2017-07-31

ディストピアにおける倫理

そう考えると、道徳というのは、抽象過程の破綻を避ける
ための、発散する特性を制御する枠組みだと言える。
An At a NOA 2017-06-10 “技術の道徳化
倫理というのは、発散を抑制するタガであるから、
こうあるべきという倫理の存在は、倫理的でない
行為が存在することを意味する。
逆に、倫理的でない行為が行われない集団において、
倫理が意識されることはない。
それは、現代において倫理的でないと非難されない
行為が、時代と場所が変われば倫理的でないことに
なる可能性があることと同じである。

多くのディストピア論において、倫理的な強制が
描かれるのは、まだそれが究極的に固定化した
ユートピア=ディストピアに陥っていないことの
現れであり、個人的にはやや不満が残る。

愛が重い

自分はこうだと思うという主張があると、それに同調する
意見もあれば、対立する意見もある。

同調する意見の表明は、そこに一つの集団を作るきっかけ
となる。
対立する意見があったときに、それぞれを尊重するという
のは、ある部分では別の集団に属することを許容すると
いうことだ。
それによって両者が元々共通して含まれている集団が
瓦解するおそれがあるのであれば、対立を解消すること
にも一理ある。
それはつまり、こちら側にいたものを、あちら側にして
しまわないための愛である。

度を越えてこちら側に止めようとするのは正義の押し付け
合いになり、結局は集団を破滅へと追い込む。
要するに、愛が重いのだ。

あちら側をあちら側のままに愛することは可能だろうか。
しかし、こちら側への引き受けを伴わない愛は、結局の
ところ、何でもないものにしかならないように思われる。

〈都市〉と〈田舎〉

神林長平「ぼくらは都市を愛していた」において、
〈田舎〉は通信を強制することで集団を維持し、
〈都市〉はそれを克服したマシンとして描かれた。

〈人間は独りでは生きていけない〉という命令を、
〈都市〉が克服し、通信を断絶した状態でも集団を
維持できるようになったのは、〈都市〉に生きる
こと自体が、近代という同じ物語を共有し、同じ
時間を刻むことを前提するために、わざわざ個別の
通信でそれを確認する必要がなくなったからである。

芸術と技術3

一種の「わからなさ」が芸術を芸術たらしめ、すべてを
「わかった」とすることが技術を技術たらしめる。

芸術を技術にするところに、あらゆる懸念が詰まっている。
それは、ユートピア=ディストピアの到来の予感である。

生命に部分はない

アンドリュー・キンブレル「生命に部分はない」を読んだ。

抽象することで、全体であった無相の情報は、部分である
有相の情報に分けられる。
理由付けによって抽象することを「理解する」と呼ぶと
すると、生命を理解するということ自体に、生命を部分
としてみるという価値観が既に内包されている。
自然を人工にする、あるいはよきもの(good)を物品(goods)
にするということは、理由によって自然を塗りつぶすことだ。
それは、あらゆるものを「わかる」ようにする、という態度
であり、それが一意的な理由付けを目指すとき、機械論的な
発想に陥ることになる。
何が完璧で、何が異常で、何が悪いかという観念は、
しばしば単に既成の文化的枠組みの反映にしかすぎず、
私たち自身の偏見や社会的偏見の表れである場合が多い。
アンドリュー・キンブレル「生命に部分はない」p.244
とあるように、科学もまた一つの理由付けでしかなく、
科学が答えになってしまうようでは、常に問いによって更新
されるという科学の性質に反するように思われる。
「パーフェクトな」というかたちで、物理的身体に答えが
埋め込まれてしまうと、折角の理由付けのつなぎ替え可能性が
損なわれてしまい、その先には、知恵の樹の実を返上し、
生命の樹の実を手に入れたユートピア=ディストピアが待って
いるように思われる。
それを望むことが悪いとは言えないのかもしれないが、
それを望んでいる自覚がないのだとしたら不憫に思う。

「生命に部分はない」という宣言は、こういった事態に対する
反動であるが、その反動として、「わかり」過ぎることなく、
「わからない」でいることを大事にするようになるだけであれば、
神秘主義に戻るだけであり、ただの技術脅威論になってしまう。
それは、機械論とは別のユートピア=ディストピアを用意するだけ
であるような気がしてならない。
パートⅣがそういった方向に読めてしまいそうなところがやや
気がかりであるが、福岡伸一による訳者あとがきの、
理念というものは、かそけきものであるがゆえに、
語り続け、求め続けなければならない。
理念は常に不利なのである。
同p.578
という文に救われており、ここを読むところまでが本書をなすと
言ってよいだろう。

物理的身体を維持するための機構として心理的身体が実装された
のだとしたら、心理的身体のエゴイズムによって、いつの間にか、
心理的身体を維持するために物理的身体が利用される事態に陥って
いるというのは、まことに滑稽な状況だ。
生の間際と死の間際において境界を確定し、身体を物理的にも
心理的にも刻むことでサイボーグ化するという、時空間にまたがる
部分化が、一つの答えとして進行・信仰される限り、非難は免れない。
しかし、理由付けがつなぎ替え可能な抽象として機能する限りは、
それを放棄する必要はないように思われる。
他の「わかり」方があり得ることを常に想定しつつ、「わかろう」
とし続けることが、心理的身体を実装した人間なりの在り方になる
ような気がしている。

更新はただ見積もることができるだけである。
ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」p.54
とクラーゲスは述べる。
見積もられない更新はただの発散する脅威であり、更新は理由付けに
よって見積もられることでリズムになる。
その見積もりが反復になると、リズムは拍子として固定化する。
その固定化と発散の間でバランスを取り続けることが、「わかろう」
とし続けることだ、…というように、いくら言葉を尽くしても、
特定の言葉として表現すること自体が一つの固定化をはらみ、
次の発散を促すしかなくなる。
それが、「わかろう」とし続けることの難しさだ。

大いに争いなさい。
固定化と発散の争いなきところに
人間はいないのだから。

2017-07-27

Anil Seth

Anil Sethというサセックス大学の神経科学の
研究者の意識観は、共感できるところが多い。

a new picture is taking shape in which conscious experience
is seen as deeply grounded in how brains and bodies work
together to maintain physiological integrity – to stay alive.
In this story, we are conscious ‘beast-machines’
Anil Seth “The real problem
Every conscious experience involves a very large reduction
of uncertainty – at any time, we have one experience out of
vastly many possible experiences – and reduction of
uncertainty is what mathematically we mean by ‘information’.
Ibid.
perception is a controlled hallucination, in which the brain’s
hypotheses are continually reined in by sensory signals arriving
from the world and the body.
Ibid.
The specific experience of being you (or me) is nothing more than
the brain’s best guess of the causes of self-related sensory signals.
Ibid.
It now seems to me that fundamental aspects of our experiences of
conscious selfhood might depend on control-oriented predictive
perception of our messy physiology, of our animal blood and guts.
Ibid.

意識とは、身体を維持するための予測過程であり、
自意識というのも、その過程の一環で予測された
ものでしかない。
Consciousness is a predictive processing for
maintaining the body, and conscious self is only
predicted as a part of the process.

この理論もまた、理由付けという予測過程によって
導かれたものであるから、これが正解かどうかは
どうでもよいし、そもそも正解というものはない。
best guessはなんだろうかと理由付けを続けるのが、
意識らしい在り方だと思われるというだけである。
Since this theory is also derived by the predictive
processing of reasoning, it does not matter
whether this is correct or not, or there is no
correct answer in the first place.
Just saying that keeping reasoning as to what is
the "best guess" seems to be a conscious way
of thinking.

それでよいのだ。
That's fine.

外貨

がいかのかいが
外貨の絵画

がいかでかうかでかいが
外貨で買うか、でかい蛾

ねがいかなうようなかいがね
願い叶うような絵画ね

なかがいか かねかたかねか かいがかな
仲買か 金か高値か 絵画かな

2017-07-26

物語の共有

「人間以外には相関関係と因果関係の区別はつかないんでしょうか」
「特定の順序への信仰みたいなものだからね」
「本当は因果関係なんてないということですか」
「例えば、風が吹けば桶屋が儲かる、は相関と因果のどっちだと思う」
「うーん、ストーリィ的には因果ですが、こじつけですよね」
「多かれ少なかれそういうものだよ」
「ではどうして人間は相関と因果の区別に拘るんでしょうか」
「どの物語を共有するかを決めたいんじゃないかな」

因果関係は、あるかないかというよりも、
あると便利だから想定されるもののように思う。
その想定が理由付けであり、同じ物語を共有する
ことで、同じ集団に属していることを確認する。

とても人間らしい振る舞いだと思う。

2017-07-24

科学とニセ科学

科学というのは一つのモデル化でしかなく、
ニセ科学もまた、一つのモデル化でしかない。

科学とニセ科学を個々の内容で峻別することは
難しく、内容だけでみれば、マジョリティが
信仰する理由付けが科学と呼ばれるだけだ。

集団を維持するには、「何を同じとみなすか」の
基準が必要になる。
集団の規模が小さい時代は、宗教やしきたりが基準
となり、適用対象が狭かったり、多少の不整合が
あったりしても、集団の瓦解には至らなかった。
通信が発達し、集団が大規模になるに従って、
よりシンプルな理由でより多くの対象を整合性を
保つように説明できる、抽象能力の高い基準が
なければ集団が維持できなくなる。
西欧的な近代社会という一つの大きな集団を維持
するための「何を同じとみなすか」の基準が集積
したものが、科学と呼ばれるに至った。
科学は、常に問いによって更新し、整合性を保った
ままよりシンプルでより適用対象を拡げることで、
集団の瓦解を防いでいる。

天動説も熱素もエーテルも、科学と呼ばれ得る
時代はあるだろうし、相対論も進化論も、ニセ
科学と呼ばれ得る時代はあるだろう。
科学では常に問いが先行するから、そのような
理論の更新が続いてきたし、これからも更新は
続いていくだろう。
答えが先行するようになってしまっては、科学は
停滞したまま反復するニセ科学に堕する。
拍子は反復し、リズムは更新する
ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」p.49
科学という一つの理由付けをありきとしてしまうと、
その基準は権力者・支配者に見えてしまい、知性への
反発ではなく、知性主義への反発としての反知性主義を
生み出す。
それは、一意的な理由付けという固定化への抵抗と
しての発散であり、それがない世界は集団が壊死した
ユートピア=ディストピアである。

科学的かという批判は、科学的になされなければならない。

2017-07-22

VALU

小飼弾がVALUのリードエンジニアに就任したと聞いて、
VALUというサービスを初めて知った。

こういうサービスは、多くの人間が生きていく上で
お金を稼ぐ必要がなくなった時代に、有り余った
時間の中で意識を失わないために、お互い何とか
好奇心を稼ぎ合うという文脈で現れるイメージだ。
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、
人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
投資をする側は、自分では思いつかない発想を得る、
あるいは単に持て余した暇を潰すため、投資をされる
側は、周囲からのレスポンスによって次の好奇心を
かき立てるため。
好奇心と時間とお金は、長期的にみればこの順に枯渇するだろうし、
この順に自分以外の力で補填することが難しいと思われる
An At a NOA 2017-01-31 “好奇心
好奇心とは、通信できる差異を望むことである。
An At a NOA 2017-06-02 “好奇心
好奇心は例外なく、固定化への反発としての創造的
破壊であるから、炎上手法と呼ばれるのは仕方がない。

まだまだ生きるためにはお金を稼ぐ必要がある
時代に、このサービスは継続できるのだろうか。
株式市場のようなものとして認識されることで、
お金のためのサービスになってしまうのでは、
結局はパラダイムシフトが起こらない。
貨幣経済というパラダイムにとどまったままでは、
貨幣という権威に屈することで、「個々が好き勝手に
出来上がる前に瓦解するのではないかと思う。
「奇」とは、凡人の価値観を超絶したものに
与えられる形容でなくてはならない。
三木成夫「胎児の世界」p.143
あと、「暴力と社会秩序」の文脈で言うと、
発散=暴力の制御を個人に振り分けるのは、
国家から共同体への逆行のようにも思える。
むしろ、非属人化をさらに突き進めて、
物理的身体を単位とせず、形成されては
解体される「個人」の発揮する好奇心が
取引対象になるのも、面白そうである。

2017-07-19

リズムの本質について

ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」を読んだ。

リズムと拍子(タクト)の違いを表す、
拍子は反復し、リズムは更新する
ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」p.49
という一文が有名であるが、その意味は、先行する
以下の部分によく表れている。
拍子が同一のものを反復するとすれば、リズムに
ついてはこう言わなければならない。
リズムでは類似が回帰する、と。
同p.49
複数の対象について、「何を同じとみなすか」が固定
されると、それは固定化を促すハードウェアとして機能し、
完全な複製を可能にすることで、全く同一のものが反復
できるようになる。
そこに現れるのが、機械的、技術的な拍子である。
一方で、「何を同じとみなすか」が固定されないと、
複製は不完全になり、繰り返されるのは全く同一の
ものではなく、類似したものになる。
類似性が「何を同じとみなすか」に依拠しながら、
類似とされるものが回帰することによって、「何を
同じとみなすか」の基準自体が更新されていく。
そこに現れるのが、生命的、芸術的なリズムである。
あらゆることに理由付けられることで複製は
完全になり、技術と呼ばれるようになる。
(中略)
逆に、複製過程において理由がわからない
部分があると複製は不完全となり、芸術と
呼ばれるようになる。
An At a NOA 2017-06-14 “芸術と技術2

リズムと拍子の違いはエミュレーションとシミュレーション
の違いでもある。
反復は計算可能である。更新はただ見積もることができる
だけである。
ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」p.54
両者ともに時間と関係しているが、リズムの時間が
エントロピーの意味での時間なのに対し、拍子の時間は
媒介変数としての時間でしかない。

無意識=身体と意識=精神を分けた上で、
同一のものとは思考が産み出した思考物である。
(中略)
類似のものとは精神の行為的活動とは独立に生じる体験内容
であり、(中略)それをわがものとすることはまったくできない。
同p.50
としているのは、「何を同じとみなすか」について、
思考によって特定の理由付けをしてしまうことが、
「何を同じとみなすか」の固定化をもたらすことを示す。
それは、理由付けをする意識自体の存続を脅かす。

理由付けによる抽象の仕方が一通りしかないとするのは、
そのモデルによってしか世界を見ないということであり、
機械的、技術的、人工的、反復的、シミュレーション的、
などと呼べる、媒介変数としての時間が流れる世界を
受け容れるということである。
そこは「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界と
同じであり、そこでは意識は不要である。
時間が永遠と
永遠が時間と同じ人は
免れている。
いっさいの争いを。
同p.100
「何かを同じとみなす」ことには、必ずしも理由は要らず、
物理的身体の意味付けによることも可能だ。
しかし、それが固定化しないでいるためには、「別の理由
付けがあり得る」という、理由付けのつなぎ替え可能性に
よって、複製の中に完全性ではなく類似性を見続けることで、
拍子をリズムたらしめる必要がある。

その一方でまた、理由付けのつなぎ替え可能性だけに頼る
ことは過大な発散をもたらし、固定化なき発散は瓦解へと至る。
詩作とは「鎖につながれて踊ることである」
同p.83
というニーチェの引用は言い得て妙である。
基準となる何らかのハードウェアなしには、生命も芸術も
リズムも成立しないはずだ。
「何かを同じとみなす」ときの基準は、通信を成立させることで
集団を形成し、逆に集団が存続することで基準も維持される。
集団と基準は常にセットであり、クラーゲスが原住民の拍子を
理解できないのは、クラーゲスがその集団に属していないため
だと思われる。
原住民の拍子はクラーゲスをはじめとする西洋人にとって複雑な
ものだと述べられているが、それは集団の大きさを反映したもの
だろうか。
集団が巨大になればなるほど、最大公約数的に拍子は単純化して
いくと言えるだろうか。

最後の展望のところで、
リズムの「喜び」は何に基づくのか。
同p.93
という問いが立てられる。
それは、「何かを同じとみなす」基準があることで、
何かしらの一致がありつつ、それが完全には説明されない
ためだと思われるが、そのような説明を付けてしまった
瞬間に、「喜び」は色褪せていく。

長々と述べたことも、すべては一つの理由付けでしかなく、
そこにとどまらないでいることが、意識をもつ人間である
はずだが、そう言い切ってしまうことがまた特定の理由付け
への執着をもたらすようで、中々に難しい。
理由付け回路としての意識は説明されることを嫌う。
それは、ある型枠に嵌められることで、過度に固定化
されることを避けたいためであろう。

…という説明すら、されるのを嫌うだろう。
An At a NOA 2016-11-25 “説明

送り梅雨

今年の梅雨は、昨日の雹混じりの雷雨とともに
終わったようだ。
随分と荒々しい送り梅雨である。

疑いと問い

疑うのと問うのとではどこが違うのだろうか。

疑いの場合、suspectでもdoubtでも、疑う側に
既に答えが存在し、それがあまり変化しない
ように思われる。
問いの場合には、答えがなかったり、変化し得る
一時的な答えだけがあったり。
疑いや問いの内容だけでは、それが疑いなのか
問いなのかは決められないし、むしろそれは、
答えがあるように見えるか、ないように見えるか
によって変わってくるもののように思う。

「疑うのと問うのとではどこが違うのだろうか。」
というのは、疑いと問いのどちらに見えただろうか。

2017-07-18

保存

電子データ、マイクロフィルム、紙の書籍といった、
どのような形式であれ、一度保存すれば永遠に参照
できるという想定自体が危険だと思うのである。

忘れないために必要なのは、確実な憶え方ではなく、
記憶の脆さを承知した上で憶え続けることである。
非平衡な準安定状態という暫定的な側面が
ありながら、かたさをもつと同時に、
脆性破壊という脆さも併せもつ。
An At a NOA 2017-07-17 “ガラス” 
忘れてしまっては何も残らない一方で、
忘れることで時間が流れる。
不断に忘れられ続ける世界において、
憶えては忘れるという反復によって、
忘れられることに抗うのが生命である。
An At a NOA 2017-07-14 “不断に忘れられ続ける世界

胎児の世界

三木成夫「胎児の世界」を読んだ。

あとがきに、
胎児の世界というものは、こうして見ると、わたしたちの
たれもが多かれ少なかれもっているそうした左脳の世界
とは本質的に相容れぬ運命を担ったものであることが
うかがわれる。
三木成夫「胎児の世界」p.222
とあるように、ひたすら理由付けに邁進する自然科学とは
異なる観点を提示する。
機械論のはびこる左脳の世界では、ともすれば疑似科学や
似非科学と切り捨てられてしまうかもしれないが、そこには
「おもかげ」、「こころ」、「リズム」といった、意味付けに
うったえるものがあることで、「多孔性の科学」と呼ばれる
に足る何かがあるようにも思う。

「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルの思想を
ベースに、ニワトリや人間の胎児の発生を追っていくところを
見ると、得も言われぬ気持ちになる。
図20や図21の胎児の顔にあるおもかげ。
理由付けによって語ることでは伝わりきらない部分を、
意味付けによって示すところに多孔性があるのかもしれない。

多孔性はまた、「ゲンロン5」で幽霊的と呼ばれたものにも通ずる。
懐かしさというものは「いまのここ」に「かつてのかなた」が
二重映しになったときにごく自然に湧き起こってくる感情であろう。
同p.16
歌舞伎の名跡や型も、そのような「懐かしさ」から立ち上がる
幽霊的身体を呼び込んでいる。
発生の様子も、
そこでは、細々とした現実の所作はしだいに省略され、ただ全体の
流れを示す“かたち”だけが象徴的に演じられる。
まさに能の世界であろう。
同p.134
と描写される。
「いまのここ」としてしか語ることのできない自然科学に対して、
「かつてのかなた」を同時に示すことで現れる幽霊的身体が、
多孔性と呼ばれるものになるのだろう。

個体発生という「食の相」から「性の相」への位相交替を
視野に入れながら、
すべて生物現象には“波”がある。
同p.176
という宣言に続いて、クラーゲスを参照しつつ、機械論的な
反復とは異なる、リズムの本質へと話は展開する。
母胎という海の中で聴いた、いのちの波を始めとして、
生命は大小さまざまな搏動とともにあった。
「ココロ」とは、したがって、この心搏に象徴される
「リズム」そのものであることがうかがわれる。
同p.214
搏動をリズムとして捉えるところに、人間らしさがある
というのは、面白い指摘だと思う。

あらゆる搏動に構造を見出し、リズムとして抽象する。
「かつてのかなた」の搏動が、「いまのここ」の搏動に
重なる懐かしさ。
それを憶えるのは人間だけなのかもしれない。
――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。
三好達治「郷愁」

2017-07-17

ガラス

非平衡な準安定状態という暫定的な側面が
ありながら、かたさをもつと同時に、
脆性破壊という脆さも併せもつ。

理由付けというのは、ガラスのようであると
よいなと思う。

2017-07-14

安全と安心2

An At a NOA 2016-09-29 “意思決定
An At a NOA 2016-12-08 “安全と安心
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団
An At a NOA 2017-06-13 “築地と豊洲
あたりに書いた話の続き。

近代の専門分化というのは、安全であることをもって安心に読み替えることが暗に前提されている。そのおかげで短期間での効率的な発展が可能になった。

「安全だが安心でない」という言説は、これに対する反動であり、それが生じるのは、発展がある程度まで進行し、その速度が緩やかになったことで、効率化しなくてもよいだけの余裕が生まれたためだ。要するに、暇になったためである。

この先、外部抽象機関としての人工知能やロボットの活用が進み、人間はベーシックインカムによって生きていくような時代が来るとしたら、人間はますます暇になっていくだろう。むしろ暇になることは、人間が行っている抽象過程を技術によって外部として複製することの究極の目的だと言える。

暇になればなるほど、外部評価としての安全で代替せずに、内部評価としての安心をそれ自体として確保したいという欲求が生じるのは自然である。しかし、安心を外部に対して要求するという手段を取るのであれば、結局外部に移譲された安心という構図は変わっていない。安心を本当に得るためには、暇になった時間を使い、自らの責任で判断を引き受ける他ない。それは、近代の専門分化との決別である。
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
という究極の試練に対し挑み、意識を維持しようとするのであれば、暇を貪るように自らの理由付けに明け暮れるしかない。人によっては長く辛い人生になるかもしれないが、それはこの上なく人間らしい生き方のように思う。その試練から逃れた対極には、潔く意識を返上し、誰にも感じられることのない暇にあふれた永遠のソーマの休日へと還っていく選択肢も待っている。

埋め込まれた正義

Using Deep Learning to Create Professional-Level Photographs

深層学習を使って、ストリートビューの画像から
プロレベルの画像を生成する技術についての記事。

深層学習は理由なしに抽象特性を決定していく
プロセスであり、できあがった抽象特性には、
訓練に使用したデータセットに含まれている
正義が埋め込まれる。
この課題で言えば、画像の美しさ(aesthetics)に
関する正義である。
それは、マスメディアが編集方針という正義を
埋め込まざるを得ないのと同じだ。

可視光線に対するバンドパスフィルタのような、
人間の目が元々もっている抽象特性以外の正義が
埋め込まれることには、どことなく抵抗がある。
それは慣れの問題かもしれず、見るものすべてに
そういったフィルタがかかる状態が正常になる
時代も来るのかもしれないが、きっとその時代
には、マスメディアの偏向報道に対する批判と
同じ意見がみられ、一部の人間はフィルタを
捨てることを選択するようになるのだろう。

イメージの自然史

田中純「イメージの自然史」を読んだ。

副題の「天使から貝殻まで」にも表れているように、
人間が抽象するさまざまなイメージを、意味付けに
対応する形態学あるいは理由付けに対応する系譜学
として物語ろうとしている。
系譜学の部分について言えば、それは神話をあつめる
過程とも言える。

「恣意性の神話」を読んだとき、イメージについて、
通信プロトコルに従った情報の落とし込みが完全でない場合、
当該記号はイメージと呼ばれる。
An At a NOA 2017-05-31 “恣意性の神話
ということを書いた。
ある対象を、形態学や系譜学などの何らかの一つの
観点からのみで語り切ることができるのであれば、
それはイメージではなくなるだろう。
形態による示し、あるいは系譜による語りといった、
あるプロトコルだけには落とし込めず、多方面からの
アプローチによってはじめて成立するのがイメージ
と呼ばれるように思う。
メランコリーの両義性やシュルレアリスムによる
「再現=表象としての現実の体験」の提示も、
こういったイメージの特性を反映したものだろう。

「多孔性の科学」という捉え方も、実証科学では語れ
ない「荒れ地」を、実証科学によって開発してしまう
のではなく、実証性から乖離した言説によって共存
させようとするあたりに、イメージらしさがある。
その荒れ地とは、詩と科学、夢想と実証、虚構と現実が
混じり合う波打ち際である。
田中純「イメージの自然史」p.228
そこは、詩や神話と科学が、排他的に自己の境界を
守るのではなく、まったく逆に、両者がダイナミック
に交錯する「無縁」の場である。
同p.248
ベンヤミン=ラツィスの「ナポリ」を引用した
いかなる状況も、そのままずっと続くものとして
出現することはないし、いかなる形姿も、自分が
〈そうでしかありえない〉とは主張しない。
同p.231
という一文が、イメージの多義性がもつ生命らしさを
よく表している。

研究をする一方で設計をし、建築とは直接的には関係ない
本を読みながら、時に合っているのだかわからない喩えで
言葉を綴る。
その感じが、「タラッサ的退行」によって海の中へと
入り込んで発散するのでもなく、陸の内部へと撤退して
固定化するのでもなく、波打ち際で海を眺めている感じに
近いのかもしれない。
その波打ち際が、生命やイメージにも通ずる、「絶え間なく
壊される秩序」、「動的平衡」としての「砂上の楼閣」の
たつ場所である。
忘れてしまっては何も残らない一方で、
忘れることで時間が流れる。
不断に忘れられ続ける世界において、
憶えては忘れるという反復によって、
忘れられることに抗うのが生命である。
An At a NOA 2017-07-14 “不断に忘れられ続ける世界

不断に忘れられ続ける世界

ランダウアーの原理が述べるように、
非可逆な過程によってエントロピーが
増大するが、それは情報の消去であり、
エントロピー増大は忘却と呼べる。

忘れてしまっては何も残らない一方で、
忘れることで時間が流れる。
不断に忘れられ続ける世界において、
憶えては忘れるという反復によって、
忘れられることに抗うのが生命である。

不気味

ゲンロン5でも不気味の話が出てきたが、不気味さ
というのは、ある観点からは近いはずなのに、別の
観点では遠いと感じられることと関係している。
逆に、遠いはずなのに近く感じられるものは
ポジティブに受け取られるように思う。
つまり、理由付けによって遠く離れていくものが
不気味なのだと思われる。

不気味の谷というと、3DCGやロボットの話が
ほとんどだが、人間や国家でも、物理的な距離が
近いのに、コミュニケーションが取れない存在は
不気味である。
距離空間の取り方によらず、何らかの尺度で近い
のに遠く感じられるものは不気味になり得る。

不気味の谷現象は、ある距離まで近づくと不気味
になり、さらに近づいてある点を超えると不気味
でなくなる、と説明されるが、評価軸が一つという
ことはないはずで、外観や動作を精巧にするだけ
で不気味でなくなることはないと思われる。
物理的な距離感と心理的な距離感の二軸に対して
不気味さをプロットしたときに、物理的な距離
だけを縮めた後で心理的な距離を縮めるような
経路を通るから谷に感じられるだけであり、
本来は坂のようになっているのではなかろうか。

不気味さをなくすには、その存在を排除するか、
理由付けの仕方を変えて近く感じられるように
するか、理由付けをやめるかといった方法が
考えられる。
都市では、コミュニケーション不全を常態として
受け入れることで理由付けをやめ、人間同士の
近さを不気味でないものにしている。
逆に田舎では、理由付けの仕方を強制し、物理的な
距離感と心理的な距離感を一致させることで
不気味さを排除しているように見える。
3DCGやロボットに対してはどのような経路で
アプローチするのがよいのだろうか。

2017-07-13

住まい

すまいにいます
住まいに居ます

すまいでいそいでいます
住まいで急いでいます

すまいでいこいこいでいます
住まいで憩い、漕いでいます

すまいでいかをかいでいます
住まいでイカを嗅いでいます

すまいでいぬがぬいでいます
住まいで犬が脱いでいます

すまいでいそのものそいでいます
住まいで磯のもの削いでいます

すまいでいつものもついでいます
住まいでいつものも注いでいます

すまいでいわさしさわいでいます
住まいで岩指し騒いでいます

すまいでいすすでですすいでいます
住まいでイス素手で濯いでいます

白くま

しろくまくろし
白くま黒し

まくろしらないならしろくま
マクロ知らないなら白くま

2017-07-12

数学的と物理的

「数学的に同じ」というのは、ある現象同士が
同じ構造をもっているということであり、
要は同じ見方ができるということだ。

同じかたちの微分方程式でいろいろな物理現象を
表現できるケースのように、物理的に異なるけど
数学的に同じということはよくあって、人間の
抽象能力の高さの現れになっている。

逆に、数学的に異なるけど物理的には同じという
ことはあるんだろうか。
行列力学と波動力学のように、表現は違っても
数学的には同等なものを異なると言わないのだと
すると、これは案外難しいように思う。

数学的に見るというのは、ある現象の特定の構造に
注目し、それ以外の部分を捨象することであるから、
一つの現象に対していろいろな見方ができるという
意味では、そういうケースはいくらでもあると言える。
でも、光の粒子性と波動性という二つの見方が
量子力学として統一されたように、人間には
抽象せずにはいられない性があるように思われる。
「その……、思考の複雑性が、数学を生んだのです」
「単純な思考装置は、物事を単純に考えようとは思わない、
ということですね」
森博嗣「私たちは生きているのか?」p.194
理論物理の世界にいると、不確定性さえも法則になる。
(中略)思うようにならないことは、まだ人知が
及んでいないと信認する。理論を妄信したい。
なにもかも確信したい
森博嗣「デボラ、眠っているのか?」p.236

ニュートラルなマスメディア

結城浩の言いたいことはすごくよくわかるし、
自分もそういうマスメディアがあって欲しいと思う。
だけど、何がニュートラルで何がファクトかとか、
どこから見てバランスがよいと言うのかを決める
こと自体が、既にニュートラルでないのが難しい。

マスメディアは、迅速に情報を伝えるために、元の
情報よりも情報量を絞って発信する必要がある。
その情報量を絞る過程が、編集であり、抽象である。

高次元空間である元の情報を部分空間として近似して
伝達するという意味では、マスメディアを介して情報を
得ることは、部分空間法の一種だと言える。
部分空間を張るための基底がマスメディアの編集方針に
相当し、できるだけ異なる基底で表現された複数の部分
空間を眺めることで、元の高次元空間を想像しやすくなる。
しかし、少ない次元の部分空間しか張れないマスメディアが
多く、さらにそれぞれの基底が同じ方向を向いていると、
部分空間は一向に拡がらない。
一見異なる方向を向いている基底も、真逆を向いている
のであれば同じことだ。
その状況で高いリテラシーを保つのは困難である。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学
リテラシーが高いというのは、抽象を再構成することで
想像された具象と元の具象が、情報として高い一致度を
有するということであり、リテラシーが低いというのは、
全然別の情報をもつ具象を想像してしまうことである。
An At a NOA 2017-04-29 “リテラシー

もしある特定の方法でしか編集しないのであれば、
それが一見どんなにニュートラルに見えたとしても、
「これがニュートラルな編集である」という正義が
埋め込まれるだけである。
ある程度広い部分空間への写像を提供するような
マスメディアがあったとしても、そればかりに
接するというのは、べき乗法のように特定の見方が
強調される結果に収束するように思う。
その状況を偏向と呼ばないのであれば、気付かぬ
うちにユートピア=ディストピアを受け容れている
だけである。
そのことを悪いことだと一蹴することはできないが、
よいことなのかという問いがないのはまずいと思う。

結局、複数の異なる編集を行うマスメディアから
情報を取得することでしか、この問題は解決できない
ように思われる。
できるとすれば、ひとつのマスメディアが複数の編集
方針を使い分けて報道することくらいだろうか。
そういうマスメディアは、これまでだと八方美人とか
ご都合主義とか言われたのかもしれないが、
マスメディアが編集方針という正義をもつべきでない
という時代になるのかもしれない。

貸した

たしかにかした
確かに貸した

だれかにかしたたしかにかれだ
誰かに貸した。確かに彼だ。

2017-07-11

問いと答え

「議論と口論の違いって何だと思う」
「テーマがあるのが議論、ないのが口論、でしょうか」
「テーマのない議論もできるし、テーマのある口論もできるよ」
「じゃあ問いかけがあるのが議論、ないのが口論、というのはどうですか」
「いい観点だね。こういうのを議論って言うんだよ」

問う者同士の通信は議論になり、
問う者と答える者の通信は教育になり、
答える者同士の通信は口論になる。
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「」p.76

2017-07-10

眼差し

眼状紋という模様があるように、眼というのは
そのかたち自体が強烈に意味付けられている。
さらに、眼は理由付けされることで眼差しになり、
眼がない状況においても感じられるものになる。
眼差しとは、物語られた眼である。

壁に耳あり障子に目あり。
障子にあるのが眼差しである。

p.s.
本稿の「眼」は「まなこ」と読むべし。

2017-07-07

指針と信仰

信仰とは、心理的身体に固定化した部分をもつことで行われる
真への短絡であり、同じ正義を共有することで集団が出来上がる。
An At a NOA 2017-06-29 “ゲンロン5
指針がなくては信仰することはできない。
逆に、信仰するところには必ず指針がある。
見落とされがちなのは、信仰と指針は必ずしも同じ
方向を向いている必要はないということだ。

通常は指針が引力としてはたらくことで信仰がついて
くることが多いが、指針が斥力としてはたらくことで、
逆方向への信仰が生まれることもある。
いずれのケースでも、指針なくして信仰すべき方向が
定まらない点では大差ない。

信仰することに慣れきった人間に指針を示させるのは
酷である。
迷走に陥るだろうことは想像に難くない。

2017-07-06

神話と数学

神話という語を広辞苑で引くと、二番目の意味として、
②比喩的に、根拠もないのに、絶対的なものと信じられている事柄。
広辞苑 第六版
というものが載っており、元の意味の神話という語でも、
無根拠性が暗に含まれることが多いように思う。
そうなったのはいつからだろうか。

人間が行ってきた理由付けの共通部分である構造を
抽象したものが神話である。
だから、神話の内容そのものが実際にあったわけでは
ないかもしれないが、元になることが全くなかった
わけではないはずだ。
ことばになったことがらは、物語として読まれると、
ことばの固定的な面に引きずられるが、多くの物語を
抽象した神話として読むことで、固定的でない、
ことがらと同じような含みをもったことばとして
読まれることができる。
神話を個々の物語と同じ態度で読もうとするから、
その無根拠性が気になるのだと思われる。
そのような傾向が、経験科学が広まったことと関係が
あるのだとしたら、経験科学自体もまた同じ問題を
擁していると考えられる。

数学というのは、経験科学におけるその問題を解消
するためのものだと言える。
個々の経験から抽象した構造について物語ることで、
固定的でない、含みをもった体系が可能になる。

数学は一種の神話である。
Math is a sort of myth.
この言葉が、数学なんて生きていく上でなんの役にも
立たないという意味で取られてしまうのであれば、
ここに書いた話は何も伝わらなかったということだ。

2017-07-05

囲碁と将棋と物語

囲碁ではAlphaGo、将棋では藤井四段といった
ニュースが続き、囲碁や将棋が盛り上がっている
のは嬉しいことだ。

特にどちらも上手く指せるわけではないのだが、
大盤解説や感想戦で一手ごとに理由付けをする文化が
ある一方で、対局者はかなり意味付けに近いレベルで
リアルタイムに判断を下していると思われるという、
理由付けと意味付けの狭間で行われている感じが好きだ。
藤井四段が詰将棋を解く速さなんかは、盤面に色がついて
いるように見えるレベルで意味付けされていないと、
達成できないのではないかと思う。

チェスや将棋は囲碁に比べるとAIの発達が先行したが、
それは盤面の広さよりも、やはり駒が動きという物語を
もっていることが、理由付けに基づくAIの実装を容易に
したためではないかと思う。
個々の碁石には物語がなく、碁石同士の位置関係しか
物語ることができないのに対し、将棋駒はそれ単体で
動きという物語をもち、位置関係によっても物語る
ことができる。
だから、コンピュータを駆使した極めて高速な理由付けは、
より多くの物語の筋をもつチェスや将棋と相性がよかった。
囲碁は、すべてを物語ることに固執せず、物語らずとも
「見ればわかる」方へも手をのばし、成功をおさめた。

「見ればわかる」が感じたちょっとした違和感を頼りに、
別の「見ればわかる」につなぎ替えるように物語ることが
できたら最強だろうなと思う。
それは本当は人間ができることのはずだけど、特定の物語に
拘泥したり、物語ることを放棄したり、「見ればわかる」
はずはないと思い込んだり、「見る」ことをしなかったり、
「見ている」ことを忘れたり。
落とし穴はいくらでもあいている。

2017-07-01

茄子

なすですな
茄子ですな。

なすでつくるくつですな
茄子で作る靴ですな。

なすでんがくにくがんですな
茄子田楽、肉眼ですな。