2018-10-31

uuu

うずく
うつす
うつる
うるむ
くくる
くぐる
ぐぐる
くずす
くすむ
ぐずる
くゆる
くるう
くるむ
すくう
すくむ
すすぐ
すすむ
すずむ
すする
つぐむ
つくる
つつく
つづく
つつむ
つづる
つむる
つるす
つるむ
ぬぐう
ぬくむ
ぬすむ
ふくむ
ふるう
むくる
ゆすぐ
ゆする
ゆずる
ゆるぐ
ゆるす
ゆるむ

2018-10-23

人間のように泣いたのか?

森博嗣「人間のように泣いたのか?」を読んだ。

人間の形をしていたり、有機体でできていたり、血を流したり、汗を流したり、涙を流したり、理由を気にしたり。人間というカテゴリの境界は、人間が自分自身と同じと認めることによって決まっていくため、どうしても「人間の形」や「有機体」のように、自己言及が多くなってしまう。究極的には、「人の人たるは、人を人とす」だ。

予め想定していなかった事態への発作的な応答を、「泣く」と表現するのであれば、Bサイドの攻撃も、マガタの一人笑いも、ウグイの涙と同じだろう。それが「人間のよう」であるかの判断の決め手は、応答内容に対して自ら理由付けするか否かだろうか。

Wシリーズはこれで完結。この物語自体が、厨房から出された料理だ。一流の料理人は、料理が冷めないかを一瞬気にして、ぼんやりと月夜の空を眺めているだろうか。

かき氷シロップ

かき氷シロップが全部同じ味という話は、味覚というセンサが視覚や嗅覚などの他のセンサと独立に機能するという発想に基づいているように思う。

そもそもシロップ自体が、イチゴやメロンといったものから、視覚の大部分や触覚を捨象し、風味だけを抽象しようとするものであるから、シロップを作ろうという立場も、それらは全て味覚的には同じだとする立場も、大同小異であると言える。

センサ間に成立するコンセンサスのことを現実と呼ぶならば、近代の要素還元主義は、一つの物理的身体に備わる多種類のセンサがつくり出す現実に加え、複数の物理的身体に備わる一種類のセンサがつくり出す現実を発展させることを可能にした。

この新しい現実はVRと呼ばれる。かき氷シロップもVRの一種だ。

2018-10-19

醍醐味

粗大ごみには醍醐味がある。

2018-10-17

諸悪の根源

超システムの機能不全である老化現象に唯一の本質的な原因がないことを指して、多田富雄は「むいてもむいても芯の出ないラッキョウの皮のような印象を与える」と書いていた。

あらゆる存在が可塑的な超システムであるとすれば、唯一の本質的な原因なるものは、認識することで可塑性を削がれてしまった超システムの抜け殻にしか含まれない。

「諸悪の根源」という発想は、抜け殻だけを相手にしている間しか有効でない。いつか、諸善の根源であった神が死んだのと同じ意味で、諸悪の根源が死んだと言われる日が来るだろうか。

免疫の意味論

多田富雄「免疫の意味論」を読んだ。

免疫系という判断機構による是と非の振り分けは、多義的で曖昧で冗長な仕組みに支えられている。ランダムな変異の中で次第に生じる判断の偏りは、洗練された一つのまとまりをなしていくと同時に、固定化を免れるようにして、常に変容し続ける。免疫系を境界として現れる物理的身体の「自己」は、そのような可塑性をもつ超システムとして振る舞う。

超システムは、柔軟であるが故に不安定でもあり、メンバーの多様性、エレメントの自己言及的な補充可能性、メンバー同士の相互調節できる関係性といったものが一つでも欠ければ途端に破滅に至る。是への非が止まらなくなる老化、是と非の判断がなされなくなるエイズ、是非への過剰な固執によるアレルギーといった超システムの機能不全は、意識、言語、都市、国家などの他の超システムでも、認知症やポピュリズムなどのかたちで顕在化しつつあるように思われる。

超システムという発想に立てば、確固たる「自己」というのは、認識論的には成立しても、存在論的には成立しない。むしろ、あらゆるものが可塑的な超システムとして存在する中で、可塑性を無視した第一近似によって情報を大幅に圧縮するのが認識という過程であり、その最たる例が、意識による理解なのかもしれない。

何かを理解するにはその近似も必要なのだろうが、固定化と発散の間で生成される超システムを殺してしまわぬように、理解の仕方もまた超システムたらんとしなければならない。

2018-10-15

ザ・スクエア

リューベン・オストルンド「ザ・スクエア」を観た。

ザ・スクエアは、失くした時に顕になるのか。あるいは、暴かれることで失われるのか。

いずれにせよ、大いなる唯一のザ・スクエアを失くした時代においては、それを取り戻そうとする行為と、それを取り壊そうとする行為の、いずれもが同様に通信不全をもたらす。

ザ・スクエアなしに通信可能性を手に入れるには、その時、その場所で、その人々が、それぞれのア・スクエアをつくる他ない。

クロノスだと思い込んでいたものが、カイロスであったことを思い出さなければならない。

2018-10-07

見知らぬものと出会う

木村大治「見知らぬものと出会う」を読んだ。

直接コミュニケーションを取って判断基準を共有することを「見知る」と表現すると、文明とは、見知らぬ人間同士が間接的に判断基準を共有することで密集した状態だと言える。
An At a NOA 2018-06-14 “文明
判断基準という規則性を共有していないもの同士が通信を始めるには、通信可能性の取っ掛かりを探るための投機的な跳躍が必要とされる。その跳躍が滑らかに接続されるソフトランディングの過程が、つまりは「出会い」である。

一方で、一度確立されたと思った通信可能性も、固定化してしまえば逆に通信を不要にしてしまい、通信が継続するには、通信不能にならない範囲での規則性の変化をもたらす応答可能性も必要になる。

通信可能性と応答可能性の狭間で規則性が変化することが、規則性の探索を内向きにも外向きにも困難にし、アルゴリズム的複雑性を計算不能にする。それはつまり、dataとinformationの違いだろう。むしろ、その状況において、当座の解を投機的に決めてしまい、不具合があれば随時更新していくのが本来の姿であり、その過程を形容するのが「正しい」という言葉であるはずだ。

規則性の探索やアルゴリズム的複雑性の計算が可能だとするのは、唯一普遍の「正しい」ものが存在し、そこに向かって収束していくことができるという近代的な発想である。その仮定が成立するのは、時間的にも空間的にも有限な集合についてだけであろう。技術の発達とともに、より広範囲の時間や空間と通信できる可能性が生まれつつある中で、もはやその仮定に起因する不整合は隠し切れなくなってきているように思う。

さまざまなプログラムとパターンの階層において、枠=固定化=通信可能性と投射=発散=応答可能性の間で、壊死も瓦解もしないように規則性が変化しながら通信を続けようとする。その「ゲーム」を「なんとかやっていっている」状態こそ、「生きている」ということだ。

家族、友人、外国人、人工知能、宇宙人。相手が何であろうと、その「ゲーム」を続けようとする志向性が、双方の生命を生み出すだろう。
「接触にそなえたまえ」

考える皮膚

港千尋「考える皮膚」を読んだ。

内と外を隔てる境界は、内や外の在り方を決める重要な役割を担っている。人間の身体という内にとっては、皮膚が最大の境界であり、境界侵犯へのアラートである触覚は、内と外の関係にとって最も重要な感覚だと言える。

むしろ、境界を定めることによって内と外の区別が生じることを考えれば、内ありきで境界を重視することすら既に転倒しており、本質は表面にあるということなのだろう。

網膜という小さな境界によって厳然と区切られた精神という内こそが自己であるという近代的な信念にすがったままでは、内と外、あるいは内同士の関係は次第に矮小化し、各々がアリジゴクへと収束していくだろう。

皮膚や情報通信網、あるいは別の新しい「皮膚」における触覚を通じて、内と外の関係の更新が続いてこそ、人間は生きていることになるはずだ。

2018-10-06

衣と住

衣と住の違いの一つとして、「人間がその中から外に出るときに、それを動かして出るものが衣、それを動かさずに出るものが住」というものが考えられる。

この違いを採用した場合、テントは住よりも衣に近いと言える。逆に、大掛かりで重たい着ぐるみは衣よりも住に近いことになる。

そう考えるとむしろ、「それの形状を維持するための構造として、人間の身体を要するものが衣、要しないものが住」の方がよいのかもしれない。

2018-10-01

流れとよどみ

大森荘蔵「流れとよどみ」を読んだ。

よどみが流れの中にあり、よどみと流れは異なっていながら、両者の境界を確定できない
An At a NOA 2018-01-24 “人新世の哲学
流れているところとよどんでいるところ。その区別をしないではいられないことを、「人間は無意味であることに耐えられない」と伊藤計劃は表現した。

その区別の仕方に唯一真なるものがあるという信念から生まれた二元論は、その信念自体が枷となり、ひたすらによどみの内へ内へと向かいながら、デカルトやラッセルの陥穽に収束せざるを得ない。

流れとよどみの区別を固定化することに執着することなく、様々な区別がそれぞれに変化しながら重ね描きされることで、一元論的な世界が百面相に立ち現れるとみなす。それこそが、生きているということだろう。

そのような意味で生きた世界であれば、いつかロボットと人間を同じよどみとみなす区別が現れる日も来るだろうか。
理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のようにみえるだろう。
(中略)
他の人間の意識を意識として受け入れられるのは、単に自分と同じカテゴリとして判断しているからに過ぎない。
(中略)
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、いつかは意識として受け入れられることになるだろう。それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことになると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “