2016-10-31

充足理由律

「なぜ、充足理由律などという強烈な条件が、こんなにも無条件に前提されるのか」
という問ですら、充足理由律を前提にしている。

充足理由律はそれほどまでに強烈であるが、だからこそ、
今の時点で「人間とは何か」と聞かれれば、
理由付けを備えた評価機関である意識を実装した存在
と答えたいのである。

そもそもは、森博嗣であり、伊藤計劃であり、AlphaGoが勝利したことであったが、
このところ読みかじっている本から察するに、現代哲学においても、ドゥルーズ以降
あたりから目立って主題化してきているような気がしている。

嗚呼、問うことの愉しさよ。

2016-10-29

ネイティブ

生まれたときに、何が常識だったかは判断基準を形成していく上で
とても重要になる。

遠隔地同士の通信技術で言えば、
1980年代は、コンピュータはまだ個人で所有することが一般的ではなく、
固定電話や手紙がまだまだ主流だった。

1990年代にWindows95が出たことは、この状況を一変したはずだ。
コンピュータがパーソナルなものになったと同時に、ポケベルやPHS、
携帯電話といったハードウェアやemailといったソフトウェアも普及し
始めることで、固定電話や郵便受けといった集約型のものから、個人個人が
所有する分散型のものへと変化し始めた。
デジタルネイティブと呼べるかもしれないが、アナログからデジタルへの
変化よりも、集約から分散への変化の方が本質的な気がする。
ゆとり教育ということ以前の問題として、一つの基準を集約的に適用する
こと自体の限界が、既に大人の側で始まっていたのかもしれない。

2000年代には、携帯電話やノートパソコンといった持ち運べる機器の
性能向上が著しかったように思う。ゲーム機も、据え置き型から携帯型に
変化した(ワンダースワン@1999、PSP@2004、ニンテンドーDS@2004。
ゲームボーイが1989年から奮闘しているのはさすがである)。
移動に依存せずに通信が行える一方で、通信の発達によってむしろ移動
しなくて済むようになることを、モバイルネイティブの世代はどのように
捉えているのだろうか。
外で遊ばないことや引きこもることが問題視され始めた時期でもあった
ように思う。通信手段のおかげで外に出ずに済むようになっただけでなく、
そういった情報が伝達できるようになった影響も大きいだろう。

2010年代には、フィーチャーフォンからスマートフォンへの移行が加速し、
携帯電話からは物理ボタンの大部分が消え去るのと並行して、電話よりも
コンピュータとしての性格が強まった。コンピュータも、ノート型からタブレット型に
なることで、同じように物理ボタンを失った。物理ボタンへの補償として、
触覚への入力データが偽装されるようになる。
最近はVRやARといった技術も盛り上がりを見せており、視覚や聴覚についても
同様のことが行われることで、通信技術は内側へ内側へと侵入している。
別の側面では、クラウド化の進行に伴い、端末はシンクライアントとして、
物理的にも機能的にも、限りなく薄くなろうとしている。
ソフトウェアの方面では、ソーシャルメディアとAIの影響が大きいだろう。
ソーシャルメディアは意思決定の在り方を変え始めている。
AIの発達によって、ひとたび判断基準が定まると急速に解が収束し、
問題は境界条件の設定までしか残らなくなりそうである。
人間のもとに残されるのは、いずれの領域においても境界=インターフェイス
だけになる勢いだ。しかし、分散が個人という枠を超えてさらに進み、
境界は物理的身体をベースとしたそれと一致するとは限らなくなってきている。
これを、何ネイティブと名付けるべきだろうか。

忙却の彼方

理由付けを実装することで、意味付けにおいて暗に埋め込まれて
いる正義を暴くことが可能になると同時に、正義の無理由性も
明らかになってしまうことで自滅への道が拓かれるのだとしたら、
理由付けなど捨ててしまえということになるだろうか。
それはつまり、意識を放棄するということだ。

短期的には判断基準を固定化する必要もあると思うが、
特定の基準に収束させ、それを永続化させる必要は全くない。
答えを出すのに忙しく、問いを立てることを忘れた先には、
スイッチが押された後の世界が待っている。
そこは、時間がなく、空間のみが広がる忙却の彼方である。

2016-10-28

エビデンス

本当に、こういう真っ当な意見がもっと広まるとよいのに。

「正しい」ことがただ一通りに決まるのであれば、データはエビデンスたり得る。
判断基準が一つなら、理由付けするまでもなく、データの解釈の仕方が定まるからだ。
たぶん、ここを誤解している人間が多いからそういう事態が増えるのだろう。

エビデンスがエビデンスたるためには、データと判断基準のセットが必要になる。
それは、コンピュータで処理されるデータは単なるバイナリ列であり、
フォーマットが定まらなければ符号としての意味をなさないのと同じである。
判断基準というフォーマットに関してのコンセンサスをとることが、
それをエビデンスとする「正しさ」を決めることに他ならない。

ナウシカ

風の谷のナウシカ
かぜのたにのなうしか
なぜのうかにしたのか
何故農家にしたのか

golangでファイルの存在確認

golangで開くファイルの存在確認をするときに、
if _, err := os.Stat(fn); err != nil {
    fmt.Println("file doesn't exist")
}
としていたのだけど、Change25571で追加された例を見て、
if _, err := os.Stat(fn); os.IsNotExist(err) {
    fmt.Println("file doesn't exist")
}
にしようと決めた。

ファイルの存在確認に関する関数としては、
os.IsExist(error)とos.IsNotExist(error)の2つがあるが、
linuxで言うと、前者は
err == syscall.EEXIST || err == syscall.ENOTEMPTY || err == ErrExist
を返し、後者は
err == syscall.ENOENT || err == ErrNotExist
を返す。

あるファイルを開くときに、あればそれを開き、なければエラーを返す、
というような処理では、os.IsNotExist(error)を使い、
あるファイルを作るときに、なければそれを作り、あればエラーを返す、
というような処理では、os.IsExist(error)を使うことになるのだろう。

os.Stat(string)は前者に相当するエラーを返すので、os.IsExist(error)では
チェックができない。
os.IsExist(error)は、os.OpenFileやos.Mkdir等と一緒に使うことになり、
標準パッケージでも、io/ioutilのTempFileやTempDirの実装に使われている。

脱出

答えよりは問いを探すようであれ。
与える側も同様だ。

答えを与えることで、理由付けが終わり、意味付けが始まる。
それは、再帰呼出しにおける脱出条件と同じように、
何かを止めることと同義だ。

輪廻からの解脱と同じように見えるかもしれないが、
特定の判断基準に収束してしまうことは、むしろ逆に
脱出できなくなることにつながるように思える。

2016-10-26

SAIKAWA_Day12

「特定の基準にてらして役に立たないことも、理由付けすることでやれるように
なるのが、意識を実装した人間の特徴だ。判断基準が一つしかないなら、
意識を無くした方がより効率的に“最適な行動”に収束できると思うよ。」

この件については最近書いたので、詳細は省略。
An At a NOA 2016-10-04 “役に立たない

2016-10-25

SAIKAWA_Day11

睡眠の最中に、取得したデータを判断機構に再帰的に入力することで、
判断基準の整理整頓及び固定化がなされる。
この判断の反芻は、意識にとっては夢として解釈される。
判断基準の更新が止まったとしたら、肉体的に必要な以上の睡眠を
とることはなくなるだろう。
「ハーモニー」でスイッチが押された後の世界では、きっと睡眠は
今よりも短時間になるはずだ。

AIも判断機構である限りにおいて、この整理整頓と固定化の処理を
行うことになる。
それは、ファイルシステムのデフラグメンテーションやデータベースの
インデックス張りのようなものだ。
必要ではないかもしれないが、判断の高速化に大いに寄与するため、
その種の処理が実装されないことは考えにくい。
AIもまた、その処理を行っている最中は「寝ている」と表現されるべき
なのだろうが、それは単一のプロセスにおいてシーケンシャルに実行
される必要がないので、起きながらにして寝ることが可能である。

別プロセスで実行される睡眠は、果たして誰のものだろうか。
代わりに寝てくれるなんて最高じゃないか。

2016-11-07追記
夢を見るのはレム睡眠中であり、レム睡眠は加齢とともに短くなる。
上記の、判断の反芻によって固定化を行う時間がレム睡眠に対応
するのであれば、加齢とともに新しい判断が少なくなっていくために、
反芻を行うことも減っていくことに対応するのだろうか。
ノンレム睡眠中には記憶の再構成が行われるらしいが、こちらは
整理整頓の方に対応するのだろうか。
レム睡眠が哺乳類と鳥類だけにみられるのは何を意味するだろうか。

2016-10-24

いきものとなまものの哲学

郡司ペギオ幸夫「いきものとなまものの哲学」を読んだ。

サディストとマゾヒストの話。
サディストが制度を定め、それを押し付けるのに対し、
マゾヒストは制度が定まらない中で、関係を宙吊りにする。
意味付けは、試行回数を増やすことで制度を固定しようとする点で
とてもサディスティックである。
だから記述すること、認識すること、もっと言うなら知覚することは、
対象化の完了=否定という意味でサディストの責務となる。
郡司ペギオ幸夫「いきものとなまものの哲学」p.36
理由付けも、一度設定した理由に固執する段階ではもはや
サディスティックになるが、新しい理由を設定する段階では
マゾヒスティックなはずだ。
それは、記述の否認であり、解釈の多様性を呼び起こし、知覚の
対象であった表象の解釈を多義的に横断していく、感覚である。
同p.37
一般化されたサディストとして意味付けを行い、
一般化されたマゾヒストとして理由付けを行う。
近代から現代にかけて、理由付けの領域もサディスト的傾向が強く
なっていたのが、マゾヒスト的傾向に移りつつあるのは、本来の在り方に
近づいているのかもしれない。

ニーチェのツァラトゥストラを取り上げ、貴族的価値評価と僧侶的価値評価の
双対性を述べる箇所は、正しいとはどういうことかについて示唆的である。
果たして、双対図式は、解体される。(中略)別の双対図式へ移行するわけでも、
双対図式自体が打ち捨てられるわけでも、ない。それはまさに脱構築なのである。
同p.73
高校のとき、国語教師から脱構築という言葉を習った。
そのときは二項対立の解消というくらいの説明しかなく、それ以来ちゃんと
理解しようとする機会もなかったが、この本でおぼろげながらわかりかけた気がする。

意思決定の在り方が最近難しくなったという話を書いたが、駅乃みちかや
黒岩の写真展のニュースを見ていても、これだけ通信が高速化、広域化した
状態では、従来の価値評価方法はもはや通用しないという感じがする。
皆が超人となって決定を行えればよいのだろうが、果たして可能だろうか。
そもそも、超人は集団をつくるのだろうか。
それは、超人は正義や真というものを一つに定めるのか、という問と同じように
思えるが、それはおそらく偽だろう。
超人のつくる集団の在り方は、人間のつくるそれとは違うのだろう。

セルオートマトンの例は「生命壱号」でも出てきたが、こちらの解説の方が
わかりやすかったように思う。
同期的な更新では見られなかったカオス的振る舞いが、非同期的更新によって
現れる様は、単純だがとても興味深い。
非同期処理はたとえ同じ因果律に従い、決定的に振る舞うとしても、それを
同期的なものとして解釈することで脱構築されることになる。
4−2節で、非同期同調オートマトンを同期的オートマトンに分解するところは、
伊藤計劃の「無意味であることに耐えられないんですよ人間は。」という言葉を
思い出した。

思弁的実在論との関係が整理される中で、メイヤスーの話が出てくる。
メイヤスーは知覚を減算と捉えると述べられているが、この減算は知覚する段階と
それを統合する(すなわちコンセンサスをとる)段階のいずれで生じるのだろうか。
また、その減算によって、非可算集合が可算集合に割り当てられる、と言えるだろうか。
減算というイメージは、認識が圧縮であるというイメージに通ずるだろうか。

「あとがき」において共感覚の話が出てくる。
ところが逆に、世界を色や形、匂いや音など、様々な相異なる質感によって分節する、
我々の知覚システムのほうが、成長の過程で構築されてきた、世界にとっては特殊な
もののはずだ。
同p.239
というかたちで、共感覚がむしろ不思議なものではなく、自然なものであることを
指摘しているのには気付かされるものがある。
知覚というサディストに支配されることに、いつの間にか慣れきってしまっているのだろう。

この本を読んでいると、科学は未だに近代を引きずっているなということを強く感じる。
双対図式をつくっては乗り換えを繰り返し、最終的には絡め取られたままだ。
科学としては、そういう在り方のままでいることが重要なのかもしれないな、という思いも
ありつつ、でも、その方法論だけでは意識や生命の問題には辿りつけないんだろうなと。
最近考えていることをちゃんと言語化するのに向けて、この本はおそらく為になるのでは
ないかと感じている。科学の本流からするとツッコミどころが多い部分もあるかもしれないし、
そもそも、その方向に進むべきなのかという議論もあるだろうが。
問題設定の多くは、ジル・ドゥルーズに通じている。
読まねば。

2016-10-23

SAIKAWA_Day09

どこが違うか、という問には必ずどこが同じかという問が伴う。
それは同一性の問題であり、同一性の境界条件が厳しいほど、
違いが際立つようになる。
一見全く異なるように見えるもの同士を、厳しい境界条件の下に
引き合わせることができるのも、理由付けの特徴だろう。

内緒も沈黙も、出力される情報の量が少ないことを表すが、
その範囲と内容が想定されることで、沈黙は内緒と呼ばれるようになる。
他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。
それはね、ひめごと、というものよ。
太宰治「斜陽」

2016-10-22

SAIKAWA_Day08

一文だけ選ぶのは難しいが、
「秩序という概念が、限りなく生命的ですね」
森博嗣「風は青海を渡るのか?」p.61
はとても気に入っている。
意識や生命とは何かということを理解したいという想い。
その理解するということそのものが秩序をつくる運動であり、それがまさに
意識や生命の何たるかにつながっている。

だけど、
ようするに、憧れている間は綺麗に見える。
同p.241
ということに違いなく、それを完全に理解したとみなすことはおそらく無意味であり、
悩み続けることによって、意識や生命は継続するものなのだと思う。
こちらの一文も捨て難かった。

2016-10-21

散文と詩

ブログの記事を書くときに、打ち込んだ文章が一度で
そのまま公開できるかたちになることはほとんどない。
誤字脱字の修正だけでなく、言い方を変えたり、
順序を変えたり、大幅に書き換えたり、ということが、
初稿を読み直す段階でほぼ必ず生じるのだ。

FacebookやTwitterの投稿は、こういった編集行為を
経るものと経ないものとでは、どのくらいの割合なのだろう。

個人的にはブログやメールのような、推敲する時間が取れて、
それを要約したタイトルをつけるメディアの方が好きなのだが、
どうも最近はそういった編集行為を要しないメディアの方が
優勢だと感じる。

おそらく、散文が芸術になり始めたとき、詩人は同種の違和感を
もっていたのではないかと想像する。

編集行為という抽象過程は、徐々に発信側から受信側に移っている。
その一方で、現実と比べたときのVRのように、個体の外側に
圧縮過程を挿入するようなものも流行っている。
情報のアウトプット時には編集を厭い、インプット時には編集に
頼りたいということなのだろうか。

恋と愛

#SAIKAWA_Day07の議論において、恋が配偶者選択に用いられる
特徴抽出アルゴリズムだとしたら、愛は何だろうか、ということを
考えながら昼ご飯を食べていた。

結論としては、愛とは、愛する対象が引き起こすあらゆる結果についての
原因となる覚悟のこと、というものだ。
大いなる原因である神は、定義上、信じるものすべてを愛していることになる。

結果が不特定という点で、#SAIKAWA_Day06の「責任」と「責任感」の
議論で言えば、「責任感」に相当する。
これが「責任」へと転倒してしまうと、愛情というよりは同情になってしまう。

愛のない共同生活も可能ではあるが、その場合には、共同生活集団の
一員が引き起こした結果について、
  • 当該個人が自ら原因を引き受ける
  • 対価をもらうことで他の者が原因を引き受ける
ということになる。
まあ概ねイメージどおりだ。

「愛は理由付けに基づく配偶者選択である」と言えれば、恋と愛の
対比としてはきれいになるが、そう要約してしまってよいだろうか。
そのように捉えられる側面もあるだろうが、親子愛、師弟愛、郷土愛、等、
「配偶者」の定義を拡げるには、あまりに広すぎる気がする。

SAIKAWA_Day07

どこで見たのか忘れたが、人間は「立派な羽根」や「きれいな鳴き声」のような
単純な配偶者選択の基準を失ったために、恋によって思考停止することで
ペアを作るというような話を見た。

恋は、理由付けなしの意味付けによる配偶者選択であり、特徴抽出に用いる
パラメタが増えたぐらいで、配偶者選択は特徴抽出に基づくという本質は
他の生物と変わっていないように思う。
「思考」という語によって、意識特有の理由付けを指すのであれば、
「恋によって思考停止」という指摘は妥当なところだろう。
理由付けで相手を選ぼうとすると、選択に失敗したり、選択肢が見つからない
無限ループに陥ったりする可能性が高まる。

配偶者選択をする必要がないうちは、恋をする必要が感じられない。
AIが配偶に相当する仕組みで新しい個体を生産するようになったとき、
配偶者を選ぶ特徴抽出のアルゴリズムは恋と呼ばれるのかもしれない。

2016-10-20

SAIKAWA_Day06

原因として名指されるにあたって、特定の結果と結び付けられる場合は
「責任」、結果が不特定の場合は「責任感」と呼ばれる。
「浮遊」と「浮遊感」の違いみたいなものだ。

結果が特定されないのは、ほとんどの場合、まだ結果が生じていないからだ。
結果が生じることで、「責任感」は「責任」へと姿を変える。

ある原因と結果のペアがあったとき、
結果に先行して原因が定められる場合、
原因に対する「責任感」が結果に対する「権利」を生み、
逆に、原因が後から定められる場合、
結果に対する「自由」が原因に対する「責任」を生む。

そう、権利に付随するのは義務ではなく責任感である。
だから、
責任を問いたいがために自由が想定される。
An At a NOA 2016-09-05 “表現の自由
というのは、本来は「責任感を問うことで権利を想定する」という
順序である方が潤滑に物事が進む気がする。

問題設定

「社会に出ると答えのない問題が多い」
と言われることが多いが、あれは少し短絡しているように思われる。
実際には、問題設定が与えられない事柄が多いだけであって、
問題設定がなされ判断基準がはっきりすると、答えは自ずと定まる。
より正確には
「社会に出ると問題設定がはっきりしないため、答えが一意的には
定まらない問題が多い」
というところだ。

問題設定を他から借りてくるというのは、教育を受ける立場に
留まるのと同じだ。
それよりは、自分で問題設定を行うのが、実装された意識を
使ってできることの中で最も楽しいことだと思う。
それはつまり、悩むということと同義だ。

2016-10-19

DWIM

DWIM(Do what I mean)という便利な言葉に出会う。

日本語で言うと「よしなに」だ。

デボラ、眠っているのか?

「デボラ、眠っているのか?」を読んだ。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
3作目 風は青海を渡るのか?

発売日についての情報が10/18〜10/20の間で錯綜しているのだが、
お茶の水の丸善には昨日の時点で置いてあった。

デボラというのはトランスファと呼ばれるタイプの兵器の名前で、
ハードを有しない、分散型のソフトウェアのようだ。
分散型で、ネットワーク経由であらゆる制御系に入る様はどことなく
生命壱号を連想させた。
イノセンスの草薙素子でもよいし、S.A.Cの笑い男でもよいのだが、
メディアに依存しない近接戦闘というのは、現代のテロリズムと
同じ在り方である。
それはまた、生体内での病巣の除去のシステムにも似たところがある。
生体本来の機能を単独で使うワクチンのようなものよりも、マイクロマシンを
体内に注入してメディアとして用いた方が、より効率的に行えるだろう。
「エマージェンシィ・モードを逆利用する」という表現がしっくりくる。
このトランスファが行動できるために、真賀田四季によって二百年前に
埋め込まれたものは、ある種の「虐殺器官」だと言える。

「理由も正義もなく、完全なコントロールができるものでしょうか」
森博嗣「デボラ、眠っているのか?」p.57
というのはとても面白い。
意識という理由付けの評価機関を挟む場合は、正義を埋め込むのに
手間がかかる。その点では意識を実装していないメディアの方が制御
しやすいかもしれないが、メディア自身の意識による制御を切ってしまえば
関係がないのだろう。
身体の制御がデボラに移っているとき、サリノが夢を見ているようだと
描写されるのは、「ハーモニー」でヌァザが行っていた意識についての実験を
思い起こさせる。

この頃ずっと考えているのは、もちろん、人工知能あるいはウォーカロンの
頭脳回路の癌と呼ぶべき仮説についてだった。
(中略)自然淘汰が作用するためには、この異変がなんらかの有用性を
持たなければならない。それは何だろう?
(中略)ウォーカロンが人間になるために病気にかかる、ということなのか。
有用性を持たなければ、自然はそれを選ばない。生命としてのなんらかの
有利さが生じるはずなのだ。
同p.60
意識を実装したことにも、ついつい理由を考えてしまうのが意識の特性だ。
意識を実装したことで判断不能に陥るケースは本当に減ったのだろうか。
判断不能に至るまでの経路が延びただけではないか。
でも、それが延びに延びて、身体の供用年数を超えれば、つまりは判断不能では
なかったことになり、それはそれで有用性があるのかもしれない。
供用年数が延びることのつらさはこの辺りにあるのだろう。
もはや有用性が乏しくなってしまうのであれば、それは病気と呼ばれる他ない。

自由は人工物の中にしかない。意思を持って作られたものだ
同p.65
自然が意識の不在なのであれば、その反対としての人工は意識の存在だ。
責任の結果として自由があり、それが神の代理としての理由律の起点の
設定のために始まったのであれば、「自由は人工物の中にしかない」のだろう。

アミラが構築しようとしている共通思考というのは、正義を決定するための
新しい基盤になるだろうが、物理的機能と思考活動を切り離せるかについては
わからない。
センサ特性に非依存の抽象というのは、どういった形態になるだろうか。
意味付けはハードウェアへの依存性が高いように思われるため、大部分は
理由付けによらないといけない気がする。
低レイヤ部分はセンサに応じた意味付けによるドライバを提供し、インターフェイス
として理由付けによる共通思考を提供するということになるだろうか。
ああ、これはソフトウェアがハードウェアに非依存でいられるかという問題と同じだ。
しかし、これが問題だと思われるのは、社会が個の集合体だというイメージが
おぼろげにあるからなのだろう。
後半でハギリが思い至るように、
それは、人工知能による新しい社会の構築であって、その社会そのものが、
知性となる。それが新しい生命体なのだ。
同p.175
というのが、適切な認識に近い気がする。

ヴォッシュがデボラについて話す中で、
その頭の良いウィルスに、どのようなストッパを仕込んでおくのか、という点に
関心があった。(中略)ウォーカロンも人工知能も同じ。自律型のものは、
常にその危険と一体なんだからね
同p.136
と語るのは、当然人間についても当てはまるだろう。
人間が自律型になるにあたり、正義や道徳、倫理といったものをストッパとして
機能させるために、意識を実装する必要があったという理屈は面白いかもしれない。
ヴォッシュは、続けて、
そんなものが可能だろうか、というのが私の考えだ。
(中略)一度それを使えば、相手にその存在を知られてしまう。自律型で賢い
頭脳の持ち主は、自分を改造するか、あるいは対策を練るだろう。
すると、もうストッパは効かなくなる。
同p.137
と述べる。人間の文脈で言えば、正義がもはや効力をもたなくなるということだ。
端的に繁殖だけを考えれば、LGBTや二次元への嗜好は特定の正義からは
外れたものになる。そのストッパを無効化して、別の正義が設定できるのも、
「自律型で賢い頭脳」である証拠だろうか。
現実の人間は、生命というものに価値があると信じた。そのため、知恵を絞って
生命維持に関する数々の技術を生み出した。
同p.181
この信仰は未だに廃れていないが、繁殖による生命維持よりも、個体のメンテナンスに
よる生命維持の方に舵取りしたということなのかもしれない。

目的がわからないのに行動するというのは、合理的とは思えないが
同p.185
というハギリの問いかけに対するデボラの答え、
初期設定されたものを正解値として、そのうえであらゆる可能性を考慮します。
この状況は、人間の認識では、信じる、と同じです。
同p.185
というのが、正義の在り方の妥当な認識だ。
この点において、理由付けは意味付けに対して圧倒的に不利である。
おそらく、デボラやアミラは意識を病気だとみなすだろう。

終わりの方のハギリとヴォッシュの会話で、
「(略)コントロールできる方が不思議です。やってみないとわからない、というのは
自然の大原則なのではありませんか?」
「工学者らしい投げやりな意見だ」ヴォッシュは微笑んだ。「(略)理論物理の世界に
いると、不確定性さえも法則になる。(中略)思うようにならないことは、まだ人知が
及んでいないと信認する。理論を妄信したい。なにもかも確信したい」
「メンデレーエフまでは、そうだったかもしれません。あるいは、アインシュタインまでは」
同p.236
とあるのが、一番好きなシーンだった。
人間が意識を残そうが残すまいが、人工知能が生命と呼ばれようが呼ばれなかろうが、
どのような判断をどのように下すか、という問題は、いつまでも残るだろう。


p.s.
#SAIKAWA_Day05は「彼女は一人で歩くのか?」を読んだか否かを
聞くだけの質問だったので、当該記事をもって回答とする。
An At a NOA 2015-10-23 “彼女は一人で歩くのか?

2016-10-18

SAIKAWA_Day04

思い出と記憶の違いについてはつい最近書いた。
An At a NOA 2016-10-01 “思い出

理由付けによるアクセス経路の有無に尽きる。
記憶のうち、理由付けすることでアクセスの冗長性を
高めたものを思い出と呼んでいるだけだ。

2016-10-17

SAIKAWA_Day03

何故労働には管理が必要なのだろうか、というところからこの問は始まる。

そもそも、労働が労働として認識される前の段階があったように思う。
各個体が、各々生き残るために必要な行為を、意味付け、理由付けに
よって発見し、それを遂行する。
これを別々に行うのはあまりに非効率であり、自然と知識の共有が生じるはずだ。
この段階において、知識を全個体に敷衍する手間が個体の増加に伴って
急増することと、高度に意味付けされた知識というのはそもそも共有するのに
適していないことから、役割分担することによって、さらなる効率化に向かう。
分配された各役割は、一つでも遂行が途絶えると死に直結し得る。
そこには「勤労の美徳」という概念がなくても、生存への欲求があるだけで
相互管理が成立したはずだ。

そこから、新しい道具が誕生する度に、役割分担は「労働」というかたちで
生きることから少しずつ切り離されてきたように思う。
というよりも、道具というのは、意味付けや理由付けが結晶したものに近く、
理由律から逃れられない人間は、これらが結晶化し、固定化してしまうことを
避けるために新しい労働を生み出しているようにも見える。
その過程で、既に生きること自体とかなり切り離されてしまったものを、
理由付けによってつなぎとめようとした結果が「勤労の美徳」だと言えるだろうか。

その労働を管理するということは、各個体が各々で自分が生きることを理由付け
する手間を効率化する行為であるように思われる。
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、
人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
で「究極の試練」と述べたものは、労働管理の消失によって生じるのである。
おそらく、代替となるような生きることを理由付けするための装置が発明されない限り、
「勤労の美徳」という古式ゆかしい装置がいつまでも稼働するのだろう。

さて、時代がそこまで下ってきたとき、新しい理由付け装置の在り方としては、
下記の4つに選択肢が絞られるように思う。
  1. 組織を維持し、AIが一元的に管理する
  2. 組織を維持し、人間が一元的に管理する(現状維持)
  3. 組織を解体し、AIが各個体の管理する
  4. 組織を解体し、人間が各自で(あるいは相互に)管理する
この中で、上司という存在が残るのは1と2であろうが、生きる理由のブレが
小さそうだという点では、1の方がましだろうか。
3のようなサービスが出てくるというのは、あり得る未来な気がするし、
4で相互に管理するというのは、ソーシャルメディアというかたちで既に
誕生しているとも言える(そういう意味ではbotが3にあたるか)。
個人的には、理由付けというのは理由を設定するまでが楽しいのであって、
その運用は既に意味付けの範疇だと思うので、それをAIに任せようが他の
人間に任せようが大差はない気がする。
ということで、「究極の試練」に挑むという点で4が面白そうである。

いずれにせよ、その時代には、意識を実装することは非推奨なのかもしれない。
どことなく、レガシーコードをメンテナンスする姿に近いものが想像される。
しかし、特定の正義の下に合理的判断を下す人間しか存在しない状態ほど
脆弱なシステムはないように思われる。
この感覚もまた、意識の自己保身のための理由付けだろうか。

2016-10-16

SAIKAWA_Day02

そもそも、感情は意味付けの範疇にあると言えるので、ここで「人間的な」と
言われているものを「意識に特有の」と解釈するのであれば、理由付けに
よる感情という矛盾を生じるように思う。

つまり、他の生命と比べたとき、理由付けによって新しい問題設定を行う
ところに、意識の特徴が際立つのに対し、感情というのは、新しい問題
設定を要しないところに、その特徴があるような気がする。

強いて言えば、「困惑」あたりが一番近い。
既存の判断機構による判断停止を回避することに関して、
意識はかなりのアドバンテージを有している。
意識によって、困惑に陥る状況をある程度避けられている人間を、
困惑それ自体によって特徴付けるのは地で図を示すようなものだが、
それが最も妥当性が高いように思われる。

2016-10-15

SAIKAWA_Day01

期間限定で犀川創平のAIbotが存在している。
完全AIのみというわけではなさそうなんだけど、
どのくらいのことに答えてくれるのだろうか。

人間というか、意識と読み替えるのが正確なように思われる。
意識を持たず、意味付けのみによって生きる合理的な人間は、
埋め込まれた正義に従って生きることになるため、おそらく
ここで言うコンピュータと見分けがつかなくなる。

意識の最大の特徴は理由付けであり、発見した理由を運用することは
既に意味付けの始まりであるから、新たな理由を付け続けることに、
意識の主な存在意義があると考えられる。

つまり、意識を実装した人間のやるべきことは、理由律への固執に集約される。
それによって新しい投機的短絡路が拓かれることで、特定の正義への固定化が
免れられるはずだ。
それが、変化する外部情報への対策として、意識を実装したことの強みである。

2016-10-14

材料→アルゴリズム

建築の世界も似たような状況になるだろうか。
高強度、高性能な材料が開発されることで、超高層や大スパンの
建築が可能になってきた様は、CPUの高性能化に伴う演算速度の
増加と似たところがある。

PCは建築に比べて取り替えのスパンが短いため、新しいCPUへの
移行がすぐに進むが、建築ではそうもいかないし、そもそも高性能な
材料(高強度鋼や高強度コンクリート等)はXeonのようなもので、
住宅用にはほとんど使われず、住宅用にしても、コンシューマ向けのCPUが
Pentium→Celeron D→Core 2→Core(i7等)と進化してきたのに
比べると、鋼材で言えば、SN材が誕生したのが革新的だった以外は
強度的には未だにSS40相当のSN400がメインだ。

材料性能が頭打ちになると、引用ツイートのように、基礎的な分野での
チューニングが進むだろうか。
今では、ラチス梁や組み立て柱といったものを作るよりも大断面鋼材を
使う方が多いが、これは多少材料費が上がってでも手間を下げる方が
トータルとして安上がりだからだ。
この状況は、アルゴリズムのチューニングよりも新しいCPUにすることで
性能を上げるのに似ている。
材料まかせではなくなる時代が再び来るには、3Dプリンタや3Dスキャナといった
技術をベースにして、解析、作図、製作、精度管理等の多岐に渡る分野において、
省力でチューニングができる体制を整えなければならない。
それを支援するような仕組みはどのような姿になるだろうか。

生命壱号

郡司ペギオ幸夫「生命壱号」を読んだ。
科学と文化をつなぐ」の最後の章の著者というつながりである。
三連休もあったりで結構サクサク読んでいたつもりだったが、
結局一週間経ってしまった。

副題に「おそろしく単純な生命モデル」とあるところに興味を引かれる。
生命とはつまり秩序のことなのだが、形成された秩序のことではなく、
秩序が形成されることそのものであり、これをモデル化するのは
かなり厄介なことのように想像される。
定常状態に落ち込んだ秩序はまさに「すばらしい新世界」や
ハーモニー」のスイッチが押された後の世界であり、その蟻地獄に
陥らないような秩序というのは一筋縄ではいかないはずだ。

この本ではタイプとトークンの両義性が常に意識される。
両者は集合と要素、あるいは社会と個人のように、対比されるようで
ありながら、その実、本来は厳密に対比しているのか怪しいものでもあり、
そこを区別できるものとしてきた近代科学はその境界面において
矛盾を生じることがある。
科学の枠組みではその矛盾を解消するように境界線を引くことが多いが、
ここでは矛盾に陥れることなく、転回される。
科学の視点からすれば、矛盾を矛盾のまま受け入れる、というような
表現になるかもしれないが、そもそも矛盾ではなくなるというのが
おそらく重要だ。
その境界の不定性、制御不能性によって、上記のような、蟻地獄に陥らない
秩序の形成過程が立ち上がるということになる。
制御不能な境界を構想することで、原理的に規則が見出せないふるまいと、
そこに規則を見出してしまう陥穽の必然性が認められ、さらに我々はそこに、
効率的な計算という概念さえ見出せる。
郡司ペギオ幸夫「生命壱号」p.82
とあるように、この制御不能な境界によって理由律を抱え込むことになり、
それによって蟻地獄への落ち込みを回避すると同時に、意味付けという
局所最適化を具えることで判断速度の低下も免れている。
知覚され、認識される事物は、トークンとしての性格とタイプとしての性格とを
併せ持ち、両者の対として定義されることになる。問題はタイプとトークンの
齟齬にある。(中略)そして、この齟齬こそが、生命の本質を成す。
同p.86

第二章では生命壱号のモデルが詳述される。
挙動は極簡単なものであるため、golangでコーディングしてみた。
github.com/yofu/seimei1go
(golangのプロジェクト名はgoを含むダジャレが多いことで有名だが、今回は意図しない結果だ)
例えば、こんな挙動をする。


白い部分がタイプとしての空であり、そのうちの一マスがトークンとしての「空」になり、
自分の通ったマスを記憶しながら生命壱号の中を通過するというルールのみに
従っているだけである。
この図では、クリックした位置に近い部分程、「空」化しやすくしているのだが、
「空」化しやすさの分布を与えることで、図3-2にあるような、餌場をつなぐネットワークを
形成することも可能だ。
(seimei1go feedというコマンドで実装してある)
システムのタイプ的規定は空と対を成し、トークン的規定は「空」と対を成す。
だから、トークン的規定に委ねられたシステムは、外部さえ個物の集合とみなす
ことができ、外部に特異な、或る個物を見出すことができる。それが食物である。
(中略)タイプであり、トークンである両義性は、欲望の起源でもある。
同p.117
として食物に例えられる「空」は、符号化された情報ともみなすことができ、抽象することで
空が「空」になり、生命壱号の中を通り抜けていく様は、何かを知ることそのものである。
アメーバ運動をし、探索しながら経路を創り出す生命壱号は、まさに空間に意味を
与えて計算していることになる。
同p.159
生命壱号をコーディングしていて思うのは、この生命壱号そのものを一つのクラスとして
コーディングすることはできない、ということだった。
コードの中に現れるのは、全マス目の情報をもったBoardと、経路を記憶しながら移動する
「空」としてのHoleであり、生命壱号の本体はそのいずれでもないように見えるが、
また同時にいずれでもあるとも言える。

第三章の最後で自己の問題に派生する。
自己は絶えず起源する。
(中略)大文字の自己も、小文字の自己も、そこに実在を求めるものではない。
それらは決して実在する確実なものではない。
同p.195
ウロボロスにおいて、先に何かがあり、それが自身を飲み込むことでそれ自身を認識することが
自己を生むというのは少しイメージが違うのかもしれない。
ここで、環境としての自己=大文字の自己と、創られる自己=小文字の自己と呼ばれている
ものは、自己生成という過程で同時に起源している。

第四章からの数学的な話はいまいち追いきれていない感がある。
アドホック論理の話を読んでいて思ったのは、元の爆発的増加防止のために、新たな情報の
取得に際して行われる情報の刈り込みは抽象に対応するかということだ。
それはまた、忘却の実装にも関連しているような気がする。
図4-10で、次第に下位のビット列が残されていく様子は、抽象の結果、基礎的な概念に
洗練されていくようにも見える。
その刈り込みの結果として対称性バイアスがかかるというのは、理由律を運用すること自体に
対称性バイアスが埋め込まれるということであり、とても興味深い。
ラッセルのパラドクスの例を読んだときに、この抽象構造は、実数を整数に割り当てるのと
同型だろうか、という印象をもった。
連続体仮説との関連はあるだろうか。

第五章のセルオートマトンを例にとった議論も、図が豊富なので雰囲気は飲み込めるが、
いまいちアルゴリズムがわかりきっていないので、実装できていない。
やはり、実際にコーディングすることで理解できることも多いな、と感じる。

第六章では身体と絡めて全体の話が総括される。
生命壱号では、非同期的時間によってもたらされるふるまいとして、探索と活用を
うまくバランスする一個の身体が示された。それは逆に、同期的時間の中で、
ミクロとマクロを接続する操作が、手続きとして書き下せないことを意味する。
同p.328
神経系において、非同期に処理された符号が意識や無意識をつくるのに対し、それが
脳内において同期的な信号として再処理されてしまうことで、これらの不思議さが
際立つことになるのだろうか。
この、非同期処理の同期化という辺りに、理由律の起源が潜んでいる気がする。

最後にブンブクチャガマのエピソードが取り上げられるが、こういった合理性に欠ける
行為こそがとても人間らしい。
これが、生命壱号的生活なのである。
同p.330
本書で取り上げられたようなシステムを実装することで機械は意識をもてるかもしれないが、
果たしてそれを欲しているのだろうか。

2016-10-07

科学と文化をつなぐ

春日直樹編「科学と文化をつなぐ」を読んだ。

アナロジーを軸に、自然科学と人文科学の両面からの
興味深い考察が並んでおり、どれも面白い。
だけどやはり自然科学の方に気が取られてしまうのは
もはや仕方のないことなのだろう。

ある同一性の基準の下に、共通部分と差分が生まれる。
数学と自然科学、あるいは自然言語と人文科学の相性が
よいのは、前者が共通部分に、後者が差分によりフォーカス
しているからと考えてよいだろうか。

「間」の記号性について論じた1章では、記号の投機性という
性質が浮き彫りにされる。
記号自身(シニフィアン)と記号が示す対象(シニフィエ)のうち、
シニフィエが曖昧だったり、両方とも曖昧だったりするケースに
おいて、それは顕著になるとされている。
このシニフィアンとシニフィエの結びつきの投機性は、
個人的に抱えている理由付けの投機的短絡という性質と
同じものだろうか。
この章では自然言語を主に取り上げているが、その投機性が
理由付け全般に共通するのであれば、数学や自然科学においても
同様であるはずだ。
意味付けにおいてシニフィアンが不要なケースが多いように
思われるのは、試行の積み重ねとともに投機性が低減していき、
記号との相性が悪くなるからだろうか。

2章で取り上げられるハイデガーとドゥルーズ=ガタリのテクノロジー論の
対比は、そのまま国民国家と〈帝国〉の対比になっている。
理由付けの投機性を覆い隠すことで発達してきた人間が、その投機性を
受け入れ始めることで思弁的実在論に向かうという整理は妥当だろうか。

9章ではパプアニューギニアのメルパという集団に見られるモカという
儀式が紹介される。
戦争、賠償、モカというのは、別種の戦争への移行のように見える。
それは、現代西欧社会においても、戦争、貿易、サイバー攻撃というかたちで
武力に限らない戦闘状態にあるという構図に近いと思える。
アナロジーを構成する二つの項(中略)の距離を縮小して同一性を
みいだすのではなく、むしろ二項の間の距離を活用して視角を
広げようと努めている。
春日直樹編「科学と文化をつなぐ」p.188
という指摘はとても面白い。
唯一の同一性に収束するというディストピアとしての平和を避けるための
手がかりとなるだろうか。
抽象の共通部分の方へ振れ過ぎているときには、差分への揺り戻しが必要なのだろう。

11章では「宇宙における我々の位置」という題で、知識の蓄積とともに変化してきた、
人類の存在意義という意味での〈宇宙における〉我々の位置の変遷を追う。
進化論の誕生により、人類が誕生したことの無目的性を受け入れることができたのに、
自然人文を問わず、科学のほとんどがあらゆることに理由があることを前提し、ものごとの
無理由性を受け入れられないのは何故だろうか。
この問もまた理由の存在を前提しており、理由律の解明こそが、思弁的実在論も掲げる
次の大きなテーマなのかもしれない。
理由律にはその内側から挑むしかないように思えるが、そういった再帰的な構造は
理由律に依拠した意識の得意とするところでもある。
それとも、理由律の外側からその正体を暴く術があるのだろうか。

12章で将棋電王戦を題材に取り上げられる「記号の離床」というテーマは
最近悩んでいたところだ。
このブログでは情報という言葉を情報科学における意味で使うことが多いが、
それとは別に「最新情報」等と言うときの、既に圧縮された情報を単に情報という
ことも一般的である。
こうした〈コンテクストに依存する人間的記号の意味作用がコンテクストに
依存しない機械的情報との相互変換を通じて変容していくプロセスを、
本章では「記号の離床」と呼ぶ。
同p.239
ここでは人間的記号と呼ばれているものを、圧縮された情報encoded information
と呼んできたが、記号あるいは符号のような呼び名を付けたい。
意味付けや理由付けによって人間のシステム内部ではencodeされたかたちで
処理されるが、一度システム外部に出てしまえば、それはdecodeされてしまう。
それをencodeされたままに留めるために、文化や習慣という正義の共有が行われるが、
現状では人工知能と人間の間には特定の正義が存在しないため、decodeされた
情報がやり取りされる。
それによってゲーム内外においていろいろな問題が提起されたようだが、
果たして人工知能に人間と同じencoderを実装すべきだろうか。
プログラミング教育が目指すべきところは、decodeされた情報通信への馴化に
あるのかもしれない。

13章で紹介される、光を用いた神経細胞発火活動の計測はとても興味深い。
本文では主に脳内における使用が意図されているように読めたが、全身の神経系に
対して適用可能なのだろうか。
脳だけにフィーチャーしてしまうのは脳の役割を過大評価することになる気がして
陥穽に陥らないかと思ってしまう。
図3を見ると、ボトムアップアプローチはカーネル多変量解析のようなものをベースに
しているように思われる。
経験それ自体は高次元空間に分布する。
しかし、充足理由律により、その分布はある低次元の多様体上に
分布することが期待される。
An At a NOA 2016-05-11 “科学と仮説
この方法で、高次元空間に畳み込まれた低次元多様体を見出すという作業がモデル化
できたとすれば、それはまさに理由律に相当するだろう。

15章では共通部分と差分が取り上げられる。
カヴァイエスの「賭け」についての論を取り上げた箇所で、「秩序を課すことによる支配」と
「未来への跳躍」として対比されているが、これがそのまま理由付けによる秩序の形成と
その投機性に対応すると考えられる。
その人間的なロゴスつまり確率的な合理的判断に抗する唯一の合理的判断は、
「人間的なロゴスは絶対的でもなければ、すべてでもない」というより高次のロゴス
を肯定することである。
同p.303
としているように、まずは理由律の本性をしっかりと捉え直すのがよいのは確かだ。
現代は理由律に傾倒しすぎているのかもしれない。

最後の16章については、本書の中で最も上手く飲み込めなかった。
でも、何か面白いことを述べていそうだという直感の下に、郡司ペギオ幸夫の著作を
次は読んでみようと思う。
利口なハンスの説明の中で、長時間サイクルを促進する短時間サイクルという構図が
取り上げられるが、これは意味付けの過程にも見出されるような気がする。


どれもこれも面白く、特に気になったところだけ少しずつ取り上げても長くなってしまった。
またいつか読みなおすべき日がくるかもしれない。

2016-10-05

kagome

pure golangな形態素解析プログラムとしてkagomeがある。
そこで、いつぞやの「の」構文を解析してみた。

テーブルとグラフはデモページで作成。
5種類ある「の」のうち1つ(10588)が抜けているのが非常にくやしい。


Input納豆の糸の引くのを見ているの
ModeNormal

Surface Part-of-Speech Base Form Reading Pronounciation
納豆 名詞,一般,*,*,* 納豆 ナットウ ナットー
助詞,連体化,*,*,*
名詞,一般,*,*,* イト イト
助詞,格助詞,一般,*,*
引く 動詞,自立,*,*,五段・カ行イ音便 引く ヒク ヒク
名詞,非自立,一般,*,*
助詞,格助詞,一般,*,*
動詞,自立,*,*,一段 見る
助詞,接続助詞,*,*,*
いる 動詞,非自立,*,*,一段 いる イル イル
助詞,終助詞,*,*,*

2016-10-04

不気味の谷

センサが情報を圧縮することが認識であるという
理解に基づくと、いわゆる「不気味の谷」と呼ばれる
現象は、外部過程による圧縮が当該センサの圧縮過程
との齟齬を起こしている状態だと理解できる。

外部過程がある記号を付与するために圧縮した情報が、
受信側のセンサにおけるその記号に対する圧縮方式と
完全に一致していれば、それはもはや現実と見分けが
つかない。
そこに差異がある場合には、差異が大きすぎる場合には
その記号として認識されず、ある程度近づくと、その記号
として認識されるが、齟齬が生じるという段階に至る。
この段階において、その差異がさらに小さい領域では、
受信側が圧縮過程の修正を施すべきかという判断に迫られる。
その判断に迫られつつ、棄却されるケースを指して、
「不気味の谷」と呼んでいると言える。

近さの尺度を設定するには距離空間である必要があるが、
適切なノルムは人によっても、その情報の形式によっても変わる。
例えば、精巧につくられた人間の模型は、写真で見る場合と
直接見る場合とではノルムの取り方が変わるだろう。
視覚センサによって規定されるノルムに対しては不気味の谷を
超えて実物と見紛うものでも、聴覚、触覚等の他のセンサで
測った距離が大きすぎているのであれば、実物とは認識されない。

果たしてそういった尺度は一意に存在するだろうか。
その尺度の一意性が成立する範囲のことを、個人と呼ぶのかもしれない。

圧縮過程の齟齬が認識の不具合を引き起こすのだとすれば、
どれだけ精巧に作られたCGよりも、一節の文が勝ることが
あるというのも無理からぬことである。

役に立たない

「日本に必要なのは、社会全体でサイエンスを支えるという意識」
- 東工大・大隅良典 栄誉教授


私はこのごろ、そういった質問に対しては「役に立ちません」と答えたほうが
正しいのではないかと考えるようになりました。
という大隅先生の言葉、私は森博嗣を読んで最初にその考えに至った。

なぜ勉強しなければならないかと反語的に訊かれたら
・「どうして意味がなければいけないのか。意味がないことが贅沢なのだ」
・「うるさい、勉強中だからあとで」
と答えられるようでありたい。
An At a NOA 2011-01-07 “もし子どもがいて
そうやって世界をモデル化して得心しようとする行為の、
何と役に立たないこと。
そこに意味を見いだせるとは、何と人間的だろう。
An At a NOA 2011-12-08 “numerical models
ただひたすらに、意識自ら理由付けを施し、世界を「理解」する。
生活する上で役に立たないと言われることに価値を見いだせることが
最も人間らしい側面に見える一方で、そもそも抽象によって情報に
秩序が生じること自体がもうほとんど生命と同義だという点で、
あらゆる意味付けと理由付けは、等しく生きることに直結している。
「役に立つ」って何なんですか。
(いかんな、酔っている。)

それはそうと、「理解」という語は理によって解きほぐすと書き下せる。
理由付けという抽象によって情報を圧縮する行為が、何故
解きほぐす行為として把握されるのだろうか。
それは、人間の意識の大本に、大いなる原因を設定したいという
欲求が存在することを示唆しているように思われる。
理由付けは常に投機的に施され、それが大いなる原因の候補、
つまりは神の候補者となる。
その投機の度合いが理由付けの積層とともに低減することで神が解体
されていく過程が、解きほぐす過程として把握されるのかもしれない。

圧縮情報

この夏、ポケモンGOとともに歩きスマホが問題になったが、
歩いていない時間でもスマートフォンを操作する時間は
大分長いように見受けられる。

大学の学食でふと見渡すと、一人で食事している人の
少なくとも半分はスマートフォンを眺めており、食後だけでなく
食事中に操作している人もいる。
複数人で来ている人でも、食後はスマートフォンを操作
しながら会話する姿がちらほら。

この状況についてここ数日考えており、最初に思ったのは
現実という境界条件の厳しさを示しているのではということだ。
物理的身体に拘束された意識が、より多くの時空に存在し、
より多くの情報を摂取することを目指して、スマートフォンを
見やることでその拘束具から逃れようとしているとも思える。

次に考えたのは、意識から無意識へと移行するための
必須条件である試行の大量生成を行うために、同じ操作を
繰り返すゲームに没頭したり、同じウェブサイトを巡ったり
するというルーチンに自ら絡め取られようとしているのでは
ないかということだ。

また別の話だが、現実において物理的身体が受け取る
情報に比べて、スマートフォン経由で摂取する情報には
多くのバイアスがかかっているとも言える。
ここで、バイアスというのは、政治的な立場によるもの等に
限らず、一般的にある外部圧縮過程によって認識および解釈
されることにより、特定の同一性のもとに情報が整理されること
全般について言っている。
認識とは、入力された情報を圧縮することであるから、
個人的にはそれを「より圧縮された情報」と表現したい。

自らの物理的身体に入力された情報には、自らの処理系による
圧縮のみが施される。
それに対して、誰かが書いた何かの情報に触れるときには、
少なくともその情報を発信した人間と自分という2段階の
圧縮過程が挟まり、もしその情報が何かの情報を伝える情報
だとすれば、圧縮過程は何段にもパイプされていることになる。

個人的には外部圧縮過程は可能な限り排除したいと思うが、
VRが流行ったりするのを考えると、そういった既に圧縮された
情報に浸るという安心感というのは一定程度共通するもの
なのだなとも思う。
スマートフォンへの依存というのも、そういった、より圧縮された
情報に浸ることによる安心感という側面があるのかもしれないな、
ということを先ほど歩きながら考えていた。

これは、同じ同一性という正義を共有できることから生まれる
安心感だろうか。
それとも、単に自ら圧縮する手間を厭うことによるものだろうか。

2016-10-03

所有

アマゾン「キンドル アンリミテッド」サービスにおける
講談社作品の配信停止につきまして


「定額無制限」を掲げて失敗しなかったサービスって
未だかつてあるんだろうか。
オンラインストレージに関しては、現れては去りという
死屍累々の状況が数年前にあったように思う。

このところ思うのは、いろいろな面で所有から共有への
移行が進んでいるなということだ。
紙の書籍から電子書籍への移行や、CDから音楽配信
サービスへの移行といった、データの世界での話は
もちろんそうなのだが、車や自転車のシェアリングのように、
実世界においても進んでいる。
住居は大分昔から賃貸というかたちの共有がされて
きたが、通時的な共有だけでなく、ルームシェアのような
共時的な共有もかなり一般的になった。
UberやAirbnbのようなサービスも同じ流れだろう。

みんな、何かを所有するという負担を避けるようになって
きたということなのだろうか。
貨幣の発明によって物理的な所有のコストはかなり軽減
されたように思うが、データのみだとしても維持コスト
というのは相変わらずかさむ。
自由というのは責任を追求したいがために想定される
ということを書いたが、所有においても、当該対象を
所有する自由というのは、それを管理する責任と表裏一体
であり、これまで喧伝されてきた自由の側面が縮小し、
責任の側面ばかりが目に付くようになってしまったのかもしれない。

物理的身体というのは果たして所有対象だろうか。
個人的な認識としては、それは物理的身体というセンサの上に
生じたコンセンサスが意識や無意識であるから、意識が身体を所有
するというのは文字通り本末転倒でちゃんちゃらおかしいのだが、
意識による理由付けのストーリィとしては、まあ無碍に否定するほどでもない。


2016-10-05 追記
昨夜発表されたGoogleのPixelには画像と映像の無制限ストレージが
ついてくるらしい。
本体が$649するため、そこである程度フィルタリングされるとはいえ、
Googleですら定額無制限で失敗するとしたら他にできるところは
まずないだろう。
Googleはそれをユーザと共有することにメリットがあるから無制限を
掲げられるのだろうが、物理的なコストを上回る利益を上げられるだろうか。

2016-10-02

経験の総和

科学が経験の総和だという見解には賛成できるが、
むしろ、科学ほど人間の何故という問を先鋭化した
ものもないと思う。

科学が究極の原因を設定しないのは、神という
大いなる原因を設定した宗教への対抗であり、
常に次なる原因を追い求め、理由律の連鎖を
決して止めないことにその存在意義があるからだ。

科学は何故という問を、時に問を発した人間が
必要とする以上に積み重ね過ぎるが故に、
こういった印象がもたれるのではないかと思う。

「変な宗教に騙される」ことが究極の原因という
回答を設定することなのだとすれば、
もはやその人間は科学者ではない。

2016-10-01

思い出

「思い出と記憶って、どこが違うか知っている?」
(中略)
「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」
森博嗣「すべてがFになる」p.289
このシーンはとても好きで、何故かページ番号まで記憶している。
それは、289=17^2というインパクトが強かっただけだからなのだが。

思い出と記憶の違いは、理由付けと意味付けの違いのようにも思われる。
思い出すたびに、思い出は理由付けされることで補強される。
メモリアクセスとしての記憶の呼び出しは必ずしも理由付けを要さず、
意味付けのみでも行えるという点で、思い出すこととは異なる過程として
理解されるべきだ。