2020-10-28

ウイルスの意味論

山内一也「ウイルスの意味論」を読んだ。


ウイルスが生命か非生命かという問は、実のところあまり意味をなさないのではないか。環境という箱の中に生命が個体として独立に存在するという極めて常識的なイメージがこの問を生み出しているだけのように思う。生命の独立性や個体性をもう少し緩めて、ウイルスという個体があるというよりは、生命のプロセスの一部が環境に漏れ出している状態としてウイルスを捉えたほうが、個人的にはしっくりくる。

もちろん、免疫系のような内=自己と外=非自己を区別するホメオスタシスの仕組みによって、ある程度の個体性が維持されていなければ生命とはみなせないのだろうけど、ゲノムに記録された内在性レトロウイルスやファージの話を読んでいると、ウイルスと呼ばれているものは、天然のゲノム編集プロセスであり、減数分裂と同様に遺伝情報にエラーを導入することで、固定化に陥ることを防ぐトランジスタシスの仕組みのことなのではないかと思えてくる。

生命は、壊死と瓦解のいずれにも抵抗している。ただし、環境の中に独立して存在する個体として抵抗しているのではなく、環境というエネルギーの流れの中で、淀みが束の間現れるようなものである。生命という淀みは、免疫によってかたちを維持しつつ、ウイルスによってかたちを変化させることで、局所的な死を受け入れながら、大域的な死を免れている。

2020-05-26

縦書きと横書き

書字方向は、媒体をスクロールしやすい方向に合わせて決まっていったのではないかと思う。

文字の読み書きは人間と媒体が相対的に移動することで行われる。言語は直列にエンコードされる情報であることがほとんどであるため、デコードがうまくいくためには相対移動の方向が一意的に定まる必要がある。書き言葉におけるこの一意的な相対移動の方向が「書字方向」である。一意的に定まれば曲線でもよいのだが、最も自然なのは直線である。ただし、人間の視野は線状ではなく同心円状であるから、直線が伸び過ぎて読みづらくならないよう、程よい長さで直線は途切れ、書字方向と直交する方向への相対移動が生じる。この相対移動の方向を「スクロール方向」と呼ぶことにする。スクロール方向の移動が生じる際、書字方向には本来と逆向きの相対移動が生じるのに対し、スクロール方向の移動は一方向のみで戻ることがないという点も両者の違いである。文字の読み書きは、書字方向に起こる連続的な相対移動とスクロール方向に起こる間欠的な相対移動によって行われているため、媒体のサイズや重さに応じて相対移動しやすい方向があることで、書字方向とスクロール方向が決まっていったのではないかというのが上記の仮説だ。

大きくて重い媒体(壁や粘土板)は、媒体は動かさず人間が動きながら読み書きする。媒体に合わせて文字も大きくなると、一文字ごとの相対移動量は大きくなる。人体の構造上、目や腕を大きく動かすには、屈伸運動をして地面に垂直に動かすよりも、歩いて地面に平行に動かす方が容易であるため、連続的に生じる相対移動は横、間欠的に生じる相対移動は縦とするのが自然であり、横書きが主流になったと考えられる。

小さくて軽い媒体(木簡や巻物)は、人間は動かず媒体を動かしながら読み書きする。媒体に合わせて文字が小さければ相対移動量も小さくなるため、目や腕を動かさずとも、視線や肘から先だけを動かせば済むようになる。人体に対して腕は左右についていることから、媒体を縦スクロールするよりも横スクロールする方が容易であるため、横スクロールに合わせて書字方向を縦書きとするのが主流になったと考えられる。

電子媒体には物理的なサイズや重さの制限がなく、縦スクロールも横スクロールも同程度に容易であるため、縦書きと横書きのどちらでもよい。横書きが主流な文化で生まれたという歴史的経緯によって縦スクロールが主流となったというだけであるが、物理的な制限から解放された媒体の書字&スクロール方向が、小さくて軽い媒体ではなく、大きくて重い媒体と同じであるというのは面白いように思う。

2020-05-04

芸術人類学講義

鶴岡真弓編「芸術人類学講義」を読んだ。

ありのままの環境は、生身の人類にとって益にも害にもなり得るような、種々雑多な情報の流れである。恩恵をもたらす一方で、時に苛烈でもある情報の流れから、少しでも多くの益を貰い受け、少しでも多くの害を避けようと試み続けた結果、人類は数多の生命の中で最も環境を制御できるようになった。己のために環境を巧みに破壊・創造することが、あらゆる人間活動の根底にあるように思う。その最たるものが言語であり、周囲に溢れる大容量の情報を次々とコンパクトな視聴覚情報に圧縮することで、見かけの処理能力は飛躍的に増大する。しかし、圧縮率を高めれば効率はよくなるものの、その過程で失われる情報も多くなる。津波という情報そのものに遭遇してしまえば、飲み込まれて生命を落とすかもしれないが、津波を伝える言葉は圧縮され過ぎていて、その凄惨さを表現し切れないこともままある。

本書で扱われる、「祈り」、宗教、「象」、装飾、芸術、といったものも、苛烈な環境から一部の情報を取り出すプロセスとして始まったのではないかと想像する。環境という情報の流れが本来もつ一筋縄にはいかない様を、なるべくぶった切らないように掬い取るような抽象化。ありきたりな分節化では失われてしまう情報を保存するようなデジタイズ。自然に手を差し伸べる方法としての芸術というのは、そのあたりのことを言っているのではないかと思う。

2020-04-20

日本語の文法を考える

大野晋「日本語の文法を考える」を読んだ。

ウチとソトの区別の意識が強い文化において、主にウチ同士で使われてきたために、字面の文脈に加えて、言外にある事実の文脈での情報伝達も多い言語。同じウチにいる相手とのコミュニケーションでれば、共有している事実の文脈を頼りにしながら、分析して普遍化するよりも感覚のままに反応し、単語も文法も発音もどんどん簡略化していくというのは合理的である。

ソト(奈良~平安の中国、鎌倉~室町の東国、明治の西洋)との交流によって大きく変化しつつも、根本に残っている特徴を捉えながら展開される、
  • ガとハの違い
  • 抽象名詞の少なさとオノマトペの多さ
  • 人称代名詞の豊富さ
  • ク活用形容詞は状態、シク活用形容詞は情意
  • 倒置表現による強調→連体形終止による係り結び→終止形と連体形の一致
  • ガとノの違い
  • 動詞活用形の起源、簡単化
といったことの説明は、ありえそうなストーリーでとてもエキサイティングだ。

こういう変遷があり得ることを踏まえると、ラ変やナ変が五段活用に合流し、二段活用が一段活用に合流したのと同じように、「ら」抜き言葉のような「正しくない」表現も、いつか「正しい」表現になるのだろうなと思う。「本来の」表現はあっても、「正しい」表現はどんどん変遷していく。でも、「正しい」を維持しようとする姿勢は、生命としての日本語のホメオスタシスを見ているようで微笑ましい。

2020-04-14

「シェルパ」と道の人類学

古川不可知「「シェルパ」と道の人類学」を読んだ。

自然科学にせよ人文科学にせよ、近代以降の学問は、普遍かつ不変に適用可能なモデルを見つけることを旨として発展してきた節がある。船や羅針盤を得て行動範囲が広がり、接する場所や人のバリエーションが豊かになることで、中世に比べると格段に撹拌された情報の流れの中において、共同体が一つの個として存続するためには、普遍かつ不変なモデルを共有することが有用だったのだろう。インゴルドの天候―世界モデルにおけるSKYとEARTHの流れに曝された人間の位置に、西洋共同体がいたのだ。自由度が低いけれども圧縮率の高いモデルを用いて、まずは情報の強烈な流れを大雑把に捉えるところから始まり、モデルの自由度を高めながら徐々に解像度を上げていく過程が、近代以降の学問の発展であった。その中途で、後から振り返れば過ちであった差別や偏見も生んできたが、その教訓も反省として取り込みつつ、近代西洋の学問の流れはガリレオから数えても400年近く続いている。

本書における、道や「シェルパ」といった対象の融解と再結晶も、モデルの自由度の向上による学問の発展の一例として捉えることができるように思う。なるべく普遍かつ不変なままモデルの自由度を向上させる融解の過程(「常に変動する環境において一時的に取り持たれるアレンジメントとして立ち現れる事物」)と、地域や身体といった極めて局所的な実践を基にモデルを具体化する再結晶の過程(「ロープや積み石が道になったり、職業によってシェルパになるという事例」)。名づけによる対象化とは、この融解と再結晶のことである。再結晶によって得られるモデルは、もはや普遍でも不変でもなく、極めてローカルなものであるが、融解したモデルの妥当性を裏打ちするものとなる。雪崩、土砂崩れ、霧などの流れに影響されつつ、個々の身体感覚に応じてその都度立ち現れる「道」と、西洋文明の大きな流れに影響されつつ、労働形態や旅行者に応じてその都度立ち現れる「シェルパ」。融解したモデルが、山中の「道」を歩むことと「シェルパ」としての人生を歩むことの同型性を示す経糸になっているのが、とてもよい軸になっていると思う。

2020-03-28

COVID-19と移動

An At a NOA 2011-12-13 “nowhere man
An At a NOA 2014-11-14 “どこでもドアの幻影
An At a NOA 2016-01-30 “移動
An At a NOA 2016-06-30 “定住

COVID-19の影響で世界中の20億人超が外出制限されるなど、人間の移動が一時的に滞った結果、温室効果ガスの排出量は減り、ヴェネチアの運河は透き通った。

「人間は本来環境破壊生物であり、その環境破壊能力こそが人間の繁栄をもたらした。しかし、環境を長く維持するにはエネルギーの制御が必要であり、そのためには人間は移動すべきではない。結果として、人間同士の物理的なアクセスは宝石のような贅沢品になるだろう」
「すべてがFになる」で真賀田四季と犀川創平が口を揃えて言っていた移動の問題は、疫病の世界的流行によって現実化し始めている。

直接性の神話に支えられた社会環境が大いに損害を被る一方で、自然環境の持続性が回復するということになったとき、人間はどちらの環境破壊を取るだろうか。慣性のままに自然環境破壊が優勢だったところに、COVID-19による社会環境破壊が突然に訪れたことで、社会環境を作り変えながら自然環境破壊の速度を緩めるという選択肢も取りやすくなってきた。

  • actual: 人体というセンサ群に入力したとき、不整合や欠損が検出されないというデータセットの性質(本来は逆で、ある特定の分布を有するデータセットに対して適合するように人体が調整されており、その特定の分布を有することをactualと形容すべきだが)
  • virtual: データ量を減らしてactualの一部の性質のみを再現するというデータセットの性質(データ量を増やせばvirtualは限りなくactualに近づき得るが、その分効率は犠牲になる)
  • real: 複数の人体センサが同一の情報を抽象するとき、元になる単一のデータセットがあること(ソースの確からしさ)
  • imaginary: 複数の人体センサが同一の情報を抽象するとき、元になる単一のデータセットがないこと(imaginaryの原義は*aim- = to copyであるが、複製されているのは抽象結果である情報であり、元となるデータセットが抜け落ちている)
とすれば、直接性の神話とはつまり、realを維持するにはactualなデータ通信が必要であるという信仰のことである。virtualのデータ量が少ないと、確かにrealを構築するのは難しくなるが、限られた量のデータを元にrealityを維持することに慣れることができれば、エネルギー消費の観点からは効率的に社会環境を維持できるようになる。その方向転換ができるかの大きな岐路に立っている。

2020-03-11

現像と夢

ゲンロンβ46で大山顕のインタビュー「「表面」を収集する」を読んだ。

写真はどこまでも表面で、その表面性を拡張するものとしての現像行為を拡大解釈していくという話が面白い。

撮影によって収集された潜在的な表面たちが、developingで顕在化し、fixingで新たな像として定着する。processingは、あたかも覚醒中の体験が混ざり合って再現される夢のような過程である。

目や耳といった知覚センサを通して受信できる情報は、世界のデータのほんの一側面に過ぎない。それにもかかわらず、その断片的な情報を元に神経系の上で深層学習を行い、世界を一つの立体的なものとして捉えられるのは驚異的な能力である。この断片から立体への創造的な統合のトライアンドエラーが夢なのだとすれば、現像行為もまた、まだ見ぬ世界の新しい姿を捉える手段として幅を広げていく可能性を大いに秘めているのだろう。

COVID-19所感

災害や疫病といった異常事態に陥ったとき、異常なものを排除して正常に戻ろうとするのは、社会の免疫系としての側面であり、社会の維持存続には欠かせない。その一方で、これまで疑いなく正常とされていたものまでもが排除されていくと、自己を維持するための機構そのものによって自己が瓦解してしまう自己免疫疾患の状態に陥る。

資本主義経済は、人口や生産量などの多くのものがほとんど常に単調増加するという前提に支えられており、元々は価値のないものに次々と価値を与えることでその前提を維持してきた。生命体としての人間を生かす観点からすれば、資本主義経済はほとんど常にバブル経済状態であり、資本主義経済としての社会は、発展すれば発展するほど、夥しい数の不要不急のものを抱え込むことになる。ただし、元は不要不急であったものも、それを取り込んでいく間に依存する部分が生じていき、大域的には不要不急でも局所的には不可欠になることが往々にしてある。

今回のCOVID-19への対応は、従来の災害や疫病への対応と比較して格段に厳しい印象が強い。一種の訓練だと思えば、それをするだけのゆとりがある社会になったと考えることもできる。しかし、既に資本主義経済としての自己が大きくなり過ぎて久しい社会にとっては、この強烈な免疫作用はあまりにつらく、自己免疫疾患の様相を呈し始めているように思われる。何にせよ、単一の判断基準に基づく免疫作用が行き過ぎればディストピアは必至だ。immunityの語源がin-(not, opposite of) + *mei-(to change, go, move)であることを思い出す。先月の講演で聞いた、共同体communityと免疫immunityの対比についてもまた考えたい。

2020-02-11

永遠のソール・ライター

Bunkamuraで「永遠のソール・ライター」展を観てきた。

ふとした拍子に気になったことを、人知れずさっと切り取ったような写真の数々。予め定められた判断基準に照らして探し出した美しさではなく、何とはなしに見つけた美しさというか。垣間見えた「らしさ」への気付きによって、取るに足りないものが際立ってくる。ノイズからシグナルが浮かび上がる瞬間。何というか、そんな印象を受けた展覧会だった。

2020-01-25

1!+2!+3!+4!

=1+2+6+24=33
ということで33になった。
あるいは、フィボナッチ数列の和で、
1+1+2+3+5+8+13=33
でもよい。
そろそろネタがないと言っていた割に今年は2通りの式が見つかったが、34は本当にネタが思い浮かんでいない。

少し前からサウナに行く機会が増え始め、スカイスパ、トンボの湯、しきじ、用宗温泉などを訪れたのだが、最近サ道のドラマを観て正しい入り方を学び、LaQuaに初めて行ってみた。3種類のサウナで4セット、東京ドームを見下ろしながらの外気浴も満喫した。体中の産毛が総立ちになるような触覚とともに、「美しき青きドナウ」を聴き、ドームシティの夜景を見るのはなかなかに優雅なものである。ほどよい疲れと心地よさを覚えながら食べた「京都高台寺 よ志のや」の素揚げ野菜カレーうどんもまた格別であった。あそこは天国かなにかだ。

サウナ界隈で「ととのう」と呼ばれる状態は、自律神経系が撹拌されて再び落ち着くまでの一連のプロセスを言うのではないかと思う。スノーグローブのようなイメージだ。粒子が舞うときの煌めきのようにギラついた感覚で環境に感応するという点では、サ道もまた茶道と同じように、日頃の稽古を通じて日日是好日を目指すものなのかもしれない。

2020-01-22

断片的なものの社会学

岸政彦「断片的なものの社会学」を読んだ。

判断できない状態を避けようとして、世界を分かつことでわかろうとせずにはいられない。わかりやすくしようとすればするほど、状況はシンプルな一つの物語へと削ぎ落とされ、世界はのっぺらぼうに分かたれる。こうして世界の一次近似としてマジョリティが現れるプロセスの暴力。でも、それをしないでいては暮らしが成り立たない。
人間の処理能力は、世界を圧縮せずに把握できるほど高くない。
An At a NOA 2018-12-15 “抽象の力
分かつことが集団を壊死に近付ける一方で、分かつことをあきらめれば集団は瓦解に向かう。壊死と瓦解の話を書いてから、もう二年半が経つのか。その一年ほど前から、ずっとこのことを考え続けている気がする。

断片的なものがなくなった世界はユートピア=ディストピアであり、そこは物質感がなくとてものっぺりした世界だろう。dataからinformationへの圧縮の仕方が一意に決められてしまい、除数を変えて割り直すことのできない世界。とてもシンプルで究極的にわかりやすい世界だが、そこに人間がいることを想像するのは難しい。

割りっぱなしでもなく、割らないのでもなく。割り切れないものをどう割るかの試行錯誤。それを文章にするのはとても難しいと思うのだが、よい本であった。

坂田一男 捲土重来

東京ステーションギャラリーで「坂田一男 捲土重来」を観てきた。

抽象絵画に物質感があるのはどういうことなんだろうか。構造を抜き出して表現するのであれば、絵の具やキャンバスの質感を拭い去り、シンプルな形の構成に徹するのではないか。そんなことを考えながら絵を眺めていた。

しかし、2階の展示室に降りてきて冠水の話を読んだとき、そのあたりのことが腑に落ちた。抽象絵画で涙が出たのは初めてのことだった。たしかに、一つの対象を、一つの空間と時間において、一つの観点から抽象するのであれば、シンプルな形の構成のみで表現することも可能かもしれない。そうではなく、さまざまな対象、空間、時間、観点を含む抽象を一つの絵で表現することを試みた結果、抽象は重なり合い、作品が物質感を帯びる。

すべてがシグナルなのではなく、多分にノイズを含んでいる。ある観点からのシグナルは、別の観点からすればノイズであり、その逆もまた然りだ。抽象の重なりによる雑多さ、わからなさ、複雑さというものが、つまりは物質感なのではないだろうか。まさに岡崎乾二郎が「抽象の力」で描いた抽象美術の方向性そのものが、本来的に物質感につながっている。

2020-01-19

日日是好日

「日日是好日」を観た。

稽古の何たるかが詰まったような作品であった。

字通で「稽」の字を引くと、「神意を考える、かんがえる。卟と通用し、くらべる、うらなう、とう。」とある。考古学の「考える」が体系化された論理による解釈であるのに対し、稽古の「稽える」は身に付けた作法による感応であるように思う。古くから伝わる情報に接するという点は共通していても、考古学と稽古には、語ると示すのような違いがある。学ぶは真似ぶ。習うより慣れろ。

武田先生の「初めに『形』を作っておいて、その入れ物に後から心が入るものなのね」という台詞にある『形』はつまり作法である。稽古を通じて『形』が整い、身体が環境に感応するようになった暮らしこそ、日日是好日なのだろう。

2020-01-02

ウロコ


明朝体のウロコを使ってネズミ。
「子」はちょっと控えめに。