2018-09-30

芸術と逸脱

芸術には逸脱が必要だが、歴史を踏まえない逸脱はただの狂気に過ぎない。

逸脱を歴史と関連付ける視点が、逸脱を芸術と呼ばしめるのだと思う。

ただし、逸脱を歴史と関連付けるのは、必ずしも逸脱をなした当人である必要はない。

むしろ、それを周囲が積極的になしてくれる存在が芸術家として名指され、そうでない存在が狂人として名指されるのかもしれない。

この差をどう捉えるか。

2018-09-26

機械カニバリズム

久保明教「機械カニバリズム」を読んだ。

自己と他者、主体と客体、文明と未開、社会と自然、現実と虚構、内部と外部、人間と機械。様々な此岸と彼岸の二項対立を頑なに維持したまま此岸から彼岸を望もうとするのが近代的な態度だとすれば、「食人の形而上学」や本書が提示するのは、彼岸から此岸を彼岸としてみる目を通して、彼此が部分的にでもコミュニケーションできる状態を探る中で、それぞれの形を変えていくような態度であり、可塑的な比較やカニバリズムと呼ばれる。

長いこと神の代理を務めてきた「超越的な此岸たる人間」はいなくなり、剛体や弾性体だった「人間」が塑性化することで、いつかウォーカロンが「人間」になるように、「人間」は滑らかに形を変えていく。そもそも、超越的な此岸というルール自体が、近代の慣習に過ぎなかったのだ。

思うに、ルールからの逸脱であるバグをバグでないとみなすという可塑化の契機となる過程は、まさに投機的短絡を理由によって滑らかに接続するという理由付けの過程そのものだ。理由付けの詳細が隠蔽されることで、あたかも此岸だけが理由付けする意識をもった超越的な人間であるかのようにみえるが、どの逸脱を理由でつなぎとめ、どの逸脱をバグとみなすかの判断基準が変化すれば、意識の捉え方も変わり、人工知能に意識があるとされることもあり得るだろう。

人工知能やロボットを含みながら大きく形を変えた人間はどこまで人間と言えるのかという発想自体がとてつもなく近代的だ。現在の人間にとってどれほど人間として受け入れられないものであっても、その時代の「人間」にとっては「人間」であることがあり得るはずだ。その時代の「人間」という語の意味するところは想像を絶するが、想像しようとするだけの好奇心をもつことが、己の可塑性を高めるように思う。

2018-09-25

はざまの哲学

野家啓一「はざまの哲学」を読んだ。

あまりに複雑な過程を捉えようと、ある基準の下に過程の情報量を圧縮したものが実在であるという意味で、ホワイトヘッドの言うように、実在とは過程なのだと思う。

一定の傾向をもつ情報の作用によって基準が偏ってくると、いつしかそれは文化、慣習、常識、癖、などの信念・技能体系となり、変化に対する慣性を有するようになる。

特定の信念・技能体系への固定化に陥らないためには、フッサールの言う還元が要るのだろうし、いかなる偏りも有しない圧縮という無意味な状況への発散を免れるには、メルロ=ポンティの言うように、完全な還元は不可能なのだろう。固定化と発散、壊死と瓦解の間において、過程の圧縮の仕方=パースペクティヴの変化が続く様を、生成と呼ぶのである。

一つのパースペクティヴから、別のパースペクティヴへ。その「理解」と呼ばれる還元のさなかに現れる「はざま」という危機の領域に身を挺することなしに、情報内存在は生きていられない。

2018-09-23

深層学習によるパラダイムシフト

アンリ・ポアンカレは、
事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である。
ポアンカレ「科学と仮説」p.171
と言ったが、ランダムに集積された石の中に家として機能するものが存在し得るように、事実の単なる集積がたまたま判断基準として利用できることはあり得る。

集積したビッグデータを用いて理由抜きに行われる深層学習は、まさにこの種の判断基準を構築していると言える。

その判断基準は科学とは呼べないであろうが、科学とは別の判断基準として受け入れられていく可能性は大いにあり、深層学習によるパラダイムシフトが今まさに起きようとしているのかもしれない。それはあたかも、長きに渡り優勢だった精神から身体への揺り戻しのようである。

ホワイトヘッドが危惧したように、科学が哲学的でなくなり、仮説の雑多な寄せ集めに堕すのであれば、パラダイムシフトも滑らかになされるであろう。

深層学習の成果を科学の文脈で扱うのか、あるいは新しいパラダイムにおいて扱うのか。それを決めるのは科学者や哲学者だけでなく、人間がどのように受け入れるかにかかっている。

その行く末は意識の在り方も変えていくはずだ。

2018-09-22

否数え歌

非ひ
不ふ
未み
余よ
逸いつ
無む

2018-09-21

異端の時代

森本あんり「異端の時代」を読んだ。

正統と異端というものもまた生命的であり、それらが対象として抽象されるためには、固定化=形成と発散=批判のバランスが取れた情報の流れが必要となる。

その流れは「信仰」と呼ぶべきものであり、流れの中に秩序が見出されては正統、異端、正典、教義、などと名付けられ、流れの変化とともにそれらの秩序は更新されてきた。

流れが完全によどんでしまえば、正統は自己隠蔽したまま絶対化されてしまい、流れが完全に枯れてしまえば、正統も異端もなくなる。

従来の宗教が陥ったのは、一つの固定化=形成への収束による信仰の壊死であったが、ポピュリズムがもたらすのは、発散=批判への傾倒による信仰の瓦解であり、両者は信仰の死という点では同じことである。

自由とは、秩序が更新される様のことを言うのであり、秩序が解消されたまま形成されないことを言うのではないことを思えば、ポピュリズムは中世の宗教並みには非-自由だと言えるだろう。

ポピュリズムを現代の宗教と言うこともできるかもしれないが、瓦解の傾向をもつポピュリズムは、もはや宗教の体をなしているとは言い難いように思われる。

2018-09-18

[世界を変えた書物]展

[世界を変えた書物]展に行ってきた。

展示された書物はあまりの貴重さに触れられず、見られるのも展示用に開かれた見開きだけ。著者名と年代、内容に関する短い説明だけが書かれたキャプションが付される。書物同士は系統樹思考によって大いなる連鎖へとつなぎ合わされ、全体が一つの物語として
提示される。

これは考古学の展示だ。
エジプトやマヤといった地理的な場所ではなく、「紙の書物」という一つの「場所」において、この560年あまりの間に堆積した情報に関する「遺跡」発掘調査の結果を基にした考古学、言わば考近代学の展示である。

その「遺跡」は、活版印刷術が複製可能性を高めたことによって現れ、現在に至るまで、発掘されると同時に堆積してきている。堆積が続いている間は、これが考古学であることはあまり認識されず、本当に考古学らしくなるとすれば、紙の書物が廃れた、もっと後の時代のことだろう。

こうした物理的な展示品や展示空間を用いた考古学的展示が可能なのは、複製可能性が高まったとは言え、紙やインクといった複製されない情報があることで、原著の初版本が「オリジナル」の資格を有するという認識が共有されるからである。完全な複製が可能であるという共通認識がもたれた情報に対してこの種の展示を行うことには、どうしてもある種の滑稽さがつきまとうように思われる。

そういえば笑い男も、出版物の保存という「索然とした仕事」を行っていた。オリジナルの不在がオリジナルなきコピーをつくり出すという文脈において、紙の書物に拘ることは、どういう意味をもつだろうか。

コピーに優るオリジナルなるものが存在するという発想自体が、そもそもとてつもなく近代的なものだったのかもしれない。



2018-09-09

ドローンの哲学

グレゴワール・シャマユー「ドローンの哲学」を読んだ。

物質的な遠近感に応じて把握される物理空間の中に、観念的な遠近感に応じて把握される別の空間をオーバーレイすることは「情報化」と呼べるが、ドローンがもたらす距離空間の変化もまた、一種の情報化であると言える。

ドローンの生み出す「距離」が新しいからこそ、それによって可能になった現象を、戦闘や道徳、法、権力といった既存の「距離」で表現することへの違和感が生まれ、一方的に別の距離空間を採用することへの非難がなされる。どのようなかたちであれ、その違和感を解消するには慣れるための時間が必要になる。

会話、教育、受精、介護、戦闘、…。あらゆるかたちのコミュニケーションにおいて、距離空間の変化は、当初は脱-人化unmanned、無人化として受け取られる。

根底には、人間は人間に何かをしてほしいという願望があり、この「人間に」という感覚を決めるのが「距離」の近さなのだろう。

その「距離」感は、当然「人間は」の部分にも跳ね返ってくる。それがつまり「私は何者になろうとしているのか」という行く末の問題であり、ドローンだけでなく、あらゆる「情報化」において現れる問題なのだ。

2018-09-08

人はなぜ「音楽」をするのか?

人はなぜ「音楽」をするのか?

発音における、言語と喃語。
発声における、音楽と言葉。
聴覚における、音楽と物音。
文章における、韻文と散文。
身振りにおける、舞踊と動作。
前者と後者を区別することには、リズムと拍子を分けたクラーゲスの精神に通ずるものがあるように思われる。

発音、発声、聴覚、文章、身振り的な情報の流れの中に、何らかの構造が抽象できたとき、その情報が前者として対象化されるのであれば、クラーゲスの意味でのリズム的なものは、抽象化一般に拡張することができる。

音のない世界にも「音楽」をみることを突き詰めると、上記の組み合わせにおける前者、すなわち抽象されたものすべてを「音楽」と総称することができ、Musicは語源となった
ムーサΜοῦσαの広がりを取り戻す。「人はなぜ「音楽」をするのか?」という問いは、「人はなぜ抽象するのか?」という問いにつながり、「なぜ」自体もまた理由を介した抽象の一つであることを思えば、最も抽象的には「抽象化とは何なのか?」に行き着くように思われる。

人間同士がコミュニケーションを取ることで抽象の仕方を共有している様を「文化」と呼べるのであれば、文化人類学とはまさに「抽象化とは何なのか?」を考えることである。抽象の仕方は、時代、場所、人によって異なり、「今、ここ、私」にとって「音楽」でないものが「音楽」であることにも、その逆にも、際限なく出会い得るだろう。

そのそれぞれの「音楽」を楽しめるようでありたい。