2017-12-31

2017年

今年読んだ本。
  1. 意識に直接与えられたものについての試論
  2. 生命、エネルギー、進化
  3. すばらしい新世界
  4. 科学と神
  5. 人間機械論
  6. エントロピー再考
  7. エレホン
  8. 熱学思想の史的展開
  9. 言葉使い師
  10. 私たちは生きているのか?
  11. 時間の非実在性
  12. 読書について
  13. 未来のイヴ
  14. 進化論の射程
  15. 文化進化論
  16. 人はなぜ物語を求めるのか
  17. GA JAPAN 145
  18. 暴力と社会秩序
  19. ディザインズ
  20. ビットコインとブロックチェーンの思想
  21. サピエンス全史
  22. 情報社会の〈哲学〉
  23. ゲンロン0
  24. 科学とモデル
  25. 時の概念とエントロピーならびにプロバビリティ
  26. 思考の体系学
  27. 19世紀パリ時間旅行
  28. ダマシ×ダマシ
  29. ラインズ
  30. あなたの人生の物語
  31. 人間はなぜ歌うのか?
  32. 人間の未来
  33. 集合論入門
  34. 現代数学入門
  35. ネーターの定理
  36. ハイブリッド・リーディング
  37. 恣意性の神話
  38. ゲーデル
  39. 幼年期の終り
  40. 技術の道徳化
  41. 都市と星
  42. 人間の経済
  43. 青白く輝く月を見たか?
  44. 意識と本質
  45. ゲンロン5
  46. イメージの自然史
  47. 胎児の世界
  48. リズムの本質について
  49. 生命に部分はない
  50. 「ものづくり」の科学史
  51. 善悪の彼岸
  52. マッハとニーチェ
  53. 何を構造主義として認めるか
  54. 職業としての学問
  55. 神話と科学
  56. 社会思想の歴史
  57. 時間の比較社会学
  58. 現代社会の理論
  59. 共同体の基礎理論
  60. プロトコル
  61. 実在への殺到
  62. 食人の形而上学
  63. 建築における「日本的なもの」
  64. 改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』
  65. 身体のリアル
  66. 借りの哲学
  67. 日本の思想
  68. ピアノを弾く哲学者
  69. ペガサスの解は虚栄か?
  70. 政治的なものの概念
  71. 組織の限界
  72. 語るボルヘス
  73. 民主主義の内なる敵
  74. 多層的な類人猿
  75. 一四一七年、その一冊がすべてを変えた
  76. 日本の人類学
  77. 都市と野生の思考
  78. 遊びと人間
  79. ユートピア
  80. 脳の意識 機械の意識
  81. 日本問答
  82. 江戸の想像力
  83. 演劇とは何か
  84. 宇宙際Teichmüller理論
  85. 天文の世界史
  86. 日本人とリズム感
  87. 圏論
  88. 死刑 その哲学的考察
  89. コミュニケーション学講義
  90. 考える/分類する
今年観た映画。
  1. 屍者の帝国
  2. 沈黙
  3. 虐殺器官
  4. her
  5. 楽園追放
  6. メッセージ
  7. BLAME!
  8. ホドロフスキーのDUNE
  9. リアリティのダンス
  10. エンドレス・ポエトリー
  11. アバター
  12. ラ・ジュテ
列挙してみると、一年前は遥か以前のことに感じる。

判断基準の更新が滞ればあっという間に感じられるし、
判断基準の更新が著しければ長い時間に感じられるのか。
近代的な絶対時間との比較でしかないが、判断基準が
壊死しかけていないかの目安にはなるかもしれない。
年齢との相関はやはり多少はあるのだろう。

今年は仮想通貨とスマートスピーカが流行った。
これらはアナログなメディアとして「常識」になるのか、
一過性のデジタルなメッセージとして流れ去るのか。
将棋や囲碁では、AIの手に対する理由付けが頻繁に
行われるようになり、定石という「常識」へのAIの
影響は、もはや無視しできなくなったように感じる。

こういったことを、かつて通貨や言語が辿ったのと
同じような、デジタルがアナログになる過程として
振り返るのも面白いのではないかと思う。
それはつまり、人間の判断基準が更新された足跡を
みるということだ。
一年後の人間はどれだけ変化しているだろうか。

局所化

何かを判断するための判断基準について、地球規模で
共有することをグローバリゼーション、地域ごとに調整
可能にすることをローカリゼーションと呼ぶことを
踏まえると、近代以降の傾向は局所の大域化と呼ぶのが
妥当である。

しかし、それは西洋という局所から見たときの感覚で
あって、グローバリゼーションによって判断基準の変化を
余儀なくされる側からすれば、大域の局所化である。

さらに、「個人」がそうであるように、「局所」もまた、
何らかの判断基準を共有することで一つのものとして
認識されるのだとすれば、「地球規模で判断基準を共有
すること」は、局所化と言った方がしっくりくる。
果たしてそういった尺度は一意に存在するだろうか。
その尺度の一意性が成立する範囲のことを、個人と呼ぶのかもしれない。
An At a NOA 2016-10-04 “不気味の谷

2017-12-30

仲の良し悪し

仲の良し悪しというのは、判断基準のすり合わせが
できるかできないかの現れであるように思う。

元々判断基準が同じようであれば、仲が良いように
見えるだろうし、判断基準がずれていても、それを
すり合わせるためのコミュニケーションがとれる
関係は、仲が良いと言えるだろう。

逆に、仲が悪いというのは、ずれている判断基準を
すり合わせられないことであり、ずれの大きさや
すり合わせに掛けられる労力が関係することになる。

各々の判断基準は、仲の悪い相手以外の多くの人間
からも影響を受けながら変化しているのだから、
不仲には原因と言えるようなものはないのではないか
と思うが、一般的には、判断基準がすり合わせられて
いない判断の対象のことを「不仲の原因」と言うことが
多いように思われる。

2017-12-28

考える/分類する

ジョルジュ・ペレック「考える/分類する」を読んだ。

分類するには判断基準が必要になる。
判断基準を決めて分類すれば、一貫した分類になるが、
果たしてそれでよいのか。
考えることは判断基準の変化をもたらし、分類は完遂
されないか、完遂された途端に別の分類が始まる。
私は決して最後まで整理しつくしたことはなく、
まったくの無秩序よりは少しはましな仮のあいまいな
整理でやめてしまうことになる。
ジョルジュ・ペレック「考える/分類する」p.126
個人にとっての分類は、集団にとってのモードと同じ
ように、つくられ解体されることで個人を維持させる。
確定した理由を共有させてくれるものという点で、
公権力と同じ機能を果たすものである。

分類が終われば固定化し、分類が始まらなければ発散する。
その狭間で「考える/分類する」。
「分類するは人の常」
その業を甘んじて受け入れようということだ。
三中信宏「分類思考の世界」p.301
結局、私は自分を整理するのだ。
ジョルジュ・ペレック「考える/分類する」p.126

構造と射

構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
An At a NOA 2015-11-02 “構造
射morphismは、対象objectの構造を保つものであるが、
射という視点によって保たれるものが構造であるとも言える。

設計においては、構造を設定して射を探すよりも、射を設定
して構造を探す方が面白いように思う。

2017-12-27

バーチャルYoutuber

あんまりちゃんと見たことないけど、Youtuberの
面白さは、自分でやろうとしたら場所とか時間とか
お金の関係でハードルが高いものを実現してくれる
ところにあるのではないかと思う。

可能なものpossibleとして妄想だけはできるものを、
実在のものrealにしてくれる面白さというか。
送り手であるYoutuberも受け手である視聴者も
現実actualの空間にいるというのは、実写の写真や
映画と同じであり、場所、時間、お金などのactual
ならではの制約を解こうとする企画と相性がよい
ように感じる。

最近はバーチャルYoutuberというのが登場したようで、
そこでは送り手であるYoutuberがactualな存在から
virtualな存在になっている。
そうすると今度は、マンガやアニメ、ゲームと同じ
ように、actualな受け手が受け取れるものにするために
制約を設ける必要が出てくる。
人間のかたちをしていたり、まばたきをしたり、
動いてみたり、しゃべってみたり。
何でもありのvirtualをactualに近づけるには、Saya
同じように、制約を取り入れるしかない。

一方で、virtualにおいてactualを完全に再現することは、
技術的にはすごいかもしれないが、受け手の想像する
actualの幅を狭め、virtualである必要がなくなっていく。
容姿や声をデフォルメすることは、受け手の内部での
virtualからactualへの想像の余地を残すという意味で、
virtual独自の面白さを残すことになると思う。
(これは、actualからvirtualへの忘却関手をどのように
設定すればよいかという問題である)

それにしても、のじゃおじには笑った。
視覚情報vs聴覚情報&発話内容のアンバランスさ。
actualな中の人を想像しようとするたび、無遠慮に侵入
してくるvirtualな狐娘の姿。
virtualならではというか。
actualには真似できない面白さがある。

コミュニケーション学講義

ダニエル・ブーニュー「コミュニケーション学講義」を読んだ。

入力されるデータにはかたちがなく、ある判断基準に
基づいて解釈されることでかたちをもつようになる。
この抽象過程が「意味」や「情報」であり、実体として
よりも、プロセスとして捉えるのがよいように思う。

データは、抽象過程の判断基準に身を委ねるしかないが、
抽象過程を連ねて判断基準をすり合わせることで、何らかの
「意味」や「情報」を共有できるようになる。
その過程がすなわちコミュニケーションである。
送り手が為すのは「提案(proposer)」することであり、
受け手はそれを「自由に扱い(disposer)」、その提案の
働きを理解するフレームを与え、時には野蛮な解釈を
加えたりするのです。
ダニエル・ブーニュー「コミュニケーション学講義」p.68
私たちは自ら発したり受け取ったりする言葉を、スポンジや
ゴムを扱うように引っ張って変形させたり、自らの本質を
そこに注ぎ込んだり、自らの生命を与えたりします。
それが意味をなすということです。
同p.92
それ自体で価値ある情報あるいはノイズなるものは存在
せず、その価値はつねに、それぞれの人の固有世界が
いかに選択し受容するか、あるいは情報に対して身を
閉ざすかに左右されるのです。
同p.133

パースの記号論で言えば、判断基準は解釈項であり、
人間という抽象過程のうち、物理的身体による意味付けが
指標に、心理的身体による理由付けが象徴になる。
人間は意味付けや理由付けをしないではいられず、発話行為、
一次過程である意味付けは、発話内容、二次過程である理由
付けに対して常に先行する。
記号の帝国が自然的世界を二重化する―つまり文化一般を
含む記号圏が、自然、動物、植物を含む生命圏を「押さえ、
抱え込む(contenir)」わけです。
同p.47
何も言わずにいられるとしても、示さずにはいられないのです。
同p.82
文化は空虚を恐れるものであり、人間の精神は、説明や
満足させてくれる教えを欠いては生きていけません。
同p.116

共有された「意味」や「情報」のうち、固定化して前景化
しなくなった透明な部分がメディア、解釈項の違いによる
ズレの余地のある部分がメッセージとして機能する。
アナログとデジタルの話で言えば、メディアはアナログ
であり、メッセージはデジタルである。
メディアとメッセージの区別は、コミュニケーションを通じて
常に変化するはずだ。
デジタルメディアは人間にとってはメッセージであるが、
機械にとってはアナログであるし、未来の人間にとっても
アナログになる可能性はあるだろう。
一つの判断基準に固定化することで抽象過程の透明度は
増し、かつてのデジタルはいつかアナログとなる。
An At a NOA 2017-12-23 “アナログとデジタル

メディオロジーは圏論のように広く、それだけに面白い。

2017-12-26

死刑 その哲学的考察

萱野稔人「死刑 その哲学的考察」を読んだ。

遺族が死刑を望む感情も、人を殺してはいけないという
道徳意識も、物理的身体による意味付けのレベルの本能
的な判断であり、心理的身体による理由付けに基づく理性
的な判断だけによってその是非を語れるものではない。
個別案件についての定言命法的な判断基準は、「語り」と
「示し」の両方による直接のコミュニケーションを通じて
しか形成できないように思う。

一方で、直接のコミュニケーションを続けるには人間の
集団はあまりに大きくなりすぎている。
その状況で何とか間接的なコミュニケーションだけで
判断基準の共有を行おうとしていることの現れが、
「何が道徳なのか」「死刑は是か非か」ということを
理解しようとするプロセスなのだと思う。
自殺や安楽死を含む殺害が禁止されることについて、理由付け
によって「理解」することは難しいが、人間が理由を気にする
ことで特徴付けられるとすれば、理解しようとすること自体が、
この種のフィードバック機構が作動していることの現れの一部
なのだと思われる。
An At a NOA 2017-11-06 “殺してはいけない理由

理由付けによる理性的な判断は、意味付けによる本能的な
判断を遅延させる。
理由付けによって遅延された処理は、どこかで評価される
必要があるが、それを行うのが公権力の役目となる。
公権力は、直接コミュニケーションがとれない程に肥大化した
集団において、確定した判断基準を共有するための仕組みである。
そして、本来間接的なコミュニケーションだけでは確定できない
判断基準を確定させることは、常に冤罪となる可能性を伴う。
判断を遅延させた段階で、すなわち理性を介した段階で、
冤罪の可能性は既に発生している。

現行犯をその場で殺す代わりに裁判を経て死刑にすることや、
死刑にする代わりに終身刑にすることは、いずれも理由付け
による処理の遅延化であり、遅延評価をいつまで待てるかを
決めるのが処罰感情である。
遅延評価の先延ばしが少しずつ長期化していっているのは、
人間が長期的な視点で生きるようになったり、全体として
死ににくくなったことの現れだろうか。

「死刑は是か非か」という議論は、結論を急がずに続けていく
ことによって意味をもつのではないかと思うが、それもまた、
理由付けによる判断の遅延に次ぐ遅延である。
人類は限りなく延ばされた一瞬の中で、
それに対する答えを探り始めている。
An At a NOA 2015-10-23 “彼女は一人で歩くのか?

2017-12-25

圏論

ここ数日は圏論の本を読んでいる。

圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」
清水義夫「圏論による論理学」
スティーヴ・アウディ「圏論」

「比喩=関手」という理解
西郷甲矢人「すべての人に矢印を―圏論と教育をめぐる冒険」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第12章 p.205
ということを考えると、圏論に関するあらゆる説明が関手であり、いろいろな本の中で少しずつ違う表現で説明されている圏論を理解すること自体が、圏論的なんだろうなと思う。

身体で何かを認識するとか、頭で何かを理解するという抽象過程がそれぞれに関手であり、理由付けによる理解が意味付けによる認識と違うのは、ある関手による理解から別の関手による理解へと、自然変換によって移行できることなのだろうと思う。物理的身体による意味付けの関手圏では、ユクスキュルの環世界のように、元来備えているセンサの特性によって動物や機械が比較的孤立しているのに対し、心理的身体による理由付けの関手圏では、ステレオタイプによって頭が固くなっていなければ、関手同士をつなぐ自然変換が比較的多い、とか。さらに、その自然変換を米田の補題みたいなものでモノであるかのように捉えたものが意識と呼ばれる、とか。

余等化子Qとq: B→Qは、z: B→Zのうちの「常識」とか「慣習」とかに当たる部分で、uq=zという分解は、そういう透明にできる部分を括り出したものなのではないかと思う。
あらゆる対f(a)=g(a)を“同一視”することによって、余等化子q: B→QはBを“潰したもの”と考えることができる。
スティーヴ・アウディ「圏論」p.76
余極限とは、モノを集めて貼り合わせて対象を作る圏論的構成のことです。
春名太一「圏論と生物のネットワーク」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第15章 p.257
その双対である等化子Eとe: E→Aは、
問題の本質を定義として抽出したもの。定義によって「これが本質だ!」と看破することで、問題自身がほとんどそれで解けてしまう
[座談会]「「数学本流」にはなりたくない―今出川不純集会、三たび」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第16章 p.275
という「良い定義」に通ずるものがあるように思う。等化子がデジューレ・スタンダードだとすれば、余等化子はデファクト・スタンダード?

なんだか思いつきで適当なことを書いているように思うが、圏論の説明の関手圏を覗くのは楽しいので、いろいろな説明を読んでみようと思う。

2017-12-23

アナログとデジタル

デジタルはアナログに比べると離散的であり、
それはある規則に従って元の情報を別の記号で
置換することで達成される。
デジタイズとは、情報を記号によって置換する
過程である。

置換後の情報が置換前の情報に対する真の
部分空間となっていれば、一部の情報は欠落
するものの、情報処理の負荷が下がる。
このときの部分空間への縮退が、情報の離散
的な状態を生んでおり、離散化された情報で
元の情報をうまく表現するには、規則の設定が
重要になる。

言語、音階、暦、貨幣、UTF-8、24bitカラーなど、
身の回りはデジタイズされた情報にあふれているが、
何らかの判断基準に基づいて「同一視」する過程が
デジタイズだとすると、認識や理解を含むあらゆる
抽象過程がデジタイズだということになってしまう。

デジタイズを特徴付けるものがあるとすれば、
ひとつには離散度の高さだろう。
アナログとデジタルの違いって
解像度の違いのことでしょ?
An At a NOA 2015-07-15 “A/D
当該抽象過程によって、より集約された情報で元の
情報を表現できるようになるのが、デジタイズである。
ただし、その閾値は曖昧である。

もうひとつには、その抽象過程が意識的なものである
ことだと思われる。
つまり、物理的身体による意味付けでなく心理的身体
による理由付けであり、堅実的短絡でなく投機的短絡
であり、ある種の飛躍や逸脱を含むということだ。
物理的身体にハードコードされた無意識的な抽象過程は、
デジタイズとして意識されない透明な抽象過程であり、
アナロジーという判断基準に基づくアナログな抽象過程
として分類される。

離散度の高さと意識による飛躍の二つがデジタイズの
要件だとすれば、後者によって、アナログとデジタルの
境界は判断基準の固定度にしたがって揺らぐ。
一つの判断基準に固定化することで抽象過程の透明度は
増し、かつてのデジタルはいつかアナログとなる。
それは大いなる常識へと壊死することだと言える。
近代的ユートピアの果てにあるディストピアにおいては、
あらゆるものがアナログになっているだろう。

p.s.
「アナログかデジタルか」という抽象過程についての抽象は
デジタイズである。
ただし、ステレオタイプによってかなりアナログ化している
ように思う。

2017-12-21

日本人とリズム感

樋口桂子「日本人とリズム感」を読んだ。

稲作の作業で息を合わせるために、個を同質化するように
培われてきた日本のリズムは、音楽や舞踏だけでなく、
言語や所作、絵画など、文化の至るところに根付いている。
上へ外へと向かい、円を描くような粘りのある連続性をもつ
西洋近代のリズムに対し、日本のリズムは下へ内へと向かい、
そこには表と裏の断絶がある。

分離した表と裏は、「コソアド」の「ソ」の場によって繋がれる。
「コ」と「ア」がそれぞれの主観の中の場であるのに対して、
「ソ」は「コ」と「ア」の間にあるのではなく、主観同士を繋ぐ
別の場として現れ、日本特有のリズム感をつくる。
「ソ」の働きは、切り取るとともにその間をつなぐ、
独特の時の意識をつくっていった。
樋口桂子「日本人とリズム感」p.278
歌舞伎の花道や日本絵画の中景にみられる「ソ」のイメージは、
表と裏をつなぎながら、そのどちらでもない「移し」の場所であり、
「もの」と「こと」を使い分ける感覚や「なつかし」という感情を
醸成してきた。

良い悪いというのは、ある判断基準に照らして合致するか否か
でしかないから、リズム感が悪いというのも、西洋近代の
連続的なリズム観という判断基準を前提してのことである。

「ソ」の文化のリズムもまた、これはこれで面白いものである。

2017-12-20

天文の世界史

廣瀬匠「天文の世界史」を読んだ。

「天文」という言葉には「天からのメッセージ」
という意味合いがあります。
廣瀬匠「天文の世界史」p.151
何事にも理由を付けないではいられない人間は、天から
やってくる情報にも理由付けしてきた。
冬至を境に復活する太陽のお祝いがクリスマスになり、
土星・木星・火星・太陽・金星・水星・月が24 mod 7 = 3
から月火水木金土日の曜日順になる。

理由付けであるからには、唯一真なる理由は存在しないと
思われ、「正しい天文学」というのは、広く共有されている
というくらいの意味でしかない。
宇宙の空間と時空を巡る思索の歴史は、人類の理解を
超えた現象にとりあえずの「説明」を用意してから、
理解が追いついたときにそれを書き換えるということの
繰り返しであった
同p.234
その繰り返しの果てに「「宇宙の説明」の最終形」にたどり
着くことがあるとしたら、それは意識の天文に対する興味が
なくなるときだろう。
「はじめに」で書かれているように、「問い」をつないでいく
ことで、天からやってくる情報への理由付けを続けるのが
面白いのだろうと思う。

2017-12-19

宇宙際Teichmüller理論

宇宙際Teichmüller理論を使ったABC予想に関する論文が査読を通ったというニュースを見て、星裕一郎「宇宙際Teichmüller理論入門」を読んでみた。

相当噛み砕かれたていねいな解説を読んで連想したのは、異なる世界観間での意思疎通についてだ。

東洋哲学と西洋哲学、仏教とキリスト教、父権制と母権制、日本神話とギリシャ神話、日本語と英語、理系と文系、あるいは自分と他人。それぞれがもっている判断基準(環構造)が必ずしも完全には一致しない場合には、コミュニケーション(リンク)の際に、解釈、翻案、翻訳、言語化といった、不定性の導入による剛性低下が生じることになるが、翻訳や言語化(不定性の管理)が適切であれば、エタール的部分(シニフィアン?、象徴界?)の間の関連付けのみからFrobenius的部分(シニフィエ?、現実界?)の間の関連付けを導くことができる。

つまり、他人がどのような情報を受け取って、それをどのように抽象しているのかを知ることができなくても、「so-ra-ga-a-o-i-ne」という聴覚情報を介して、ちょっとした誤差の範囲内で、空の青さを見ている感じを伝えることができる、というような。いわゆるクオリアというのは、エタール的部分として符号化することができないFrobenius的部分を、あえてエタール的部分であるかのように表現したものだと言えるだろうか。人間がみな同じようなクオリアを共有しているという仮定は、エタール的出力とFrobenius的対象の間のKummer同型に通ずるものがある。

復元が上手くいくあたりが面白いと思うのだが、細かいところはあまり理解できていない。「数でなく関数の特殊値として扱う」とか「Hodge劇場」のあたりは充足理由律と関係があるだろうか。あるいは充足理由律が多輻的アルゴリズムに相当するのだろうか。

全く的外れなことを書いている可能性も高いが、どうだろう。望月新一氏、星裕一郎氏、数学者、一般人というのもまた、異なる世界観をもつ人間同士であるから、宇宙際Teichmüller理論の「理解」を共有できるかということ自体が、この理論の対象になっているようにも思う。

2017-12-18

トイレ

冷凍用トイレ
れいとうようといれ

2017-12-12

演劇とは何か

鈴木忠志「演劇とは何か」を読んだ。

人間には、フィクションとしての共同性をもたなければ
生きていけない部分と孤人的な部分があり、その関係を
見すえた上で個人になるために表現行為や創造活動を
しているのが集団作業としての演劇なのです。
鈴木忠志「演劇とは何か」p.111
集団において共有されてきたものは、言語、習慣、常識、
「型」、「形」などの判断基準として析出する。
それが固定化して集団が壊死することを防ぐには何らかの
エラーを導入する必要があるが、歴史性を免れたエラーの
導入は集団を瓦解させる。
笑い遊びが固定化と発散の間でバランスを取ろうとする
衝動であるのと同じように、演劇を含む芸術全般もまた、
これまでの関係を踏まえた上で新しい関係を築く行為である
ことによって、更新される秩序としての集団を駆動する。

観客が「信仰を等しくせざる者」として異質な判断基準を
もたらしながら、共有されてきた判断基準が同質なものに
収斂しないように、俳優が「舞台的身体感覚を遊ぶ」。
それぞれの身体がコミュニケーションする場所からも情報を
受け取りながら関係を更新するプロセスである演劇もまた、
生命的なるものである。
演劇とは観客と俳優との間で起こるもの、というより
観客と俳優とが同時に共存する場で起こるもの=作品だと。
同p.55

2017-12-11

江戸の想像力

田中優子「江戸の想像力」を読んだ。

近世とは、地球的規模の流動が起こりながらも、世界はまだ
均質化していなかった時代のことである。
田中優子「江戸の想像力」p.242
近代的な局所の大域化による固定化への収斂が始まる以前、
壊死と瓦解のあわいで秩序の更新が維持されていた近世。
その完成することのない生命的な過程を支えていたのは、
本物と偽物、善なるものと悪なるもの、知と愚、といった
あらゆるものを相対化する方法としての「連」、「列挙」、
「俳諧化」であり、笑い遊びにも通ずるものである。
俳諧化とは、このような相対化のくり返し運動の側面を
もちつつ、相手を徹底的にほぐし、その顎を解き、あるいは
滑稽化することによって批評する方法なのである。
つまりは、笑うことによって動き続ける方法なのだ。
同p.71
それらは投機的短絡の最たるものであり、理由付け機構
としての意識を意識たらしめるものだと思われる。
日常の言葉には還元できず、説明の言葉にも乗ることを得ず、
しかも不可解を不可解のままでおくことはできない人間の
性癖があるとすれば、シンボリックな言葉をもって世界
(人間をも含む)を物語る、という行動は、人間の普遍的な
問題として考える必要がある。
p.174
平賀源内と上田秋成に代表される両極を軸にした動的な
秩序は、マスメディアのようなクライアントサーバ型の
通信方式が発達し、大きな物語を共有できるようになる
につれて、より静的な秩序である近代へと移行する。
近代にはつながらなかったものも近世にはあふれていた
はずであり、それを捉えるには、近代的なチェイン構造
ではなく、ツリー構造やネットワーク構造として歴史を
想定する必要があるのだろう。

物理的なレベルまでP2P型であるような通信方式が大域的に
展開されたとき、近代的な個人に代わって、空っぽの器で
あった源内のような近世的な個人が現れ、Post-truthの時代を
担うことになるだろうか。
近代的なユートピアは必然的にディストピアへと収斂
するが、果たして近世的な個人は壊死も瓦解もしない
近世的なユートピアを想像/創造できるだろうか。

2017-12-09

ラ・ジュテ

クリス・マルケル「ラ・ジュテ」を観た。

自分が死ぬことを知ったのはいつだっただろうか。
あるいは、時間が一方向に流れることを知ったのは
いつだっただろうか。
自らが死ぬ瞬間と女の顔を同時に見た男と同じように、
もしかするとその二つは同じ頃だったのかもしれない。
そして、その瞬間から意識が始まったのかもしれない。
収容所からの追手に気づいたとき、男は悟った。
時間からは逃れることはできない。
子供の頃に目にしたときから、ずっと取り付いていた
イメージは、自分の死の瞬間だったのだと。
クリス・マルケル「ラ・ジュテ」
地上と地下が分断された状況は、物理的身体と心理的身体が
分離したデカルト的世界観を思わせ、過去と未来を行き来
しようとする科学者は、媒介変数としての時間を彷彿とさせる。
近代以降の媒介変数としての時間に支配された世界において、
エントロピーとしての時間である女を求める男。
彼は意識そのものであるように思う。

科学者と女は、無慈悲に流れ去る時間と永遠に続く時間の対比
でありながら、その実、
Verweile doch, du bist so schön!
Johann Wolfgang von Goethe “Faust”
という言葉によってとどめられた女こそが、個々の意識に特有な
ものとなって、媒介変数へと還元されない不可逆性を生んでおり、
エントロピーとしての時間に繋がっている。
人間は、記憶を思い出としてとどめるからこそ生きているのであり、
またその故に死ぬのである。
思い出とは、色のついた記憶である。
An At a NOA 2017-12-04 “エンドレス・ポエトリー

可逆な時間から逃れ、不可逆な時間を求めた末に、男は女の
目の前で収容所の追手に殺される。
これは、不可逆な時間の末に死に至ることの暗示だろうか。
それとも、可逆な時間の末に意識が消え去ることの暗示だろうか。
「さよなら、わたし。
 さよなら、たましい。
 もう二度と会うことはないでしょう」
伊藤計劃「ハーモニー」p.363

2017-12-08

北斎とジャポニスム

西洋美術館の「北斎とジャポニスム」展を見てきた。

色の境界に着目したとき、北斎の絵には線があるのに対し、
西洋の画家の絵には線がない。
それは版画と油絵という表現方法の違いによるものなのかも
しれないが、それぞれの画法が発展したことも含めて、
日本には線画の、フランスには面画の文化があるように思う。
これは、木材を使った軸組構造と石材を使った組積構造の違いと
関係あるだろうか。
あるいは、海岸線という明瞭な境界に囲われた島国と、山や川が
曖昧な境界となる欧州大陸の違いと関係あるだろうか。
いずれにせよ、モチーフを北斎から拝借しつつも、表現スタイルは
それほど侵食されなかったという印象を受けた。

スタイルは物理的身体のように変化しづらく、モチーフは心理的身体
のように移ろいやすい。
ここにも、物理的身体への異なる心理的身体のインストールという
アイデンティティの問題があるように思う。

2017-12-07

アバター

ジェームズ・キャメロン「アバター」を観た。

下半身不随の肉体、地球人とナヴィのDNAを掛け合わせた
アバター、AMPスーツ、パリー、イクラン、トゥルーク、
あるいは身体に描かれた文様。
物理的身体が変化する中で、アイデンティティはどのような
影響を受けるかというのが、この映画の大きなテーマだと思う。

近代以降の世界において、アイデンティティを決めるのは
心理的身体であり、物理的身体は心理的身体が使用するために
拡張されるものという認識が強かった。
しかし、インターネット、臓器移植、VRなどの発展とともに、
個の特定の仕方に対する物理的身体の影響が再認識される
可能性は十分に出てきている。

3D映画という表現方法もまた、アイデンティティについての
認識を改める可能性を秘めているように思うが、2D映画と同じ
画作りでよいのかということは考えてしまう。
第四の壁の向こう側に奥行きができたとき、壁のこちら側にある
映画館という空間は何なのか、大勢で観ているとはどういうこと
なのか、この視点は誰のものなのか。
「観るのではない。そこにいるのだ。」というキャッチコピー
どおりの表現ができたとき、近代的な複製技術としての芸術とは
別の芸術が出来上がるように思う。

2017-12-06

物語の摂取

Mastering Chess and Shogi by Self-Play with a General Reinforcement Learning Algorithm

StockfishやElmoとAlphaZeroのイロレーティングを比較したグラフを
見ると、Elmoの方はAlphaZeroが一割程度上回っているのに対し、
Stockfishの方は両者のレーティングがほぼ同じ値である。
チェスにおける理由付けはほとんど大域的最適化ができているという
ことかもしれない。

StockfishやElmoのような、評価関数を利用するアルゴリズムと違い、
深層学習という理由が顕にならないアルゴリズムは、「理解」せずに
「マスター」することを可能にした。
そこは、無意識や自然と同じ、理由なき世界である。

一方で、人間は、理由という物語に飢えている。
囲碁も将棋も運転もコーヒーを淹れるのも、どれだけ性能のよい
機械が出てきたとしても、人間がやったということ自体が価値を
もつことがあるのは、その情報を受け取るのが人間だからだろう。
感覚には、味覚、嗅覚、視覚等の五感センサの処理結果
だけでなく、豆の産地や誰が淹れたかといった情報も
まとめて抽象できる。
その結果、AIが淹れたものよりも人間が淹れたものの方が
美味しいと「感じられる」ことはあり得る。

それでよいのだ。
An At a NOA 2016-11-20 “知覚と感覚"
たとえ他人という外部を介したものであっても、理由付け機構の
下にあるという理由付けが、理由付け機構である意識にとっては
価値をもつ。

「理解」とは、物語を摂取するプロセスであり、すべてが一意的に
理由付けされることもなく、理由付けが放棄されることもない状態
でのみ作動している。
意識というのは、常に現在に対して不満を覚える必要があって、
完全に満足した現在を認識したら、意識はその役目を終えて
消え去ることができるのではないかと思う。
An At a NOA 2017-05-19 “不安な個人、立ちすくむ国家
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続” 
この記事自体もまた、 一つの「理解」である。

2017-12-04

エンドレス・ポエトリー

アレハンドロ・ホドロフスキー「エンドレス・ポエトリー」を観た。

思い出とは、色のついた記憶である。
その色は、色彩であり、脚色である。
思い出すたびに、思い出は理由付けされることで補強される。
An At a NOA 2016-10-01 “思い出
「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」
森博嗣「すべてがFになる」p.289
情報を送受信するたびに更新される記憶が思い出になる過程において、
どのような色がつけられるかが、個を特定するよすがとなる。
彩りの与え方には他人や時代、場所といった外部の影響も含まれるが、
それと同時に自らによる彩りも含まれる。
その相互作用の中にあることが生きることであり、外部からの一方的な
彩りに身を任せるとしたら、それはもはや死んだも同然である。

たとえこの世が無常であり、すべてが忘却されるとしても、生と死の
葛藤の中で、自ら発光する蝶であれ。
お前は一匹の蝶になる、自ら発光する蝶に。
アレハンドロ・ホドロフスキー「エンドレス・ポエトリー」

2017-11-30

不特定の通信者

食品や衣服のように、強奪したものをそのまま利用するので
あれば、交換制度そのものの否定という理解ができるが、
貨幣という交換されることで価値をもつものを、強奪という交換を
否定する方法で手に入れることが横行するのはなぜだろうか。
そこには交換の肯定と否定のダブルスタンダードがある。

このダブルスタンダードを可能にしているのは、文明化によって
個の特定と判断基準の共有が分離されたことである。
通信手段が変化し、コミュニケーションの同時性や同地性が
必須条件でなくなると、見知らぬ相手との判断基準の共有が
可能になり、文明が生まれたと考えられる。
An At a NOA 2017-11-12 “日本の人類学
コミュニケーションの送信時と受信時で別の個体として振る舞える
ことが、貨幣という交換制度を瓦解させることなく逸脱できる状況を
生み出す。
ネット上で横行する匿名による罵詈雑言も、不特定化された個に
よって行われるいびつな交換という点で、貨幣の強奪と同じである。

文明人は、不特定の通信者unspecified communicatorである。
不特定多数の中における特定が恐れられる原因が、不特定の通信者
からいびつな交換を迫られることにあるのであれば、特定ではなく
不特定をやめるという「文明的でない」解法もあるように思うが、
文明人には受け入れがたいだろうか。

好感度

好感度というのは、愛だろうか、恋だろうか。
恋が配偶者選択における特徴抽出アルゴリズムである
のに対し、愛は「あちら」だったものを「こちら」と
して引き受ける、「こちら」の拡張である。
An At a NOA 2017-06-02 “青春の影
いずれにせよ、各人の物理的身体や心理的身体のセンサに
適合させられる入力情報が、好感度が高いのだと思われる。

デフォルメされた情報は、抽象から具象を再構成するときに
各人が各々の好みに合わせられるために、近くて遠いことで
現れる不気味の谷を回避できる上に、好感度も高められる
ということなのではないかと思う。
圧縮と伸長の過程に補完という自由度を含める手法は、
デフォルメと呼べるものである。
An At a NOA 2017-02-13 “言葉使い師
距離空間の取り方によらず、何らかの尺度で近い
のに遠く感じられるものは不気味になり得る。
An At a NOA 2017-07-14 “不気味
もっとも、これが上手くいくためには高いリテラシーが
必要とされるはずだ。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学” 

2017-11-29

趣と面白さ

国も里も故郷も両親も面影になる。大事な「おもむき」は
みんな面影になりえたんだと思う。それが「おもしろし」
ということだったんだと思います。
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.101
「面白し」というのも、面貌が白いというのではなく、
目の前がふわっとあかるくなるという意味ですよね。
同p.101
笑い遊びと同じように、「趣」や「面白さ」もまた、
記憶に支えられている。
記憶とは、意味付けや理由付けをするたびに更新される
物理的身体と心理的身体の抽象特性である。
どちらかと言えば、趣は物理的身体の影響を、面白さは
心理的身体の記憶の影響を大きく受けるように思うが、
もちろん両者の影響はない交ぜになっているだろう。

記憶が固定化も発散もせず、二つの身体が生命らしく
壊死と瓦解の間で抽象している状態が、趣や面白さに
つながるのだと思われる。

記憶は、狭いよりも広く、堅いよりも柔らかくした方が、
より多くの趣や面白さを感じられるはずだ。

2017-11-28

日本問答

田中優子、松岡正剛「日本問答」を読んだ。

複数の視点をもつという意味では、ダブルスタンダードはむしろ歓迎されるべきことである。
An At a NOA 2017-08-02 “ダブルスタンダード
で言いたかったのは、この対談で出てくるデュアルスタンダードのことだったのだなと考えながら読んでいた。

ダブルとデュアルの違いは複数の視点の現れ方にあり、ダブルでは一つずつの視点が交互に切り替わっていくのに対し、デュアルでは複数の視点が同時に重ね合わされる。要素や主語に着目して一真教的に静的な秩序に向かうのではなく、方法や述語といった消化と再構成の過程を通して、和合してさえいれば一枚岩でなくてもよいような、循環プロセスとしての動的な秩序を維持しようとする。外と内、表と裏、真と仮、男と女、漢と和、天皇と将軍、儒と仏、神とほとけ、政治と祭祀、顕事と隠事、ウツとウツツといった要素を区別することではなく、その「あいだ」を行き来する「うつろい」に重きをおき、要素自体を残すのではなく、「しきたり」や「ならわし」として例示された方法を「仕似せる」ことで、「おもかげ」を残しながら動的秩序は受け継がれていく。
「つぎつぎ・に・なりゆく・いきほひ」
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.35
たったひとつの普遍は必要ないし、むしろ普遍の内部から多様性で押し返すことが必要で、デュアルな日本はそのほうが得意なはずじゃないかと思うんですね。
同p.38
「善悪」を静的で固定的な理念として理解するか、それとも過剰と制御という動的な操作として理解するか、と考えた場合、どちらが日本の善悪概念を説明できるかといえば後者である。
同p.341
悪とは過剰なエネルギーの噴出のことであって、善とはその制御のことである。
同p.341
遊び、「見立て」、「やつし」、「うつろい」、「ゆ」、「間」といったものは、
日本の「間」というのは、AとBを離してつくるのではなく、詰めて詰めていって、それでもあいだがあくもの
同p.267
であることによって、静的な秩序への固定化による壊死を防ぐと同時に、発散による瓦解も防いでおり、「日本という方法」を「更新される秩序=生命的なもの」たらしめている。

そもそもこうした秩序の形成は、静的であるか動的であるかに関わらず、コミュニケーションの上で行われる。
ものと言葉と情報が「しくみ」をつくっている。
同p.77
同時代以外の記憶に出会うには、やはり本を読むということが大きかったですね
同p.308
記憶というのは再生と一対になるから記憶なんです
同p.323
「順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してコンセンサスが更新されるプロセス」としてリアリティが捉えられるのであれば、日本人にとっての「おおもと」が西洋のリアルほど確固たるものでなくても何の不思議もない。
リアリティとは、順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してモデルが調整されながら、コンセンサスがその都度確認されるプロセスである。
An At a NOA 2017-11-28 “リアリティのダンス
むしろ松岡正剛が言うように、
面影はおぼつかないから情報的に強靭になるんです。
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.98
というレジリエンシーの意味で強い「もどき」の方が日本人的なのだ。

会話、質問、本、音楽、その他もろもろのコミュニケーションを通して、好奇心をもって問い、それに答/応えることによって、ズレを伝播しながら治まるところに治まっていく。その過程として現れる「おおもと」を、壊死も瓦解もさせないように続けていくのがよいのだろう。
質問に対する答え方を通して、相手の人格も見ている。
同p.273
日本人の編集力の秘密は聞き上手にあったか。
同p.273

リアリティのダンス

アレハンドロ・ホドロフスキー「リアリティのダンス」を観た。

思い出す、夢見るという行為は、記憶となった過去を現在へと
再投影することであり、一種のバックプロパゲーションである。

一次視覚野から高次視覚野への順伝播によってモデル=記憶=過去が
形成されるとともに、高次視覚野から一次視覚野への逆伝播によって
モデルと入力の誤差が確認され、モデルが調整される。
このプロセスは、何かを視認するときに常に起こっているものだが、
同じことが過去と現在の間や、ある人間と別の人間の間といった、
コミュニケーションが成立するあらゆる場所で起こっているように思う。

リアリティとは、順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してモデルが
調整されながら、コンセンサスがその都度確認されるプロセスである。
現実は、コンセンサスが得られることによって立ち上がる。
コンセンサスが得られている様を現実と呼んでもいいくらいだ。
An At a NOA 2016-11-28 “現実

この映画はホドロフスキーが提示する一つのモデルであり、それが
フィクションなのかノンフィクションなのかということはあまり
問題ではないように思う。
ホドロフスキーの記憶、今のホドロフスキー、ホドロフスキーの家族、
映画を作った人間、映画を観た人間といった様々なもの同士の
コミュニケーションの中で、色鮮やかに提示された一つのモデルが
軸となって生じる躍動が、リアリティのダンスなのではないか。

2017-11-26

ホドロフスキーのDUNE

ドキュメンタリー映画「ホドロフスキーのDUNE」を観た。

Movies have heart. Boom-boom-boom.
Have mind. Have power. Have ambition.
I wanted to do something like that.
Why not?
"Jodorowsky's Dune"
という言葉に続く間が印象的だった。

これは、ホドロフスキー版「デューン」の偉人伝である。
「デューン」そのものを観ることはできないが、関わった
人間が語る言葉や、絵コンテを見た人間が発表する作品の中に、
まさしく「デューン」の面影と言えるものが残っている。
"Dune" is like Paul.
[...]
The film was killed.
But you know you can hear in some films.
I'm "Dune". I'm "Dune". I'm "Dune".
"Jodorowsky's Dune"
公開されて影響を与えたという意味で「生前に名を成した映画」は
多いが、ホドロフスキー版「デューン」は「死後に名を成した映画」
という稀有な存在だと言えるだろう。

脳の意識 機械の意識

渡辺正峰「脳の意識 機械の意識」を読んだ。

「意識とは何か」についての議論は、人類史上最も関心を集め、
これからも集め続けると思うが、その答えが人間の物理的身体の
内側、特に脳に求められるようになったのは、近代から続いている
時代の特徴だと言えるだろう。

近代的な考え方は、部分に分解したものを理由付けによって全体へと
再結合する「理解」というプロセスを重視し、理由付けの仕方には
唯一真なるもの(=真理)が存在することを仮定するという点で、
一真教的である。
集団は個人へと分解され、個人の肉体は器官へと分解され、器官は
細胞へと分解され、細胞は原子や電子へと分解される。
その一方で、要素還元主義というゲシュタルト崩壊を免れるために
理由付けが施される。

ニューロン活動と体験の連動の計測、NCCの探求による因果性の証明、
情報の二相理論、統合情報理論、生成モデルといった理論の提示、
というのも「理解」のプロセスであり、それが進行している様子の
描写は、読んでいてとても面白い。
情報自体ではなく、情報を抽象する過程である神経アルゴリズムに
意識をみるという生成モデルの話は、個人的にも賛成できるものだ。
意識が抽象過程であるならば、それが実装されるハードウェアは、
脳であろうが機械であろうが、何でもよいことになる。
可視光、可聴域、形状認識、応答速度といったハードウェア特性の
影響は存在するが、それはいくらでも人間の脳に近づけられるはずだ。
人間と全く同じ特性を有するセンサの塊は、たとえその
ハードウェアが炭素ベースでなかったとしても、あるいは
ハードウェア自体が存在しなかったとしても、人間である
ことは可能だろうか。
それは結局、人間というカテゴリについてどのような物語、
理由付けが共有されるかの問題だと思われる。
An At a NOA 2017-10-19 “ペガサスの解は虚栄か?

しかし、意識が抽象過程であるからこそ、「我」や「意識」といった
何かが存在するという表現には違和感を覚える。
むしろ、意識はニューロンなどの物理的なものに支えられながら、
その都度成立するものであり、「半透明の正方形」と同じなのでは
ないかと思う。
さらには、ニューロンの上に実装された神経回路網における抽象
だけでなく、人間の個体同士の通信網における抽象もなければ、
我も彼も意識は意識として意識されないと思われ、言葉や道具を
用いた個体間の通信は、外部化した生成モデルとみなせるのでは
ないかということを考えてしまう。

あらゆる抽象過程には「何を同じとみなすか」の判断基準があり、
理由付けにおいては理由がそれにあたる。
チューリングテストのような意識を判別するための理由や、生成
モデルのような意識の理論を共有しようとするところが、まさに
意識らしさが外部に現れたものであり、「意識とは理由付けである」
という理由付けすらできるのではないかと思う。
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続
そして、意識の問題が個体の内外に渡るからこそ、意識を移植したり
人工意識を実装したりする上での一番の困難は、肉体や筐体の内側
ではなく、外側にあるように思う。
大航海時代における邂逅からマーチン・ルーサー・キング・ジュニアを
経てバラク・オバマの大統領就任に至るまで、徐々に人種差別が緩和
されてきているのと同じように、意識のカテゴリの緩和もまた、
数世紀をかけて行われるのではないかと思う。
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、
いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに
なると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “
奴隷や黒人が人間として抽象されないことが主流な時代があり、
今でも、多かれ少なかれ、自分とは異なるようにみえる存在を
自らと同じカテゴリに入れようとしない傾向はある。
その傾向は消えることなく、同一性の基準の更新はせめぎ合い
ながら緩やかに進行していくと考えられる。
An At a NOA 2017-09-22 “何かであるということ

いろは

 11

12
1ニ
1モ
^
y_

2017-11-24

ユートピア

トマス・モア「ユートピア」を読んだ。

一つの視点だけで「よい」ものを定めることは難しい。
ラファエル・ヒスロデイがユートピアをよいものとして
語れるのは、彼が(つまりは著者自身が)ヨーロッパ
という比較対象をもつからである。

それに対してユートピア人は、あえて視点を固定し、
近代以上に大きな物語を共有することで、静的な秩序に
向かうことを「よし」としているようにみえる。
それは、飢餓や病気からの快復による快楽にも増して、
健康こそは至上の快楽である
トマス・モア「ユートピア」p.121
という快楽観にも表れている。

あらゆるものが「よい」状態に落ち着くことができる社会
において、意識が実装され続けることはあるのだろうか。
意識というのは、常に現在に対して不満を覚える必要があって、
完全に満足した現在を認識したら、意識はその役目を終えて
消え去ることができるのではないかと思う。
An At a NOA 2017-05-19 “不安な個人、立ちすくむ国家
壊死しつつある静的な秩序は生命らしさを失うと思われるが、
意識を維持するために発散を許すことと、何かしらの視点で
「よい」ものになるために意識を手放すことと、どちらが
「よい」だろうか。

トマス・モア自身、ヒスロデイに向けて、あるいはエラスムス
に向けて、
私は、別の機会をつくってこの問題を論究したい、そして
もっと忌憚なく話合ってみたいといった。
本当に、その機会がぜひ近い将来に来ることを私は切に
祈らざるをえない。
それまでは私はまだまだ彼が言ったことをすべてそのまま
承認するわけにはゆかない。
トマス・モア「ユートピア」p.182
と問いかけることで、発散への道をひらいたままにした。

生命的であることが「よい」ものであるというのもまた一つの
視点でしかないが、「エレホン」、「すばらしい新世界」、
都市と星」、「ハーモニー」などの多くの作品を通じて、
いろいろな視点が折り重なりながら時代を超えて続いている話し合いは、
意識にとっての最も生命的な在り方の一つだと言えるかもしれない。

2017-11-22

個の特定

World's first human head transplant a success, controversial scientist claims

人間の頭部移植に成功したとのことだが、それが技術的に
可能なのか、倫理的に許容されるのかといったいろいろな
疑問の中で最も興味深いのは、患者が生き残ったとして、
それは誰とみなされるのか、である。

つまるところ、個の特定identificationとは同じであること
idemの確認であり、同じ情報を与えるものは同じものとして
抽象することしかできない。
使える情報が少なくなればなるほど、あるいは複製技術の
精度が上がれば上がるほど、個は幅をもつことになる。

オンラインでは既に個を特定することが必ずしも容易では
なくなっているが、今後、臓器移植や形成外科、人工知能や
外部記憶装置の技術が発展するにつれて、オフラインもそう
ならないとも限らない。

長らく一本の糸だとみなされてきた個体は、鎖から樹や網へと
解されていくのかもしれない。
分岐と統合を繰り返す「それ」は、一つの過程あるいは計劃と
みなされることになるのだろう。
In-dividuals which have been regarded as a single thread for a long time
may be sleaved from chains into trees and networks.
Those that repeat fork and merge will be regarded as a process or project.

2017-11-21

十六進数

アラビア数字は2と9を入れ替えれば、閉じた
領域を含むのが偶数、含まないのが奇数となる。
09468
13572

閉じた領域を含む記号としては、
 ∂、ρ、φ、θ、σ、の
あたりがあるので、十六進数の10、12、14の
表記にはこれらを使えばよいのでは。

あるいは、一の位に形状が近い記号を使って、
 10=φ
 11=J
 12=て
 13=ε
 14=୪
 15=∽
とか。

「すべてが∽になる」
妃真加島、真賀田研究所、四季の部屋、子宮のマトリョーシカ

構造設計

竹中工務店がAIを育成、構造設計を70%効率化

既存の構法や申請業務など、歴史的経緯の影響が大きい部分ではルーチン作業も多いので、そこに手が掛からなくなるのはよいかもしれないが、モデル化がAIの領分に含まれるのが気になる。建てようとしている建築物に、どのような構造を見出すか、つまり対象をどのようにモデル化するかこそ、構造設計という抽象過程の一番の面白さだと思う。
構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
(中略)
しかし、構造という言葉の意味が上述のようなものであるとすれば、建築においてある空間を成立させようとしたときに、空間を成立させるための仕組みに対する、これまでの知見との共通事項を探る行為にこそ、構造設計という言葉の本意があるのではないかと思う。
An At a NOA 2015-11-02 “構造
モデル化の物語を隠蔽するのは、「安全と安心」と同じ問題に繋がるように思う。

将棋や囲碁の棋士がponanzaやAlphaGoの指す一手を「理解」しようとするのと同じように、人間は、暇になった時間を使って、理由付けという物語を補うところに注力していくのかもしれない。
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続

2017-11-18

遊びと人間

ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」を読んだ。

カイヨワが挙げる、
  1. 自由な活動
  2. 隔離された活動
  3. 未確定の活動
  4. 非生産的活動
  5. 規則のある活動
  6. 虚構の活動
という遊びの六つの定義のうち、2(隔離)と5(規則)は遊びが
一つの独立した秩序であることを意味している。
3(未確定)、4(非生産的)、6(虚構)は、「確定」、「生産的」、
「事実」が何であるかを決める判断基準が存在することを
意味し、その判断基準は「まじめ」と呼ぶべきものである。
そしておそらく、「まじめ」の判断基準に対して、代替となる
判断基準が設定できることが、1(自由)という特徴をもたらす。
  1. アゴン(競争)
  2. アレア(運)
  3. ミミクリ(模擬)
  4. イリンクス(眩暈)
という四つの分類も、日常生活、規則、既存、正常といった
「まじめ」の判断基準に対して、代替となる判断基準の設定の
仕方に応じたものだと言える。

遊びとは、固定化による壊死から逃れようとする運動であり、
自らも秩序であることによって発散による瓦解を防ぐ。
それはアンリ・ベルクソンが論じた「笑い」にも通ずる、
きわめて生命的な振る舞いである。
集団が、固定化と発散の間でバランスを取ろうとする衝動
An At a NOA 2016-11-25 “笑い
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス
遊びが台本、楽譜、習慣、規則、定石という「まじめ」になり、
これらかつて遊びだったものからの逸脱がまた遊びとなる。
カイヨワも言うように、遊びとまじめのどちらが先かはあまり
意味のない問題であり、「まじめ」があるからこそ遊ぶことが
できると同時に、あらゆる「まじめ」はかつては遊びだった。

遊びと聖なるものについて、ホイジンガが両者を同一視した
ことをカイヨワは咎めるが、遊びが日常生活に対して、聖なる
ものが俗なるものに対して別の判断基準となるという点では
両者は同じであるし、聖なるものを信仰する人間にとっては
それが既に「まじめ」であるという点では両者は正反対である。
それは結局、「まじめ」の判断基準を何とするかだけであって、
カイヨワ自身が浸っていた西洋近代の「まじめ」を遊びと見る
ような視点も想像できるだろう。

より完全な遊びの定義や分類を目指すことや、ミミクリと
イリンクスからアゴンとアレアに至るのが進歩であると述べる
ことは、とても近代人らしい態度だと思うが、遊びの遊びたる
所以を考えれば、近代的に大きな物語を設定しようとすること
自体が、遊びの余地をなくしてしまう。
遊びは、捉えようとしても捉えきれず、囚われないものであり、
遊ぶことしかできないものとして、遊びについての一つ一つの
思考が、それぞれ遊びであるのがよいように思う。

遊びはであり、その始まりもまた擬かれている。
「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。
兼好「徒然草」第二百四十三段

2017-11-17

通信可能性と応答可能性

言語、習慣、常識などが固定化することで通信可能性communicatabilityが生まれ、判断基準が発散できる状態にあることが応答可能性responsibilityに繋がる。

通信可能性と応答可能性の両方を具えていることが生きているということであり、通信可能だが応答不可能な集団は壊死し、応答可能だが通信不可能な集団は瓦解する。

自由とは生き生きとしていることそのものであり、不自由とは死んでいることそのものである。

2017-11-15

自閉症とネットワークループ

自閉症Autismはselfを意味するαὐτόςが語源になっており、
100年ほど前に作られた言葉だ。

最近の研究では、神経結合の異常との関係も指摘されており、
物理的なネットワークループと似ているのかもしれない。
一匹のウロボロスのように、理由付けが小さな閉鎖回路に
閉じこもることで、selfが固定化してしまうのだろうか。

自閉症スペクトラム(ASD)は「コネクトパチー」である!

出張のついでに見に行った「コンニチハ技術トシテノ美術」に、
精神医療をテーマにした作品があった。

近代という大きな物語を設定する流れの後で、かつての狂人は
自閉症や統合失調症として括り出されている。
それは、「わからなさ」がなくなることで芸術が技術になる
ことと同じ変化であるように思う。
一種の「わからなさ」が芸術を芸術たらしめ、すべてを
「わかった」とすることが技術を技術たらしめる。
An At a NOA 2017-07-31 “芸術と技術3
「わかった」という大きな物語が技術として共有された結果、
個人個人が「わかる」ことなく通信謝絶に陥っていくのは、
ある種の自閉症とは呼ばないのだろうか。

2017-11-13

都市と野生の思考

鷲田清一、山極寿一「都市と野生の思考」を読んだ。

生命という秩序が更新し続けるためには、何かしらの仕組みで
つねにエラーを導入する必要がある。
意味付けによる物理的身体は生殖や発生の過程でエラーを導入し、
理由付けによる器官なき身体は理由の連鎖の過程でエラーを導入する。
An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖
エラーが混入され得ない秩序は、死んでいるのと同じだ。
安定性は多様性が担保してくれるのです。
鷲田清一、山極寿一「都市と野生の思考」p.14
成熟した社会というのは、熟れて腐乱状態にあると同時に、
未熟さを深く宿している社会でもある
同p.44
固定化しようとする秩序に対してエラー導入という発散の
契機が存在し、発散する度に秩序の判断基準が更新される
ことで、動的平衡は安定する。
共通の対立点があるからこそ相手とつながり、意見の
衝突を通じて深い絆が育まれる。
同p.26
判断基準の更新可能性がより大きい点で、ディベートよりも
ダイアログの方が、生命的な秩序に繋がりやすいだろう。

人間のセンサは、堅実的な物理的身体と投機的な心理的身体
という、判断基準の更新の仕方の異なる二つの抽象過程が
重なり合ったものだと思う。
他の動植物やロボット、人工知能など、他の抽象過程と比べて
特徴的なのは、投機的短絡が生じる心理的身体の影響が大きい
点であり、それを精神のネオテニー化と呼ぶのだろう。
そこに、道具として外部化された抽象過程も加えることで、
人間同士のコミュニケーションが成立する。
人間のコミュニケーションは本来、生物学的な感性と
文化的な感性、それと科学技術が渾然一体となって
行われるものです。
同p.30

心理的身体が投機的短絡によって生み出す新しい秩序は、
突拍子もない飛躍、逸脱によって無意味を理由付け、
物理的身体には不可能なまでに圧倒的な速度での変化を
可能にする。
文化とは「逸脱」、もしくは「倒錯」の現象
同p.91
人類の文化はそういう意味で遠大な無意味、ないしは不条理を
糧にしているのかもしれませんね。
同p.214
理由付けは時間やエントロピーを設定する順序付けであり、
物語、フィクションとして共有されることで、家族、特に
父親、食、性、ファッションなど、人間特有の文化を多く
生み出すと同時に、過度な発散を防ぐ機構としての禁止や
制度としても機能してきた。
死ぬというのは、時間、世代などの順序がすべてチャラに
なることです。
同p.63
〈自然〉と〈制度〉が深く交錯する場所、それが家族なんですね。
同p.91
個々の理由付けはpossesion(所有、憑依)へと繋がる。
近代は所有と共有をリセットしたが、コミュニケーション不全
に陥った状態では抽象過程は機能しない。

物理的身体の意味付けにしろ、心理的身体の理由付けにしろ、
抽象過程はコミュニケーションの中でしか成立せず、自由と
責任の在り方もまた、それを反映する。
independenceではなくinterdependence、すなわち相互依存の
ネットワークを必要に応じて使えることこそが「自由」であり、
不安を取り除いて安心につながるということです。
同p.141
責任とは本来、他者との関係性の中で捉えるべき概念ですからね
同p.141
人と人とが共有する判断基準が固定化していない
ことが自由であり、その都度の判断基準の決定に
対して責任が生まれる。
An At a NOA 2017-11-09 “自由の相手

鷲田清一が指摘するように、生物学的な感性、文化的な感性、
科学技術は互いに影響し合いながら変化していくと思われる。
結局、人間の知的能力やセンサーは、それまで担っていた責務を
外されると、また新たな能力として使われるようになる。
鷲田清一、山極寿一「都市と野生の思考」p.210
それは、発散による瓦解を防ぐホメオスタシスであり、固定化
による壊死を防ぐ機構と同じように重要になる。
更新される秩序としての生は、
更新の不在によって死に至り、
秩序の不在によって解かれる。
An At a NOA 2017-08-11 “壊死と瓦解
祭りや習慣のように、理屈抜きに設定される禁止や制度によって
支えられる心理的身体のホメオスタシスもまた、技術とともに
変わっていくはずだ。

都市と野生のどちらか一方が固定化し、他方が発散しているという
ことではなく、都市には都市の、野生には野生の固定化と発散があり、
どちらも壊死と瓦解の狭間で維持されていく。
その更新過程において、「何をどこまで変えないか」は、人間とは何か
という問いに繋がるだろう。

2017-11-12

日本の人類学

山極寿一、尾本恵市「日本の人類学」を読んだ。

類人猿や狩猟採集民の研究を通して現代人を相対化してきた二人の研究者が、人工知能や医療技術の発展とともに揺らぐ人間の定義の在り方を見据えて対話する。
自然人類学と文化人類学を再び統合して人間の来し方行く末を論じることが切望されている。
山極寿一、尾本恵市「日本の人類学」p.9
人間とはなにかを考えるとき、その切り口は、形態、遺伝子、コミュニケーション、衣食住など様々であり、系統樹思考と分類思考を織り交ぜながら抽象できるようであるとよい。

子どもの頃の判断基準の不安定さが失われないことによって、視点の多様性が大人になっても維持される。
ヒトにおいては行為のネオテニー化が起こっていく。子どもの精神・好奇心が大人の間に芽生え、普及していく。
同p.179
精神がネオテニー化したことによって、「古いものを捨て、新しい環境にどんどん進出していく」ようになる。また、言葉という判断基準を共有していない子どもとのコミュニケーションが大人にも広がることで音楽となる。
初めはむずかる赤ちゃんに対して発せられていた音声が大人の間に広がり、心を同一化させるようなファンクションを持って普及した。
(中略)
まさにインタラクションのネオテニー化ですよね。
同p.180

言葉や音楽に限らず、何らかのコミュニケーションを通じて共有された判断基準が文化となる。
文化というのは共有されたひとつの計画性
同p.33
文化は遺伝ではなく、価値判断によってある集団に生ずる現象なのです
同p.34
同じことをする人たちが集団をつくるというのが、文化の大きな特徴だと思います。
同p.191
互いが直接コミュニケーションをとりながら判断基準を更新できるのは、脳容量の関係から一五〇人程度までの集団に限られる。通信手段が変化し、コミュニケーションの同時性や同地性が必須条件でなくなると、見知らぬ相手との判断基準の共有が可能になり、文明が生まれたと考えられる。
集団の人数が一五〇人をはるかに越すようになると、ずるい者や悪い者が出てきて富と権力を独り占めするようになる。極端に言えば、これが文明の本質です。
同p.148
文明の誕生はまた、その時その場所にいるコミュニケーション相手に応じて、共有する判断基準がテンポラリに変化する状況を生み出す。コンテキストスイッチのように複数の判断基準を切り替えるのは、精神がネオテニー化したことによって可能になったと思われる。音楽の誕生に関連して指摘される、
ないものを表すということが起こったのではないか
同p.185
というのも、文明的な判断基準の共有の仕方をするようになったこととつながっているはずだ。

エドワード・ウェスターマークの「幼児期の親密な関係は性衝動を忌避させる」という予言は、コミュニケーションを重ねることによって判断基準が固定化することを言ったものだと考えられる。一度性交渉を伴わない関係に固定化しても、性交渉を伴う関係へと発散する可能性がある場合には、タブーという文明的な制度によって固定化させておく必要があるのだろう。
霊長類の段階から受け継いできた人間の性の生物学的なあり方が、社会的な制度にまで発展する
同p.205

私有というのは、文明的な判断基準の共有の合間に生じるテンポラリな判断基準の共有のことだと思われる。そのため、文化的ではあるが文明的ではない狩猟採集民は、私有せずに共有する。
狩猟採集というのは私有を否定する文化なんですよね。私有ではなく共有です。
同p.135
多様な視点が入れ替わり立ち代り現れる状況というのもまた、テンポラリな判断基準の共有という意味では一種の私有である。私有を避けるというよりは、私有と共有のいずれにおいても、固定化を避けるというのがよいように思われる。

新しい通信手段が集団の形成の仕方を変えるとすれば、情報革命によってコミュニケーションに対する脳容量の制限が緩和されることで、文化と文明の関係も変わってくるだろう。人間の定義が揺らいでいること自体は必ずしも悪いことではなく、つねにいろいろな視点から問いが発せられることで、固定化することなく、創造と破壊の連鎖による秩序の更新が続いていくのがよいと思う。

2017-11-10

copyrightとcopyleft

著作権Copyrightは18世紀初頭のアン法によって始まった。
それは複製技術の高度化(写本からグーテンベルクの印刷術へ)と
プロトコルの普及(識字率の上昇)の影響で生まれた。

一方、コピーレフトCopyleftはリチャード・ストールマンによって
20世紀末に広められた。
これもまた、複製技術の高度化(アナログからデジタルへ)と
プロトコルの普及(インターネットの誕生)の影響で生まれた。

あるプロトコルによって符号化可能なものは複製可能性を帯び、
プロトコルの共有範囲と複製の再現度が、オリジナルとクローンの
関係を決める。
おそらく、オリジナルのオリジナルたる所以は、複製可能性から
漏れるところにしかない。
それは複製技術やプロトコルの制限、あるいは逸脱や飛躍によって
失われる情報であり、すべての情報がコピーできないところにだけ
オリジナリティは残る。
デジタルが複製の完全性を指向するのであれば、情報をデジタイズ
すること自体がオリジナリティを放棄することにつながっており、
オリジナリティはその都度の逸脱や飛躍によって維持するしかない。
複製の不完全性がはらむ発散の中にこそ、芸術の萌芽が
あるのである。
An At a NOA 2017-04-30 “芸術と技術
あらゆることに理由付けられることで複製は
完全になり、技術と呼ばれるようになる。
(中略)
逆に、複製過程において理由がわからない
部分があると複製は不完全となり、芸術と
呼ばれるようになる。
An At a NOA 2017-06-14 “芸術と技術2
一種の「わからなさ」が芸術を芸術たらしめ、すべてを
「わかった」とすることが技術を技術たらしめる。
An At a NOA 2017-07-31 “芸術と技術3
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず
世阿弥「風姿花伝」p.103
抽象過程についての詳細が明らかになっていないこと自体が、
抽象過程の芸術性となる。
意識や生命の複製方法が詳らかになったとき、それでも
これらは「神秘」であり続けられるだろうか。

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

スティーヴン・グリーンブラット「一四一七年、その一冊がすべてを変えた」を読んだ。

ポッジョ・ブラッチョリーニがルクレティウス「物の本質について」の写本を再発見し、古典古代のエピクロス主義を復活させたことが、ルネサンスのきっかけとなり、キリスト教世界を近代へと逸脱clinamenさせたという物語。逸脱がもたらす変化は、「万物は逸脱の結果として生まれる」というルクレティウスの思想そのものでもある。そのずれはわずかではあるが、創造的破壊となり秩序の固定化を防ぐ。
この逸脱―ルクレティウスはdeclinatio(ずれ)、inclinatio(傾き)、clinamen(傾斜運動)など、さまざまな呼び方をしている―は、ほんのわずかな動き(nec plus quam minimum)である(二巻二四四行)。しかし、絶え間ない衝突の連鎖を引き起こすのにはそれでじゅうぶんだ。
スティーヴン・グリーンブラット「一四一七年、その一冊がすべてを変えた」p.235

一神教あるいは一真教の下で、人間中心あるいは西洋中心の世界観を築いてきた長い期間の後で、さらに六百年を経た現代においてようやく、進化論サイバネティックス思弁的実在論多自然主義などのかたちでルクレティウスの思想へと回帰しつつある。
存在には終わりも目的もない。絶え間ない創造と破壊があるのみで、すべては偶然に支配されている。
同p.234
宇宙は、生成と破壊と再生という絶え間ない過程において、本質的に性的なものだ。
同p.295
著者が言うように、もはやルクレティウスが読まれず、写本再発見の物語が知られないとしても、その思想は主流となったように思う。
古代の詩が今では誰にも読まれぬまま放置され、喪失と復活の物語が次第に忘却の彼方へと消え、ポッジョ・ブラッチョリーニがほぼ完全に忘れ去られる。これらはルクレティウスが近代思想の主流に吸収されたほかならぬ証拠だった。
同p.325
それでもこうして、「喪失と復活の物語」が再構成されたものを読むのは、推測による部分も多いと思うが、読み物としておもしろい。この物語が細部までそのとおりであることが確かめられないにしても、社会的動物である人間にとっては、対話すること自体がおもしろいのである。
最終的な結論ではなく、意見を戦わせることそのものに大きな意味がある。議論すること自体がとても重要なのだ。
同p.91

p.s.
原題「The SWERVE: How the World Became Modern」をこういう邦題に訳してしまうと、解説で池上俊一が指摘するように、この一冊だけによって世界ががらりと変わったという余計な誤解を生むように思う。

2017-11-09

自由の相手

自由には必ず相手がいる。より正確に言えば、人が自由になるのではなく、人と人との関係が自由になるのである。

人と人とが共有する判断基準が固定化していないことが自由であり、その都度の判断基準の決定に対して責任が生まれる。

「自由」曲面において自由なのは、設計者でも曲面自体でもない。力学、用途、環境、施工といった様々な判断基準がある中で、調整幅のあるパラメタが多いということの単なる言い換えである。

表現の「自由」において自由なのは、表現者でも表現自体でもない。媒体、検閲、常識、締切といった様々な判断基準がある中で、調整幅のあるパラメタが多いということの単なる言い換えである。
「自分のスタイルを押し付けているときは、まわりの人は自分のスタイルをやめてくれてるってのは気付かないとダメだよ」
設楽統 バナナムーンGOLD 2014-05-30

音声操作と車内通話

「日本人の音声操作に対する意識調査2017」を発表

「人前での音声検索は恥ずかしい」と感じる心理と、
電車内での通話を不快だと感じる心理は同じだろうか。

「マナー」モードに含まれない通話不可と音声操作不可が
暗黙的に強要されるところに、同じでないものを徹底的に
忌避する村社会に通ずるものを感じる。

一真教

一神教Monotheismの熱に浮かされた古典古代とルネサンスの
間の千年間を過ぎても、未だに真なるものは一つであるという
「一真教Monoalethism」の理念は強いが、Post-truthが叫ばれる
ことによって、ようやくその熱がおさまり始めている。
the view that truth is uniquely realized
John Devlin “An Argument for an Error Theory of Truth”
Monoalethism is the belief in One Full (and therefore final) Truth
which has been revealed to us by a set of holy, non-amendable
books and holy, unquestionable prophets.
Darko Suvin “Defined by a Hollow” p.489
歴史学における古典が多神教的であるのに対し、論理学における
古典はPrinciple of bivalenceを採る二値論理という一真教である。
Post-truthの時代が、別のMonoalethismへの移行ではなく、
Polyalethismになれるかは、人間が多値論理に耐えられるかに
かかっているのだろう。
無意味であることに耐えられないんですよ人間は。
伊藤計劃「ハーモニー」p.375

2017-11-07

大人買い

個数とか金額に関係なく、楽しめる以上に手に入れてしまうことによって、大人買いになるのである。

大人の制約は、時間、体力、体面など、各方面からやってくる。最も辛いのは、好奇心が減退し、手に入れることだけを楽しむようになってしまうことだろう。

2017-11-06

多層的な類人猿

建築雑誌11月号に載っている山極壽一へのインタビュー、「類人猿とヒトから考える都市」を読んだ。

山極壽一は、家族と共同体という編成原理の異なる組織を両立できたことに、ゴリラやチンパンジーと比べたときのヒトの特殊性を見出している。「ゲンロン5」で平田オリザが演劇の起源として指摘していた話は、これを踏まえたものだろう。

多層的な類人猿として特徴付けられたヒトは、しかし、単層的な類人猿へと向かいつつあり、ポピュリズム、新自由主義、メシア信仰という「民主主義の内なる敵」は、単層化の行き着く先である。新自由主義的発想に基づいて建設される「タワマン」や「ニュータウン」が、特定の年齢層や社会階層だけを含むコミュニティの形成を促すという特集の主旨説明文の指摘は、「すばらしい新世界」で描かれたアルファだけを集めたキプロス島の実験を彷彿とさせる。

松岡正剛が「かわるがわるくこと」を勧め、東浩紀が「観光客の哲学」を展開し、田中純が「波打ち際」と表現したように、ヒトが多層的な類人猿であるために、山極壽一は「二重生活」を提唱する。それらはいずれも、複数の価値観があり得ることを許容するだけでなく、複数の価値観が重なり合うことをよしとすることによって、特定の判断基準に固定化することを免れる。複数の価値観を「join」ではなく「混ぜる」ことによって多様性を捉えるのは、とても日本的だと思う。
もしかすると、日本人はdiversityではなくvariationとして「多様性」を捉えた方がすんなり受け入れられるのかもしれない。
An At a NOA 2017-09-20 “variationとdiversity

現状では技術的な問題で人間が移動する必要があるが、触覚や嗅覚などに代表される通信上の制限がなくなれば、情報と人間のどちらが移動しても本質的には同じである。エネルギー的には情報が移動できるようにした方が省エネになるだろう。いずれにせよ、異なる集団に実際に属することが、ヒトらしく生きることにつながるということだ。
ひとつ言えることは、氷河と河川のいずれか一方のみよりは、両方にいる機会がある方が面白いのではないかということだ。
An At a NOA 2017-08-15 “氷河

殺してはいけない理由

集団を構成しているものをみだりに殺さないことは、
人間だけでなく多くの動植物や細胞レベルでも観察され、
最も普遍的にみられる判断基準の一つであると思われる。

それは集団の瓦解を防ぐフィードバック機構の一種であり、
構成要素間で判断基準が共有されることによって作動する。

自殺や安楽死を含む殺害が禁止されることについて、理由付け
によって「理解」することは難しいが、人間が理由を気にする
ことで特徴付けられるとすれば、理解しようとすること自体が、
この種のフィードバック機構が作動していることの現れの一部
なのだと思われる。
けれどもこれを自然にもとづいて説明し弁護することはむずかしい。
むしろ、習慣や、法律や、戒律にもとづいて弁護するほうがやさしい。
事物の根源の、普遍的な理由を探求することはむずかしい。
モンテーニュ「エセー」第一巻
第二十三章「習慣について。また、既存の法律を容易に改めてはならないこと」
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続” 

2017-11-03

民主主義の内なる敵

ツヴェタン・トドロフ「民主主義の内なる敵」を読んだ。

民主主義とはまず第一に、語源的な意味では、権力が人民に属する体制である。
ツヴェタン・トドロフ「民主主義の内なる敵」p.12
この最初の根本原理に第二の原理が付け加えられるときに、近代民主主義は自由主義的であるといわれる。個人の自由の原理である。
同p.13
いかなる民主主義も社会秩序の改善―集団的意志の努力のおかげによる改善―の可能性という考えを前提としていると言うことができる。
同p.14
人民、自由、進歩の三語に要約される民主主義の構成要素が互いに切り離され、行き過ぎるdémesureことによる危険。
ポピュリズム、ウルトラ自由主義、メシア信仰、つまり民主主義の内なる敵である。
同p.15
それは、自文化、わたしという個人、われわれにとっての善といった、特定の判断基準への収束、同じでないものの忌避への陥りであり、多元的で複雑であることによって維持される民主主義を毀損する。
民主主義の第一の敵対者は、多元的なものを唯一のものに還元し、かくして行き過ぎへと道を開く単純化である。
同p.16
民主主義体制はただ一つの性格に還元されるのではなく、いくつもの切り離された原則の連接と均衡を要求する。
同p.216
整合性を求めて単純化へと向かおうとするのは、充足理由律への過度な信仰の故だろうか。

「自分の行動を自由に決める権利を要求する」衝動がつねに生まれつつ、
この衝動がつねに制限され、今度はこの制限が尊重されなければならない
同p.38
というのは、飛躍しては理由によって繋ぎとめる往還のプロセスであり、その過程が人間を人間たらしめる社交性となる。制限とは禁止、規範、判断基準であり、権威を生み出すが、与える制限に責任をもち、飛躍によって固定化が回避できる限りにおいて、権威もまた社交性に不可欠な要因となる。
禁止のない、規範のない、したがってまた従属関係のない社会は存在しない
同p.200
自由とは、いくつもの判断基準が相互に調整し合うことで、一時的にでも齟齬を解消できる状態のことを言うのだと思われる。
コンテクストはつねに異なっていることを考慮して、それら普遍的な価値や道徳とのかかわりを特定の状況に限定すべきだということである。
同p.92
社交という通信プロセスにおける受信者を置き去りにし、調整することなしに特定の判断基準を固定化してそこに収束することは、主観的に見れば自由に見えるかもしれないが、社交性を失っている時点で、既に人間ではなくなっていると言える。
私たちの野蛮さ、あるいは文明化の度合いは、私たちと異なった他者をいかに認識し受け入れるかによって測られるからである。
同p.209
個人主義とグローバリゼーションという、無限の再分割と一様化によって、社交性による秩序の更新過程が停止する。その文化喪失のプロセスを抜け出し、多元的な民主主義に至る、すなわち人間になることが、人間にはできるだろうか。
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「」p.76

2017-10-26

竹藪焼けた
たけやぶやけた
筍退けた
たけのこのけた
竹籠掛けた
たけかごかけた
竹籤引けた
たけひごひけた

語るボルヘス

J・L・ボルヘス「語るボルヘス」を読んだ。

「書物」「不死性」「エマヌエル・スヴェーデンボリ」、
「探偵小説」、「時間」の五つのテーマを通して語られるのは、
解釈と同一性についてである。

書物はひもとくたびに変化するのです。
J・L・ボルヘス「語るボルヘス」p.28
不死性は他人の記憶の中、あるいはわれわれの残した作品の
中に生き続けることなのです。
同p.51
われわれのかなりの部分は自分の記憶によって作り上げ
られています。そして、そうした記憶の大部分は、忘却
によって作り上げられているのです。
同p.113
スヴェーデンボリの照応の理論やポーの探偵小説というのも、
彼らが生み出した解釈である。

そうした記憶し忘却する解釈の過程がさまざまにある中で、
物質としての本、肉体、絶対時間などがよすがとなって、
その都度見出される同一性が、作品、わたし、現在だろうか。
私とはいったい何者なのでしょう?
われわれ一人ひとりとはいったい何者なのでしょう?
われわれはいったい何者なのでしょう?
いずれそれを知る時が来るでしょう。
ひょっとすると来ないかもしれません。
同p.129
忘れてしまっては何も残らない一方で、
忘れることで時間が流れる。
不断に忘れられ続ける世界において、
憶えては忘れるという反復によって、
忘れられることに抗うのが生命である。
An At a NOA 2017-07-14 “不断に忘れられ続ける世界” 

2017-10-25

組織の限界

ケネス・J・アロー「組織の限界」を読んだ。

ヴィルフレド・パレートの意味での効率性を達成する
ための社会システムである価格システムに対して、
組織とは、価格システムがうまく働かないような状況の
下で集団的行動の利点を実現するための手段である
ケネス・J・アロー「組織の限界」p.52
と述べられる。
人間の欲望と価値の協同的測定の不可能性であり、
そして、相互伝達の不完全性である。
同p.38
という基本的な事実に由来する不確実性によって、
価格システムはうまく働かなくなり、組織の限界も
自ずとそこに関係する。

「情報チャネル」「シグナル」「符号化様式」といった語に
表れているように、組織は情報の抽象過程として捉えられる。
符号化様式は組織という抽象過程の判断基準であり、それを
共有することで組織が成立する。
組織の構成要素である個人もまた組織であり、抽象過程が
重なり合う中で、判断基準に折り合いをつけることの困難と、
コストとベネフィットのトレードオフによる、抽象される
情報量の制限が、上に引用した協同的測定の不可能性と
相互伝達の不完全性である。

近代以降、専門分化と局所の大域化によって、組織による
効率性の追求が目指されてきたと言える。
これらが固定化に陥ると、
効率性のみの追求は、いっそうの変化に対する柔軟性と
感応性の欠如につながるかもしれない
同p.80
ということになる。
一方で、権威の存在や集団の形成は効率性のためであり、
固定化を打破するにあたって、単にこれらを無くせばよい
というわけでもない。

近代というTruthの時代の反省を活かすとすれば、効率性を
諦めるのでもなく、効率性に固執するのでもなく、
不満足な解決とは、よりよい解決をつくり出すために必要な
情報収集を刺戟するために必要なものなのかもしれない。
同p.78
われわれの合理性を十分に保持するためには、確実性
なしに行動することの重荷を支えなければならない。
そしてわれわれは、過去の過ちを認め、方向を変更する
可能性をつねに開いておかなければならない。
同p.49
必要とされるのは「情報と意思決定ルールの循環」である。
同p.103
と述べられているように、組織しつつ行動しつつ変化しつつという、
「多態性を維持しながら、固定化と発散を繰り返す。」
An At a NOA 2017-10-02 “政治的スペクトル
を続けるのが、Post-truthの時代らしいのではないかと思う。
権威と責任に関連した再審査グループの提案もその一貫だろう。

近代の組織が浸透した世界に、限界を意識した組織が循環する
ようになるまで、何年かかるだろうか。

2017-10-24

忌避

集団における判断基準の共有は忌避として固定化する。

忌避とはつまり、同じでないものの忌避である。
Avoidance means avoidance of what is not the same.

アローの不可能性定理

ケネス・アローが唱えたGeneral Possibility Theorem、
いわゆる「アローの不可能性定理」の中に、「社会厚生
関数 social welfare function」というものが出てくる。
この社会厚生関数の定義は反射則と推移則を満たし、
比較可能律にあたる完備性を備えることから、
実質的にエントロピーと同じだと言える。

民主制にとって不可欠な4つの条件を満たす社会厚生
関数が存在しないというのは、民主制においては大域
的なエントロピーの尺度が存在しないことを意味し、
絶対時間を否定した特殊相対性理論にも通ずる。

あくまで民主制の4条件にこだわるのだとすれば、
完備性を緩める以外にないように思われる。
チェインでなく、ツリーやネットワークであれば
民主制が可能だったとして、チェインでない構造
からの選択はどのようにされるべきだろうか。
ツリーやネットワークに基づく選択が不可能なので
あれば、何かを選択することそのものが民主制と
相容れないということになる。

2017-10-22

政治的なものの概念

カール・シュミット「政治的なものの概念」を読んだ。

政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な
区別とは、友と敵という区別である。
カール・シュミット「政治的なものの概念」p.15
友・敵・闘争という諸概念が現実的な意味をもつのは、
それらがとくに、物理的殺りくの現実的可能性とかかわり、
そのかかわりをもち続けることによってである。
同p.26
現実の闘争においてこそ、友・敵という政治的結束の
究極的帰結が露呈する
同p.30
判断基準を共有することによって集団が形成され、集団に
よって判断基準が維持される。
道徳的基準が善悪を、美的基準が美醜を、経済的基準が
利害を区別するように、政治的基準は友敵を区別する。
友敵の基準である政治は、あらゆる抽象の基盤となる
物理的身体の存続に関わる点に特徴があり、道徳・美・
経済などの基準による対立も、悪醜害を物理的身体の毀損
によって排除しようとした途端、政治的な基準による友敵の
対立へと変化する。
ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」で述べられて
いたのは、友敵の区別を含意しない《贈与》の可能性だった
と言えるかもしれない。

性善説では判断基準が不変だとみなされるのに対し、
性悪説では基準の変化可能性が考慮される。
性善説は固定化の傾向に着目し、
性悪説は発散の傾向に着目する。
An At a NOA 2017-08-16 “性善説と性悪説
判断基準が固定化した状態では「合理的」の意味が定まるが、
基準が変化する状況においては論理の飛躍が生じており、
友敵の基準の場合には、基準の変化に伴って大規模な物理的
身体の損失が発生する。
この友敵基準の飛躍的変化こそが、現実の闘争という例外状態
なのだと思う。

友敵基準の前提となる物理的身体の変化とともに、政治的な
ものの概念も変化するはずである。
ここ数年の民主主義の変化も十分大きいように感じられるが、
それには先進諸国での医療技術の発達による死生観の変化が
影響しているだろうか。
さらには、物理的身体の大部分が人工細胞に置き換わったり、
「人間」というカテゴリが変化したりすることによって、
ハードウェアが簡単には停止しなくなった時代には、「国家」
そのものがノスタルジックなものになっているだろうか。

2017-10-19

理由の圧縮

50万行にわたって記述されていた理由は、ディープラーニング
という手法自体にまで圧縮された。

それ自体はよいことでも悪いことでもないが、飛躍を理由に
よって埋める過程を失ったら、飛躍によって破綻するか
飛躍しなくなるかのいずれかしか選択肢が残らないことは、
気にしておいてよいと思う。

ペガサスの解は虚栄か?

森博嗣「ペガサスの解は虚栄か?」を読んだ。

人間、ロボット、ウォーカロン、人工知能、トランスファ。
生命が更新される秩序であるならば、いずれもそれなりに
生命らしくある。
人間と全く同じ特性を有するセンサの塊は、たとえその
ハードウェアが炭素ベースでなかったとしても、あるいは
ハードウェア自体が存在しなかったとしても、人間である
ことは可能だろうか。
それは結局、人間というカテゴリについてどのような物語、
理由付けが共有されるかの問題だと思われる。
そのことは、クローンとウォーカロンの関係にも現れている。
その法律を決めたのは、人類の感情だ。それ以外に理由はない。
森博嗣「ペガサスの解は虚栄か?」p.278
秩序の更新の仕方によって人間らしさを定義できるとすれば、
飛躍というのがマッチするように思う。
オーロラとの共著論文におけるハギリの発想、思いつき、
失われたツェリンの未来、あるいはペガサスの妄想。
飛躍の捉えられ方は様々だが、飛躍によって断絶した完全さを、
理由によって繋ぎとめることで秩序を更新していくところが、
とても人間らしいと感じる。
何故完全さを求めるのか、を考えた方が良いね
同p.62
我々が、思いつきと言っているものに最上の価値があって、
ただそれにすべてを委ねているのです。そういったものには、
理由がない。
同p.113
人間らしさが定義できること自体、人間以外が人間らしくなれる
ことを意味するが、それに気付かずに理由付けによって自己防衛
しようとするのもまた、人間らしさとなる。

飛躍によって完全さを回避する一方で、理由によって完全さを
回復しようとする。
感情的な思考によって、現実を見誤ることです。自身の思考と
現実を比較・交換します。あるいは、部分的に置換します。
同p.283
その過程は、いずれも虚栄と呼ばれるだろうか。

2017-10-18

富士山

友人の披露宴で「富士山」の「作品第貮捨壹」を歌うことになった。

埼玉で生まれ育った子どもにとって、富士山はよく晴れた
日に遥か遠くに小さく見える山だった。
初めて静岡で富士山を見たときの衝撃は、今にして思えば、
アンバランスな遠さと大きさの生み出す意外な距離感による
ものだったのかもしれない。
今でも新幹線なんかで近くを通ると目を奪われるのは、
その衝撃が後を引いているように思う。

草野心平や多田武彦が感じた富士山もそれぞれであり、
歌う人間それぞれの富士山の感じ方があるはずだ。
それぞれに富士山への思いや考えがある中で、
それでも共通する富士山らしさが残るとしたら、
それこそが、小林秀雄が
解釈を拒絶して動じないものだけが美しい
小林秀雄「無常という事」p.85
と言ったものなのだろう。

おどろおどろしさすら憶える「平野すれすれ」に続いて、
「いきなりガッと」現れる富士。
安定した和音でただひたすらにその姿だけを描写する
ところに、富士山らしさの芯を掬い取ろうとする姿勢を
感じる。

ピアノを弾く哲学者

フランソワ・ヌーデルマン「ピアノを弾く哲学者」を読んだ。

サルトル、ニーチェ、バルトは、考え、弾いた。
弾くことについて考えるのでもなく、考えることについて弾く
のでもなく、同時に哲学者と音楽家であった。

サルトルは両者を分けた上で弾くことを私的なものに留めた。
ピアノの演奏は、すべてを語ろう、すべてを理解しようとする
彼の意志から逃れ出る。
フランソワ・ヌーデルマン「ピアノを弾く哲学者」p.23
ニーチェは両者を公にすることでその連関を実践した。
耳で哲学することによって、またピアノという音叉を評価基準にして
美学的・政治的なシステムを問うことによって、ニーチェは近代性の
諸価値や諸特性を見極めるすべを身につけた
同p.115
バルトは両者の区別をなくすように重ね合わせた。
バルトにとって、ピアノの演奏はまず間違いなく一つの
イディオリトミーだった。
同p.203

ウィトゲンシュタインは「示されうるものは、語られえない。」
と表現したが、三人が捉えようとしていたのも「語りえぬこと」
を如何にして示すかということだったと思う。
因果律、一貫性、大人、プロという語ることの領野に対して、
子供時代やアマチュアに示すことの可能性が拓かれる。
それはむしろ、因果関係によらずに過去と現在を結びつける
柔軟な時間性を意味する。
同p.45
アマチュアとは一貫性の押しつけを嫌う人々のことをいう
同p.148
近代の絶対時間や貨幣という大域的基準が語ることで設定する
唯一のエントロピーの尺度がある一方で、「それはかつてあった」
「来たるべき過去」が示す各人のエントロピーの尺度がある。
いずれをも神秘化することのない、
各人固有の時間の使い方も、集団としての時間の使い方も
可能であるような理想社会
同p.203
語りつつ示すことを生きるために、サルトル、ニーチェ、バルトは、
考える人間と弾く人間の両方であったのだろう。

著者は、音楽と人間の「流動的でつかの間の共犯」が密かになす
共同体の共通項として、様子、振る舞い、歩調などの広い語義を
もつ「アリュール」allureという言葉を提案する。
「ピアニストのアリュール」を語るだけでは共同体は固定化して
しまうが、「共通し、それでいて異なる個人的な実践」という
アリュールの試みの中で、本人たちすら気付かないまま、
共同体は流動的に維持される。
わたしたちには共通点があるから共同体に属するのだが、その共通点
とは実はその共同体からの留保だということになる。
同p.210
という状態が、「わたし」にも「共同体」にも収束しない、
多態性を維持したままでの秩序の更新なのかもしれない。

2017-10-16

「である」型加速器

各々が狭い領域での「する」に集中し、領域間を「である」ベースのコミュニケーションによる大量の均質な抽象で埋め尽くすことで、エントロピー増大を加速させる。

専門分化、急成長、大量消費、人口増加、ポピュリズム、思考停止。「である」型加速器によって、とにかく早くわかることを目指した社会の行き着いた先が、これらだったということだろうか。
現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。
丸山眞男「日本の思想」p.65
何もかもが専門分化した世界では、人間は個としてはまったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を手に入れることになってしまう。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団” 
近代以降の急成長は、理由付けによってエントロピー増大が加速したというだけのことなのかもしれない。
An At a NOA 2017-09-15 “タイムマシン” 
判断基準が更新する過程をないがしろにし、判断基準を所与のものとした上で「正しい」ことを求めるだけの、「とにかく早くすっきりしたい」という思考停止。
An At a NOA 2017-10-13 “せっかち

2017-10-15

遠い娯楽と近い娯楽

送信される情報量に対して、受信できる情報量が
少なくなるものは、遠い娯楽だと言える。

視覚表現も聴覚表現も、規模が大きくなるにつれて
遠さを補うようにプロジェクタやマイクなどの情報の
増幅器を挟むようになると、間に抽象機関が挟まれる
ことで、かえって遠さが強調されるように思う。
写真や映画、テレビやYouTubeのような転送器を
介したものも、その一種だろう。
増幅器の性能が上がり、いろいろな種類の情報を
減ずることなく送受信できるようになれば、VRの
ように近さは少しずつ回復されるかもしれないが、
何かしらの遠さを残したままだと不気味の谷が
現れることになる。

近代以降の巨大な集団を一体化させるにあたり、
遠い娯楽を広く共有することは効果的であり、
近い娯楽で同じ役目を代替することは難しい。
ただし、遠い娯楽による一体化が集団の巨大化に
有効というだけで、それ以外の一体化が集団を
小ぢんまりとさせるというわけではない。
鬼ごっこや「どちらにしようかな」の掛け声の
ように、大域的な基準がなく、それぞれの地域の
バリエーションが豊富だけど、多くの人が知って
いるものというのは存在する。
それはおそらく、近い娯楽として伝播したものの
特徴だろう。

遠い娯楽が優勢な時代において、近い娯楽には
何ができるだろうか。
それを考えるには、距離減衰が激しく、増幅器
によっても伝達が困難な情報をいかに上手く
活用するかが重要な気がする。

2017-10-14

日本の思想

丸山眞男「日本の思想」を読んだ。

日本の考え方の傾向として、
現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。
丸山眞男「日本の思想」p.65
すなわち、「する」ことよりも「である」ことが重視される
という部分が一貫して述べられているように思う。
ことがらがことばになる過程でなく、ことばになったことがら
だけが重視されるのは、オルダス・ハクスリー「」のパラとは
対極にある世界である。
世界認識を合理的に整序せずに「道」を多元的に併存
させる思想的「伝統」
同p.42
においては、「する」ことをせずに、「である」ことをただ
受け入れることで、日本の思想的雑居性、神道の「無限抱擁」
性が生まれ、個に対しては無責任なままに「である」が 集積
された結果として、全体には無限の連帯責任が課せられる。
決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、
「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに
象徴される!)を好む行動様式
同p.42
無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては
巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。
同p.42 
理論信仰も実感信仰も、「する」を放置した「である」への
信仰という点では同じであり、「である」の塊である「多頭
一身の怪物」、「タコツボ文化」、「むら」を生み出す。
タブーによって秩序を維持しようとする「である」社会には、
「権利の上にねむる者」がいて、「理想状態の神聖化」がある。
判断基準が更新する過程をないがしろにし、判断基準を所与の
ものとした上で「正しい」ことを求めるだけの、「とにかく
早くすっきりしたい」という思考停止。
An At a NOA 2017-10-13 “せっかち
は、こういった「である」社会の端的な現れなのだろう。

抽象化によって形成されるイメージは、本来人間と環境の間の
潤滑油となるところが、抽象化作用である「する」が省略され、
結果が一人歩きしてしまえば、イメージは「タコツボ」や
「むら」を隔てる「である」の厚い壁となり、現実とは似ても
似つかない「化けもの」が跋扈することになる。
各「タコツボ」や「むら」の中では、take for grantedの領域が
増えることで、利点となることもあったかもしれないが、
外は「化けもの」ばかりであれば、やはり全体としては通信不全
による不利益の方が多いのだと思われる。

思想的雑居性自体は必ずしも悪いものではなく、
仮説を作って経験によるトライアル・アンド・エラーの
過程を通じて、この仮説を検証して行くという不断の
プロセス
同p.105
であり、「自己の責任における賭け」である「する」ことによって
雑居した思想の更新が続いていけば、複数の抽象過程の重ね合わせに
つながることで、著者の提案する「多元的なイメージを合成する思考法」
にもつながるように思う。

2017-10-13

せっかち

2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。
「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。


新井紀子は「とにかく早くすっきりしたい」ことに対して、東浩紀は思考停止することに対して、そうではないのではないかと言っており、両名の提起する違和感は、根本的に同じ方向を向いているように思う。

読むとはどういうことなのか、社会とは何なのかについて、絶対的に「正しい」見方はなく、何を「正しい」とみなすかの判断基準の共有が、その都度図られるだけだ。判断基準が更新する過程をないがしろにし、判断基準を所与のものとした上で「正しい」ことを求めるだけの、「とにかく早くすっきりしたい」という思考停止。停止していないときはどのくらいあっただろうか。

そんなことまで立ち戻っていられないのかもしれないが、壊死しつつ瓦解するという動的平衡を崩し、更新しなくなった秩序として静的平衡に留まるものは、もはや生命ではない。

何をそんなに急いでいるんだろうか。

2017-10-12

紙の辞書

「紙の辞書は死んだんです」 国語辞典編集者が言葉と向き合い続ける中で見た現状

手元にある紙の辞書は「広辞苑」と「字統」くらいで、
外国語についてはオンラインでしか引かなくなった。

辞書というのは一種のデータベースで、語として抽象
されたものにどのような具象が対応し得るかという、
リテラシーを補助するための外部装置である。

「この内容はどのような語に圧縮できるか」や
「この語はどのような内容に伸長され得るか」といった
共通認識が形成され、短い符号によって通信可能な
集団が成立する。
それは本来逆であると言えるかもしれないが、集団と
共通認識は表裏一体という意味では、どちらが先と
いうこともない。

集団の通信形態とともに符号化方式もまた更新されて
いくだろうし、想定した集団に応じて違うものだろう。
科学が世界についての一つのモデル化でしかないように、
辞書もまた言葉についての一つのモデル化でしかない。

集団において共有される部分が大きければ大きいほど、
用いられる符号は簡略化されていくため、同じ言語でも
世代や地域が違えば通信に支障をきたす場合がある。
通信不全を放置すれば集団間の垣根は高くなる一方で、
全体として局所的な壊死へと向かうのみである。
それを回避するために、紙の辞書の編纂で培われてきた
事例収集能力と見出し語への抽象能力を活かす余地が
あるように思われる。

2017-10-11

借りの哲学

ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」を読んだ。

《贈与》の際に何よりも先立つのは、「贈与される対象が
贈与する側の所有物である」という共通認識であり、共有
された判断基準が「対象が贈与される側の所有物である」
というように変更される過程が《贈与》だと言える。
判断基準の共有によって《贈与》に関わる双方を含む集団が
形成され、判断基準の変更は、贈与する側では《貸し》、
贈与される側では《借り》と呼ばれる。
つまり、《借り》の連鎖というのは、人間の行為というよりも、
社会、部族、国家、家族といった集団の秩序更新過程としてみる
方がよいように思われる。

《贈与》はポジティヴな判断基準の変更例だが、略奪のような
ネガティヴな《借り》の場合でも同様に、集団の壊死と瓦解を
防ぐような秩序更新過程であるはずだ。
ただし、ネガティヴな《借り》の場合には、集団の構成要素で
ある人間の損失を含むことが多いため、集団は壊死も瓦解もせず、
消滅してしまうので、結局は集団が維持されない。

かつての《返すことのできない借り》に支配された世界では、
判断基準が二度と変化できないように固定化されることで、
個々の集団は壊死へと向かっていた。
資本主義によって特定の判断基準が大域的に共有されるように
なると、《等価交換》によって《返すことのできない借り》を
解消することができるようになった。
その代わりに、貨幣という大域化された判断基準のみを共有
すればよくなることで、新たな《借り》も生じず、局所的な
集団も形成されることがなくなった。
それは結局のところ、大域的な判断基準が固定化することで
壊死へと向かう過程だったと言える。

全体的に楽観的な印象を受けるが、もう一度《借り》に着目し、
局所的にも大域的にも壊死を免れるような「《借り》をもとに
した社会」を目指すのはよいと思う。
返すことのできる、別の人に返してもよい、あるいは返さなくても
よい《借り》が次々に発生し、変化=発散することで固定化を免れる。
だけどそれが《借り》であることによって、連鎖が止むことはない。
局所的には集団の発散に着目した性悪説っぽさがあるのに、
大域的には集団の固定化に着目した性善説っぽさがあるところが、
楽観的に映るのかもしれない。
An At a NOA 2017-08-16 “性善説と性悪説

自由というのは、重なり合った抽象過程の間で、判断基準に齟齬が
ない状態のことを言うのだと思うが、個人という抽象過程が固定化
してしまうと《借り》の度に不自由を感じる。
だからこそ、個人の確立と《借り》の拒否はマッチしたのだろう。
不自由を齟齬のまま捨て置くのではなく、齟齬をなめらかにする
ようにそれぞれの抽象過程が変化する「不均衡な状態」。
「《借り》をもとにした社会」のシステムができたら、私たちは
「不均衡な状態」で暮らすことになる。
ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」p.209
個人、家族、部族、社会、国家、地球といったあらゆる抽象過程が、
非平衡系の中の局所平衡として捉えられるようになれば、あるいは
「《借り》をもとにした社会」も成立するだろうか。

2017-10-10

身体のリアル

押井守、最上和子「身体のリアル」を読んだ。

よいテーマだ。
頭と身体に分割され、頭ばかりが大きくなってバランスを失って
いるものは、本当のところ何なのか。
最上 頭だけでもダメだし、身体だけでもダメというか、
その両方が区別のない状態に自分を持っていくわけですね。
押井守、最上和子「身体のリアル」p.86
おそらくそれは語ることで解るunderstandものではなく、やはり
身体を動かすことで分かるgetものである部分が大きい気がするの
だけど、「ゴドーを待ちながら」でヴラジーミルとエストラゴンの
二人が必要なように、頭と身体のどちらかだけでよいということは
ないのだろう。
押井守と最上和子による対談の形式をとることで、各人が頭と身体の
混合物でありつつ、それぞれの思考や体験もまた混合されることで
出来上がっているのも、本書のよいところだと思う。

理由付けすることや語ることによって解ること、理解することが
人間を特徴付けるとすれば、語らないことは語るだけと同じくらい、
身体のリアリティを毀損するはずだ。
押井 人間ってだから理解できないものをいかに理解するか
ということが人間の精神活動のすべてだと言ってもいいんでさ。
同p.98
だから、対談の中でも両者から繰り返し語る努力をする話が出てくるし、
こうしてこの本が出版されている。
一方で、固定化する判断基準の中で語り過ぎて、頭ばかり大きくなった
近代以降の人間は、挙句の果てに大きな物語が失われることで、一気に
脆さを露呈しつつある。
そういう時代にあって生きるには、押井守が空手をやり、最上和子が
舞踏をやるように、物理的身体の抽象にも取り組む必要があるのかなと
いうことを感じる。

示すことと語ること、感じることと考えることを、いかにして分離して
いない一つの抽象過程として生きるか。
最上 答えを出すというよりは納得していく。すべての
起こることを納得していくという。
押井 その過程自体を生きるという。
同p.100
それは結局は個々人でやるしかないのだと思うが、こうして他の人が
どうやって生きようとしているのかを見聞きするのはすごく面白い。

2017-10-08

改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』

堀真理子「改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』」を読んだ。

サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」について、
それを書くまでにベケットが体験したこと、ベケット本人が
演出するにあたって述べたこと、ベケットが去った今日に
おいてこの作品が表現すること、の三つを軸にしてよく
まとめられている。
ただし、著者が描き出すように、「ゴドーを待ちながら」
という作品が、頭で理解することを拒否し、言葉だけでは
語れない領域のものであるからには、この作品について
言葉だけで語ることにそもそも無理があるのだと思う。

「わからない」、「理解不能な無の存在」である「ゴドー」を
言葉で言い表そうとしても、
要するに確かなことは何もない、そう断言できる世界に
我われは生きている。
堀真理子「改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』」p.90
のような、大いに矛盾を湛えた一文にしかならない。
だからこそベケットは、ヴラジーミルとエストラゴンを不可分な
ものとして描くことで、精神と身体、心理的身体と物理的身体、
理由付けと意味付けの両方が統合されることを求めたのだろうし、
「ゴドー」は考えることと感じることの両方を通さないと、
解るunderstand/分かるgetことはできないのだと思う。
この本もまた、きっかけとなったMouth on Fireの日本公演と
不可分だったのだろう。

ベケットが「ゴドー」と名付けたものは、松岡正剛が「」と
呼んだり、ヴィヴェイロスが「リゾーム的多様体」と呼んだり
したものや、芥川龍之介の「羅生門」における「下人の行方
と通ずるところがあるように思う。
それを特定の基準だけに基づいて抽象することは、たとえ現状の
支配に対する抵抗だとしても、特定の基準に収束すること自体が
支配そのものであり、ベケットはそれをサルトル的行動として
拒否する。
ベケット自身の基準による解釈ですら正しいとは限らず、作者、
演出家、演者、時代、場所といったいろいろな要素が関係した
抽象の重ね合わせとして、常に更新されるもの。
一人の人間においても、目をくばり、耳をかたむけ、頭をひねる
といったいろいろな抽象によって、常に更新されるもの。
その更新がベケット的行動であり、ゴドーを待つことなのだと思う。

2017-10-06

青春の影

The long and winding road that leads to your door
Always encouraged me
It was very very wild and narrow, however
I'll pick you up now
To pursue my dream was my duty up to now
To make you happy
This is the very nature I live for from now

After you know what love is, a tear was born
And it shed from your eye
"The joy of being in love is just a bridge toward the rigor of love"
Just standing in the wind
You found it out
Just leaving tears in the wind
You blossom into a woman

The road that leads to your door
I make sure of it by myself
You are just a woman from today
I am just a man from today

酒と泪と男と女

"I want to forget everything"
"I feel hopeless loneliness"
In such a mood, a man may take alcohol
Drink, drink and drink too much
Drink to drink himself to fell asleep
Soon he may sleep in peace

"I want to forget everything"
"I feel hopeless sadness"
In such a mood, a woman may shed tears
Cry, cry and cry all alone
Cry to cry herself to fell asleep
Soon she may sleep in peace

なごり雪

Next to you waiting for a train
I'm worrying about time
It's snowing in the wrong season
"This is the last time to see snowing in Tokyo"
You murmur helplessly
Lingering snow may also know when to say when
After the season of playing too much
Spring has come and you get beautiful
Still more than last year

2017-10-05

WaveNet2

WaveNet launches in the Google Assistant

一年ぶりにWaveNetの続報である。
1000倍速くなった上に、より人間っぽくなったらしい。

日本語のデモを聴いてみると、録音された音声としては
もう十分な品質に達しているように思う。
話し方が均一なのは訓練を受けてるんだろうなとか、
録音の過程で音源が圧縮されているのだろうなとかを
補完すれば、人間の声として受け入れられるレベルというか。

Non-WaveNet版は機械だと思えるのに、WaveNet版は
人間だと思える。
人によっては両方とも機械だと思えるかもしれないが、
いずれにせよ、ここでは不気味の谷現象が起こらない
ように思う。
それはたぶん、評価軸が聴覚の一つしかないからだろう。
不気味の谷が現れるには、二つ以上の尺度が要るはずだ。
距離空間の取り方によらず、何らかの尺度で近い
のに遠く感じられるものは不気味になり得る。
An At a NOA 2017-07-14 “不気味
人型ロボットの口からWaveNet版の音声を流したら、
おそらく人間の声を録音したものを流しているように
感じられるだろう。
では、人間の口からだとどう感じられるだろうか。
口と音声が同期していなかったら、吹き替え版の映像
のようだろうか。
ちゃんと同期していたら、本当にしゃべっているように
聴こえるだろうか。

さすがに、あまりに音声がきれい過ぎて、目の前で
それをやられたらしゃべっているようには聴こえない
気がするが、それは視覚にとってのフォトショ加工も
同じことだろう。
Phonoshop加工された声が作れるようなものだと思えば、
画面の向こう側なら、もしかするともしかするかもしれない。

あと、この技術って逆に音声からテキストへの変換にも
使えるのだろうか。
そうだとすれば、文字起こしの精度向上にも貢献できる
だろうし、昨日発表されたPixel Budsのような製品での
言語の自動判定にも役立つだろう。
もう使われてるかもしれないけど。

「そうだ」と「すぎる」

「そうだ」と「すぎる」に対する接続は、
違いがなさそうでいてあるのが心憎い。

「なさそう」と「よさそう」はよさそうで、
「なさすぎる」も言えそうなのに、
「よさすぎる」とは言えなそうだということを
考えだすと、厳密な線引きは出来なそうで、
揺れがあるのもやむを得なそうである。

結局は語感の問題な気がするので、日本語の拍の
感じ方も時代とともに変わっていそうだし、
塊として捉える単位が短くなりそうな口語では
「さ」を入れがちで、短くならなそうな文章では
逆に「さ」を入れなすぎるのかもしれない、
という結論はくだらなすぎるだろうか。

さて、この文章にいくつの「さ」を入れたく
なっただろうか。
「そうだ」と「すぎる」を入れ替えると
「さ」を入れる数は変わるだろうか。

飛ぶDove

飛ぶ飛ばす 都バスはとバス 鳩サブレー

2017-10-03

建築における「日本的なもの」

磯崎新「建築における「日本的なもの」」を読んだ。

外部よりの視線がそそがれると、これに応答するための
対策が内部的に組織されはじめる。
磯崎新「建築における「日本的なもの」」p.11
とあるように、海岸という輪郭線に囲まれた内部において、
外部からの視線が想定されることで、「日本的なもの」が
かたちづくられてきた。
「趣味と構成」、「構築と空間」、「弥生と縄文」、
「自然と作為」のように、想定される外部からの視線が
変わるたびに「日本的なもの」も変化する中で、絶対的な
「日本的なもの」を求めればキッチュなものに陥る。
そして、世界がスーパーフラット化し群島状態に編成される
ようになってみると、それぞれの視線は「か」でしかなく、
それによって組み立てられる「日本的なもの」もまた、
一時的な枠組でしかないことがはっきりとしてくる。

視線の絶対性について、坂口安吾は虚構として一蹴し、
小林秀雄は「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」
と表現した。
磯崎新もまた、絶対的な視線の代わりに、「退行」や
「擬態」の反復によって浮かび上がる「かいわい」の
ような〈しま〉がもつ固有性に対して、「日本的なもの」
というよりは「日本的なこと」を見る。

1945年を10代で経験した磯崎新は、3つ年上の手塚治虫が
「火の鳥」を描いたように、廃墟から始まり廃墟へと戻る
循環として建築をイメージする。
そのイメージが生み出した「日本的なもの」への見方も
また一つの視線でしかないが、インターネットによって
絶対的な輪郭線を失ったにも関わらず、インターネットに
おいてすら絶対的な視線の幻影を求める現代において、
「もどくことの反復」という考え方には学ぶところが多い
ように思う。

反復が停止するか擬態でなく完全な複製になることに
よって、絶対的なものへの収束という壊死が始まる。

2017-10-02

哲学的ナスビ

哲学的ナスビ(Philosophical aubergine, p-aubergine)は、
「物理的化学的電気的反応としては、普通の茄子と全く同じ
であるが、嫁は食べることができない茄子」と定義される。

初夢に登場しても、嫁が君もまた食べることができない。

嫁が君 食えぬ茄子は 人の夢

--
一富士二鷹に次ぐ三茄子も、人の見る夢であるからには
ネズミの食べられるものではない。
哲学的ナスビは哲学的ゾンビに通じ、哲学的ゾンビという
概念もまた要素還元主義の見せる夢でしかない。
そもそも、意識やクオリアと呼ばれるものも同じように
儚いものなのではないか。

政治的スペクトル

「右と左」、「保守と革新」、「自由主義と全体主義」、
「ノーラン・チャート」のように、政治的スペクトルを
一次元や二次元に落とし込む試みは多い。

「保守と革新」というのはつまり、保守が固定化、革新が
発散に対応するのだと思うが、固定化と発散は
「今を維持しようとする力」と「変えようとする力」
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス
なので、維持する対象となる現状が変化するのに合わせて、
態度も変化するものであるはずだ。

「自由主義と全体主義」というのは、人間と国家という
大小の抽象過程のうち、いずれを優先するかということに
対応するのだと思うが、これは軸の設定がまずいと思う。
一人の人間であると同時に、家族の一員でもあり、国家の
一員でもあり、地球の一員でもあり、というように、多数の
抽象過程の重ね合わせとして生きる状態の対極として、
いずれか一つの抽象過程のみを重視する生き方がある、
という「多態性と単態性」のような軸の方がわかりやすい。
自由主義も全体主義も行き過ぎれば単態性に陥り、結局は
その単態性が集団間の垣根を超えられないほど高く、強固な
ものにしているのだと思う。

「多態性を維持しながら、固定化と発散を繰り返す。」
これを標榜する集団はスペクトル上のどこに位置するのだろうか。

いずれにせよ、あまりに低次元に落とし込んだ議論は、
圧縮し過ぎたJPEG画像のようにわけがわからず、
元の姿を想像するのに非常に高いリテラシーを要する。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学

2017-10-13追記
「右と左」の違いは、差異に対する態度だろうか。
右は差異があることを許容し、左は差異がないことを望む。
差異が絶対化した世界も、差異が消滅した世界も、ほとんど
同じくらい望ましくないように思う。

2017-09-29

食人の形而上学

エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ「食人の形而上学」
を読んだ。

「アンチ・ナルシス」という、とうとう世に出ることの
なかった書物についての紹介というかたちをとることで、
「アンチ・ナルシス」という構想は成立し得るのだろう。
元の書物が不在であることによって特定の分割線への
収束を回避し、「アンチ・ナルシス」が成立している
と見れば、それは松岡正剛が「」で取り上げていた
磯崎新の「始源のもどき」にも通ずるように思う。
西洋で培われてきた学問という伝統が、道徳として
一貫性を求めるために「大いなる分割」を不可避なもの
にしてしまうのであれば、未分化な状態について言及する
にはこういった抽象の重ね塗りが必要なのかもしれない。

別様の理由付けや意味付けがあり、それぞれの範囲も
変わり得るという「多文化と多自然」という見方。
抽象自体がそもそも、複合的なもの、二重にねじれた
ものであり、「理由付けと意味付け」という分割も
また一つの抽象でしかない。
ひとつひとつの抽象はもちろん分割を設定するが、
翻訳、擬、抽象による分割の重なり、交換、循環が、
大いなる分割のないリゾーム的多様体となる。
松岡正剛はそれを「世」と名付けた。
おそらくそれは、一つの視点から抽象すればするほど、
かえって遠ざかってしまう類のものである。

2017-09-28

松岡正剛「擬」を読んだ。

松岡正剛は抽象のことを「編集」と呼ぶが、書名の
「擬(もどき)」というのも、いわば抽象のことだ。

ひとつひとつの擬は何らかの基準をもった模倣であり、
「つもり」と「ほんと」がないまぜになっている。
それはそもそも一つの見方でしかないから大いに
「つもり」でもあるし、それが共有されることで
大いに「ほんと」にもなれる。
「ほんと」というものは、ある擬が一時的にでも共有
されている状態のことを言うのである。

だからこそ、擬くことによってしか見えてこない「世」
なるものは、別様な可能性を秘めたcontingentなもので
あってよく、「あべこべ」で「ちぐはぐ」なものとして
「かわるがわる」擬くのが面白い。
逆に、それをconsistentなものとするために、ある基準、
ある擬だけを共有しようとするのはひどくつまらない。

一つの全体へと収束する傾向、「ほんと」への希求、
アーリア神話、グローバリゼーション、局所の大域化が、
擬の仕方、抽象の基準を固定化することによって現れる
壊死の兆候である一方で、新しい擬をもたらすマレビトは、
発散の担い手、瓦解の兆候となる。
壊死と瓦解のバランスは、擬が「つもり」と「ほんと」の
いずれでもなく、いずれでもあることで成り立っている。

個々の擬がもつ基準は、その擬にとっての道理となるが、
複数の擬が重なり合ったときに、道理までは必ずしも
一致せず、道理の差が生まれると、一方から見た他方の
道理は義理となる。
「借り」や「負い目」によって義理が発生するのは、
新しい擬があてがわれるからなのだろう。
義理が軽んじられていくのは、擬の一元化のためだろうか。
擬き方が一つになったディストピアにおいては、
義理は存在しなくなるだろうか。

この本自体、列挙するのも骨が折れるほどの多数の先人に
よる擬を、松岡正剛が擬いたものである。
専門分化という近代西洋の擬をまたぐ、圧倒的な読書量に
支えられたその編集力、擬きぶりにはただただ感服するが、
松岡正剛の擬をただ単になぞるだけでは主題に反する。
日々「好奇心をもち」、「相手と親しくなり」ながら、
マレビトたらんとして擬き続けるべし。

物理層

物理層は、インターネットを構成するケーブルの配線だけ
でなく、人間の物理的身体や国家の制度など、至るところ
に遍在している。
分散化だ、リゾームだ、プロトコルだ、ネットワークだと
言ったところで、結局のところP2Pな形態に移行できない
のは、物理層の変化がアプリケーション層の変化に比べて
ゆっくりだからなのだろう。

その変化の遅さがつまり短絡の堅実性、ハードネスであり、
それによって複数の抽象過程=身体が重層的に存在できて
いるように思う。
ハードウェアの変化が十分に遅いことで、ハードな「自然」
とソフトな「文化」の分割の共有に支障がなくなると同時に、
その共有によって、ソフトな部分もまた、別な抽象過程に
とってのハードとなる。

人間でありつつ、村でありつつ、国家でありつつ、地球で
ありつつ、臓器でありつつ、細胞でありつつ、原子である
という、抽象過程=身体の重層性。
地球も、国家も、村も、人間も、細胞も、臓器も、原子も、
何かしらの集合であり、集合は基準とともにある。
集団を抜きに真理が存在しないのと同程度に、真理の共有なしには
集団は存続できない。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
それはそれで見方としてはよいのかもしれないが、要素の
集合が全体になるという、要素還元主義的な発想になり
かねない。
むしろ、それらはそれぞれ抽象過程=身体であり、あらゆる
抽象過程は同一性の基準とともにあるという見方の方が
しっくりくるように思う。

2017-09-27

理学と工学

意味付けに基づく無意識は、端的に特徴抽出であるが故に、
理屈による理解とは無関係、一定のエラーが避けられない、
等の特徴を有しており、それは理学よりも工学に似ている。
逆に、理由付けに基づく意識は理学に近いとも言える。
An At a NOA 2016-07-31 “工学的
理学が、公理という前提とそこから演繹される体系を重視し、
可能な限りデジューレ・スタンダードに留まりながら、
デファクト・スタンダードによる抽象を「予想」や「仮説」
と呼んで区別するのに対し、工学では比較的デファクト・
スタンダードの比率が大きく、デジューレ・スタンダードと
デファクト・スタンダードの区別も曖昧なように思う。

もちろん、理学と工学という区別自体、割と新しいもの
だと思うので、私見による大雑把な比較でしかなく、
どこにどういった線引きをするかだけである。
ものづくりを全くしないのに理論に明るい状態と、
理論は全く知らないのに優れたものを作る状態の間に、
理学者、工学者、設計者、技術者、職人といった、
いろいろな「専門家」の括りがあるだけである。

どのような「専門家」として括られるにせよ、どのように
抽象しているかについて、より明確でありたい。
その明確化はまた一つの理由付けであらざるを得ないが、
それが意識のわがまま、本来の意味でのエゴイズムなの
ではないかと思う。

多文化主義と多自然主義

実在への殺到」でも触れられていたが、自然と文化の
分割の仕方は、問いとして認識されつつあるように思う。

産官学連携、学際、国際交流、LGBTといったかたちで、
文化的な領野における分割は、自然と文化の分割に比べると、
解消し得るという認識が進んでいるように感じる。
それは専門分化によって精緻化してきた近代への反省では
あるが、自然と文化の分割を固定化したまま、文化の部分
だけの再分割に留まることも可能だ。

文化的活動を思考のようなものとしたとき、自然的活動に
あたるのは、目や耳、鼻、皮膚といった感覚器官から情報が
入力されることに代表される。
自然と文化の分割を固定するというのは、世界は人間が
知覚しているように知覚されるものとしてあることを
想定することであるが、機械学習、医療、人類学、動物学
といった分野の知見が拡がるにつれて、その想定も解消し得る
という認識が形成されてきた流れが、「幹―形而上学」のような
未分化な状態を考えるものとして結晶しつつあるのだと思う。

抽象によって形成される秩序が更新される仕方に、堅実的な
ものと投機的なものがあるとして、その両者が理由の有無に
よって弁別されるとすれば、自然と文化の差もまた、理由の
有無になり、
  • 多自然主義は理由なき堅実的短絡である物理的身体の多様性
  • 多文化主義は理由ある投機的短絡である心理的身体の多様性
を受け容れる態度にそれぞれ対応する。
単一文化かつ単一自然という想定に比べれば固定度は低いが、
両者はいずれも、多自然かつ単一文化や多文化かつ単一自然
を主張することができ、自然と文化の分割を固定した状態で
いられることになる。
単一文化かつ単一自然、多文化かつ単一自然の次として、
多文化かつ多自然に至り、自然と文化の分割の解消に向かう
のは妥当な流れである。
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、
いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに
なると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “
という予感も、どのようなものであれ、分割の解消、再構成が
困難をはらんでいることに対するものなのだろう。

以上のような話における、自然と文化、堅実的と投機的、
物理的身体と心理的身体というのもまた一つの分割であり、
それはいつでも解消し得るものとして提起される。
すべての抽象過程=短絡は本来投機的なのかもしれない。
An At a NOA 2016-11-18 “非同期処理の同期化
ただし、分割することをやめよというのではなく、別の分割の
仕方があり得ることを認識せよというのが、未分化な状態を
考えるということだと思う。

抽象過程において同一性の基準が陰に陽に設定されることで、
「何を同じとみなすか」が決まる。
抽象過程は同一化であり、分割である。
同一なものがあるのではなく、同一なものになるのであり、
それによって分割が生まれる。
対象の異なる状態を観察者が不断に同一化する。これが同一性の正体です。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.320
単一文化や単一自然は分割の仕方を限定する基盤であり、
分割の仕方が一つになり、何もかもについて分割の仕方が
決められた世界はディストピアである。
反対に、知覚すること、思考することも分割することであり、
分割をやめるのは抽象の拒否による秩序の不在をもたらす。
別の分割を想定した下での分割が、秩序の更新を維持し、
生命を壊死と瓦解の間に留めるのではないか。

Where Qs interact

questionの語源はラテン語quaerereで、ask、seekを意味する。
require、acquire、query、questあたりも語源が同じで、
inquireやinquisitiveもその系列にあるようだ。

そういうものをすべてまとめて「Q」の一字に込めることで、
固定化への抵抗としての発散を表す。
「Q」が交錯することで、更新する秩序としての生命が駆動し
続けられるとよいなと思う。
問いの問いによる問いのためのコウシン

2017-09-26

問いの問いによる問いのためのコウシン

問いの更新 Update of questions
問いによる交信 Communication by questions
問いのための昂進 Enhancement for questions

Interaction of Questions

2017-09-25

局所平衡

あらゆる抽象過程は、非平衡系に見出される一つの
局所平衡に過ぎず、同一性の基準は変化し得る。
その変化が緩やかなものは堅実的に、急激なものは
投機的にみえるということかもしれない。

同一性の基準が変化しなければ秩序は更新されず、
動的平衡から静的平衡へと収束する。
更新される秩序としての生は、
更新の不在によって死に至り、
秩序の不在によって解かれる。
An At a NOA 2017-08-11 “壊死と瓦解

2017-09-22

何かであるということ

あるものが何かであるということは、ある基準に照らして
あるものを抽象したときに、是となるかということだ。

無相の情報が抽象される際に、その情報と同一性の基準の
両方が関係する一連の抽象過程の中で性質が見出される
のであって、無相の情報が単独で性質をもつことはない。
波長約700nmの電磁波が単独で赤という性質をもつことは
なく、目という光学センサがその波長を含む電磁波を抽象
する際に赤という性質が現れる。

「波長約700nmの電磁波は赤い」という言明が成立するのは、
人間とそれ以外を主体と客体に分けるという発想の下で、
主体の側のあらゆる存在が人間の目と同じような特性の
電磁波用センサを有することを、暗黙のうちに前提した
場合である。

同じように、ある存在が単独で人間であることはない。
その存在を人間とみる抽象過程が存在して初めて、
その存在は人間であるということになる。
人間がお互いを人間として抽象しながら、自分自身を
再帰的に人間として抽象することで、「人間」という
カテゴリが成立する。
受精卵は、胎児は、自我が芽生える前の幼児は、植物状態は、
脳死状態は、人工知能は、果たして「人間」だろうか。
こういった問いは、主体として確保したとみなしている領域の
変更を必然的に迫るからこそ、センシティヴなのだろう。

奴隷や黒人が人間として抽象されないことが主流な時代があり、
今でも、多かれ少なかれ、自分とは異なるようにみえる存在を
自らと同じカテゴリに入れようとしない傾向はある。
その傾向は消えることなく、同一性の基準の更新はせめぎ合い
ながら緩やかに進行していくと考えられる。

口を衝く

ネットによってもたらされる可能性の領野はあまりにも広く、各自の所属する集団が想定する倫理の領野に降り立つのは至難の業である。
An At a NOA 2017-09-20 “ネット検索
インターネットが、通信可能性まで削ぎ落としたプロトコルによって接続されることによって出来上がる可能性の領野であり、各集団において許容される倫理の領野に比べると茫漠としているというのは、インターネット上での通信が、つい「口を衝いた」ものになりやすいことに端的に表れているように思う。

音声入力が一般的になれば「口を衝く」ことになるのだろうが、キーボードやタッチパネルが主流な現在は「指を衝く」ことになるのだろうか。突き指みたいだ。

ASMR

ASMR=Autonomous sensory meridian responseの動画を見てみた。

雑誌をめくる映像とともにバイノーラル録音された音が流れるだけなのだが、確かに快感がある。
  • ある程度音量が大きいほど快感が強い
  • 映像は全画面にした方が快感が強い
  • 目を閉じても快感はある
  • 別の映像をみたり、他の作業をしながらだと快感は薄い
という傾向があるように感じられる。試せていないが、映像と音をずらしたら、やはり快感は薄まるだろうか。あるいは、雑誌をめくるのが動物やロボットだとしたらどうだろうか。

上記のような傾向を踏まえると、入力される情報(今回は視覚と聴覚のみ)の一致度が高い、つまり視覚センサと聴覚センサのコンセンサスが高純度で成立している状態が鍵になるのではないかと思う。
そのようなコミュニケーションの究極に、あらゆる領域でコンセンサスがとれた状態としてのエクスタシーがあるのだろうか。
An At a NOA 2017-03-26 “人はなぜ物語を求めるのか
おそらく、触覚や嗅覚などの他の感覚器官でもASMRが得られるだろうが、視覚や聴覚に比べるとS/N比を高く保つのは難しいかもしれない。

ASMRとは言わば、抽象化された絶頂感である。
セックスには少なくとも二つの役割がある。
一つは、有性生殖による物理的身体へのエラーの導入であり、もう一つは、コンセンサスの確認による快楽の成就である。
(中略)
コンセンサスの確認とは、これらの感覚を一致させることであり、二つ以上の物理的身体が同一の視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を共有することによって達成される。
An At a NOA 2016-12-20 “セクサロイド”  
セックスにおける絶頂がすべての感覚器官のコンセンサスを目指すのに対し、ASMRは一部の感覚器官のコンセンサスによって成立すると考えれば、「亜絶頂」とか「半絶頂」のような語がイメージに近いか。あるいは「頂」と異なるピークの表現として、「絶端」「絶顚」とか、「頂」に近づくとして、「接頂」「逼頂」とか。

2017-09-21

実在への殺到

清水高志「実在への殺到」を読んだ。

ポストモダンを超えるものとして現れた思弁的実在論という
一連の流れを概括しようという一冊であり、ヴィヴェイロス、
セール、ラトゥール、メイヤスー、デスコラ、ハーマン、
ストラザーンといった気鋭の思想家の展開する理論を、
ウィリアム・ジェイムズや西田幾多郎といった先駆者と絡め
ながら眺めていく。
思弁的実在論について専門外の人間が気楽に参照できる資料は
限られているのでありがたい。
本書で取り上げられる著作は《叢書 人類学の転回》で出版
され始めているので、そのシリーズ巻頭言としても読むことが
できるように思う。

《主体と対象》、《一と多》、《個別と一般》、《外部と内部》
といった二項対立を脱分化、中性化するという「幹―形而上学」
や「純粋経験論」のスタイルは、「近代という大きな物語を批判
する別の大きな物語」になってしまった感のあるポストモダンを
越えていくことができるだろうか。

ニュートラルな、無相の情報の流れがあったとして、何らかの
同一性の基準に照らして構造が抽出され、無相は有相の情報と
して抽象される。
その抽象過程において、情報が失われることによって不可逆性が
生じ、エントロピーが増大するが、抽象過程のある一群を境界に
よって仕切ることによって、不可逆過程による秩序の形成が生命
として現れ始める。
その抽象過程の集団は同一性の基準によって維持されると同時に、
同一性の基準もまたその集団によって維持される。
ここには既に《外部と内部》の区別が生じており、ウィーナーや
ハクスリーはそれを島に例えたが、ハーマンの言うオブジェクト
というのもこれに近いように思われる。

秩序の形成が固定化せず、発散しながら更新される様が、生命と
呼ばれるようになるのだと思うが、秩序の更新は同一性の基準が
変化することによって維持される。
その更新は、物理的身体による意味付けのように、圧倒的多数の
入力データによって堅実的になされる場合と、心理的身体による
理由付けのように、少数の入力データによって投機的になされる
場合の二通りが考えられる。
その違いは、投機性を埋め合わせるものとなる「理由」として
端的に現れる。
パースの記号過程では、前者がインデックス、後者がシンボルに
対応すると思われ、ジェイムズの予期というのも、短絡が投機性
を有するにも関わらず、えいやで変化させた同一性の基準による
抽象が上手くいく様を表しているように思われる。
堅実的短絡と投機的短絡を区別することによって、《主体と対象》
の区別が生じ、人間だけが主体として言及されてきた。
道具というのは、抽象過程を複製したものであるが、特に投機的
短絡による抽象過程を複製したものだけを道具と呼ぶことで、
道具が人間を特徴付けると言われるのだと思う。

《一と多》や《個別と一般》の問題は、同一性の基準の適用範囲を
みだりに拡大することとで生じ、つまりは愛が重いということだ。
その拡大もまた短絡の投機性に起因しているような気がしており、
近代において「専門分化による精緻化」と「局所の大域化」が結び
ついていたことを彷彿とさせる。
おそらく、充足理由律が緩められるとともに、理由の連鎖の構造が
チェイン→ツリー→ネットワークへとつなぎ替えられていくことで、
ホーリズムからの脱却が図れるのだろう。
それはまた、通信プロトコルから善悪の基準が削ぎ落とされ、通信
可能性だけを担保する同一性の基準になることと同じである。
そこではもはや順序構造は一つに定められず、エントロピーの尺度も
一つではなくなるから、大域的な絶対時間ではなく局所的な相対時間
だけが有効になる。
それでも充足理由律を設定する限り、時間を数直線的にイメージしよう
とするだろうが、理由の連鎖が頻繁につなぎ替わる中で、どこまで
そのイメージに固執できるだろうか。
過去とは、抽象機関が抽象する度に、その抽象内容に応じて変化させつつある
抽象機関の性質自体のことであり、記憶と呼んでもよい。
未来とは、未だ抽象されていない情報のことである。
An At a NOA 2017-01-02 “意識に直接与えられたものについての試論

以上のような抽象過程の連続自体が成立する基盤、無相の情報の流れに
当たるものや同一性の基準が設定し得ることのことを、メイヤスーは
《事実性》と呼ぶのだと思うが、その領域ではもはや偶然や必然と
形容すること自体がマッチしないように思う。
偶然と必然は、抽象する段階においてはじめて発生する性質である。
An At a NOA 2017-01-19 “偶然か必然か

本書で取り上げられたような立場は、いろいろな二項対立が未分化な
状態まで立ち戻ることを視野に入れるからには、どのような理論も、
それぞれの理由に応じて投機的な短絡路、一つのオブジェクトを
一時的な秩序として形成しているだけであり、当然それ自身のことを
特権的に真であるとは主張できないと思われる。
それは、個人的に日頃考えている上記の話も同じであるが、どれだけ
メタの螺旋階段を上がろうとも、一つの同一性の基準としての理論を
真だとしてしまうことが、自らの態度と整合しないように思うのだ。
何らかの「人間」というカテゴリを設定することで、「人間」にとって
のみ真であるものには、あるいは至ることができるかもしれないが、
それよりも、同一性の基準を更新しすることで堅実的に、投機的に
短絡し続けること、すなわち五感を研ぎ澄ませ、思考すること自体に
心地よさを覚えればよいのではないかということだ。

あらゆる分化を未分化な状態に戻すことができるのではという態度は、
Post-truth人工知能の法人化とも同じ方向を向いているように思われ、
「人間」という語の指す範囲も変わっていくだろう。
果たして「人間」の集団は、そのような同一性の基準の変化に際して、
壊死も瓦解もせずにいられるだろうか。