2017-02-27

反射光と透過光

反射光と透過光について調べてみると、紙の本やプロジェクタで
映した映像のような反射光で得る場合と、ディスプレイのように
透過光で得る場合では、視覚情報の処理のされ方が違うという
記事が結構ひっかかり、研究例まであるらしい。

イメージとしてわからなくはないのだが、反射光と透過光を
スペクトル特性等の光学情報のみから判断することは可能
なのだろうか。
もし可能なのであれば、反射光の光学特性を有する透過光を
発する媒体が作れるだろうし、もし不可能なのであれば、
反射光と透過光の差は受け取った側の思い込みの問題になる。

透過光を用いる媒体が不可避的に反射光も含むのに対し、
反射光を用いる媒体は通常透過光を含まない。
例えば、ライトボックスに対してプロジェクタで投影した場合は
透過光を含む反射光媒体が出来上がるが、この場合はどちらの
特性に近づくのだろうか。

あるいは単純に、反射したか否かではなく、周囲との輝度差の
問題だけなのかもしれない。
だとすれば、暗い部屋の中で、指向性の高い照明を用いて紙の本の
ページ部分だけ明るくした場合には、反射光媒体と言えども、
透過光媒体と同じ特性になるのだろうか。

この問題はちょっと考えただけでも怪しい点がたくさんある。
ブラインドテストで比較した資料があるのであれば見てみたい。
とりあえずマクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」を
読んでみよう。

p.s.
この件については、以下の記事のような意見の方が個人的には
飲み込みやすい。
「書き手だけが読む特殊な形式」と「誰もが読む一般的な形式」の違い
つまり、形式が同じままだとその形式での抽象に慣れてしまうせいで
見落としやすく、同じものを違う形式で新しく抽象するときには
注意深くなる、という説明である。

呼吸

合唱をやっていると呼吸の訓練をすることが多い。

胸でなくお腹に入れるとか、背中に入れるイメージとか
いろいろと言われることが多いが、結局のところ空気が
入るのは肺であり、肺は胸にしかない。
では胸式呼吸と腹式呼吸で何が違うのかと言えば、
吸気時に主に使う筋肉なんではないかと理解している。

吸気には横隔膜、外肋間筋、胸鎖乳突筋、前斜角筋、
中斜角筋、後斜角筋が使えるらしい。
このうち、横隔膜を主に使うものを腹式呼吸、外肋間筋を
主に使うものを胸式呼吸と呼んでいるんではないかと思う。
合唱では腹式呼吸というよりも腹胸式呼吸であることが
多いと思うが、これは両方を使うということだろう。
後ろ4つの筋肉は首周りの筋肉であり、これに力が入ると
声帯にも影響してしまうので、首の力は抜くように言われる。

呼気は基本的には肺の受動的反跳によって行われるらしい。
つまり、横隔膜や外肋間筋から力を抜くと、肺が自動的に
しぼむことで息が吐かれるということだ。
筋肉というのは力を入れるときよりも抜くときの方が圧倒的に
難しいものだが、力を抜く速度をどれだけコントロールできる
かが呼気の要であり、声を安定させるためには不可欠になる。

こういう理屈を考えながらやっている間は、いまいち上手くは
いかないものだが、横隔膜が随意筋であることを知るだけでも
だいぶ感覚がつかめる。
そして、繰り返し試行することで次第に理屈を考えなくても
できるようになり、上達を実感できるようになる。
この理屈を抜く過程は、対象を自然化する過程であり、訓練と
呼ばれる。これは呼吸に限らず制御一般に通ずる考え方であり、
個人的には認知症も同じメカニズムだと思っている。

2017-02-26

31

年は地球の公転周期、月は月の公転周期、日は地球の自転
周期を基準にして決められる。

太陰暦は月、太陽暦は年が優先されるが、地球の公転周期と
月の公転周期がちょうど12倍ではないので調整が必要になる。
そういう意味では、太陽暦における月は便宜的なものだと
言えるが、ひと月あたりの日数が28日と30日と31日となって
いるのはどういった経緯だったのだろうか。
古代ローマのロムルス暦までは情報を辿れるのだが、そこから
先はよくわからない。

朔望月の約29.5日を基準にした29日や30日でもなく、週を
基準にした7×4=28日でもなく、31日が使用され、32以上の
日数が使われなかったことには何かしら理由があるはずだ。

31は二進数表記だと11111であり、片手の指で数えられる
最大の数だが、何か関係あるんだろうか。

p.s.
暦については国立天文台の暦Wikiに詳しく書かれている。
結構面白い。

2017-02-24

野沢温泉

10年振りに野沢温泉でスキーをした。

10年前に泊まった宿はまだあったけど、
10年前にはなかった北陸新幹線を使ったし、
10年前にはなかった里武士でビールを飲んだ。

街中もゲレンデも外国人が増えており、アジア圏よりも
欧米人の方が多いのが特徴的だ。発音から判断するに、
オーストラリアかニュージーランドあたりから来ている
のだと思われる。
東京から2時間くらいで着くし、スキーも温泉もお酒も
あるのだから魅力的なはずだ。
(でも、外湯は彼等には熱すぎるようで、もっとぬるい
ところはないのかと聞かれた)

そのうち、スキーやスノボもVRで体験するようになって
しまうのだろうか。それを言ったら、温泉やお酒だって
VR化することは可能であろう。
でも、そういうことではないのだ。
抽象化をしないままのその行為に耽りたいのである。
それが趣味というものだ。
An At a NOA 2017-01-24 “何かを抽象化する

2017-02-23

より抽象的であること

より抽象的なものが好きである。

より抽象的というのは、抽象された構造からより幅広く
多種の具象へ落とし込むことができるような特性である。
単に多くの具象化の可能性を有しているだけでは不十分で、
その潜在的な具象化を実現できることができる必要がある。

抽象を怠り、個々の表現をそのまま構造と言い張るのは
問題外であるが、抽象された構造が極少数の具象にしか
対応していない場合も、言わば具象としての表現が構造と
膠着してしまっている状態であり、あまり興味がわかない。

抽象芸術にはあまり詳しくないのだが、あれはおそらく
具象化された対象としての作品を多く見ることで、その
作品群としての抽象性が把握できる種類のものなのだろうと
想像する。少数の作品を見ただけでは、少数の具象化可能性
しか有しないものとの差を見極めるのが難しい。

おそらくこういったことが、抽象abstractを曖昧obscureと
混同させる原因になっているのではなかろうか。

2017-02-22

時間の非実在性

ジョン・エリス・マクタガート「時間の非実在性」を読んだ。
永井均による注解と論評は未読だが、こちらも面白そうだ。

時間が実在しないことについては同意できる。
しかし、A系列よりはB系列の方が時間にとっては本質的
なのではないかと思う。
それは、エリオット・リーブとヤコブ・イングヴァソンの
エントロピー再考」における議論から、B系列のような
向き付けられた順序構造とエントロピーが関係しており、
時間とはつまり常に増大するエントロピーのことなのかも
しれないと思われるからである。

最終的には棄却されるとはいえ、A系列のような、過去・現在
・未来というモデルを展開すること自体、かなりの無理を
抱えているように思う。
事象は常に過去として抽象されるのであり、それが未来である
状況はあり得ない。そういった描像は、過去として抽象された
事象を眺める視点をその事象以前に置いたり、媒介変数としての
時間のみを扱ったりするといったシミュレーションの中でしか
現れない。
現在とは、過去として抽象された事象が、抽象されたという事実を
基にして、当然あるべきものとして想定され、便宜的に名付けられた
ものに過ぎない。
その点では、現在は自意識と同様である。
(おそらく空間における「ここ」もそうである)

個人的な時間観については
An At a NOA 2016-11-18 “思い出への補足
An At a NOA 2017-01-02 “意識に直接与えられたものについての試論
に書いた。
実在においては、C系列、つまり向きを有しないB系列が存在し得る
ということには同意できる。
意味付けは空間、理由付けは時間にそれぞれ対応するという予想が
妥当だとすると、物理的身体は事象をC系列としてしか認識せず、
B系列として認識するのは心理的身体だけということになるが、
どうだろうか。
An At a NOA 2016-07-07 “情報の割り振り

C系列がB系列として向き付けられることは、エントロピーを導入することと
同値であるはずだが、それは何故、どのようにして起こるのだろうか。
それは充足理由律と何か関係があるだろうか。

p.s.
この論文は1908年に書かれたものだが、折しもアインシュタインが
特殊相対性理論を発表した当時である。
マクタガートは特殊相対性理論についてどのくらい知っていたのだろうか。

2017-02-21

私たちは生きているのか?

「私たちは生きているのか?」を読んだ。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
3作目 風は青海を渡るのか?
4作目 デボラ、眠っているのか?

Wシリーズのテーマについて、
バナナ型神話において、獲得した知恵を使うことによる、
石とバナナの再選択は可能なのだろうか。
An At a NOA 2016-08-28 “バナナ型神話
ということを書いた。
知恵を駆使して構築したシステムが如何に上手くいっていようとも、
それが生命の樹という石として固定化してしまうこと自体が、
結局は死んでいる状態とみなされてしまう。
ディストピアは、エントロピィ最大という特別の場合だけでなく、
エントロピィ生成速度最小の状態全般のことを言うのであり、
ウォーカロンが頭脳だけで生きているテルグという村も、そういった
石の一つとみなされるのだろう。

その中において、フーリのような発散の要素が生じたのは、
テルグがシステムとして完全ではなかったことを示している。
外部からフーリやハギリというエネルギィが供給され、テルグ
という系のエントロピィが下げられたのだとみれば、このストーリィ
全体がテルグという生命が生きた過程ともみなせる。
最終的にテルグは固定化を免れ、外部からエネルギィを供給される
ことで、より多くのエントロピィを吐き出せるようになっていったと
思われるが、比較的生きている状態になったと言えるだろうか。
どこからが生きていて、どこからは生きていないと一線を引くことは
困難だ。(中略)比較的生きている、比較的生きていない、といった
評価をするべき事象だということ。
森博嗣「私たちは生きているのか?」p.115

ハギリは夢の中で生命と複雑さを関連付けていたが、 より複雑で
あろうとするのは、パラメタを増やすことが定常状態を回避する
ことにつながる可能性があるからだと言えるだろうか。
そうだとすれば、制限ボルツマンマシンでモデル化したシステムは
隠れ層の幅と深さを増せば増すほど、より生きている状態に
近づけるだろう。
そして、それだけ複雑にしたモデルの中に組み込まれたショート
サーキットによる単純化が、投機的短絡=理由付け=意識として
人間を特徴付けるのではないかと思う。
「コーヒーを飲んだからだ」ローリィが言った。
「何が?」
「トイレにいきたくなった」
「あそう……」そういうのは、人間の証拠ではないのか、
と問いたかったが、その質問はやはりやめておいた。
同p.48
というシーンを始め、理由を気にする場面にそのことがよく
表れていると感じる。
「その……、思考の複雑性が、数学を生んだのです」
「単純な思考装置は、物事を単純に考えようとは思わない、
ということですね」
同p.194
というのも、興味深い指摘だ。

十分な複雑性を有することで適度に固定化を回避した上で、
理由付けというつなぎ変え可能な短絡によって、自分という
対象を獲得することで初めて問うことができる。
生きているものだけが、自分が生きているかと問うのだ。
同p.262
p.s.
テルグが富を築いていた仕組みをどこかで見た気がしたのだが、
おそらく攻殻機動隊S.A.C 2nd GIGだ。
サラミ法という名前が付いているらしい。

2017-02-20

サイバーパンク

「楽園追放 rewired」という本の冒頭で、虚淵玄が
伊藤計劃との思い出を語っている。

伊藤計劃が言うには、サイバーパンクとは、
「人とは何か」「テクノロジーは人間をどう変えるか」
といった問いを内包していることで定義される。

ウィーナーが「サイバネティックス」を著したのは
1948年で、サイバーパンクの王道とも言えるギブソンの
「ニューロマンサー」が出たのは1984年だ。
でも、上記のような問いを基準に考えれば、19世紀以降だけで
言っても、進化論、エントロピーといった概念や、蒸気機関、
解析機関といった装置を受容する過程もサイバーパンクと
呼べるものになる。
1872年の「エレホン」や1932年の「すばらしい新世界」
だって、「サイバネティックス」が書かれる前ではあるが、
とてもサイバーパンクなのである。

しかし、作品に問いが内包されていることはサイバーパンクの
必要条件に過ぎず、読み手が問いに応えることでサイバーパンク
と呼べるようになる。
応えるというのは、答えを出すことに限らず、問いに関して
思考を巡らし、また新たな問いを発することで、その応答自体が
サイバーパンク的になるということだ。

常にサイバーパンクのよき受け手でありたい。

2017-02-17

街中の突起物

オランダ、歩きスマホ対策の歩道埋め込み型信号「+Lightline」設置。

これ結構いいと思う。
網膜のような二次元の撮像素子にとっての点は三次元空間に
おいては線になる。
人間は目を二つ備えることで、線の交点として三次元空間の
点を同定しているが、撮像素子が一つしかない場合でも、
対象の自由度を一つ削ることで、位置が確定できる。
空中のどこにあるかわからない既存の信号機に比べれば、
地面(z=0)という拘束条件が付加されるので、自動運転車や
ARデバイス等にとっても認識しやすいだろう。

標識や電柱なんかもすべて地面に埋め込んで、必要最低限の
情報のみ視覚情報として残しておき、残りはARで再生できる
ようにするというのはあり得る未来だ。
自動運転車の制御がある程度以上になり、人間の運転する車が
走らなくなれば、ガードレールも不要になり、街中からは
地面から生えた人工の突起物は、街灯以外消え去る。
いや、ARで可視光線が当たった場合の反射光を再生すれば、
街灯すらいらなくなるか。
いずれにしろ、植樹は残るような気がするから、そういうものに
照明デバイスを設置するということも考えられる。

そういう街中を歩く楽しみはあるんだろうか。

探し物

「こんな技術があるんだけど、何かに使えないか」というときよりも、
「こんなことをしたいんだけど、それに使える技術はないか」という
ときの方が情報収集や考え事をしていて面白い。
「買う理由が値段なら買うな、買わない理由が値段なら買え」
という言葉に通ずるものがある。

openBDの件は、取り敢えずISBNから書誌情報をとるプログラムを書いた。
バーコードリーダーを買うか、Mobile VisionのBarcode APIを使って
Androidアプリを作れば、裏表紙のISBNバーコードをスキャンして
蔵書一覧が作れるが、できるとわかっていることにはあまり食指が
動かない。よっぽど時間ができたらやろう。

本の天にISBNバーコードを転写しておいて、本棚の棚板裏にスキャナを
設置すると、本棚のどこに何の本が置いてあるのかが棚単位どころか
mm単位でわかるし、書誌情報には本のサイズやページ数、表紙画像が
含まれているので、3DCGで本棚を再現することすら可能だ。
そんなこんなで、住宅スケールにおいて非接触式で物の位置を把握する
ためのシステムを妄想していた。

それが実現するとしたら、物に一つ一つ物理タグをつける方式ではなく、
ARデバイスで物を認識する方式になるのかもしれない。
形状、テクスチャ、それが何であるか、場所、時刻等をスキャンし、
3DCGで再現した住宅内に配置しておく。
こんなものを探しているということをシステムに音声で尋ねると、
それに合致するものがARでハイライトされ、目的のものを見つける。
複数人で共有するもの、しないものを区別してシステムを共有する
ことも可能だ。
自宅にあるものくらい、どこに何があるか覚えておくもんだと思うが、
携帯電話を持つようになって電話番号をほぼ覚えなくなったことを
思うと、あながちあり得ない話でもない。

自分で見たものはもう失くすことはなくなるんだろうな。
それでも最後まで残る探し物は、もちろんARデバイスだろう。

2017-02-16

バグのないプログラム

http://anond.hatelabo.jp/20170214114736

プログラムがなすモデル、プログラマが作ったと
思っているモデル、仕様書がなすモデル、
仕様書を書いた人間が想定していたモデル、
プログラムを使用する人間が期待するモデル等、
プログラムには様々なモデル化が関係するが、
そのモデル間の齟齬がバグと呼ばれるものである。

最初と最後のモデルが同じ構造を有していれば
よいので、理学的にはバグのないプログラムは
可能だろう。
しかし、工学的には「十分に気を付ける」の十分性を
満たすためのコストが、コードの規模と間に挟まる
モデルの数に応じて指数的に増加するように思われる。

とりあえず余計なモデルの数を減らせばよいのでは。

2017-02-15

UENO PLANET

UENO PLANETがすごくいい。

平行投影図やゴシック体は、透視投影図や明朝体に比べて
視点や装飾をそぎ落としているという点で、ある特定のもの
ではなく、構造としてのものを表すのに適している。
動物に色を付けず、模様のみを線画で表していることや、
PATTERNの項も含め、全体的にフェティシズムを感じる。

「けものフレンズ」の影響でお客さんが増えている話も聞くが、
ジャパリパークではない上野動物園において、3DCGでない
サーバルを見るという聖地巡礼も、抽象した構造を有する具象を
愛でるという意味では、ある種のフェティシズムだろう。

フェティシズム

抽象した構造それ自体への愛からフェティシズムが生まれる。

対象は髪、脚といった特定の部分であることもあるし、声や匂いと
いった特定の知覚であることもあるし、三次元に対する二次元と
いった別の空間への写像であることもあるが、いずれにも共通
しているのは、特定の具象ではなく、具象群に見出される共通部分を
愛でるということである。
その共通部分がつまり、抽象した構造である。

実際に愛される個々の対象は具象なのだが、それは目的の構造を
有していれば何でもよいということになる。
ある一個の具象たることを自認する人間は、己を己のまま愛して
くれないことに抵抗を覚え、行き過ぎたフェティシズムを病的な
ものとして捉えるのだろう。

人間が自らの複製として人工知能やロボットを作る行為は、
人間のあらゆる部分を抽象しようとするという点において、
究極のフェティシズムをなしている。
それを突き詰めた先に、抽象した構造の集合としての具象が
あるのであれば、それはもはやフェティシズムではなくなり、
人工知能やロボットは人間と同一視されることになる。

そのためには、人間自身が抽象したことを忘れる必要があるだろう。
ディープラーニングのような理由付けを伴わない抽象には、
その可能性が秘められているように思われる。

2017-02-14

Asilomar AI Principles

BAI2017でAsilomar AI PrinciplesというAIの
運用開発に関する原則が定められたらしい。

原則という割には23個もあるあたり、
現実の(というのはつまり、人間の)複雑さを
よく表していると思う。
内容的にも、PrinciplesというよりRulesと
呼んだ方が合ってそうな印象を受ける。

Ethics and Valuesの節で、
7) ... it should be possible to ascertain why.
8) ... provide a satisfactory explanation
とあるところに、人間の理由欲が表れている。
結局、役に立つのは事象それ自体ではなく、その事象に
対する説明なのだと思う。
正義、美、幸福といった類の対象は、未定義のまま
おかれ、それが何であるかを問えるところにその性質の
大半があるのだと思うが、それでもこういったものが
こういうことだという説明を欲する傾向がみられるのも、
同じことなのかもしれない。

こういう話を読んでいると、AIに意識を実装できるのは
程遠いなという気もしつつ、それでもやはり自身の似姿を
つくることをやめられない人間の意識はいつかそれを
やり遂げ、人種差別と同じ道を辿るのかもなと思ってしまう。

2017-02-13

言葉使い師

神林長平「言葉使い師」を読んだ。

言葉は、意識間の通信に使用されるプロトコルの
一つであり、その中でも圧縮率の高いものである。
意識と意識の間で圧縮されて伝わった情報は、
それぞれの意識によって伸長されることで通信が
完了するが、伸長の際には実装ごとの差異が生じる。
辞書等といったかたちで標準実装は存在するものの、
圧縮によって失われた情報の補完の仕方にはある程度の
自由度が残っており、それこそ個性と呼ばれるものだ。

圧縮と伸長の過程に補完という自由度を含める手法は、
デフォルメと呼べるものである。
アニメーションにおいて、3DCGを駆使してリアリスティックな
表現を追求していくと、どんどん情報の圧縮率が下がっていく。
それに伴って受け手側が補完することを怠るようになるため、
空間的にも時間的にも細かいところまで制作側で補完をつきつめる
ことになる。
不気味の谷の際でのせめぎ合いだ。
デフォルメした場合、補完は受け手側で行われるようになり、
その精度はそれぞれの受け手が望むまで滑らかになる。
制作側には、その方向をある程度制御できるだけの技量が
求められることになる。

言葉使い師も同じことである。
言葉を使うことが禁止され、テレパシーで心象がそのまま伝わる
世界というのは、補完の自由度を削ぎ落とした状態であり、
一種のディストピアである。
現状の世界は表面的にはそんな状態にはないが、補完を省略する
ことに慣れきった受け手は、たとえそのようなディストピアに
いなくとも、実質的にはそれと同じものに自らはまり込んでいる。
きみという二人称で語られるこの小説自体が、パラフィクション的に
その種の装置として働いていることに、ただただ感心する。

2017-02-12

ディストピアとエントロピー

どれだけ熱やエネルギーがあろうとも、仕事として
取り出せるのはその差分からのみである。
要するに、平衡に達してしまえばエントロピーの
増大しようがなくなるのだ。

ディストピアというのは、どこもかしこも同じ状態に
なることで差がなくなった世界であり、エントロピーが
最大になった熱的平衡だと言える。

熱学思想の史的展開

エントロピー以降だけだが、山本義隆「熱学思想の史的展開」を読んだ。山本義隆には高校時代に「物理入門」でお世話になり、高3の夏休みには御茶ノ水で授業を受けた。もう一回りも昔の話だ。

クラウジウスからギブズに至るエントロピー概念の確立の話がとても読みやすく展開されている。エントロピーというのは一言で表現するのがとても難しい概念だが、何故それを考えついたのかという歴史的経緯を知ると、なんだかわかったような気がしてくる。

大学の熱力学や統計力学の授業で出てくる、自由エネルギー、エンタルピー等の概念は、ほとんどが数学的な式変形の結果として提示された記憶がある。これらも全く意味がわからなかったのだが、図32.4のようなギブズ空間上の熱力学的曲面とその接平面を考えることで、エネルギーU、体積V、エントロピーS、圧力P、温度Tをも含めたかたちで幾何学的に把握できることを知ったとき、笑うしかないくらい腑に落ちた。相平衡がそれぞれの相に対応する曲面への共通接平面として描像されるところなど、感動すら覚えるレベルである。

ギブズによる第1、第2法則の換言がとても好きだ。
世界の活動性を与えているのはエネルギーであるが、それを制約・制御しているのはエントロピーであり、その結果として反応はエネルギーまたはエンタルピーの減少とエントロピーの増大のかねあいで決まり、動力(仕事)は自由エネルギーから引き出される
山本義隆「熱学思想の史的展開3」p.274
エントロピーは、それが増大する方向にエネルギーの変化を制御するが、やはりそれは時間と関係しているだろうか。

第34章からあとがきにかけては、人間の活動が空間的に地球規模に拡がり、産業革命によってエネルギー的にも拡がった時代において、いかにしてそれらを把握するかという自然観を踏まえた内容となっており、熱学思想が必ずしも現代物理学の前段階ではないという視点が置かれているのがよかった。ますます物の拡散が進む時代において、
生存条件の維持にとって決定的なことは、エネルギーの枯渇ではなくあくまでもエントロピーを増加させないメカニズムがエネルギー(熱)を媒介として作動していることにある。
同p.335
という視点を提示しているのは、重要な意義をもっていると思う。

船底の水を掻き出すように、エントロピーが増大するの海の上でエネルギーを媒介としてエントロピーを減らす。船にあたる膜は、細胞膜であり、皮膚であり、家であり、大気であり、膜によって海から分離されたそれぞれの島は、いずれも等しく生命的である。エレホンのようには極端ではないにしろ、エネルギー問題と同じように、エントロピー問題が広く一般に議論される時代も来るだろうか。
こういった研究の末にエネルギー問題は解決したとして、その先にはエントロピーの問題があるだろうか。それはつまり、生命という秩序の限界についての問題である。
An At a NOA 2016-09-09 “常温核融合

2017-02-11

エレホン

サミュエル・バトラ「エレホン」を読んだ。

ハクスリーが「すばらしい新世界」を書くにあたって
参考にしたらしい。
エレホンという架空の国もまた、あるユートピアや
ディストピア的なものとして描かれているのだが、
「すばらしい新世界」の文明とはまた違った世界だ。
どちらかと言えば、「」のパラの方が近い。

エレホンにおける不合理さというのは、固定化に
陥らないために、複数の理由付けがあり得ることを
維持しているようにも見える。
不合理大学の章で、不合理を必要不可欠なものとして
捉えれるあたりはよいように思えるのだが、
結局は保守的な固定化した像として描かれているのが
少し残念である。
どうせなら、理由付けの多数性を重視し過ぎるあまり、
何を決定するにも常に矛盾や不合理を含まざるを得ない
ような社会として描くと、面白くなりそうなのにと思う。

アロウヘナの神に対する考え方や、「機械の書」、
あるいは植物の権利の話を読んでいると、
エレホンが出版されるわずか10年余り前に
初版が出たばかりの「種の起源」や、すっかり影響を
及ぼし尽くしたであろう産業革命の残滓に対して、
バトラ自身を含む当時の人々がどのように向き合おうと
していたのか、あるいはしなければならなかったのかが
現れていて興味深い。
生命の起源の考え方は現代では大方受け入れられたが、
機械と意識や生命の話なんかは80年後のウィーナーも
同じ話をしているし、何なら150年近く経った今でも
同じ話をしている。

エレホンにおいて、発明されて271年以上にならない機械が
打ち捨てられる結論に至った経緯が、人間の祖先に関する
進化論的見方への拒絶と同じ気分を、自らの子孫に対して
表明した結果として描かれているのがとても印象的だった。
私は、如何なる古い時代にあっても、私の祖先は人間以外の
者であったと信ずることを、戦慄をもって拒否するのだが、
それと同じ戦慄をもって、人類が押し除けられ、打ち克たれる
ことがあり得ると信ずることを拒否する。
サミュエル・バトラ「エレホン」p.249
進化論を受け入れられた人間は、いつか機械が自らの制御の外に
発展することも受け入れられるようになるだろうか。

機械の話の他にも、動物を食べなくなる過程等、理性の民として
描かれたエレホン人だが、それが結局は固定化してしまう
のであれば、理由というよりは理屈に拘泥しているだけである。
本能によって修正されない理性は、理性によって修正されない
本能と同様に宜しくない。
同p.274
 本能によって修正されない理性というのは、理性というよりは
別の種類の本能と呼ぶべきものである。

p.s.
19世紀後半〜20世紀前半という時代は、1859年に初版が出た
「種の起源」にいかに向き合ったかという複雑な心境が
現れていてとても面白い。
誰がいつ何に触れることができ、何を考えたかを押さえるのも、
こうした視点に役に立つ。
ということで、個人的に興味がある人物の年表を作った。
En attendant Itoh - History of Abstraction
(イトーを待ちながら―抽象の歴史)

2017-02-10

エントロピー再考

エリオット・リーブとヤコブ・イングヴァソンの
「エントロピー再考」を読み、清水明「熱力学の基礎」も
(飛び飛びにだが)一通り目を通してみた。

X≺Yという断熱的到達可能性を軸に、いくつかの要請を
仮定することで、エントロピーの存在と一意性が導ける
というのはとても興味深い。
「熱い」「冷たい」のような感覚的な要素をまったく
仮定せずに、どちらが先行するかという順序の概念から
エントロピーという秩序(あるいは可能性の広さと言った
方がよいか)の概念に至るのは不思議な感じだ。
エントロピーとエネルギーから温度の概念が帰結する
あたりはすごい。

熱力学という名称も歴史的なものに過ぎず、むしろ
エネルギー保存やエントロピー増加といった、
モデルにほとんど依存しない法則を含んでいるという
点では、最も抽象的な物理学とも言える。

シュレーディンガーは生命をネゲントロピーを食らうもの
と呼び、ウィーナーやハクスリーは生命をエントロピーが
局所的に減少する島に例えた。
抽象という秩序化に生命もエントロピーも関係している
のであれば、さもありなん。

比較仮説というのは、順序構造を決めるということであり、
それはデータとしての情報を受け取ること自体に既に内包
されているように思われる。
そこからエントロピーも時間概念も生ずるのだろう。
シミュレーションにおける媒介変数としての時間ではない、
エミュレーションにおける時間は、エントロピーと区別可能
なのだろうか。
シミュレーションのために、エントロピーのある性質を抽象
したものが時間だとみなせるだろうか。

統計力学的には、あるマクロな状態に対応するミクロカノニカル
集団に含まれる状態の数がエントロピーに対応する。
エントロピーが増加することは、同一のマクロ状態として抽象
されるミクロ状態が次第に多くなることを表しているが、
このことはデータが抽象され過去=記憶として圧縮されるという
イメージと対応させることが可能だろうか。

方法・手法・道具

作業には、職人の時代、科学者の時代、技術者の時代が存在する
というような話が「人間機械論」に書かれていた。

職人の時代には、試行錯誤によって方法が洗練されていくが、
理由付けがなされないため、修行等のかたちで作業自体を
通して方法が伝達される。

科学者の時代には、職人の方法が理由付けされることで、手法という
言葉として抽象される。
手法それ自体は作業を進めるものではないが、抽象された構造を
もっていれば細部は捨象できることや、伝達が容易になることから、
具象としての方法は種類や範囲において広がりをみせるようになる。

技術者の時代には、手法を基に道具が作られることで、場所や人、
時代等に対する方法の依存性が低減される。
道具とは、外部として析出したシンボルである。

職人の時代において誰にでもできるものではなかった作業は、
次第に誰にでもできる作業に変わっていく。
そして、ときに既存の手法や道具を破棄し、方法に立ち返ることで、
新しい手法や道具を作り出し、固定化を免れる。

方法(way)、手法(method)、道具(tool)。
いずれの段階であろうと、そのどこかにとどまること自体が、
人間の人間らしさを損なわせるのだろう。

2017-02-07

知らぬが仏

「なぜ知らないでいることが仏様なのでしょうか」
「辿り着くべき答えがなければ理由を考えなくて済むからじゃないかな」
「それが解脱しているように見えるということですか」
「ホントはしてないけど、したことにするというか。まあ一種の神様だよね」
「意味がわかりません。仏様ではないんですか」
「『知らぬが仏』という言葉が神様なんだよ。あ、これ『抜け殻と星』だね」
「何の話ですか」

パーソナライズ

Googleニュースは「興味がある」と回答した対象の記事で
満たされ、Amazonは過去の閲覧や購入の履歴を基にした
サジェストで溢れる。
ネットサーフィンした先で現れる広告にも、自らのサーフィン
履歴の影響が幅を利かせている。

インターネットに限らず、多くのものがパーソナライズできる
ようになると同時に、されるようになった。
それまでの大量生産の帰結としての、均一的な大量消費に
対する反動のように。

パーソナライズという名の下に行われる志向性の強化は、
究極的には固定化につながり、ウィーナーのいう人間的な
ものから機械的なものへの移行を促す。
これまでは物質のもつ慣性のおかげでゆっくり進んでいたのが、
軽くなることで急速に収束できるようになってしまいつつある。
personalize、何とも皮肉なネーミングである。

個々の人間が人間的でなくなっても、莫大なサンプル数の
おかげで、集団が人間的に振る舞うようになるということは
あるかもしれない。

2017-02-06

平等

人間機械論」にて効率主義と平等主義の対立の
話が取り上げられていた。

効率主義はアリの社会やファシスト国家に対比され、
ディストピアとみなされている。
各人が予め割り当てられた機能を果たす秩序整然とした
国家は、(中略)人間生活の真の条件である不確定な
未来への不可逆な進展を思わせるものではない。
ノーバート・ウィーナー「人間機械論」p.50
一方、法律とコミュニケーションを取り上げたⅥ章では、
AとBに対し正当であることはAとBの地位が交換された時も
やはり正当であるような平等性
同p.110
として、平等が解説されている。
つまり、平等とは交換可能性の別名である。

効率主義がある特定の型を当てはめていく機械的なものだと
したとき、平等主義というのは、別の型があり得るとする
人間的なものにもなれるし、エントロピーの増大という
一様な状態への発散にもなれる。

状態間に差があることを認めつつ、その状態が交換可能である
という仕方で平等を進めないと、状態間の差を徹底的に廃した
島のない海としての平等へと落ち込んでいくだろう。

人間機械論

ノーバート・ウィーナー「人間機械論」を読んだ。
原題は“HUMAN USE OF HUMAN BEINGS”であり、
副邦題の「人間の人間的な利用」として訳出されている。
こちらの方が誤解がなくてよい題名のような気がする。

理由の連鎖を固定した状態においては、あらゆる判断を
一意的に下すことができ、人間は
或る高級な神経系をもつ有機体といわれるものの行動器官
ノーバート・ウィーナー「人間機械論」p.23
となってしまう。
これが人間の非人間的な利用であり、人間の機械化とも
呼ばれている。
反対に、新しい理由の連鎖をつなげる状態にあることが、
人間の人間的な利用につながる。
人間と機械のいずれも、熱力学の第二法則によって、いずれは
混沌とした一様な状態に陥る運命にある世界に局在する、
エントロピーが減少する島の一つ一つであるが、
その島の在り方に違いがあるということだ。
生命は、死んでゆく世界の中の一時的な島である。
同p.99
抽象された構造としての島が、特定の抽象方法によってしか
形成されないのであれば、機械的あるいは宗教的であるし、
抽象方法が変化するのであれば、人間的あるいは科学的である。

Ⅳ章で展開される言語の話は虐殺器官に通ずるところもある。
伊藤計劃はウィーナーも読んでいただろうか。
言葉をしゃべることは人間の最大の関心事であり、
人間の達成した最も著しい特質である。
同p.87
言語が人間の意識の在り方を規定しているというよりも、
新しい抽象を生み出そうとする意識の特性の現れと言える
のかもしれない。

Ⅶ章の情報に関する所有権の話は、「複製技術時代の芸術」で
アウラと呼ばれたものについてである。
情報は常に固定化の危機に晒されている。
その中で、固定化からの脱却=発散の一形態としての芸術が
創造するのは、新しい抽象の仕方である。
全く同じ抽象結果だったとしても、オリジナルとコピーの違いは、
それが従来なかった抽象方法を生み出したか否かに集約される。
それは、人間と機械の違いでもある。

新しい抽象方法を生み出すのは、偶発的にみえるような仕方以外には
あり得ないように思われる。
その偶発性は、短絡の投機性に由来すると考えることができるが、
機械にそのような仕組みを実装したとして、それがウィーナーの言う
人間的なものになるのだろうか。
それともやはり、バグにしか見えないだろうか。
結局のところ、カテゴリ分けの問題になるように思われる。
An At a NOA 2017-01-09 “

充足理由律の観点から見れば、理由の不在としての自然は、
人工という島を浮かべる海である。
島でありながら、変化を内在するものとして描かれる
人間的なものや科学的なものは、果たして機械的なものや
宗教的なものとどれだけ隔たっているのだろうか。
当人の忠誠が絶対的であるかぎり、何への忠誠であろうと、
その人は科学の最高の飛翔には適さない。
同p.202
という命題は、充足理由律への忠誠にも適用されるのだろうか。
ともあれ、ウィーナーも述べているように、
自然は法則に従うものであるという信仰なしには、いかなる
科学もありえない。
同p.205
充足理由律への忠誠は、
帰納的論理(中略)に基づいて行動するということは、
信仰の最高の表明
同p.206
なのである。
それを放棄して、心理的身体によって形成したあらゆる島を解体し、
物理的身体の島のみによって生きることも可能かもしれないが、
果たしてそれを人間と呼べるだろうか。

p.s.
サイバネティックスから生まれたサイバーパンクが、エントロピー増大の
果てとしてディストピアを描くのは当然とも言える。
オルダス・ハクスリーとノーバート・ウィーナーはともに1894年に生まれ、
ともに69歳で亡くなっている。
二人の交流があったのかは定かではないが、「すばらしい新世界」は
サイバーパンクと言えるものであるし、ユートピアとしての「」は
まさにウィーナーの例えと同じ単語で、エントロピーが減少する局所領域の
理想を描いている。

2017-02-05

視覚のシンボル化

少し前にGoogle翻訳がリアルタイムでできるようになった。
スマートフォンをかざして翻訳 -- Word Lens 日本語版登場

画像認識の精度が甘いことをネタにした画像が一時的に
流行ったが、人間の視覚のシンボル化の程度が高いことを
端的に表しているようで興味深かった。

現状、ほとんどすべての視覚情報は、目というセンサから
入力され、視神経を通って脳に入り、処理される。
網膜の光受容細胞が反応する段階では、おそらく波長以外の
抽象は行われていないだろうから、シンボル形成の抽象が
なされるのは視覚野においてである。

ある言語の視覚情報を長い期間受け取っていることで、
それはシンボルとして受け取らざるを得ないように
センサ特性が特徴付けられている。
日本語は日本語にしか見えないし、日本語でないものの中に、
日本語として認識できるパターンを探すことも通常はしない。

幼児の視覚体験はWord Lensのように始まるのかもしれない。
言語に限らず、物を物として認識する、あるいは空間すら、
空間として認識するようになるまでに、トライアンドエラーを
繰り返して特徴抽出していく。
その過程を経たであろうことを意識しないでいられるのが、
意識という心理的身体のアドバンテージなのだろう。

2017-02-03

洋の東西とディストピア

一神教においては、あらゆる問に対する究極の答えを
シンボル化し、それを神と呼ぶ。

それに対し、仏教における仏は究極の答え自身ではない。
問によって理由の連鎖を辿る過程である輪廻において、
究極の答えを知ることが解脱であり、涅槃に辿り着く。
それを成し遂げたものが仏なのである。
仏は何も創造していないし、すがるべき対象というよりは、
人間が目指すべき高みという存在に近い。

科学では輪廻に留まるのが常であり、仏教では苦とされる
輪廻がむしろ重視され、解脱には重きが置かれない。
飽くなき充足理由律への固執は、仏教では執着(しゅうじゃく)とされる
のかもしれないが、解脱して悟ってしまうことは無我の境地
というディストピアに陥ることを意味するため、意識的な行為
としての科学はそこに留まることを旨としている。

「ハーモニー」のように意識を失う過程や、「すばらしい新世界」
のように単一の評価基準に縛られる世界がディストピアとされるのは、
一神教的というか、西洋的な評価のように思われる。
反対に、理由律に縛られる苦しみに陥るという東洋的ディストピアも
読んでみたい。
それは、西洋化した現代社会から見れば、普段の世界と変わらない
のかもしれないが。

虐殺器官

伊藤計劃「虐殺器官」の映画を観てきた。

作品としては「ハーモニー」の方が好きだが、
三部作の映画化の中では「虐殺器官」が一番
映像というメディアに合っていると感じられた。

原作のなぞり方もよかったし、アニメーションの
質もとても高かったので、困難を経ても作品として
送り出してくれたスタッフの方々には感謝しかない。
この作品が広く受け入れられるとよいのだが、
果たしてどうだろうか。

ジョン・ポールが問い、クラヴィス・シェパードが答えた問題。
それを外部として括りだそうとジョンが願うのに対し、
クラヴィスは積極的に巻き込もうとする。
そして、物理的に巻き込まずとも、心理的に巻き込み、
それを思考することを伝えてくれたのが伊藤計劃だ。
それは進化の過程で必然的にもたらされた器官にすぎない。
ぼくの肉体の一部である、自我という器官、言語という器官に。
伊藤計劃「虐殺器官」p.125
映画は、母の死のストーリィとともに自我という器官の問題を
切り捨てることで、言語の問題の方に集中していたと言える。
パンフレットにもそのことが書かれていたが、うまくまとまって
いてよかったと思う。

けれども、本当はジョンが分けようとしたものとクラヴィスが
抱える「ぼく」の問題は同じものだ。
先進国を後進国から言語によって切り離すこと。
自分と他者あるいは環境を言語によって切り離すこと。
そこに現れるのは自由の問題だ。
自由とはそうした様々な自由の取引なのだ
同p.178
さまざまなリスクを考慮して、自分にとって最適なものを「選ぶ」
能力が「自由」なのだ。
同p.353
2016年の2つの選挙の結果は、同種の問をはらんでいるのは間違いない。

人間は自分自身の「器官』によって滅びる生物となる道を邁進するだろうか。
長い牙によって滅びた、サーベルタイガーのように。
同p.126

沈黙

マーティン・スコセッシの「沈黙」を観てきた。

非常によく原作を読み込んでいるように感じられ、とても成功した実写化だと思えた。原作が好きな人間を裏切らない、よい映画だと言える。

遠藤周作の「沈黙」を読んだのはほぼ3年前だ。
長崎へ旅行し、外海を見てきた。
An At a NOA 2014-02-16 “長崎旅行2014①
An At a NOA 2014-02-20 “長崎旅行2014②
An At a NOA 2014-02-23 “長崎旅行2014③
その後、千原英喜の「おらしょ」を指揮する機会を得て、皆川達夫「オラショ紀行」の遠藤周作のインタビューを通して「沈黙」に対する理解を深めた。
An At a NOA 2015-10-12 “音楽と言葉

表題の「沈黙」のとおり、映画でも無音や止め絵、暗転等の聴覚的沈黙あるいは視覚的沈黙が効果的に用いられている。クライマックスもそうなのだが、個人的にはエンドロールが最高だった。「沈黙」において、神が黙っていることの一番のモチーフはモキチやイチゾウが死んだときの海の静けさであり、黒背景と白い文字に、虫の声と波の音だけが流れるエンドロールとして描かれていたと感じた。
この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を―神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、黙っていられるような気がして……。
遠藤周作「沈黙」p.93

映画では、雨や太陽もしっかりと描かれていた。残念ながら手元には所持していないのだが、山根道公の「遠藤周作 その人生と『沈黙』の真実」という本に、「沈黙」では雨がモチーフになっていると書かれているようだ。それはおそらく、信仰あるいは迫害の対象としてのキリスト教のモチーフである。
昨日も雨でした。もちろん、この雨はやがてやってくる雨期の前ぶれではありません。
同p.44
そしてもし彼が生きているとしたら今、この重くるしい雨を何処で、どんな気持ちで耳かたむけているのでしょうか。
同p.50
ああ、雨は小やみなく海にふりつづく。そして、海は彼等を殺したあと、ただ不気味に押し黙っている。
同p.91
逆に、フェレイラとの再開やロドリゴの踏絵のシーンでは、太陽が日本や仏教といったキリスト教と対立するもののモチーフになっており、それが「日向の匂い」という当初の題の意図なのではないかと思う。
老僧は立ちどまると、無言で司祭を一瞥し、西陽の照りつける板の間の隅にあぐらをかいた。
同p.222
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。
同p.268
この年の夏は、雨が少なかった。
同p.269
あの西勝寺で彼と始めて会った時も、この肩に陽差しがあたっていた。
同p.276
当初の題の「日向の匂い」については、沢野忠庵や岡田三右衛門となった転びのパードレ達が、穏やかな日々を送る中でふとした瞬間に感じるものだという話を読んだ記憶があるのだが、何の文章だったか思い出せない。遠藤周作文学館だったか。そういう意味でも、日本的日常を表すものとして「日向の匂い」という題名にしたかったのかもしれない。

大いなる原因である一神教の神が沈黙するというのは、理由の不在として解釈することもできる。ものごとには必ず何らかの理由があるとする充足理由律の終着点にいたはずの神は、沈黙したまま何も答えてくれない。つまり、究極の理由が宙吊りになる。そこに至って、ロドリゴという人間の側に理由の在り処を引き寄せるという結末に、どこか仏教らしさを感じてしまうのだが、それもまた、キリスト教徒だったとは言え、日本人が描いたからなのかもしれない。
そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。
同p.295
映画では十字架を盛り込むことで、これとは違った終わり方にしたと言えるが、そのあたりはスコセッシという西洋人としての考えがあるのかもしれない。

もう一箇所少し残念だったのは、モキチが波打ち際で歌うオラショが賛美歌として描かれていたことだ。「オラショ紀行」によれば「じごく様のうた」は日本で作られた歌のようだが、しきりに「パライソの寺に参ろうや」と唱えるあたりに宣教師と切支丹のパライソの捉え方のずれが出ており、そのことが「彼等流に屈折された神」としてフェレイラや井上らによって指摘されることに対応しているので、惜しいと思う。

敬虔な一神教の教徒ではなくとも、西洋の人間の受け取り方はまた違ったものになるのだろう。そういった感想も読んでみたい。