2018-12-31

2018年

今年読んだ本。
  1. グロテスクの系譜
  2. デジタルデザイン
  3. 内田祥哉 窓と建築ゼミナール
  4. 「シェア」の思想
  5. 時がつくる建築
  6. ヨーロッパ的普遍主義
  7. 人新世の哲学
  8. 貨幣論
  9. 共にあることの哲学
  10. AI vs. 教科書が読めない子どもたち
  11. 共にあることの哲学と現実
  12. 近代日本一五〇年
  13. 棋士とAI
  14. 専門知と公共性
  15. 血か、死か、無か?
  16. 赤目姫の潮解
  17. 匂いのエロティシズム
  18. ものぐさ精神分析
  19. 少女終末旅行
  20. 簡潔データ構造
  21. 生命の内と外
  22. プラネタリウムの外側
  23. 「百学連環」を読む
  24. 我々は人間なのか?
  25. 資本主義リアリズム
  26. ある島の可能性
  27. 系統体系学の世界
  28. 〈危機の領域〉
  29. 西部邁 自死について
  30. 感応の呪文
  31. 人形論
  32. 少女コレクション序説
  33. 夢の宇宙誌
  34. エロスの涙
  35. 人と貝殻
  36. 天空の矢はどこへ?
  37. デカルトとパスカル
  38. 海辺
  39. エコラリアス
  40. 亡霊のジレンマ
  41. 言説の領界
  42. 空間〈機能から様相へ〉
  43. 批判的工学主義の建築
  44. ロボット工学と仏教
  45. 神の亡霊
  46. 先史学者プラトン
  47. フェティッシュとは何か
  48. ドローンの哲学
  49. 異端の時代
  50. はざまの哲学
  51. 機械カニバリズム
  52. 流れとよどみ
  53. 考える皮膚
  54. 見知らぬものと出会う
  55. 免疫の意味論
  56. 人間のように泣いたのか?
  57. 技術の完成
  58. まなざしの装置
  59. 対称性
  60. 眼がスクリーンになるとき
  61. タコの心身問題
  62. 文系と理系はなぜ分かれたのか
  63. 抽象の力
  64. HALF-REAL
今年観た映画。
  1. DEVILMAN crybaby
  2. 宝石の国
  3. 風立ちぬ
  4. 夜は短し歩けよ乙女
  5. ザ・スクエア
今年は博論を出して研究に一区切り。ドクタを取ってからは、ポスト専門分化の在り方に興味が移ってきている。

専門家として知識の構築に邁進する一方で、専門家以外とどのように共有していくか。安全を安心に読み替える時代は終わりつつあるが、ポピュリズムに陥らずに安心を維持するには何をしたらよいのか。

設計では年の後半からマニラでのプロジェクトに関わり出し、異なる価値体系同士のすり合わせの在り方についても考えることが増えた。

両者はいずれもひとつの根本的な問題のバリエーションなのかもしれない。

来年も引き続き考え事をするだけの余裕を持とう。

2018-12-30

廃墟の美術史

松濤美術館の「終わりのむこうへ:廃墟の美術史」を観た。

万物は流転するが、流転の速度には差異がある。その中で、本来とは異なる速度で流転している領域のことを、自然に対する人工と呼べば、人工は自然との速度差を維持する働きによって保たれているとみなせる。

秩序の更新過程を制御する働きが止めば、当該領域は再び自然の流れに合流するが、速度差が解消するには時間を要する上に、合流した結果が元の流れと同じものに戻るとは限らない。

そのような人工の発散過程が廃墟であり、一種の過渡現象として近似できるだろう。近代の理想が、絶対時間の実現、すなわち時定数を無限大にすることだったとすれば、近代文明は廃墟になることを想像しないことで「進歩」してきた。廃墟への眼差しは、そういう意味で退廃的なものとして認識されるかもしれないが、その視点を失った文明は既に壊死している。

2018-12-24

HALF-REAL

イェスパー・ユール「HALF-REAL」を読んだ。

あるデータを、何らかの判断基準に基づいて同一視すると、データが捨象されてサイズが小さくなるとともに、データに生じた偏りが意味を担うようになる。抽象過程における情報の捨象と意味の形成は表裏一体であり、減算モデルと除算モデルの双対関係に対応する。

ルールとフィクションの関係も同じであり、両者の相互作用というのは、一つの抽象過程を両方から見ることができることを言ったものなのではないかと思う。ゲームというのは、判断基準が比較的安定的に変化する抽象過程であり、一つの価値体系が維持されるプロセスの一種とみなせる。

古典的ゲームでは、ボールや駒、ボードなどの物体に頼ることで判断基準の安定化を図るが、不確定性を有する人間だけがプレイヤーとなることがほとんどであるため、判断基準の急激な変化に伴う価値体系の崩壊=ゲームオーバーの可能性と常に隣り合わせである。それに対し、ビデオゲームでは、リアルタイムにプレイヤーを仮想化することで、より高度に判断基準を安定化できるようになったことが、時間や空間をはじめとするあらゆるものを刷新する複雑な価値体系を維持する上で重要になったのではないかと思う。

一つの価値体系の維持という意味では、いわゆる現実Realも同じである。大文字の現実とゲームの間に区別が設けられるのは、前者が強烈なハードウェアに強く依存しており、通信可能な範囲内にいるプレイヤーのほとんどがそのことを忘れられるためである。通信範囲が拡がり、異文化、異人種、異種、異星、といった存在に触れ、忘れていた判断基準に気づかされる度に、大文字の現実は変化してきたはずだ。パラダイムシフトである。

逆に、プレイヤーが少数のうちはImaginaryなものであるゲームも、十分多数のプレイヤーが参加することでRealに漸近する。人間の意識が一つであることで機能するように、現実もまた一つであることが求められるために、当初はImaginaryであったゲームが現実に近づき過ぎると、両者の間には軋轢が生じる。キリスト教、貨幣経済、虚数、相対性理論のような新しい価値体系が生じる度に、かつてゲームだったものが現実の一部をなすようになる。Real partとImaginary partに明確に分けられるうちは、ゲームはゲームのままであり、それが峻別できないほどに判断基準が変化したとき、現実と呼ばれるようになるのだろう。ポケモンGoのようなARもいずれそうなるだろうか。

現実が変化しなくなることは、現実が突如としてゲームオーバーするのと同じくらい脅威である。人工知能の発達を待たずとも、現実は知らぬ間にビデオゲーム化しつつある。判断基準が過度に安定化した社会は、ユートピア=ディストピアである。

2018-12-21

群盲象を評す

一匹の同じ象という仮定は、素朴過ぎるという謗りを免れないかもしれないが、「同じ」であるというコンセンサスに至ることをもって実とする他はないように思う。

一匹の同じ象はコンセンサスがみせる虚像であるという発想の裏にこそ、実なる唯一不変のものがあるとか、あらゆるものは虚であるといった、極端で素朴な仮定が含まれているのではないか。

ぬいペニ

つまりは、藪から棒(直球)。

「飼い犬に手を噛まれる」ではなく、「天災は忘れた頃にやってくる」だと思えば、少しは教訓になるか。

理想化したモデルと複雑な現実との齟齬がもたらすカタストロフ。

分身ロボットカフェ


大きく分けると二つのことについて考えている。

ひとつは意識を意識することについて。
OriHime-Dに意識が見出だせるとしたら、それは生身の人間が制御していることそのものよりも、「生身の人間が制御している」という情報が、応対が人間らしいことの理由として受け入れられることの方が影響が大きいと思う。ロボットに心が宿るか、義体化を進めたときにどこまで意識が残るか、といった問題は的外れで、刺激に対する反応が不確定な系のうち、自らと「同じ」ものとしてカテゴライズ可能なものを、意識は意識として意識するのではないか。自らもまた不確定な系である意識は、相対した系が意識であるか否かを投機的に決定するために理由を必要とする。逆に、理由が受け入れられて、投機的な決定を裏切るような情報が得られなければ、実際に意識を介しているかは関係がない。というよりも、「同じ」ような姿形をしていて、「同じ」ような入出力特性を備えた系だけにあると、漠然と信じられてきた意識なるものの概念の方が変化するのだろう。いずれThe Turkと逆のことが起こったりする中で、意識と人工知能の境界は現在信じられているほど確固たるものではなくなり、その境界を死守することに価値を見出す思想は、一種の差別思想とみなされるようになるのかもしれない。

もうひとつは働くことについて。
働けるようになることは社会参加として肯定的に受け止められ、時間、空間、身体などのあらゆる制限を克服して就労機会が確保されようとする。人間の労働が機械で代替できるようになり、大部分の人間が働く必要がなくなったとしても、このサイクルは止まらないのではないか。むしろ次々と労働の対象を変化させることで、意識を維持するための理由を供給し続ける。それはさながらゲームのようだが、十分多数のプレイヤーが参加したゲームは現実になる。意識の維持を是とすることに、自らが意識であること以外の根拠はないし、不要であると思うが、この労働化のゲームはいつまで続くだろうか。労働化のゲームが続かなくなった世界では、意識のメンテナンスは苛酷だろうと想像される。

2018-12-15

抽象の力

岡崎乾二郎「抽象の力」を読んだ。

dataがinformationになる過程。
何らかの判断基準に基づく同一視によって、無数のdataが少数のinformationへと圧縮され、判断基準に応じた形式を帯びる。把握、認識、理解を包含するその除算の過程を、「抽象」として取り出そうとする過程もまた、抽象である。

そのような絶え間ない抽象の重なり合いについての自覚が、19世紀末から20世紀にかけて、科学、美術、文学などの様々な分野において、互いに呼応するかのように生じたのだろう。

ある状況を高圧縮率で抽象し、単線的なチェインや対称性を多く有する形態のように、自由度の小さい単純なモデルで元の状況を置き換えれば、把握することは容易になる反面、表現できることは限られる。単純なモデルへの抽象は持続する傾向を有し、元の状況は静的なものへと固定化されてしまう。「善」とは、この傾向のことを言うものである。

逆に、ほとんど圧縮しないでいては、それを把握したことにならない。人間の処理能力は、世界を圧縮せずに把握できるほど高くない。仮に、世界を圧縮せずに把握できる神のような把握能力があったら、社会、国家、主体、人間、といったかたちで集合することはなく、それは単なる状況そのものとして存続するだけだろう。

いくつものチェインを描きながら、それらが絡み合うようにしてネットワークをなしている様をあぶり出すことで、元の状況を動的なものとして抽象する。そのアナーキーな抽象過程は、単一の静的モデルを用いた抽象過程にはない不確定性を有し、不確定性は自由意志として認識される。抽象美術が目指したであろうこの方向性を、本書もまた共有しており、この本自体が一つの抽象美術となっている。

あらゆる抽象は、元の状況のすべてを表すことができないという犠牲を払うことで、人間が把握できるものとなる。そのことを忘れれば、単純なモデルと複雑な状況の齟齬がもたらすカタストロフ、すなわち天災を招くだけだ。単一の判断基準に基づく抽象へと固定化することなく、発散しない程度に少しずつ判断基準を変えながら、壊死と瓦解の間で抽象し続ける。その小さな死の積み重ねがなすエネルギー変換の過程だけが、終わりなく存続することができる。

2018-12-11

Beyond the Limits of Reality

A complete knowledge of the material world is hardly probable, therefore, the mistakes we make in departing from reality are of but little importance. If revelations do not come true, it is not the fault of the prophet, the dynamic complexity of the world may change their realization on the way. Common sense reposes within the limits of reality, but supreme intelligence travels beyond.
John D. Graham “System and Dialectics of Art” p.128

物質世界に関する完全な知識というのはほとんど存在し得ないため、現実を起点とすることで我々が犯す過ちはさほど重要ではない。もし黙示録が現実のものとならないとしたら、それは預言の誤りではなく、世界の動的複雑さの現れ方が途中で変化することによるのだろう。常識は現実の限界の内に安寧を求めるが、卓抜した知性はその限界を超えていく。

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所与dataを情報informationへと抽象する際の判断基準は、抽象する度に更新される。更新されるうちに偏りを有するにようになった判断基準のことを知識knowledgeと呼べば、物理的身体というプロセスの上に構築される知識のことを現実realityと呼んでいるのだ。

心理的身体という別のプロセスが駆動し、別様の知識が構築可能になることで、単一の知識の不完全性が露呈する。あらゆる知識は、偶々現れる偏りであり、元の世界の断片的な一面だけを現出させる。現実もまたその例外ではない。

一方で、意味をつくり出すのは知識の偏りだ。偏りのない知識は何も現出させない。あるいは、現出とは、あまりに情報量の多い世界に偏りを付与することである。断片化されていない世界を、人間は処理することができないだろう。

限界は、檻であると同時に殻である。あらゆる限界を放棄するのは、一つの限界の内に留まるのと同じくらい死を招くだろう。限界を超えては、別の限界をつくるという、絶え間ない限界の更新のプロセスだけが、生であるはずだ。

2018-12-06

文系と理系はなぜ分かれたのか

隠岐さや香「文系と理系はなぜ分かれたのか」を読んだ。

文系と理系については何度か書いた。
An At a NOA 2014-06-12 “理系文系
An At a NOA 2016-03-06 “理系文系への解釈

文系と理系の区別の仕方に唯一の決まった方法はないし、両者を区別した結果自体にはそれほど意味はないと思う。しかし、文系・理系や人文科学・社会科学・自然科学、自由学芸七科や百科全書派の「人間知識の体系図」のように、人間の知的活動を少数のクラスに分けようとする傾向自体は、分類思考の現れとしてとても興味深い。

複雑で情報量が多すぎる現実は、単純なモデルへと分解しなければ人間には理解できない。
むしろ、不可逆な抽象の連鎖による情報の絞り込みこそ、理解や判断と呼ぶべきものだろう。
An At a NOA 2018-05-07 “系統体系学の世界
何らかの判断基準に基づいて情報を同一視することで、元の現実を人間が処理可能なまでに単純なモデルへと除算する過程が、すなわち理解である。その過程で情報に生じるバイアスが体系性や意味であり、バイアスのかかっていない情報はホワイトノイズと同じように無意味である。あらゆる理解は同一視による情報の捨象と表裏一体であるがために、単一の理解によって元の現実を完全に表すことには無理がある。

元の現実を少しでも把握しようと、少しずつ判断基準を変えながら、何度も世界を割り直そうとし続けるのが、知的活動の本来の在り方に近いのだろう。その活動は、判断基準を元のままに留めようとする力と、変えていこうとする力の拮抗によって維持される。とても生命的なプロセスだ。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス

現実を理解しようとする知的活動がそうであるのと同じように、知的活動を理解しようとする知的活動もまた、そのような拮抗状態にあろうとするのだろう。

生まれつきの才能やジェンダーに限らず、「適性」という発想が、既にバランスの崩壊の前兆である。バランスが崩れること自体は、新たな平衡点への移動をもたらしてくれるが、特定の「適性」に固執し過ぎれば、「最適な状態」という一つの静的平衡へと壊死してしまう。様々な「適」が次々と現れ、止めどなくバランスが崩れ続けることによってのみ、動的平衡としての拮抗状態は維持されるはずだ。

2018-12-05

タコの心身問題

ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題」を読んだ。

少し距離をおいてmindというものを考えるのに、タコはちょうどよいのかもしれない。

神経系の自由度が増加することで、同じ刺激に対して示すことのできる反応の選択肢は指数関数的に増加する。それによって生じる刺激に対する反応の不確定性を、ベルクソンは主観性と関連付けた。

乖離してしまった刺激と反応の不確定な関係の中で繰り返される、判断できない状態と判断してしまった状態の間でのスイッチング。「不安」と「安心」と名付けられるであろう二つの状態の狭間で、「不安」に陥ることを可能な限り回避しようとするのは、複雑な神経系の上に現れる刺激と反応の乖離としての心の運命なのだろう。

あるいは遠心性コピーのように自己の内部において。
あるいはオクトポリスのように自他をまたぐように。
様々な形態のコミュニケーションを介して、心は「安心」を志向し続ける。

2018-12-03

モデルの自由度が増えるほど、同じ刺激に対して示すことのできる反応の種類は増える。

単純なモデルでは一対一に対応していた刺激と反応の関係が、複雑なモデルでは不確定になる。

一対一対応であれば選択の余地はなく、刺激とともに反応が即座に生じる。不確定性を帯びることで選択の余地が生じ、刺激の入力に対する反応の出力は遅延する。

その刺激と反応の乖離gapのことを、心と呼んでいるのだろう。
Mind is the gap.

2018-12-01

抽象的膠着状態

こだわりをもたないというこだわり」という抽象的膠着状態に陥っている過程のことを、生命と呼ぶのかもしれない。

そのこだわりをも捨て去り、さらに上の抽象性へと旅立つのは構わないが、それはつまり、生命であることをやめるということである。