2017-08-18

何を構造主義として認めるか

ジル・ドゥルーズ「何を構造主義として認めるか」を読んだ。

構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
An At a NOA 2015-11-02 “構造
事象間に共通部分が見出されることで通信が可能になり、その際、共通部分である構造は通信プロトコルとなる。
たとえ秘教的な言葉であれ、非音声的な言葉であれ、言葉であるものにしか構造はない。
ジル・ドゥルーズ「何を構造主義として認めるか」
「ドゥルーズ・コレクションⅠ」p.55
と言うときの「言葉」は、言語languageよりも広い概念としての通信規約protocolに近いと思われる。

通信プロトコルとしての言葉に着目することが構造主義者の特徴となるわけだが、ここでは七つの規準が与えられる。

「1. 記号界」は現実界とも想像界とも異なる構造の世界であり、そこは「2. 局所あるいは位置」が問題となるトポロジカルで関係的な空間である。言葉による結合で溢れ、意味の過剰生産としての無意味な状況にある空間において、特定の構造=言葉を見出すことで意味が産出される過程は、抽象と呼べるものだろう。別の構造=言葉を見出すことによって別の意味を生み出すという構造変動は、つなぎ替え可能な抽象=理由付けである。
思考すること、それはサイコロを投げることである。
同p.64

態度と呼称、あるいは関数と変数としての「3. 微分と特異」の二面から構造は構成され、それは現働的actualの反対としての潜在的virtualであるとされる。構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualでありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。それが「4. 分化させるもの、分化すること」の過程である。

もう半面として、構造は「5. セリー」的であることで機能する。同一化されない複数のセリーが存在し、そこに含まれる項が移動することで、構造は確定し、機能する。セリー間での移動はメタファー=意味付け=空間であり、同一セリー内での移動はメトニミー=理由付け=時間である。セリーを駆け抜ける「6. 空白の桝目」である対象=xは、自己という主体とともにあり、「生命壱号」を彷彿とさせる。
構造は、根源的な第三者によって、しかし自己自身の根源を欠いている第三者によって動かされる。構造全体に差異を配分し、自らの移動で微分的関係を変化させることで、対象=xは、差異そのものを差異化して分化するものとなる。
同p.85
空白の桝目に伴うものがいなくなることで神という病に陥り、空白の桝目を占めるものが現れることで人間という病に陥る。「7. 主体から実践へ」で述べられるのは、その構造の二つの病に陥らない主体になるための規準である。
神でも人間でもなく、人称的でも全称的でもなく、同一性もなく、非人称的な個体化と前―個体的な特異性から形成されるヒーローである。
同p.96

おそらく、構造を有することで微分化の意味ではある程度固定化しつつも、投機的短絡によってサイコロを振ることで緩やかに変動しながら、分化の意味では発散した状態というのが、壊死と瓦解の間で集団を維持するにあたって適した状態だと思われる。そのような視点をもてるのが構造主義的であり、それによってのみユートピア=ディストピアに陥らないユートピアを描くことができるような気がしている。

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