2018-05-20

西部邁 自死について

富岡幸一郎編「西部邁 自死について」を読んだ。

仮説の形成と棄却の連鎖が織り成す精神という過程。
消化、吸収、代謝の連鎖が織り成す肉体という過程。
二つの過程はそれぞれに生命であるとみなせるが、両者がほとんど一蓮托生と言えるまでに混淆しているのが人間である。

しかしそこには、肉体が死ねば精神も死ぬのに対し、精神が死んでも肉体は死なないという違いがあり、精神と肉体は完全には一蓮托生ではない。その一蓮托生の不完全性をどのように捉えるかは、精神にとっての一大事であり、西部邁の思想、あるいはその表明としての自裁は、単なる精神への礼賛ということではなく、精神と肉体の一蓮托生を完遂することに人間の条件を見出すものだと思われる。

近代以降、肉体の代謝が無限に思えるほど長期化するにつれて、一蓮托生の不完全性の影響は増しているにも関わらず、専門人の烏合の衆となった近代的大衆人の精神は、各々が限られた対象と限られた発想だけに拘泥することで代謝が低下し、それについて考えることのできる精神が少なくなっている。個人レベルだけでなく、集団レベルにおいても、精神と肉体の一蓮托生が、肉体の側から一方的に解消される危機にあると言えるだろう。その極限には、精神が死に絶え、肉体だけが無限に生き延びるというディストピアが待っている。

一蓮托生の行く末の他の選択肢としては、精神と肉体の複製技術が発達し、ハードウェアからハードウェアへとソフトウェアを移植するように、精神を別の肉体へと移植できるようになることで、一蓮托生が双方から解消されるという可能性もある。精神にとっては肉体のドラスティックな代謝であり、肉体にとっては精神のドラスティックな代謝であるともみなせるが、それはつまり、マクロな不連続性をマクロな連続性で覆ったものを生命とみなすということであり、ミクロな不連続性をマクロな連続性で包んだものを生命とみなす現在の感覚からすると、大いに違和感を覚えるものであるように思う。

見ようによっては、あらゆる過程の連続性は、不連続に取得するデータに対して微分可能な解釈を与えることで仮想されているとも言えるが、そのような理解が普及すれば、もはや誕生や死の不連続性すら連続なものとして縫合されるような時代も来るのかもしれない。その時代においてこそ、永続しかねない連続性に対して不連続性を与えることが、思想の表明として効果的になるのだと想像される。

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