2015-11-30

咲く開く

東北の紅葉はもう盛りを過ぎたようだ。

桜の季節は「一分咲き」「満開」等と表現するが、
紅葉は何と言うのだろう。
先日の京都のときにも悩んだ。

「一分照り」「満彩」はどうだろう。

2015-11-27

部活

最近、高校時代に部活でやっていた合唱への熱が高まっている。

御苑に行った日にたまたま見つけて購入した
「東京シャッターガール」という漫画が
女子高生を主役としており、写真甲子園の回があった。
写真甲子園に向けて合宿したり、大会で奮闘したりという様子が、
高校時代の部活の思い出に重なった。

夏ドラマで「表参道高校合唱部!」という
合唱をテーマにした稀有なドラマがやっていたようなので、
見てみたところ、とてもよかった。
あれ、合唱の部分は全部役者の方々が直々に歌っているんだろうか。
そうだとしたら相当な練習を積んだはずだ。敬服する。
他にも、選曲や発声練習はもちろん、合唱コンクールの主催者名や
参加校名等の細かいところまで、合唱知っている人がニヤリと
できる点が多かったのも好感がもてる。
とてもよい内容だったと思うのは合唱経験者だからなのか、
Wikipediaによると残念ながら視聴率はそんなによくなかったようだ。
今の時代はリアルタイム以外で見る人間も相当数いるに違いないので
視聴率には現れないのかもしれないが、是非拡がってほしい。
「けいおん」や「響け!ユーフォニアム」のような、高校の音楽部を
舞台にしたアニメが流行るのだから、これももっと盛り上がって
よいと思うけれど。

先月の演奏会までの半年間、2週間に1回歌っていたのが
全く歌わなくなったもんだから、久々に歌いたいと思い、
初の一人カラオケに行ってみた。
発声練習ができるところであればどこでもよいのだが。
葭田晃さんという方のページにまとめられていた
発声方法が、大学時代に習っていた内容とマッチしていて、
とても参考になる。

2015-11-24

5周年

Xシリーズ5周年に応募した。

X-E1を買ったのは2012年の秋だったので、
Xシリーズを手に入れてから3年経つ。
ボディはX-E1のみ、レンズは18-55mmF2.8-4、
23mmF1.4、35mmF2、90mmF2の4本。
買った日の帰り道に撮った夜景が予想以上に
見た目通りに撮れたことに、いたく感激した覚えがある。

元々、植田正治さんの写真が好きで、
鳥取の植田正治写真美術館も訪れた。
2009年にはたまたま見に行った展覧会でMichael Kennaを知り、
すぐにファンになった。
両者とも、徹底的に要素を集約することで、
詩や俳句のような趣をたたえた写真が多いと思う。

応募作品は昨日の御苑の写真にした。
京都の五重塔の写真と悩んだが、色の組み合わせは
こちらの方が好きだ。
都会の中でも、植田正治さんやMichael Kennaのような
写真を撮りたい。


「押し花」

都会では雑然さが空まで拡がっている。
小雨の混じる秋曇りの新宿御苑にて、
未だ侵食を逃れている空を仰ぐ。

秋曇り 押しも押されも せぬ余白

gxui->shiny

ひと月程前、gxuiの開発が中止になった。
GXUI is now unmaintained

少し前からgolang.org/exp内のshinyという
レポジトリで新しいguiライブラリの開発が
始まっている。
久しぶりにgo getしてみたところ、
windowsでもexampleの一部が動くようになっていた。
(commit 48f611b013d6f6fbecb58f8212b1152abb23b928 時点)

まだまだ開発中であるが、今後に期待。

2015-11-23

曇天に押し花













新宿御苑にて、曇り空を背景に。

2015-11-22

表現

昨日は先日の演奏会のちょっとした打ち上げだった。

テキストというものは言葉によって切り刻むことができる。
合唱では、歌詩あるいは旋律などを解釈し、別の言葉で
置き換えていくことに相当する。
(ちなみに、歌詩を歌詞と書いたり、作詩を作詞と書くのは
あまり好きではない。)

かなり雑ではあるが、料理の比喩を用いれば、
素材を切り刻むことで消化はしやすくなる。
詩や旋律をそのまま受け取るよりも、
ここはこういう意味、そこはそういう意味というように
切り刻まれていた方が、あるフィルターは通過しているものの、
理解はしやすい。

ただし、合唱とは、曲自体が一つの芸術であると同時に、
発表自体もまた別の一つの芸術である。
切り刻んだ対象そのものを提供するわけにはいかない。

指揮者によって切り刻まれた素材を、
指揮者と歌い手が協力しあって再構成することで
提供可能な一つの料理に仕上げることが必要である。
そこには既に切り刻んだ名残の大半が残っていないかもしれないが、
その破片をところどころに感じてもらうことで、
合唱団としてその素材をどのように解釈したのかを
考えてもらえれば幸いである。

今回は聞き手から概ね好評を頂いた。
よい形で再構成できただろうか。



打ち上げ前に近くを散歩していて、南高橋という橋を見つけた。
関東大震災後の復興で、予算不足のために古い両国橋の一部を
移築したもののようだ。
力学的にとても素直な構成をしている点に好感がもてる橋であった。

多田武彦の名曲「花火」に両国橋が出てくる。
南高橋に移設された両国橋が架けられたのが1904年、
東京景物詩が1913年であるから、
おそらく白秋の見た両国橋の一部が今の南高橋なのだろう。
明日は東京景物詩の景色をめぐるのもよいかもしれない。

論理と倫理

「論理的に正しい」という言い方をすると、
絶対的な正が存在するように聞こえるが、
それはある公理系の中で整合性があるという意味に過ぎない。

絶対的な正というものは存在しないが、
人間全体にとっての絶対的な正というものは存在しえ、
それを追求する学問は倫理学と呼ばれる。

人工知能に倫理を理解させるのが難しいのは、
おそらくそれが人間のための正だからなのだろう。

正・不正とは仮面を被った好き・嫌いである。

2015-11-21

続・焦点距離・考

35mmは体験、50mmは観察、135mmは目撃である。

ナポリタン

ナポリタンたっぷりなポリタンク

2015-11-20

過去未来

宇宙発電、はやぶさ、新国立競技場などについて
講演を聞いた。


宇宙発電の話は、ありふれた形容をすれば、
非常に夢がある話だった。
技術的な問題はまだまだ多いようだが、
お金と人が集まれば、時間で解決できそうな
問題が多かったように思う。
そして、思ったよりもお金換算ではオーダーが落ちる
ほどではないと感じた。
話を聞いていて思ったのは、1950年代あるいはもう少し
前の時期に、原子力発電に関しても似たような
プレゼンがされたんじゃないかな、ということだった。
最近つとに感じるが、やはりエンジニアとして
非エンジニアに対していかに説明するかというのは相当難しい。
原子力発電と同じ道を辿らないことを祈る。

新国立の話で納得したのは、
1964年のときのように、国民の多くが同じ方向を向く、
という状況にならなかったのが最大の違いだという点だ。
オリンピックをやりたいのか、新しい競技場を建てたいのか、
立地はどこがよいのか、誰が設計するのがよいのか。
価値観の多様化という使い古された言葉に、ザハの案は
引きずり降ろされたのかもしれない。
みんながある程度似た価値観を共有しているなんていう
妄想を抱いている人間が、意外とまだまだ多いんじゃないだろうか。

2015-11-15

意識

意識をもつことが異常になった世界の話というのは
描き出すのがすごく難しい。
「正常」とされる無意識の人々は、伊藤計劃の世界観に
ならうとすれば、これ以上なく合理的判断のみを繰り返す
存在であるから、果たしてそこに言語的コミュニケーションは
残されるのだろうか。
セリフもなく、淡々と合理的な行動のみが記される中、
自意識を発症してしまった人間が「治療」を受けながら
葛藤するような物語。面白く書くのは可能だろうか。

消費しなければならないエネルギーに比べて、
摂取できるエネルギーの量が圧倒的に少なかった時代、
ミトコンドリアを取り込むことで好気呼吸を実装した。
遥かに時代が下った後で、摂取エネルギーが爆発的に増加することで、
それは異常として認識される糖尿病の片棒を担ぐ結果と
なったとも言える。

処理しなければならない情報に比べて、
処理可能な情報の量が圧倒的に少なかった時代、
意識を実装することでそれを乗り越えたのだとして、
この先処理能力が爆発的に増えるようなことがあったとき、
意識が異常と認識される時代が来る可能性はゼロではない。
脳の容量も増え、もはや外見も現在の人間とは異なるかもしれない。
そういう意味では、もしかするとコンピュータに意識を実装するのは
ウイルスを埋め込むようなもので、全く無意味なのかもしれない。

今はむしろ情報の方が爆発的に増えているので、
しばらくは意識が必要とされる時代が続くのだろう。
と思ったけど、果たして情報の量はそんなに増えているんだろうか。
確かにネットワークによって世界中の情報が手に入るようになった。
パリの同時多発テロの情報だって、半日もしないうちに世界中を駆け巡る。
しかし、今この眼の前に拡がっている光景の方が、テキストデータとしてのみ
供給されるパリの事件の情報よりも遥かに多くの情報をもっている。
実は薄く拡がった縁辺ばかり量が増えているだけで、
大枠の情報量は変わっていないんじゃないだろうか。

今やスマホ一台あれば、あらゆる記憶がアウトソースできるし、
時々刻々、その場に合わせた情報をプッシュ通知もしてくれるから、
処理すべき情報の量は漸減され、与えられた情報をただただ享受すれば
よいだけになってきている。
外部機関によって情報がフィルタリングされることで、
処理すべき情報の方が減っていった場合でも、意識は消滅しうるだろうか。

人はそれを、かつて痴呆と名付けた。

映画<harmony/>

<harmony/>の映画を観てきた。
かなり原作を忠実に再現していて、
観てよかったと思える映画だった。

トァンの声を聴いていて攻殻機動隊っぽいなと
思っていたけど、あちらはcv坂本真綾、こちらは
cv沢城みゆきだった。似ている。

強いて一点だけ注文をつけるとしたら、
etmlで記述されている感じをアニメーションで
表現できたら、どんなものになったかを
観てみたかったとも思う。
あるいはそれは現代の人間にとっては、
ベタな展開で喜怒哀楽を想起させることこそが
etmlの文法で、「etml1.2に準拠したエモーション
テクスチャ群」は意識の中にプリインストール
されているのかもしれないが。

原作を読んだ身からしても、
結構サクサク展開していくなーと感じたので、
映画が初見だと、ところどころついていけないかもしれない。
そもそも提示されている問題も結構複雑なので、
映画が面白いと思った方々には是非原作を
読んでみてもらいたい。

「意識と脳」というスタニスラス・ドゥアンヌの本を
読んでいるが、この本に出てくる実験の話や
それに関する著者の見解を読んでいると、
伊藤計劃が<harmony/>で描いていた意識像、
 ・いろいろな欲求が会議をしている状態
 ・肉体のために意識を実装する必要があった
というのも、結構的を射ているように思う。

こういうことを考えると、認知症や精神病は果たして
異常な状態なんだろうかと思えてくる。
意識があって「わたし」なんてものがいると信じている方が
よっぽど異常な状態なのかもしれない。
「正常」あるいは「正しい」という基準自体がそもそも
好みの問題であるから、意識をもっている人間が大多数であり、
意識をもっているのが人間に限られている間はそちらが
「正常」なのであろう。
伊藤計劃が糖尿病の例を挙げているが如く、
自意識なんてものを発症した人間が病人扱いされる未来も
あり得るのかもしれない。
いつか、<harmony/>や「彼女は一人で歩くのか?」のような
世界がきたとき、「わたし」が消え去る瞬間に立ち会えるとしたら、
どれだけ幸せだろうか。


思えば、建築に限らず言語学、論理学、医学、数学、その他諸々の
本を読んで、自分とは何だろうかと考えるようになったのも、
伊藤計劃の虐殺器官と<harmony/>を読んでからである。
いつか、私が何者であるか、納得したい。わたしよ。

2015-11-13

代数的構造

友人に勧められた森敦の「月山」「意味の変容」を
読み進める中で、「構造」とは何かと考えることが多くなった。
建築の構造を専門とするからには、
非常に重要なテーマであると言ってよい。

森敦がヒルベルトに影響を受けているということで、
久しぶりに数学に関する本に手を出してみた。
 ・代数的構造 遠山啓
 ・無限と連続 遠山啓
 ・現代数学入門 遠山啓
 ・現代の古典解析 森毅
 ・思想の中の数学的構造 山下正男
 ・論理学史
 ・圏論による論理学 清水義夫
寄り道的な買い物が多く、明らかに買いすぎた。

「代数的構造」から読み始めているが、
遠山先生の文章はとてもわかりやすい。

数学者が構造を作り出し、物理学者が実在と結びつける、
あるいは物理学者が必要な構造を依頼し、数学者が創造する、
という例えは、建築家と構造家の関係にも似たところがある。

森敦の「現実的構造」と「実現的構造」をとれば、
実在する建築物や船、植物等から表面的な部分を捨象し、
そこに潜む共通事項を削りだしていくのが帰納による「現実的構造」であり、
応力伝達の在り方のようなものから公理を設定し、
トラスやラーメンといったものを創造していくのが演繹による「実現的構造」
なのだろうか。

2015-11-09

明・暗・照

三四郎池南側の池畔は、京都で寺院の中から見た庭と
同じ構造をしている。
光を透過させる障子と欄間の役割は植物によって果たされ、
光を反射させる畳の役割は地面によって果たされている。

明るい中心と暗い周辺という構成が日本人は好きなのだろうか。

ロラン・バルトの言う空虚な中心や
河合隼雄の中空構造論との関わりはあるのか。


p.s.
それにしても便利なものだ。
携帯電話のカメラでとった写真はGoogleフォトに
連動しているので、転送する手順を踏まなくても
PCから参照できる。

7で割り切れるかはグラフでわかる

Divisibility by 7 is a Walk on a Graph, by David Wilson
が面白かったので拙訳を。


--
Divisibility by 7
整数nを決める。
グラフの一番下の小さな白い点から
スタートして、nの各桁の数字dについて、
d個の黒い矢印をたどっていく。
そして次の桁の数字に行くときに、
白い矢印を1つ分進む。

例えばn=325なら、黒い矢印を3個、
白い矢印を1個、黒い矢印を2個、
白い矢印を1個、黒い矢印を5個、の順にたどる。

白い点に戻ってきていればnは7で割り切れる。
(訳注: 白い点から黒い矢印をいくつ進んだかが
7で割った余りに対応する)

特段びっくりするようなことじゃないけど、
グラフが平面で表せるっていうのはいいね。

--
What is the process of creating this automata for checking divisibility by 7?
に解説が出ているが、黒矢印は単純に1を足すことに対応していて、
白矢印は10倍した数字を7で割った余りに移動することに対応している。
つまり、
0→0

1→3 (10=7×1+3)

2→6 (20=7×2+6)

3→2 (30=7×4+2)

4→5 (40=7×5+5)

5→1 (50=7×7+1)

6→4 (60=7×8+4)

0→0
・・・
で、下に進むのが黒矢印、右に進むのが白矢印となっている。
これも当然だけど、7×xのxを白矢印の順にたどると142857になる。

借りてきた猫

かりてきたねこ

こりてきたかね
懲りてきたかね

2015-11-05

正義

「正しい」と「好き」の違いは曖昧だ。
強いて言うなら、正しいには意識されにくい主語が
常に伴うことだろうか。

その主語は、絶対君主制ではもちろん君主であるし、
民主制では多数派である。

勝てば官軍、負ければ賊軍。

正義とは愛の一形態であり、
愛とは一種のバイアスである。

絶対普遍な愛が存在しないのと同様に、
絶対普遍な正義もまた存在しない。
あるいは、絶対普遍な愛が存在するという信念のもとにのみ、
絶対普遍な正義は生まれる。
宗教を背景にした戦争が起こりやすいのも致し方のないことである。

2015-11-04

焦点距離・考

先日の京都には23mmと90mmを持っていった。
京都の庭は23mmの方が撮りたい絵が多い。

23mmは空間体験を切り取るイメージで、
90mmはふとした視覚体験を切り取るイメージがある。
今回訪れた寺院はどこも室内を含んだ庭の体験が
すばらしいところばかりだったので、
23mmが合っていると感じたのだろう。

90mmは視覚としては狭すぎるものの、何か気になった
対象それ自体を描き出すのには抜群だ。
そういう意味では、雑踏等の元々設計されていない
空間でこそ役割が際立つのかもしれない。
23mmは逆に視覚としては広すぎる。
普段視覚として意識的には捉えていない空間も
入ってくるおかげで、空間体験的な表現にはぴったりで、
設計された空間がよく似合うのだと思う。

視覚にぴったり符合するのはどのレンズだろうか、
と考えたとき、ふと昔使っていたハッセルブラッドの
ことを思い出した。
神保町の小さなカメラ屋で中古で買ったハッセルブラッドには
80mmのレンズがついている。これは35mm換算だと50mmだ。

5年以上前に、母方の実家が取り壊されるということで、
このカメラを片手に写真を残しに行った。
幼少の頃、よく遊びに行った家で、当時でもその面影が
至るところに残っていた。
ハッセルブラッドを構えて上からファインダを覗くと、
何の違和感もなく、淡々とその思い出の風景を切り取れて
いたなという記憶がある。
その写真はリバーサルで撮っていて、確か現像した写真は
母親にプレゼントしたはずだ。ポジはどこにやったっけ。

そんなことを考えると、やはり標準レンズという名は偉大というか、
私の目は35mm換算で50mmのような気がする。
今度発売するXF35mmF2ではどんな視覚が得られるだろうか。
倍率1倍の望遠鏡となることへの期待を込めて。

2015-11-03

まだ照り初めしもみじ葉の

ふと堂に入れることに気づき、
人気も少ない暗闇の中、堂の戸をゆっくりと開く。
既に夜も深いので、堂の内外での明暗の差はない。
敷居を慎重にまたいで、静かに戸を閉める。
ふと見上げると暗闇に浮かぶ黄金が現れる。
仏のようであるが名はわからない。
伏し目がちに正面まで歩を進め、その名を確かめる。
ゆっくりと見上げた先には、想像したとおりの、
だが温かいようで同時に薄ら寒い薬師如来像の顔が浮かんでいる。
2015年11月3日、齢二十八も半ばを過ぎて初めて、
恐れという感情がどのようなものであるのかを体感した。



朝は予定通り5:30に起床。
その後はスムーズにいき、チケットをとっていた新幹線よりも
一本前のものにして京都へ向かう。
車中では先日友人に勧められた森敦の「月山」を少しずつ
読み進める。
翌日に守山への出張が入ったため、急遽京都に前泊することにした。
久々の観光旅行である。一人旅はちょうど一年前の京都以来かもしれない。
土日に調べて瑠璃光院と蓮華寺に行くことを決めた以外は特に決めていないまま
京都駅についてしまった。
とりあえず荷物を軽くして烏丸線国際会館駅から大原方面のバスで
八瀬の辺りへ。
バス停から案内を頼りに瑠璃光院に向かうが、同じバスから降りた
ご夫婦以外は人がいない。本当にマイナな観光地のようだ。
瑠璃光院は山の斜面にそのまま建てたようなお寺で、高低差を利用して
幾つかの堂が建っている。
上から順にということで、瑠璃の庭を2階→1階の順に見た後で、
臥龍の庭を見ることになる。
紅葉はまだまだ盛ではないが、人もそれほど多くなく、
きれいな景色をゆっくりと見られるのがとても良い。

瑠璃光院を出たところで、延暦寺か大原の方へ向かうことを検討するも、
やはりそのまま蓮華寺へ。
蓮華寺は瑠璃光院以上に人が少なく、拝観料も安いというのに、
庭の美しさは瑠璃光院に引けをとらないくらいであると思う。

瑠璃光院と蓮華寺を見たままに撮れたら写真をやめてもいいと
書いている人がいたが、その気持ちもよくわかる。
いつか紅葉真っ盛りのときに訪れたいものだ。

蓮華寺を見終えた段階で12時過ぎ。早くも予定が終わったので
次の目的地を探す。正直この2箇所がまわれただけで
今回の京都旅行は大満足である。
秋の特別拝観をやっている中で近場ということで
慈照寺に決めてバスで移動。バス停を降りた辺りから
不穏な空気を感じるが、とにかく入り口まで行ってみる。
しかしというかやはりというか、案の定観光客が多く、
先ほどの2箇所とは全く違う雰囲気に、入って早々見る気が失せる。
写真を撮る気もなくなりかけていたが、慈照寺と言えば
建物よりも砂の庭だというイメージが強かったので、
そちらに集中する。慈照寺の波は見事だ。

結局特別拝観は予約が一杯で夕方まで待つようだったので諦め、
哲学の道を南行する。
あてもなく哲学の道の果てまで来た段階で、
去年結局行けなかった東福寺に行こうと思い立ち行動開始。
しかし、ここまで来てメジャーどころにいくのもどうなのかと思い始め、
いろいろと検索すると光明院というお寺がよさそうだという情報が。
そしてまたしても東福寺を諦め、日暮れ時の16時前に光明院に到着。
昭和時代に設計された比較的新しい庭園とのことで、
ところどころにモダンな感じが感じられなくもない。
個人的な違いとしては、朝の2つの庭は間違いなく横位置で撮りたい庭で
あるのに対し、この庭は縦位置の方が納まりがよいと感じる点だ。

今回の京都旅行は、今まで訪れたことのないマイナなところをまわり、
フレーミングされた庭を落ち着いて眺めることが多かった。
畳、障子、欄間によってフレーミングされた庭を、
さらにファインダでフレーミングするというのは何か不思議なものである。
そういえば、ファインダというのは森敦が言うところの倍率1倍の望遠鏡たりうる。
90mmを構えている時にどうも違う感じがするのは、
換算135mmという焦点距離が、私の現実に接続しないからなのだろう。
かといって換算35mmの23mmもちょっと違う気がする。
換算50mmが仮に倍率1倍のレンズだったとして、それによって切り取る写真は
他のレンズの場合と何かが違うのだろうか。

そんなことを考えながら京都駅からホテルまで歩く。
強烈に腰が痛く、一刻も早く休みたいのを耐えながら。
大浴場で一休憩後、晩ごはんを終えて東寺の夜間ライトアップへ。
ISO1600で撮っても黒がちゃんと締まってくれるあたりはさすが富士フイルムである。
ライトアップされた五重塔は、闇夜に変に浮かび上がり、
もはや何かの模様のようでもある。

そしてオープニングの金堂へつながる。
期間が始まって間もない東寺のライトアップは人も車もまばらで、
臨時駐車場のあたりは星がよく見える。
東の空に上がり始めた冬の大三角を見上げながら、
恐れを噛みしめて帰路についた。

2015-11-02

構造

構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。

事象が多種多様になることで一般化されるに従い、
より内奥の構造が得られる。

例えば、私と全く同じ人間が二人いたとして、その二人の間に見られる
物理的な身体の構造とは即ち私の身体そのものであり、
構造と表現形式は同一である。
しかし、日本人、人間、脊椎動物と対象を拡げていくに従い、
その構造は削がれていき、背骨、脳、頭蓋骨、半規管等といった
より少ない要素に集約される。それに対応して、実際の表現形式は
一見すると全く異なってくるようになる。

建築を含む工学の分野では、構造という言葉は
いくつかの材料を組み合わせてこしらえたもの。
また、そのしくみ。くみたて。
(広辞苑 第六版)
という意味でも用いられる。
この場合の事象の一方はもちろん当該工作物であり、
他方は法律や規基準に示されたもの、これまでに作られたもの、
あるいは自然界に存在するもの等である。
いくつかの材料が組み合わさった状態に既にあるものを参照し、
それと似たような組み合わせとすることで
新しい組み合わさった状態が得られる。
この「似たような」という部分にこそ、構造がある。
何をもって「似ている」とするのかが、
作り手のセンスによるとしたものがブリコルールであり、
そこに理由をつけようとしたものがエンジニアである。

建築構造という言葉の表面的な意味としては、
鉄骨のラーメンフレーム、鉄筋コンクリートの壁床、木の軸組等が
思い起こされ、実際の設計では構造部材と非構造部材という
カテゴリ分けもされる。

しかし、構造という言葉の意味が上述のようなものであるとすれば、
建築においてある空間を成立させようとしたときに、
空間を成立させるための仕組みに対する、これまでの知見との共通事項を
探る行為にこそ、構造設計という言葉の本意があるのではないかと思う。

2015-11-01

覚え

見覚えのある顔。
聞き覚えのある声。
嗅ぎ覚えのある匂い。
触り覚えのある身体。
食べ覚えのある料理。

五感のうち、覚えがあると表現されることが
多いのは上の2つだろう。
残りの3つに比べてそれだけ発達してきたということか。