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2024-08-21

松岡正剛

松岡正剛氏が亡くなったとのニュース。

  • 最初に読んだ著作は「知の編集工学」だったと思う。千夜千冊エディションは30冊目の「数学的」まで概ねすべて通読している。「情報の歴史」は旧版の増補版と新版を買った。
  • 博覧強記なのはもちろんのこと、一見別々のもの同士をつないでみせるところに憧れた。その逸れ方はアカデミズムからは敬遠される向きもあったと思うが、主語ではなく述語から、個体ではなく個体化から考えるために、つなぎかえの可能性、訂正可能性としての逸脱/再編があるのではないかと思う。
  • 拙宅の蔵書数が膨張しているのは紛れもなく氏の影響である。角川武蔵野ミュージアムにあるブックストリートの本の置き方に刺激を受け、水平な棚板が異なる高さに浮いているような本棚を設計・制作した。
  • 生きている間にどうしても一度会っておきたいと思い、2022年の間庵に参加した。初回で質問に応えて頂いたことと、次の回で短いながらご挨拶したことの二度だけだが、お話しする機会があった。挨拶のとき、上はヨウジ、下はイッセイという格好で、服装を褒めて頂いたことを妙に憶えている(あの日は三宅一生氏の訃報から間もない頃だった)。

2019-11-14

驚異と怪異

先月大阪に行った際、「驚異と怪異」展を観てきた。

西洋における驚異の概念が科学のルーツであるのに対し、東洋における怪異の概念は行政のツールである、というような話が面白かった。妥当な理由付けの欠如を補填するために創出される概念であるという点では、驚異も怪異も神様みたいなものであるが、設定の仕方に一神教と多神教の違いが現れているように思う。

民俗学博物館は常設展も充実していて見どころが多かった。全体として仮面が印象に残っている。




2019-09-29

photo book

10年ほど前は、フィルムで写真を撮ることも多かった。Zeiss Ikon Contax IIa、Contax T2、Hasselblad 500Cあたりを使っていた。久しぶりに当時撮った写真を見てみたら、一冊だけフォトブックとしてまとめてあった。おそらくZeiss Ikon Contax IIaにZeiss Opton Sonnar 50mm f1.5をつけて撮ったものだ。懐かしい。































2018-07-16

ETERNA

一枚ごとに完結しない、流れを持った写真。連作にすることなくそれを表現するのは難しいが、よいテーマかもしれない。

2018-07-13

Coastal Colonies

マッシモ・ヴィターリ写真展「Coastal Colonies」を観てきた。

大判カメラが捉えた海岸は、休暇を満喫しているであろう人々で溢れている。一枚一枚の写真はどれも大きく、解像度も高いので、それぞれのストーリィを想像してしまいたくなる。そういう意味では、ピーテル・ブリューゲルの絵に似たものを感じる。

自然と人工がせめぎ合っているかのように、海と空の青の間に人間や建物がおさまった構図が、とても海岸らしくて好きだ。


2017-05-29

長崎旅行2017

約三年振りに長崎へ行ってきた。

あまり足を伸ばす時間もないので、歩いていける範囲で
前回行けなかったところに行ってみた。
亀山社中記念館一帯、興福寺、日本二十六聖人記念館と
聖フィリッポ教会、諏訪神社。
途中、ニッキー・アースティンでトルコライスを食べ、
大和屋でコーヒー豆を買う。
最近、行く先々でコーヒー豆を買っている気がする。

16時前には見終わったのでもうホテルに行っても
よかったのだが、散歩をしに山手一帯へ。
松が枝のターミナルに豪華客船が寄港しており、
大浦天主堂のあたりは中国人が多かった。

五島うどんを食べてからホテルにチェックインし、
風呂に入ってAlphaGoの最終戦の動画でも見ながら
部屋飲みするかと思っていたら、友人からからあげと
餃子のいい店の情報をもらったので、ちょっと夜の街へ。
とり福で生中とからあげ、雲龍亭で生中と一口餃子だけ
注文して長崎の夜を堪能する。

前回とはまた少し違った長崎の旅になった。
市内を歩いているとき、ふとした瞬間に切り取られる
斜面に立つ家並みに長崎らしさを感じる。


2017-04-29

大英自然史博物館展

大英自然史博物館展に行ってきた。
行ったのは平日の午後だったので比較的人は少なく、
目的だったダーウィンの手稿と始祖鳥の化石も
じっくりと眺めることができた。

元になったヴンダーカンマーから博物館に至るまで、
動機としては空間的な隔たりを超えていろいろな
物を蒐集するところにある。
パサージュから百貨店、ショッピングモールへと
至る系列と異なるのは、時間に対する態度だろう。
博物館では時間的な背景が作り出すストーリィが
展示物の価値を生み出しているという意味では、
これらもダイアグラムの一種だとみなせる。
岩石の一部や手書きのメモにストーリィが付与される
ことで、それらは貴重な化石や手稿となり得る。
ストーリィを生み出す人間とストーリィを読み解く
人間の両方の高いリテラシーが、この博物館という
仕組みを支えているのである。

展示の最後にはデジタルライブラリー化の試みも
披露されていた。
ストーリィベースで価値が担保されるのであれば、
人間が移動することなく鑑賞できることにも
ある程度の利点はある。
しかし、展示品がダイアグラムであるからこそ、
それを物理的身体のセンサで直に知覚することで、
同時性や誤読可能性を伴いながら受容することも
大事なように思う。

2017-04-23

札幌

研究発表で札幌へ。前回札幌に来たのはまだドームができる前だったから、もう20年振りくらいか。

北海道は車がないと観光できる場所が限られる。そして、4月末の札幌は、まだ春というよりは冬の終わりに近い。あと一週間もすればいろいろ開くのだけど。

土曜日の朝は北大の植物園へ。温室しか開いていないようなので、近くだけ通りすぎて北海道庁の旧庁舎の方へ歩く。小雨が降っているのだけど、いろいろスケジュールを考えて、今日のうちにモエレ沼公園へ行くことにするが、その前にちょっと早いお昼で味の時計台に寄る。これを食べるとなんとなく札幌に来た感じがするのだ。電車に乗る前に時計台を見ると、20年前よりも観光地っぽくなっていた気がした。

環状通東駅では30分近くバスを待つことになったが、13時半過ぎにモエレ沼公園に到着。川沿いにアオサギやカラスは多いのだが、雨上がりのせいか人は全くいない。施設もほとんどは来週からのようだ。アスファルトに並んだミミズの死骸を避けながら、ガラスのピラミッドまで辿り着く。
鉄骨のトラスや張弦梁とガラスでできた覆いの下にいると、ベンヤミンのパサージュ論を思い出す。水晶宮は万博会場、パサージュは商店街であり、百貨店からショッピングモールへと至る系譜をなしており、いずれも空間的な隔たりを超えてあらゆる物を集積した場所である。モエレ沼公園は元々ゴミ処理場だったらしく、物の残骸が集積した場所の跡地だと思うと、ピラミッドという墓であるのと同じくらい、パサージュであることが妙に良いモチーフになっているように感じる。

札幌駅の近くまで戻り、一旦宿にチェックインした後、17時過ぎで少し早いのだけど、晩ごはんを食べに奥芝商店へ。17時半前に着いたのに30分くらい待ったが、ここのスープカレーはめちゃくちゃ旨かった。肉も野菜もヴォリュームがあり、かなりお腹いっぱいになる。大丸の地下で小樽ビールとサッポロクラシックを買い込んで宿で一杯、そして就寝。

日曜日は午前中に研究発表。初稿提出から発表まで半年以上かかるのは査読付きだから仕方ないが、arXivみたいな仕組みで回っている分野もあることを思うと、どうなのかとも思う。まあそのゆっくりさが建築にはあっているのかもしれないが。
発表後、北大の総合博物館に寄ってみると、展示内容がすごく充実していた。早足でしか見れなかったが、数時間かけて見られるレベルだ。キャンパスの中も自然が多いのはもちろんのこと、古い建物もたくさん残っていてよい雰囲気だった。

お昼は奥芝商店の隣りにある一粒庵にしようと思ったのだけど、日曜は休みだった。大通公園の方に歩く途中で久楽というラーメン屋を見つけたので入ってみる。やはり札幌は味噌ラーメンである。できればすみれにも行きたかったが、また次回。

大通駅から円山公園まで移動し、北海道神宮へお参り。神社と公園という組み合わせは氷川神社と大宮公園を思い出させ、どことなく懐かしい気持ちになる。公園内の桜はまだまだ咲いていないが、陽射しはもう春のそれである。円山動物園のあたりまで散歩して折り返してくると15時前。近くに森彦という木造民家を改装した喫茶店があるようなので
行ってみたが、案の定混んでいる。森の雫というオリジナルブレンドの豆だけ買って帰ってきたが、内観も外観もとても良い味を出していたので、今度は店内で飲みたい。

味噌ラーメン、スープカレーは食べたが、ジンギスカンを食べていないし、サッポロクラシックを生で飲んでないなと思い、少し早めに空港に行き、これらを達成する。大分満たされたのであとは帰るだけだ。
先週から読み始めた「カラマーゾフの兄弟」は、この旅で一巻を読み終え、二巻に突入した。ゴールデンウィーク中には読み終えたい。

2017-03-11

石巻

今日は石巻へ行ってきた。

設計に関わった物件が竣工して約1年になるが、
ちゃんと使われているようで安心する。
ちょうど明日で震災から丸6年になるので、
法要の準備をしている方にもお会いした。

近くにある情報交流館では、小学生が避難訓練に
併せて震災の学習をしていた。
低学年の子はちょうど震災の頃に生まれたはずだ。

夕方、震災前から建っている古い木造住宅をセルフ
ビルドで改装している現場に立ち寄ったとき、おなじみの
「新世界より」の第2楽章が流れる。
ドヴォルザークの感じた新世界。
貴志祐介やハクスリーが描いた新世界。
そのいずれとも違うが、震災後もまた一つの新世界である。
土地の嵩上げ、高台移転、堤防設置等、工事が進み、
以前とは少しずつ違ったかたちで景色が形成されていく。
同じ轍を踏んでもいけないし、過去と断絶するのも違う。
震災後の東北では4件ほど設計に関わったが、東北に
来るたびにその種の難しさを感じる。

p.s.
上野駅からの帰りに、そう言えばと思い立って
キャンパス内を通ると合格発表の掲示が残っていた。
もう12年も前のことである。

2017-03-06

高知

仕事で高知に行ったついでに観光してきた。

牧野富太郎植物園と高知駅で内藤廣の建築を目の当たりにしたのだが、内藤さんはやはりものづくりに対して正直だなという印象を受ける。鉄も木もRCも、必要であれば必要なところに使い、ディテールも力学や作り方がよくわかるように思う。こういうのは一歩ずれるとあたりがきつくなるいうか、疲れを感じさせる類の居心地の悪さをもってしまうものだが、2つとも地元の方にも親しまれているようでさすがだな、と。

展示はさっとしか見なかったのだが、牧野富太郎の植物画がものすごくきれいで印象的だった。中庭の感じや五台山から見渡す景色も心地よく、早くも咲き始めていた桜の花に微笑ましさを覚えた。



近くには堀部安嗣設計の納骨堂もあり、こちらも小振りながら端正な佇まいであった。


こういう建築が受け入れられる一方で、神林長平が言うところの〈田舎〉という装置も強くはたらいているらしく、建築のみならず、地方特有の難しさを感じる。人よりもモノが移動するようになる社会において、情報も移動することで、ある程度の流動性は保つ必要があるように思われる。

つまりはコンシステンシーの問題なのだが、論理学で言うところの一貫性の低さが、土質力学で言うところの流動性の高さを意味するというのはとても示唆的である。

2017-02-24

野沢温泉

10年振りに野沢温泉でスキーをした。

10年前に泊まった宿はまだあったけど、
10年前にはなかった北陸新幹線を使ったし、
10年前にはなかった里武士でビールを飲んだ。

街中もゲレンデも外国人が増えており、アジア圏よりも
欧米人の方が多いのが特徴的だ。発音から判断するに、
オーストラリアかニュージーランドあたりから来ている
のだと思われる。
東京から2時間くらいで着くし、スキーも温泉もお酒も
あるのだから魅力的なはずだ。
(でも、外湯は彼等には熱すぎるようで、もっとぬるい
ところはないのかと聞かれた)

そのうち、スキーやスノボもVRで体験するようになって
しまうのだろうか。それを言ったら、温泉やお酒だって
VR化することは可能であろう。
でも、そういうことではないのだ。
抽象化をしないままのその行為に耽りたいのである。
それが趣味というものだ。
An At a NOA 2017-01-24 “何かを抽象化する

2017-01-16

装幀

「すばらしい新世界」の新訳が出たのだが、
装幀が「ハーモニー」の文庫版ととても似ており、
好感がもてる。
どちらも水戸部功の作品のようだ。

スカイ・クロラシリーズの文庫版も同じように
シンプルで、個人的にはこういうものが好きである。
(こちらは松田行正+相馬敬徳)

たぶん、シンプルな装幀が好きというよりも、シンプルな
装幀とマッチした内容の本が好きなのだろう。
「ハーモニー」もスカイ・クロラシリーズも、
一時期アニメ化とタイアップした装幀が並んでいたが、
あれにはあまり食指が動かなかった。
S&Mシリーズの新装幀は好きなのだが、金額の問題
よりも置き場所に困るので、おそらく買い直さないだろう。

ブックカバーは長いこと使っていない。
表紙が傷んでしまうのはしょうがないが、それよりも
今読んでいる本に対する一つの書評としての表紙を
見ていたいのだ。

2016-11-28

スタジオカラー10周年記念展


スタジオカラー10周年記念展に行ってきた。

アニメ制作もデジタル化していく中で、こういった
「もの」の展示がいつまで効力を発揮するのかには
興味がある。

来場者に配られる冊子のインタヴューを読むと、
やはり手仕事として残っている部分はまだあって、
作り手としても残したい部分があるようだ。
これは、構造設計でも同じだろう。
どれだけ高性能なハードウェアやソフトウェアが
できたとしても、自分で設計するならRPN電卓と
スケッチ用の紙とペンは使いたい。
電卓も自分でアプリを作ったが、やはり物理ボタンが
あるのとないのとでは、速度と精度が圧倒的に違う。
視覚的には十分でも、触覚へのフィードバックが足りない。

フルデジタルで作られたアニメーションの制作過程を、
わざわざプリントアウトして「もの」にして、見る側を
物理的に集めて展示を行うことは、何か意味を持ち得る
だろうか。
デジタル空間でデータ配信を行い、各自がHMDをつけて
自宅で見るのでは得られない「何か」(それはつまり、
いわゆるアウラなのだろうが)は、それでもあるのだろうか。
現実を構成するためのコンセンサスの幅が狭いと言うので
あれば、それを補強することだってできる(ニコニコ動画は
コメント機能によって、それを行った)。
それでもそこにアウラを見るのであれば、それは知覚が
感覚に
なるときに織り込まれた情報によるものであり、
要するに思い込みだ。

より大きいコンセンサスへの希求としてのアウラは、
充足理由律と同根だろうか。

そう言えば、デジタル空間は何次元にみえるんだろう。

p.s.
表参道に行ったついでに、蔦珈琲店に立ち寄った。
旧山田守自邸を改装した建物のようで、庭がきれいだ。
そして、コーヒーがうまい。
また行こう。