2017-05-08

ラインズ

ティム・インゴルド「ラインズ」を読んだ。

意味付けと理由付け、音楽と言葉、芸術と技術、
観光と旅、近代とは。
個人的に考えているいろいろな問いは、表面的には
違っていても、共通する問題設定があることを
思い出させてくれるような本だった。

著者が区別する、糸threadと軌跡traceの違いは、
意味付けと理由付けの違いに相当する。
人間の判断が、多くの場合、理由の有無によって
意味付けと理由付けのいずれかに分類できるのと
同じように、ラインは糸と軌跡に分類される。
しかし、その分類は判断やラインに固有のものという
よりは、それを見る人間の見方を反映したものであり、
どちらにも分類できないこともあるだろう。
ひもは糸であると同時に軌跡であり、どちらか一方に
限定できない。
ティム・インゴルド「ラインズ」p.89

近代における物の見方というのは、外部に顕現していた
軌跡を内部へと回収し、外部にあったラインを糸へと
張り替えるものだったと言える。
個は一点に集中したものとして捉えられ、外部にあった
個の痕跡からは個性が剥奪された。
それは線描から区別される記述の誕生であり、
近代化というのは、そのような個の内部への巻取り
だったように思う。
かつて連続した身ぶりの軌跡だったラインは―近代化の
猛威によって―ずたずたに切断され、地点ないし点の
継起となった。
同p.123
近代において、外部から軌跡が排除され糸だけが
残ると同時に、軌跡は内部へと回収された。
An At a NOA 2017-05-06 “マルセル・ブロイヤー展

線描としてのラインは、すべての情報が保持、伝達され、
具象として扱われるのに対し、記述としてのラインは、
ラインがもっている情報の一部分だけが使われることで、
抽象として扱われる。
芸術も技術も、ある情報を異なる形式で複製する過程であり、
芸術の本質はその過程で何を削ぎ、何を残すかにあると思うが、
複製過程において情報の欠落が全くないのであれば、
それは芸術ではなく技術になる。
抽象されたラインが誕生したことで決定的だったのは、
保持、伝達される情報が少なくなることで、完全な複製が
行えるとみなされるようになったことだろう。
線状化の過程の本質とは、まさにこうした断片化と圧縮
―〈運び〉の流れる動きの瞬間の連鎖への縮約―にある。
同p.230
発話speechと歌songの区別に伴い、言葉と音楽の違いが問題に
なったことも、この線描と記述、あるいは芸術と技術の分離に
対応する。

著者が徒歩旅行と輸送として区別するものもここに並べられ、
これは旅と観光の違いに相当する。
移動が軌跡である徒歩旅行や旅では、移動する者は判断基準の
変化を伴いながら移動する。
一方、観光客は、「点と点をつなぐ連結器としての輸送という糸」
+「観光地として巻き取られた軌跡」という近代的な移動を行う
ため、観光地において、現地人と観光客の判断基準の大きな差異が
もたらされる。
このあたり、東浩紀「ゲンロン0」の話題が関連する。

著者が指摘するように、インターネットのネットワークのイメージは、
ノードに巻き取られた個と、それをつなぐ糸としてのエッジとして
既に成立してしまっている。
コミュニケーションは、軌跡を拭い去られた糸を介して行われており、
それは良い面も悪い面もはらんでいるが、軌跡がないことによる
ディスアドバンテージはあまり省みられないように思う。
メッシュワークの形態をインターネット上で構築することは
可能なのだろうか。

第六章で述べられるように、近代において抽象されたラインは、
その究極の形態として直線に至る。
直線の覇権とは文化一般にみられる現象ではなく、
近代の現象なのである。
同p.238
スケッチと図面、CADの影響など、面白い話題に尽きない。

博士論文の題材である非線形性の問題も同じである。
近代として思考する科学の枠組みの中で、非線形性は如何にして
線形化されているのだろうか。

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