2019-07-28

クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime

国立新美術館でクリスチャン・ボルタンスキー – Lifetimeを観てきた。

吐血しながら咳をする男と人形をなめる男が、えぐるほどの近距離から人間の身体性を刺激するところから始まる。
最初の部屋の展示からは、人生は如何にして痕跡として残し得るかというボルタンスキーの試みを感じる。人間の営みは、写真や衣服、創作物、生きた秒数などの文化的な化石へと圧縮される。
ボルタンスキーの心臓音を聞きながら、ボルタンスキーの顔のカーテンをくぐり抜けて左に曲がると、多くの顔が現れる。最初は少し不気味にも感じたが、モニュメントと題された作品が祭壇やステンドグラスとなって教会を構成しているのだと思って振り返ると、ふいにその前の空間が広場のように感じられ、整然と並んだ多くの顔は追悼碑のように見えてくる。ある特定の配置へと圧縮された教会や広場の表象は、文化的な記憶を共有することによって伸張され得る。
幽霊の廊下を抜けた先にはもはや顔は無く、うず高く積まれた古着と、その周囲に立つ声を発する古着が、着ることと話すこともまた人間らしさの一部であることを思い出させる。アニミタス(白)やミステリオスでは、人間の痕跡は風鈴やラッパにまで縮減されており、その痕跡すら、今はもうないのかもしれない。だんだんと儚くなっていく人間の痕跡を、人間が鑑賞しているという実感。

顔、古着、心臓音、声、映像。いつかどこかで存在(present)した何かが、時空間上の隔たった位置において、不完全な複製として再現(represent)される。熱力学第二法則に従って高まっていくその不完全性を埋めるのは、記憶であり、物語であり、神話である。アウラは、その埋めている感覚から生まれるのではないだろうか。
生というプロセスの渦巻く情報の海において、物理的な近さの有限性を知りつつも、離れたところにある生との距離を縮める別の方法を模索するところに、人間らしさがあるのかもしれない。

2019-07-16

Child's days memory

浜辺の遅い午後。時刻は15時半から16時ほど。日中の刺々しい日射が次第に丸みを帯びてきたという情報が、先ずは皮膚を通して伝わり始めている。眼がそのことに気付くのは、もうしばらく先のことだ。
既に波打ち際とは距離をとり、時代遅れのカラフルなパラソルの下に腰掛けながら、視線は漠然と海に向かっている。そこは、ついさっきまで遊んでいたけれど、戻るのが億劫になってしまった場所。今はもう、遠くから眺めるのが精一杯になってしまった場所だ。
視線の中の人や波や雲の動きに合わせて、そこに自分がいると仮定した場合のシミュレーションが走る。シミュレーション結果には、日中に身体が蓄積したデータに由来する偏りが不可避的に混入するため、結果自体を万人に敷衍するのは難しいだろう。しかし、手法としては敷衍可能かもしれない。グローバルな手法のローカルな適用。データセットと切り離せない深層学習結果。その結果として現れる偏りこそ、記憶と呼ぶべきものだろう。そして、解消不能な偏りが全身を覆っていくというのが、大人になることの一側面なのだろう。云々。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか太陽が沈み始めている。「沈む」というのは、地球平面説的で天動説的な表現な気がしなくもないが、それが一番しっくりくるくらいには、この二つの近似モデルは直観的だ。一次的と表現してもよい。太陽とともに、浜辺からも人影が姿を消した黄昏の中で、思考はぐるぐると回りながら、一つの偏りへの収束を束の間免れている。

2019-07-14

ムットーニ

世田谷文学館でムットーニコレクションを見た。

人形劇。音楽。照明。朗読の声。
すべてがコントロールされた円環的なメカニズムでありながら、人が見ることでオーガニズムになる。パンフレットに「見る人の数だけ物語がある」と謳われ、荒俣宏に「機械や星の冷たい夢でしか癒されない人たちのための暗い玩具箱」と評されたムットーニにおいては、メカニズムとオーガニズムが絶妙にバランスしているように思う。

レイ・ブラッドベリの「万華鏡」を題材にした、「アローン・ランデブー」という作品が好きだ。
宇宙飛行士が大気圏に突入して流れ星になる瞬間、地上では子どもが願いを込めている。重力場に為す術なく一つの秩序が解体されていく過程が、希望を与える別の秩序として認識されるというデュアルな情景を、人形劇と音楽と照明と声とが、奇跡的なバランスで想像させてくれる。

オーディオブックにはいまいち馴染めないと思っていたが、逐語訳的な情景描写ではなく、意訳的で簡潔な情景描写をする機構と組み合わせるのは、結構いいかもしれない。

p.s.
この作品に感動して涙が出たと話したらピュアだと言われたが、感動とは主体と客体の関係がピュアになることを言うのだと思う。主体というモデルと客体という対象が同期することで、両者がコヒーレントな状態に陥ることが「感じる」であり、感じることによって差異が消失する過程が「感動」である。そしておそらく、感動の大きさとは、消失する差異の大きさを意味するのだと思われる。主体や客体がシンプルであるよりもコンプレックスであるほうが、感動に至るのは難しいけれど、達成される感動は大きい。



2019-07-10

神話と深層学習

An At a NOA 2018-06-25 “実証的モデル”で、神話と科学の共通点について書いた。一方で、神話は抽象され過ぎているために、現実に起きたこととは考えづらいことも多く、具体的な対象との関連が容易には読み取れない。

その点では、神話はむしろ深層学習に近いようにも思われる。神話を、人間の各世代からなる隠れ層が無数に連なった深層学習の出力結果とみなすことは、どのくらい妥当だろうか。

人間の棋士がAlpha Goの一手を理解しようとする過程は、神話学の変種ということになる。集合的無意識と神話の類似性も、このあたりから理解することができるだろうか。

王道

royalの語源は*reg-="move in a straight line"であるから、王道Royal roadは真っ直ぐであることに本質があるように思う。つまり、王道は一次近似に通ずる。*reg-に由来する、regular, rich, right, ruleも同様である。

中文Wikipediaの「王道 (儒家思想)」のページの「起源與轉化」には、「王」は元々斧の形を表す甲骨文字で、当初は統治者の刑罰権を象徴していたが、次第に理想的な統治を意味するように転化していったとある。斧の刃で切ったような真っ直ぐな一次近似が、次第に理想へと転じていく様には、どことなくユートピア=ディストピア感を覚える。

維持を象徴するとされるヴィシュヌの6番目のアヴァターラ、パラシュラーマが持っているのも斧であった。

2019-07-09

名付けられぬ逸脱

マジョリティとは、特定の観測点からみた集合の一次近似であり、一次近似による単純化の写像をまとめたものが常識である。観測点の周囲だけであれば十分よい近似になるが、空間軸や時間軸に沿って離れるほど、基本的には近似の精度は悪化していく。

近似への高次項の付加は、マイノリティを認識することによる常識の拡張であり、それは近似精度の向上をもたらす。しかし、近似されたモデルと元の集合の差異は解消するとは限らず、モデルは際限なく複雑さを増していく反面、モデルからの逸脱はいつまでも残り続ける。LGBTTQQIAAPの文字列は、どこまで長くなれば性的指向のMECEなモデルが完成するだろうか。それが完成するという発想そのものが、近代的なマジョリティの信念であるようにも思う。

名付けられぬ逸脱を捉えるためには、結局、その逸脱に近づくしかないのかもしれない。それは、常識を拡げるというより、元の常識にとっては逸脱である観測点の近傍で形成される別の常識とのデュアルスタンダードを生きる、というイメージに近い。究極的には天才の所業であるかもしれないが、それは近代的な個人であることにすがろうとするからなのだろう。

時空の遥か彼方までを一つのモデルmodelで大域的に近似できるというのは、モードmodeの時代たる近代modernの基本前提であったが、単一のモデルの複雑化だけで解決しようとする代わりに、観測点の異なる複数のモデルをもつようになっていくだろうか。
そのとき、個人の、民族の、国家の、人類の同一性identityは、どのように維持されるだろうか。

2019-07-02

理想と現実

複数の理想のオーヴァラップが現実であるから、一つの理想を基準に取ると、現実は理想とはかけ離れた不純なものに映る。

「何もしない」という現状維持の傾向もまた、重層する理想の一つであろう。それは通常は理想とはみなされないが、数ある理想のうち、エネルギー的には最も有利であり、卓越していることも多いように思う。

抽象的には、最小作用の原理ということだ。
これは極めて自然な理想であり、それとは異なる理想が卓越した現実を実現するのが、つまりは人工である。

人工を突き詰めると、極限では、現状維持が実現するものとは別の純な現実に漸近するが、時間・空間的に不変・普遍化した純な現実ほど恐ろしいものはない。

自然であれ、人工であれ、純な現実は局所的に実現するくらいが丁度よい。