誰から聞いたのか覚えていないのだが、アンリ・ポアンカレには最後のユニバーサリスト(多くの学問に通じていた人物)というイメージがついている。おそらく高校時代の数学教師にサイバーグ・ウィッテン理論を習ったときだ。
この書で最も強調されているのは、科学とは充足理由律に基づいたモデル化であり、それ以上でもそれ以下でもない、ということだ。
実験物理学と数理物理学の関係を述べた第九章で、
事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である。と述べているのがとても気に入った。
ポアンカレ「科学と仮説」p.171
経験それ自体は高次元空間に分布する。しかし、充足理由律により、その分布はある低次元の多様体上に分布することが期待される。元の高次元空間を眺めているだけでは石を積んでいるだけである。その次元はあまりに高く、石はいつまで積んでもかまくらにすらならないが、低次元の多様体を見出し、積み方を心得ることで、大伽藍は可能になるのだ。
それにしても驚くのはポアンカレの先見性だ。初版の1902年は相対性理論も量子力学も確立される以前である。当然、ラーモアやローレンツによるローレンツ変換やプランクによる量子仮説の影響により、これらができつつある壌土は整いつつあっただろうし、数回の改定の中で修正されたものもあるのかもしれないが、20世紀物理学の2大理論を予見する内容を、その世紀の初頭に書ける人間がどれだけいるだろうか。
数学的理論は事物の本性を我々に解き示すことを目的とするものではない、(中略)そのただ一つの目的は実験が我々に知らせる物理法則に座標を与えることである。しかし数学の助けがなければ、我々はその法則を述べることさえできないであろう。という言葉に続き、
同p.241
- エーテルの実在性は物理学の関知する範囲ではなく哲学者の畑であること
- (当時の)物理学にとってはエーテルの存在を仮定するのが便利であること
- エーテルが放棄される日がもちろんいつかくること
さて、「有限性の後で」においてメイヤスーは数学が祖先以前性を記述する能力について触れていた。このあたりは、第一章で数学的帰納法を例にとった数学の無限性に触れているところと関わりがあるのではないかと思う。メイヤスーはどこかでポアンカレの思想について言及しているだろうか。残念ながらフランス語はわからない。
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