見による大雑把な比較でしかなく、
どこにどういった線引きをするかだけである。
ものづくりを全くしないのに理論に明るい状態と、
理論は全く知らないのに優れたものを作る状態の間に、
理学者、工学者、設計者、技術者、職人といった、
いろいろな「専門家」の括りがあるだけである。

どのような「専門家」として括られるにせよ、どのように
抽象しているかについて、より明確でありたい。
その明確化はまた一つの理由付けであらざるを得ないが、
それが意識のわがまま、本来の意味でのエゴイズムなの
ではないかと思う。

多文化主義と多自然主義

実在への殺到」でも触れられていたが、自然と文化の
分割の仕方は、問いとして認識されつつあるように思う。

産官学連携、学際、国際交流、LGBTといったかたちで、
文化的な領野における分割は、自然と文化の分割に比べると、
解消し得るという認識が進んでいるように感じる。
それは専門分化によって精緻化してきた近代への反省では
あるが、自然と文化の分割を固定化したまま、文化の部分
だけの再分割に留まることも可能だ。

文化的活動を思考のようなものとしたとき、自然的活動に
あたるのは、目や耳、鼻、皮膚といった感覚器官から情報が
入力されることに代表される。
自然と文化の分割を固定するというのは、世界は人間が
知覚しているように知覚されるものとしてあることを
想定することであるが、機械学習、医療、人類学、動物学
といった分野の知見が拡がるにつれて、その想定も解消し得る
という認識が形成されてきた流れが、「幹―形而上学」のような
未分化な状態を考えるものとして結晶しつつあるのだと思う。

抽象によって形成される秩序が更新される仕方に、堅実的な
ものと投機的なものがあるとして、その両者が理由の有無に
よって弁別されるとすれば、自然と文化の差もまた、理由の
有無になり、
  • 多自然主義は理由なき堅実的短絡である物理的身体の多様性
  • 多文化主義は理由ある投機的短絡である心理的身体の多様性
を受け容れる態度にそれぞれ対応する。
単一文化かつ単一自然という想定に比べれば固定度は低いが、
両者はいずれも、多自然かつ単一文化や多文化かつ単一自然
を主張することができ、自然と文化の分割を固定した状態で
いられることになる。
単一文化かつ単一自然、多文化かつ単一自然の次として、
多文化かつ多自然に至り、自然と文化の分割の解消に向かう
のは妥当な流れである。
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、
いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに
なると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “
という予感も、どのようなものであれ、分割の解消、再構成が
困難をはらんでいることに対するものなのだろう。

以上のような話における、自然と文化、堅実的と投機的、
物理的身体と心理的身体というのもまた一つの分割であり、
それはいつでも解消し得るものとして提起される。
すべての抽象過程=短絡は本来投機的なのかもしれない。
An At a NOA 2016-11-18 “非同期処理の同期化
ただし、分割することをやめよというのではなく、別の分割の
仕方があり得ることを認識せよというのが、未分化な状態を
考えるということだと思う。

抽象過程において同一性の基準が陰に陽に設定されることで、
「何を同じとみなすか」が決まる。
抽象過程は同一化であり、分割である。
同一なものがあるのではなく、同一なものになるのであり、
それによって分割が生まれる。
対象の異なる状態を観察者が不断に同一化する。これが同一性の正体です。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.320
単一文化や単一自然は分割の仕方を限定する基盤であり、
分割の仕方が一つになり、何もかもについて分割の仕方が
決められた世界はディストピアである。
反対に、知覚すること、思考することも分割することであり、
分割をやめるのは抽象の拒否による秩序の不在をもたらす。
別の分割を想定した下での分割が、秩序の更新を維持し、
生命を壊死と瓦解の間に留めるのではないか。

Where Qs interact

questionの語源はラテン語quaerereで、ask、seekを意味する。
require、acquire、query、questあたりも語源が同じで、
inquireやinquisitiveもその系列にあるようだ。

そういうものをすべてまとめて「Q」の一字に込めることで、
固定化への抵抗としての発散を表す。
「Q」が交錯することで、更新する秩序としての生命が駆動し
続けられるとよいなと思う。
問いの問いによる問いのためのコウシン

2017-09-26

問いの問いによる問いのためのコウシン

問いの更新 Update of questions
問いによる交信 Communication by questions
問いのための昂進 Enhancement for questions

Interaction of Questions

2017-09-25

局所平衡

あらゆる抽象過程は、非平衡系に見出される一つの
局所平衡に過ぎず、同一性の基準は変化し得る。
その変化が緩やかなものは堅実的に、急激なものは
投機的にみえるということかもしれない。

同一性の基準が変化しなければ秩序は更新されず、
動的平衡から静的平衡へと収束する。
更新される秩序としての生は、
更新の不在によって死に至り、
秩序の不在によって解かれる。
An At a NOA 2017-08-11 “壊死と瓦解

2017-09-22

何かであるということ

あるものが何かであるということは、ある基準に照らして
あるものを抽象したときに、是となるかということだ。

無相の情報が抽象される際に、その情報と同一性の基準の
両方が関係する一連の抽象過程の中で性質が見出される
のであって、無相の情報が単独で性質をもつことはない。
波長約700nmの電磁波が単独で赤という性質をもつことは
なく、目という光学センサがその波長を含む電磁波を抽象
する際に赤という性質が現れる。

「波長約700nmの電磁波は赤い」という言明が成立するのは、
人間とそれ以外を主体と客体に分けるという発想の下で、
主体の側のあらゆる存在が人間の目と同じような特性の
電磁波用センサを有することを、暗黙のうちに前提した
場合である。

同じように、ある存在が単独で人間であることはない。
その存在を人間とみる抽象過程が存在して初めて、
その存在は人間であるということになる。
人間がお互いを人間として抽象しながら、自分自身を
再帰的に人間として抽象することで、「人間」という
カテゴリが成立する。
受精卵は、胎児は、自我が芽生える前の幼児は、植物状態は、
脳死状態は、人工知能は、果たして「人間」だろうか。
こういった問いは、主体として確保したとみなしている領域の
変更を必然的に迫るからこそ、センシティヴなのだろう。

奴隷や黒人が人間として抽象されないことが主流な時代があり、
今でも、多かれ少なかれ、自分とは異なるようにみえる存在を
自らと同じカテゴリに入れようとしない傾向はある。
その傾向は消えることなく、同一性の基準の更新はせめぎ合い
ながら緩やかに進行していくと考えられる。

口を衝く

ネットによってもたらされる可能性の領野はあまりにも広く、各自の所属する集団が想定する倫理の領野に降り立つのは至難の業である。
An At a NOA 2017-09-20 “ネット検索
インターネットが、通信可能性まで削ぎ落としたプロトコルによって接続されることによって出来上がる可能性の領野であり、各集団において許容される倫理の領野に比べると茫漠としているというのは、インターネット上での通信が、つい「口を衝いた」ものになりやすいことに端的に表れているように思う。

音声入力が一般的になれば「口を衝く」ことになるのだろうが、キーボードやタッチパネルが主流な現在は「指を衝く」ことになるのだろうか。突き指みたいだ。

ASMR

ASMR=Autonomous sensory meridian responseの動画を見てみた。

雑誌をめくる映像とともにバイノーラル録音された音が流れるだけなのだが、確かに快感がある。
  • ある程度音量が大きいほど快感が強い
  • 映像は全画面にした方が快感が強い
  • 目を閉じても快感はある
  • 別の映像をみたり、他の作業をしながらだと快感は薄い
という傾向があるように感じられる。試せていないが、映像と音をずらしたら、やはり快感は薄まるだろうか。あるいは、雑誌をめくるのが動物やロボットだとしたらどうだろうか。

上記のような傾向を踏まえると、入力される情報(今回は視覚と聴覚のみ)の一致度が高い、つまり視覚センサと聴覚センサのコンセンサスが高純度で成立している状態が鍵になるのではないかと思う。
そのようなコミュニケーションの究極に、あらゆる領域でコンセンサスがとれた状態としてのエクスタシーがあるのだろうか。
An At a NOA 2017-03-26 “人はなぜ物語を求めるのか
おそらく、触覚や嗅覚などの他の感覚器官でもASMRが得られるだろうが、視覚や聴覚に比べるとS/N比を高く保つのは難しいかもしれない。

ASMRとは言わば、抽象化された絶頂感である。
セックスには少なくとも二つの役割がある。
一つは、有性生殖による物理的身体へのエラーの導入であり、もう一つは、コンセンサスの確認による快楽の成就である。
(中略)
コンセンサスの確認とは、これらの感覚を一致させることであり、二つ以上の物理的身体が同一の視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を共有することによって達成される。
An At a NOA 2016-12-20 “セクサロイド”  
セックスにおける絶頂がすべての感覚器官のコンセンサスを目指すのに対し、ASMRは一部の感覚器官のコンセンサスによって成立すると考えれば、「亜絶頂」とか「半絶頂」のような語がイメージに近いか。あるいは「頂」と異なるピークの表現として、「絶端」「絶顚」とか、「頂」に近づくとして、「接頂」「逼頂」とか。

2017-09-21

実在への殺到

清水高志「実在への殺到」を読んだ。

ポストモダンを超えるものとして現れた思弁的実在論という
一連の流れを概括しようという一冊であり、ヴィヴェイロス、
セール、ラトゥール、メイヤスー、デスコラ、ハーマン、
ストラザーンといった気鋭の思想家の展開する理論を、
ウィリアム・ジェイムズや西田幾多郎といった先駆者と絡め
ながら眺めていく。
思弁的実在論について専門外の人間が気楽に参照できる資料は
限られているのでありがたい。
本書で取り上げられる著作は《叢書 人類学の転回》で出版
され始めているので、そのシリーズ巻頭言としても読むことが
できるように思う。

《主体と対象》、《一と多》、《個別と一般》、《外部と内部》
といった二項対立を脱分化、中性化するという「幹―形而上学」
や「純粋経験論」のスタイルは、「近代という大きな物語を批判
する別の大きな物語」になってしまった感のあるポストモダンを
越えていくことができるだろうか。

ニュートラルな、無相の情報の流れがあったとして、何らかの
同一性の基準に照らして構造が抽出され、無相は有相の情報と
して抽象される。
その抽象過程において、情報が失われることによって不可逆性が
生じ、エントロピーが増大するが、抽象過程のある一群を境界に
よって仕切ることによって、不可逆過程による秩序の形成が生命
として現れ始める。
その抽象過程の集団は同一性の基準によって維持されると同時に、
同一性の基準もまたその集団によって維持される。
ここには既に《外部と内部》の区別が生じており、ウィーナーや
ハクスリーはそれを島に例えたが、ハーマンの言うオブジェクト
というのもこれに近いように思われる。

秩序の形成が固定化せず、発散しながら更新される様が、生命と
呼ばれるようになるのだと思うが、秩序の更新は同一性の基準が
変化することによって維持される。
その更新は、物理的身体による意味付けのように、圧倒的多数の
入力データによって堅実的になされる場合と、心理的身体による
理由付けのように、少数の入力データによって投機的になされる
場合の二通りが考えられる。
その違いは、投機性を埋め合わせるものとなる「理由」として
端的に現れる。
パースの記号過程では、前者がインデックス、後者がシンボルに
対応すると思われ、ジェイムズの予期というのも、短絡が投機性
を有するにも関わらず、えいやで変化させた同一性の基準による
抽象が上手くいく様を表しているように思われる。
堅実的短絡と投機的短絡を区別することによって、《主体と対象》
の区別が生じ、人間だけが主体として言及されてきた。
道具というのは、抽象過程を複製したものであるが、特に投機的
短絡による抽象過程を複製したものだけを道具と呼ぶことで、
道具が人間を特徴付けると言われるのだと思う。

《一と多》や《個別と一般》の問題は、同一性の基準の適用範囲を
みだりに拡大することとで生じ、つまりは愛が重いということだ。
その拡大もまた短絡の投機性に起因しているような気がしており、
近代において「専門分化による精緻化」と「局所の大域化」が結び
ついていたことを彷彿とさせる。
おそらく、充足理由律が緩められるとともに、理由の連鎖の構造が
チェイン→ツリー→ネットワークへとつなぎ替えられていくことで、
ホーリズムからの脱却が図れるのだろう。
それはまた、通信プロトコルから善悪の基準が削ぎ落とされ、通信
可能性だけを担保する同一性の基準になることと同じである。
そこではもはや順序構造は一つに定められず、エントロピーの尺度も
一つではなくなるから、大域的な絶対時間ではなく局所的な相対時間
だけが有効になる。
それでも充足理由律を設定する限り、時間を数直線的にイメージしよう
とするだろうが、理由の連鎖が頻繁につなぎ替わる中で、どこまで
そのイメージに固執できるだろうか。
過去とは、抽象機関が抽象する度に、その抽象内容に応じて変化させつつある
抽象機関の性質自体のことであり、記憶と呼んでもよい。
未来とは、未だ抽象されていない情報のことである。
An At a NOA 2017-01-02 “意識に直接与えられたものについての試論

以上のような抽象過程の連続自体が成立する基盤、無相の情報の流れに
当たるものや同一性の基準が設定し得ることのことを、メイヤスーは
《事実性》と呼ぶのだと思うが、その領域ではもはや偶然や必然と
形容すること自体がマッチしないように思う。
偶然と必然は、抽象する段階においてはじめて発生する性質である。
An At a NOA 2017-01-19 “偶然か必然か

本書で取り上げられたような立場は、いろいろな二項対立が未分化な
状態まで立ち戻ることを視野に入れるからには、どのような理論も、
それぞれの理由に応じて投機的な短絡路、一つのオブジェクトを
一時的な秩序として形成しているだけであり、当然それ自身のことを
特権的に真であるとは主張できないと思われる。
それは、個人的に日頃考えている上記の話も同じであるが、どれだけ
メタの螺旋階段を上がろうとも、一つの同一性の基準としての理論を
真だとしてしまうことが、自らの態度と整合しないように思うのだ。
何らかの「人間」というカテゴリを設定することで、「人間」にとって
のみ真であるものには、あるいは至ることができるかもしれないが、
それよりも、同一性の基準を更新しすることで堅実的に、投機的に
短絡し続けること、すなわち五感を研ぎ澄ませ、思考すること自体に
心地よさを覚えればよいのではないかということだ。

あらゆる分化を未分化な状態に戻すことができるのではという態度は、
Post-truth人工知能の法人化とも同じ方向を向いているように思われ、
「人間」という語の指す範囲も変わっていくだろう。
果たして「人間」の集団は、そのような同一性の基準の変化に際して、
壊死も瓦解もせずにいられるだろうか。

1/3か1/2か

男の子が生まれる確率をP(M)、女の子が生まれる確率をP(F)
としたとき、どの夫婦からも、男女が1/2ずつの確率で生まれる
とすると、P(M)=1/2、P(F)=1/2となる。

このとき、
 1. ある夫婦の第一子として生まれる子が女の子である確率
はP(F)=1/2である。
では、
 2. ある夫婦に長女がいたとき、第二子として生まれる子が
  女の子である確率
 3. ある夫婦に二人の子どもがいて、片方が女の子であることが
  判明しているとき、もう片方が女の子である確率
はそれぞれいくらだろうか。

ともに条件付き確率であるから、P(A|B)=P(A∩B)/P(B)
のかたちで表現すると、
2の場合には、
 A. 第二子として生まれる子が女の子である
 B. 第一子として生まれる子が女の子である
としたときのP(A|B)なので、
 P(A∩B)=P(F)×P(F)=1/4
 P(B)=P(F)=1/2
より、P(A|B)=P(F)=1/2である。
3の場合には、
 A. 子どもが二人とも女の子である
 B. 二人のうち少なくとも一人が女の子である
としたときのP(A|B)なので、
 P(A∩B)=P(A)=P(F)×P(F)=1/4
 P(B)=1-P(M)×P(M)=3/4
より、P(A|B)=1/3である。

第一子の性別が第二子のP(M)とP(F)に影響しない
のは2でも3でも成立しているから、「第一子の
性別は第二子の性別の偏りには影響しないはず
だから1/2なのでは」という反論は筋違いだ。
違うのは分子P(A∩B)ではなく分母P(B)である。

要するに、設問の仕方が悪いから2のように誤読
できますというのが、1/2派の言い分なのだろう。

どちらでもよい。
単なるコミュニケーション不足である。

2017-09-20

下人の行方

下人の行方、それはまた善悪の行方でもある。

下人や老婆の生命を維持するという善に対し、
引剥や死体漁りという悪が対峙する。
しかし、下人が確定していると思い込んでいた
善悪の基準は、老婆との出会いによって揺らぐ。

餓死すること、盗人になること、死体から髪を
抜くこと、蛇を干魚として売ること。
これらはいずれも単体で善や悪であることはなく、
通信する相手、場所、時代によって変化する
善悪の基準とともに、善であるか悪であるかが
裁定される。

老婆の論理に従い、単純に生きることを善として
優先し、盗人になることを受け入れたのであれば、
下人の行方ははっきりしたはずだ。
芥川がそのラストを書き直し、行方知れずとしたのは、
善悪の基準の変化とともに、善悪の行方もまた変わり
得るものだという「羅生門」の主題に合わせたという
ことだと思う。

そしてこういった解釈もまた、ある一つの善悪の基準
でしかないのだから、何を「本当」とするか、すなわち
「下人の行方」は、「羅生門」について語り合う度に、
その都度決められてよいものなのだと思われる。
下人の行方は、誰も知らない。
芥川龍之介「羅生門」

ネット検索

インターネットは、通信可能性に最低限必要な同一性の基準にまで削ぎ落としたプロトコルでつながれ得るため、ネット外のリアルな通信において暗黙のうちに想定される善悪の基準については、各々で加味する必要がある。

ネットによってもたらされる可能性の領野はあまりにも広く、各自の所属する集団が想定する倫理の領野に降り立つのは至難の業である。

variationとdiversity

variationとdiversityの違いについてざっと調べてみると、
variationは同一カテゴリ内での違いに対して用いられ、
diversityはカテゴリ間もまたいだ違いに対して用いられる
ことが多いようだ。
variationを有するもの同士は、そもそもあるカテゴリに
分類されるだけの類似性をもつので、diversityを有する
もの同士に比べると違いは小さめな傾向にある。
音楽で言えばvariationは変奏曲のことだから、主題に
相当する何らかの基準を共有することが想定される。

diversityは「多様性」で人口に膾炙した感があるので、
variationには「変様性」あたりの訳語を当てた方が
よい気もするが、「変様」だと哲学的にはmodification
のことになるのか。
まあでも「多様体」だって数学的にはmanifoldだし。
「多様」に対する「一様」と「変様」に対する「同様」。
「皆一様に驚いている」と「皆同様に驚いている」では、
前者が「いろいろな反応があり得る中で、驚いている点
では一致していること」を言っており、後者は「驚いて
いることは前提した上で、驚き方が一致していること」を
言うという違いがあるように思うのは気のせいだろうか。
「多様に驚く」ことはできないのに対し、「一様にかつ
変様に驚く」ことはできるのではないかということだ。

そう言えば、人種、宗教、性的嗜好の「多様性」を、
variationではなくdiversityとして捉えるのはつまり、
それぞれは違うカテゴリだとみなした上で、異なる
カテゴリを許容しようという態度になるということか。
divideやindividualと同じように、古代ギリシャ語δίςに
由来する「二つに分ける」思想の延長上にあるという
意味では、とても西洋的というか、部分に分けて考える
傾向にあるのだなということを感じる。

どことなく、仲間に入れることを、英語では「join」、
日本語では「混ぜる」と表現する話を彷彿とさせる。
あれは「すべてがFになる」だったか。
「日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね」
犀川は突然話し出した。
「混ぜるという動詞は、英語ではミックスです。これは、
もともと液体を一緒にするときの言葉です。外国、特に
欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョイン
するんです。混ざるのではなくて、つながるだけ……。
つまり、日本は、液体の社会で、欧米は固体の社会なんですよ。
日本人って、個人がリキッドなのです。流動的で、渾然一体に
なりたいという欲求を社会本能的に持っている。欧米では、
個人はソリッドだから、けっして混ざりません。どんなに
集まっても、必ずパーツとして独立している……。ちょうど、
土壁の日本建築と、煉瓦の西洋建築のようです」
森博嗣「すべてがFになる」p.430
もしかすると、日本人はdiversityではなくvariation
として「多様性」を捉えた方がすんなり受け入れられる
のかもしれない。
(この発想が既に英語圏と日本語圏というdiversity的な
ものになっているだろうか)

2017-09-16

プロトコル

アレクサンダー・R・ギャロウェイ「プロトコル」を読んだ。

本書では、分散型アーキテクチャを有する管理=制御型社会における通信の基盤をプロトコルと呼び、これまでの中心化した君主=主権型社会や脱中心化した規律=訓練型社会との比較から、デジタルコンピュータの普及とともに管理=制御型社会が広範化していく可能性を検討する。通信が成立するところには必ず通信の基盤となる同一性の基準が存在するため、プロトコルに相当するもの自体は生命そのものと表裏一体であり、デジタルコンピュータに限った話ではない。しかし、単に通信を可能にするための基準だけでなく、どのような通信を許可するかといった基準を含むかたちで、通信の基盤は暗黙のうちに肥大化してしまう。分散型アーキテクチャに特徴的で、デジタルコンピュータが体現するのは、肥大化することを抑制し、通信可能性だけに絞った通信の基盤だと思われる。

中心化→脱中心化→分散という集団形態の変遷は、通信の基盤を絞り込んでいく過程であり、それは構造主義的な見方を突き詰めることで、通信可能性までたどり着いた。
プロトコルの論理にもとづくシステムの限界と、そのシステムのうちにある可能性の限界とはおなじことである。
アレクサンダー・R・ギャロウェイ「プロトコル」p.107
プロトコルとは、可能性と同義である。
同p.278
という指摘は的を射ているし、
プロトコルが意味に影響を及ぼすことはない。
同p.107
というのも、プロトコルは通信可能性のみを担保し、それ以上の解釈を付与しないという意味では妥当である。(ただし、通信が可能であること自体に何らかの同一性の基準という正義が埋め込まれるという意味では、あらゆるプロトコルはどれだけ削ぎ落とされようとも、不可避的に解釈とともにあり続けるはずだ)サイバーフェミニズムは通信可能性を女性的なもの、肥大化した部分を男性的なものに関連付けるが、これは母権制から父権制への移行が通信の基盤の肥大化によって生じるという見方だと言え、分散型アーキテクチャは母権制の再来とみなせるのかもしれない。

通信可能性を担保する同一性の基準は正誤の基準であり、そこに善悪の基準が付与されることが肥大化の要因だと言えるだろうか。
An At a NOA 2017-09-15 “過誤
分散型には秩序や構造がないわけではなく、中心化や脱中心化では通信の基盤の肥大化によって現働的actualな意味での構造が固定化しているのに対し、分散型では潜在的virtualな意味で構造が存在する。「誤り」は単に通信不能をもたらすが、「過ち」が通信不可として弾かれることで、集団は中心をもつようになり、潜在的virtualにだけでなく現働的actualに構造が固定化する。現働的actualに構造が固定化した集団では、通信基盤に埋め込まれた善悪の基準が中心からの監視として現れ、集団からの逸脱が予防されるが、潜在的virtualに構造が固定化した集団では、相互監視によって逸脱が予防される。
構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualでありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。
An At a NOA 2017-08-18 “何を構造主義として認めるか
という構造主義の理想は、デジタルコンピュータの時代に可能になるのかもしれないが、依然として善悪の基準を引きずることに慣れており、まだまだ現働的actualな構造が未分化な状態には耐えられないように思われる。

ただ、SNSが既存のマスメディアに影響を与えるようになり、意思決定プロセスに変化が生じていることを思えば、リアルな世界でも少しずつ通信基盤からいろいろなものが削ぎ落とされつつあるとも言える。その次には新たな善悪の基準が敷かれるだけなのかもしれないが、通信可能性だけが残るまで削ぎ落とされたとき、潜在的virtualな構造だけを基盤とした現実世界が、文字通りのVirtual Realityとしてのユートピアになるのかもしれない。その世界では、もはや固定化された順序構造が共有されることはなく、時間は充足理由律とともに薄められているのだろう。

言葉は通じるのに話の通じない相手があふれる世界では、如何にして話をしたらよいだろうか。

2017-09-15

significant

Google翻訳、有能すぎるでしょ。

The result is significant but not significant.

Technically (or statistically) speaking, it is significant.
Generally (or practically) speaking, however, it is insignificant.

経験

経験とは、センサをデータが通過する際に、何らかの
同一性の基準に従ってセンサ特性が変化するという
一連の抽象過程である。
何らかの同一性の基準にはデータが入力された時点での
センサ特性も含まれるだろうから、それは経験とともに
変化していくはずだ。

人間もまたセンサの塊であるから、目や耳、鼻、手足、
脳など全身のいたる所に、経験による特性の変化が
専門分化したかたちで蓄積される。
一つの物理的身体という単位に限らず、センサとして
機能し得るあらゆる集合が経験することができる。
それは過去であり、記憶である。

経験は、意味付けと理由付けのいずれでもよいと思うが、
理由付けによる経験は「学習」と呼ばれることが多い。
一般に、理由を介さない意味付けによって専門分化された
経験の蓄積を、理由付けによる経験で再現することは困難を
極めると考えられる。
それがコツや勘を言語化することの難しさであり、
歴史を語ることの難しさである。
歴史とは語られた経験である
An At a NOA 2016-04-03 “御柱祭2016

専門分化

ある前提を共有した下で精緻化するにあたって、専門分化は
とても上手く機能する。
その世界で各専門家に責任を振り分けた上で、安全を安心に
読み替えることができるのは、共通の前提があるからである。

専門分化はspecializationあるいはdifferentiationという部分化
であり、前提を見失うとgeneralizationやintegrationによる
全体の再構成が不可能になる。
それはつまり、リテラシーがなくなるということである。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学
前提とは、その抽象が基にした判断基準のことである。

前提が変化するのであれば、それに合わせて専門分化の形態も
変化する必要があるが、価値自由でないために前提の変化に
気付かないことが往々にしてある。
知らぬ間に前提の共有が崩れることで、安全と安心の関係も
維持できなくなり、専門分化した知は判断機構として機能
しなくなる。

おそらく人工知能の責任の問題も同じ問題に落ち着くだろう。
深層学習によってRBM等の網の目に織り込まれた判断機構は、
細かく専門分化した知のように、外部からはわかりづらい。
唯一共有し得るのは、データセットによって埋め込まれた前提
のみであり、外部からできる最大の努力は前提を明確化すること、
価値自由であり続けることである。

しかし、価値自由である範囲があまりに少ないにも関わらず、
それなりに上手くいっている現状を思えば、人工知能として
判断機構を外部化する際にも、価値自由になる努力はなされない
ままに、何となく上手くいくようになるのだと想像される。

タイムマシン

ある判断機構を形成するにあたって、意味付けだけでは
膨大な数の抽象が必要だったのに対し、理由付けという
投機的短絡による抽象によって、圧倒的に少ない数で
済むようになった。
それによってエントロピーを急速に増大させることが
できるようになったという意味では、理由付けは一種の
タイムマシンだとも言える。

近代以降の急成長は、理由付けによってエントロピー増大が
加速したというだけのことなのかもしれない。
一つの物理的身体が接することのできるエントロピー増大量
という意味では、物理的身体の寿命は見かけ以上に遥かに
長くなったと捉えることも可能だ。

過誤

誤作動という語は、通常は人間に対しては用いられず、機械に対してのみ用いられる。

個々の対象がどのように作動するべきかについてのシミュレーションを正と呼び、それと一致しないものを誤と呼ぶのであれば、誤とは何らかの理由付けによる把握(=理解)からの逸脱のことだと言える。

深層学習に基づく判断機構は理由付けから逃れやすく、理由付けできるとしても後追いになるように思われるが、これもまた誤作動と呼ばれるだろうか。あるいは、人間と同じように、正誤ではなく善悪によって逸脱を阻止することが多くなるだろうか。善悪の基準は集団の瓦解に抵抗するフィードバック機構であるため、正誤の基準と比べると変化しやすく、予め固定化した判断基準をもっておきにくい。善悪の基準はそれ故に理不尽(=理によって尽くさず)となる可能性をはらむが、人工知能はそれを「理解」できるだろうか。

「誤り」と「過ち」の違いも、正誤と善悪のように、逸脱の捉え方による判断基準の固定度の違いだと言えるだろうか。

掛け算順序の問題も、似たようなものかもしれない。

2017-09-12

共同体の基礎理論

大塚久雄「共同体の基礎理論」を読んだ。

序論において、
われわれの用いる諸概念や理論はそもそも限られた史実を基礎として構想されたものであり、つねに何らかの程度で仮説(Hypothesis)に過ぎず、(中略)再構成されなければならない。
およそ、どのようなものであれ、歴史の理論は抽象という手段によって史実という母胎から生まれて来たものだからであり、母胎である史実(したがって現実)は理論よりもつねにはるかに内容豊富なものだからである。
大塚久雄「共同体の基礎理論」p.2
とあるのは、抽象過程の特徴をよく表現していると思う。その比喩として、現実の地形と地図の関係を持ち出しているのもわかりやすい。

「共同体」という語を、
「原始共同体」ursprüngliche Gemeinschaftとの歴史的連関をもそのうちに含めながら、いっそう広く、その後封建社会の終末にいたるまでの広汎な期間にわたってつぎつぎに継起する生産諸様式―もちろん階級分裂をそのうちにはらむ―の土台あるいは骨組を形成した「共同組織」Gemeinwesen全般を問題とするのである。
同p.5
というかたちで広く捉えた上で、「生産諸様式の土台あるいは骨組」という構造が抽象されながら共同体が崩壊していく過程を整理している。
「土地」Grundeigentumこそが、他ならぬ「共同体」がまさにそれによって成立するところの物質的基礎となる
同p.12
とあるように、それは「土地」=「「占取」された「大地」」そのものや人間と土地の関係が、部分へと分解されていく過程とも言える。それはおそらく、「生命に部分はない」で取り上げられた物理的身体の部分化の話や、物理的身体からの心理的身体の独立という話とも関係するだろう。

特定の前提を固定したまま抽象することは精緻化をもたらし、労働による「土地」からの私的占取が生み出す「分業」や近代における専門分化につながるのは自然であるが、分業や専門分化によって個人や専門家が析出すると、共同体の基準と析出した個々の基準の間に矛盾が生まれる。この「固有の二元性」le dualisme inhérentという矛盾が露呈することによって集団を支える構造が変化していく様子を、アジア的形態→古典古代的形態→ゲルマン的形態として整理するのは、やや西洋中心主義的ではあるかもしれないが明快であり、よい抽象だと思う。

異なる判断基準間の軋轢が構造の変化の駆動力になるとすれば、判断基準が一つしかないところでは構造は固定化したまま維持され、その判断基準や構造が真理のように映る。そこでは判断基準の共有によって規定される局所が大域として認識されるという局所の大域化が済んでおり、もはや判断基準や構造は意識されることなく埋め込まれている。「固有の二元性」が必ず発生するのであれば、この状態から抜け出し得るが、そうでない場合には、通信技術の変化によって、時空間的な通信範囲や通信の種類が変化しない限り続くだろう。

ゲマインシャフトは、構造が固定化して埋め込まれた状態であり、ゲゼルシャフトは、通信の変化に付随して一時的に局所と大域が分離することで構造が顕在化した、ゲマインシャフトからゲマインシャフトへの移行の過渡的段階のようにも思われる。
加速する合理化の中で、局所の集積が大域という一つのものとして認識されるようになると、それはもはや、新種のゲマインシャフトとでも呼ぶべき、新しい一つの固定化した局所へと収束していくことになる。
An At a NOA 2017-09-05 “現代社会の理論
いかなる局所も、通信の仕様によっては大域と同一視され得る。通信技術は局所=大域化が可能な最大領域を決めるが、局所がその最大領域に達していると認識されている状態がゲマインシャフト的であり、そうでない状態がゲゼルシャフト的である。

「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界や「都市と星」のダイアスパーのような、エントロピーが増大しきったディストピアというゲマインシャフトに陥らないための発散機構として、心理的身体は機能し続けることができるだろうか。もし心理的身体が機能しなくなったとしても、「固有の二元性」によって新たな発散機構は析出するだろうか。

旅先の感覚

広島、タイと旅が続いた。

広島は建築に携わってから初めて訪れた。
原爆ドームの前に立つと、むき出しになった鉄筋や
鉄骨部材による補強といったディテールを、専門家
として部分化しながら見てしまう一方で、元安川の
眺めやかすかな磯の香り、広電の走る音、観光客の
賑わい、まだ夏らしい木漏れ日といった多くの感覚を
一つの全体として感じながら、高二のときに歌った
「祈りの虹」を思い出す。

タイでもやはり、空港や工場、マーケットに行くと
架構やディテールが気になってしまうのだが、最初に
外に出たときの日本とは少し違う暑さ、鉄が削れた
匂い、いろいろな食べ物の香り、スパイスの辛さ、
仏像に金箔を貼ったときの触り心地、ヨットの上で
感じる風と海の暖かさ、象に乗って揺られる感じ、
新旧の友人との会話、マッサージの気持ちよさ、
あらゆる感覚を大事にしたいと思いつつ過ごす。
工場で環境に関する取り組みを聞いた翌日、夕暮れの
ヨットの上で心地よい風が抜けるのを感じながら、
こういう建築がいいんだと話していたのが印象的だった。

こういった旅先の感覚を、写真や言葉を使って部分化
して圧縮することでしか外部に保存できないのは
もどかしいが、そういった外部化はまったく無駄なの
ではなく、むしろ内部において再現するためのよすが
となるように、再現する当の感覚を得る妨げとならない
範囲で、いろいろな方式で抽象しておくのがよいのだと思う。

2017-09-05

現代社会の理論

見田宗介「現代社会の理論」を読んだ。

固定化した局所へと収束していくゲマインシャフトが、通信によって互いに接続されることによって抽象され、それぞれが発散しながら、ゲゼルシャフトとして再構成されることで、近代社会が形成された。加速する合理化の中で、局所の集積が大域という一つのものとして認識されるようになると、それはもはや、新種のゲマインシャフトとでも呼ぶべき、新しい一つの固定化した局所へと収束していくことになる。

特定の合理化へと加速度的に固定化していく近代社会の次にあると想定される集団形態の一つが、ある合理化から別の合理化へのつなぎ替え可能性を保ちつつ、固定化と発散を繰り返すような社会である。
「自然」であれ「文化」であれ、欲望を限定し固定化する力からの自由
見田宗介「現代社会の理論」p.28
によって古典的な資本主義の矛盾を乗り越えた、
自分で自分の無限定の成長と繁栄のために設定する無限空間―人間たちの現実的な必要を離陸する〈欲望の抽象化された形式〉、あるいは〈欲望のデカルト空間〉とは、このような〈消費のための消費〉、〈構造のテレオノミー的な転倒〉の、純化され、洗練され、完成された形式
同p.62
である〈情報化/消費化社会〉としての現代社会は、そのような社会であるように思う。

現状の現代社会が、物質とエネルギーの外部からの入力および外部への出力によって、自身の固定化と発散の過程を維持していることを問題として指摘し、情報化された消費のダイナミズムという抽象過程の固定化と発散そのものを本質と見据えた転回を図るという著者の主張には納得がいく。無相の情報を有相の情報として抽象する過程自体が限りなく生命的であり、中でも、つなぎ替え可能性を有する理由付けという抽象過程に人間らしさがあることを考えれば、それは自然なように思われる。

バタイユが蕩尽と呼んだ抽象の連鎖としての生命はつまり、不可逆過程によってエントロピーを外部へと排出する過程であり、
〈他の何ものの手段でもなく、それ自体として生の歓びであるもの〉
同p.136
と換言される〈消費〉の原義は、生命の本質がエントロピーにあることを述べたものだと言える。現状の現代社会が、未だ物質とエネルギーのやり取りに関して大規模に過ぎ、もっと収奪的でない方向へと進むことができるとは思うが、不可逆過程の前後でのエントロピー差が、入力エネルギーと出力エネルギーのエントロピー差として現れることを考えると、外部からの収奪がない生命はあり得ないと思われる。さらに、
資源は有限だが、情報は無限である
同p.152
という主張に含まれる、エントロピーは無限に増大できるという仮定が成立するようにみえるのは、
地球もまた一つの抽象過程=生命であり、太陽放射や潮汐によって入力されたエネルギーと宇宙へ放射されるエネルギーのエントロピー差によって地球上のエントロピー増大を防いでいる。
An At a NOA 2017-06-02 “パリ協定
という事実を忘れているだけである。
生存条件の維持にとって決定的なことは、エネルギーの枯渇ではなくあくまでもエントロピーを増加させないメカニズムがエネルギー(熱)を媒介として作動していることにある。
山本義隆「熱学思想の史的展開」p.335
という指摘を、常に念頭におく必要がある。

遥かかなたの太陽内部において、核融合によって生成されたエネルギーは、地球上の至るところにまんべんなく降り注いでいる。物質を含むエネルギーの移動を最小限に抑えつつ、地球外へとエントロピーを放出することで、固定化から逃れた奢侈な蕩尽を各々が全うできるようになったとき、近代社会の後継者としての、本当の現代社会が訪れるのだろう。その次には、地球にとっての外部たる宇宙空間の限界が訪れるだろうことも、歴史的に明らかだと思われるが、人類が滅びるのとどちらが先だろうか。

2017-09-04

時間の比較社会学

真木悠介「時間の比較社会学」を読んだ。

〈時間のニヒリズム〉、
私の死のゆえに私の生はむなしいという感覚、人類の死のゆえに人類の歴史はむなしいという感覚は、くまなく明晰な意識にとっては避けることのできない真理のように思われる。
真木悠介「時間の比較社会学」p.3
しかし、あらゆる真理が何らかの前提の下にあるように、近代人にとっての真理である〈時間のニヒリズム〉もまた例外ではない。その前提=神は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの進行という加速する抽象化とともに生まれた
基礎的な時間感覚―〈抽象的に無限化されていく時間関心〉と〈帰無してゆく不可逆性としての時間了解〉との結合―
同p.13
であり、「質から量へ、〈共同性〉から〈個体性〉へ」と「可逆から不可逆へ、〈自然性〉から〈人間性〉へ」という二つの視点から、原始共同体、ヘレニズム、ヘブライズムを経て、この近代社会の時間感覚へと発展する様が描かれる。牛時間のような〈生きられる共時性〉から、一般化され抽象化された尺度としての「時間」=〈知られる共時制〉が析出してくる過程、〈時間の物神化〉の過程は、
集団が巨大になればなるほど、最大公約数的に拍子は単純化していくと言えるだろうか。
An At a NOA 2017-07-19 “リズムの本質について
という問いを思い出させる。また、「自然」を理由の不在として捉えると、後者の〈自然性〉から〈人間性 〉への移行の中に充足理由律の萌芽があるために、時間が不可逆的な線状のものに変化すると言えるかもしれない。

抽象化によって「時間」が析出すると同時に、それを語る主体、意識、知、自我もまた、同様に析出する。その究極の果てには、〈時間の解体〉、〈自我の解体〉としての分裂病や離人症、「関係の病い」が待っており、それはまさしく、
考え過ぎによって陥るゲシュタルト崩壊
An At a NOA 2017-08-09 “ゲシュタルト崩壊
と言うべきもののように思われる。こうした「共同性の減圧」への抵抗として、トリエント公会議においてポリフォニーの禁止があったという話は印象的だ。

時間や自我の解体という共同性の発散は、反動として固定化への希求をもたらし、近代的自我は、
拘束としての共同性からの解放の上にたつ、根拠としての共同性の追求
同p.247
彼らはそれぞれの共同性を、未来であるかぎりにおいて求め、現在であるかぎりにおいて嫌悪し、過去であるかぎりにおいて愛惜する。いずれにせよ彼らは現在を愛していない。
同p.248
というアンビヴァレントな状況に陥る。ゲマインシャフトとしての共同性が拘束として嫌悪され解体される一方で、貨幣や時間を媒体とするゲゼルシャフトとしての再・共同化が求められる。Time is money.

媒介された共同性の世界においては「等価のないもの」は解体されていき、それはむしろ解放として歓迎されるが、その中で個我だけが、唯一の「等価のないもの」として残る。この「執着の個我自身への凝集」というのは、
近代における物の見方というのは、外部に顕現していた軌跡を内部へと回収し、外部にあったラインを糸へと張り替えるものだったと言える。
An At a NOA 2017-05-08 “ラインズ
と述べられていたことと同じだ。このように個我が絶対化されていながら、
個我はその個我自身を、無限の時間直線の中の一点にすぎない存在として明晰に認識している。
同p.306
という矛盾が、〈死の恐怖〉と〈生の虚無〉としての〈時間のニヒリズム〉となる。

以上のような、近代人を価値自由たらしめる考察の後で、原始共同体に戻ることも、ニヒリズムに陥ることもないような、近代社会のその先が描かれる。死が生をむなしくせず、生が抽象化された時間を上すべりしていかないのは、
現時充足的な時の充実を生きているとき
同p.315
であり、それは必ず、
具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているとき
同p.315
でもある。
それはただ、〈現にある〉世界の事実性からも〈現にあった〉世界の事実性からも解き放たれた主体たちによる、彼らが〈未だない〉あり方のうちに(あるいは〈あったはずの〉あり方のうちに)、根拠をおく想像力を媒介としてしか
ありえないだろう
同p.253
という記述からは、「自我」の牢獄から抜け出し、価値自由になった主体同士の、壊死にも瓦解にも陥らないような神々の争いがイメージされる。

「自我」が牢獄であるからには、著者が言うように、知だけでその境地に至ることはできない。
死の恐怖や生の虚無とは知の地平の範疇ではなく、ひとつの生きられる戦慄である以上、われわれをそこから解放する認識は、われわれの知によって知られるばかりではなく、われわれの生によって知られなければならないはずだ。
同p.318
それは、ハードウェアとしての物理的身体の意味付けとソフトウェアとしての心理的身体の理由付けの両方が要るということだと思われる。ハードな部分を有しない生命体が知性を獲得したとしても、それはニヒリズムの袋小路から抜け出せないだろう。
知性の最もすぐれた資質は、みずからの限界を知りうることである。そして〈近代精神〉の最もすぐれた可能性もまた、みずからの限界をみずからの力において対自化し、みずからをのりこえていく能力に他ならない。
同p.324
生きられるひとつの虚無を、知によってのりこえることはできない。けれども知は、この虚無を支えている生のかたちがどのようなものであるかを明晰に対自化することによって、生による自己解放の道を照らしだすことまではできる。そこで知は生のなかでの、みずからの果たすべき役割を果たしおえて、もっと広い世界のなかへとわたしたちを解き放つのだ。
同p.324