ヒトは無意識のうちにオブジェクトを分類してしまう生きものである。プロローグにて述べられる上記の文が全てだと言ってもよい。
(中略)一方、分類したとしても、オブジェクトに関して何かが解明
されるというわけでは必ずしもない。そのとき、私たちヒトは、
オブジェクトが存在する現象世界を認識するためにのみ分類して
いると言わざるを得ない。
三中信宏「分類思考の世界」p.18
「時空的同一性(spatio-temporal identity)」の認知能力こそ、
生物進化の過程がヒトに与えた能力だと著者が述べるように、
ある集合を同じものとしてまとめる根拠は、ものの方にあるのでは
なく、人間の意識の方にある。
私たちが無意識のうちにつねに発動する心理的本質主義という意味付けや理由付けがつまり「時空的同一性」の認知能力に他ならない。
生得的傾向が、グループ化された群の背後に隠された目に見えない
本質の存在を私たちに仮定させてしまう。
(中略)分類行為とは、単なる好奇心の発露ではなく、ヒトの祖先に
とっては文字どおり生き抜くための思考だっただろう。
同p.106
そこには常に、同一性という正義が埋め込まれ、それが意味あるいは理由
という本質の存在の仮定を伴ってしまう。
第12章でB.W.オジルヴィー「記載の科学」を取り上げ、十六世紀までのただ単に
記載すればよかった時代が、大航海時代におけるコレクションの急激な膨張とともに
終焉し、十七世紀以降の分類の科学を生んだと述べている。
分類自体は意識的な行為なのかもしれないが、圧倒的大量のデータに基づく
抽象過程という点では、理由付けよりも意味付けに近いと言える。
意味付けは理由付け以上にセンサ特性の影響をもろに受けるので、
ニューギニア高地のエピソードに対する指摘として、
現地人の民俗分類体系における鳥の種と現代鳥類学における科学的分類体系のとあるのはもっともである。
もとでの種がみごとなほど一致するということは、種が実在することの証拠なのでは
なく、むしろ科学的な分類体系の根幹にヒトによる認知心理的なカテゴリー化が
共通して存在することの証左と言わねばならないのではないだろうか。
同p.270
著者が指摘するように、進化的思考と心理的本質主義は相容れないため、
「分類される物」ばかりに着目していると、心理的本質主義は批判を免れられない。
しかし、「分類する者」に注目することで、
「種」は、「分類される物」の側にあるのではなく、ほかならない「分類する者」としている点にとても共感できる。
の側にあるのだということが理解されるようになるだろう。
同p.295
あとがきで著者が述べているように、系統樹思考がアブダクションであるのに対し、
分類思考はパターン認識である。
これは理由付けと意味付けの違いに対応し、あるいはメトニミーとメタファー、
時間と空間の違いと言うこともできるのかもしれない。
いずれのタイプの抽象過程にも、本質の仮定はつきまとうが、
「分類するは人の常」分類は、意識が不在でも可能であるという意味において、極めて自然な行為である。
その業を甘んじて受け入れようということだ。
同p.301
そういうことなのだ。
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