2017-12-31

2017年

今年読んだ本。
  1. 意識に直接与えられたものについての試論
  2. 生命、エネルギー、進化
  3. すばらしい新世界
  4. 科学と神
  5. 人間機械論
  6. エントロピー再考
  7. エレホン
  8. 熱学思想の史的展開
  9. 言葉使い師
  10. 私たちは生きているのか?
  11. 時間の非実在性
  12. 読書について
  13. 未来のイヴ
  14. 進化論の射程
  15. 文化進化論
  16. 人はなぜ物語を求めるのか
  17. GA JAPAN 145
  18. 暴力と社会秩序
  19. ディザインズ
  20. ビットコインとブロックチェーンの思想
  21. サピエンス全史
  22. 情報社会の〈哲学〉
  23. ゲンロン0
  24. 科学とモデル
  25. 時の概念とエントロピーならびにプロバビリティ
  26. 思考の体系学
  27. 19世紀パリ時間旅行
  28. ダマシ×ダマシ
  29. ラインズ
  30. あなたの人生の物語
  31. 人間はなぜ歌うのか?
  32. 人間の未来
  33. 集合論入門
  34. 現代数学入門
  35. ネーターの定理
  36. ハイブリッド・リーディング
  37. 恣意性の神話
  38. ゲーデル
  39. 幼年期の終り
  40. 技術の道徳化
  41. 都市と星
  42. 人間の経済
  43. 青白く輝く月を見たか?
  44. 意識と本質
  45. ゲンロン5
  46. イメージの自然史
  47. 胎児の世界
  48. リズムの本質について
  49. 生命に部分はない
  50. 「ものづくり」の科学史
  51. 善悪の彼岸
  52. マッハとニーチェ
  53. 何を構造主義として認めるか
  54. 職業としての学問
  55. 神話と科学
  56. 社会思想の歴史
  57. 時間の比較社会学
  58. 現代社会の理論
  59. 共同体の基礎理論
  60. プロトコル
  61. 実在への殺到
  62. 食人の形而上学
  63. 建築における「日本的なもの」
  64. 改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』
  65. 身体のリアル
  66. 借りの哲学
  67. 日本の思想
  68. ピアノを弾く哲学者
  69. ペガサスの解は虚栄か?
  70. 政治的なものの概念
  71. 組織の限界
  72. 語るボルヘス
  73. 民主主義の内なる敵
  74. 多層的な類人猿
  75. 一四一七年、その一冊がすべてを変えた
  76. 日本の人類学
  77. 都市と野生の思考
  78. 遊びと人間
  79. ユートピア
  80. 脳の意識 機械の意識
  81. 日本問答
  82. 江戸の想像力
  83. 演劇とは何か
  84. 宇宙際Teichmüller理論
  85. 天文の世界史
  86. 日本人とリズム感
  87. 圏論
  88. 死刑 その哲学的考察
  89. コミュニケーション学講義
  90. 考える/分類する
今年観た映画。
  1. 屍者の帝国
  2. 沈黙
  3. 虐殺器官
  4. her
  5. 楽園追放
  6. メッセージ
  7. BLAME!
  8. ホドロフスキーのDUNE
  9. リアリティのダンス
  10. エンドレス・ポエトリー
  11. アバター
  12. ラ・ジュテ
列挙してみると、一年前は遥か以前のことに感じる。

判断基準の更新が滞ればあっという間に感じられるし、
判断基準の更新が著しければ長い時間に感じられるのか。
近代的な絶対時間との比較でしかないが、判断基準が
壊死しかけていないかの目安にはなるかもしれない。
年齢との相関はやはり多少はあるのだろう。

今年は仮想通貨とスマートスピーカが流行った。
これらはアナログなメディアとして「常識」になるのか、
一過性のデジタルなメッセージとして流れ去るのか。
将棋や囲碁では、AIの手に対する理由付けが頻繁に
行われるようになり、定石という「常識」へのAIの
影響は、もはや無視しできなくなったように感じる。

こういったことを、かつて通貨や言語が辿ったのと
同じような、デジタルがアナログになる過程として
振り返るのも面白いのではないかと思う。
それはつまり、人間の判断基準が更新された足跡を
みるということだ。
一年後の人間はどれだけ変化しているだろうか。

局所化

何かを判断するための判断基準について、地球規模で
共有することをグローバリゼーション、地域ごとに調整
可能にすることをローカリゼーションと呼ぶことを
踏まえると、近代以降の傾向は局所の大域化と呼ぶのが
妥当である。

しかし、それは西洋という局所から見たときの感覚で
あって、グローバリゼーションによって判断基準の変化を
余儀なくされる側からすれば、大域の局所化である。

さらに、「個人」がそうであるように、「局所」もまた、
何らかの判断基準を共有することで一つのものとして
認識されるのだとすれば、「地球規模で判断基準を共有
すること」は、局所化と言った方がしっくりくる。
果たしてそういった尺度は一意に存在するだろうか。
その尺度の一意性が成立する範囲のことを、個人と呼ぶのかもしれない。
An At a NOA 2016-10-04 “不気味の谷

2017-12-30

仲の良し悪し

仲の良し悪しというのは、判断基準のすり合わせが
できるかできないかの現れであるように思う。

元々判断基準が同じようであれば、仲が良いように
見えるだろうし、判断基準がずれていても、それを
すり合わせるためのコミュニケーションがとれる
関係は、仲が良いと言えるだろう。

逆に、仲が悪いというのは、ずれている判断基準を
すり合わせられないことであり、ずれの大きさや
すり合わせに掛けられる労力が関係することになる。

各々の判断基準は、仲の悪い相手以外の多くの人間
からも影響を受けながら変化しているのだから、
不仲には原因と言えるようなものはないのではないか
と思うが、一般的には、判断基準がすり合わせられて
いない判断の対象のことを「不仲の原因」と言うことが
多いように思われる。

2017-12-28

考える/分類する

ジョルジュ・ペレック「考える/分類する」を読んだ。

分類するには判断基準が必要になる。
判断基準を決めて分類すれば、一貫した分類になるが、
果たしてそれでよいのか。
考えることは判断基準の変化をもたらし、分類は完遂
されないか、完遂された途端に別の分類が始まる。
私は決して最後まで整理しつくしたことはなく、
まったくの無秩序よりは少しはましな仮のあいまいな
整理でやめてしまうことになる。
ジョルジュ・ペレック「考える/分類する」p.126
個人にとっての分類は、集団にとってのモードと同じ
ように、つくられ解体されることで個人を維持させる。
確定した理由を共有させてくれるものという点で、
公権力と同じ機能を果たすものである。

分類が終われば固定化し、分類が始まらなければ発散する。
その狭間で「考える/分類する」。
「分類するは人の常」
その業を甘んじて受け入れようということだ。
三中信宏「分類思考の世界」p.301
結局、私は自分を整理するのだ。
ジョルジュ・ペレック「考える/分類する」p.126

構造と射

構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
An At a NOA 2015-11-02 “構造
射morphismは、対象objectの構造を保つものであるが、
射という視点によって保たれるものが構造であるとも言える。

設計においては、構造を設定して射を探すよりも、射を設定
して構造を探す方が面白いように思う。

2017-12-27

バーチャルYoutuber

あんまりちゃんと見たことないけど、Youtuberの
面白さは、自分でやろうとしたら場所とか時間とか
お金の関係でハードルが高いものを実現してくれる
ところにあるのではないかと思う。

可能なものpossibleとして妄想だけはできるものを、
実在のものrealにしてくれる面白さというか。
送り手であるYoutuberも受け手である視聴者も
現実actualの空間にいるというのは、実写の写真や
映画と同じであり、場所、時間、お金などのactual
ならではの制約を解こうとする企画と相性がよい
ように感じる。

最近はバーチャルYoutuberというのが登場したようで、
そこでは送り手であるYoutuberがactualな存在から
virtualな存在になっている。
そうすると今度は、マンガやアニメ、ゲームと同じ
ように、actualな受け手が受け取れるものにするために
制約を設ける必要が出てくる。
人間のかたちをしていたり、まばたきをしたり、
動いてみたり、しゃべってみたり。
何でもありのvirtualをactualに近づけるには、Saya
同じように、制約を取り入れるしかない。

一方で、virtualにおいてactualを完全に再現することは、
技術的にはすごいかもしれないが、受け手の想像する
actualの幅を狭め、virtualである必要がなくなっていく。
容姿や声をデフォルメすることは、受け手の内部での
virtualからactualへの想像の余地を残すという意味で、
virtual独自の面白さを残すことになると思う。
(これは、actualからvirtualへの忘却関手をどのように
設定すればよいかという問題である)

それにしても、のじゃおじには笑った。
視覚情報vs聴覚情報&発話内容のアンバランスさ。
actualな中の人を想像しようとするたび、無遠慮に侵入
してくるvirtualな狐娘の姿。
virtualならではというか。
actualには真似できない面白さがある。

コミュニケーション学講義

ダニエル・ブーニュー「コミュニケーション学講義」を読んだ。

入力されるデータにはかたちがなく、ある判断基準に
基づいて解釈されることでかたちをもつようになる。
この抽象過程が「意味」や「情報」であり、実体として
よりも、プロセスとして捉えるのがよいように思う。

データは、抽象過程の判断基準に身を委ねるしかないが、
抽象過程を連ねて判断基準をすり合わせることで、何らかの
「意味」や「情報」を共有できるようになる。
その過程がすなわちコミュニケーションである。
送り手が為すのは「提案(proposer)」することであり、
受け手はそれを「自由に扱い(disposer)」、その提案の
働きを理解するフレームを与え、時には野蛮な解釈を
加えたりするのです。
ダニエル・ブーニュー「コミュニケーション学講義」p.68
私たちは自ら発したり受け取ったりする言葉を、スポンジや
ゴムを扱うように引っ張って変形させたり、自らの本質を
そこに注ぎ込んだり、自らの生命を与えたりします。
それが意味をなすということです。
同p.92
それ自体で価値ある情報あるいはノイズなるものは存在
せず、その価値はつねに、それぞれの人の固有世界が
いかに選択し受容するか、あるいは情報に対して身を
閉ざすかに左右されるのです。
同p.133

パースの記号論で言えば、判断基準は解釈項であり、
人間という抽象過程のうち、物理的身体による意味付けが
指標に、心理的身体による理由付けが象徴になる。
人間は意味付けや理由付けをしないではいられず、発話行為、
一次過程である意味付けは、発話内容、二次過程である理由
付けに対して常に先行する。
記号の帝国が自然的世界を二重化する―つまり文化一般を
含む記号圏が、自然、動物、植物を含む生命圏を「押さえ、
抱え込む(contenir)」わけです。
同p.47
何も言わずにいられるとしても、示さずにはいられないのです。
同p.82
文化は空虚を恐れるものであり、人間の精神は、説明や
満足させてくれる教えを欠いては生きていけません。
同p.116

共有された「意味」や「情報」のうち、固定化して前景化
しなくなった透明な部分がメディア、解釈項の違いによる
ズレの余地のある部分がメッセージとして機能する。
アナログとデジタルの話で言えば、メディアはアナログ
であり、メッセージはデジタルである。
メディアとメッセージの区別は、コミュニケーションを通じて
常に変化するはずだ。
デジタルメディアは人間にとってはメッセージであるが、
機械にとってはアナログであるし、未来の人間にとっても
アナログになる可能性はあるだろう。
一つの判断基準に固定化することで抽象過程の透明度は
増し、かつてのデジタルはいつかアナログとなる。
An At a NOA 2017-12-23 “アナログとデジタル

メディオロジーは圏論のように広く、それだけに面白い。

2017-12-26

死刑 その哲学的考察

萱野稔人「死刑 その哲学的考察」を読んだ。

遺族が死刑を望む感情も、人を殺してはいけないという
道徳意識も、物理的身体による意味付けのレベルの本能
的な判断であり、心理的身体による理由付けに基づく理性
的な判断だけによってその是非を語れるものではない。
個別案件についての定言命法的な判断基準は、「語り」と
「示し」の両方による直接のコミュニケーションを通じて
しか形成できないように思う。

一方で、直接のコミュニケーションを続けるには人間の
集団はあまりに大きくなりすぎている。
その状況で何とか間接的なコミュニケーションだけで
判断基準の共有を行おうとしていることの現れが、
「何が道徳なのか」「死刑は是か非か」ということを
理解しようとするプロセスなのだと思う。
自殺や安楽死を含む殺害が禁止されることについて、理由付け
によって「理解」することは難しいが、人間が理由を気にする
ことで特徴付けられるとすれば、理解しようとすること自体が、
この種のフィードバック機構が作動していることの現れの一部
なのだと思われる。
An At a NOA 2017-11-06 “殺してはいけない理由

理由付けによる理性的な判断は、意味付けによる本能的な
判断を遅延させる。
理由付けによって遅延された処理は、どこかで評価される
必要があるが、それを行うのが公権力の役目となる。
公権力は、直接コミュニケーションがとれない程に肥大化した
集団において、確定した判断基準を共有するための仕組みである。
そして、本来間接的なコミュニケーションだけでは確定できない
判断基準を確定させることは、常に冤罪となる可能性を伴う。
判断を遅延させた段階で、すなわち理性を介した段階で、
冤罪の可能性は既に発生している。

現行犯をその場で殺す代わりに裁判を経て死刑にすることや、
死刑にする代わりに終身刑にすることは、いずれも理由付け
による処理の遅延化であり、遅延評価をいつまで待てるかを
決めるのが処罰感情である。
遅延評価の先延ばしが少しずつ長期化していっているのは、
人間が長期的な視点で生きるようになったり、全体として
死ににくくなったことの現れだろうか。

「死刑は是か非か」という議論は、結論を急がずに続けていく
ことによって意味をもつのではないかと思うが、それもまた、
理由付けによる判断の遅延に次ぐ遅延である。
人類は限りなく延ばされた一瞬の中で、
それに対する答えを探り始めている。
An At a NOA 2015-10-23 “彼女は一人で歩くのか?

2017-12-25

圏論

ここ数日は圏論の本を読んでいる。

圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」
清水義夫「圏論による論理学」
スティーヴ・アウディ「圏論」

「比喩=関手」という理解
西郷甲矢人「すべての人に矢印を―圏論と教育をめぐる冒険」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第12章 p.205
ということを考えると、圏論に関するあらゆる説明が関手であり、いろいろな本の中で少しずつ違う表現で説明されている圏論を理解すること自体が、圏論的なんだろうなと思う。

身体で何かを認識するとか、頭で何かを理解するという抽象過程がそれぞれに関手であり、理由付けによる理解が意味付けによる認識と違うのは、ある関手による理解から別の関手による理解へと、自然変換によって移行できることなのだろうと思う。物理的身体による意味付けの関手圏では、ユクスキュルの環世界のように、元来備えているセンサの特性によって動物や機械が比較的孤立しているのに対し、心理的身体による理由付けの関手圏では、ステレオタイプによって頭が固くなっていなければ、関手同士をつなぐ自然変換が比較的多い、とか。さらに、その自然変換を米田の補題みたいなものでモノであるかのように捉えたものが意識と呼ばれる、とか。

余等化子Qとq: B→Qは、z: B→Zのうちの「常識」とか「慣習」とかに当たる部分で、uq=zという分解は、そういう透明にできる部分を括り出したものなのではないかと思う。
あらゆる対f(a)=g(a)を“同一視”することによって、余等化子q: B→QはBを“潰したもの”と考えることができる。
スティーヴ・アウディ「圏論」p.76
余極限とは、モノを集めて貼り合わせて対象を作る圏論的構成のことです。
春名太一「圏論と生物のネットワーク」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第15章 p.257
その双対である等化子Eとe: E→Aは、
問題の本質を定義として抽出したもの。定義によって「これが本質だ!」と看破することで、問題自身がほとんどそれで解けてしまう
[座談会]「「数学本流」にはなりたくない―今出川不純集会、三たび」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第16章 p.275
という「良い定義」に通ずるものがあるように思う。等化子がデジューレ・スタンダードだとすれば、余等化子はデファクト・スタンダード?

なんだか思いつきで適当なことを書いているように思うが、圏論の説明の関手圏を覗くのは楽しいので、いろいろな説明を読んでみようと思う。

2017-12-23

アナログとデジタル

デジタルはアナログに比べると離散的であり、
それはある規則に従って元の情報を別の記号で
置換することで達成される。
デジタイズとは、情報を記号によって置換する
過程である。

置換後の情報が置換前の情報に対する真の
部分空間となっていれば、一部の情報は欠落
するものの、情報処理の負荷が下がる。
このときの部分空間への縮退が、情報の離散
的な状態を生んでおり、離散化された情報で
元の情報をうまく表現するには、規則の設定が
重要になる。

言語、音階、暦、貨幣、UTF-8、24bitカラーなど、
身の回りはデジタイズされた情報にあふれているが、
何らかの判断基準に基づいて「同一視」する過程が
デジタイズだとすると、認識や理解を含むあらゆる
抽象過程がデジタイズだということになってしまう。

デジタイズを特徴付けるものがあるとすれば、
ひとつには離散度の高さだろう。
アナログとデジタルの違いって
解像度の違いのことでしょ?
An At a NOA 2015-07-15 “A/D
当該抽象過程によって、より集約された情報で元の
情報を表現できるようになるのが、デジタイズである。
ただし、その閾値は曖昧である。

もうひとつには、その抽象過程が意識的なものである
ことだと思われる。
つまり、物理的身体による意味付けでなく心理的身体
による理由付けであり、堅実的短絡でなく投機的短絡
であり、ある種の飛躍や逸脱を含むということだ。
物理的身体にハードコードされた無意識的な抽象過程は、
デジタイズとして意識されない透明な抽象過程であり、
アナロジーという判断基準に基づくアナログな抽象過程
として分類される。

離散度の高さと意識による飛躍の二つがデジタイズの
要件だとすれば、後者によって、アナログとデジタルの
境界は判断基準の固定度にしたがって揺らぐ。
一つの判断基準に固定化することで抽象過程の透明度は
増し、かつてのデジタルはいつかアナログとなる。
それは大いなる常識へと壊死することだと言える。
近代的ユートピアの果てにあるディストピアにおいては、
あらゆるものがアナログになっているだろう。

p.s.
「アナログかデジタルか」という抽象過程についての抽象は
デジタイズである。
ただし、ステレオタイプによってかなりアナログ化している
ように思う。

2017-12-21

日本人とリズム感

樋口桂子「日本人とリズム感」を読んだ。

稲作の作業で息を合わせるために、個を同質化するように
培われてきた日本のリズムは、音楽や舞踏だけでなく、
言語や所作、絵画など、文化の至るところに根付いている。
上へ外へと向かい、円を描くような粘りのある連続性をもつ
西洋近代のリズムに対し、日本のリズムは下へ内へと向かい、
そこには表と裏の断絶がある。

分離した表と裏は、「コソアド」の「ソ」の場によって繋がれる。
「コ」と「ア」がそれぞれの主観の中の場であるのに対して、
「ソ」は「コ」と「ア」の間にあるのではなく、主観同士を繋ぐ
別の場として現れ、日本特有のリズム感をつくる。
「ソ」の働きは、切り取るとともにその間をつなぐ、
独特の時の意識をつくっていった。
樋口桂子「日本人とリズム感」p.278
歌舞伎の花道や日本絵画の中景にみられる「ソ」のイメージは、
表と裏をつなぎながら、そのどちらでもない「移し」の場所であり、
「もの」と「こと」を使い分ける感覚や「なつかし」という感情を
醸成してきた。

良い悪いというのは、ある判断基準に照らして合致するか否か
でしかないから、リズム感が悪いというのも、西洋近代の
連続的なリズム観という判断基準を前提してのことである。

「ソ」の文化のリズムもまた、これはこれで面白いものである。

2017-12-20

天文の世界史

廣瀬匠「天文の世界史」を読んだ。

「天文」という言葉には「天からのメッセージ」
という意味合いがあります。
廣瀬匠「天文の世界史」p.151
何事にも理由を付けないではいられない人間は、天から
やってくる情報にも理由付けしてきた。
冬至を境に復活する太陽のお祝いがクリスマスになり、
土星・木星・火星・太陽・金星・水星・月が24 mod 7 = 3
から月火水木金土日の曜日順になる。

理由付けであるからには、唯一真なる理由は存在しないと
思われ、「正しい天文学」というのは、広く共有されている
というくらいの意味でしかない。
宇宙の空間と時空を巡る思索の歴史は、人類の理解を
超えた現象にとりあえずの「説明」を用意してから、
理解が追いついたときにそれを書き換えるということの
繰り返しであった
同p.234
その繰り返しの果てに「「宇宙の説明」の最終形」にたどり
着くことがあるとしたら、それは意識の天文に対する興味が
なくなるときだろう。
「はじめに」で書かれているように、「問い」をつないでいく
ことで、天からやってくる情報への理由付けを続けるのが
面白いのだろうと思う。

2017-12-19

宇宙際Teichmüller理論

宇宙際Teichmüller理論を使ったABC予想に関する論文が査読を通ったというニュースを見て、星裕一郎「宇宙際Teichmüller理論入門」を読んでみた。

相当噛み砕かれたていねいな解説を読んで連想したのは、異なる世界観間での意思疎通についてだ。

東洋哲学と西洋哲学、仏教とキリスト教、父権制と母権制、日本神話とギリシャ神話、日本語と英語、理系と文系、あるいは自分と他人。それぞれがもっている判断基準(環構造)が必ずしも完全には一致しない場合には、コミュニケーション(リンク)の際に、解釈、翻案、翻訳、言語化といった、不定性の導入による剛性低下が生じることになるが、翻訳や言語化(不定性の管理)が適切であれば、エタール的部分(シニフィアン?、象徴界?)の間の関連付けのみからFrobenius的部分(シニフィエ?、現実界?)の間の関連付けを導くことができる。

つまり、他人がどのような情報を受け取って、それをどのように抽象しているのかを知ることができなくても、「so-ra-ga-a-o-i-ne」という聴覚情報を介して、ちょっとした誤差の範囲内で、空の青さを見ている感じを伝えることができる、というような。いわゆるクオリアというのは、エタール的部分として符号化することができないFrobenius的部分を、あえてエタール的部分であるかのように表現したものだと言えるだろうか。人間がみな同じようなクオリアを共有しているという仮定は、エタール的出力とFrobenius的対象の間のKummer同型に通ずるものがある。

復元が上手くいくあたりが面白いと思うのだが、細かいところはあまり理解できていない。「数でなく関数の特殊値として扱う」とか「Hodge劇場」のあたりは充足理由律と関係があるだろうか。あるいは充足理由律が多輻的アルゴリズムに相当するのだろうか。

全く的外れなことを書いている可能性も高いが、どうだろう。望月新一氏、星裕一郎氏、数学者、一般人というのもまた、異なる世界観をもつ人間同士であるから、宇宙際Teichmüller理論の「理解」を共有できるかということ自体が、この理論の対象になっているようにも思う。

2017-12-18

トイレ

冷凍用トイレ
れいとうようといれ

2017-12-12

演劇とは何か

鈴木忠志「演劇とは何か」を読んだ。

人間には、フィクションとしての共同性をもたなければ
生きていけない部分と孤人的な部分があり、その関係を
見すえた上で個人になるために表現行為や創造活動を
しているのが集団作業としての演劇なのです。
鈴木忠志「演劇とは何か」p.111
集団において共有されてきたものは、言語、習慣、常識、
「型」、「形」などの判断基準として析出する。
それが固定化して集団が壊死することを防ぐには何らかの
エラーを導入する必要があるが、歴史性を免れたエラーの
導入は集団を瓦解させる。
笑い遊びが固定化と発散の間でバランスを取ろうとする
衝動であるのと同じように、演劇を含む芸術全般もまた、
これまでの関係を踏まえた上で新しい関係を築く行為である
ことによって、更新される秩序としての集団を駆動する。

観客が「信仰を等しくせざる者」として異質な判断基準を
もたらしながら、共有されてきた判断基準が同質なものに
収斂しないように、俳優が「舞台的身体感覚を遊ぶ」。
それぞれの身体がコミュニケーションする場所からも情報を
受け取りながら関係を更新するプロセスである演劇もまた、
生命的なるものである。
演劇とは観客と俳優との間で起こるもの、というより
観客と俳優とが同時に共存する場で起こるもの=作品だと。
同p.55

2017-12-11

江戸の想像力

田中優子「江戸の想像力」を読んだ。

近世とは、地球的規模の流動が起こりながらも、世界はまだ
均質化していなかった時代のことである。
田中優子「江戸の想像力」p.242
近代的な局所の大域化による固定化への収斂が始まる以前、
壊死と瓦解のあわいで秩序の更新が維持されていた近世。
その完成することのない生命的な過程を支えていたのは、
本物と偽物、善なるものと悪なるもの、知と愚、といった
あらゆるものを相対化する方法としての「連」、「列挙」、
「俳諧化」であり、笑い遊びにも通ずるものである。
俳諧化とは、このような相対化のくり返し運動の側面を
もちつつ、相手を徹底的にほぐし、その顎を解き、あるいは
滑稽化することによって批評する方法なのである。
つまりは、笑うことによって動き続ける方法なのだ。
同p.71
それらは投機的短絡の最たるものであり、理由付け機構
としての意識を意識たらしめるものだと思われる。
日常の言葉には還元できず、説明の言葉にも乗ることを得ず、
しかも不可解を不可解のままでおくことはできない人間の
性癖があるとすれば、シンボリックな言葉をもって世界
(人間をも含む)を物語る、という行動は、人間の普遍的な
問題として考える必要がある。
p.174
平賀源内と上田秋成に代表される両極を軸にした動的な
秩序は、マスメディアのようなクライアントサーバ型の
通信方式が発達し、大きな物語を共有できるようになる
につれて、より静的な秩序である近代へと移行する。
近代にはつながらなかったものも近世にはあふれていた
はずであり、それを捉えるには、近代的なチェイン構造
ではなく、ツリー構造やネットワーク構造として歴史を
想定する必要があるのだろう。

物理的なレベルまでP2P型であるような通信方式が大域的に
展開されたとき、近代的な個人に代わって、空っぽの器で
あった源内のような近世的な個人が現れ、Post-truthの時代を
担うことになるだろうか。
近代的なユートピアは必然的にディストピアへと収斂
するが、果たして近世的な個人は壊死も瓦解もしない
近世的なユートピアを想像/創造できるだろうか。

2017-12-09

ラ・ジュテ

クリス・マルケル「ラ・ジュテ」を観た。

自分が死ぬことを知ったのはいつだっただろうか。
あるいは、時間が一方向に流れることを知ったのは
いつだっただろうか。
自らが死ぬ瞬間と女の顔を同時に見た男と同じように、
もしかするとその二つは同じ頃だったのかもしれない。
そして、その瞬間から意識が始まったのかもしれない。
収容所からの追手に気づいたとき、男は悟った。
時間からは逃れることはできない。
子供の頃に目にしたときから、ずっと取り付いていた
イメージは、自分の死の瞬間だったのだと。
クリス・マルケル「ラ・ジュテ」
地上と地下が分断された状況は、物理的身体と心理的身体が
分離したデカルト的世界観を思わせ、過去と未来を行き来
しようとする科学者は、媒介変数としての時間を彷彿とさせる。
近代以降の媒介変数としての時間に支配された世界において、
エントロピーとしての時間である女を求める男。
彼は意識そのものであるように思う。

科学者と女は、無慈悲に流れ去る時間と永遠に続く時間の対比
でありながら、その実、
Verweile doch, du bist so schön!
Johann Wolfgang von Goethe “Faust”
という言葉によってとどめられた女こそが、個々の意識に特有な
ものとなって、媒介変数へと還元されない不可逆性を生んでおり、
エントロピーとしての時間に繋がっている。
人間は、記憶を思い出としてとどめるからこそ生きているのであり、
またその故に死ぬのである。
思い出とは、色のついた記憶である。
An At a NOA 2017-12-04 “エンドレス・ポエトリー

可逆な時間から逃れ、不可逆な時間を求めた末に、男は女の
目の前で収容所の追手に殺される。
これは、不可逆な時間の末に死に至ることの暗示だろうか。
それとも、可逆な時間の末に意識が消え去ることの暗示だろうか。
「さよなら、わたし。
 さよなら、たましい。
 もう二度と会うことはないでしょう」
伊藤計劃「ハーモニー」p.363

2017-12-08

北斎とジャポニスム

西洋美術館の「北斎とジャポニスム」展を見てきた。

色の境界に着目したとき、北斎の絵には線があるのに対し、
西洋の画家の絵には線がない。
それは版画と油絵という表現方法の違いによるものなのかも
しれないが、それぞれの画法が発展したことも含めて、
日本には線画の、フランスには面画の文化があるように思う。
これは、木材を使った軸組構造と石材を使った組積構造の違いと
関係あるだろうか。
あるいは、海岸線という明瞭な境界に囲われた島国と、山や川が
曖昧な境界となる欧州大陸の違いと関係あるだろうか。
いずれにせよ、モチーフを北斎から拝借しつつも、表現スタイルは
それほど侵食されなかったという印象を受けた。

スタイルは物理的身体のように変化しづらく、モチーフは心理的身体
のように移ろいやすい。
ここにも、物理的身体への異なる心理的身体のインストールという
アイデンティティの問題があるように思う。

2017-12-07

アバター

ジェームズ・キャメロン「アバター」を観た。

下半身不随の肉体、地球人とナヴィのDNAを掛け合わせた
アバター、AMPスーツ、パリー、イクラン、トゥルーク、
あるいは身体に描かれた文様。
物理的身体が変化する中で、アイデンティティはどのような
影響を受けるかというのが、この映画の大きなテーマだと思う。

近代以降の世界において、アイデンティティを決めるのは
心理的身体であり、物理的身体は心理的身体が使用するために
拡張されるものという認識が強かった。
しかし、インターネット、臓器移植、VRなどの発展とともに、
個の特定の仕方に対する物理的身体の影響が再認識される
可能性は十分に出てきている。

3D映画という表現方法もまた、アイデンティティについての
認識を改める可能性を秘めているように思うが、2D映画と同じ
画作りでよいのかということは考えてしまう。
第四の壁の向こう側に奥行きができたとき、壁のこちら側にある
映画館という空間は何なのか、大勢で観ているとはどういうこと
なのか、この視点は誰のものなのか。
「観るのではない。そこにいるのだ。」というキャッチコピー
どおりの表現ができたとき、近代的な複製技術としての芸術とは
別の芸術が出来上がるように思う。

2017-12-06

物語の摂取

Mastering Chess and Shogi by Self-Play with a General Reinforcement Learning Algorithm

StockfishやElmoとAlphaZeroのイロレーティングを比較したグラフを
見ると、Elmoの方はAlphaZeroが一割程度上回っているのに対し、
Stockfishの方は両者のレーティングがほぼ同じ値である。
チェスにおける理由付けはほとんど大域的最適化ができているという
ことかもしれない。

StockfishやElmoのような、評価関数を利用するアルゴリズムと違い、
深層学習という理由が顕にならないアルゴリズムは、「理解」せずに
「マスター」することを可能にした。
そこは、無意識や自然と同じ、理由なき世界である。

一方で、人間は、理由という物語に飢えている。
囲碁も将棋も運転もコーヒーを淹れるのも、どれだけ性能のよい
機械が出てきたとしても、人間がやったということ自体が価値を
もつことがあるのは、その情報を受け取るのが人間だからだろう。
感覚には、味覚、嗅覚、視覚等の五感センサの処理結果
だけでなく、豆の産地や誰が淹れたかといった情報も
まとめて抽象できる。
その結果、AIが淹れたものよりも人間が淹れたものの方が
美味しいと「感じられる」ことはあり得る。

それでよいのだ。
An At a NOA 2016-11-20 “知覚と感覚"
たとえ他人という外部を介したものであっても、理由付け機構の
下にあるという理由付けが、理由付け機構である意識にとっては
価値をもつ。

「理解」とは、物語を摂取するプロセスであり、すべてが一意的に
理由付けされることもなく、理由付けが放棄されることもない状態
でのみ作動している。
意識というのは、常に現在に対して不満を覚える必要があって、
完全に満足した現在を認識したら、意識はその役目を終えて
消え去ることができるのではないかと思う。
An At a NOA 2017-05-19 “不安な個人、立ちすくむ国家
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続” 
この記事自体もまた、 一つの「理解」である。

2017-12-04

エンドレス・ポエトリー

アレハンドロ・ホドロフスキー「エンドレス・ポエトリー」を観た。

思い出とは、色のついた記憶である。
その色は、色彩であり、脚色である。
思い出すたびに、思い出は理由付けされることで補強される。
An At a NOA 2016-10-01 “思い出
「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」
森博嗣「すべてがFになる」p.289
情報を送受信するたびに更新される記憶が思い出になる過程において、
どのような色がつけられるかが、個を特定するよすがとなる。
彩りの与え方には他人や時代、場所といった外部の影響も含まれるが、
それと同時に自らによる彩りも含まれる。
その相互作用の中にあることが生きることであり、外部からの一方的な
彩りに身を任せるとしたら、それはもはや死んだも同然である。

たとえこの世が無常であり、すべてが忘却されるとしても、生と死の
葛藤の中で、自ら発光する蝶であれ。
お前は一匹の蝶になる、自ら発光する蝶に。
アレハンドロ・ホドロフスキー「エンドレス・ポエトリー」