2018-08-30

フェティッシュとは何か

ウィリアム・ピーツ「フェティッシュとは何か」を読んだ。

物理的身体というセンサを介して「自然に」構築される判断基準によって認識されるものを「物質」と呼ぶとすると、それとは別の「不自然な」判断基準によって認識されるものは、「観念」と呼ぶことができる。

「認識」というのは、情報量を削る過程であり、削り方には部分対象的な方法と商対象的な方法があるように思う。物理的身体が抽象する情報について言えば、物質が部分対象であり、観念が商対象だ。

一意的に定まっていく「自然」な判断基準に対して、余計である「不自然な」判断基準には無数の候補が存在し、現れては消え、現れては消えを繰り返す。その中のあるものが偶々維持されるようになると、物理的身体にとっては「不自然な」判断基準に支えられた抽象過程、言うなれば心理的身体、つまりは意識が生じ、世界は物質的かつ観念的に認識されるようになる。

この物質と観念の恣意的な対応が価値体系であり、シニフィアンとシニフィエの恣意性にも通ずる。各々の意識にとっては、自らの依拠する価値体系はあまりに「自然な」ものであり、真理に映るが、価値体系はいずれも本質的に恣意性を帯びており、同じような物理的身体でありながら、全く異なる価値体系に依拠するものは数多に存在し得る。

同じような物理的身体で同じ物質をみているはずなのに、全く異なる観念をみている存在に出会うと、ある種の不気味さを覚える。このとき、自らのものとは異なるという意味で「正しくない」価値体系に与えられた名前が、フェティッシュという概念であるように思う。

フェティッシュと名指すとき、己もまた当の相手からフェティッシュと名指され得ることに自覚的であることは、なんと困難であることか。

君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。
フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」p.138
このとき、君にとっての深淵は深淵であることを自覚しておらず、むしろ君のことをこそ深淵とみなしているのだ。

2018-08-22

rhythmとrhyme

媒体が何であれ、情報はパターンによって伝達される。

パターンpatternはpatron (= model to be imitated)、すなわち、模倣による「同じもの」の再現に関係し、情報には常に「同じもの」に対する観点が含まれる。

rhythmとrhymeはともに何かしらのパターンであり、それぞれの「同じもの」に対する観点をもつはずであるが、両者はどのように同じで、どのように違うだろうか。音楽と言葉が峻別できないとき、両者はどのように区別できるのだろうか。

2018-08-21

先史学者プラトン

メアリー・セットガスト「先史学者プラトン」を読んだ。

考古学、人類学、言語学、神話学、宗教学、気候学、地球科学、…。高度に専門分化した枝葉の先を伸ばす研究が存在する一方で、それぞれの枝の伸び方を俯瞰して大きな流れを見出そうとする本書のような研究も存在する。それはちょうど、伝言ゲームの答えを探るのに、一つの列でより前の人の情報を聞き出すのか、複数の列の人から情報をかき集めるのか、という二種類のアプローチがあるのと同じである。

一つひとつの伝言ゲームの経路からは誤り訂正の不完全な情報しか復元できなくても、様々な媒体を介した複数の経路の情報を突き合わせることで、紀元前六千年紀中頃に、ザラスシュトラの誕生を契機としたアポロン化が生じたという、それらしいストーリィが組み立てられる。アポロン化とは、混沌としたディオニュソス的なものを、一つの判断基準に基づいて整理整頓する過程であり、メアリー・セットガストによる推論自体もまた、一つのアポロン化である。

結局、歴史というストーリィを組み立てるには、各分野の伝言ゲームは唯一の同じ答えを共有しているという信念の下に、オッカムの剃刀を振り回すしかないのかもしれない。この系統樹思考に基づいて組み立てられた歴史にできることがあるとすれば、「史実」というものがあったとして、その一面を表すことくらいに留まるように思うが、それでもこういう理由付けをし続けられるところに、人間の面白さを感じる。

そういえば、口承だけに比べると、文字化によって伝言ゲームの経路数は大きく増加したように思うが、電子化はどのような影響をもたらすだろうか。プロトコルの伝承が途絶えた場合、そもそもそこに情報がエンコードされていることに、後世の人間は気付けるのだろうか。

2018-08-18

これがあれを滅ぼすだろう

「ああ!これがあれを滅ぼすだろう」
ヴィクトル・ユゴー「ノートル=ダム・ド・パリ」p.175

建築術の生み出す荘厳な石の書物に支えられた教会から、印刷術の生み出すマスな紙の書物に支えられた国家へ。

この中世から近世への変化が起きてからおよそ500年経ち、通信術の生み出す網状の光の書物に支えられた〈帝国〉によって、国家が滅ぼされる番が来た。

近代化によって教会や建築が消滅したわけではないように、情報化によって国家や書籍がなくなるわけではない。しかし、判断基準の軸は確実に移行しつつある。

大聖堂の象徴的な空間。
摩天楼の均質的な空間。
次の空間は、必ずしも物理的な情報だけで成立するような空間であるとは限らない。
人間の思想はその形態が変わるにつれて表現様式も変わっていくのだ
同p.177

2018-08-17

伝言ゲーム

通信手段を制限したり、通信内容の冗長性を廃したりすると、誤り検出訂正は難しくなる。伝言ゲームで列の途中にいる人間にとっては、伝わってきた情報が全てであるということだ。

最近では3DCGや合成音声で実物と遜色のないものも見かけるようになりつつあるが、その遜色のなさの多くは、誤り検出を通常よりも困難にすることで達成されているように思う。

究極的には、人間による通常どおりの誤り検出によっても実物と見分けのつかない情報も生成できるようになるだろう。むしろ、人間というセンサ同士が通信する過程において、誤り検出訂正の繰り返しによって彫琢された情報のことを、「実物」や「現実」と呼んでいるだけだ。

誤り検出されないことに気付かない情報の違いは、その「現実」にとってはどうでもよいものであるが、誤り検出の特性が異なる別の「現実」との境界において、その違いが際立つことがある。

国家間、宗教間、異文化間、リアルとネット、RealityとXR (VR, MR, AR)、人間と自然。境界は遍在しており、衝突するまではどのようなものかもわからないが、そのようなものがあり得ると考えておくだけでも、少しは衝撃が和らぐだろう。

2018-08-14

正R角形












An At a NOA 2010-12-22 “正*数角形

正π角形が美しい。

2018-08-10

神の亡霊

小坂井敏晶「神の亡霊」を読んだ。

説明、理解、納得、解釈、といった、「意識特有の」という意味で意識的な抽象過程は、いずれも「理由」というものがあるという信念に支えられている。

その信念に支えられ、ネットワーク状につながる相関の網の中に、因果と呼ばれるツリー状やチェイン状の順序構造を埋め込もうとする確信犯的過程において、ツリーやチェインの先端が必要とされる。

先端は、定義によりそれに先立つものをもたないため、根拠なしに信仰される他なく、先端が先端として機能するにはその信仰過程を隠蔽する必要がある。こうして虚構が生まれる。

大いなる先端であった神が死んだ後にも、近代が自由意志という細分化された先端を創り出したように、順序構造の先端を担う神の亡霊としての主体は、人間が意識をもつ限り必要とされるのだろう。因果律の信念とともにある意識は、理由のない状況に耐えられない。虚構が暴かれたとしても、次の虚構を創出するだけだ。次に先端を担うのは、人工知能だろうか。

あるいは、人工知能の発達は、順序構造の埋め込みを回避する方向に向かうのかもしれない。それはつまり、意識を放棄するということに他ならない。ルネサンス以来、少なくとも500年に渡って精緻化されてきた意識という判断機構が別の判断機構に取って代わられるとき、近代という物語はようやく終焉を迎える。

そもそもネットワーク状の相関の網もまた、人体というセンサのフィルタリング特性がみせる構造に過ぎず、異なる物理的身体には異なる環世界が広がるだろう。情報の流れの中に構造を見出す抽象過程の判断基準次第で、世界はいかようにも捉えられるはずだ。

コミュニケーションが円滑になされるとき、共有された判断基準は忘却されており、そのまま固定化すれば壊死してしまう。一方で、判断基準の変化が激し過ぎれば、コミュニケーション不全によって瓦解する。その両極のあいだに留まろうとする機構を備えたものが、すなわち生命だろう。

2018-08-07

仮想サイボーグ化

地震、津波、大雨、猛暑、…。災害がある度に、外部化されていた生命維持装置が顕になる。

現代文明の恩恵に与る人間のほとんどは、内部ハードウェアの大々的な入れ替えを経ることなく、仮想的にサイボーグ化されているような状態だと言える。

徐々に進行してきた仮想サイボーグ化は、既に世界中に蔓延しており、これから先もさしたる抵抗なく拡大していくだろう。

次は人工知能による仮想電脳化だろうか。その先には、思考停止という電脳硬化症が待っていてもおかしくないように思われる。

濾過

雑多な情報が濾過されることで、特定の情報だけが抽出される。その抽象過程を経たものを形容する言葉が、「きれい」である。

コーヒー、報道、夜景、思い出。濾過のされ方はそれぞれに異なるものの、どれも「きれい」だ。

「きれい」なだけでいたいとき、フィルタや残渣は覆い隠される。

想い出はいつもキレイだけど
それだけじゃおなかがすくわ
YUKI「そばかす」

2018-08-06

ロボット工学と仏教

森政弘、上出寛子「ロボット工学と仏教」を読んだ。

一貫性をもった整合的な判断の積み重ねからは、善悪についての一つの判断基準が生じ、それに拘泥すれば、二元論のアリジゴクに陥る。

そこを抜け出すには、「何を同じとみなすか」の判断基準について自覚的になることで、別の同一視の基準に飛躍することが必要になる。元の理解では異なっていたものを同一視することは矛盾をもたらすが、その不連続点を理由で滑らかにつなぎとめながら、自在に飛躍を繰り返すのが「二元性一原論」的な「理会」の過程なのだと思う。

矛盾をきたす飛躍の瞬間である「無記」は、分化から未分化への変化であり、それが自在にできることこそ、天才の空っぽさである。emptyの語源が“at leisure, not occupied”であることを踏まえて、無記をEmptiness (as undifferentiated state)と訳すのはどうだろうか。

完璧な安全」が危険性をはらむように、「完璧な安心」は不安と紙一重である。固定化によって陥るこの危機を回避し、壊死と瓦解の間で飛躍を繰り返すことの中でしか、安全や安心は維持されない。そのような、更新される秩序としての生命的な在り方こそが「三性の理」だろう。

オルダス・ハクスリー「」にも出ていた拈華微笑の物語のように、以上のようなことは各々が自ら納得するしかないように思うが、その一つの試みとしての文通の記録を読むのは、意外に面白いものであった。