2016-07-29

augmented

この問題は極めてデリケートだ。


このところ話題になっている2つのニュースがある。
一つが、「ポケモンGo」というARとRealityの干渉。
もう一つが、相模原の障害者施設での襲撃事件。

前者について。
歩きスマホや道路交通法違反はゲーム自体ではなく
利用者自身の問題なのでおいておくとして、
最も関心があるのはゲーム内の位置情報とRealityの
それとの干渉だ。
各所からポケモンが出現しないように、という要請が
Nianticに送られているらしい。
Realityにおけるルールを完全に守ったとしても、
augmentされていない人には見えない何かが
見えている人達が集まることは、それ自体が脅威に
なり得るだろうか。

後者について。
自首した容疑者の考えを知るには、こちらでは真偽の
判定のしようがない各報道に拠るしかないし、そもそも
当人ですら曖昧なのかもしれないが、障害者に対する
差別意識が原因ということのようだ。


上記2つのことに共通するのは、以前ASIMOの件でも
書いたような、「共有されない知覚」であると思われる。
それを周囲から観察したときに覚える違和感というのは、知覚の共有を
行えていないという疑念に近いものではないかと思う。
そして、おそらくだが、近代はそれを精神病と呼び始めたのだろう。
コンセンサス=知覚の共有が意識あるいは社会等のことなのだとすれば、
これはある意味で防衛である。
An At a NOA 2016-06-08 “共有されない知覚

人間誰しも、どこかしらセンサ特性は異なる。
それが個性につながるし、完全に同一の特性しかもたない
センサばかりでは環境の変化に対して種として脆弱すぎる。
そのセンサ特性の差異がある閾値を超えたとき、
知覚に関するコンセンサスが得られないという判断に
陥ってしまうことが多い。
前者ではスマートフォンのゲームという後天的な要素により
センサ特性が可変になり、ポケモンやポケストップ、ジムが
見えるようになる。
後者では、人により先天性後天性の違いはあるが、
センサ特性が異なることで、得手不得手が生じる。

センサ特性が異なるシステム同士でもコミュニケーションを
介したコンセンサスの成立が可能なことは確かだ。
しかし、それはセンサ特性が似通った場合に比べて、
多かれ少なかれ困難を伴うこともまた確かだ。
その困難に慣れていないが故に、それが不可能だという
短絡が生じる。

センサ特性の異なる人間に対する反応として、
前者では排斥の意見が多く、後者では受容の意見が多いと
したら、それは単に慣れの問題でしかないと考えられる。
そのことを自覚し、それでもそこに何らかの区別を設定しようと
いうコンセンサスをつくるのであれば、もちろんそれはそれでよい。
しかし、そのことに無自覚なままいたのでは、これからますます
増えるであろう、VRやAR等の異なるrealitiesがRealityに干渉
した際に、相模原の事件と同じことが繰り返されてしまうのでは
なかろうか。

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