2018-04-04

3D-Printed Steel Bridge

The First 3D-Printed Steel Bridge Looks Like It Broke Off an Alien Mothership

3Dプリントされた鋼橋。
さすがに現場でプリントするまでには至っていないようだけど、工場に置かれた橋は3DCGと見紛うばかりだ。

一本の直線もない形態へのこだわりは、非線形を線形の張り合わせに置換することこそ「理解」という言葉の意味するところであった「近代」という時代への決別を表明するかのようである。
直線の覇権とは文化一般にみられる現象ではなく、近代の現象なのである。
ティム・インゴルド「ラインズ」p.238
しかし、安全性の確認をはじめとして、あらゆる部分が科学や技術といった近代を受け継ぐものに支えられているはずであり、実際のところは、非線形の線形化がvirtualなレベルで高速かつ精密にできるようになったことで、actualなレベルでの線形化が不要になったということなのだろうと思う。

橋の側面がトラス状になっているのを見て、virtualなレベルでも保存される形式こそ構造的だと言えるなということを考える。
構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualでありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。
An At a NOA 2017-08-18 “何を構造主義として認めるか
こうやって、複雑な形状でもトラスとして捉えてしまうのは、単純化という近代的な理解の一形態だろうか。でも、virtualにおいて高速化され精密化された線形化を人間が再現できなくなったときにこそ、人間の人間による人間のための単純化が必要とされるように思う。単純化とは、より離散的な記号への置き換えであり、つまりはdigitizedesignである。

理由が明快なものを「人工」、そうでないものを「自然」と呼ぶとすると、近代までは、人間の作るものはactualなレベルまで線形化された人工的なものばかりであり、何かを作るというのはすなわち自然の人工化ということだったと思う。専門分化が進むとともに、個々の人間レベルでは難しくなっても、集団としては依然としてかなりの程度に人工化していると思うが、人間の作るもの、人間の作るものが作るもの、人間の作るものが作るものが作るもの、というように、人工化のレベルがよりメタになっていくにつれて、actualなものは次第に人工から自然へと近づいていく。その過程の中で、次々と生まれる新たな自然の人工化を諦めたとき、「BLAME!」のような、かつての人工が自然化した世界が訪れ、「意識」や「理解」といったものが時代遅れになるのだろう。

こういう構造物の安全性については、壊れるところを何度も観察することで形成した力学的な直観で判断できることもあるだろうし、精緻なFEAモデルを用いた解析を通して判断できることもあるだろう。しかし、抽象化の解像度は、粗過ぎても細か過ぎても、その
判断を伝達するのには向かないように思う。個人的には、その両極の間にある、適度な単純化を通した判断もできるようでありたい。

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