2019-12-31

2019年

今年印象的だった読書は、「新しい実在論」「新記号論」「千夜千冊エディション」あたりか。
「新しい実在論」では、「存在とは抵抗である」ということに考えが至った。dataからinformationへの抽象の仕方は様々であり、その多様性がつまり自由ということなのだが、それでもやはり全く勝手ということではない。その勝手にできないという固さが抵抗としての存在につながる。ソフトウェアとハードウェアの問題である。
「新記号論」では、コヒーレントな振る舞いを一つの塊とみなす過程が、つまりはdataからinformationへの抽象化なのだということを考えた。コヒーレントな振る舞いがある種の抵抗になり、一群は一つの個体として存在するとみなされるのである。最近研究テーマになっている、複数の振動する時系列データの相関を捉える手法とも関係があるはずだ。
「千夜千冊エディション」自体は2018年5月から刊行され始めているし、何なら千夜千冊の連載は2000年2月に遡る。散々読書の参考にしながらもつまみ食い状態であった千夜千冊に、ちゃんと向き合おうと一念発起したのが今年の7月であった。今は12/24に出た「編集力」を読んでいる。

ドクタの学生だった頃は、考えたことをゆっくりと文章にする時間が取れたのだが、最近はなかなかそれも叶わず、記事の本数はめっきりと減ってしまっている。購入した本の数と読了した本の数は2017年や2018年と大差ないのだが、やはり言語化を怠ると考え事ははかどらない気がする。
その一方で、設計の実務が増えたり、展覧会や演劇を観に行ったり、演奏会をしたりと、身体的な実践のウェイトも少しずつ大きくなってきている。一対一・一対多・多対多、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、言語・非言語など、物理情報を直接やり取りするコミュニケーションを通して、ソフトウェアとハードウェア、通信可能性と応答可能性、dataとinformation、除算モデルといった考え方を、実際の行いの中で確かめていきたい。

2019-12-03

中国絵画史

中国絵画史に興味がわき、宮崎法子「花鳥・山水画を読み解く」、宇佐美文理「中国絵画入門」を読みながら、NHK出版の「故宮博物院」シリーズを眺めている。

「花鳥・山水画を読み解く」は、中国の思想・文化的な背景を交えながら絵画の意味を読み解くものになっており、文化人類学的な興味がそそられる。「中国絵画入門」は、気と形という、ルネ・ユイグ「かたちと力」にもつながりそうな見方がよい。

山水画と雅俗の区別。
雅俗の区別というのは、つまりエリートを決めるということだ(eliteの語源は「選ばれた者」である)。科挙によって、氏ではなく育ちによって出世できるようになった結果、育ちの優劣を峻別するために生じた雅俗の区別が山水画の発展につながるという説明は非常に明解である。山水画は書と共通点が多いが、西洋におけるラテン語の使用と同じように、権威は書き言葉を支配することによって保たれる。西洋ではその後、ダンテ、ルター、デカルトらによって次第に俗語が書かれるようになりつつ、三十年戦争を経て、権威は教会から国家へと移っていった。書き言葉の解放と権威の失墜という観点からすると、白話小説の普及や白話運動といった言文一致の流れも、山水画の衰退と関連しているのではないかと思う。

花鳥画と同音による吉祥シンボル。
発音が同じであることによって吉祥を象徴するという、耳を介した抽象化は、表語文字ならではである。山水画が書き言葉とつながっているのに対し、花鳥画は話し言葉とつながっている。これはつまり、エクリチュールとパロールの対比である。20世紀の西洋哲学で展開された言語の問題は、山水画と花鳥画の関係にも適用することができるだろうか。書き言葉があからさまに権威を支えるのに対し、話し言葉は知らぬ間に特定の価値観を埋め込む。識字率の推移と画の様式の変化を対応付けてみるのも面白いように思う。

気の流れ。
書には筆順があるが、山水画にも筆順はあるのだろうか。筆順と気の流れは対応していてもおかしくない。李郭派や浙派のように気の流れを重視した流派と、元末四大家や呉派のようにそうでもない流派では、筆順の違いがどのくらいあるのだろう(草書と楷書くらい違う?)。