2019-09-29

photo book

10年ほど前は、フィルムで写真を撮ることも多かった。Zeiss Ikon Contax IIa、Contax T2、Hasselblad 500Cあたりを使っていた。久しぶりに当時撮った写真を見てみたら、一冊だけフォトブックとしてまとめてあった。おそらくZeiss Ikon Contax IIaにZeiss Opton Sonnar 50mm f1.5をつけて撮ったものだ。懐かしい。































2019-09-26

フレーム問題とアブダクション

フレームはむしろ判断が下った後で、そこにあったように見える。
An At a NOA 2016-01-27 “フレーム問題
頭の良さ」によって状況変化ごとの妥当性を見積もり、それを蓋然性と同一視した上で閾値以下の選択肢を却下する。そのアブダクションの過程を事後的に眺めると、予めちゃんとしたフレームがあるように見えなくもない。アブダクションに頼って思考しているにもかかわらず、帰納と演繹だけで思考していると仮定することで現れる錯覚が、フレーム問題なような気もする。

頭の良し悪し

ある状況のデータを基にして、そこからどのような状況に変化し得るかということを、妥当性reasonabilityと併せて見積もれるというのが、「頭が良い」ということの個人的なイメージだ。もちろんそれが蓋然性possibilityと一致するのが望ましいが、多くの状況は非決定的であり、蓋然性は一定しないことがほとんどであるように思う。

「頭が悪い」が「頭が良い」の反対だとすれば、(1)状況変化を考えないこと、(2)妥当性を見積もらないこと、(3)妥当性の見積もりが外れていること、はいずれも「頭が悪い」に該当する。
(1)はぼーっとしているか頭が固いかのいずれかだ。それはそれでユートピア=ディストピア的な幸せに浸ることができているとも言える。
 (2)はあらゆることについて等しく心配してしまう優柔不断な暇人だ。判断を下すまでに無限の時間を要するという問題以前に、偏りのない選択肢というのは情報的には無価値だと言ってよい。
(3)の評価は難しい。妥当性の与え方は一意的には定まらないため、結局のところ、自分が想定する見積もりと近い妥当性を与えるものを「頭が良い」と感じているに過ぎない。突飛な発想に対して、状況が変化してから後出しで「頭が良い」と言うことは簡単だが、事前に「頭の良さ」を指摘することの難しさたるや。だからこそ「馬鹿と天才は紙一重」なんてことが言われるのだろう。ここにも「頭の良し悪し」がある。

ちなみに、個人的には、すこぶる肯定的に「頭が悪い」を用いることがある。それは、妥当性の見積もりが強い思いに支えられているが故に、ある特定の選択肢だけが卓越して、他の選択肢が見えなくなっているが、周囲もその選択に合意している状況においてだ。大抵は酒を飲み始めるときである。

2019-09-21

空気人形

是枝裕和監督の「空気人形」を観た。

かたちの点では動物よりも人間に近いけれど、生命の点では動物のほうが人間に近い。そんな人形の中でも、人体というセンサ同士のすり合わせであるセックスに使用されるラブドールは、スケールやディテールなど、あらゆる点におけるかたちの再現性が追求され、その究極は「未来のイヴ」のハダリーに至る。

しかし、空気人形がハダリーと異なるのは、かたちが確固たるものではなく、それを維持するのに空気が要るところだ。そして、空気が動き、息吹となることで生命が宿る。空気がかたちをつくるとすれば、息吹はいのちをつくっている。息吹breath, exhalationは、ロウソクを吹き消す息、息を吹き込むセックス、風鈴、タンポポの綿毛だけでなく、100円高いシャンプーの匂い、子供時代を彷彿とさせる潮の香り、バイクの後部座席から首元を嗅ぐ行為などを通して、語源である嗅覚smell, odorへのこだわりにもつながる。息吹の流れは次第に滞り、いつか止まって死に至る。それがエントロピーの増大、つまり年を取るということだ。それに抗うように、自転車のタイヤにも、小顔矯正器にも、のぞみの身体にも、空気が流し込まれる。テッド・チャンが「息吹」で喝破したように、ただエネルギーがあれば生命になるのではない。エネルギーの流れこそが生命というプロセスなのである。

容器の中に封じられた球体。
その球体が動かされ、カランコロンと音がなる。
人間も人形も、案外そんなものなのかもしれないが、ハードウェアの違いは距離感を生み出す。玉子、目玉、睾丸というバタイユの「眼球譚」的球体幻想に支えられたドロドロな人間と、きれいなビー玉入りのラムネの瓶のように固く透明で空っぽな人形。燃えるゴミとなった純一を不気味に感じ、燃えないゴミとなったのぞみを貝殻のようにきれいだと思う。燃えるゴミと燃えないゴミの間には、残念ながら完全な互換性は存在しない。それでも、わずかな通信可能性communicabilityをきっかけに空気が動いて息吹になったものが、つまりは心なのだろう。

2019-09-08

あしながおじさん

あしながおじさん
しじんなあさがお
詩人な朝顔
poetic morning glory

2019-09-07

月影

月影が 蕩けて淡し 心字池

月光

月光を 集めて妖し 心字池

2019-09-05

金沢

学会で金沢に来ている。
発表は初日に終わったので、昨日は市内を観光していた。M1の冬に来て以来だから、およそ10年ぶりか。

最近、能を観に行くようになったので、能楽美術館に行きたかったのだが、あいにく展示替え中。6日には次の展示が始まるようだが、6日の午後はロボット溶接のPDを見に行く予定なので、残念ながら今回はパスだ。県立能楽堂も中に入れず。

鈴木大拙館はやや人が多かったものの、谷口吉生さんらしいディテールや空間が、哲学者のための建築として非常にマッチしていた。ああいう場所でひねもす本を読み、考え事をできたら、いかばかりか幸せだろうか。

兼六園やひがし茶屋街にも足を運んだが、10年前とあまり変わらない印象だ。それはそれで、長年続いているもののよいところである。ひがし茶屋街へ歩く途中、森八本店で菓子木型美術館なるものを見つけ、帰りに寄ってみた。流れているクラシック音楽とはあまりマッチしていないが、千点以上の木型がぎっしりと並べられた様は圧巻で、思わず見入ってしまう。木型という発想自体は同じものの大量複製に通ずるが、木型そのものは手作業による一品生産であるという、オリジナルとコピーの対比が面白く、やはりオリジナルとみなされるものだけが展示に耐えるのかもしれないという考えが浮かぶ。

金沢21世紀美術館に戻り、佐藤浩一氏の「第三風景」を観る。性と身体を奪われたイチジクを通してユートピア=ディストピアを描く展示は、最近読んだ「幸福な監視国家・中国」で取り上げられていた功利主義の果ての反自由主義ともテーマを共有しており、なかなか楽しめた。原子、細胞、身体、家族、国家、…、どのレベルにおける個体を重視しているのかを意識すべきなのだろう。メインの粟津潔氏の展示は、あまりに混んでいたので回避。

マックイーン モードの反逆児

「マックイーン モードの反逆児」を観た。

創造と犯罪は紙一重ですらない。両者はともに、マジョリティからの逸脱、モードへの反逆であり、非凡singularityに与えられた別名に過ぎない。マジョリティとは異なる視点によって逸脱がつなぎとめられれば創造と呼ばれ、マジョリティの視点によって排斥されれば犯罪と呼ばれる。その差は、一切の理屈抜きに物理的身体に訴求する印象の有無が生み出すように思う。つづめて言えば、感動できるか否かに懸かっている。

やはり写真で見るのと映像で見るのとでは、ショーから伝わってくる印象が段違いだ。真っ白なドレスに2台のロボットがインクを噴射するショーは、着色の舞というプロセスであってこそ、感涙を誘う印象の強さを発揮する。モデルとロボットがダンスを交わし、汗とインクが混じる様子に、解釈するよりも先に身体が反応してしまう。いや、解釈より反応が先行するのは常に起きているとしても、その前後関係の擬制がうまく働かないほど、刺激がイレギュラーだということだ。擬制によって成り立っている自意識が薄れた忘我の状態がつまり、感動である。