2017-11-30

不特定の通信者

食品や衣服のように、強奪したものをそのまま利用するので
あれば、交換制度そのものの否定という理解ができるが、
貨幣という交換されることで価値をもつものを、強奪という交換を
否定する方法で手に入れることが横行するのはなぜだろうか。
そこには交換の肯定と否定のダブルスタンダードがある。

このダブルスタンダードを可能にしているのは、文明化によって
個の特定と判断基準の共有が分離されたことである。
通信手段が変化し、コミュニケーションの同時性や同地性が
必須条件でなくなると、見知らぬ相手との判断基準の共有が
可能になり、文明が生まれたと考えられる。
An At a NOA 2017-11-12 “日本の人類学
コミュニケーションの送信時と受信時で別の個体として振る舞える
ことが、貨幣という交換制度を瓦解させることなく逸脱できる状況を
生み出す。
ネット上で横行する匿名による罵詈雑言も、不特定化された個に
よって行われるいびつな交換という点で、貨幣の強奪と同じである。

文明人は、不特定の通信者unspecified communicatorである。
不特定多数の中における特定が恐れられる原因が、不特定の通信者
からいびつな交換を迫られることにあるのであれば、特定ではなく
不特定をやめるという「文明的でない」解法もあるように思うが、
文明人には受け入れがたいだろうか。

好感度

好感度というのは、愛だろうか、恋だろうか。
恋が配偶者選択における特徴抽出アルゴリズムである
のに対し、愛は「あちら」だったものを「こちら」と
して引き受ける、「こちら」の拡張である。
An At a NOA 2017-06-02 “青春の影
いずれにせよ、各人の物理的身体や心理的身体のセンサに
適合させられる入力情報が、好感度が高いのだと思われる。

デフォルメされた情報は、抽象から具象を再構成するときに
各人が各々の好みに合わせられるために、近くて遠いことで
現れる不気味の谷を回避できる上に、好感度も高められる
ということなのではないかと思う。
圧縮と伸長の過程に補完という自由度を含める手法は、
デフォルメと呼べるものである。
An At a NOA 2017-02-13 “言葉使い師
距離空間の取り方によらず、何らかの尺度で近い
のに遠く感じられるものは不気味になり得る。
An At a NOA 2017-07-14 “不気味
もっとも、これが上手くいくためには高いリテラシーが
必要とされるはずだ。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学” 

2017-11-29

趣と面白さ

国も里も故郷も両親も面影になる。大事な「おもむき」は
みんな面影になりえたんだと思う。それが「おもしろし」
ということだったんだと思います。
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.101
「面白し」というのも、面貌が白いというのではなく、
目の前がふわっとあかるくなるという意味ですよね。
同p.101
笑い遊びと同じように、「趣」や「面白さ」もまた、
記憶に支えられている。
記憶とは、意味付けや理由付けをするたびに更新される
物理的身体と心理的身体の抽象特性である。
どちらかと言えば、趣は物理的身体の影響を、面白さは
心理的身体の記憶の影響を大きく受けるように思うが、
もちろん両者の影響はない交ぜになっているだろう。

記憶が固定化も発散もせず、二つの身体が生命らしく
壊死と瓦解の間で抽象している状態が、趣や面白さに
つながるのだと思われる。

記憶は、狭いよりも広く、堅いよりも柔らかくした方が、
より多くの趣や面白さを感じられるはずだ。

2017-11-28

日本問答

田中優子、松岡正剛「日本問答」を読んだ。

複数の視点をもつという意味では、ダブルスタンダードはむしろ歓迎されるべきことである。
An At a NOA 2017-08-02 “ダブルスタンダード
で言いたかったのは、この対談で出てくるデュアルスタンダードのことだったのだなと考えながら読んでいた。

ダブルとデュアルの違いは複数の視点の現れ方にあり、ダブルでは一つずつの視点が交互に切り替わっていくのに対し、デュアルでは複数の視点が同時に重ね合わされる。要素や主語に着目して一真教的に静的な秩序に向かうのではなく、方法や述語といった消化と再構成の過程を通して、和合してさえいれば一枚岩でなくてもよいような、循環プロセスとしての動的な秩序を維持しようとする。外と内、表と裏、真と仮、男と女、漢と和、天皇と将軍、儒と仏、神とほとけ、政治と祭祀、顕事と隠事、ウツとウツツといった要素を区別することではなく、その「あいだ」を行き来する「うつろい」に重きをおき、要素自体を残すのではなく、「しきたり」や「ならわし」として例示された方法を「仕似せる」ことで、「おもかげ」を残しながら動的秩序は受け継がれていく。
「つぎつぎ・に・なりゆく・いきほひ」
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.35
たったひとつの普遍は必要ないし、むしろ普遍の内部から多様性で押し返すことが必要で、デュアルな日本はそのほうが得意なはずじゃないかと思うんですね。
同p.38
「善悪」を静的で固定的な理念として理解するか、それとも過剰と制御という動的な操作として理解するか、と考えた場合、どちらが日本の善悪概念を説明できるかといえば後者である。
同p.341
悪とは過剰なエネルギーの噴出のことであって、善とはその制御のことである。
同p.341
遊び、「見立て」、「やつし」、「うつろい」、「ゆ」、「間」といったものは、
日本の「間」というのは、AとBを離してつくるのではなく、詰めて詰めていって、それでもあいだがあくもの
同p.267
であることによって、静的な秩序への固定化による壊死を防ぐと同時に、発散による瓦解も防いでおり、「日本という方法」を「更新される秩序=生命的なもの」たらしめている。

そもそもこうした秩序の形成は、静的であるか動的であるかに関わらず、コミュニケーションの上で行われる。
ものと言葉と情報が「しくみ」をつくっている。
同p.77
同時代以外の記憶に出会うには、やはり本を読むということが大きかったですね
同p.308
記憶というのは再生と一対になるから記憶なんです
同p.323
「順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してコンセンサスが更新されるプロセス」としてリアリティが捉えられるのであれば、日本人にとっての「おおもと」が西洋のリアルほど確固たるものでなくても何の不思議もない。
リアリティとは、順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してモデルが調整されながら、コンセンサスがその都度確認されるプロセスである。
An At a NOA 2017-11-28 “リアリティのダンス
むしろ松岡正剛が言うように、
面影はおぼつかないから情報的に強靭になるんです。
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.98
というレジリエンシーの意味で強い「もどき」の方が日本人的なのだ。

会話、質問、本、音楽、その他もろもろのコミュニケーションを通して、好奇心をもって問い、それに答/応えることによって、ズレを伝播しながら治まるところに治まっていく。その過程として現れる「おおもと」を、壊死も瓦解もさせないように続けていくのがよいのだろう。
質問に対する答え方を通して、相手の人格も見ている。
同p.273
日本人の編集力の秘密は聞き上手にあったか。
同p.273

リアリティのダンス

アレハンドロ・ホドロフスキー「リアリティのダンス」を観た。

思い出す、夢見るという行為は、記憶となった過去を現在へと
再投影することであり、一種のバックプロパゲーションである。

一次視覚野から高次視覚野への順伝播によってモデル=記憶=過去が
形成されるとともに、高次視覚野から一次視覚野への逆伝播によって
モデルと入力の誤差が確認され、モデルが調整される。
このプロセスは、何かを視認するときに常に起こっているものだが、
同じことが過去と現在の間や、ある人間と別の人間の間といった、
コミュニケーションが成立するあらゆる場所で起こっているように思う。

リアリティとは、順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してモデルが
調整されながら、コンセンサスがその都度確認されるプロセスである。
現実は、コンセンサスが得られることによって立ち上がる。
コンセンサスが得られている様を現実と呼んでもいいくらいだ。
An At a NOA 2016-11-28 “現実

この映画はホドロフスキーが提示する一つのモデルであり、それが
フィクションなのかノンフィクションなのかということはあまり
問題ではないように思う。
ホドロフスキーの記憶、今のホドロフスキー、ホドロフスキーの家族、
映画を作った人間、映画を観た人間といった様々なもの同士の
コミュニケーションの中で、色鮮やかに提示された一つのモデルが
軸となって生じる躍動が、リアリティのダンスなのではないか。

2017-11-26

ホドロフスキーのDUNE

ドキュメンタリー映画「ホドロフスキーのDUNE」を観た。

Movies have heart. Boom-boom-boom.
Have mind. Have power. Have ambition.
I wanted to do something like that.
Why not?
"Jodorowsky's Dune"
という言葉に続く間が印象的だった。

これは、ホドロフスキー版「デューン」の偉人伝である。
「デューン」そのものを観ることはできないが、関わった
人間が語る言葉や、絵コンテを見た人間が発表する作品の中に、
まさしく「デューン」の面影と言えるものが残っている。
"Dune" is like Paul.
[...]
The film was killed.
But you know you can hear in some films.
I'm "Dune". I'm "Dune". I'm "Dune".
"Jodorowsky's Dune"
公開されて影響を与えたという意味で「生前に名を成した映画」は
多いが、ホドロフスキー版「デューン」は「死後に名を成した映画」
という稀有な存在だと言えるだろう。

脳の意識 機械の意識

渡辺正峰「脳の意識 機械の意識」を読んだ。

「意識とは何か」についての議論は、人類史上最も関心を集め、
これからも集め続けると思うが、その答えが人間の物理的身体の
内側、特に脳に求められるようになったのは、近代から続いている
時代の特徴だと言えるだろう。

近代的な考え方は、部分に分解したものを理由付けによって全体へと
再結合する「理解」というプロセスを重視し、理由付けの仕方には
唯一真なるもの(=真理)が存在することを仮定するという点で、
一真教的である。
集団は個人へと分解され、個人の肉体は器官へと分解され、器官は
細胞へと分解され、細胞は原子や電子へと分解される。
その一方で、要素還元主義というゲシュタルト崩壊を免れるために
理由付けが施される。

ニューロン活動と体験の連動の計測、NCCの探求による因果性の証明、
情報の二相理論、統合情報理論、生成モデルといった理論の提示、
というのも「理解」のプロセスであり、それが進行している様子の
描写は、読んでいてとても面白い。
情報自体ではなく、情報を抽象する過程である神経アルゴリズムに
意識をみるという生成モデルの話は、個人的にも賛成できるものだ。
意識が抽象過程であるならば、それが実装されるハードウェアは、
脳であろうが機械であろうが、何でもよいことになる。
可視光、可聴域、形状認識、応答速度といったハードウェア特性の
影響は存在するが、それはいくらでも人間の脳に近づけられるはずだ。
人間と全く同じ特性を有するセンサの塊は、たとえその
ハードウェアが炭素ベースでなかったとしても、あるいは
ハードウェア自体が存在しなかったとしても、人間である
ことは可能だろうか。
それは結局、人間というカテゴリについてどのような物語、
理由付けが共有されるかの問題だと思われる。
An At a NOA 2017-10-19 “ペガサスの解は虚栄か?

しかし、意識が抽象過程であるからこそ、「我」や「意識」といった
何かが存在するという表現には違和感を覚える。
むしろ、意識はニューロンなどの物理的なものに支えられながら、
その都度成立するものであり、「半透明の正方形」と同じなのでは
ないかと思う。
さらには、ニューロンの上に実装された神経回路網における抽象
だけでなく、人間の個体同士の通信網における抽象もなければ、
我も彼も意識は意識として意識されないと思われ、言葉や道具を
用いた個体間の通信は、外部化した生成モデルとみなせるのでは
ないかということを考えてしまう。

あらゆる抽象過程には「何を同じとみなすか」の判断基準があり、
理由付けにおいては理由がそれにあたる。
チューリングテストのような意識を判別するための理由や、生成
モデルのような意識の理論を共有しようとするところが、まさに
意識らしさが外部に現れたものであり、「意識とは理由付けである」
という理由付けすらできるのではないかと思う。
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続
そして、意識の問題が個体の内外に渡るからこそ、意識を移植したり
人工意識を実装したりする上での一番の困難は、肉体や筐体の内側
ではなく、外側にあるように思う。
大航海時代における邂逅からマーチン・ルーサー・キング・ジュニアを
経てバラク・オバマの大統領就任に至るまで、徐々に人種差別が緩和
されてきているのと同じように、意識のカテゴリの緩和もまた、
数世紀をかけて行われるのではないかと思う。
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、
いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに
なると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “
奴隷や黒人が人間として抽象されないことが主流な時代があり、
今でも、多かれ少なかれ、自分とは異なるようにみえる存在を
自らと同じカテゴリに入れようとしない傾向はある。
その傾向は消えることなく、同一性の基準の更新はせめぎ合い
ながら緩やかに進行していくと考えられる。
An At a NOA 2017-09-22 “何かであるということ

いろは

 11

12
1ニ
1モ
^
y_

2017-11-24

ユートピア

トマス・モア「ユートピア」を読んだ。

一つの視点だけで「よい」ものを定めることは難しい。
ラファエル・ヒスロデイがユートピアをよいものとして
語れるのは、彼が(つまりは著者自身が)ヨーロッパ
という比較対象をもつからである。

それに対してユートピア人は、あえて視点を固定し、
近代以上に大きな物語を共有することで、静的な秩序に
向かうことを「よし」としているようにみえる。
それは、飢餓や病気からの快復による快楽にも増して、
健康こそは至上の快楽である
トマス・モア「ユートピア」p.121
という快楽観にも表れている。

あらゆるものが「よい」状態に落ち着くことができる社会
において、意識が実装され続けることはあるのだろうか。
意識というのは、常に現在に対して不満を覚える必要があって、
完全に満足した現在を認識したら、意識はその役目を終えて
消え去ることができるのではないかと思う。
An At a NOA 2017-05-19 “不安な個人、立ちすくむ国家
壊死しつつある静的な秩序は生命らしさを失うと思われるが、
意識を維持するために発散を許すことと、何かしらの視点で
「よい」ものになるために意識を手放すことと、どちらが
「よい」だろうか。

トマス・モア自身、ヒスロデイに向けて、あるいはエラスムス
に向けて、
私は、別の機会をつくってこの問題を論究したい、そして
もっと忌憚なく話合ってみたいといった。
本当に、その機会がぜひ近い将来に来ることを私は切に
祈らざるをえない。
それまでは私はまだまだ彼が言ったことをすべてそのまま
承認するわけにはゆかない。
トマス・モア「ユートピア」p.182
と問いかけることで、発散への道をひらいたままにした。

生命的であることが「よい」ものであるというのもまた一つの
視点でしかないが、「エレホン」、「すばらしい新世界」、
都市と星」、「ハーモニー」などの多くの作品を通じて、
いろいろな視点が折り重なりながら時代を超えて続いている話し合いは、
意識にとっての最も生命的な在り方の一つだと言えるかもしれない。

2017-11-22

個の特定

World's first human head transplant a success, controversial scientist claims

人間の頭部移植に成功したとのことだが、それが技術的に
可能なのか、倫理的に許容されるのかといったいろいろな
疑問の中で最も興味深いのは、患者が生き残ったとして、
それは誰とみなされるのか、である。

つまるところ、個の特定identificationとは同じであること
idemの確認であり、同じ情報を与えるものは同じものとして
抽象することしかできない。
使える情報が少なくなればなるほど、あるいは複製技術の
精度が上がれば上がるほど、個は幅をもつことになる。

オンラインでは既に個を特定することが必ずしも容易では
なくなっているが、今後、臓器移植や形成外科、人工知能や
外部記憶装置の技術が発展するにつれて、オフラインもそう
ならないとも限らない。

長らく一本の糸だとみなされてきた個体は、鎖から樹や網へと
解されていくのかもしれない。
分岐と統合を繰り返す「それ」は、一つの過程あるいは計劃と
みなされることになるのだろう。
In-dividuals which have been regarded as a single thread for a long time
may be sleaved from chains into trees and networks.
Those that repeat fork and merge will be regarded as a process or project.

2017-11-21

十六進数

アラビア数字は2と9を入れ替えれば、閉じた
領域を含むのが偶数、含まないのが奇数となる。
09468
13572

閉じた領域を含む記号としては、
 ∂、ρ、φ、θ、σ、の
あたりがあるので、十六進数の10、12、14の
表記にはこれらを使えばよいのでは。

あるいは、一の位に形状が近い記号を使って、
 10=φ
 11=J
 12=て
 13=ε
 14=୪
 15=∽
とか。

「すべてが∽になる」
妃真加島、真賀田研究所、四季の部屋、子宮のマトリョーシカ

構造設計

竹中工務店がAIを育成、構造設計を70%効率化

既存の構法や申請業務など、歴史的経緯の影響が大きい部分ではルーチン作業も多いので、そこに手が掛からなくなるのはよいかもしれないが、モデル化がAIの領分に含まれるのが気になる。建てようとしている建築物に、どのような構造を見出すか、つまり対象をどのようにモデル化するかこそ、構造設計という抽象過程の一番の面白さだと思う。
構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
(中略)
しかし、構造という言葉の意味が上述のようなものであるとすれば、建築においてある空間を成立させようとしたときに、空間を成立させるための仕組みに対する、これまでの知見との共通事項を探る行為にこそ、構造設計という言葉の本意があるのではないかと思う。
An At a NOA 2015-11-02 “構造
モデル化の物語を隠蔽するのは、「安全と安心」と同じ問題に繋がるように思う。

将棋や囲碁の棋士がponanzaやAlphaGoの指す一手を「理解」しようとするのと同じように、人間は、暇になった時間を使って、理由付けという物語を補うところに注力していくのかもしれない。
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続

2017-11-18

遊びと人間

ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」を読んだ。

カイヨワが挙げる、
  1. 自由な活動
  2. 隔離された活動
  3. 未確定の活動
  4. 非生産的活動
  5. 規則のある活動
  6. 虚構の活動
という遊びの六つの定義のうち、2(隔離)と5(規則)は遊びが
一つの独立した秩序であることを意味している。
3(未確定)、4(非生産的)、6(虚構)は、「確定」、「生産的」、
「事実」が何であるかを決める判断基準が存在することを
意味し、その判断基準は「まじめ」と呼ぶべきものである。
そしておそらく、「まじめ」の判断基準に対して、代替となる
判断基準が設定できることが、1(自由)という特徴をもたらす。
  1. アゴン(競争)
  2. アレア(運)
  3. ミミクリ(模擬)
  4. イリンクス(眩暈)
という四つの分類も、日常生活、規則、既存、正常といった
「まじめ」の判断基準に対して、代替となる判断基準の設定の
仕方に応じたものだと言える。

遊びとは、固定化による壊死から逃れようとする運動であり、
自らも秩序であることによって発散による瓦解を防ぐ。
それはアンリ・ベルクソンが論じた「笑い」にも通ずる、
きわめて生命的な振る舞いである。
集団が、固定化と発散の間でバランスを取ろうとする衝動
An At a NOA 2016-11-25 “笑い
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス
遊びが台本、楽譜、習慣、規則、定石という「まじめ」になり、
これらかつて遊びだったものからの逸脱がまた遊びとなる。
カイヨワも言うように、遊びとまじめのどちらが先かはあまり
意味のない問題であり、「まじめ」があるからこそ遊ぶことが
できると同時に、あらゆる「まじめ」はかつては遊びだった。

遊びと聖なるものについて、ホイジンガが両者を同一視した
ことをカイヨワは咎めるが、遊びが日常生活に対して、聖なる
ものが俗なるものに対して別の判断基準となるという点では
両者は同じであるし、聖なるものを信仰する人間にとっては
それが既に「まじめ」であるという点では両者は正反対である。
それは結局、「まじめ」の判断基準を何とするかだけであって、
カイヨワ自身が浸っていた西洋近代の「まじめ」を遊びと見る
ような視点も想像できるだろう。

より完全な遊びの定義や分類を目指すことや、ミミクリと
イリンクスからアゴンとアレアに至るのが進歩であると述べる
ことは、とても近代人らしい態度だと思うが、遊びの遊びたる
所以を考えれば、近代的に大きな物語を設定しようとすること
自体が、遊びの余地をなくしてしまう。
遊びは、捉えようとしても捉えきれず、囚われないものであり、
遊ぶことしかできないものとして、遊びについての一つ一つの
思考が、それぞれ遊びであるのがよいように思う。

遊びはであり、その始まりもまた擬かれている。
「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。
兼好「徒然草」第二百四十三段

2017-11-17

通信可能性と応答可能性

言語、習慣、常識などが固定化することで通信可能性communicatabilityが生まれ、判断基準が発散できる状態にあることが応答可能性responsibilityに繋がる。

通信可能性と応答可能性の両方を具えていることが生きているということであり、通信可能だが応答不可能な集団は壊死し、応答可能だが通信不可能な集団は瓦解する。

自由とは生き生きとしていることそのものであり、不自由とは死んでいることそのものである。

2017-11-15

自閉症とネットワークループ

自閉症Autismはselfを意味するαὐτόςが語源になっており、
100年ほど前に作られた言葉だ。

最近の研究では、神経結合の異常との関係も指摘されており、
物理的なネットワークループと似ているのかもしれない。
一匹のウロボロスのように、理由付けが小さな閉鎖回路に
閉じこもることで、selfが固定化してしまうのだろうか。

自閉症スペクトラム(ASD)は「コネクトパチー」である!

出張のついでに見に行った「コンニチハ技術トシテノ美術」に、
精神医療をテーマにした作品があった。

近代という大きな物語を設定する流れの後で、かつての狂人は
自閉症や統合失調症として括り出されている。
それは、「わからなさ」がなくなることで芸術が技術になる
ことと同じ変化であるように思う。
一種の「わからなさ」が芸術を芸術たらしめ、すべてを
「わかった」とすることが技術を技術たらしめる。
An At a NOA 2017-07-31 “芸術と技術3
「わかった」という大きな物語が技術として共有された結果、
個人個人が「わかる」ことなく通信謝絶に陥っていくのは、
ある種の自閉症とは呼ばないのだろうか。

2017-11-13

都市と野生の思考

鷲田清一、山極寿一「都市と野生の思考」を読んだ。

生命という秩序が更新し続けるためには、何かしらの仕組みで
つねにエラーを導入する必要がある。
意味付けによる物理的身体は生殖や発生の過程でエラーを導入し、
理由付けによる器官なき身体は理由の連鎖の過程でエラーを導入する。
An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖
エラーが混入され得ない秩序は、死んでいるのと同じだ。
安定性は多様性が担保してくれるのです。
鷲田清一、山極寿一「都市と野生の思考」p.14
成熟した社会というのは、熟れて腐乱状態にあると同時に、
未熟さを深く宿している社会でもある
同p.44
固定化しようとする秩序に対してエラー導入という発散の
契機が存在し、発散する度に秩序の判断基準が更新される
ことで、動的平衡は安定する。
共通の対立点があるからこそ相手とつながり、意見の
衝突を通じて深い絆が育まれる。
同p.26
判断基準の更新可能性がより大きい点で、ディベートよりも
ダイアログの方が、生命的な秩序に繋がりやすいだろう。

人間のセンサは、堅実的な物理的身体と投機的な心理的身体
という、判断基準の更新の仕方の異なる二つの抽象過程が
重なり合ったものだと思う。
他の動植物やロボット、人工知能など、他の抽象過程と比べて
特徴的なのは、投機的短絡が生じる心理的身体の影響が大きい
点であり、それを精神のネオテニー化と呼ぶのだろう。
そこに、道具として外部化された抽象過程も加えることで、
人間同士のコミュニケーションが成立する。
人間のコミュニケーションは本来、生物学的な感性と
文化的な感性、それと科学技術が渾然一体となって
行われるものです。
同p.30

心理的身体が投機的短絡によって生み出す新しい秩序は、
突拍子もない飛躍、逸脱によって無意味を理由付け、
物理的身体には不可能なまでに圧倒的な速度での変化を
可能にする。
文化とは「逸脱」、もしくは「倒錯」の現象
同p.91
人類の文化はそういう意味で遠大な無意味、ないしは不条理を
糧にしているのかもしれませんね。
同p.214
理由付けは時間やエントロピーを設定する順序付けであり、
物語、フィクションとして共有されることで、家族、特に
父親、食、性、ファッションなど、人間特有の文化を多く
生み出すと同時に、過度な発散を防ぐ機構としての禁止や
制度としても機能してきた。
死ぬというのは、時間、世代などの順序がすべてチャラに
なることです。
同p.63
〈自然〉と〈制度〉が深く交錯する場所、それが家族なんですね。
同p.91
個々の理由付けはpossesion(所有、憑依)へと繋がる。
近代は所有と共有をリセットしたが、コミュニケーション不全
に陥った状態では抽象過程は機能しない。

物理的身体の意味付けにしろ、心理的身体の理由付けにしろ、
抽象過程はコミュニケーションの中でしか成立せず、自由と
責任の在り方もまた、それを反映する。
independenceではなくinterdependence、すなわち相互依存の
ネットワークを必要に応じて使えることこそが「自由」であり、
不安を取り除いて安心につながるということです。
同p.141
責任とは本来、他者との関係性の中で捉えるべき概念ですからね
同p.141
人と人とが共有する判断基準が固定化していない
ことが自由であり、その都度の判断基準の決定に
対して責任が生まれる。
An At a NOA 2017-11-09 “自由の相手

鷲田清一が指摘するように、生物学的な感性、文化的な感性、
科学技術は互いに影響し合いながら変化していくと思われる。
結局、人間の知的能力やセンサーは、それまで担っていた責務を
外されると、また新たな能力として使われるようになる。
鷲田清一、山極寿一「都市と野生の思考」p.210
それは、発散による瓦解を防ぐホメオスタシスであり、固定化
による壊死を防ぐ機構と同じように重要になる。
更新される秩序としての生は、
更新の不在によって死に至り、
秩序の不在によって解かれる。
An At a NOA 2017-08-11 “壊死と瓦解
祭りや習慣のように、理屈抜きに設定される禁止や制度によって
支えられる心理的身体のホメオスタシスもまた、技術とともに
変わっていくはずだ。

都市と野生のどちらか一方が固定化し、他方が発散しているという
ことではなく、都市には都市の、野生には野生の固定化と発散があり、
どちらも壊死と瓦解の狭間で維持されていく。
その更新過程において、「何をどこまで変えないか」は、人間とは何か
という問いに繋がるだろう。

2017-11-12

日本の人類学

山極寿一、尾本恵市「日本の人類学」を読んだ。

類人猿や狩猟採集民の研究を通して現代人を相対化してきた二人の研究者が、人工知能や医療技術の発展とともに揺らぐ人間の定義の在り方を見据えて対話する。
自然人類学と文化人類学を再び統合して人間の来し方行く末を論じることが切望されている。
山極寿一、尾本恵市「日本の人類学」p.9
人間とはなにかを考えるとき、その切り口は、形態、遺伝子、コミュニケーション、衣食住など様々であり、系統樹思考と分類思考を織り交ぜながら抽象できるようであるとよい。

子どもの頃の判断基準の不安定さが失われないことによって、視点の多様性が大人になっても維持される。
ヒトにおいては行為のネオテニー化が起こっていく。子どもの精神・好奇心が大人の間に芽生え、普及していく。
同p.179
精神がネオテニー化したことによって、「古いものを捨て、新しい環境にどんどん進出していく」ようになる。また、言葉という判断基準を共有していない子どもとのコミュニケーションが大人にも広がることで音楽となる。
初めはむずかる赤ちゃんに対して発せられていた音声が大人の間に広がり、心を同一化させるようなファンクションを持って普及した。
(中略)
まさにインタラクションのネオテニー化ですよね。
同p.180

言葉や音楽に限らず、何らかのコミュニケーションを通じて共有された判断基準が文化となる。
文化というのは共有されたひとつの計画性
同p.33
文化は遺伝ではなく、価値判断によってある集団に生ずる現象なのです
同p.34
同じことをする人たちが集団をつくるというのが、文化の大きな特徴だと思います。
同p.191
互いが直接コミュニケーションをとりながら判断基準を更新できるのは、脳容量の関係から一五〇人程度までの集団に限られる。通信手段が変化し、コミュニケーションの同時性や同地性が必須条件でなくなると、見知らぬ相手との判断基準の共有が可能になり、文明が生まれたと考えられる。
集団の人数が一五〇人をはるかに越すようになると、ずるい者や悪い者が出てきて富と権力を独り占めするようになる。極端に言えば、これが文明の本質です。
同p.148
文明の誕生はまた、その時その場所にいるコミュニケーション相手に応じて、共有する判断基準がテンポラリに変化する状況を生み出す。コンテキストスイッチのように複数の判断基準を切り替えるのは、精神がネオテニー化したことによって可能になったと思われる。音楽の誕生に関連して指摘される、
ないものを表すということが起こったのではないか
同p.185
というのも、文明的な判断基準の共有の仕方をするようになったこととつながっているはずだ。

エドワード・ウェスターマークの「幼児期の親密な関係は性衝動を忌避させる」という予言は、コミュニケーションを重ねることによって判断基準が固定化することを言ったものだと考えられる。一度性交渉を伴わない関係に固定化しても、性交渉を伴う関係へと発散する可能性がある場合には、タブーという文明的な制度によって固定化させておく必要があるのだろう。
霊長類の段階から受け継いできた人間の性の生物学的なあり方が、社会的な制度にまで発展する
同p.205

私有というのは、文明的な判断基準の共有の合間に生じるテンポラリな判断基準の共有のことだと思われる。そのため、文化的ではあるが文明的ではない狩猟採集民は、私有せずに共有する。
狩猟採集というのは私有を否定する文化なんですよね。私有ではなく共有です。
同p.135
多様な視点が入れ替わり立ち代り現れる状況というのもまた、テンポラリな判断基準の共有という意味では一種の私有である。私有を避けるというよりは、私有と共有のいずれにおいても、固定化を避けるというのがよいように思われる。

新しい通信手段が集団の形成の仕方を変えるとすれば、情報革命によってコミュニケーションに対する脳容量の制限が緩和されることで、文化と文明の関係も変わってくるだろう。人間の定義が揺らいでいること自体は必ずしも悪いことではなく、つねにいろいろな視点から問いが発せられることで、固定化することなく、創造と破壊の連鎖による秩序の更新が続いていくのがよいと思う。

2017-11-10

copyrightとcopyleft

著作権Copyrightは18世紀初頭のアン法によって始まった。
それは複製技術の高度化(写本からグーテンベルクの印刷術へ)と
プロトコルの普及(識字率の上昇)の影響で生まれた。

一方、コピーレフトCopyleftはリチャード・ストールマンによって
20世紀末に広められた。
これもまた、複製技術の高度化(アナログからデジタルへ)と
プロトコルの普及(インターネットの誕生)の影響で生まれた。

あるプロトコルによって符号化可能なものは複製可能性を帯び、
プロトコルの共有範囲と複製の再現度が、オリジナルとクローンの
関係を決める。
おそらく、オリジナルのオリジナルたる所以は、複製可能性から
漏れるところにしかない。
それは複製技術やプロトコルの制限、あるいは逸脱や飛躍によって
失われる情報であり、すべての情報がコピーできないところにだけ
オリジナリティは残る。
デジタルが複製の完全性を指向するのであれば、情報をデジタイズ
すること自体がオリジナリティを放棄することにつながっており、
オリジナリティはその都度の逸脱や飛躍によって維持するしかない。
複製の不完全性がはらむ発散の中にこそ、芸術の萌芽が
あるのである。
An At a NOA 2017-04-30 “芸術と技術
あらゆることに理由付けられることで複製は
完全になり、技術と呼ばれるようになる。
(中略)
逆に、複製過程において理由がわからない
部分があると複製は不完全となり、芸術と
呼ばれるようになる。
An At a NOA 2017-06-14 “芸術と技術2
一種の「わからなさ」が芸術を芸術たらしめ、すべてを
「わかった」とすることが技術を技術たらしめる。
An At a NOA 2017-07-31 “芸術と技術3
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず
世阿弥「風姿花伝」p.103
抽象過程についての詳細が明らかになっていないこと自体が、
抽象過程の芸術性となる。
意識や生命の複製方法が詳らかになったとき、それでも
これらは「神秘」であり続けられるだろうか。

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

スティーヴン・グリーンブラット「一四一七年、その一冊がすべてを変えた」を読んだ。

ポッジョ・ブラッチョリーニがルクレティウス「物の本質について」の写本を再発見し、古典古代のエピクロス主義を復活させたことが、ルネサンスのきっかけとなり、キリスト教世界を近代へと逸脱clinamenさせたという物語。逸脱がもたらす変化は、「万物は逸脱の結果として生まれる」というルクレティウスの思想そのものでもある。そのずれはわずかではあるが、創造的破壊となり秩序の固定化を防ぐ。
この逸脱―ルクレティウスはdeclinatio(ずれ)、inclinatio(傾き)、clinamen(傾斜運動)など、さまざまな呼び方をしている―は、ほんのわずかな動き(nec plus quam minimum)である(二巻二四四行)。しかし、絶え間ない衝突の連鎖を引き起こすのにはそれでじゅうぶんだ。
スティーヴン・グリーンブラット「一四一七年、その一冊がすべてを変えた」p.235

一神教あるいは一真教の下で、人間中心あるいは西洋中心の世界観を築いてきた長い期間の後で、さらに六百年を経た現代においてようやく、進化論サイバネティックス思弁的実在論多自然主義などのかたちでルクレティウスの思想へと回帰しつつある。
存在には終わりも目的もない。絶え間ない創造と破壊があるのみで、すべては偶然に支配されている。
同p.234
宇宙は、生成と破壊と再生という絶え間ない過程において、本質的に性的なものだ。
同p.295
著者が言うように、もはやルクレティウスが読まれず、写本再発見の物語が知られないとしても、その思想は主流となったように思う。
古代の詩が今では誰にも読まれぬまま放置され、喪失と復活の物語が次第に忘却の彼方へと消え、ポッジョ・ブラッチョリーニがほぼ完全に忘れ去られる。これらはルクレティウスが近代思想の主流に吸収されたほかならぬ証拠だった。
同p.325
それでもこうして、「喪失と復活の物語」が再構成されたものを読むのは、推測による部分も多いと思うが、読み物としておもしろい。この物語が細部までそのとおりであることが確かめられないにしても、社会的動物である人間にとっては、対話すること自体がおもしろいのである。
最終的な結論ではなく、意見を戦わせることそのものに大きな意味がある。議論すること自体がとても重要なのだ。
同p.91

p.s.
原題「The SWERVE: How the World Became Modern」をこういう邦題に訳してしまうと、解説で池上俊一が指摘するように、この一冊だけによって世界ががらりと変わったという余計な誤解を生むように思う。

2017-11-09

自由の相手

自由には必ず相手がいる。より正確に言えば、人が自由になるのではなく、人と人との関係が自由になるのである。

人と人とが共有する判断基準が固定化していないことが自由であり、その都度の判断基準の決定に対して責任が生まれる。

「自由」曲面において自由なのは、設計者でも曲面自体でもない。力学、用途、環境、施工といった様々な判断基準がある中で、調整幅のあるパラメタが多いということの単なる言い換えである。

表現の「自由」において自由なのは、表現者でも表現自体でもない。媒体、検閲、常識、締切といった様々な判断基準がある中で、調整幅のあるパラメタが多いということの単なる言い換えである。
「自分のスタイルを押し付けているときは、まわりの人は自分のスタイルをやめてくれてるってのは気付かないとダメだよ」
設楽統 バナナムーンGOLD 2014-05-30

音声操作と車内通話

「日本人の音声操作に対する意識調査2017」を発表

「人前での音声検索は恥ずかしい」と感じる心理と、
電車内での通話を不快だと感じる心理は同じだろうか。

「マナー」モードに含まれない通話不可と音声操作不可が
暗黙的に強要されるところに、同じでないものを徹底的に
忌避する村社会に通ずるものを感じる。

一真教

一神教Monotheismの熱に浮かされた古典古代とルネサンスの
間の千年間を過ぎても、未だに真なるものは一つであるという
「一真教Monoalethism」の理念は強いが、Post-truthが叫ばれる
ことによって、ようやくその熱がおさまり始めている。
the view that truth is uniquely realized
John Devlin “An Argument for an Error Theory of Truth”
Monoalethism is the belief in One Full (and therefore final) Truth
which has been revealed to us by a set of holy, non-amendable
books and holy, unquestionable prophets.
Darko Suvin “Defined by a Hollow” p.489
歴史学における古典が多神教的であるのに対し、論理学における
古典はPrinciple of bivalenceを採る二値論理という一真教である。
Post-truthの時代が、別のMonoalethismへの移行ではなく、
Polyalethismになれるかは、人間が多値論理に耐えられるかに
かかっているのだろう。
無意味であることに耐えられないんですよ人間は。
伊藤計劃「ハーモニー」p.375

2017-11-07

大人買い

個数とか金額に関係なく、楽しめる以上に手に入れてしまうことによって、大人買いになるのである。

大人の制約は、時間、体力、体面など、各方面からやってくる。最も辛いのは、好奇心が減退し、手に入れることだけを楽しむようになってしまうことだろう。

2017-11-06

多層的な類人猿

建築雑誌11月号に載っている山極壽一へのインタビュー、「類人猿とヒトから考える都市」を読んだ。

山極壽一は、家族と共同体という編成原理の異なる組織を両立できたことに、ゴリラやチンパンジーと比べたときのヒトの特殊性を見出している。「ゲンロン5」で平田オリザが演劇の起源として指摘していた話は、これを踏まえたものだろう。

多層的な類人猿として特徴付けられたヒトは、しかし、単層的な類人猿へと向かいつつあり、ポピュリズム、新自由主義、メシア信仰という「民主主義の内なる敵」は、単層化の行き着く先である。新自由主義的発想に基づいて建設される「タワマン」や「ニュータウン」が、特定の年齢層や社会階層だけを含むコミュニティの形成を促すという特集の主旨説明文の指摘は、「すばらしい新世界」で描かれたアルファだけを集めたキプロス島の実験を彷彿とさせる。

松岡正剛が「かわるがわるくこと」を勧め、東浩紀が「観光客の哲学」を展開し、田中純が「波打ち際」と表現したように、ヒトが多層的な類人猿であるために、山極壽一は「二重生活」を提唱する。それらはいずれも、複数の価値観があり得ることを許容するだけでなく、複数の価値観が重なり合うことをよしとすることによって、特定の判断基準に固定化することを免れる。複数の価値観を「join」ではなく「混ぜる」ことによって多様性を捉えるのは、とても日本的だと思う。
もしかすると、日本人はdiversityではなくvariationとして「多様性」を捉えた方がすんなり受け入れられるのかもしれない。
An At a NOA 2017-09-20 “variationとdiversity

現状では技術的な問題で人間が移動する必要があるが、触覚や嗅覚などに代表される通信上の制限がなくなれば、情報と人間のどちらが移動しても本質的には同じである。エネルギー的には情報が移動できるようにした方が省エネになるだろう。いずれにせよ、異なる集団に実際に属することが、ヒトらしく生きることにつながるということだ。
ひとつ言えることは、氷河と河川のいずれか一方のみよりは、両方にいる機会がある方が面白いのではないかということだ。
An At a NOA 2017-08-15 “氷河

殺してはいけない理由

集団を構成しているものをみだりに殺さないことは、
人間だけでなく多くの動植物や細胞レベルでも観察され、
最も普遍的にみられる判断基準の一つであると思われる。

それは集団の瓦解を防ぐフィードバック機構の一種であり、
構成要素間で判断基準が共有されることによって作動する。

自殺や安楽死を含む殺害が禁止されることについて、理由付け
によって「理解」することは難しいが、人間が理由を気にする
ことで特徴付けられるとすれば、理解しようとすること自体が、
この種のフィードバック機構が作動していることの現れの一部
なのだと思われる。
けれどもこれを自然にもとづいて説明し弁護することはむずかしい。
むしろ、習慣や、法律や、戒律にもとづいて弁護するほうがやさしい。
事物の根源の、普遍的な理由を探求することはむずかしい。
モンテーニュ「エセー」第一巻
第二十三章「習慣について。また、既存の法律を容易に改めてはならないこと」
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続” 

2017-11-03

民主主義の内なる敵

ツヴェタン・トドロフ「民主主義の内なる敵」を読んだ。

民主主義とはまず第一に、語源的な意味では、権力が人民に属する体制である。
ツヴェタン・トドロフ「民主主義の内なる敵」p.12
この最初の根本原理に第二の原理が付け加えられるときに、近代民主主義は自由主義的であるといわれる。個人の自由の原理である。
同p.13
いかなる民主主義も社会秩序の改善―集団的意志の努力のおかげによる改善―の可能性という考えを前提としていると言うことができる。
同p.14
人民、自由、進歩の三語に要約される民主主義の構成要素が互いに切り離され、行き過ぎるdémesureことによる危険。
ポピュリズム、ウルトラ自由主義、メシア信仰、つまり民主主義の内なる敵である。
同p.15
それは、自文化、わたしという個人、われわれにとっての善といった、特定の判断基準への収束、同じでないものの忌避への陥りであり、多元的で複雑であることによって維持される民主主義を毀損する。
民主主義の第一の敵対者は、多元的なものを唯一のものに還元し、かくして行き過ぎへと道を開く単純化である。
同p.16
民主主義体制はただ一つの性格に還元されるのではなく、いくつもの切り離された原則の連接と均衡を要求する。
同p.216
整合性を求めて単純化へと向かおうとするのは、充足理由律への過度な信仰の故だろうか。

「自分の行動を自由に決める権利を要求する」衝動がつねに生まれつつ、
この衝動がつねに制限され、今度はこの制限が尊重されなければならない
同p.38
というのは、飛躍しては理由によって繋ぎとめる往還のプロセスであり、その過程が人間を人間たらしめる社交性となる。制限とは禁止、規範、判断基準であり、権威を生み出すが、与える制限に責任をもち、飛躍によって固定化が回避できる限りにおいて、権威もまた社交性に不可欠な要因となる。
禁止のない、規範のない、したがってまた従属関係のない社会は存在しない
同p.200
自由とは、いくつもの判断基準が相互に調整し合うことで、一時的にでも齟齬を解消できる状態のことを言うのだと思われる。
コンテクストはつねに異なっていることを考慮して、それら普遍的な価値や道徳とのかかわりを特定の状況に限定すべきだということである。
同p.92
社交という通信プロセスにおける受信者を置き去りにし、調整することなしに特定の判断基準を固定化してそこに収束することは、主観的に見れば自由に見えるかもしれないが、社交性を失っている時点で、既に人間ではなくなっていると言える。
私たちの野蛮さ、あるいは文明化の度合いは、私たちと異なった他者をいかに認識し受け入れるかによって測られるからである。
同p.209
個人主義とグローバリゼーションという、無限の再分割と一様化によって、社交性による秩序の更新過程が停止する。その文化喪失のプロセスを抜け出し、多元的な民主主義に至る、すなわち人間になることが、人間にはできるだろうか。
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「」p.76