2019-05-30

文明の距離感

文明とは、見知らぬ人間同士が間接的に判断基準を共有することで密集した状態だと言える。
An At a NOA 2018-06-14 “文明
距離が生み出す齟齬という問題は、文明化と表裏一体のように思われる。
An At a NOA 2019-05-29 “犯罪と自然災害
顔見知りか否かという距離空間においては遠いにも関わらず、物理的な距離空間での近接を許容せざるを得ないという状況に、文明社会ではしばしば遭遇する。常識という距離空間において近いとみなすことでその状況を甘受することが、文明人には強く求められているようにも感じるが、そのこと自体が既に問題をはらんでいるのだと思われる。

パーソナルスペースに不特定多数の対象が侵入できる状況そのものが恐怖の種である。一方で、その恐怖の種が狭い共同体を超えたコミュニケーションを通した創造を促すことで、文明の急速な発展を可能にしたとみることもできる。文明が、急速な発展のためにその恐怖の種terrorを必要とする限り、テロリズムterrorismは文明の不治の病であり続けるということなのかもしれない。

情報空間において別の距離空間をつくることで、その不治の病を治すことはできるだろうか。しかし、匿名性の高い情報空間でのやり取りをみるに、距離感があまりに隔たっている距離空間を併存させること自体に、恐怖の種が埋まっているのだと思われる。

2019-05-29

犯罪と自然災害

現実はあまりに膨大な量のデータで構成され、データはしばしば複雑に絡み合っている。その現実を余すところなく把握することは、人間にはそもそも不可能なのかもしれないが、処理可能なデータサイズのモデルへの圧縮を繰り返し行い、圧縮された複数のモデルを組み合わせたものを元の現実と同一視することで、近似的にではあるが把握しようとすることはできる。
これは、理解という人間らしい処理過程だ。

個々のモデルは単純で低次元で低自由度であったとしても、切り口が異なる多くのモデルを組み合わせることで、可能な限り元の現実の複雑さに接近することはできる。ただし、それには多種多様な切り口で現実と向き合うだけの手間がかかる。ある切り口での単純化が、現実のある特徴をよく捉えることで、短時間で効率よく理解できることもあるが、元の現実の複雑さの大部分は削ぎ落とされてしまう。対象としている現実からの距離が近いほど、現実とモデルのちょっとしたズレが目立ち、大きな違和感につながることもあるだろう。距離が生み出す齟齬という問題は、文明化と表裏一体のように思われる。

犯罪であれ、自然災害であれ、人が死んだという現実を、一つのシンプルなストーリィで処理すること自体に少なからず限界がある。神様と同じくらい虚構であった「自由意志に帰せられる責任」という概念の虚構性は、テロリズムという言葉が人口に膾炙するにつれて顕になってきているだろうか。
神を必要としなくなり始めてからニーチェが宣言するまでに数百年のレイテンシがあったのと同じように、人間が責任概念に頼らないでいられることを自覚するようになるのは、まだしばらく先のことなのかもしれない。

2019-05-23

ルポ 人は科学が苦手

三井誠「ルポ 人は科学が苦手」を読んだ。

自分の周囲の局所的な情報だけを利用するのではなく、空間、時間、文化、種など、あらゆる意味で、できるだけ広い範囲の情報を利用し、さらにその外部には別の情報が存在し得ると想定した上で、その時々に手に入る情報にできるだけよくフィットする、シンプルな説明を構築する行為が、科学なのではないかと思う。

つまり、局所的な経験に対する説明の中でも、
 1. 局所をできるだけ広くとる
 2. 局所を大域だとみなさない
 3. 説明は経験に整合している
 4. 説明はなるべくシンプルに
 5. 説明の仕方は変化してよい
という傾向があるものが科学と呼ばれる。

人間に難しいのは、1と2だろうか。
あるいは、5ができないために、3と4に従って構築された説明が、1についていけないのだろうか。
そもそも、元々一つの局所を共有してこなかった人間同士が、1によって半ば強制的に一つの局所にまとめられていくことに不具合があるのか。

2019-05-22

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス

昨日は夕方には雨が上がっていたので、「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を観に行った。

知識の継承は、紙に文字が書かれた書籍というかたちだけでなく、電子書籍、インターネット、点字、朗読、絵本、写真、講演を通した口承、ダンスや音楽といった身体行為、など、実に様々な媒体を介して行われる。そこで継承される知識の内容の多様性も然ることながら、ニューヨーク公共図書館(NYPL)で取り扱われる媒体の多種多様さに驚いた。NYPLでは知識が渦巻いている。ワイズマンによる構成は、その渦巻いている雰囲気をよく伝えるものだった。

ただ単に知識をアーカイヴするだけでなく、知識の渦巻きを体現するというあたりに、これからの図書館像があるのかもしれない。

p.s.
映画の後半、パークチェスター分館で若者向けの数学関連の蔵書や企画について話し合うシーンを観ていて、高校入試のときに書いた分数の足し算についての小論文のことを思い出した。
「1/2+1/3は、なぜ2/5ではなく5/6なのか説明せよ」というような出題に対して、「分母の2や3は分類の種類を表すので、同じ分類の仕方に揃える必要がある」というような論旨で記述したと思う。15歳の自分がそこまで気付いていたとは思えないが、この捉え方には、割り算とは同値関係に基づく同値類への分類であるというニュアンスが含まれている。

2019-05-21

早送りの仲夏、このところの映画

東京では、今日梅雨が来て、明日には夏が来るかのようだ。
早送りの仲夏。
雨が強くて外に出るのが億劫になるが、岩波ホールに「ニューヨーク公共図書館」を見に行きたい感はある。

最近は「ROMA/ローマ」と「アンダーグラウンド」を観た。
いろいろな条件が重層し、要素間の関係が密になるほどに、現実は現実らしさを増していく。それを疎結合された記号群に置換すれば、シンプルでわかりやすくなるものの、現実感は薄れる。「要素」や「関係」なるものも、事後的に想定されるものかもしれないが、さりとて全く抽象しないのであれば、それは端的に現実であり、現実感は感覚されないだろう。この2作は、複雑なものが複雑なままに伝わってくるような、現実感のある作品だった。それができるのは、現実の複雑さを監督自身が間近に経験したからこそかもしれない。

4DやVRのような、情報伝達のヴァリエーションの変化も、現実感を増す方法であるが、それとは別の密度感、臨場感、切迫感から生まれるrealityがあって面白い。
独立変数に対する拘束条件の数が多ければ多いほど、possibleからrealへと近づく。
An At a NOA 2018-01-09 “actualとvirtual

2019-05-13

協力と裏切りの生命進化史

市橋伯一「協力と裏切りの生命進化史」を読んだ。

反射律、対称律、推移律によって特徴付けられる同値関係が成立している状態を「協力」と呼べば、この同値関係の解消のうち、特に対称律が破れることによるものを「裏切り」と呼べるだろう。

分子、細菌、真核細胞、多細胞生物のように、複数だったものが一つの単位として振る舞うようになるのは、同値関係によってある集合を商集合へと写像する除算過程の一種である。それは確かに「協力」の賜物であるが、ときに「裏切り」が発生し、別の同値関係が可能になることで、同値関係の妥当性を検証しながら環境に適応する協力体制を整えることができる。

一つの同値関係に固執すれば壊死する一方で、同値関係の解消に徹すれば瓦解する。ある同値関係を維持しようとする「協力」と、その同値関係を解消しようとする「裏切り」の綱引きが、絶妙にバランスするところにだけ、生命を見出し得るのではないかと思う。

2019-05-12

アナクロ

anachromism = ana(against) + chrono(time)

クロノスを逃れ、カイロスへ。
強権的に付与される時間へのレジスタンスとしてのアナクロニズム。

電子書籍が普及する中、あくまで紙の書籍に拘るのも、読書家としての一つのアナクロニズムである。

2019-05-10

リアルバーチャリティ

なんでもありの世界に厳格なルールを持ち込むことで実現されるバーチャルリアリティ(VR)に対して、厳格な世界になんでもありのお約束を持ち込むことで実現されるものをリアルバーチャリティ(RV)と呼びたい。

要するにリアルバーチャリティとはごっこ遊びである。

厳格なルールのおかげで、半ば自動的に構成されるVRに対して、RVを構成するには、お約束を飲み込むだけの想像力が各自に必要とされる。VRは身体によって構成され、RVは精神によって構成されるとでも言えようか。

RVを構成するのは難しいようではあるけれど、宗教、国家、貨幣など、人間は実に多くのRVを共有している。それにも関わらず、そのことに無頓着でいるあたりに、人間らしさがあるように思う。

エンターテインメントとアジテーション

感情のコヒーレンスの高まり。
Rise of emotional coherence.

局所的・一時的であればエンターテインメントに、大域的・永続的になるとアジテーションになる。両者を特徴付けるのは、感情の種類ではなく、時空間的に局在するか遍在するか、である。

2019-05-07

理解・意味・知識・科学

高次元科学への誘い

理解:
そのまま処理するにはあまりに膨大なデータを圧縮し、データサイズを小さくすること。経験や認識もデータ圧縮プロセスであるが、意識的な理由付けを伴うものが理解understandingだと言える。

意味:
高次元空間に分布しているデータが、その中にある低次元多様体上に偏って分布していると近似的にみなすことで、データサイズが小さくなる。低次元多様体というかたちformを与えることによる、データdataから情報informationへの抽象化。意味meaningとは、データの偏りでも低次元多様体でもなく、データの偏りを低次元多様体へと写像する進行形のプロセスである。

知識:
データをどのように圧縮するかについての判断基準。どのようなデータの振る舞いを一つの塊とみなすか、という同一視の基準。商集合をつくる際の同値関係。理解のプロセスにおける基準を知識knowledgeと呼ぶ。判断基準は、抽象するたびに更新される。

科学:
共通する経験を理解することによる知識の更新。ハードウェア的なデータ圧縮を、意識によるソフトウェア的なデータ圧縮でなぞる試み(科学が試みであることを忘れて、知識の更新が滞ってしまったら、それは似非科学と非難されてもしょうがない)。ハードとソフトの区別は、判断基準更新の緩急に対応する。意識に比べて相対的にハードであるほど自然科学として扱われるようになる。人間の集団もまた、大きくなるほど慣性を増し、ハードになっていくが、文化、言語、宗教、経済といった人間の集団がみせるみせる振る舞いは、意識に比べてそれほどハードでないことも多いようで、人文科学として扱われる(ある時点での集団の振る舞いを固定的なものとみなすことで、人文科学を自然科学に近付けることに成功したのが、構造主義なのだろう)。


このところ考えているこういったことを踏まえて、冒頭のリンク先の記事を読む。

意識による「理解」というのは、かなり圧縮率の高い抽象過程だと思われる。圧縮率の高さは、小さい容量でより多くのデータを処理する上では利点になる一方で、圧縮率の低い別のプロセスをなぞる上では自由度の不足という欠点にもなる。

この欠点は人間に認知限界をもたらすが、深層学習によって容量の問題が解決するなら、「理解」をより圧縮率の低いプロセスで置き換えることで、認知限界を乗り越えることができる。これが科学の高次元化の肝だと思うが、以前書いたように、深層学習には専門分化と構造的な共通点があり、高次元科学は専門分化と同じような利点と欠点を備えているように思う。
An At a NOA 2017-09-15 “専門分化
An At a NOA 2018-11-26 “専門家と機械学習

専門分野への切り分けと、複数の意識のクラスタ化によって、経験を理解する際の自由度不足の解消と知識更新の高効率化を図ったのが専門分化であるが、その際、専門分野が互いに素であることと、扱われる経験が同一であることは、暗黙のうちに前提される。専門分化によって、利点と表裏一体だった欠点を解消することで、集団としての「理解」可能性が高まる反面、単一の意識による「理解」は次第に難しくなっていく。「理解」と経験に齟齬があるたびに知識を更新するプロセスが高速化し、単一の意識では不可能なまでに
集団としての「理解」可能性を高められたとしても、個々の意識による「理解」が難しい中で、齟齬による損害をどのように受け入れるかは別問題として残る。責任という概念をつくり出すことでこのギャップを和らげているものの、綻びは至るところで見受けられてきたように思う。その綻びは、標語的には「安全と安心の乖離」と表現できる。

より精確な近似への欲求と、より簡潔な近似への欲求というアンビヴァレンス。どちらに振れても意識は不要になるだろう。世界をより精確に経験しようとした意識が、その果てに意識の消失に辿り着くという物語は面白いが、それを面白がる意識でありたいと、我は思う。

2019-05-01

統計思考の世界

三中信宏「統計思考の世界」を読んだ。

統計的手法というのは、人間がすべてを理由付けによって把握するにはあまりに大量なデータを、何とか理由を保持しながら扱うためのものだと思う。
An At a NOA 2017-05-05 “統計
大量のバラバラなデータのうち、それとなく揃っている部分を一つの塊とみなすことで、データサイズが小さくなり、データ処理にかかるコストは減少する。これはデータ圧縮の過程である。適切な圧縮ができれば処理能力の向上につながる一方で、不適切な圧縮をしてしまえば処理自体が破綻する。処理の破綻を可能な限り免れ続けるには、データの変化に合わせて圧縮方法の適切性を常に検証し、必要に応じて別の圧縮方法を試し続ける他ない。

この一連の試行錯誤はつまり「何をsignとするか」についての試行錯誤である。人間というのは、何かを見たり聞いたりする知覚のレベルでの「自然な」signだけでなく、言語、宗教、科学など、様々なかたちで結実している「不自然な=人工の」signによる圧縮を、半ば投機的に試みることで、他の存在に対する相対的な処理能力を向上させてきたのだと思われる。その様を伊藤計劃は「人間は無意味に耐えられない」と表現した。

不用意に行われればバグのようなものになるであろう投機的な圧縮に、「理由」を付けることで暫定的な適切性の検証とし、その成功率を上げるというのが、思考や意識と呼ばれるものの特徴なのだと思う。統計学は、「これをsignにすることができる」という意味でのsignificanceに理由を与える試みである点で、まさに意識的な分野である。

そのまま把握するにはあまりに膨大なデータである世界というものを「理解=理由付けて圧縮」するにあたり、数式もグラフも駆使しながら、どのようにして圧縮や理由付けできるのか、あるいはすべきかについて試行錯誤するプロセスである統計思考。その面白さの伝わってくる本であった。