随想録

まえがき


絶対不変の真理は存在しないと私は考える。

真理とは、ある集団において、通信をとおして成立していく
コンセンサスのことを言うのであり、常に通信が先行する。

この考えもまた、絶対不変の真理であることは不可能だが、
これを読み、考え、発信と受信を繰り返す中で、真理として
形成していくことは可能である。
もちろん、それは通信を行った集団の中においてのみである。

錦の御旗を掲げる正義ほど危ういものはない。
常に前提条件を確認せよ。
正義は気付かぬうちに侵入している。

私なるもの


「まえがき」の一文目において、考えると言った私とは何者か。
まずは無意識と言われるものについて。

人間の身体はセンサの複合体だとみなすことができる。
各センサに対して情報が入力され、その情報は神経系という
回路において共有される。
各センサへの入力情報だけでなく、そのセンサの位置や方向
といった情報もまた、その回路内で共有される。

情報には元来、意味が付随しないと思われるが、大量の情報を
処理する過程で特徴抽出を行うことは可能であり、
ディープラーニングの成果によれば、その過程は自動化できる。
それを「意味付け」と呼ぶことにする。

センサへの入力情報およびセンサ自体の位置や方向の情報、
それも単一のセンサでなく、複数のセンサの情報を共有した状態で、
意味付けによりそれらを統合すること。
それが無意識であると考えられる。

では、意識とは


無意識によってもかなりの判断が下せるはずであり、それは
本能的と分類される判断に相当する。しかし、「大量の情報」が
ない場合には、こうした意味付けによる判断ができない。
この判断不能という状況を回避するための手段が「理由付け」である。

脳というプロセッサ兼メモリの性能が上がり、情報のバッファ領域が
拡がることで理由付けが可能になる。
それにより新しい種類の判断を行えるようになることが、
生命を維持する上で有利になっているのは間違いない。

この理由付けの過程のことを、意識は意識として意識する。
こうして意識は理由律の呪縛と付き合わざるを得なくなる。

「人間には意識を実装する必要があった」あるいは「人間は無意味で
あることに耐えられない」という伊藤計劃の慧眼に恐れ入る。

無意識も意識も、どこかに存在する何かではない。
コンセンサスという語がcon-sensus=知覚の共有のことなのだとすれば、
無意識も意識も、一つの人体の中で常に生じているコンセンサスのことである。

同一性の問題


特徴抽出における最大の問題は、同一性の問題である。
ある情報と別の情報を、何をもって同一とみなすかはセンサの特性に
大きな影響を受ける。
その点で、あらゆる論理演算の中でXORあるいはXNORが重要になるに違いない。

意味付けには必ずその裏に、ある同一性という正義が埋め込まれる。
その枠組みの中から正義を暴くための「驚異の定理」は存在するだろうか。

現実


現実とは、このようにして身体の中にモデル化される対象となる情報のことである。

その実在性について理由付けを行うのは困難であるが、すべてが意識の中で
処理される現象に過ぎないと考えるよりは、情報も、それを受け取るセンサも実在し、
受け取った情報に意味付けと理由付けを施すことで得られるコンセンサスを
意識とみなしていると考えるほうが健全だと思われる。

VR、そしてAI


VR=Virtual RealityとAI=Artificial Intelligenceは、同一の問題への
異なるアプローチだと思われる。

VRが、センサを固定し、入力情報をパラメタとしているのに対し、
AIは、入力情報を固定し、センサをパラメタとしている。
いずれも、入力情報とセンサからなる系の構造を抽象することを目的と
している点では同じである。

AIにVRを体験させたらどうなるだろうか。
現実が、一連の情報から構築されるものだとすれば、Virtualの各パターン毎に、
それをRealityとして再構築することが可能だと考えられる。
人間もかなり可塑性が高いが、年齢とともに固定化していく。
AIの場合、ハードウェアの可塑性を如何に担保するかという技術的な問題はあるものの、
人間に比べるとはるかに高い可塑性を実現可能だと考えられる。

自然


自然やnatureという単語は、実にいろいろな意味で用いられる。
それを抽象すると、自然とは、意識の不在である、と言える。

ブラックボックス


AI実現へのアプローチとしてディープラーニングが示したのは、
理由付けに対する意味付けの圧倒的な優位性である。

あらゆる判断は理由付けなしに、つまり自然に行うことが最も高速で
正確なものになり得る。
そこに、人間が理解できるかたちでの理屈や理論は存在しない。
しかし、それは人間が人の顔を見たときに、何故それを人の顔として
見ているのかを完全には理解していないのと同じことである。

完全なブラックボックスはいつか自然と同一視されるはずだ。
AIによる人間への影響は、自然環境によるそれと同じものに収束し、
恩恵あるいは災害と呼ぶことが適切になるだろう。
もしそう呼ばないのだとしたら、それは慣れの問題だけである。

こうして手に入れたブラックボックスが自然環境と唯一異なる点は、
より少ないコストで多数回の経験を積むことができる点である。
それは、理由付けするにあたって大いなるアドバンテージとなるはずだ。
もしその時点でも理由付けを必要としているのであればの話だが。

集団


複数の人間が集まり、集団を形成する。
そこでは、一つの人体の中と同じように、コンセンサスをとおして真理が
形成される。
集団を抜きに真理が存在しないのと同程度に、真理の共有なしには
集団は存続できない。
人間が宗教や科学を生み出すのは極めて自然なことのように思われる。

言語


異なる人体同士の間では様々な通信手段が用いられるが、他の動物等と
比較して最も特徴的なものが言語だろう。

意味付けと違い、理由付けを行う場合には、情報を概念というかたちで
まとめる必要があると思われる。
言語抜きでも概念は形成し得るが、パターンの多さとクラスタリングの
明確さにおいて、言語に勝るものはない。
言語を核として概念を結集させる過程は、雪が結晶化するそれに似ている。

そうして形成されていく言語により、人間は自らの内側に、
任意の遅延をとった上で外部からの入力情報を再現し、
それを再び外部に出力することも可能になる。

言語は、コンセンサスを形成するのに用いられると同時に、それ自身に関する
コンセンサスもまた、通信する度に更新されていく。

社会


少なくとも近代以降、個人という概念が発生すると同時に、社会は個人の
集団であるとみなすことが一般的になっている。
いずれもコンセンサスの得られる様を実体化した概念であるが、
あまりにその実体化が行き過ぎ、両者の線引きを頑なに行おうとした結果が、
個人主義や社会主義の諸問題を生んでいるのではないか。
この点では、西も東も、右も左も、五十歩百歩であるように思われる。

宗教と科学


宗教も科学も説明の集合体である。
いずれも理由付けによるものという点で、極めて意識的な営為である。

宗教は、神という抽象された原因をおくことで、あらゆる説明の原点とした。
科学は、コンセンサスによって得られる真理を、可能な限り遠くにおくことで、
宗教への対抗を体現している。

神という大いなる原因は、どれだけ近くにあっても疑いなく真である。
その点で、真理とはコンセンサスによって形成されるという点をよく表している。
しかし、そのコンセンサスは、コンセンサスと呼ぶにはあまりに揺るぎない。

一方、科学的真理は、あまりに遠くにおかれたことで、絶対不変の真理が
存在するという誤解をもたらしやすくなってしまった。

労働


勤労の美徳というものは、仕事をすることがよいことだという正義を掲げないと
人間社会が成立しなかった時代の名残に、いつかなっていく。

そういった方向に変化するかどうかは、技術的な問題よりも、人間自身の問題の
方が遥かに大きい。

あらゆる変化のボトルネックは人間だった。
それは、予測可能性を最大限に持続させようとする意識の特性によるところが大きい。

労働の機械化が進み、ベーシックインカムによって生活ができるような時代がきて、
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、
人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。

何もしなくても生きていける世界で、それでも判断機構としての意識を維持することが
どれほど困難を極めるか、想像できるだろうか。

それはかつて痴呆症と呼ばれ、今は認知症と呼ばれている問題に他ならない。

生命


生きることがエントロピーの増加への抵抗なのだとすれば、
意味付けや理由付けによりコンセンサスを形成し、情報の自由度を下げること自体、
生きることそのものだとも言える。

果たして、生命を維持するために情報に意味付けをし始めたのだろうか、
それとも、情報に意味付けをし始めることで、生き始めたのだろうか。

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