2018-05-28

感応の呪文

デイヴィッド・エイブラム「感応の呪文」を読んだ。

周囲から受け取っている情報が同じでも、センサの特性が異なれば、受け取られ方は違ってくる。それはつまり、受け取るという過程が、抽象という不可逆な過程であることの現れだ。

抽象過程は、センサ特性に相当する「膜」あるいは「肉flesh」を挟んだ情報の流れであり、かたちが与えられることによって生じる膜の両側での情報量の差に基づいて、情報量が少ない方を「内」、多い方を「外」とみなすことで、内外の区別が生まれる。「情報を受け取るセンサ」と、「受け取られる情報である周囲」というのも、そうして生まれる区別だ。

更新される秩序としての生命は、抽象過程そのものを指すものであるはずが、膜が硬くなり、内外の区別が固定化されるにつれて、自らの内だけが生きているという錯覚に陥る。

言語、特に表音文字によって、
  • ギリシャ語のpsyche
  • ヘブライ語のruach
  • 日本語の気
という情報の流れが完全に複製可能なものとみなされるようになることで、人間という膜が硬直化し、内としての意識が閉じ籠もった結果として、人間と人間以上more-than-humanの乖離が生じたのだとすれば、これもまた複製技術の問題の一つである。

複製技術とは、「完全な複製」を定義する硬い膜をえいやで設定する投機的短絡である。それは、圧倒的大量の情報の流れが次第に定常状態へと収束する「局所的な膜の硬直化」の回避になることもあれば、それ自体が硬い膜として居座ることで、「大域的な膜の硬直化」をもたらすこともある。

局所と大域のいずれにせよ、膜が硬直化してしまえば、生命は壊死へと向かう他ない。

No comments:

Post a Comment