2018-02-28

酒盛

酒を飲んでは言葉を交わし
歌を歌っては声を枯らし
そうして何年過ごしてきたか

日々の死が生をなすように
忘れ去られた瑣末なことが
この思い出をなしている

今日もまた飲んで歌って忘れよう
いつかもう死を重ねなくなった日に
忘れがたき日々を残すために

名付ける

數學とは、異なった事柄に同一の名稱を與える技術である
アンリ・ポアンカレ「科学と方法」p.37
受け取った情報の中に見出した類似性を、同じであるとみなすことが名付けであり、名付けることで、新たな同一性が誕生する。そこには、類似から同一への単純化がある。

名付けとは、割り算の除数を新たに設定することで商としての対象を生み出す、極めて数学的な過程である。

人間以外の動物は、あるいは人工知能は、名付けることができるだろうか。そもそも名付けを必要とするだろうか。

2018-02-27

勤労の美徳

過労死を放置するような使用者には、管理能力が足りていないか管理している認識がない可能性があるので、他人の仕事を管理する側にいない方がよいと思うが、管理を目指した結果が過労死するほどの労働時間をもたらすのだとすれば、それは全体として人間が働き過ぎなのだ。

勤労の美徳は、ときに虐殺器官となる。

読書時間

第53回学生生活実態調査の概要報告

読書時間0分の割合がこれだけ増えていると、何か有意な理由があるのではないかと想像してしまうのが人間というものだ。

コミュニケーションは、言語や常識、慣習など、「何を同じとみなすか」の判断基準に、暗黙のうちに支えられている。情報伝達網が変化すると、バランスを取るかのように、共有される判断基準も変化する。

送信チャンネルが限られている割に膨大な受信チャンネルが存在する情報伝達網においては、少数の判断基準によって編集された情報の大量複製としてのマスコミュニケーションが、判断基準の共有の権化であった。書籍、雑誌、新聞、テレビ、映画、ラジオは、いずれもが同じ情報を知っている多数の人間を生み出す装置だった。

受信チャンネルと同じだけの送信チャンネルが存在可能なように情報伝達網が変化した結果、同じ判断基準を共有するものだけで集まるという、マスコミュニケーション以外の判断基準の共有方法が誕生した。この共有方法は、送信と受信のチャンネル数の平衡が取れている情報伝達網では容易に行なえ、マスコミュニケーションより遥かに昔から存在しているが、物理的な実体に起因する制限が減ったのがこの数十年の成果だろう。

マスコミュニケーションの媒体は、いずれもがそれ自体娯楽のための媒体として存在し続けると思うが、それは数ある送信チャンネルの一つとしてである。送受信のバランスが再び崩れない限り、かつて謳歌したような青春は戻らないように思う。

2018-02-26

労働の裁量

裁量労働制やホワイトカラーエグゼンプションに関して疑問なのは、仕事の管理における労働者側と使用者側のバランスが変化することについて、双方がどのようなイメージをもっているのかだ。

個々の仕事にかける時間や手間や、結果の質、それに対する報酬などの管理にはコストがかかるし、技術と責任が必要になる。管理職の給与が高いのは、管理の対価であるはずだ。

管理が部分的にでも使用者側から労働者側に移れば、使用者側の管理コストが減る分、労働者側の報酬が増える代わりに、労働者側には経営能力と経営責任が求められることになる。

もちろんこれは一つの理想化した状況であるが、管理バランスの変化のイメージが抜けた議論にあまり意味があるように思えない。

思った通り

人工や技術は、「思った通り」を実現することだと思うが、それだけではつまらない。

思った通りにできるのはよいとしても、思った通りのものができるのであれば、もはややる必要がない。シミュレーションで十分だ。

局所的な再現性の高さと、大域的な再現性の低さが、「思った通り」からのズレを生み、芸術となるのだろう。

大域的には複雑な抽象過程も、局所的には単純な抽象過程で近似し得る。それは、曲線に接線を引くのと同じである。よりパラメタの少ない接空間tangent spaceで対象に触れるtangereことが理解することであり、あらゆる理解は多かれ少なかれ割り算による単純化を含んでいる。認識による把握もまた同じだ。

局所での単純化を大域に拡げることによって、芸術は技術へと堕する。その一方でまた、芸術が伝わるためには、接線を引けることが、つまりは微分可能であることが必要なのだろう。芸術の微分可能性は、技術に支えられている。

思うことによって得られるものもあれば、思うことによって失われるものもある。理由付けは、やってみてわかったことから逃れることと、やらなくてもわかることに逃れることの両方に開かれている。

構図

写真を撮るときには、ファインダーを覗く前、あるいはシャッターを切る前に、露出、焦点距離など、いろいろなものを想像するが、一番楽しいのは構図だ。

それは、今立っている視点とは別の判断基準の可能性を探る行為である。

2018-02-25

世界は上手くできている

世界は上手くできているという判断の基準は、その当の世界の情報を元にして形成されている。世界がどんなものであろうと、その情報を元に学習して形成された判断基準に従って判断する抽象機関にとっては、世界は上手くできていると感じられるのではないか。

判断基準とは、受け取った情報に対する判断の履歴が作り出す、判断の偏りのことである。それは、これまでもこれからも変化するものであるはずだが、変化は忘却されやすい。

これまでの変化の忘却は世界五分前仮説へ、これからの変化の忘却は決定論へと繋がる。

生者の前に死者がいたことが、
生者が後に死者になることが、
忘れ去られることのなきよう。

2018-02-23

赤目姫の潮解

森博嗣「赤目姫の潮解」を読んだ。

これは抽象についての話だ。
抽象的な話ではなく、
抽象についての話。
「認識」も「理解」も、
ある基準に沿った抽象であり、
その基準はいつも変化している。
今のままでよいというこだわりと、
今のままではだめだという憧れ
のなす固定化と発散の間で、
判断基準を変えながら
抽象し続けるのが、
更新される秩序
=生命である。
判断基準は、
慣習や常識、
宗教や科学など、
様々なものに縛られ、
判断基準の変化しづらさが
粘性を生み出すことによって、
個の集合はより大きな個となる。
その粘性に固執してしまうのが
凡才の凡才たる所以であり、
天才の天才たる所以は、
データを無にして、
いつでも胎児に
戻れるという
判断基準の
柔軟さ、
つまりは
無邪気さにある。
壊死と瓦解の間で、
除数を変えつつ
割り直せる。
そういう
存在に
わたしは
なりたい。
わたし
とは

2018-02-22

血か、死か、無か?

森博嗣「血か、死か、無か?」を読んだ。

細胞や国民が日々入れ替わっても、個人や国家は同じものとして認識され続ける。あるレイヤの個の同一性にとっては、それよりも低レイヤの個の同一性は問題にならないという特徴が、意識による抽象にはあるのだろう。

クローン、頭部を移植した存在、冷凍保存から蘇生した存在、直接会ったことのない存在、トランスファのように物理的身体をもたない存在。これらの同一性をもたらす基準はなんだろうか。それはつまり、こういった存在は、如何にして存在しなくなったことになるのかという問いと同じだろう。

ジュラ・スホ、マイカ・ジュク、サエバ・ミチル、マガタ・シキ。表面上の姿は変えつつも、100年単位で存続している存在を同一視することと、毎日顔を合わせている知り合いや自分自身を同一視することの間には、何か違うところがあるだろうか。

寿命がのびて、入力される情報が増えれば増えるほど、同一視の基準となる割り算の除数を大きくしなければいけないのかもしれない。いつでも除数を自在に設定し、駱駝にすらなれるのが、天才の天才たる所以だろう。

2018-02-21

同人と類人

同人誌はあるけど、類人誌はない。類人猿はいるけど、同人猿はいない。

類人猿をHominoideaだとすれば、同人猿はHomoだろうか。普通は人類と呼ばれるものだ。sameを意味する接頭辞のhomo-と、humanを意味する名詞のhomoの関係については不明だが、人間は自分自身と同じ存在を人間とみなすということは言えるかもしれない。

類人誌はどのくらいの趣味嗜好の幅をもてるだろうか。あるいはそれはいつまで同人誌にならずにいられるだろうか。

ὁμόςとὅμοιος。ホメオスタシスは、homeoであって、homoではない(対義語はヘテレオスタシス?)。如何にしてhomoに回収されずに、homeoに留まるか。

より多くのものを同じとみなそうとする抽象化への傾向が、常に存在する。大きい除数で割られた世界は、矮小化した分、把握しやすいのかもしれない。
人間たちは、観察する時間が短ければ短いだけ、それだけたがいに似てくるものだ――そのきわみには、瞬間的には彼らは区別がつかない。
(中略)
類似そのものが同一性にまで増大してしまうのは、彼らの情動の激しさに由来する
ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」p.142

2018-02-20

ニクソン・ショック

ドルが金との兌換を停止して久しいが、中央銀行によって金の「固さ」は埋め合わされ、瓦解するようなハイパーインフレは起きていない。既存の通貨との兌換を停止した暗号通貨が乱高下を免れるには、「固さ」を埋め合わせる仕組みが必要になるのだろう。金との兌換がもはや意識されないように、かつて「固さ」を担保していたものは、いずれ忘れられていくように思うが、次のものが現れない限りは、いつまでも残り続ける。

意識もまた、貨幣と同じように、慣習や神様、科学的真理など、人それぞれ、その時々に応じていろいろな「中央銀行」に支えられているが、そもそもの始めは、何かとの兌換によって形成されるのだろうと想像される。意識は、生まれつつあるときに「固さ」をもたらしてくれた何かのことを、親と呼ぶのだろう。

それぞれの個人にとってのニクソン・ショックは、いつ頃だっただろうか。あるいは、人類にとってはどうだっただろうか。いずれにとっても、それは徐々に起きるのだろうし、相対的なものなのだろう。

現在の通貨や意識よりも、よりvirtualな通貨や意識は、どちらが先に通用するだろうか。言葉の「固さ」に頼れる分、意識の方が先だろうという見方もできるかもしれない。

生物学的な親が不要になった時代には、日本語や英語のことを「親」と呼ぶようなこともあるだろうか。

2018-02-18

flesh

身体bodyは、抽象過程を意味する
An At a NOA 2016-11-18 “身体
抽象過程は、抽象前後のエントロピー差によって、内と外の区別を生み出す。

それと同時に生じる内と外の境界のことを、fleshと呼ぶのだろうか。

2018-02-15

じゃんけん

じゃんけんであいこにならないのは、出された手がちょうど2種類のときである。手の出し方は全部で3^n通りで、手がちょうど2つになる出し方は3×(2^n-2)通りなので、n人でじゃんけんすると、あいこになる確率は、Draw(n)=1-(2^n-2)/3^(n-1)になる。あいこにならない場合、出された手をすべて反対にすると勝ち負けがひっくり返るので、勝つ確率と負ける確率は同じで、Win(n)=Lose(n)=(2^(n-1)-1)/3^(n-1)だ。

n→∞でDraw(n)→1なので、人数が増えれば増えるほど、じゃんけんで決着がつかなくなる。「キュー」を加えるとしたら、あいこに勝敗をつけるようなルールを設定すると、目的が書きやすいと思う。

「キュー」を含まない手があいこなら「キュー」の勝ちで、あいこでないなら「キュー」以外で普通のじゃんけんとして勝敗をつけるというルールを考える。全員「キュー」ならあいこ、一人だけ「グ|チ|パ」ならその人の一人勝ちとする。

n人でじゃんけんしていて、n-m人が「キュー」を出すと、「キュー」の勝率は、Draw(m)=1-(2^m-2)/3^(m-1)、「グ|チ|パ」の勝率は、Win(m)=(2^(m-1)-1)/3^(m-1)だ。Draw(2)=1/3、Draw(3)=1/3、Draw(4)=13/27、…、Win(2)=1/3、Win(3)=1/3、Win(4)=7/27、…、のように、常にDraw(m)≧Win(m)で、mが大きくなるにつれて差はどんどん開いていくので、「グ|チ|パ」を出す人間が多いほど、「キュー」の勝率が高くなる。「グ|チ|パ」を出すのが有利になるのは、n人中n-1人が「キュー」を出して、自分一人だけが「グ|チ|パ」を出す一人勝ちの状況に限られる。「キュー」のあいこが続く中、抜け駆けしようとした人間同士が爆死するだろうと予想され、もはやじゃんけんよりも、たけのこニョッキに近い。

少しルールを変更し、「キュー」がいてあいこでない場合には、「キュー」以外の人間が全員勝つとしてみる。つまり、「キュー」がいてあいこでなかったとき、既に出ている手で勝敗をつけるのではなく、「キュー」以外の全員でもう一回じゃんけんをやって勝敗をつけるということだ。

この場合、「グ|チ|パ」の勝率が2倍になるので、n人中4人以下が「グ|チ|パ」なら、「グ|チ|パ」を出した方が勝率が高くなる。自分一人だけが「グ|チ|パ」でないと分が悪く、もはやたけのこニョッキと化すであろう元のルールに比べると、だいぶじゃんけんの面影が残っている。

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『じゃんQ』
  1. 「グー」「チョキ」「パー」「キュー」の四通りの手を出せる
  2. 「キュー」は人差し指と小指だけを立てた形状とする(9=0b1001)
  3. 「キュー」がない場合の勝敗はじゃんけんと同じとする
  4. 「キュー」がある場合、残りの手が一つだけなら、その手の勝ちとする
  5. 「キュー」がある場合、残りの手があいこなら「キュー」の勝ちとする
  6. 「キュー」がある場合、残りの手があいこでなければ「キュー」だけ負けとする
  7. 「キュー」だけの場合、あいことする

2018-02-13

専門知と公共性

藤垣裕子「専門知と公共性」を読んだ。

様々な意見がある中で妥当性境界を更新していく
査読システムは、科学者集団におけるIPUSモデル
そのものだと言える。
著者の言う科学的合理性というのは、科学者集団に
おける社会的合理性であり、科学的合理性と社会的
合理性という対比が適切なのかは疑問だ。

整理としてはむしろ、妥当性境界という判断基準を
形成するときの集団と、その判断基準に沿って行った
判断が影響する集団が異なることが問題である、
という方が適切なように思う。
専門家の判断が客観的であるとは限らないことが
問題なのではなく、客観的であることをよしとする
ことで、暗黙のうちに主観的な判断の責任から逃れて
いることが問題なはずだ。

マックス・ウェーバーの「プロ倫」をもじった
「The Public Ethic and the Spirit of Specialism」と
いう英題がいみじくも表しているように、Publicという
主体の判断に伴う責任の権化が専門家である。
専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、
医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する
責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団
ある集団が、その集団自身の社会的合理性をもとうと
思ったら、別の集団の社会的合理性を借用することは
できず、自分たちで形成し、維持しなければならない。
その社会的合理性に基づく判断にどのような責任が付随し、
どのように責任をとるのかということもまた同様である。
専門家という責任主体を抽出しない道を選ぶのであれば、
集団全体として責任を負う方法を模索する必要がある。

個人という単位でも、いろいろな考えがめぐる中で、
何らかの判断を下しながら、個人であることについて
多かれ少なかれ責任を負っている。
そこには個人という主観の合理性がある。
それと同じように、集団が集団自身に対して形成する
主観的合理性が、社会的合理性なのではないかと思う。

火のないところ

火のないところに煙が立つのは、
誰かが土煙を立てているからだろう。

The reason why there is smoke without fire is
that someone kicks up a dust.

3DCGと線

北斎とジャポニスムに線の有無の違いがあったのと
同じように、ディズニーとジャパニメーションの
3DCGにも、線の有無の違いがある。

3DCGで領域同士の境界に線を引くには、エッジを
検出する作業が追加で必要になるはずだ。
それでも線を引くのは、そこにジャパニメーション
らしさがあるからであるように思う。

2018-02-12

棋士とAI

王銘琬「棋士とAI」を読んだ。

AIは人間にとって脅威だという意見と、AIが
できることはたかが知れてるという意見の
両方に共通するのは、それが何かしらの理屈
に支えられていることである。

「感覚」という判断基準を形成するには、
あまりにコストがかかり過ぎる判断について、
理由を付けることで判断基準を形成できるのが、
意識らしさだと思う。
「感覚」を形成するのに必要な膨大な試行錯誤を
省略したために生じる判断の投機性は、無意識の
「感覚」や、常識として埋め込まれた「感覚」と、
幾ばくかの飛躍を含んだ理由によって補われる。

この理由付けのプロセスが価値あることかという
判断も、理由付けによるしかないように思われ、
それはどちらでもよいと思う。

人間だけが理由付けすることを過度に持ち上げる
必要もないし、AIが理由付けするようになったと
して、AIの提示する理由を受け容れるか否かは、
他の人間の理屈を受け容れるか否かと、それほど
違わないように思われる。

ただ、すべてが「感覚」で判断されるようになり、
理由を伴う飛躍の余地がなくなった世界は、単純に
面白くなさそうだな、というだけだ。
それは、面白いという判断が意識特有のものという
だけのことなのかもしれないが。

2018-02-09

近代日本一五〇年

山本義隆「近代日本一五〇年」を読んだ。

明治、大正、昭和、平成の一五〇年を経て、日本
自体も、日本と他国の関係も大きく変わった。
それは、政治や軍事、科学などの各方面において、
何らかのイズムを押し通してきた結果だと言える。
イズムとは、判断基準を固定化して判断に徹する
ことであり、考えることをやめて分類に徹する
ことである。
ファシズム、共産主義、「合理性」への信仰など、
一真教的判断はイズムに陥るように思う。

よいも悪いも判断基準次第であるから、判断基準を
固定して「よい」方向に邁進すれば、短期間のうちに
「よい」状態に変化でき、それは「発展」と呼ばれる。
生命が更新される秩序であるからには、変化という
秩序の更新には、必ず解体される秩序という犠牲が
付随し、判断基準を固定化することによる発展は、
犠牲となる対象をも固定化してしまう。
個人にしろ国家にしろ、自身の変化に伴う犠牲をゼロ
にすることはできないし、少なからぬ犠牲のすべてを
把握することもできないように思うが、把握しようと
する視点が、判断基準の固定化の回避につながり得る
ように思う。

この一五〇年に対する山本義隆の視点も、その視点に
対する感想も、それぞれが一つの判断基準であり、
そこに拘泥してしまえばやはりイズムに陥るはずだ。
いろいろな判断があってよい。
それが日本として、あるいは人間として、分類するだけ
でなく考えることにつながる。
もはやこの一五〇年ほどの速度では発展しなくなるかも
しれないが、それでよいのではないかと思う。
意識があることで常に現在に対して不満を覚え、変化
しないではいられないのであれば、変化の仕方もまた
変化すればよいではないか。

2018-02-07

共にあることの哲学と現実

岩野卓司編「共にあることの哲学と現実」を読んだ。

通信可能性と応答可能性をもって、壊死と瓦解の間で
判断基準のすり合わせの過程を終わらせずにいるのが
共にあることなのだとしたら、どのような理論であれ、
それを固定化されたものとして打ち出すこと自体が
共にあることから遠ざかる。
判断基準をすり合わせる過程がアンチ・オイディプス
なのであって、すり合わされた判断基準を永続化する
ことはオイディプスであり、すり合わせの過程を終息
させてしまう。
序で述べられている、
研究をする者が思想家の殺害者であるという事実
岩野卓司「序 共同体を実践するために」
岩野卓司編「共にあることの哲学と現実」p.10
というのは、そういうことなのだろうと思った。
この考えもまた一種の「殺害」であるに違いないが、
文学作品が形象化の矛盾を孕んだ「運動」であるのと同じ
ように、更新される秩序としての生は、局所的な死を繰り
返すことで、大局的な死に至らずにいるのだと思われる。

家族における「父」や「母」という存在もまた、認知を
通した情報の割り算によって生じる。
技術の発達により三人の「母」が存在し得るようになった
のは、母という商と個人という商の分割が一致する必要が
なくなってきたということだろう。
「分人」のように、一人の個人が複数の存在から成り立ち
得るように、一つの存在が複数の個人から成り立つという
こともあり得るということであり、それは、in-dividualの
境界がホモ・サピエンスの物理的身体の境界と一致しなく
なったことの現れである。
それぞれのデータベースの1アカウントとして、個人はもはや個人としてでは
ない状態であらゆるところに存在できている。
逆に、2以上の個人から採取したデータが1つのかたまりとして振る舞うという
こともあるだろう。
An At a NOA 2015-03-09 “ポストモダンの思想的根拠
各個人から「この自動運転車に乗った」という
性質だけを抜き出して再集合させることで立ち上げられた、
新しい個を責任主体とみなす
An At a NOA 2017-06-09 “AIの責任
子による親の認識に先立つ、親による子の認知が、信じる
という理由なき跳躍となり、まさにその根拠のなさによって
家族の絆というプロセスが駆動するというのは、「貨幣論
で描かれた貨幣の成立過程と似ている。
理由付けを積み重ねることで、壊死しないことはできるかも
しれないが、瓦解しないためには、何かしらの理由のなさを
導入する必要がある。
その過程を認識や理解によって把握すること自体もまた、
オイディプス的な単一の判断基準によってはできず、
アンチ・オイディプスな過程として駆動する必要があるのだろう。

2018-02-06

宝石の国

アニメ「宝石の国」を観た。

BLAME!」を観たときも思ったけど、3DCGを活用しつつ、
表現が単一の判断基準に沿ってしまうことを避けるのが
上手くなっているなと思う。
あからさまな単一の判断基準がない状態を、自然な表現と
感じるのだろう。
あと、足音をはじめとした、ものとものがぶつかるときの
音響や、フォスフォフィライトの演技がとても好きだった。

魂と肉がなくなった骨としての宝石は、精神と肉体の両方の
死から逃れており、バナナ型神話において、通常は片方しか
選択できない石とバナナの両方を選択した状態を思わせる。
宝石たちは、労働の苦役と出産の苦しみの二つのlabourから
解放された代わりに、何もしなくてもよい世界で何をするか
という試練に直面しているように思う。
何もしなくてよいというのは、如何にして行動をし続けるかを目指して
形成されてきた判断機構=意識に対する、究極の試練となるように思われる。
An At a NOA 2016-06-15 “労働価値のコンセンサス
フォスフォフィライトやシンシャが新しい仕事を探すように、
死ななくなった(あるいは死ねなくなった)人間にとって、
仕事をすること自体が仕事をすることの最大の意味になる
未来もあり得なくはないだろう。
金剛先生という存在は、神、勤労の美徳、意識の価値といった、
疑わしいかもしれないが、疑わずにすがるべき対象として、
いつの時代もかたちを変えて存続するのかもしれない。

原作も読んでみよう。

p.s.
流星が飛来した回数も宝石の人数も完全数だ。
これも聖書から来ているのかもしれないけど。

プログラミング言語と言文一致

自然言語における話し言葉と書き言葉の違いは、
プログラミング言語におけるインタプリタ型と
コンパイラ型の違いに似ているように思う。
いずれも、前者では個々のやり取りごとの小さな
構造を頼りに内容を把握していくことが多いのに
対し、後者では全体を通じて設定された大きな
構造を軸に内容を把握していくことが多い。

プログラミング言語を「書く」行為が、自然言語を
「話す」ことと「書く」ことの両方に似ざるを得ない
のに対し、プログラミング言語を「読む」行為は、
自然言語を「読む」ことだけに似ることができ、
自然言語を「聞く」こととは似ずにいられる。
この非対称性があるために、プログラミング言語の
「書きやすさ」が「話しやすさ」を意味しながら、
「読みやすさ」が、「聞きやすさ」ではなく「読み
やすさ」を意味することで、各々のプログラマに
とってのプログラミング言語のよさが変わるのだと思う。

自然言語について言えば、明治時代の言文一致運動で、
文体としては書き言葉にも口語体が普及したが、
話したことを読めるようにするには何かしらの編集が
必要であり、文の構造としては、やはり書き言葉には、
話し言葉とは違った書き言葉としての構造がないと、
読みづらいように思う。
それはプログラミング言語でも同じだろう。
編集を経ていないコードは、編集を経ていない文章と
同じように読みづらい。
@yukihiro_matzが、
と言っているのは、そういった編集を不要にするような
制限を設定することはできないということだと思う。

この編集はlintのようなものよりもさらに大々的な
編集になるはずで、この意味でのエディタはVimや
Emacsではなく人間がやるしかないのが現状であるが、
自然言語に比べれば、プログラミング言語の方が
実装しやすいように思う。

2018-02-05

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

新井紀子「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」を読んだ。

AIと教科書が読めない子どもたちになくて、真の意味での
AIと教科書が読める子どもたちにあるのは、読解力である。
別に「読」でなくてもよいはずなので、理解力と言っても
よいと思う。

「理解」というのは、理由付けによって抽象することと、
理由付けによって抽象されたものから具象を再構成する
ことの両方に使われるように思うが、両者は結局のところ、
充足理由律を介して、同じことの両側面を言っているの
かもしれない。

理由付けについてのリテラシーである読解力を有すると
いうのは、理由付けの投機性に追随できるほど、判断基準
の変化が容易であるということである。
理解するというのは、当該理由付けの投機性に
一旦目をつぶり、同じ短絡を再現できるように
なることである。
An At a NOA 2016-11-18 “理解
物理的身体による意味付けは、理解ではなく認識であり、
本能や直観のように素早いが、柔軟性はない。
判断基準を更新するには、物理的身体の再生産という
世代交代を経る必要がある。

現状のAI技術の先には、意味付けによる認識はあっても、
理由付けによる理解はなく、むしろ投機的短絡を引き起こす
プログラムはバグだとみなされるだろう。
理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、
そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のように
みえるだろう。
An At a NOA 2017-01-09 “
人間による理由付けも、一種のエラー導入であり、バグ
であることには違いないが、コンセンサスをとる機構に
よって、correctではないものをrightなものにすることで、
理由付けに基づく判断を「正しい」ものにできる。

判断基準の変化の容易さと、変化した判断基準に関する
コンセンサスがとれることの両方によって、つまりは
理由を気にすることで、人間は人間らしくなっている。
それが読解力があるという状態の個人的なイメージで、
「人間」というカテゴリからは、見た目や何でできて
いるかを捨象できてもおかしくないと思う。
「人間にしかできないこと」とか「人間が勝つためには」
という表現があまり好きじゃないのは、そんなイメージ
とのズレを覚えるからなのかもしれない。
AIと真の意味でのAIになくて、教科書が読めない子どもと
教科書が読める子どもにあるのは、ホモ・サピエンスの
物理的身体ということになると思うが、読解力は、変化が
緩慢なハードウェアの抽象特性の違いを吸収するバッファ
にもなるように思う。

以上の人間観も一つの理由付けに過ぎないし、ましてや
人間であることがよいとも悪いとも思わないので、
それぞれがそれぞれに判断すればよいように思うが、
個人的には読解力をもって理由付けを続ける方が好きだ。

2018-02-02

ストーン双対性

あまりに膨大な量の情報が入力される中で、同一視によって
情報量を減らす抽象過程が、認識や理解というモデル化であり、
世界は割ることなしには把握できないように思われる。
An At a NOA 2018-01-31 “同一視
という割り算的な世界の把握の仕方で言いたかったのは、
被除数である情報(=位相空間)に対して、商である世界
(=束)が存在するという、ストーン双対性のイメージ
だったのかもしれない。

共にあることの哲学

岩野卓司編「共にあることの哲学」を読んだ。

コミュニケーションが成立するためには、通信可能な
程度に共有するものがある必要があるように思う。
共有されるものとしては、宗教、慣習、貨幣、言語、
可視光線、可聴音など、様々なものが考えられる。

いわゆる「共同体」は、宗教や慣習のような、
固定化へと向かう一つの真なる理由を共有することで
成立する一真教的な集団であり、そういった共同体は
二十世紀に至って全体主義や共産主義へと帰結した。
その反省として、一つの真なる理由を避けた結果が、
物理的身体の共有の話に向かってしまうと、別の新たな
一つの真なるものを生み出すことになる。

一つの真なる何かへの収束を避けるために、判断基準を
共有していることではなく、判断基準を変化させながら
すり合わせる過程に着目しようとするのが、レヴィナスの
「対面」やデリダの「脱構築」だろうか。
フーコーによる「革命」と「蜂起」の区別もまた、変化に
よって生じる判断基準と判断基準の変化自体の区別に対応
しており、同じ方向を向いているように思う。
系譜学も、判断基準の変化を追うことで、可逆でない過程が
もつ経路依存性を示すものだと言える。
判断基準の変化は理由付けの投機性の現れであり、「にぎわう
孤独」の投機的短絡という創造性は、一つの真なる判断基準
への抵抗につながる。

判断基準の変化は粘性を有しており、その粘性によって
生まれる変化の緩やかな部分が集団の瓦解を防ぐ。
この緩やかな変化を実体化したものが、意識、言語、宗教、
貨幣、国家のようなものであるように思う。
それらを固定すれば、変化は次第に止まり、集団は壊死する。
それは、理由付けの投機性に目をつぶることであり、
考えることをやめ、分類に徹することである。
考えることは判断基準の変化をもたらし、分類は完遂
されないか、完遂された途端に別の分類が始まる。
An At a NOA 2017-12-28 “考える/分類する
判断基準をすり合わせるには、ゆっくりと堅実的に変化する
部分も必要だが、それと同時に、投機的に変化する部分もある
ことによって、すり合わせの過程は止まらずにいられる。
通信可能性と応答可能性によって、その終わらない生き生き
とした過程を続けるのが、共にあることなのかもしれない。
通信可能性と応答可能性の両方を具えている
ことが生きているということであり、
通信可能だが応答不可能な集団は壊死し、
応答可能だが通信不可能な集団は瓦解する。
An At a NOA 2017-11-17 “通信可能性と応答可能性