2018-06-03

人形論

金森修「人形論」を読んだ。

こういう人形論を読んでみたいと思っていた。

無関心な物理世界を、意味付けや理由付けによって単純化する〈亜物〉化の過程によって、存在が生じる。そのプロメテウスの精神の発露が、自らの周りのほんの一部に限られることで臨在性が生まれ、愛玩へとつながるが、依然として物質性を帯びていることで、自存性も保たれる。〈亜物〉には自存性と臨在性が共存しており、近いようで遠いような存在感を有している。

臨在性の究極として、自らと同じ存在として〈亜物〉化しようとする過程によって〈亜人〉が生まれ、その極限に〈人間として見做す〉ことに支えられた人間が存在する。臨在性の高まりに合わせて、高い自存性が要求されるために、〈亜人〉性や人間性を帯びるには、物質性の観点からも厳しい判定をクリアしなければならない。このプロメテウスからピュグマリオンへの跳躍が、生命と非生命、人間と人間以外、人形と彫刻といったものの違いにつながる。一つの時点での〈亜人〉化を超然と維持する人形には、〈清潔な人間〉という表現がとてもしっくりくる。

著者自身が言うように、物質性をもたなければならない人形によって示されることと、その抽象的な把握である人形論によって語られることの間に大きな隔たりがあるのは確かだが、人形にまつわるコミュニケーションを抽象する過程そのものが、「大規模な環境に抗うように、自分の周囲に〈人間的なものの痕跡〉を残す」行為であり、人形論そのものに、どこか人形に似た部分があるように思う。

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