2018-07-31

ちのかたち

「藤村龍至展 ちのかたち」を観てきた。

Deep Learning Chairが面白かった。

9か国語でのGoogle画像検索によって得られた「椅子」の画像を用いた深層学習によって形態化された「それ」は、ある意味で「椅子というもの」、「椅子のシニフィエ」を表しているとも言える。猫を認識したGoogleの画像認識技術の話を思い出す。

言語や理由を介した設計は、手続き型プログラミングのように、人間が理解できる線形化のプロセスとなっているが、深層学習による抽象は言語や理由を介さないため、全く新しい「ちのかたち」になっているように思う。それが新しい「理由」になるかどうかは、受け入れる側の問題である。このあたり、3Dプリントされた橋の安全性(というより安心性)にもつながり、興味深い。

塚本さんが言っていたように、建築を物理的に作る限り、超線形設計プロセスのある切断面を実現するしかないため、時間軸方向のコンセンサスの形成が課題となる。これは、実現した切断面が「正義」として埋め込まれてしまうことに対する懸念である。Deep Learning Chairでも、検索で得られたデータセットが、暗黙の正義として埋め込まれたハードウェアとなるため、Tayのような事態にならないための理由付けによる制御は必要なのではないかと思う。
An At a NOA 2016-06-21 “意味付けと理由付け
An At a NOA 2017-07-14 “埋め込まれた正義
An At a NOA 2017-09-15 “専門分化

果たしてこれは椅子なのだろうか。それはつまり、人間はこれを椅子と呼ぶのだろうか、ということと同じである。もしかすると、Deep Learning Chairには、言語や理由に代わる「ち」が垣間見えているのかもしれない。


批判的工学主義の建築

藤村龍至「批判的工学主義の建築」を読んだ。

情報化によってもたらされた情報空間が物理空間と最も異なる点は、距離空間の設定の変更可能性だと考えられる。物理空間においては、距離関数は一意に定められるという前提が強制的に共有されることで、遭遇可能性や空間的熱狂が生じる。それに対し、情報空間においては、距離関数の設定が容易に変更できるため、「近い」ことの判断基準を状況に応じて変化させることで、図式的明瞭性や検索可能性を上げることができる一方で、その判断基準に強制力はないため、必ずしも共有されるとは限らない。情報空間と物理空間の統合とは、一意的なままにする必要がなくなった距離空間を、瓦解が生じないように変更していく過程だと言える。つまりは、「現実」の構成方法の変化ということだ。

距離空間の変化が分野や場面ごとに独立に生じるようになると、暗黙の裡に距離空間に巻き込まれることで、技術依存によってコントロールされた状態に陥る。これは人工が自然化した状態だとみることができ、工学主義的建築とは、距離空間というデータベースに高度に依存することで自然化しつつある建築のことだと考えられる。自然化が行き過ぎれば建築は壊死し、その究極には「BLAME!」の建設者がいるだろう。

このような状況において、距離空間の変化を受け入れつつ、制御しながら再構成していくのが批判的工学主義の建築であり、その方法として「超線形設計プロセス」が提案される。線形の積み重ねによって非線形になっていく超線形のプロセスは、近代以降の科学が、非線形を線形化する過程を「理解」と名付けたのとちょうど向きが逆転しており、「納得」の仕方を形式化したものだとみなせる。いずれも理由の連鎖によって判断を滑らかに接続する過程であり、理由を必要とする存在=意識のための手法だと思われる。意識=心理的身体であると同時に物理的身体でもある人間にとって、物理空間はハードウェアであり、そこでのコミュニケーションは強烈かつ高速であるから、距離空間の再構成に関するコンセンサスをとるためのコミュニケーションに模型という物理的存在を介しているのは巧みだと思う。

様々な集合知による雑多な変化に曝された距離空間を、物理空間にも頼りつつ、制御して再構成することで、壊死にも瓦解にも至らない「モア・イズ・モア」の多様性を維持することはできるだろうか。

2018-07-27

空間〈機能から様相へ〉

原広司「空間〈機能から様相へ〉」を読んだ。

近代の空間概念が掲げた「機能」とは、特定の様相の固定のことであったように思う。それを突き詰めることで得られるのは、予断された真・善・美に縛られた密着空間である。一方で、その否定が、任意の様相を可能にする方向で突き詰められると、結局は様相がない状態への収束を招き、均質空間という離散空間が生み出された。密着空間=終対象と離散空間=始対象の両極端だけが、近代の一真教的な空間概念が提示し得た空間であった。

「機能から様相へ」という題は、特定の様相への固定を免れることで、両極端に回収されないような空間概念を宣言したものとして捉えることができる。

建築に限らず、何かを作る際には、具体的なものとして作らざるを得ないが、具体的なものを立ち上げるには、特定の境界を設ける他なく、それは判断基準を設定することにつながり、少なからず「Aである」という宣言を含んでしまう。それが「Aである」に留まって近代的な機能にならないために、「A・非A・非A非非A」、ΓΓA、〈非ず非ず〉によって、境界=判断基準を固定化することなく、様相の重なり合いに展開していく道に進む。それは三次元空間+時間という絶対的時空概念から、四次元時空という相対的時空概念への変化とも符合している。

一つの判断基準があるのでもなく、ないのでもなく。重なり合うことで、ダブルスタンダードではなくデュアルスタンダードとして現れる。重なり合った様相によって様々に彩られる、〈秋の夕暮れ〉の建築を、作っていけるだろうか。

2018-07-26

滑らかな跳躍

跳躍は滑らかに接続されることで有意義になるのであり、ただの跳躍は孤立を招くのみである。

不意の跳躍不連続点の、滑らかな関数による接続が、理由付けという抽象過程をなす。前者を欠けば固定化し、後者を欠けば発散する。

嵐の海にカッツォが投げ出されたときのゴンの跳躍は、クラピカとレオリオがいたからこそ役に立ったのだ。きらめく才能は放っておいても接続してもらえるが、多くの場合においては、自ら接続しなければならず、何よりも跳躍すること自体が難しい。

理に適う

rationalとreasonableは、どちらも理由付けされている状態を意味しているが、両者では理由に対するスタンスが異なるように思う。

理由には唯一の真なるものがあり、理由の付け方は一意に定まると思っているふしがあるのがrationalで、日本語の「合理的」もこちらに近い。

一方、理由付けに破綻がないことだけに触れ、理由の付け方の違いには比較的寛容なのがreasonableで、日本語だと「筋が通る」だ。

Rational vs Reasonableという記事では、両者の違いについて、rationalが自分に対するものであるのに対し、reasonableは社会的なものであるとか、Overton windowで言うと、rationalは狭く、reasonableは広いといった説明がされているが、これも理由に対するスタンスの違いの現れだと思われる。

つまりは「理に適う」に対する許容誤差をどうするかの違いということだ。「理に適う」の境界は病的なpathological事象によって常に脅かされており、それを受け容れるか否かという固定化と発散の問題である。

2018-07-25

政治的位相空間

位相空間から台集合への忘却関手をFとすると、集合を密着空間とみなす関手GはFの右随伴で、集合を離散空間とみなす関手HはFの左随伴である。

空集合と全体集合だけが開集合である密着空間は、皆が同じ意見をもつとする全体主義のようであり、任意の部分集合が開集合である離散空間は、どんな異論も許される自由主義のようである。

いずれの両極端も望ましいとは思われないが、右随伴が全体主義で左随伴が自由主義というのは示唆的である。

2018-07-26追記
nLabにも、cofree functorを“fascist functor”と呼ぶというジョークが紹介されていた。

夜は短し歩けよ乙女

映画「夜は短し歩けよ乙女」を観た。

お酒と本と祭と風邪と。
長くて短い夜をこめて、
人から人へとご縁は巡り、
夜明けとともにひとつなぎ。

2018-07-24

王国のアリス

マリアの心臓で「王国のアリス」を観てきた。

ギャラリーのヴンダーカンマー感が好きだ。一人の人間の趣味によって蒐集されたものでありつつも、蒐集品それぞれが独自の雰囲気をもつことで、純粋でありながら複雑であるという独特の空気感に溢れている。展示品の方が観者よりも数が多いというのも、ヴンダーカンマーらしさにつながるのかもしれない。

博物館での展示は、あまりにも純粋になり過ぎ、展示品に対する観者の数があまりにも増え過ぎた。これもまた一種のマスコミュニケーション化だが、近代にはこの形式の方がマッチするのだろう。

人形を眺めながら、「人形」には「人」が入っているのに、「doll」には人間に相当する語がないということを考えていた。調べてみると、dollの語源はDorothy=gift of Godということらしい。

天野可淡という神様の贈り物には、独特の魅力があるように思う。二つの顔をもつ人形が鏡に映りながら回転するオルゴールが特によかった。

2018-07-23

Cryptoeconomics

日常生活の基底となる時間や空間の絶対性は、「光速度が無限大である」という暗黙の前提に長らく支えられていた。そのことが暴かれ、代わりに「光速度が有限の一定値である」という前提を採用した場合に、時間と空間がどのように見えるかという観点が「相対性理論」として提唱されたのは、つい100年ほど前のことだ。時間も空間も、ある前提の下でなされる便宜的な解釈であり、時空概念の妥当性の問題は、それが依拠する前提の妥当性の問題に読み替えられる。

貨幣経済の基底となる貨幣もまた、国家のように半ば絶対的な前提に長らく依拠してきた。暗号経済Cryptoeconomicsが目指しているのは、ブロックチェーンという充足理由律に基づく別の前提を持ち込むことで、相対性理論が時間と空間に対してやったのと同じことを、貨幣に対してやり遂げることだと思う。提唱される新たな貨幣観が広く共有されるかは、前提の妥当性にかかっており、暗号のもたらす「固さ」がそれを担保し得るのだろう。

AIとCryptoeconomicsを対置させる話も見かけるが、両者の違いの中で最も面白いのは、「理由」というものにどれだけ期待しているかという点だと思う。

2018-07-20

言説の領界

ミシェル・フーコー「言説の領界」を読んだ。

冒頭で表明される不安は、飛躍がもたらす瓦解に対するそれである。

不安を解消するには拠り所が必要であるが、拠り所があまりにも確固としたものであれば飛躍することが叶わず、その先には壊死という別の死が待っている。この拠り所へのアンビヴァレンスを述べたのが「逆転」の原則であり、意味を生み出す拠り所となるポジティヴな面と、特定の「真なるもの」にむけての排除、制限、占有を生むネガティヴな面を併せもつ「権力」の問題へとつながる。権力は、抽象過程における判断基準や除算モデルにおける商と同じように、同一性の基準を与えるものである。

長い間充足理由律に縛られ続けてきたことで、「人間学的思考」という一真教へと壊死しつつある秩序から解放し、拠り所をもちながらも、時折飛躍できるような、壊死と瓦解の狭間で更新される秩序へ。そのような「生きた」言説を、「生きた」ままに捉えようとするのが系譜学なのではないかと思う。

系譜学もまた一つの飛躍であり、この講義自体が系譜学の対象となるような言説だったからこそ、フーコーは不安を吐露したのだろう。

2018-07-16

ETERNA

一枚ごとに完結しない、流れを持った写真。連作にすることなくそれを表現するのは難しいが、よいテーマかもしれない。

2018-07-13

Coastal Colonies

マッシモ・ヴィターリ写真展「Coastal Colonies」を観てきた。

大判カメラが捉えた海岸は、休暇を満喫しているであろう人々で溢れている。一枚一枚の写真はどれも大きく、解像度も高いので、それぞれのストーリィを想像してしまいたくなる。そういう意味では、ピーテル・ブリューゲルの絵に似たものを感じる。

自然と人工がせめぎ合っているかのように、海と空の青の間に人間や建物がおさまった構図が、とても海岸らしくて好きだ。


2018-07-08

亡霊のジレンマ

カンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」を読んだ。

絶対者という究極の理由が固定され、そこから唯一の理由の連鎖が連なるという、最も厳しいかたちでの充足理由律に縛られた形而上学的哲学においては、その理由の連鎖に予め含まれた潜勢的なものにしか考えが及ばない。それに対し、絶対者に到達する能力があるという意味で思弁的ではありながら、充足理由律を緩め、理由の連鎖、あるいは絶対者までをも、別のものへと逸脱、飛躍させることで、潜在的なものへの視野を拓くことが可能であること、すなわち、思弁的でありながら形而上学に陥らずにいられることを、メイヤスーは示そうとしているように思う。

宗教的でも無神論的でもないことによる「亡霊のジレンマ」の解消、SFでなくFHSたらしめるもの、韻律詩と自由詩のはざまでの「賽の一振り」、メイヤスーによる突飛とも捉えられかねない「賽の一振り」の解釈。そこには逸脱、飛躍、脱線、遮断による、理由なき新たな絶対者の戴冠がある。

あまりに形而上学的であることが幽閉や壊死をもたらす一方で、逸脱が激しすぎれば、消散や瓦解というもうひとつの死が訪れる。壊死と瓦解の間で揺らいでいるのが生きているということであり、瓦解するほど激しい変化でなければ、経験的な世界は安定的なものとして感じられるのだろう。

Ⅵ章ではベルクソンを受けて減算モデルを提案しているが、個人的には除算の方がイメージが近い。減算は部分対象であるから、物質から表象への単射を考えることで、表象は物質を節制したものになるが、除算は商対象であるから、物質から表象へのエピ射を考えることで、表象は物質を綜合すると同時に節制したものになる。それはつまり、エピ射が何らかの判断基準に基づく同一視であることで、複数の物質の要素が綜合されつつ、一つの表層の要素に対応することで、節制されるということだ。整数環Zから3を法とした同値関係によって剰余類環Z/3Zを作るように、無限の物質から有限の表象が現れることも考えられる。ベルクソンの「縮約の記憶力」とはこのエピ射のことであり、記憶の更新は判断基準の変化のことだと考えることができる。また、意味というものが、結局は何をもって同じとみなすかという判断基準に支えられているのだとすれば、「想起」というのは「縮約」の裏返しでしかないように思う。メイヤスーも節制と綜合を区別しているが、除算モデルでは、それらは同じことの両面でしかない。

メイヤスーの話には共感できる部分も多いが、個人的には、逸脱というのは本来的には投機的になされる賭けであり、ある種のバグに過ぎないと考える方がしっくりくる。その投機的短絡speculative short circuitを思弁的speculativeと読み替えるという別の飛躍によって、意識、理性、精神と呼ばれるものは自らを称揚する傾向にあるが、行き過ぎるのもどうかと思う。メイヤスーの思考も自分の思考も含め、あらゆる逸脱を、ただ面白いものとして戯れているのがちょうどよい。

2018-07-04

エコラリアス

ダニエル・ヘラー=ローゼン「エコラリアス」
を読んだ。

記憶することによって秩序が形成され、忘却することによって秩序が解体される。そのような記憶と忘却の連鎖の中で更新される秩序が言語を支えているのは確かであるが、意識されない記憶や忘却というものもまた、言語を支えるものとして存在する。いや、意識されないものであるからには、それを記憶と忘却に区別することはできないし、「存在する」と言うこともできないだろう。そもそも、意識されるものと意識されないものという区別すら、意識による理由付けによって生み出されるものだ。

そういう全体をひっくるめた、{意識|無意識}による{記憶|忘却}の過程のことを、著者は谺Echoと呼んでいるのだと思う。

残響する谺は、記憶することであると同時に忘却することでもある流れをなしている。そのことを「記憶の大部分は忘却によって作り上げられている」とボルヘスは語っていた。その流れの所々を記憶と忘却のどちらか一方に決めることで、言語といううたかたを見出してしまいたくなるのは、判断機構である意識の性なのだろう。

千の詩句を暗唱した後に忘却するという試練を乗り越えたアブ−・ヌワースのように、「層」、「言語の死」、「原初の言語」といったものを谺の中から抽象できる一方で、そこに拘泥せずにいられてこそ、凡才は天才になれる。

天才の空っぽさをもってしてもなお、谺の中に、ベンヤミンが「忘れえぬもの」と呼んだ秩序が響いているのであれば、それは人間の物理的身体のセンサ特性を反映したものになっているのだと思われる。

風立ちぬ

宮崎駿「風立ちぬ」を観た。

美しいものを求める過程は、それ自体もまた美しい。むしろ、何もかもが一つの純粋さへと向かう過程が、総体として美しいのだろう。

複雑さが純粋さへと抽象される過程において、多くのものが捨象される様を、人は残酷さと呼ぶ。このあまりに複雑な世界においては、美しさは残酷さを帯びざるを得ない。

だが、その複雑さを抱えることこそ、生きるということなのかもしれない。