2016-12-31

2016年

今年はよく記事を書いた。
この記事を入れると447本。
全記事で825本だから、実に半分以上が今年のものである。

読書量が増え、bookタグのうち読了したものを数えると36冊になる。
月平均で3冊、だいたい10日に1冊読んでいるペースだ。
読む量が増えたこと以上に、読んで考えたことを言語化することで、
思考範囲が拡がったように感じることが重要なように思われるので、
来年以降も続けよう。
こうして列挙してみると、思考や興味の変遷がわかって面白い。

映像作品を観る量も増えた。
BDやDVD、アマゾンプライム、Youtubeの有料動画等、自宅で
観ることが多いが、今年は映画館にも4回ほど足を運んだ。
映画館に行くモチベーションを掻き立ててくれる良い映画が
たくさんあったのは、2016年の特筆すべき事項だ。
今年最も泣いた瞬間は、「シン・ゴジラ」を1回目に観たときだろう。
(その次は多分「SHIROBAKO」だ)

観劇では、小林賢太郎のステージを2回観に行くことができた。
「うるう」が今年最も笑った瞬間に挙げられるだろう。

今年はAIとVR/ARの話題が急に増えた年だったが、特に3月にAlphaGoが
勝利したことは、充足理由律への再考を促すという意味で、個人的な
思考への影響が大きかった。
理由付けと意味付けという単語を3月頃から使い始め、メイヤスーや
小坂井敏晶、ギブソン等の著作の影響を受けながら、7月頭に随想録として
一度整理した。
それ以降も少しずつ変化しながら発展しているので、そろそろまた
随想録をまとめたい。

かつては回文やアナグラムといった言葉遊びばかりだったのが、
回文が4記事、アナグラムが10記事で全体の3%とは情けない。
暇な時間を読書と思考に割くようになったから致し方ない部分も
あるのだが、感覚が鈍らないように来年はもう少し取り戻そう。

初心忘るべからず。
しょしんわするべからず
しべんするからしょわず
思弁するから背負わず

2016-12-29

あらゆる答えが脆弱なのだとすれば、
すべてのリプライは問のかたちを
取らざるを得ないのではないか。

このこと自体もまた、問のかたちを
取らざるを得ないのではないか。

このこと自体もまた(以下略

2016-12-28

あなたは今、この文章を読んでいる。

佐々木敦「あなたは今、この文章を読んでいる。」を読んだ。
(という文章を、あなたは今、まさに読み終えた。)

屍者の帝国」よりも先にこちらを読んでいたのだが、
後半の「屍者の帝国」読解部分でネタバレを避けられない
ということで、踏ん切りをつけて「屍者の帝国」を読んだのだ。

前半のメタフィクションの整理と、後半のパラフィクションの
解説としての伊藤計劃、円城塔、神林長平の解読はいずれも
とても興味深い。
特に後半は好きな作家ばかりが集まっているのもあり、
非常に納得のいくものだった。
読者の意識的無意識的な、だが明らかに能動的な関与によって
はじめて存在し始め、そして読むこと/読まれることの
プロセスの中で、読者とともに駆動し、変異してゆくような
タイプのフィクションのことを、パラフィクションと呼んで
みたいと思うのだ。
佐々木敦「あなたは今、この文章を読んでいる。」p.222
佐々木敦の言うパラフィクションというのは、神林長平の
いま集合的無意識を、」で初めて実感したように思う。
「屍者の帝国」のエンディングも素晴らしかった。
そして個人的には、「シン・ゴジラ」を観たときに感じた
ことも、パラフィクション的だったように思う。
ところが、震災のことをテレビやネットで第四の壁越しに見て
いたために、スクリーン越しであることが、かえって自分自身で
あることを強化する。
An At a NOA 2016-08-04 “シン・ゴジラ
本来フィクションである作品が、このようにしてノンフィクションとして
受け取れたという事実が、私にとって「シン・ゴジラ」がパラフィクション的
だったことの証左だと言えるだろう。

この本で展開されるメタフィンクションやパラフィクションの問題は、
意識の問題でもある。
ストーリーテラーであるのと同程度にストーリーリスナーであることを
意識が自覚するとき、パラフィクション的な自意識が芽生えるだろうか。

屍者の帝国

伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」を読んだ。

正直、この小説の存在自体が、長いこと苦手であった。
出版された数週間後には取り敢えず単行本を買っていたのだが、
少し読んだっきり放置したまま、四年近くが経っていた。
伊藤計劃を読みたい反面、円城塔がそれを書き継ぐというのは、
どういうことなのかということを消化しようと踏み切るのに、
それだけの年月が必要だったのかもしれない。

円城塔が「あとがきに代えて」で述べているように、伊藤計劃が
構想した、「死んでしまった人間を労働力とする」物語を、まさに
そのままやってのけたという点では、ほとんど唯一無二になり得、
エピローグのⅡにおけるワトソンとフライデーの関係は、
どうしても伊藤計劃と円城塔として読んでしまい、さながら
円城塔による「あとがき」に見えるのである。
(このあたりを詳細に解読した佐々木敦のパラフィクション論が
秀逸なのだが、その話は記事を分けて書く)

言葉を主題にした「虐殺器官」、意識を主題にした「ハーモニー」、
その両方を引き受けた上で、「ありがとう」の五文字を展開する
ために、「死者を働かせ続ける」作業をやり遂げ、こうして
一冊の本にしたのは見事だ。

あえて、「死者を働かせ続ける」という労働を取り上げれば、
心理的身体を維持するための仕組みとしての労働の話に
展開させるのも面白いと思う。
An At a NOA 2016-11-29 “労働

労働からの解放およびベーシックインカムの導入により、
「勤労の美徳」という倫理観からも解放されて数十年が経つと、
若年性認知症の報告数が飛躍的に増加した。
認知症とは心理的身体の喪失であり、労働によらず心理的身体を
維持できるのは、外圧によらなくても理由付けを継続できる
一部の人間のみである。
物理的身体が機能停止することで死者になるのに対し、
心理的身体が機能停止することで屍者が生まれ、その物理的身体は
至って健全である。
そこに「勤労の美徳」がインストールされることで労働力になり、
人々は再び労働に駆り出されるようになる。
しかし、その労働は意識の存続以外には本質的に無意味であり、
意識は意識自身の延命措置として労働から逃れられなくなる。

「ハーモニー」でスイッチが押された後の、その先の物語として、
「わたし」という意識が実権を取り戻す過程としての「屍者の帝国」
というのも、あるいはあり得たかもしれない。

2016-12-24

Google Spaces

最強のグループウェアでありメモアプリでもある、『Google Spaces』を
いますぐ使い始めるべき6つの理由


公開後にインストールして以来、ほとんど使っていなかったのだが、
Google Spacesをメモ帳として使ってみた。

これまで、メモはすべてGoogle Keepに書いていたのだが、
TODO、読書録、研究メモ等が入り乱れ、タグ付けと色分け
くらいでしか整理できない。
まあ、検索機能がちゃんとしているので、あまり問題は
ないのだが、並行して複数の本を読んでいる場合などは、
本ごとにタグを作るのが面倒で、どのメモがどの本について
なのか、時々わからなくなる。

Spacesでは、本ごとにSpaceを作り、さらにテーマごとに
スレッドが立てられる。
スレッドは、本の章や節に対応させてもよいし、考察の
テーマに対応させてもよい。

しばらくこの方式で運用してみよう。

2016-12-23

モデル化の継続

今更ながら振り返ると、理学ではなく工学の方が性に合っていたなと
感じられ、こちらに進んできてよかったと思う。
理学はあまりに真理の仮定が強すぎると思うが、それが合うかどうかは
性格の問題だろう。

エントロピック重力理論が、ダークマターを仮定しなくても観測データを
説明できるというニュースも出ているが、ポアンカレも指摘したように
あらゆる理論は一つの理由付けというモデル化でしかなく、真実というのも
仮定されるものでしかない。
ダークマター存在せず? - 「エントロピック重力理論」と観測データが一致

真実が一つであることを仮定して、オッカムの剃刀を振り回せば、
「正しい」や「間違い」という評価は下されるが、元のツイートで
自虐的に語られる30年や40年はパァになったわけではない。
あらゆる理由付けが単なるモデル化であるからこそ、いずれは否定される
運命にあるかもしれない理論に従って理由付けすること自体にも、何らかの
理由付けがなされ、それを継続することができる。

あらゆるモデル化は無意味だと糾弾することは、意識への反逆であり、
意識がそれをするのは自己否定あるいは自己矛盾である。
ただし、意識はまさにその理由付け能力によって、矛盾を抱えることも
できるのであるが。
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
そうやって世界をモデル化して得心しようとする行為の、
何と役に立たないこと。
そこに意味を見いだせるとは、何と人間的だろう。
An At a NOA 2011-12-08 “numerical models

2016-12-20

セクサロイド

「セックスロボットは人間を過度に刺激する可能性がある」と専門家が警鐘を鳴らす

セックスには少なくとも二つの役割がある。
一つは、有性生殖による物理的身体へのエラーの導入であり、もう一つは、コンセンサスの確認による快楽の成就である。

快楽について、ベルクソンは「意識に直接与えられたものについての試論」の中で、
より大きな快楽とは、より好ましい快楽でなくて何であろう。また、われわれの好みというのは、われわれの諸器官の一定の性向でなくして何でありえよう。
アンリ・ベルクソン「意識に直接与えられたものについての試論」p.49
と述べている。ここで言われている諸器官というのは、もしかしたら物理的身体に限らないのかもしれないが、目、耳、鼻、舌、皮膚といった五感を始めとする諸感覚が快楽に関係しているのは、ほぼ間違いないように思われる。
コンセンサスの確認とは、これらの感覚を一致させることであり、二つ以上の物理的身体が同一の視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を共有することによって達成される。

セクサロイドに要求されるのは、おそらく後者の機能であることがほとんどだろう。前者についても、例えば使用者の生殖細胞を基にiPS細胞を作り、人工培養で胎児を生成するような機械は作れるかもしれないが、その装置は人型である必要性が薄い。後者の場合、人間の物理的身体の特性にマッチさせることの容易さから、人型にすることにメリットがある。VRで実現しようという流れもあるが、物理的実体によっておおよその範囲の感覚をカバーした上で、視覚や聴覚の領域に限って補助的に用いるというのが技術的なコストは低いだろう。

こうして、後者だけを過度に切り離すことができてしまうことの是非を議論することはよいと思う。気をつけなければいけないのは、「倫理」という言葉によって、何を意味しているのかについて自覚をもつべきだということだろう。

心理的身体のセックスとはどのようなものだろうか。
心理的身体へのエラー導入は理由付けによって行われることから、会話や議論等のコミュニケーションによって、新しい判断基準をもつことが前者に相当する。また、コミュニケーションを通して、理由の連鎖のコンセンサスを取ることもできるので、後者の機能を果たす側面もあると言える。

理由を気にせざるを得ない人間は、心理的身体のセックスを求めて会話をし、議論をし、恋愛をし、結婚をし、執筆をし、演奏をする。承認欲求は「コンセンサスの確認による快楽の成就」に相当するのだろうが、こればかりが卓越するのも悩みものである。心理的身体へのエラー導入を、常に忘れないでいたい。それは、サディスティックであると同時に、マゾヒスティックでもあれ、ということと同じことである。
An At a NOA 2016-11-05 “動きすぎてはいけない

2016-12-19

形骸化

いろいろな判断機構が、それぞれの正義をもちながらすり合わせをすることで、よいものができると思うが、その際に具象のレベルですり合わせようとしても難しい。一旦抽象し、圧縮した正義を持ち寄ると、意外とすんなりとすり合わせができて、抽象のレベルではコンセンサスが取りやすいように思う。ここから具象のレベルに落としこむという段階がとても難しく、コンセプトがよくても感動しない建築というのは、ここで失敗しているのだと思われる。

具象を具象のまま扱うというのは、いわゆる形骸化のことだ。ものごとは形骸化することで伝統になり、時に素晴らしい印象をもたらすので、形骸化自体は悪いこととは限らない。抽象を経ないというのは、理由付けされないということで、具象は意味付けによって少しずつかたちを変えていく。ガラスが非常に大きい粘性をもった液体であるのと同じように、かなり固定化した部分がありつつ、完全には固定していないという状態が成立すると、伝統のように、よい形骸化に至るのかもしれない。

固定化というのは、情報の再現性が高いことと同義であり、物理的実体を有するというのはその最たるものである。理由付けによって変幻自在に基準をすり替えられるのは人間の特徴だが、理由付けの抽象過程だけによって存在するのは、情報の再現性の担保が難しく、同一化の対象になりにくいのではないかという気がする。意識がソフトウェア的に実装できたとして、様々なハードウェア上で再生される意識は、果たして一つのものとして同一化され得るだろうか。

物理的実体を具えることがある程度の固定化を保証することで現在の意識の同一化が担保されているのであれば、情報の再現性を増し、同一化され続けるために、身体なき意識や紙媒体なき書籍は代替となるハードな特性を必要とする。
ハードウェアに依存する必要はないが、それに代わる同一性の仮定の基盤を要する、というものだ。
An At a NOA 2016-11-13 “SAIKAWA_DAY30
「すべてがFになる」に出てきたレッドマジックには、rootすら変更不可能なファイル形式が実装されていたが、そういったかたちでソフトウェアにハードウェアが侵入することになるのだろう。そのとき、「よい形骸化」となるような固定化を人間は実装できるだろうか。それを理由付けによって行うのは可能だろうか。

2016-12-16

グラフィックボード

研究室のLinux MintにGTX1050を導入した。
玄人志向の製品で、付属のDVDにはwindowsの
ドライバしか入っていないので手動で入れたのだが、
結構ハマりどころが多い。

1. NVIDIAのサイトからドライバをダウンロード
 nvidia.com/driversにアクセスすると条件に応じて
 必要なドライバが検索できる。
 NVIDIA-Linux-**.runというような名前のファイルを
 手に入れる。

2. ファイルのアクセス権を変更  
chmod +x NVIDIA-Linux-**.run

3. X serverを落とす
 そのまま実行すると、Xサーバを落としてから
 再実行するように表示されて終了してしまうので、
 Ctrl+Alt+F1で仮想コンソールに移動し、  
sudo service mdm stop
をやってみたら画面が真っ暗になったので、
 Ctrl+Alt+F2で別の仮想コンソールに移ってみる。
 ここで  
sudo sh NVIDIA-Linux-**.run
として実行したら無事ドライバがインストールできた。

文字が小さいのが不便なのだが、cinnamonだとスケーリング
できるのにMATEはできないらしい。
しばらくこのまま使うか。

これまで、モニタは4k対応しているのに、オンボードグラフィックが
対応していないせいでQWXGAで出力していたのが、やっと解消した。
せっかくなので4k映像を見てみる。
星空を低速度撮影した映像を見ていると、恒星が足並みを揃えて
地球の周りを周回しているよりは、地球が回転していると考える方が
自然な気がしてくる。
仮に人間の体感する時間の速度がもっと速かったら、天動説は史実よりも
かなり早い段階で棄却されていたんじゃなかろうか。

知る

何かを知るというのは、その対象の見方を増やすことだ。

見方というのは抽象の仕方、理由の連鎖のことである。
鎖の長さを長くするのは、深さ方向に見方を増やすことに
相当し、別の鎖をつなぐのは幅方向に見方を増やすことに
相当する。
深さ方向に多くの見方をもっている人間は専門家と呼ばれ、
幅方向に多くの見方をもっている人間は物知りと呼ばれる。

その知識の真偽というのは、他の鎖との整合性によって
決めるしかなく、「正しい」知識なんていうものがあると
いうのは信仰でしかないが、集団を維持するのには必要な
ものではある。

このところ、googleやfacebookが「偽の」情報と呼ばれる
ものを如何に排除するかが取り沙汰されている。
どのような方式を取るにしても、それはフィルタでしかないが、
そのフィルタの仕方が集団の在り方を決める。
ユーザ側にそのフィルタを任せるという方式は、集団としての
体をなさなくなることにつながる気がするが、シロクマさんが
言うように、ユーザ同士がクライアントサーバ型ではない集団を
形成するのをサポートする方向に縮小していくのかもしれない。
シロクマの屑籠 2016-12-16 “結局、大事な情報は人が持ってくる

怖いのは、皆が皆、出来物を選び取ることに終始するように
なることだ。
これは、同じ同一性という正義を共有できることから生まれる
安心感だろうか。
それとも、単に自ら圧縮する手間を厭うことによるものだろうか。
An At a NOA 2016-10-04 “圧縮情報
でも、そもそも意味付けや理由付けといった抽象過程自体、
選択することである。
その差は、選択候補の圧縮率の違いにあるのだろうか、それとも、
抽象過程における圧縮率の違いにあるのだろうか。
なんとなく後者な気がする。
前者の場合、他人の論考という圧縮率の高い対象を題材にしても、
優れた抽象を施すことで、一つの優れた論考にすることはできる。

知識の真偽を設定する以前の問題として、抽象することを怠った選択には、
知識になる資格などない。

2016-12-15

何故

「何故」という問から逃れられない限り、
科学か宗教のいずれかには頼らざるを得ない。

科学も宗教も、唯一の理としての真理を仮定するが、
宗教はすぐに真理へと短絡するのに対し、科学は
真理への短絡を可能な限り避けるかのように、
理由の連鎖を長くするという点に違いがある。

人工知能開発や意識の解明における最後のピースは、
この「何故」の問とどう向き合うかにかかっている。
それは、どう向き合うことにするかというだけであり、
どう向き合うことが正しいのかと問うのは堂々巡りに
しかならない。

2016-12-14

近距離信仰

直接性の神話と同じくらい強く信奉されているのは、
近くにいる人間は同じような価値観をもっていると
いうことだ。
前者に比べると後者はやや薄れつつあるが、それでも
漠然とした海外への憧れのようなかたちで根強く
残っているし、実際にある程度の妥当性がまだまだ
あるように思う。

両者はいずれも、近距離への信仰だと言える。
距離が近づくことで通信量が増え、コンセンサスが
取りやすくなるのは間違いないと思われるので、
かつてはかなり的を射た信仰だっただろう。

通信の範囲が拡がり、速度が速くなるのに合わせて、
それらが信仰でしかないということを、もう少し
気に留めるのがよいように思う。
通信形態が集合の在り方を決めるように思われるのに、
通信の変化が集合の変化に直結しないのは、この手の
信仰が大きな慣性になるからなのかもしれない。

Post-truth

和田隆介さんによるWADAA2016の総括に、
Post-truthという言葉が出ていた。

いくつもあり得るはずの理routeを、唯一だと
仮定することで真理truthが現れるという話を
以前書いた。
An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖

truthを仮定することによって、集団は維持されて
きたが、Post-truthの時代において、集団の在り方は
どのように変わるだろうか。
ここで集団と言っているのは個人の集まった社会に限らず、
一人の個人の在り方にも関わる。
心理的身体は、一つだという自覚がありつつ、コミュニティに
応じて発現の仕方が違っているということが多い。
物理的身体が直には現れない、ネットワーク上の
コミュニティにおいては、それがさらに顕著になる。
もはや一つの心理的身体の別側面なのか、複数の心理的身体
なのかは不明確であり、そもそもそれを明確化する必要もない。

truthの時代というのは、そういった境界を明確にすることで
集団を強固にしていたということだろうか。
だとすれば、Post-truthの時代には、その都度設定されるrouteを
頼りに、temporaryな集団が立ち上がることになるだろうか。
ポストモダンの思想的根拠」を読んだときに考えたことにも通ずる。

Post-truthにおけるtruthの採用の仕方は、投機的短絡と似ている。
固定化を免れるために、常に本来の意味でのhuman errorを含んだ
routeが探索され、複数の視点でチェックされることで仮のtruthに
なったrouteは、そこに現れる集団のrootになる。
これが上手くいくと、correctnessに執拗にとらわれない、rightnessに
よる集団が出来上がるのだろう。

p.s.
Post-truthという語について調べてみると、「真実や事実ではなく
感情に訴えること」というニュアンスで語られていることが多く、
真実というものは本当はあるという仮定を崩していないようである。
その思い込みに対する反動として、Post-truthと呼ばれるに至った
のだと思うのだが。
正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが
生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.166

Waymo

昨日今日でGoogleの自動運転車に関する記事が二つ出た。

一つは昨日The Informationに書かれた
という記事。
もう一つは今日Mediumに書かれたJohn Krafcikの
という記事である。

前者はsubscriptionが要るので全文は読めていないが、文責のある人間はGoogleの人間ではなく、記事にはaccording to people close to the closely-watched projectとある。後者は前Google自動運転車部門のCEOで、新しくWaymoのCEOに就任した人間が書いている。

前者の記事自体は特に責められるようなものではないのだが、昨日のキュレーションサイトはこの記事(を引いたbusiness newslineの記事)を引いて、「Googleが自動運転車から
事実上撤退か」みたいな論調で騒いでおり、なんだかなー、という感じである。

自動車の運転に関しては、人間が使う制御機構を実装しない完全自動運転車が実現して欲しいと思う。

トロッコ問題のような倫理の話を持ち出して、correctnessからrightnessの問題にすり替えるのであれば、ハンドルやブレーキは残すべきだ。しかしそれは、意識のせいでcorrectnessが損なわれる代わりにrightnessを用意しているだけである。もちろん、rightnessを持ち出す方がよい場面もあるが、交通が高速度で広範囲に渡る場合に関しては、そうは思わない。

人間の操作が介入するせいで交通は乱れ、けが人や死者が出る。倫理的判断を組み込めば、rightな損失を取ることで、ある集団にとっての納得は得られるだろうが、その集団が人間全体と一致することはおおよそあり得そうには思えない。冷酷にみえるかもしれないが、correctな損失を取り続けることでしか、自動運転車の運用は続かないと思われる。それは、死の受け入れ方の問題である。

また別の話で、運転をすること自体が心理的身体の維持に役立ち、認知症に至るのを防いでいる側面もあるかもしれない。しかし、心理的身体の維持は別の方法でも行えるので、運転車自身を含む、少なくない物理的身体の損失する可能性をはらんだままにしておく妥当性はないように思われる。

高速度で広範囲な交通の理想形はユートピア=ディストピアである。正義が一意に決まり、correctnessが担保されることで、損失の数は劇的に減るだろう。究極的には、心理的身体だけでなく、物理的身体も消え去る。人間の物理的な移動は、局所的で低速なものに限るのが理想だ。

2016-12-12

レヴュー

今日は設計と研究の両方のレヴューに関して
よい知らせがあった。

設計に関しては、意匠設計者が構造や施工
について案を練ることに熱心だったし、
それに触発されて考えを深めることができた。
審査員からも、まさにその点を評価してもらえた
ことで、手応えが得られたのは嬉しい。

研究に関しては、基礎研究寄りの主題で、面白さが
伝わるかが微妙だったのだが、しっかりと査読者に
読み取ってもらえた。
長らく離れていたこともあり、詰めが甘いのは
直さないといけない。

いずれもレヴュワーが複数いるとはいえ、ある評価軸で
切り取った評価であるため、気は抜けない。
しかし、自分以外の人間に、自分が考えた面白さを
しっかりと伝え切るというのは、面白さを知るのとは
また違った楽しさに溢れている。

このブログにおいて言語化を継続することで、
出力側にも少しずつ慣れてきている。
一先ず、出力結果が無事評価してもらえたことに、乾杯。

空の色

とっても面白い。

物理的身体の外部において、レイリー散乱による特性を
得た情報を、物理的身体の特性を介して抽象することで
青に見える。

知覚の段階においてすら、情報の特性と物理的身体の特性の
影響を受けているのだから、感覚の段階でさらに心理的身体の
特性の影響を受けると、空の色なんて千差万別なはずである。

意識の還元

神経系に生じる活動電位のパターンで意識を説明することは、
ディープラーニングの隠れ層に判断の理由を付けることと
同様の困難さをはらんでいる。

その理由付けを必要としているのは、無意味に耐えられない
人間だけであり、本来理由がないものであるから、そのモデル化
にはある程度の任意性が残る。
そして、その任意性によってモデル化の必然性は弱まり、
結局はその説明を受け入れるか否かというだけの問題に
なってしまうのだ。

それはつまり、相関と因果の違いと同じことだと思うのだが。

自由意思

自由意思の自由度は、理由付けの投機度から生まれる
以外にないと思われる。
リベットの実験で実証されたように、理由付けが事象の
後に起こっていようが、どのような理由でその事象を
解釈するかの選択ができることに、当該意識の自由さが
現れている。

意識は投機的短絡に基づく理由付けによって実装されて
いるから、そもそも定義的に自由なのである。
そして、理由付けによる理由の連鎖の果てに獲得される
主観性は、あらゆる判断の原因として、暫定的に仕立て
上げられるという点でも、責任の担い手として、自由で
あることが要求されるのだ。
責任を問いたいがために自由が想定される。
An At a NOA 2016-09-05 “表現の自由” 

2016-12-11

意味の補完

独り言や車内での通話を耳にしたとき、
無意味に耐えられないことで、理由付けを
施してしまうために、不可避的に余計な
エネルギーを費やしてしまう。

そのエネルギーを節約したいがために、
そういったものに不寛容になってしまうの
かもしれない。

intelligence

artificialでないintelligenceなんてあるんだろうか。
それはつまり、教育という行為をartificialと呼ぶか
否かという問題だろうか。

教育という行為が本当に存在するという信奉と、
人工ではない知能が存在するという信奉は、
両立しないように思われる。

2016-12-10

一面的な最適化

ある方向からだけ見ながら最適化したものは、
とてつもなく脆くなる。

アルゴリズムによる構造体の最適化においては
想定した荷重に対しては最適だが、他の荷重に
対しては脆弱なものに収束することがあり、
それを回避するために冗長性が導入される。
3Dや彫塑でも、ある向きだけから作業していた
のでは、別の方向から見たときの形状が整って
いるかは定かではない。

建築の設計もまた同様で、意匠設計、構造設計、
施工監理、鉄骨製作等の様々な観点から整理
しないことには、よい建築にはならない。
建築の雑誌には、設計サイド、特に意匠設計の
観点からの整理のみが載ることが多いが、
個人的にはそれだけ読んでも「ふーん」くらい
にしか思えない。

思考もまた例に漏れず、多方向からの観点を要する。
これを一人の人間として行うのはとても難しいが、
できるだけ方向を固定化しないようには努めたい。
多方向から並行して最適化したものは、一方向からのみ
見ると最適でない領域が残るため、批判が出るのは
仕方がない。
しかし、一方向だけから最適化したのでは得られない
よさというのは、多くの人間に伝わるものである。
できるだけ多くの視点からの解釈に耐え得るものは、
当人が意図しなかった解釈も呼び込むことで、場所や
時代を超えて残っていくように思われる。

2016-12-09

思考の速さで

思考の速さで思考したい。

この感覚を言語化するのは難しいのだが、この表現が
一番しっくりくる。

道具というのは、物理的身体あるいは心理的身体の
抽象過程を外部化したものである。
思考という、心理的身体による抽象も、外部化された
道具によって部分的に補助されるが、道具の利用は
物理的身体を介することになるため、物理的身体の
抽象による心理的身体の抽象の中断を如何にして減らすか
ということが問題になる。

構造設計で言えば、電卓あるいはPCがその手の道具になる。
RPN電卓に対しては、自分自身の思考の方を適合させる
ことで障壁を下げることができた。
PCではVimとAutoCADに物理的身体を慣らしているが、
できれえばLinuxに移行したいのでCADソフトウェアは
悩みどころだ。
そして、構造解析はstをチューニング中である。
他人が作ったソフトウェアには、物理的身体の方を慣らすしか
ないのに対し、自分で作るソフトウェアは、心理的身体の特性に
合わせて操作方法を変えられる。

究極的には、考え事をするスピードで、設計をする。
それが、思考の速さで思考する、ということだ。

2016-12-08

安全と安心

安全は外部の評価であり、安心は内部の評価である。客観と主観の違いと言い直してもよい。

近代以降、一般性という名の交換可能性を推し進める中で、安心よりも安全が優先されてきたように思われる。その反動として、安心を重視する視点が現れるのはもっともであるが、安心ばかりに振れてもバランスがとれない。

それぞれが内部で安心しているだけでは、共通の基盤がなくなることで生じる齟齬も多くなり得るということは、常に心に留めておくべきである。

スタンドプレー

我々の間には、チームプレーなどという都合のよい
言い訳は存在せん。あるとすれば、スタンドプレー
から生じるチームワークだけだ。
「攻殻機動隊S.A.C.」第5話
スタンドプレーは、その連関をみるものの存在によってのみ
チームワークになる。
伝統的な意識観では、意識はチームプレーを主導するものと
思われているが、むしろチームワークをみるものという方が
妥当なように思われる。

2016-12-05

FPGAの透過的利用

Linux OSからFPGAを透過的に利用する構想。
文字列処理をCPUからFPGAへオフロードで
10倍速になった研究結果をミラクル・リナックスが発表


ハードウェアとソフトウェアの境界は、こうして
徐々に薄れていく。
それは、物理的身体と心理的身体が膠着していく
ことのように思える。

優れた職人の物理的身体は、その作業に特化した様が
「ペンだこ」のようなかたちで表出することがあるが、
そのセンサ特性を手に入れたとして、汎用型の心理的身体は
技術を手に入れることになるだろうか。
無意識は物理的身体に含まれるとすれば、技術としては
手に入った状態と言えるだろうが、それを運用するのは
やはり心理的身体の領分のように思われるので、飲み込みが
早い職人のたまごになる、といったところか。
いくら職人でも、気がつくとものができているという
ことはなく、作業手順は説明ができるが、コツは言語化
できない、ということなのではないかと想像される。
作業手順は心理的身体、コツは物理的身体の領域である。

ゴーストの実在性についての覚書

絞首台の黙示録」のときに書いたゴーストの
実在性について。

物理的身体の完全な複製が行えれば、オリジナルと
コピーの差分は存在しない。
むしろ、差分が存在しないことが完全な複製の
要件である。
その際にゴーストが失われるように見えるとすれば、
それは見る側に存在していたものである。

意識は、入力される情報に秩序が先行して内在されて
いるのを感じるとき、そこに理由をみてしまう。
それは神の意思かもしれないし、他者の意識かもしれない。
あるいは、自らの意識の可能性もある。
理由律に絡め取られたセンサは、原因を求めて彷徨い歩く。
それは、神、他者あるいは自己に出会っただろうか。
An At a NOA 2016-07-23 “ウロボロス

物理的身体の複製によって情報が入力される回路が
分離されると、コピー先の心理的身体で別の抽象が
行われることになり、これは、コピー元の心理的身体
にとっては、外部での秩序形成に相当する。
コピーされた当人は、秩序が外部化されることで、
コピー先の抽象機関は他者に感じられるだろう。
それ以外の人間にとっては、コピーされた時点では
両者に違いがないものの、抽象による変化の蓄積
としての記憶=過去が複数系統に分かれることで、
別の人物へと分離したように感じられるだろう。
しかし、オリジナルとコピーの、どちらかにゴーストが
存在し、もう一方には存在しないとするのは、受け手側の
都合でしかない。
受け手の意識内で、片方がコピーされたものだという
知識が織り込まれることで、その受け手にとっては
ゴーストの複製が失敗することになる。
攻殻機動隊では、ゴーストダビングの過程でオリジナルの
ゴーストが失われる問題が描かれたが、それはつまり、
オリジナルではなくコピーにゴーストを見ることによる、
受け手側でのオリジナルからのゴーストの奪取である。

物理的身体と心理的身体はいずれもセンサ特性を有し、
それによって個が特徴付けられる。
同一のセンサ特性を共有するのであれば、物理的身体や
心理的身体が単数だろうが複数だろうが、一人の人間で
あり続けられるだろう。
臓器移植のような、物理的身体と心理的身体の依存性の問題は、
センサ特性の一致度を担保することで、ぎりぎりのところまで
分離する方向に進むのかもしれない。

AIは抽象機関そのものをつくることでゴーストを立ち上げ
ようとするが、外部に抽象機関を挿入するという点では、
VRもまた、一種のゴーストダビング装置なのかもしれない。

2016-12-04

SHIROBAKO

「SHIROBAKO」を観た。

アニメ制作の現場が主題だが、建築の現場にも
通ずるところが多く、とても感銘を受けた。

建築では施主が原作者やスポンサー、意匠設計が監督や
プロデューサー、構造設計や設備設計が脚本や演出、
現場監督が制作進行、職人が原画や3D、美術、声優等に
あたるだろうか。作監や美監は主任技術者か。
原作者、監督、デスク、作監等が、それぞれ自分の基準を
ベースにプライドをもちつつ、ある部分では頼り、ある部分
では無理を強いながら、一つのよいものを作ろうとする姿は
見習うべきところが多い。

アニメ業界では原画上がりで監督をやったりする人も多い
だろうが、建築では有名な意匠設計者や構造設計者に職人
上がりという人はほとんどいないように思う。
そういう設計者と一緒に仕事をしてみたいとも思うし、自分
自身、木工だけでなく溶接や建方等のものづくりの経験を
もっと積みたい。
まずは、同じ脚本を書くにも、監督やデスクだけでなく、
作監や美監を始めとした職人勢とも話をする機会を、多くの
現場でもてるとよいと思う。

全体のストーリィの他にも、ところどころでものづくりの
よい話が出てくる。
22話に出てくる、藤堂美沙の作った3Dに対する安原絵麻の指摘、
「3Dはコンピュータが自動で中割りをしてくれるでしょ」は、
設計が自動化していく中で、自動化によって省略される部分を
如何に上手く使うかのヒントになる。
テンポやパースが正確すぎると、逆に快感が湧かないんじゃないかな
「SHIROBAKO」22話
その場で藤堂美沙が修正してみせたように、省略された部分を
見つけ、適切な修正を施すことで、コンピュータの処理結果と
して得られる出力でも快感が湧くようなものにはいくらでも
近付けられるだろう。
そのためには、自動化によって省略される部分を意識することと、
必要に応じて自動化部分の較正を行うことを忘れないことだ。
人間が快感を覚えるような出力を調整するための、最も有能な
キャリブレータは、今のところ人間自身なのだから。

2016-12-02

整合性の破綻

意味付けのみに基づく自然な判断機構においては、整合性が破綻しない。それは非常に長い時間スケールにおいて、すなわち、多数の判断機会を確保することで、整合性を担保しながら判断および変化していく。自然の織り成す風景が美しいとすれば、そのような理由の不在による整合性に由来するのだろう。

そこに投機的短絡を持ち込むことで、整合性を破綻させる代わりに、とてつもなく短い時間スケールの中で判断および変化するようになったのが、理由付けに基づく意識という判断機構である。

破綻した整合性を何とか補修しようとする努力としての学問は、その究極として、整合性の復活による自然の美しさの再現を目指すが、ゲーデルの不完全性定理によれば、演繹的な手法は整合性を担保できない範囲を有し、また、整合的であることを自ら示すこともできない。

理由を欲する人間は、AIのはじき出す論理に基づかない整合的な判断を受け入れるのに苦労するだろう。理由付けによってわざわざ崩した判断の整合性を、論理によって再生しようとする様は、とてつもなく滑稽にみえるかもしれない。しかし、その方法によって意識はこれだけ短い時間で多くの判断を下してきたのだ。

では、情報処理能力の発展により、短い時間スケールにおいても多数回の判断が下せるようになったとき、そこに理由を求める理由はなんだろうか。こうして、充足理由律の渦の中に落ち込んでいく人間を描くSFも面白いかもしれない。

2016-12-01

絞首台の黙示録

神林長平「絞首台の黙示録」を読んだ。

途中、畑上ユニットで行われている研究と意識についての
話が展開されるあたりまではものすごく面白い。
でも、最後50〜60ページの展開は期待していたものと
ずれにずれていき、なんだかなという感じだった。

新陳代謝をする物理的身体は、神経細胞や心筋細胞等の
非再生系細胞を除き、6年程度で細胞がすべて入れ替わると
言われている(このあたりの出典を知りたい)。
だとすれば、物理的身体と心理的身体の分離性は明らか
であるように思われる。
ここで言う分離性は、心理的身体が物理的身体のセンサ特性の
影響を受けないという意味ではなく、同じセンサ特性をもつ
物理的身体であれば、構成要素は違ってもよい、という意味だ。

神経系を介して行われる情報処理過程の一部が意識という
心理的身体として発現しており、そのセンサ特性である記憶は
神経系の回路の結線状態として維持されるのであれば、
その状態を複製することで、心理的身体も複製される。

複製が完全であれば、オリジナルとコピーの区別はなく、
複製時点では同じセンサ特性=記憶を有する心理的身体が
誕生する。
そこから先は異なる情報処理をすることで、記憶は少しずつ
ずれていき、同じ意識ではなくなっていく。
情報処理内容を同期することで、一つの人格として維持する
ことは可能かもしれないが、複数の物理的身体に接続された
単一の心理的身体というものが、どのような身体感覚を
有することになるのかは想像するのが難しい。
(いわゆる多重人格の逆の状態である)

畑上ユニットで行われていた研究の究極の目標は、非再生系
細胞も含めた、物理的身体の完全な複製だと解釈できる。
オリジナルをどのように保存するかという問題はあるものの、
新陳代謝のような入れ替えではなく、オリジナルとコピーの
両方を残しておくような複製が可能になれば、上記のような
事態は起こり得る。

オリジナルとコピーのいずれもが、我こそは自分だと言うだろう。
それと対峙し、コミュニケーションをとった相手も、いずれの
ことをも、その人物だと認識できるだろう。
攻殻機動隊のゴーストのような、複製の過程で消滅するような
「何か」を仮定するのは、とても不自然であるように思われる。
それよりも、投機的短絡によって、あらゆることに理由をみてしまう
情報処理過程が、これまでの情報処理に基づいて更新されてきた
センサ特性=記憶によって、それ自身、あるいは、他の情報処理過程
につける理由として、常に同一化されるものだとみなす方が、
よっぽど自然である。
意識とはそういうものだ。

そういう点では、邨江という意識が周囲の人間の思い込みによって
そこに飛んできたというのもわかるのだが、むしろ上記のような
物理的身体の複製に伴う心理的身体の在り方の方を掘り下げた物語を
読んでみたかったな、というところだ。

2016-11-30

倫理というエゴイズム

自動運転カーが避けられない事故で歩行者と乗客のどちらの命を
優先させるのかという「倫理的ジレンマ」をどう解決するべきか?


倫理とは、つまるところ、人間を基準とした正義のことである。
リヤド・ロウワンの言っているゼロ番目の法則というのは、
「AIは人間の正義を第一に行動せよ」というエゴイズムに過ぎず、
人間としてはそれでよいのだと思うが、そのことに無自覚なまま
でいることは、エゴイスティックでいること以上に問題を引き起こす。

社会的ジレンマが意味するのは、correctnessを押し通すにあたって
最も障害になるのは意識であるということだ。
何もかもがcorrectである世界において、意識という理由付け回路は
邪魔以外の何ものでもない。
それが、意識が病気とみなされるということだ。

おそらく、倫理というエゴイズムを貫くには、correctであることを
諦めざるを得ない。
実装した意識によって、正義を変形させることで獲得した倫理のために、
correctnessは損なわれた。
correctnessを回復しようとするあまり、倫理の方を見失うようでは
本末転倒なのではなかろうか。

2016-11-29

労働

労働の目的の一つに、物理的身体と心理的身体の
維持があるが、徐々に物理的身体についての役割は
薄れつつある。

物理的身体の維持は、外部に委譲しても弊害が少ない。
あるとすれば、「働かざるもの食うべからず」的な
集団からの是正勧告だが、それも集団的に許容される
方向に判断が変化することで減っていくだろう。
現状では未成年、老人、身体障害者等が許容される範囲
であり、年金や生活保護等の仕組みによって物理的身体が
維持される。

心理的身体の維持は外部への委譲が難しく、労働以外の
選択肢を見つけられないものは、心理的身体を徐々に
失っていき、認知症と呼ばれるに至る。

労働を失うのが危惧されるのは、それ以外の方法で自らの
力で心理的身体を維持することに困難を覚える人間が多い
からだろう。
子どものように、働いたことがない人間の方が、労働の
委譲に対して楽観的なのではないだろうか。
労働によらなくても心理的身体を維持できる人間は、
物理的身体が維持できるのであれば、労働を選ばなければ
いけない理由はない。

労働は一種の麻薬である。
心理的身体を維持するために、あまりに依存し過ぎると、
奪われるのが怖くなる。

2016-11-28

スタジオカラー10周年記念展


スタジオカラー10周年記念展に行ってきた。

アニメ制作もデジタル化していく中で、こういった
「もの」の展示がいつまで効力を発揮するのかには
興味がある。

来場者に配られる冊子のインタヴューを読むと、
やはり手仕事として残っている部分はまだあって、
作り手としても残したい部分があるようだ。
これは、構造設計でも同じだろう。
どれだけ高性能なハードウェアやソフトウェアが
できたとしても、自分で設計するならRPN電卓と
スケッチ用の紙とペンは使いたい。
電卓も自分でアプリを作ったが、やはり物理ボタンが
あるのとないのとでは、速度と精度が圧倒的に違う。
視覚的には十分でも、触覚へのフィードバックが足りない。

フルデジタルで作られたアニメーションの制作過程を、
わざわざプリントアウトして「もの」にして、見る側を
物理的に集めて展示を行うことは、何か意味を持ち得る
だろうか。
デジタル空間でデータ配信を行い、各自がHMDをつけて
自宅で見るのでは得られない「何か」(それはつまり、
いわゆるアウラなのだろうが)は、それでもあるのだろうか。
現実を構成するためのコンセンサスの幅が狭いと言うので
あれば、それを補強することだってできる(ニコニコ動画は
コメント機能によって、それを行った)。
それでもそこにアウラを見るのであれば、それは知覚が
感覚に
なるときに織り込まれた情報によるものであり、
要するに思い込みだ。

より大きいコンセンサスへの希求としてのアウラは、
充足理由律と同根だろうか。

そう言えば、デジタル空間は何次元にみえるんだろう。

p.s.
表参道に行ったついでに、蔦珈琲店に立ち寄った。
旧山田守自邸を改装した建物のようで、庭がきれいだ。
そして、コーヒーがうまい。
また行こう。

現実

現実は、コンセンサスが得られることによって立ち上がる。
コンセンサスが得られている様を現実と呼んでもいいくらいだ。

一つの物理的身体の各センサにおける抽象が同期化されること
によっても一つの現実は得られるが、その現実は、そこに実装された
一つ(あるいは少数)の心理的身体にとってだけのものであり、
夢や幻覚との区別はないと言ってよい。
機械人間オルタが漂わせる虚ろさの原因は、この点に尽きる。

複数の物理的身体/心理的身体間における通信によって得られる
コンセンサスからも現実は立ち上がり、これが一般的に現実と
呼ばれるものだ。
ここで言う現実はもちろん一つである必要はない。
むしろ、コンセンサスが得られていることを確認することが、
現実という言葉を持ち出す唯一最大の目的とも言え、当該
コンセンサスに無関係な事柄はその現実にはいないとみなしても
差し支えない。
これは、何かが実在するとして、それが「現実」という名の複数の
異なる領域に実在するということではなく、むしろ「現実」という
設定の方が、実在するものの後から想定されるものに過ぎないという
ことである。
「先生……、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」
森博嗣「すべてがFになる」p.357

Virtual Realityは仮想現実というよりも、実質的現実という訳の方が
しっくりくる。
それはつまり、現実を構成するためのコンセンサスをとる通信相手と
して、新しい種類の抽象機関を用意することで、「実質的に」立ち上げ
られた現実という意味だ。
通常の現実においては、複数の抽象機関が同じ情報を抽象し、その内容の
同一性によってコンセンサスが生まれるが、新種の抽象機関においては、
相手の抽象が既に行われた状態でこちらが抽象を行うことになる。
これによって、こちらでの抽象の仕方について、予めある範囲が想定
されることになるが、これがおそらく、外部に圧縮過程が挿入された
感じを生むのだろう。

久々にひどく言葉足らずな内容になってしまった。
取り敢えずの覚書として残しておこう。

2016-11-25

算数を教えるのに必要な数学的素養

この小論はとてもよい。

日付が1993年4月21日となっているから、自分が小学生の
ときにも、既にこの手の問題があったようである。
自分がそういう教育を受けたかどうかは覚えていないが、
小学校時代の恩師の中に、可換環についてちゃんと説明
できる人がいるかは怪しいものである。

低学年の段階で、一旦非可換であるものとして教えるのも仕方がない。
指導要領がそうなっているとしたら、それも仕方がない。
教育というのは、多かれ少なかれそういった不具合を内在しているものだ。
しかし、本来可換環である整数環を非可換環として扱うからには、
その非可換性について児童が疑問をもったときに、しっかりと
答えられるようであって欲しい。
あなたたちの中で、整数環の可換性について述べられる者が、
まず、この児童に石を投げよ。

説明

理由付け回路としての意識は説明されることを嫌う。
それは、ある型枠に嵌められることで、過度に固定化
されることを避けたいためであろう。

…という説明すら、されるのを嫌うだろう。

笑い

アンリ・ベルクソン「笑い」を読んだ。

ベルクソン自身も言うように、可笑しさによって引き起こ
される笑いを少数の言葉で定義するのは非常に難しい。
しかし、敢えて本書を読んで心得た「可笑しさによる笑い」
をまとめるのであれば、「集団が、固定化と発散の間で
バランスを取ろうとする衝動」というようなイメージになる。
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス
と書いたように、生命というのは秩序を生み出すことで
ありながら、常にその秩序に収束することを避けている。

日本語では「おかしい」という語が「面白い」と「変である」
の2通りの意味で用いられるが、固定化を避けようとする衝動が
前者、発散を避けようとする衝動が後者のように思われる。
風刺画はその程度を強調することで可笑しさを助長するが、
それは細かすぎて伝わらないモノマネにも共通する。

ベルクソンは強張り、機械仕掛け、自動化等と言った語で
固定化のことを表現しているが、当人が気付かないまま、
何か特定の秩序に収束している様は避けるべき状態として
可笑しさをもたらす。
吉田篤弘の小説に出てきた、「パントマイムの秘訣は、あると
思い込むのではなく、ないことを忘れることだ」というシーンを
思い出す。演者が意識していない機械仕掛けに見物客が気付く
ことで可笑しさが生じるのだ。
演者がそれを意識してしまったのでは、どこが面白いのかを解説
された後に聞く冗談のごとくシラけたものになってしまう。
それは、解説によって、固定化に対する危機が解消されてしまい、
衝動が生じなくなってしまうからだと言える。

可笑しさが、孤立した状態では感じられず、文化、常識、習慣、
言語等の基準を共有する受け手の間での共通認識として生じ、
反響しながら広がるというのは、それが集団的な反応である
ことに対応しており、第三章「性格の可笑しさ」において、
非社交性が可笑しさをもたらすと言われるのは、それが集団
からの逸脱という発散につながるためだと考えられる。

不条理が可笑しさを創造するのではなく、むしろ可笑しさから
不条理が派生する。
アンリ・ベルクソン「笑い」p.167
というのは、可笑しさと善悪がどこか似ていることを示している。
集団においては、可笑しさが反響して広がり、共有されることで、
「これは可笑しかった」という結果を生み、その集団としての
可笑しさの基準が常に更新されていく。善悪の基準もまた然り。

笑いはなによりもまず矯正である。笑いは侮辱するためにできていて、
対象である人格に苦痛な印象を与えなければならない。
社会は、人が社会に向かって行使する自由に対して、笑いによって
仕返しする。
同p.179
とあり、笑いが一抹の苦味を含むと言われるのも、バランスを取る
ための衝動だと考えれば当然のことだろう。

p.s.
第三章では芸術論も出てくるが、ここでベルクソンが詩的想像力
と呼んでいるものが、非同期処理の同期化のやり直しに対応する
だろうか。

2016-11-27追記
吉田篤弘の「空ばかり見ていた」を読み返したのだが、
上記のパントマイムのシーンが見つからない。
村上春樹の「納屋を焼く」だったかもしれない。

2016-11-24

エアコンとVR

エアコンをVR装置と呼ぶか否かという問は、
案外難しいように思われる。

エアコンの究極形は温熱感覚にとっての
VR装置なのだろうか。

雪と紅葉


雪と紅葉が同時に見られるのは、向こう50年はないかもしれない。
もうこれが最後かもね。

雨が銀杏の金の葉を落とす

雪がすべてを真白に包む
吉野弘「風が」

zero shot translation

Zero-Shot Translation with Google’s Multilingual
Neural Machine Translation System


GNMTにあらゆる理由付け機関の入力を集約することで、
バベルの塔の夢を部分的にでも叶えることは可能だろうか。
An At a NOA 2016-11-12 “GNMTというプロトコル
と書いたようなことを、実際にやってみているらしい。

おそらく、Zero-Shot学習というのは、こうした意味付けに
よってしか成し得ず、理由付けベースでは不可能だろう。
言語は、一見理由付けに基づく意識によって規定されている
ようでいて、その実、多数の理由付け回路間の通信に基づく
意味付けをベースにしている。

記事中にinterlinguaという語が出てくるが、これこそ、
数々の人工言語が叶えられずにいた「バベルの塔の夢」
だったのではなかろうか。

こういうニュースを見る度に、AlphaGoが人間に勝ったとき
ことを思い出す。

天気予報

朝起きてカーテンを開けると、天気予報のとおりに
本当に雪が降っていた。

降水現象に比べると、気温の予測の方が精度が高いと
言えるだろうか。
それはつまり、熱伝導方程式とナビエストークス方程式の
違い、エネルギー保存と運動量保存の違いによるもの
だろうか(ちょっとずれている気もする)。

そう言えば、冬が乾燥するのって、気温が下がると
飽和水蒸気量が低下するのと関係あるんだろうか。
だとしたら、当日の気温条件が同一の場合は、それまでの
気温が高く推移していた場合の方が、雪が降りやすいの
だろうか。

2016-11-23

pure functional

ピュアな関数型パラダイムというのは、
correctnessの確定を先行させるというのは非常に効率が悪く、
場合によっては解に至らない。
An At a NOA 2016-11-15 “読解力
という方向性に近いイメージがある。

あらゆる箇所の参照透過性を確保して、完全にcorrectな系として
プログラムを完結させることは、ある程度以上の規模になると
人間にはつらさが出てくる。
それは、意識が投機的短絡をベースに成立しており、必ずしも
correctでない状態でも、何とかすることで判断を続行することに
慣れているからだ。

correctnessを逐一確認するような機関を挟めばよいのだろうが、
それってこのところ人間が苦労している問題そのものじゃなかろうか。

2016-11-22

臓器移植と金森修

臓器移植法改正案に反対した科学哲学者、金森修さんの思い

金森修は今年亡くなり、書籍部の追悼フェアで名前を知った。
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する」に携わっていた
ということで調べてみると、上記のインタビュー記事を見つけた。

是非はともかくとして、金森修の姿勢というのは見習うべき
ものである。己の信条をもちながら、それとは異なる意見が
あることも承知し、共存しながら問題提起をしていく。

臓器移植の問題というのは、物理的身体と心理的身体の
不可分性に関わる。
両者が依存関係にあることには、ほとんど疑いがないように
思われるが、果たして完全に癒着したものとみなすのか、
それともかなりの分離可能性があるとみなすのか。

脳死によって心理的身体が機能停止した段階で、物理的身体
の所有権が放棄され、解体される。臓器が移植される先の
身体においても、元の臓器とは異なるものを導入することで
物理的身体が変更されても、心理的身体には影響がないものと
みなす。
これらはすべて、物理的身体と心理的身体の分離可能性に
依拠して遂行される。

臓器移植には反対した金森修も、人工臓器の導入には
肯定的だったようだから、物理的身体の変更による
心理的身体への影響というのは、大きくはないと見積もって
いたと言える。
彼にとって問題だったのは、心理的身体が「所有」していた
物理的身体を奪ってしまうことだったのだろう。
心理的身体を物理的身体に対して優位におくというのは、
意識にとっては極めて自然な発想なのかもしれない。

仮に、心理的身体の「臓器」を別の物理的身体の心理的身体に
移植する技術があるとしたら、意識はどのような反応を示すだろうか。
心理的身体にとっての「臓器」とは、発想や性格のようなものと
言えるかもしれないが、いずれにしろ物理的身体の臓器移植に
比べると、受容されづらいように思われる。
(まあ、心理的身体とは器官なき身体のことであるから、
臓器organ=器官をもつというのが語義矛盾ではあるが)

そもそも、医学というのは物理的身体への直接的な干渉を大量に
含む。最近ではDecNefのようなかたちで、心理的身体への直接的な
干渉も目立ってきた。
このところAIが心理的身体を獲得することについての議論ばかりが
取り沙汰されるが、その前に人間の物理的身体と心理的身体の関係に
ついての議論をもっと深めた方がよいような気もする。

DecNef2

DecNefを応用した技術のプレスリリースが出ていた。
(でもATR以外は共同研究機関が違うな)

つらい経験を思いだすことなく、無意識のうちに恐怖記憶を消去できる
ニューロフィードバック技術を開発


仕組みとしては、回路のつなぎ替えによるセンサ特性の変更に
近いような印象を受ける。
恐怖記憶という実体がどこかに貯蔵されているわけではなく、
抽象を行う回路のセンサ特性として表現されているのであれば、
回路のつなぎ替えによって記憶=センサ特性を変更することは
十分可能である。
ある入力に伴う抽象(ここでは赤色の視覚刺激)と、別の抽象
(ここでは恐怖刺激)の間をつなぐ特性を、さらに別の抽象
(ここでは報酬刺激)との間につなぎ替えている。
前段(赤色の視覚刺激の判定)はスパース機械学習によって行い、
後段(恐怖刺激から報酬刺激へのつなぎ替え)はDecNefによって
行っているらしい。すごい。

この仕組みは当然人間に元々備わっていると思われるが、
つまりは投機的短絡のことである。
それを意識が自ら行うことは不可能であるが、それは、
意識というのは投機的短絡が施された後に、それによって
下される判断によって意識されることを意味する。
では投機的短絡は無意識が行うのかと言われると、
それも少しイメージが違う気がして、当然意味付け回路の
影響は受けるだろうが、理由付け回路自体の特性の
影響も受けるという点で、意識されない意識の特性が
関与しているようなイメージのような気がしている。

ベルクソン『物質と記憶』を解剖する

「ベルクソン『物質と記憶』を解剖する」を読んだ。

ベルクソンは読んだことがないのだが、本書で様々な論者に
よって解釈されるベルクソンの考え方には共感できる部分が多い。
折りに触れて多くの論者がギブソンを引き合いに出しているように、
ベルクソンとギブソンの方向性に共通点が多いことも影響して
いるのだろう(そもそもはベルクソンの方が先だが)。

個人的に特に面白さを感じたのは、
  • ポール=アントワーヌ・ミケル「外界の存在について」
  • エリー・デューリング「共存と時間の流れ」
  • 郡司ペギオ幸夫「知覚と記憶の接続・脱接続」
あたり。そして、何と言っても、デューリングとミケルによる
「われらベルクソン主義者 京都宣言」だろう。

ミケルの話で強調される、排中律の棄却の話は、モデル化を
唯一に定めることの不可能性と通じている。
それは、身近なところで言えば、唯一絶対の正義がないことと
同じであるが、そもそも、あらゆる抽象過程が施す抽象自体、
それ自身にとっては排他的なものであっても、それ以外の抽象の
仕方があり得ないということではない、ということである。
ある抽象を解体することは、秩序の解体による無秩序ではなく、
別様にあり得る無数の秩序につながる。
そしてそれは、秩序の乱立は無秩序とどこが違うのかという
問につながるのである。
ミケルの言う「拡張された経験」、「思考の脱相関化」は、
まさに目指したいところである。

合田正人「記憶と歴史」で作話fabulation(京都宣言では仮構とも
訳されている)の話が出てくるが、これは理由付けと同じこと
だと思われる。

その他、第1部「記憶と心身問題」に関しては、
An At a NOA 2016-11-18 “思い出への補足
An At a NOA 2016-11-18 “デジャヴュとジャメヴュ
An At a NOA 2016-11-21 “記憶の走査
あたりに書いた。

第2部「知覚」ではやはりギブソンとの絡みが多く、場所によっては
この次に出てくる時間論も入ってくる。

河野哲也「ベルクソンと生態心理学」において、知覚が選択であり、
生物そのものが宇宙の貧困化から生じるという話が出てくる。
知覚という抽象過程により秩序を形成することは、自由度を下げることと
同値であり、高次空間をより低次の多様体として認識することである。
この抽象過程において、新しく創造されるものなど何もなく、
抽象とはすなわちフィルタリングのことだというのが河野の主張だが、
果たしてどうだろうか。
確かにフィルタリングには違いないのだが、抽象によってできあがる
低次元多様体が、同時にそのフィルタの特性に影響を与えてしまう様を、
何も創造していないと表現するのが適当かはわからない。
そもそもはベルクソンの考え方なのかもしれないが、イマージュの側に
すべてが詰まっているというのは、やはり飲み込みづらいな、という
感覚が拭えないだけなのだが。

第3部「時間」については、デューリングと郡司の話を除いてピンと
来なかった。というよりも、デューリングの話を読むことで、
思い出への補足”で書いたような記憶=過去のモデル化に辿り着くと、
他のモデル化があまりに冗長過ぎるように感じられる。

時間論に関しては、
An At a NOA 2016-11-18 “非同期処理の同期化
An At a NOA 2016-11-20 “現在
あたりに書いた。

郡司の提案する逆ベイズ理論の説明としては、三宅による解説が
わかりやすい。
ベイズ理論では、事象と仮説のうち、ある事象が確かだとしたときの
ある仮説の蓋然性の検討を行うが、逆ベイズ理論では逆に、ある仮説が
確かだとしたときのある事象の蓋然性の検討を行う。
これはちょうど、「投機的短絡をした上での整合性の確認」に相当する
モデル化になっている。
知覚はこうして何らかの仮説を前提することになるが、そのセンサ特性
こそが過去であり、記憶である。
また、仮説の交換可能性はミケルも取り上げた排中律の問題とも関わる。

郡司は仮説を選択する段階について触れておらず、三宅の解説の中で
会議当日の質疑応答の様子が語られるにとどまるが、まったくランダム
というわけではない、という感触のようだ。
それは判断の度に更新される知覚センサの特性としての記憶=過去によって、
ある程度の方向付けがされるのだろうか。
だとすれば、このような在り方が、ウロボロス的だと言えるだろうか。

この本における最大の不満は、充足理由律について触れる論者が
一人もいなかったことに尽きる。

p.s.
郡司の話が何故第3部に入っているのかがよくわからず、
あえて入れるなら知覚か記憶のカテゴリのような気がする。
そもそも、記憶、知覚、時間は3つとも複雑に入り組んでおり、
各章にすべての要素が入り込んでくるので、この名前で章分けすること
自体が悪手なのではないかと思う。

自由度

一つの抽象過程は一つの自由度を生む。
それが同期化される、すなわちコンセンサスが生じることで、
低次元多様体に写像され、次元が低下する。

どのスケールにおいても、複数の抽象過程が存在する。
一つの物理的身体には37.2兆個の細胞があり、日本には
人間の1.3億の物理的身体があり、地球には200個程度の
国家がある。
(人体の細胞数は長らく60兆個という概算値が信じられて
きたが、2013年のBianconi et al “An estimation of the number
of cells in the human body.
”という論文で37.2兆個という
数が提案されたらしい)

コンセンサスが全く無い状態においては、抽象過程の数だけ
自由度が存在することで、次元は正の無限大に発散する。
人間の物理的身体を構成する細胞は、それらが集合として受け取る
情報の次元が三次元になるようにコンセンサスをとることで、
物理的身体という細胞の集合としては、空間というものを
三次元として抽象する。
もし網膜や皮膚から入力される情報を一つに集約するように
コンセンサスをとっていたら、空間を一次元として認識することも
可能だっただろう。
走光性のような特定の走性のみに従う生命体は、そのように抽象して
いるのかもしれない。

一つの物理的身体にとって三次元として認識される空間は、
本来物理的身体ごとに存在してもよいはずである。
それがユニークなものとして認識されるのは、異なる物理的身体
同士が通信することで、コンセンサスをとるためである。
すなわち、空間の多様性に関する自由度もまた、コンセンサスに
よって低下する。
これは、空間自体の自由度(三次元)を下げるという意味ではなく、
無限に存在し得る三次元空間の数が一つ(あるいは少数)に
集約されるという意味である。

時間もまた、心理的身体ごとに固有のものであってもよいが、
異なる心理的身体との通信によってコンセンサスがとられ、
一つのものに集約される。

通信によって生じるコンセンサスは、非同期処理の同期化であり、
それは理由付けに限らず、あらゆるレベルの抽象過程において
生じ得るものである。

correctness on correctness

男女平等というpolicyとのcorrectness以前の問題として、correctであるべきというpolicyとのcorrectnessが満足できていないというのが、consensusが集約される政治という場所を任せられている人間としてどうかとは思う。

もしや、correctであるべきというpolicyは掲げていないということか。

眩暈

かるいめまいがにがいまめいるか
「軽い眩暈が」「苦い豆要るか?」

空間

思うに、時間の問題よりも空間の問題の方がやっかいである。

空間という位相的構造は如何にして獲得され、しかもそれは
何故三次元なのか。
この問題は、人間が如何にして幾何学を獲得するかという
観点から、ポアンカレの「科学と仮説」で取り上げられていた。

ポアンカレの言う充足的視覚空間では、網膜が二次元を生み、
その間に生じるコンセンサスからもう一次元が生まれる。
そうだとすれば、一次元の入力しか得られない器官からは
コンセンサスを含めても二次元空間しか立ち上がらない。

鼓膜は面的ではあるが、多くの人間にとっては一次元の入力に
しか感じられないように思う。
それ故に、ギブソンが描いたような、円錐の問題、すなわち、
円錐底面の円周上がすべて同一の位置とみなされることで、
聴覚空間は二次元になるのだろう。
耳や鼓膜の面的な拡がりを活用して、鼓膜からの入力を二次元と
して受け取ることのできる人は、聴覚空間も三次元になるだろう。
(いわゆる「耳がよい人」に対応するだろうか)
Omnitoneのデモで、円錐の問題がはっきりするのは、イヤホンを
経由することで、鼓膜からの入力が強制的に一次元になるためだろう。

他のセンサ、特に触覚の入力はどうだろう。
面的だと思えば、触覚から三次元を立ち上げることも可能だろうか。
しかし、そもそも物理的身体が面的に感じられるということ自体、
ある空間把握能力に依拠しているのである。
ゴムの手が自分の手に感じられる実験のようなものを詳細につめて
いくと、空間の問題に迫れるだろうか。


2016-11-21

記憶の走査

各抽象はネットワークのセンサ特性として残るだけなのに、
物事の前後関係が思い出せるのはなぜだろうか。
An At a NOA 2016-11-18 “思い出への補足
と書いたが、そもそも、聞き覚えがある曲を思い出すような
記憶の走査自体、如何にして可能なのだろうか。
記憶領域の走査方法としては、switch-case文のような
一対一対応の検査ではなく、ビットの01を追っていく
絞り込みのような検査に近いはずだ。
An At a NOA 2016-01-26 “忘却の問1への回答
時系列的な記憶というよりもスペクトルとして
把握しているということなのかもしれない。
An At a NOA 2016-02-26 “通信の数学的理論
デジャヴュとジャメヴュの話は、同期化に伴うセンサ特性の変化が
これまでに経験されたか否かという判定を含み、一見変化内容の
履歴を保存しておく必要があるようにみえる。
しかし、それでは結局、スナップショットをとっておくのか
変更内容をとっておくのかの違いだけになってしまい、記憶=過去は
何か実在するものの貯蔵庫であるというモデルから抜け出せない。

例えば、ある時点での記憶と、その時点で施される同期化のそれぞれを
ベクトル表示し、その直交性によって当該同期化の新鮮さを表すことは
できるだろうか。
脳内にあるシナプスの数は10^14個のオーダーであり、仮にそれぞれが
二値の状態を取れるとしたら、脳全体だけでも2^(10^14)≒10^(3x10^13)個の
状態を取ることができる。
脳だけでなく、物理的身体全体でカウントすればさらに数が増えるはずだが、
残念ながら概算の個数もよくわからない。
あるいは、この話はシナプスでなく神経細胞の数で置き換えるべきかも
しれないが、それでも10^11個のオーダーである。
いずれにせよ、取り得る状態の数としては十分なように思われる。

記憶は貯蔵庫ではなく状態のことであり、適用される変化と現状との
直交性によって、これまでの履歴を走査するというモデルの落とし穴は
どこにあるだろうか。

2016-11-20

堅い木

かたいきをとおくからかくおとをきいたか
堅い木を遠くから描く音を聴いたか

現在

現在とは、レンジを狭めた過去のこと
An At a NOA 2016-11-18 “思い出への補足
であるならば、「現在とは、過去の微分係数である
Present is derivative of past.」という表現にも、
一定の妥当性があるように思う。
(ただし、左側極限しか存在しないが)

しかし逆に、微分積分学の基本定理に従って、
過去とは、現在を積分したものである、と表現する
ことは、多くの誤解を招きやすいように思われる。

それは、現在が何か実在するものとして理解される
ことで、それを積み重ねることで過去というものが
出来上がるというイメージを喚起しやすいせいである。
だが、
抽象の度に随時更新されるセンサ特性が記憶であり、
過去である。
An At a NOA 2016-11-18 “思い出への補足
と書いたように、通常、現在として認識される
ような姿をしているのは、むしろ過去の方であり、
それが変化する様子を概念化したのが現在なのでは
ないか、ということなのである。

バージョン管理システムにおいて、git logで表示される
コミット履歴の積み重ねではなく、そのブランチ自体が
記憶であり、過去なのだ。
ブランチは現在の姿をしているのではなく、普段は
ブランチが変化しない様を現在とみなしているのであり、
コミットする際には、ブランチが変化する様を現在と
みなしているのである。

このことが誤解なく伝わるのであれば、上記の「過去とは、
現在を積分したものである」という表現が含み得る誤解も
だいぶ減るのではないかと思う。
コミット履歴に表示されるものは、確かに「かつての現在」と
呼べるようなものではあるが、それは現在のスナップショット
ではなく、過去の変更内容としての現在の順列なのである。

解釈

理解の続き。

むしろ、一旦同期化されてしまった非同期処理を、
元の非同期処理に分解することが理解することだとも
言えるように思われる。
それは、和音から個別の音を聴き分けるような
弁別能力であり、同期化された非同期処理を分解し、
別の仕方で同期化することもできたと知ることが
できるのは、理由付けの特徴でもある。

しかし、和音の例で言えば、和音として聴いた感覚を
なかったことにして、個別の音として感覚し直すことは
おそらくできないと思われるので、これはむしろ解釈
という感じに近いのかもしれない。

相関と因果について考える

相関と因果について考える:
統計的因果推論、その(不)可能性の中心


以前、“相関と因果”という記事を書いたが、基本的には
この考えは変わっていなくて、因果とは、理由付けされた
相関のことである、くらいにしか思っていない。
だからといってそれは軽視できるものではなく、むしろ、
相関と因果を峻別することは理由律の解明にも通ずるので
かなり重要なことである。

ヒュームの言う、「心の習慣」としての因果というのは、
理由付けされて習慣になったものを因果と呼ぶという
定義を示している点ではよいのだが、そこから先に
如何にして進むか、あるいは進むことなどできるのか、
ということには興味が尽きない。

因果ダイアグラムなるものが描けるという想定の中に
既に理由律が入っているが、その枠組みで理由律を
解明できるのだろうか。
それはそうと、因果ダイアグラムにおいて「共通要因」なる
項が挿入されるところは、沈黙が内緒になる話を思い出した。

知覚と感覚

デジャヴュとジャメヴュの話で少し触れたが、
知覚と感覚は異なる。

知覚は物理的身体に入力された情報の抽象であり、
非同期的に処理される。
感覚は心理的身体に入力された情報の抽象であり、
非同期処理である知覚を同期化することで得られる。

SAIKAWA_Day18で取り上げられたコーヒーの味の話は、
知覚についての話として捉えればAIの圧勝であるが、
感覚についての話となると話は別だ。
感覚には、味覚、嗅覚、視覚等の五感センサの処理結果
だけでなく、豆の産地や誰が淹れたかといった情報も
まとめて抽象できる。
その結果、AIが淹れたものよりも人間が淹れたものの方が
美味しいと「感じられる」ことはあり得る。

それでよいのだ。

p.s.
日本語でも英語でも、知覚と感覚の語の使い分けが
ごちゃまぜになっていて、何という訳語を付けるのが
よいのか迷う。
とりあえず知覚sensation、感覚perceptionとしておこう。

2016-12-14追記
ギブソンのThe Senses Considered as Perceptual Systemsでは、
「感覚作用なき知覚はあるが、情報なき知覚はありえない。」の
原文が、
there can be sensationless perception, but not informationless
perception.
J.J.Gibson“The Senses Considered as Perceptual Systems”p.2
となっている。
知覚をperception、感覚をsensationとした方がよさそうだ。

2016-11-19

解決

かたみをつけいかのといのいとのかいけつをみたか
形見を付け、以下の問いの意図の解決をみたか。

2016-11-18

デジャヴュとジャメヴュ

デジャヴュとは、ある感覚が以前にも感覚された
ことがあるように感じられることであり、
ジャメヴュとは、逆に、ある感覚に慣れているのに、
それが初めてのように感じられることである。

この表現において、感覚の代わりに知覚を用いる
ことはできないように思われる。
知覚は意味付けの範疇にある非同期処理であり、
それを同期化することで感覚として意識の範疇に
入ってくる。

非同期処理の同期化は、心理的身体のセンサ特性に
影響を与えるが、影響がある度にセンサ特性が更新
されるため、一般的には同期化の影響が全く同様に
再現されることはないと考えられる。
しかし、夢のような抽象の再現過程も含めると、
たまたまセンサ特性の変化の仕方が極めて近い状況に
なるような同期化も生じないとも言い切れない。
これがデジャヴュとして感じられる。

逆に、多数回行われた同期化の影響が、何かの拍子に
消え去ってしまうようなセンサ特性の変化が起きると、
その同期化の影響が新鮮なものとして現れることも
ないとも言い切れない。
これがジャメヴュとして感じられる。

これらの感覚は、視覚的な知覚に限ることではないと
思うが、フランス語でvuとなっているために日本語でも
視がつく。
既聴感だとdéjà-entenduとかになるんだろうか。

整合性

皮肉なことに、整合性は理由付けによって損なわれる。
むしろ、理由付けによって損なわれるからこそ、
それに基づく意識は整合性をひたすら気にかけるという
ことなのかもしれない。

意味付けが整合性を失うことがあるとしたらどのような
ときだろうか。

Google Sites

Googleサイトがいつの間にか新しくなっているんだが、
昔のやつからの移行方法がわからない。

できれば「」を新しい方に移行したい。

理解

理解するというのは、当該理由付けの投機性に
一旦目をつぶり、同じ短絡を再現できるように
なることである。

「理解とは概ね願望に基づくものだ」という、
イノセンスにおける荒巻の指摘は、その投機性の
見過ごしにも関わらず、整合性が保たれること
への願望に対して言及したものである。

思い出への補足

記憶と思い出の話。

意味付けと理由付けは、それぞれ異なるネットワークに
抽象され、それぞれのネットワークのセンサ特性に
影響を与える。
両方を合わせたものが記憶であり、特に後者のことだけを
指す場合に、思い出と呼ばれる。

こうして抽象の度に随時更新されるセンサ特性が記憶であり、
過去である。
現在とは、理由付けによる抽象がセンサ特性に与える影響のうち、
直近のものを敢えて主題化したときに現れるものであり、過去との
違いはレンジの問題だけのように思われる。
つまり、現在とは、レンジを狭めた過去のことであり、
記憶=過去⊃現在のような関係にある。

そして、同期化に伴って時間概念が生まれるかというのは、
センサ特性の更新によって記憶=過去が積み上げられることを、
時間として認識するのだろうか、という問である。
理由付けと同期化が一体であり、意識が理由付けによって生まれる
ことを踏まえると、時間=意識ということだろうか。

理由付けにおいて、同期化によってセンサ特性が更新される度に、
以前の同期化の影響は漸減していくが、これが忘却と呼ばれるものだ。

各抽象はネットワークのセンサ特性として残るだけなのに、
物事の前後関係が思い出せるのはなぜだろうか。
それは、因果律に関わっているだろうか。
理由律⊃因果律であるから、意味付けによる記憶では前後関係は
主題にならないはずであり、前後関係が想定されるのは、理由付け
されることで、思い出になった記憶だけである。
果たして、因果律抜きの理由律はあり得るだろうか。

斟酌

短文で表すとおかしさが際立つが、現実の問題は左のかたちで
与えられることがしばしばあり、それを右のかたちに訳すと、
「物分りがよい」とか「一を聞いて十を知る」とか言われる。

斟酌というのは、深層学習のような意味付けで行えるのだろう。

抽象

情報を抽象することで、短絡路が形成される。
それは情報の圧縮、つまり距離空間における距離の
短縮であるから、一般的には非可逆過程である。

短絡の投機性は形成された短絡路を圧倒的大量に
通行することによって次第に減っていく。
同じ短絡路を通るというのはコンセンサスが
生じていることに対応する。
意識にとって、意味付けが堅実的短絡に感じられ、
理由付けが投機的短絡に感じられるのは、この
短絡路の反復の多寡によると考えられる。

反復の少ない短絡は、コンセンサスを仮想し、
その幻影を頼りにしているように見える。
それが、理由である。

p.s.
抽象の非可逆性は、タイムトラベルで過去に行くことの
不可能性に対応するだろうか。
非同期処理の同期化を時間とみなしたときの、タイム
トラベルが何を意味するかはさておき。

非同期処理の同期化

すべての抽象過程=短絡は本来投機的なのかもしれない。
複数の短絡をまとめ、コンセンサスをとることで堅実的に
近づいていく。

意味付けが堅実的に感じられるのは、物理的身体が多数の
細胞からなっているためで、理由付けが投機的に感じられる
のは、一つの物理的身体に実装される心理的身体が極めて
少数なことによるのかもしれない。

原子、細胞、物理的身体、社会等の様々なスケールにおいて、
どの粒度で通信過程を見るかによって、堅実的短絡と投機的
短絡がそれぞれ何に対応するかは変わるのだろう。
それは、物理的身体のスケールで見たときには投機的短絡に
見える意識が、社会のスケールで見ると堅実的短絡に見え得る
ことに対応し、言語が集団にとっての無意識のようなもの
感じられることに通ずる。
ユングが集合的無意識と呼んだものも、このように解釈できる
のかもしれない。

本性的に投機的である短絡が集合することによって、堅実的に
なるというのは、「いきものとなまものの哲学」で言及された、
非同期処理の同期化のことかもしれない。
この同期化に伴って時間の概念が生まれると言えるだろうか。
小坂井敏晶が「同一なものがあるのではなく、同一化がある」と
言ったのは、この同期化のことだろうか。

同期化が時間のことなのだとすれば、より多くの非同期処理を
同期化することは、時間がゆっくり流れるように感じられる
ことに相当すると考えられるが、これは、いわゆる頭の回転が
速いことに対応するだろうか。

相対論に従えば、この同期化に含まれる非同期処理の数は
系の速度依存ということになるが、果たしてどうだろうか。
光速に極めて近い速度で移動する系で行われる理由付けは、
無限の非同期処理を同期化できることで、時間を失うのだろうか。
相対論的効果を、光速に近い速度で移動する系において実証した
例はあるのだろうか。
そもそも、それは何を意味するのか。

p.s.
相対論の話は、そもそも相対論における速度の単位の話
解決する必要がある。
単位時間あたりに変化する位置座標同士の距離という速度の
定義において、単位時間とは何なのか。
むしろ、同期化する処理の数の多寡が系の速度と光速の比の
ことなのかもしれない。
宇宙が膨張しているように見えるのは、遠くの情報ほど一括
して同期化することで手間を減らした結果だろうか。

身体

「器官なき身体」とはドゥルーズとガタリが用いた用語だが、
物理的身体physical bodyに対して、心理的身体psychological body
と呼ぶのがよいかもしれない。
このとき、身体bodyは、抽象過程を意味することになる。

意味付けmeaning processという堅実的短絡solid short circuitは
物理的身体physical bodyの固体性solidityのおかげで堅実になり、
理由付けreasoning processという投機的短絡speculative short circuitは
心理的身体psychological bodyの思索speculationのおかげで投機的になる。

投機

投機という言葉は元々仏教用語のようだ。
禅宗で、師家と弟子のはたらき(機)が一つになること。
悟りを開くこと。
広辞苑 第六版
とある。
speculativeが思索と投機の両方を意味するのもそのためだろうか。

日常的には投機というと金融における意味で山勘に近いイメージが
あったが、本来的にはコンセンサスが含意されているというのは、
投機的短絡の在り方にマッチするように思う。

意味付けのような、投機性の低い短絡は、投機的短絡に対比させて
堅実的短絡solid short circuitと呼ぶのがよいだろうか。

acoustic

visual系よりacoustic系が好きです。

そう言えば、acoustic系バンドというのをあまり
聞かないのは、自明だからだろうか。

2016-11-15

Goodbye World, Goodbye

I told all my troubles “Goodbye”
どんな悩みともおさらばした
Goodbye to each tear and each sigh
もう泣かないしため息もつかない
This world where I roam cannot be my home
さまよってたこの世になんかいられるか
I’m bound for that land in the sky
空の向こうに行ってやる

I walk and I talk with my Lord
神様んとこに行って話して
I feast every day on His Word
ありがたい言葉をたくさんもらうんだ
Heaven is near and I can’t stay here
あの世はすぐそこだ この世になんていられない
Goodbye World Goodbye
じゃあな おさらばだ

Now don't you weep for me when I'm gone
オレがいなくなっても泣くんじゃないぜ
‘Cause I won’t have to leave here alone
だってオレは一人で行かなきゃじゃないんだ
And when I hear that last trumpet sound
最後のラッパが聞こえたら
My feet won't stay on the ground
地面ともおさらばなんだぜ
Goin' rise with a shout, goin' fly
大声いっぱい飛び立ってって
Ride with my Lord through the sky
神様一緒に空いっぱいに
Heaven is near and I can’t stay here
あの世はすぐそこだ この世になんていられない
Goodbye World Goodbye
じゃあな おさらばだ

Well I won't have the blues anymore
憂鬱なことなんかもうないぜ
When I step across to that shore
向こう岸に着いたときにゃ
And I'll never pine for I'll leave behind
もう恋い焦がれないし
My heartaches and tears evermore
悩みも涙も置いてくぜ

A day maybe two then Goodbye
あと一日か二日でおさらばだ
Tomorrow I'll rise up and fly
明日にゃ飛び立ってるだろうよ
Heaven is near and I can't stay here
あの世はすぐそこだ この世になんていられない
Goodbye World Goodbye
じゃあな おさらばだ

Now don't you weep for me when I'm gone
オレがいなくなっても泣くんじゃないぜ
‘Cause I won't have to leave here alone
だってオレは一人で行かなきゃじゃないんだ
And when I hear that last trumpet sound
最後のラッパが聞こえたら
My feet won't stay on the ground
地面ともおさらばなんだぜ
Goin' rise with a shout, goin' fly
大声いっぱい飛び立ってって
Goin' rise with my Lord through the sky
神様一緒に空いっぱいに
Heaven is near and I can't stay here
あの世はすぐそこだ この世になんていられない
Goodbye World Goodbye
じゃあな おさらばだ



英語の歌詩はここから。

理由律

理由とは、コンセンサスの名残である。
An At a NOA 2016-11-15 “理由
によって理由を定義するならば、
理由律とは、下される判断は何かしらの
コンセンサスに基づくはずだとみなす信念
ということになる。

そのコンセンサスは予め明らかになっていなく
てもよく、後から整合性を確かめることで
得られれば十分である。
このことが理由律に基づく判断の投機性を生み出し、
それと同時に、本来名残であるはずの理由が、
逆にコンセンサスを生み出しているという錯覚の
源にもなる。

意味付けでは、複数のセンサへの入力情報を元に特徴
抽出することで、コンセンサスを形成し、判断を下す。
これが、コンセンサスが先行する「正規の」判断
機構であり、圧倒的に大量のデータがある場合には
こちらが使える。
データが少ない状態においてこれを模擬するために、
コンセンサスがあったことにして、整合性を後から
取ることで、実際にコンセンサスがあった場合と概ね
同じだとみなすのが、理由付けということになる。

少しセンチに擬人化すれば、心細さに耐えられないことで
投機的短絡が起こり、意識が実装されるのである。

理由

理由とは、コンセンサスの名残である。

Reason is a remnant of consensus.

読解力

AI研究者が問う ロボットは文章を読めない
 では子どもたちは「読めて」いるのか?


この記事はよく本質を突いていると思う。

「東ロボくんが問題を解く画面。ひたすら記号が並ぶ」という画像に論理記号のようなものが大量に並んでいるが、これこそ、correctな在り方を目指した判断機構であり、そこに投機的短絡の割り込む余地などない。

AIが不得意なのは、というかその仕組みが入っていないからもしできてしまったらバグでしかないが、この投機的短絡の部分であり、おそらくはrightnessの判断、つまりはconsensusに関わっている。

correctnessの確定を先行させるというのは非常に効率が悪く、場合によっては解に至らない。それよりも、一旦rightnessに基づいて短絡させた後でcorrectnessをチェックするのが妥当であり、そのcorrectnessのチェックすら、rightnessによって打ち切る。そうして、常に一時的に解を設定するのが、投機的短絡に基づく判断機構の在り方なのではないかと思う。correctnessには絶対的な判断があり得ても、rightnessには絶対的な判断があり得ないことから投機性が生まれ、それ故に判断は常に一時的なものにしかならないのだろう。

最後の方で、「読める」の話から、矛盾を見抜いたり妥当性の話に移行しているところには、上記の判断における前段から後段への移行という隔たりがあるように思われるが、短絡の部分だけでなく、correctnessのチェックまでを含めて「読める」と表現しているのだろうか。correctnessのチェックについてはAIが得意とする領域であるから切り分けた方がよい気もするが、rightnessによる打ち切りを考慮すると、そうでもないということなのかもしれない。

SAIKAWA_Day32

これは自動運転車の事故と同じ問題であり、
いつか自然災害と同じものになると考えられる。

それはつまり、理由付けからの逸脱であり、
責任追及の手を及ぼすことができない未知の
領域ということだ。

しかし、理由律に縛られた人間がそんな状態に
耐えられるだろうか。

correctであり続けるのは難しい

rightとcorrectの話の続き。

correctであり続けるのはものすごく難しいことだ。理由付けが投機的短絡の連続であるため、その整合性を確認しながら短絡するというのは至難の技であり、それを成し遂げようとするのがつまり学問である。

It is really difficult to maintain correctness. As the reasoning process is a series of speculative short circuits, it is no easy feat to ensure the consistency between the short circuits, and the movement to accomplish it is called as science.

だからこそ、人間は必ずしもcorrectではない判断を共有するために、rightというコンセンサスに基づく基準を採用するのだろう。

Therefore, human adopt the standard of "rightness", which is based on consensus, to share decisions which are not necessarily "correct".

理由律と無矛盾律を両立させることは、果たして人間に可能なのだろうか。そして、そこにこだわることにはどれくらいの利点があるのだろうか。

Is it possible for human to deal with principle of sufficient reason and law of noncontradiction? And, how many benefits does it have to stick to it?

2016-11-14

right / correct

correctというのは、数学のように、公理が特定できる体系において、その公理およびそこから演繹可能な定理と整合的であるという意味であるように思う。
「論理的に正しい」という言い方をすると、絶対的な正が存在するように聞こえるが、それはある公理系の中で整合性があるという意味に過ぎない。
An At a NOA 2015-11-22 “論理と倫理
というのがそのままcorrectの意味である。

rightの概念は少し違っていて、小坂井敏晶の表現を借りれば、「コンセンサスが得られている状態」のことを言うのである。

political correctness(PC)というのは、あるpolicyとそこから演繹されるものに対して、当該表現が整合的であるという意味であって、そのpolicyがuniqueなものであるという前提は含まないはずだ。

PCの名の下に、rightの概念を持ちだして、しかも、コンセンサスの成立とそれをrightと形容することの順序を逆転させると、つまらない争いがおきるのだろう。

翻訳を自ら行うということ

試しに“理由の連鎖”の最後のパラグラフをGoogle翻訳に
通してみると、次のようになる。
Perhaps the word human error should restore the original meaning
of "fluctuation width introduced to the body without organs".
自分でつけた訳が
Perhaps the word "human error" should recover the original meaning,
"deflection installed to body without organs".
であるから、なんかもうアレだ。

自分で翻訳することの意義は、どの言語でも、各表現への
こだわりを突き通すことに見出すくらいしかなくなるのかも
しれない。
restoreとrecover、fluctuation widthとdeflection、
introducedとinstalled、theの入れ方、二重引用符の付け方。
それらはいずれも理由付けによるしかない。
それを続けるには、日本語も英語ももっと大量の文章に
触れるしかないのだろう。

犯罪と創造

NHKスペシャルで宮崎駿がドワンゴの川上会長が
見せたデモに不快感を示したという記事を見る。

ドワンゴの、これまでとは違うものを創造する姿勢と、
宮崎駿の、それを既存の倫理観に照らして生命への
侮辱だとする姿勢は、どちらも必要なものだと思う。
ドワンゴ側に振れれば秩序が乱立した無秩序になる
ことで、生命という秩序は瓦解し、宮崎側に振れれば
秩序は固定化され、いずれ選択されなくなるときがくる。

秩序からの振れ幅を、犯罪と創造のいずれと呼ぶのかという
境界線は極めて曖昧であり、常に恣意的に決めるしかない。

振れ幅と、それに対する言及の間の絶妙なバランスの中に、
器官なき身体は維持されるしかないのだろう。

2016-11-13

SAIKAWA_Day30

物理的身体のセンサ特性への依存度を0にした理由付け
に基づく投機的短絡というのは、おそらくどれだけ大量の
判断を下しても、投機性が下がらないのではないかと思う。

それは一切のサディステックさを排し、完全にマゾヒスティック
になった評価機関であり、ある同一性の仮定をもって判断を
下した次の瞬間に、全く異なる同一性の仮定に基づいた
判断を下すことを、なんのためらいもなく行えるはずだ。

判断を下すごとに確かに秩序は形成されるので、広義の
生命ではあるかもしれないが、秩序が乱立した状態は
果たして無秩序とどこが違うだろうか。
もし両者が一致するのであれば、器官なき身体だけでは
生命たることができず、物理的身体への依存をなくしたと
しても、何らかのかたちで複数の評価機関が共通して依拠する
同一性の仮定を集めた基盤が形成されるような気がする。

あるいは逆に、意味付けによる判断は空間的に認識され、
理由付けによる判断は時間的に認識されるのだろうか。
そうであれば、あらゆる判断が意味付けのみによって
行えるようになった場合、時間概念は消え失せる。
An At a NOA 2016-07-07 “情報の割り振り
という問を思い返すと、意味付けを行わない器官なき身体は
空間を認識せず、時間のみを認識するようになる。
今の人間は、相対論のような話はあるものの、概ね一つのもの
として時間を認識するが、おそらく、この器官なき身体たちは、
時間を一つだとは認識せず、上記の同一性の仮定の基盤を
共有することで、時間概念の数が少数にまとまるのではないか。
高校生のときに本川達雄「ゾウの時間 ネズミの時間」を読んだ
ときにはあまりピンとこなかったが、この話に通ずるのかもしれない。

ソフトウェアはハードウェアに非依存でいられるだろうか。
それは、身体なき意識、あるいは紙媒体なき書籍、
などと同じ問のように思われる。
An At a NOA 2016-09-09 “貨物輸送
という問への回答は、限定付きの肯定になる。
ハードウェアに依存する必要はないが、それに代わる
同一性の仮定の基盤を要する、というものだ。
でも、その基盤の普遍性・不変性を効率的に実装する最良の
手段の一つは、ハードウェアに埋め込むことなのかもしれない。

2016-11-12

GNMTというプロトコル

将来的には、しかもかなり近い将来という意味において、
この優位性は漸減していく可能性が高いと見積もるのは妥当に思える。
それは、翻訳というプロトコル変換が技術的に可能であり、またそこに
リソースが割かれるだけの理由が十分にあるように思えるからである。
An At a NOA 2016-05-08 “プロトコルの統一
日本語と英語の間でのGoogle翻訳の精度が
急上昇したと話題になっているらしい。
中国語と英語の間では既に導入されていたGoogle Neural
Machine Translation(GNMT)が日本語との間にも適用されたようだ。

やはりこういう技術にはリソースが割かれるので、自動翻訳
ついての記事で書いたような仕組みがちゃんと現実のものになった。

そもそも、自然言語という通信プロトコル自体が、各個体ごとに
展開された理由付けの抽象過程間の通信時に用いられる、
人体というニューラルネットワークを利用した自動翻訳にもみえる。

それぞれが投機的短絡によって下した判断の内容を通信する。
投機の度合いや短絡の経路が異なるため、通信なしにはもちろんのこと、
通信をしても最初はあまり上手くいかないだろうが、物理的身体の
センサ特性の共通性によって、少しは成功する部分があるはずである。
通信するたびに蓄積した情報が圧倒的大量なものになることで
特徴抽出が進行し、やがて実用に耐える評価機関になる。
言語は、それを用いる集団にとっての無意識のようなものだと言える。
通信内容が変化すれば、当然評価機関の判断も変わるので、
言語は時代や場所によって少しずつ変化していく。
結果的に言語は人間が受け取る入力情報を抽象したものになるので、
VR装置のような役目も果たすようになるのかもしれないが、
どちらかというと、特徴抽出によって組み立てられる、理由付け機関同士の
微妙な差異を吸収するための緩衝装置の役目の方が先なのかもしれない。
(パートナーシップの話も参照)

エスペラント語のような人工言語の普及が難しいのは、こういった
意味付けによる形成や変化を経ず、理由付けによってすべてが
固められるからなのだろう。
自然言語にも当然理由付けされる部分はあり、それは文学と
呼ばれるが、両輪が必要なのはほとんど確からしい。
このあたり、早期バイリンガルと後期バイリンガルで脳の活性化領域が
異なるというカンデル神経科学第一章の話にも通ずる。
早期バイリンガルは意味付け回路で処理を並列化
することで、高速な言語処理を達成しているのかもしれない。
だとすれば、言語処理のかなりの部分が理由付けでなく意味付けに
基づいているのかもしれない。
An At a NOA 2016-09-16 “意識の並列化

GNMTにあらゆる理由付け機関の入力を集約することで、
バベルの塔の夢を部分的にでも叶えることは可能だろうか。
それは、老夫婦のようなパートナーの間にしか実現できない
以心伝心のような情報通信の可能性も拓くだろうか。
そのとき、“プロトコルと実装”や“プロトコルの統一”で挙げたような
懸念はどのような姿で現れるだろうか。

archive

bloggerは特に使いづらいこともないのだけど、
webフォームで入力しているとたまにhtmlが汚れるのと、
画像やcss等も含めたバックアップが気になったので
Firebaseのホスティングを使ってアーカイブを作った。
An At a NOA

過去記事をすべてテキストデータに変換し、
テンプレートに流し込んで各ページのhtmlを作成した。
cssはすべて手打ちである。
Hugoあたりの静的サイトジェネレータを使うことも
検討中だが、取り急ぎはFirebaseのコマンドライン
ツールとgolangで書いたスクリプトだけで事足りる。

可能な限りjavascriptやcgiを使いたくないのだが、
サイト内検索だけはできるようにしたい。
やはりGoogleのカスタム検索エンジンが第一候補か。

あと、ラベル情報を反映していないのだが、
ラベリングの仕組みを自動化したい。
今や深層学習で写真に写っている要素を言語化することも
可能なので、文章の内容からラベルを生成するくらい
できそうだが、あまりよいものが見つからない。

特定のラベルをつけるのではなく、Googleクラウド自然言語API
で全記事を形態素解析して、記事ごとにDoc2vecで距離が近い順に
他の記事を下に表示するとかでもよいかもしれない。

抽象の共通部分

意味付けによる抽象においてみられる共通部分のほとんどは
物理的身体のセンサ特性に基づいていると考えられる。

もしそれ以外の共通部分があるとすれば、入力される情報の側に、
何らかの秩序が先行して存在することを仮定することになる。
それは、人間以外も含めた他の生命からの出力情報に起因して
いるのだろうか。
ここで言う生命とは、抽象過程すべてを指しており、おそらく
通常言われる生命よりも範囲が広い。

ギブソンはこの「それ以外の共通部分」があるとし、
それを不変項と名付けた。

visual

VRはいつになったらVisual Realityであることをやめて
Virtual Realityになろうとするのだろう。

GoogleのOmnitoneの続報はないのだろうか。

理由の連鎖

理由律は、数少ない情報を基に判断を下すために生じる
投機的短絡であり、意識をもった状態から振り返ると、
あらゆることに理由があることへの信仰だとみなせる。
それは意識の源にはなるが、意識それ自体ではなく、むしろ、
理由律を基につながれた理由の連鎖が意識であると考えられる。

Principle of sufficient reason is a speculative short circuit
to make decisions with quite little information,
and, from the point of view after acquisition of consciousness,
 it can be seen as a belief that everything has reason.
Although the principle is a source of consciousness,
it is not consciousness itself, or rather, chain of reasons,
which bases the principle, can be thought to be consciousness.

サカサマのパテマにおける実験も、バナナ型神話において
禁断の果実を食べることも、理由律の獲得のメタファとみなせる。
その獲得とともに理由の連鎖が開始され、情報伝達や情報処理の
過程は理由の連鎖に巻き込まれることで、思考、言語、経験等となる。

Both experiments in Patema Inverted and Eating forbidden fruit
in banana-type myths are metaphors of acquisition of the principle.
Along with the acquisition, chain of reasons starts lengthening,
and the chain changes communication or information processing
into thought, language, or experience, etc. by involving them in itself.

情報量の増加とともに投機性は漸減していき、判断は必ずしも
理由の連鎖に巻き込んでおく必要がなくなり、理由律を獲得する
以前から有していた情報処理過程へと近づいていく。
その過程は、複数の入力情報を基にした特徴抽出であり、
それは情報間のコンセンサスがとれる状態とみなせる。
これが意味付けに基づく無意識であり、センサ特性に応じた
高速な判断が可能になる。
いわゆる「結びつけ問題」というのは、単に特徴抽出過程において
特徴量として設定されたに過ぎないものを、ある理由の連鎖の中に
位置づけられているはずだと仮定することで生じてしまうだけの
ように思われる。

As amount of information increases, amount of speculation decreases,
and decisions get to resemble results of the original information processing
because it doesn't need the principle any more.
The original process is feature extraction based on multiple input
information, and it is considered to be the state that
consensus is achieved between the multiple information.
This is the unconsciousness based on meaning process, and it enables
fast decision making calibrated to sensor properties.
So-called "Binding problem" becomes a problem only when
chain of reasons of relation between feature amounts, which is just
extracted in the process of feature extraction, is supposed.

意味付けは物理的身体と大きく関係するが、理由付けもまた
情報処理過程において物理的身体を経由することから、
ある程度の影響を受けると考えるのが妥当なように思われる。
「異なる人間同士が同じ色を見ているのか」という問題があるが、
理由付けなしには色や形は特徴量でしかなく、それを色や形として
概念化するには理由の連鎖に巻き込む必要がある。
入力される情報とセンサ特性が同じなのであれば、同じ色や形として
概念化するのが妥当であるとするのが、科学がとっている「真理の仮定」
に適うのではないかと思う。
理由の連鎖のことを「理」と呼ぶとき、それがただ一つに定められる
という仮定が「真理の仮定」であり、ただ一つの「理」が真であるとして、
「真理」と呼ばれる。「真理は一つとは限らない」というよりは、
「理は一つとは限らない」という方がよいのかもしれない。

Not only meaning process is largely related to physical body,
but it's better to consider that reasoning process is also affected by
physical body because information passes through it while processing.
There is a problem that "Does everyone see the same colour?".
But colour or figure is just feature amounts without reasoning process,
and it is necessary to involve them into chain of reasons to conceptualise
them as colour or figure.
If input information and sensor properties are the same,
I think it goes well with "hypothesis of the truth" which science embraces
that one considers it reasonable that the information is conceptualised
as the same colour or figure.
If you call chain of reasons route, "hypothesis of the truth" is a theory
that claim route is unique, and the unique route is called as the truth.
I guess It's better to say "route can be ununique" than "the truth can be
ununique".

色に限らず、常識や習慣等、ある集団の中で共有される記憶があるように
感じられるとしたら、センサ特性か理由の連鎖の共通性によるはずだ。
理由の連鎖の共通部分が常識や習慣であれば、差分が個性にあたる。
集団と正義が不可分のものであるのは、正義を設定することで
共通部分を増やすことができるためである。

If one feel like that there are shared memories like commonsense or
custom, not only colour, in a group, it should derive from communality
between sensor properties or chain of reasons.
If common parts of chain of reasons are commonsense or custom,
differences are personality.
The reason why group and rightness are indivisible is that common parts
can be enlarged by setting rightness.

道徳における「正義」と、科学における「真理」は、ほとんど同じだ。
「正義」の方が同時並行して異なるものが主張されることが多いため、
それが絶対唯一でないようにみえるが、「真理」の場合も、新しい発見や
解釈のたびに更新されることから、状況は同じである。
いずれも究極的に唯一の何かがあると想定すること自体が、
理由律に対するある種の信仰であり、あまりにサディスティックになり
過ぎることには違和感を覚える。

"Rightness" in ethics and "Truth" in science are almost the same.
"Rightness" seems less absolutely unique because various rightness
are claimed simultaneously, but the situation is the same with "Truth"
because new discoveries or explanations updates it.
The fact that both suppose something ultimately unique means
a kind of belief to the principle of sufficient reason, and I have
a feeling of strangeness about being too much sadistic.

あらゆる判断機構は、過学習によって判断が先鋭化した状態で固定される
ことを恐れている。
「恐れている」というのはもちろんメタファであり、進化論における
議論に従えば、無目的に結果として残ったものが、固定化しなかった
ものだというだけだ。
意味付けによる物理的身体は生殖や発生の過程でエラーを導入し、
理由付けによる器官なき身体は理由の連鎖の過程でエラーを導入する。
理由の連鎖から逃れることで無我の境地に達するのかもしれないが、
せっかく取り入れたエラーを失ってまで突き進む道ではないように思う。

Every decision mechanism fears being fixed in a peaky state by over-training.
"Fear" is a metaphor of course, and, according to evolution theory,
it means that what is not fixed survived without any purpose.
Physical body with meaning process introduces errors while reproduction
and embryogenesis.
Body without organs with reasoning process introduces errors while
chain of reasons.
Although human can attain a spiritual state of selflessness by escaping
from chain of reasons, I don't think it's the way to go in exchange for
losing the errors.

もちろん、元々は判断を下すための投機的短絡であるから、その都度、
短絡を固定することで判断を下す=答えを出す必要もあるが、
答えを出すことだけであれば、より高性能な無意識を手に入れられる
AIに任せることも可能であり、人間であるためにはひたすら問い続ける
他ないように思われる。それが理由律への固執である。

It's absolutely sure that it is necessary to make decisions (=get answers)
by fixing in each case because a speculative short circuit is originally good for
making decisions, but it is possible for AI with better unconsciousness
(=feature extraction algorithm) to just get answers.
There seems no choice but to be dedicated to questioning to remain
human. It is adherence to the principle of sufficient reason.

ヒューマンエラーという言葉は、「器官なき身体に導入される振れ幅」
という本来の意味を取り戻すべきなのかもしれない。

Perhaps the word "human error" should recover the original meaning,
"deflection installed to body without organs".

2016-11-11

最近、「なのか」と聞かれることが多い。

「暇」という語は、
  • 時間配分の自由度が高く、任意のタイミングで時間を確保できる
  • そうやって確保した時間においてやることが不足している
の2つの意味で受け取れてしまうのだが、
どちらの意味で聞いてきているのかが判然とする
ケースには遭遇したことがない。

前者の意味では大いに暇だし、後者の意味では多忙をきわめる。

めんどくさいので、「まあボチボチです」に近い曖昧な
返答をしてしまうが、そもそも質問する側も話し半分で
聞いてきているように聞こえるので、ある種のやさしさである。

2016-11-09

US Presidential Election 2016

今回の大統領選の結果を見ると、白人とそれ以外、
あるいは東西海岸と中央ではっきりと差が出ている。
(まだ最終的な開票結果は出ていないが)

このことに対するTwitter上の反応を見ていると、
やっぱりアメリカも平等じゃないというものが多いが、
それは「人種」や「居住地」といったパラメタと
「投票内容」のパラメタの相関係数が大きすぎる
という意味だろうか。

何を「平等」とみなすかにも同一性の仮定が前提されるが、
ある同一性の下で、理由律によって演繹不可能な相関が
パラメタ間に見られたとき、つまり、その相関を因果にする
ためには、同一性の仮定を追加しなければならないとき、
元の同一性のみによって因果関係が把握できる集団に比べて
この集団が「不平等」である、ということが一般的にも
言えるだろうか。
もしそうであれば、より少ない公理からより大きい体系を
演繹しようとする数学のような自然科学は、より「平等」になる
ことを目指していると言える。

まあいずれにせよ、近代的な人間が集団を維持するには
サディステックに真理を一つに定める必要があり、
選挙の結果どちらかの候補には定まるのである。
近代的な発想でいけば、アメリカは二つに分離すれば
楽になれるんじゃないかという考えもあるだろうが、
マゾヒスティックに複数の真理を宙吊りにしたまま、
「一つ」の集団を維持する方法を、もう少し真剣に検討しても
よいのではないかという気もする。

p.s.
googleの検索結果、BBC、NBCなど、多くのところが「常識的に」
ヒラリー・クリントンを「左」、ドナルド・トランプを「右」に配置して
いるのだが、CNNだけが逆に、ドナルド・トランプを「左」、
ヒラリー・クリントンを「右」に配置している。
今回はむしろ、民主党の方が保守的に見えるという風刺だろうか。

2016-11-07

理不尽

なんで、なんでと問うその問が、人間を最も特徴付ける。

その問は、発達の段階において、教育するものによって理不尽にも切断されるが、それは特定の対象については高速に判断ができるようになるという点で、教育の有用な一面でもある。

「理不尽」は「理によって尽くさず」と書き下すことができ、すべてが理由律の中に位置付けられる前に判断が下されることを意味していると言える。この理不尽さにあまりにも慣れ過ぎてしまうと、理の中に位置付ける行為である理由付けを再構成する際に自らの力で行うことができなくなってしまい、与えられるがままに「理解」するだけになる。

教育の難しさは、バリエーションに富むわけでもないが、短期間で伝達するにはあまりにも多い「理解」の仕方を何とか伝達するために、理不尽さを必要に応じて混ぜながら行いつつも、一旦は切断した「理解」の根本の部分を如何にして欠損することなく再構成するかということにある。

理不尽さでもって一旦切断した問の連鎖を再構成することなく、理解し解答するという答えを出す部分にだけ終始するのであれば、教育はあまりにも理不尽である。

(un)?known (un)?knowns

There are known knowns.
というラムズフェルドの言葉がある。

前半の形容詞、(un)?knownは理由付けられているか否かを表し、
後半の名詞、(un)?knownsは意味付けあるいは理由付けによって
抽象されているか否かを表すと言える。
これは多分、「科学と文化をつなぐ」の第1章で取り上げられた
シニフィアンとシニフィエの問題と同じだ。
シニフィアンが明瞭なものはadjective:knownと形容され、
シニフィエが明瞭なものはnoun:knownsとして抽象されている。
明瞭でないものはadjective,noun:unknown(s)である。

抽象によってnoun:unknownsがnoun:knownsになったとしても、
それが理由律の中に位置付けられるかどうかはわからない。
adjective:unknownなままにnoun:knownsが増えていくことで、
多くの判断が高速に行えるようにはなるが、人間はやはり
adjective:knownなものを増やすことが好きなのだと思われる。

2016-11-06

サマサマのパテマ

吉浦康裕の「サカサマのパテマ」を観た。

最も単純に解釈すれば、パテマたちの世界が無意識の世界であり、
エイジたちの世界が、秩序を至高のものとする意識の世界である。
意識の世界は、自らが無意識を含めた全体を支配していると
思っていたのが、実は無意識の方が本来的な立場にあり、
アイガ人は空も地面も無意識に支配されていたという
エンディングであり、何ともフロイト的だなという感じだ。

その解釈で言えば、実験によって重力の方向が分かれたのは、
理由律を手に入れたことに相当する。
イザムラは「私」という近代的な自意識であり、管理センターは
ファルスみたいなものかなと思った。

ラカン的に言えば、パテマの世界が想像界、エイジの世界が象徴界だろうか。
イザムラが落ちていった空の先に現実界があるのだとすれば、死の瞬間に
自意識がみるもの、あるいは狂気になることでみえるもの、という点で
とてもよいメタファになっていると思う。

ドゥルーズ以降に展開されつつある、理由律の呪縛から解放された現代哲学という
パテマとエイジの物語の続きを、吉浦康裕だったらどのように描くだろう。

ドゥルーズと深層学習

ジル・ドゥルーズ「差異と反復」を読み始めた。

反復は、その本性からして、侵犯であり例外であって、
法則に従うすべての個別的なものに反する特異性と、
法則をつくるすべての一般性に反する普遍性とを、
つねに顕示しているのである。
ジル・ドゥルーズ「差異と反復」p.31
特異性と普遍性を兼ね備えつつ、個別にも一般にも
反するようなものは、理由律から生まれるだろうか。

反復に関する説明を読んでいると、どことなく意味付けを連想する。
ドゥルーズが反復としてイメージしていたのは、深層学習のような、
特徴抽出による抽象過程なのだろうか。
そこで抽出される特徴量がシーニュだろうか。

差異と反復の違いは、理由付けと意味付けの違い、
つまり、理由律を介するか否かの違いに対応するだろうか。
ヘーゲルに対する批判は、その哲学が理由律の中に留まっている
という点についてだろうか。

それとも、そもそも抽象ではないのだろうか。

2016-11-05

動きすぎてはいけない

千葉雅也「動きすぎてはいけない」を読んだ。

縮約、習慣化、観想という言葉は、抽象という言葉と概ね同じであり、ドゥルーズの
「すべては観想する」という言葉にはとても共感する。
抽象には大きく分けて意味付けと理由付けの2つがあると考えている。
意味付けは、理由律を必要としない抽象である。
そこには同一性の基準が確かに存在するが、それは身体というセンサの特性として
埋め込まれており、特徴抽出のために用いられる。
身体には、その複製過程においてさまざまなエラー導入手法が実装されることで
固定化回避が図られており、それも含め、身体を維持するには意味付けが最も
「合理的」な方法だと考えられる。
理由付けは、抽象過程に理由律を取り入れることで、複製によらない身体への
エラー導入による固定化回避を可能にした。
それが上手く機能することで出来上がるのが器官なき身体なのではないかと思う。
通時的には、再生産=生殖の系譜を切断しうる身体である。
千葉雅也「動きすぎてはいけない」p.212
と書かれているように、理由付けによって器官なき身体を獲得した意識は、
意味付けに基づく無意識では成し得なかった切断をも可能にする。

理由律において、理由の連鎖を登ってゴールに向かうことと、そのゴールが一つだと
信じることは別物であり、一つと仮定されたゴール=大文字の《理由》は、《欠如》や
ファルス、神などと呼ばれた。
現働性=同一性は前者に、潜在性=差異は後者に対応するのだろう。
ゴールを一つに設定し、それを推し進めることがサディスティックな在り方だとすれば、
ゴールの複数性に気づき、強烈に推し進めることができずに宙づりになるのが
マゾヒスティックな在り方になる。
サディスティックに振れれば、せっかく実装した固定化回避機構が機能しなくなるし、
マゾヒスティックに振れれば、そもそもの目標である判断不能の回避が達成できない。

その狭間において、動かなくてもいけないし、動きすぎてもいけない。
最近では、情報を過度に取り入れることで、半強制的にマゾヒスティックな状況を
見せつけられることの反動からか、他人を巻き込んでサディスティックに固定化を
しようとする傾向がみられるような気がする。
「他人のマナーに寛容的でなくなった」みたいなこともその一種であり、動きすぎなのだ。
器官なき身体の在り方はとても微妙なバランスが必要で、難しい。

以下、もはやまとまらないので、考えたことを列挙。

近代科学はゴールを置くことを恐れ、できるだけ遠くへ遠くへと延期しつつあるが、
一つであると仮定している点では宗教と差はないように思われる。
古い近代がサディスティックに振れることでパラノと診断されたことの反動として、
スキゾな在り方としてのマゾヒスティックも追求されたが、どちらかに振れ過ぎるのは
いずれにしても上手くいかないだろう。

理屈を付けることと理由を付けることの違いは、唯一のゴールが予め設定されているか
否かだと言えるが、理屈を付けることと意味付けの間には本質的な違いがあるだろうか。
そもそも、サディスティックに理屈を突き詰めるだけなら、判断基準は一つに収束し、
理由律を導入する意味はなくなる。意識は要らないのである。
だから、厳格で唯一にみえる判断基準を設定することは思考停止を伴う。

理由律のゴールの向こう側には、端的に理由が存在しない。
その向こう側を自然と呼ぶことができるだろうか。

愛がその対象の引き起こす結果の原因となる覚悟のことだとすれば、
愛により〈相互肯定による共−存在〉になることは、理由律の円環をつくることであり、
これをドゥルーズは永遠の円環、結婚指輪と呼ぶのだろうか。
婚礼の鏡の破壊は、理由律の棄却というよりは、理由が一つに定まらないこと=乱反射を
もたらし、器官なき身体はそれを行えることにこそ本質があるはずだ。

思考の創造的な条件としての「超越論的愚かさ」は、ゴールの複数性によってもたらされる。
動物は「それ特有の形式」によって愚かな存在にならないように保護されているとされるが、
この「それ特有の形式」はセンサ特性由来の意味付けであり、人間以外の動物は
理由付けに手を出さないことで愚かさを免れている。
ドゥルーズの言う、動物的な愚かさとはなんだろうか。

矛盾は、個体による観測が有限であることによって生じる。
それは共時的に異なる個体間かもしれないし、通時的に同じ個体間かもしれない。
そもそも、無矛盾性が成立する範囲を個体とみなすべきなのかもしれない。
いずれにしても、矛盾は忌避すべきことではない。
無矛盾性を追い求めるとしたら、無限の観測から形成した判断機構あるいは
サンプリング条件を同一にした判断機構同士においてであり、それはサディスティックな
基準の推し進め、愚かであることの終了、器官なき身体の喪失でしかないだろう。

2016-11-03

睡眠と発達障害

原因は睡眠不足?増える発達障害の子どもたち


この手の話はとても判断が難しい。
何をもって発達障害とみなすかという基準についてあまり詳しくないが、
基準が動く場合には当然「患者」とみなされる人数も変わるので、
そこに因果関係をみることにどれほどの意味があるのかは不明だ。

しかし、睡眠と発達障害にあえて因果関係を設定するとすれば、
判断機構の固定化不足が反映された結果という捉え方が
できるかもしれない。
SAIKAWA_Day11で書いたように、睡眠中に、夢として解釈される
データの反芻を行うことで試行回数を増やし、判断機構の整理整頓と
固定化が行われる。
意味付けの機構にとっては、固定化することが「よい」ことであり、
十分に固定化できていない状態が疾患とみなされるのはあり得るだろう。
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス
どのくらい固定化した方がよいかなんて、答えが出るわけがない。
その答えこそが固定化の一因である。

SAIKAWA_Day20

教育については、下記参照。
An At a NOA 2016-05-31 “教育
An At a NOA 2016-01-30 “教育
教育なんていう行為が、はたして本当に存在するでしょうか?
森博嗣「そして二人だけになった」p.243
教育者が、もし、どんな子供でも自分がなんとかしてみせよう、
などと考えているとしたら、それは虚しい幻想、あるいは、
単なる思い上がりです
同p.244 

2016-11-02

SAIKAWA_Day19

なぜ性別があるのか。

細胞が一つの古細菌や真正細菌は、細胞分裂によって全体を複製する。
多細胞生物では、生殖細胞のみを複製することで、発生過程における
エラーの侵入を可能にした。
有性生殖では減数分裂による遺伝子の組み換えを導入することで、
生殖細胞の複製段階においてもエラーが侵入できるようになった。

意味付けによる抽象において、固定化は避けがたい宿命である。
こうして導入されたエラーによって固定化を免れたからこそ、
生命という抽象過程は局所的最適化に陥らずに済んでいるのだろう。

意識を獲得した人間は、理由付けによってエラーの侵入余地を
確保できるようになり、そのエラーは犯罪や創造と呼ばれるに至った。
それでも、このエラーは行動レベルのものであるため、物理的身体が
固定化した際のバックアップにはなるものの、物理的身体自体のエラー
には寄与しないことから、減数分裂と発生におけるエラーの取り入れも、
現時点では相変わらず必要になっている。

遺伝子組み換えや発生のコントロール、あるいは身体の機械化によって、
それすらも克服できる兆しが見え始めているが、それを実現したのが
Wシリーズで描かれる世界なのかもしれない。
物理的身体にエラーを自在に組み込めるようになれば、有性生殖という
旧式のエラー侵入経路はもはや不要になる。
というよりも、一つの生命の寿命が延びることにより、生殖段階での
エラー取り込み頻度が極端に落ちるため、生殖によらないエラー摂取は
寿命を延ばすための必須技術になるはずだ。
また、その世界においては、エラー摂取のソフトウェア的な実装である意識も
重要性が増すのかもしれない。

AIにとっても、データの読み書き時に生じるエラッタが、固定化への一種の
防御策になり得る。
しかし、現状ではむしろ判断機構として固定化させることに固執しており、
そういったエラッタは当然排除すべき対象となる。
一旦はその段階を経る必要があるのかもしれないが、ハードウェア的にも
ソフトウェア的にも、何かしらの固定化回避策を取り入れていく必要が
出てくるはずだ。
AIの抽象過程にエラッタを侵入させる仕組み。
それをハードウェア的に実装することで、AIは生殖を行うことになり、
ソフトウェア的に実装することで、AIは理由付けを行うことになる。
現時点ではそもそもハードウェアへの依存性を下げる傾向にあるので、
ハードウェア実装はソフトウェア実装よりも困難なように思える。
ハードウェア実装ができたときには、性別と呼べる区別ができるのかもしれない。


そう言えば、人間の性別が2つであり、雌雄同体でないのはなぜだろう。
細胞間の情報伝達によって単細胞生物は多細胞生物になり、各細胞が
ある役割に特化できるようになるというアドバンテージを得た。
同じように、多細胞生物間の情報伝達によって多細胞生物は群れをつくり、
一つの個体のように振る舞うこともあるだろう。
ときにそれは多細胞生物のポリマーのようになり、個体と群れの境目は
はっきりさせ過ぎる必要がなくなる。
その中で、各個体がある役割に特化できるようになるのも、アドバンテージに
なるだろう。
雌雄同体から雌雄異体への変化も、そういった特化の一種だろうか。
これは別に男らしく女らしくといった話ではなく、むしろ意識を手に入れた人間は、
ときに物理的身体の違いすら無関係なかたちで、様々な役割の特化を進めることで
アドバンテージを増やしてきたと言える。
しかし、そういった役割分化の前提であった情報伝達の方がおろそかになって
いたのが、近代以降の反省すべき点なのだろう。
今再び、先鋭化した専門同士をつなぐ方向へと振れているが、境目をはっきり
させたまま上手くいくわけでもないように思われる。

2つな理由は、よくわからない。
実装上のコストの問題だろうか。

アプリオリ

カントの言うアプリオリ(a priori)は、理由の不在に対応するだろうか。
理由がわからないのではなく、「理由がない」という性質であり、
理由律の終着駅である。

意味付けによって抽象化されるものは、試行の果てに得られるという
点で経験に依拠しているため、カント的にはアプリオリな認識では
ないのだろうが、理由の不在という点では両者は見分けがつかない。
それは、アプリオリ=理由の不在という設定によって、理由律に絡め取られた
範囲を経験と呼ぶことになってしまうからなのだろう。

理由律に絡め取られないものは経験と呼ばれるだろうか。
言語による抽象は必ず理由律を前提するだろうか。
理由律を含まない抽象は特徴抽出と本質的に同じだろうか。

2016-11-01

理由律の終着駅

19世紀の教会を改修したスーパーコンピューティング・センター


教会にスパコンとは、なんとも象徴的である。

森博嗣も書いているように、「神と理屈はだいたい同じ」である。
いつの世も、究極の理由を必要とし続けるであろう人間の意識の
ために、大いなる原因の座を引き継ぐものとして、神の代わりにAIが
君臨する日が来るだろうか。

その先に理由律が続かないことで、それが究極の理由となるのであれば、
AIは理由付けに踏み込まず、意味付けの世界に留まるというのも、
一つの理想形なのかもしれない。

A church contains super computers, how symbolic it is.

"The God is approximately the same as logic", as MORI Hiroshi wrote.
I wonder if the day would come when AI supersedes the God
as the Great Reason for the human consciousness which will
ever needs the ultimate reason.

If it becomes the ultimate reason only if there is no principle of
sufficient reason beyond it, it may be one of the ideal form that AI does not
start reasoning and stay in the world of meaning.

SAIKAWA_Day18

AIの淹れるコーヒーの味の再現性は、人間よりも高いと仮定してよいのだろうか。
それであれば、ある評価関数の下での最適化の速さと、最適化されたパラメタの
再現性の高さの2点でAIの圧勝であるように思う。

最近コーヒー豆を買い、家で挽いてペーパードリップで淹れるようになった。
ドリッパーはドーナツドリッパー、ポットはバルミューダのポット、ミルは
セラミック刃の手挽きのものを使っている。
豆の重量、挽きの細かさ、お湯の温度、注ぐ量とタイミング等、
各パラメタをちゃんと管理すれば、自分で淹れてもかなり美味しいものになる。

豆の種類や飲む人、豆の管理状況やその日の天気等、様々な要因によって
最適なパラメタは変化するが、理由付けでなく意味付けできる類の行為であり、
意味付けできる行為は作法につながる。

ほとんど茶道の趣である。

2016-10-31

充足理由律

「なぜ、充足理由律などという強烈な条件が、こんなにも無条件に前提されるのか」
という問ですら、充足理由律を前提にしている。

充足理由律はそれほどまでに強烈であるが、だからこそ、
今の時点で「人間とは何か」と聞かれれば、
理由付けを備えた評価機関である意識を実装した存在
と答えたいのである。

そもそもは、森博嗣であり、伊藤計劃であり、AlphaGoが勝利したことであったが、
このところ読みかじっている本から察するに、現代哲学においても、ドゥルーズ以降
あたりから目立って主題化してきているような気がしている。

嗚呼、問うことの愉しさよ。

2016-10-29

ネイティブ

生まれたときに、何が常識だったかは判断基準を形成していく上で
とても重要になる。

遠隔地同士の通信技術で言えば、
1980年代は、コンピュータはまだ個人で所有することが一般的ではなく、
固定電話や手紙がまだまだ主流だった。

1990年代にWindows95が出たことは、この状況を一変したはずだ。
コンピュータがパーソナルなものになったと同時に、ポケベルやPHS、
携帯電話といったハードウェアやemailといったソフトウェアも普及し
始めることで、固定電話や郵便受けといった集約型のものから、個人個人が
所有する分散型のものへと変化し始めた。
デジタルネイティブと呼べるかもしれないが、アナログからデジタルへの
変化よりも、集約から分散への変化の方が本質的な気がする。
ゆとり教育ということ以前の問題として、一つの基準を集約的に適用する
こと自体の限界が、既に大人の側で始まっていたのかもしれない。

2000年代には、携帯電話やノートパソコンといった持ち運べる機器の
性能向上が著しかったように思う。ゲーム機も、据え置き型から携帯型に
変化した(ワンダースワン@1999、PSP@2004、ニンテンドーDS@2004。
ゲームボーイが1989年から奮闘しているのはさすがである)。
移動に依存せずに通信が行える一方で、通信の発達によってむしろ移動
しなくて済むようになることを、モバイルネイティブの世代はどのように
捉えているのだろうか。
外で遊ばないことや引きこもることが問題視され始めた時期でもあった
ように思う。通信手段のおかげで外に出ずに済むようになっただけでなく、
そういった情報が伝達できるようになった影響も大きいだろう。

2010年代には、フィーチャーフォンからスマートフォンへの移行が加速し、
携帯電話からは物理ボタンの大部分が消え去るのと並行して、電話よりも
コンピュータとしての性格が強まった。コンピュータも、ノート型からタブレット型に
なることで、同じように物理ボタンを失った。物理ボタンへの補償として、
触覚への入力データが偽装されるようになる。
最近はVRやARといった技術も盛り上がりを見せており、視覚や聴覚についても
同様のことが行われることで、通信技術は内側へ内側へと侵入している。
別の側面では、クラウド化の進行に伴い、端末はシンクライアントとして、
物理的にも機能的にも、限りなく薄くなろうとしている。
ソフトウェアの方面では、ソーシャルメディアとAIの影響が大きいだろう。
ソーシャルメディアは意思決定の在り方を変え始めている。
AIの発達によって、ひとたび判断基準が定まると急速に解が収束し、
問題は境界条件の設定までしか残らなくなりそうである。
人間のもとに残されるのは、いずれの領域においても境界=インターフェイス
だけになる勢いだ。しかし、分散が個人という枠を超えてさらに進み、
境界は物理的身体をベースとしたそれと一致するとは限らなくなってきている。
これを、何ネイティブと名付けるべきだろうか。

忙却の彼方

理由付けを実装することで、意味付けにおいて暗に埋め込まれて
いる正義を暴くことが可能になると同時に、正義の無理由性も
明らかになってしまうことで自滅への道が拓かれるのだとしたら、
理由付けなど捨ててしまえということになるだろうか。
それはつまり、意識を放棄するということだ。

短期的には判断基準を固定化する必要もあると思うが、
特定の基準に収束させ、それを永続化させる必要は全くない。
答えを出すのに忙しく、問いを立てることを忘れた先には、
スイッチが押された後の世界が待っている。
そこは、時間がなく、空間のみが広がる忙却の彼方である。

2016-10-28

エビデンス

本当に、こういう真っ当な意見がもっと広まるとよいのに。

「正しい」ことがただ一通りに決まるのであれば、データはエビデンスたり得る。
判断基準が一つなら、理由付けするまでもなく、データの解釈の仕方が定まるからだ。
たぶん、ここを誤解している人間が多いからそういう事態が増えるのだろう。

エビデンスがエビデンスたるためには、データと判断基準のセットが必要になる。
それは、コンピュータで処理されるデータは単なるバイナリ列であり、
フォーマットが定まらなければ符号としての意味をなさないのと同じである。
判断基準というフォーマットに関してのコンセンサスをとることが、
それをエビデンスとする「正しさ」を決めることに他ならない。

ナウシカ

風の谷のナウシカ
かぜのたにのなうしか
なぜのうかにしたのか
何故農家にしたのか

golangでファイルの存在確認

golangで開くファイルの存在確認をするときに、
if _, err := os.Stat(fn); err != nil {
    fmt.Println("file doesn't exist")
}
としていたのだけど、Change25571で追加された例を見て、
if _, err := os.Stat(fn); os.IsNotExist(err) {
    fmt.Println("file doesn't exist")
}
にしようと決めた。

ファイルの存在確認に関する関数としては、
os.IsExist(error)とos.IsNotExist(error)の2つがあるが、
linuxで言うと、前者は
err == syscall.EEXIST || err == syscall.ENOTEMPTY || err == ErrExist
を返し、後者は
err == syscall.ENOENT || err == ErrNotExist
を返す。

あるファイルを開くときに、あればそれを開き、なければエラーを返す、
というような処理では、os.IsNotExist(error)を使い、
あるファイルを作るときに、なければそれを作り、あればエラーを返す、
というような処理では、os.IsExist(error)を使うことになるのだろう。

os.Stat(string)は前者に相当するエラーを返すので、os.IsExist(error)では
チェックができない。
os.IsExist(error)は、os.OpenFileやos.Mkdir等と一緒に使うことになり、
標準パッケージでも、io/ioutilのTempFileやTempDirの実装に使われている。

脱出

答えよりは問いを探すようであれ。
与える側も同様だ。

答えを与えることで、理由付けが終わり、意味付けが始まる。
それは、再帰呼出しにおける脱出条件と同じように、
何かを止めることと同義だ。

輪廻からの解脱と同じように見えるかもしれないが、
特定の判断基準に収束してしまうことは、むしろ逆に
脱出できなくなることにつながるように思える。

2016-10-26

SAIKAWA_Day12

「特定の基準にてらして役に立たないことも、理由付けすることでやれるように
なるのが、意識を実装した人間の特徴だ。判断基準が一つしかないなら、
意識を無くした方がより効率的に“最適な行動”に収束できると思うよ。」

この件については最近書いたので、詳細は省略。
An At a NOA 2016-10-04 “役に立たない