2016-12-31

2016年

今年はよく記事を書いた。
この記事を入れると447本。
全記事で825本だから、実に半分以上が今年のものである。

読書量が増え、bookタグのうち読了したものを数えると36冊になる。
月平均で3冊、だいたい10日に1冊読んでいるペースだ。
読む量が増えたこと以上に、読んで考えたことを言語化することで、
思考範囲が拡がったように感じることが重要なように思われるので、
来年以降も続けよう。
こうして列挙してみると、思考や興味の変遷がわかって面白い。

映像作品を観る量も増えた。
BDやDVD、アマゾンプライム、Youtubeの有料動画等、自宅で
観ることが多いが、今年は映画館にも4回ほど足を運んだ。
映画館に行くモチベーションを掻き立ててくれる良い映画が
たくさんあったのは、2016年の特筆すべき事項だ。
今年最も泣いた瞬間は、「シン・ゴジラ」を1回目に観たときだろう。
(その次は多分「SHIROBAKO」だ)

観劇では、小林賢太郎のステージを2回観に行くことができた。
「うるう」が今年最も笑った瞬間に挙げられるだろう。

今年はAIとVR/ARの話題が急に増えた年だったが、特に3月にAlphaGoが
勝利したことは、充足理由律への再考を促すという意味で、個人的な
思考への影響が大きかった。
理由付けと意味付けという単語を3月頃から使い始め、メイヤスーや
小坂井敏晶、ギブソン等の著作の影響を受けながら、7月頭に随想録として
一度整理した。
それ以降も少しずつ変化しながら発展しているので、そろそろまた
随想録をまとめたい。

かつては回文やアナグラムといった言葉遊びばかりだったのが、
回文が4記事、アナグラムが10記事で全体の3%とは情けない。
暇な時間を読書と思考に割くようになったから致し方ない部分も
あるのだが、感覚が鈍らないように来年はもう少し取り戻そう。

初心忘るべからず。
しょしんわするべからず
しべんするからしょわず
思弁するから背負わず

2016-12-29

あらゆる答えが脆弱なのだとすれば、
すべてのリプライは問のかたちを
取らざるを得ないのではないか。

このこと自体もまた、問のかたちを
取らざるを得ないのではないか。

このこと自体もまた(以下略

2016-12-28

あなたは今、この文章を読んでいる。

佐々木敦「あなたは今、この文章を読んでいる。」を読んだ。
(という文章を、あなたは今、まさに読み終えた。)

屍者の帝国」よりも先にこちらを読んでいたのだが、
後半の「屍者の帝国」読解部分でネタバレを避けられない
ということで、踏ん切りをつけて「屍者の帝国」を読んだのだ。

前半のメタフィクションの整理と、後半のパラフィクションの
解説としての伊藤計劃、円城塔、神林長平の解読はいずれも
とても興味深い。
特に後半は好きな作家ばかりが集まっているのもあり、
非常に納得のいくものだった。
読者の意識的無意識的な、だが明らかに能動的な関与によって
はじめて存在し始め、そして読むこと/読まれることの
プロセスの中で、読者とともに駆動し、変異してゆくような
タイプのフィクションのことを、パラフィクションと呼んで
みたいと思うのだ。
佐々木敦「あなたは今、この文章を読んでいる。」p.222
佐々木敦の言うパラフィクションというのは、神林長平の
いま集合的無意識を、」で初めて実感したように思う。
「屍者の帝国」のエンディングも素晴らしかった。
そして個人的には、「シン・ゴジラ」を観たときに感じた
ことも、パラフィクション的だったように思う。
ところが、震災のことをテレビやネットで第四の壁越しに見て
いたために、スクリーン越しであることが、かえって自分自身で
あることを強化する。
An At a NOA 2016-08-04 “シン・ゴジラ
本来フィクションである作品が、このようにしてノンフィクションとして
受け取れたという事実が、私にとって「シン・ゴジラ」がパラフィクション的
だったことの証左だと言えるだろう。

この本で展開されるメタフィンクションやパラフィクションの問題は、
意識の問題でもある。
ストーリーテラーであるのと同程度にストーリーリスナーであることを
意識が自覚するとき、パラフィクション的な自意識が芽生えるだろうか。

屍者の帝国

伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」を読んだ。

正直、この小説の存在自体が、長いこと苦手であった。
出版された数週間後には取り敢えず単行本を買っていたのだが、
少し読んだっきり放置したまま、四年近くが経っていた。
伊藤計劃を読みたい反面、円城塔がそれを書き継ぐというのは、
どういうことなのかということを消化しようと踏み切るのに、
それだけの年月が必要だったのかもしれない。

円城塔が「あとがきに代えて」で述べているように、伊藤計劃が
構想した、「死んでしまった人間を労働力とする」物語を、まさに
そのままやってのけたという点では、ほとんど唯一無二になり得、
エピローグのⅡにおけるワトソンとフライデーの関係は、
どうしても伊藤計劃と円城塔として読んでしまい、さながら
円城塔による「あとがき」に見えるのである。
(このあたりを詳細に解読した佐々木敦のパラフィクション論が
秀逸なのだが、その話は記事を分けて書く)

言葉を主題にした「虐殺器官」、意識を主題にした「ハーモニー」、
その両方を引き受けた上で、「ありがとう」の五文字を展開する
ために、「死者を働かせ続ける」作業をやり遂げ、こうして
一冊の本にしたのは見事だ。

あえて、「死者を働かせ続ける」という労働を取り上げれば、
心理的身体を維持するための仕組みとしての労働の話に
展開させるのも面白いと思う。
An At a NOA 2016-11-29 “労働

労働からの解放およびベーシックインカムの導入により、
「勤労の美徳」という倫理観からも解放されて数十年が経つと、
若年性認知症の報告数が飛躍的に増加した。
認知症とは心理的身体の喪失であり、労働によらず心理的身体を
維持できるのは、外圧によらなくても理由付けを継続できる
一部の人間のみである。
物理的身体が機能停止することで死者になるのに対し、
心理的身体が機能停止することで屍者が生まれ、その物理的身体は
至って健全である。
そこに「勤労の美徳」がインストールされることで労働力になり、
人々は再び労働に駆り出されるようになる。
しかし、その労働は意識の存続以外には本質的に無意味であり、
意識は意識自身の延命措置として労働から逃れられなくなる。

「ハーモニー」でスイッチが押された後の、その先の物語として、
「わたし」という意識が実権を取り戻す過程としての「屍者の帝国」
というのも、あるいはあり得たかもしれない。

2016-12-24

Google Spaces

最強のグループウェアでありメモアプリでもある、『Google Spaces』を
いますぐ使い始めるべき6つの理由


公開後にインストールして以来、ほとんど使っていなかったのだが、
Google Spacesをメモ帳として使ってみた。

これまで、メモはすべてGoogle Keepに書いていたのだが、
TODO、読書録、研究メモ等が入り乱れ、タグ付けと色分け
くらいでしか整理できない。
まあ、検索機能がちゃんとしているので、あまり問題は
ないのだが、並行して複数の本を読んでいる場合などは、
本ごとにタグを作るのが面倒で、どのメモがどの本について
なのか、時々わからなくなる。

Spacesでは、本ごとにSpaceを作り、さらにテーマごとに
スレッドが立てられる。
スレッドは、本の章や節に対応させてもよいし、考察の
テーマに対応させてもよい。

しばらくこの方式で運用してみよう。

2016-12-23

モデル化の継続

今更ながら振り返ると、理学ではなく工学の方が性に合っていたなと
感じられ、こちらに進んできてよかったと思う。
理学はあまりに真理の仮定が強すぎると思うが、それが合うかどうかは
性格の問題だろう。

エントロピック重力理論が、ダークマターを仮定しなくても観測データを
説明できるというニュースも出ているが、ポアンカレも指摘したように
あらゆる理論は一つの理由付けというモデル化でしかなく、真実というのも
仮定されるものでしかない。
ダークマター存在せず? - 「エントロピック重力理論」と観測データが一致

真実が一つであることを仮定して、オッカムの剃刀を振り回せば、
「正しい」や「間違い」という評価は下されるが、元のツイートで
自虐的に語られる30年や40年はパァになったわけではない。
あらゆる理由付けが単なるモデル化であるからこそ、いずれは否定される
運命にあるかもしれない理論に従って理由付けすること自体にも、何らかの
理由付けがなされ、それを継続することができる。

あらゆるモデル化は無意味だと糾弾することは、意識への反逆であり、
意識がそれをするのは自己否定あるいは自己矛盾である。
ただし、意識はまさにその理由付け能力によって、矛盾を抱えることも
できるのであるが。
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
そうやって世界をモデル化して得心しようとする行為の、
何と役に立たないこと。
そこに意味を見いだせるとは、何と人間的だろう。
An At a NOA 2011-12-08 “numerical models

2016-12-20

セクサロイド

「セックスロボットは人間を過度に刺激する可能性がある」と専門家が警鐘を鳴らす

セックスには少なくとも二つの役割がある。
一つは、有性生殖による物理的身体へのエラーの導入であり、もう一つは、コンセンサスの確認による快楽の成就である。

快楽について、ベルクソンは「意識に直接与えられたものについての試論」の中で、
より大きな快楽とは、より好ましい快楽でなくて何であろう。また、われわれの好みというのは、われわれの諸器官の一定の性向でなくして何でありえよう。
アンリ・ベルクソン「意識に直接与えられたものについての試論」p.49
と述べている。ここで言われている諸器官というのは、もしかしたら物理的身体に限らないのかもしれないが、目、耳、鼻、舌、皮膚といった五感を始めとする諸感覚が快楽に関係しているのは、ほぼ間違いないように思われる。
コンセンサスの確認とは、これらの感覚を一致させることであり、二つ以上の物理的身体が同一の視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を共有することによって達成される。

セクサロイドに要求されるのは、おそらく後者の機能であることがほとんどだろう。前者についても、例えば使用者の生殖細胞を基にiPS細胞を作り、人工培養で胎児を生成するような機械は作れるかもしれないが、その装置は人型である必要性が薄い。後者の場合、人間の物理的身体の特性にマッチさせることの容易さから、人型にすることにメリットがある。VRで実現しようという流れもあるが、物理的実体によっておおよその範囲の感覚をカバーした上で、視覚や聴覚の領域に限って補助的に用いるというのが技術的なコストは低いだろう。

こうして、後者だけを過度に切り離すことができてしまうことの是非を議論することはよいと思う。気をつけなければいけないのは、「倫理」という言葉によって、何を意味しているのかについて自覚をもつべきだということだろう。

心理的身体のセックスとはどのようなものだろうか。
心理的身体へのエラー導入は理由付けによって行われることから、会話や議論等のコミュニケーションによって、新しい判断基準をもつことが前者に相当する。また、コミュニケーションを通して、理由の連鎖のコンセンサスを取ることもできるので、後者の機能を果たす側面もあると言える。

理由を気にせざるを得ない人間は、心理的身体のセックスを求めて会話をし、議論をし、恋愛をし、結婚をし、執筆をし、演奏をする。承認欲求は「コンセンサスの確認による快楽の成就」に相当するのだろうが、こればかりが卓越するのも悩みものである。心理的身体へのエラー導入を、常に忘れないでいたい。それは、サディスティックであると同時に、マゾヒスティックでもあれ、ということと同じことである。
An At a NOA 2016-11-05 “動きすぎてはいけない

2016-12-19

形骸化

いろいろな判断機構が、それぞれの正義をもちながらすり合わせをすることで、よいものができると思うが、その際に具象のレベルですり合わせようとしても難しい。一旦抽象し、圧縮した正義を持ち寄ると、意外とすんなりとすり合わせができて、抽象のレベルではコンセンサスが取りやすいように思う。ここから具象のレベルに落としこむという段階がとても難しく、コンセプトがよくても感動しない建築というのは、ここで失敗しているのだと思われる。

具象を具象のまま扱うというのは、いわゆる形骸化のことだ。ものごとは形骸化することで伝統になり、時に素晴らしい印象をもたらすので、形骸化自体は悪いこととは限らない。抽象を経ないというのは、理由付けされないということで、具象は意味付けによって少しずつかたちを変えていく。ガラスが非常に大きい粘性をもった液体であるのと同じように、かなり固定化した部分がありつつ、完全には固定していないという状態が成立すると、伝統のように、よい形骸化に至るのかもしれない。

固定化というのは、情報の再現性が高いことと同義であり、物理的実体を有するというのはその最たるものである。理由付けによって変幻自在に基準をすり替えられるのは人間の特徴だが、理由付けの抽象過程だけによって存在するのは、情報の再現性の担保が難しく、同一化の対象になりにくいのではないかという気がする。意識がソフトウェア的に実装できたとして、様々なハードウェア上で再生される意識は、果たして一つのものとして同一化され得るだろうか。

物理的実体を具えることがある程度の固定化を保証することで現在の意識の同一化が担保されているのであれば、情報の再現性を増し、同一化され続けるために、身体なき意識や紙媒体なき書籍は代替となるハードな特性を必要とする。
ハードウェアに依存する必要はないが、それに代わる同一性の仮定の基盤を要する、というものだ。
An At a NOA 2016-11-13 “SAIKAWA_DAY30
「すべてがFになる」に出てきたレッドマジックには、rootすら変更不可能なファイル形式が実装されていたが、そういったかたちでソフトウェアにハードウェアが侵入することになるのだろう。そのとき、「よい形骸化」となるような固定化を人間は実装できるだろうか。それを理由付けによって行うのは可能だろうか。

2016-12-16

グラフィックボード

研究室のLinux MintにGTX1050を導入した。
玄人志向の製品で、付属のDVDにはwindowsの
ドライバしか入っていないので手動で入れたのだが、
結構ハマりどころが多い。

1. NVIDIAのサイトからドライバをダウンロード
 nvidia.com/driversにアクセスすると条件に応じて
 必要なドライバが検索できる。
 NVIDIA-Linux-**.runというような名前のファイルを
 手に入れる。

2. ファイルのアクセス権を変更  
chmod +x NVIDIA-Linux-**.run

3. X serverを落とす
 そのまま実行すると、Xサーバを落としてから
 再実行するように表示されて終了してしまうので、
 Ctrl+Alt+F1で仮想コンソールに移動し、  
sudo service mdm stop
をやってみたら画面が真っ暗になったので、
 Ctrl+Alt+F2で別の仮想コンソールに移ってみる。
 ここで  
sudo sh NVIDIA-Linux-**.run
として実行したら無事ドライバがインストールできた。

文字が小さいのが不便なのだが、cinnamonだとスケーリング
できるのにMATEはできないらしい。
しばらくこのまま使うか。

これまで、モニタは4k対応しているのに、オンボードグラフィックが
対応していないせいでQWXGAで出力していたのが、やっと解消した。
せっかくなので4k映像を見てみる。
星空を低速度撮影した映像を見ていると、恒星が足並みを揃えて
地球の周りを周回しているよりは、地球が回転していると考える方が
自然な気がしてくる。
仮に人間の体感する時間の速度がもっと速かったら、天動説は史実よりも
かなり早い段階で棄却されていたんじゃなかろうか。

知る

何かを知るというのは、その対象の見方を増やすことだ。

見方というのは抽象の仕方、理由の連鎖のことである。
鎖の長さを長くするのは、深さ方向に見方を増やすことに
相当し、別の鎖をつなぐのは幅方向に見方を増やすことに
相当する。
深さ方向に多くの見方をもっている人間は専門家と呼ばれ、
幅方向に多くの見方をもっている人間は物知りと呼ばれる。

その知識の真偽というのは、他の鎖との整合性によって
決めるしかなく、「正しい」知識なんていうものがあると
いうのは信仰でしかないが、集団を維持するのには必要な
ものではある。

このところ、googleやfacebookが「偽の」情報と呼ばれる
ものを如何に排除するかが取り沙汰されている。
どのような方式を取るにしても、それはフィルタでしかないが、
そのフィルタの仕方が集団の在り方を決める。
ユーザ側にそのフィルタを任せるという方式は、集団としての
体をなさなくなることにつながる気がするが、シロクマさんが
言うように、ユーザ同士がクライアントサーバ型ではない集団を
形成するのをサポートする方向に縮小していくのかもしれない。
シロクマの屑籠 2016-12-16 “結局、大事な情報は人が持ってくる

怖いのは、皆が皆、出来物を選び取ることに終始するように
なることだ。
これは、同じ同一性という正義を共有できることから生まれる
安心感だろうか。
それとも、単に自ら圧縮する手間を厭うことによるものだろうか。
An At a NOA 2016-10-04 “圧縮情報
でも、そもそも意味付けや理由付けといった抽象過程自体、
選択することである。
その差は、選択候補の圧縮率の違いにあるのだろうか、それとも、
抽象過程における圧縮率の違いにあるのだろうか。
なんとなく後者な気がする。
前者の場合、他人の論考という圧縮率の高い対象を題材にしても、
優れた抽象を施すことで、一つの優れた論考にすることはできる。

知識の真偽を設定する以前の問題として、抽象することを怠った選択には、
知識になる資格などない。

2016-12-15

何故

「何故」という問から逃れられない限り、
科学か宗教のいずれかには頼らざるを得ない。

科学も宗教も、唯一の理としての真理を仮定するが、
宗教はすぐに真理へと短絡するのに対し、科学は
真理への短絡を可能な限り避けるかのように、
理由の連鎖を長くするという点に違いがある。

人工知能開発や意識の解明における最後のピースは、
この「何故」の問とどう向き合うかにかかっている。
それは、どう向き合うことにするかというだけであり、
どう向き合うことが正しいのかと問うのは堂々巡りに
しかならない。

2016-12-14

近距離信仰

直接性の神話と同じくらい強く信奉されているのは、
近くにいる人間は同じような価値観をもっていると
いうことだ。
前者に比べると後者はやや薄れつつあるが、それでも
漠然とした海外への憧れのようなかたちで根強く
残っているし、実際にある程度の妥当性がまだまだ
あるように思う。

両者はいずれも、近距離への信仰だと言える。
距離が近づくことで通信量が増え、コンセンサスが
取りやすくなるのは間違いないと思われるので、
かつてはかなり的を射た信仰だっただろう。

通信の範囲が拡がり、速度が速くなるのに合わせて、
それらが信仰でしかないということを、もう少し
気に留めるのがよいように思う。
通信形態が集合の在り方を決めるように思われるのに、
通信の変化が集合の変化に直結しないのは、この手の
信仰が大きな慣性になるからなのかもしれない。

Post-truth

和田隆介さんによるWADAA2016の総括に、
Post-truthという言葉が出ていた。

いくつもあり得るはずの理routeを、唯一だと
仮定することで真理truthが現れるという話を
以前書いた。
An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖

truthを仮定することによって、集団は維持されて
きたが、Post-truthの時代において、集団の在り方は
どのように変わるだろうか。
ここで集団と言っているのは個人の集まった社会に限らず、
一人の個人の在り方にも関わる。
心理的身体は、一つだという自覚がありつつ、コミュニティに
応じて発現の仕方が違っているということが多い。
物理的身体が直には現れない、ネットワーク上の
コミュニティにおいては、それがさらに顕著になる。
もはや一つの心理的身体の別側面なのか、複数の心理的身体
なのかは不明確であり、そもそもそれを明確化する必要もない。

truthの時代というのは、そういった境界を明確にすることで
集団を強固にしていたということだろうか。
だとすれば、Post-truthの時代には、その都度設定されるrouteを
頼りに、temporaryな集団が立ち上がることになるだろうか。
ポストモダンの思想的根拠」を読んだときに考えたことにも通ずる。

Post-truthにおけるtruthの採用の仕方は、投機的短絡と似ている。
固定化を免れるために、常に本来の意味でのhuman errorを含んだ
routeが探索され、複数の視点でチェックされることで仮のtruthに
なったrouteは、そこに現れる集団のrootになる。
これが上手くいくと、correctnessに執拗にとらわれない、rightnessに
よる集団が出来上がるのだろう。

p.s.
Post-truthという語について調べてみると、「真実や事実ではなく
感情に訴えること」というニュアンスで語られていることが多く、
真実というものは本当はあるという仮定を崩していないようである。
その思い込みに対する反動として、Post-truthと呼ばれるに至った
のだと思うのだが。
正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが
生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.166

Waymo

昨日今日でGoogleの自動運転車に関する記事が二つ出た。

一つは昨日The Informationに書かれた
という記事。
もう一つは今日Mediumに書かれたJohn Krafcikの
という記事である。

前者はsubscriptionが要るので全文は読めていないが、文責のある人間はGoogleの人間ではなく、記事にはaccording to people close to the closely-watched projectとある。後者は前Google自動運転車部門のCEOで、新しくWaymoのCEOに就任した人間が書いている。

前者の記事自体は特に責められるようなものではないのだが、昨日のキュレーションサイトはこの記事(を引いたbusiness newslineの記事)を引いて、「Googleが自動運転車から
事実上撤退か」みたいな論調で騒いでおり、なんだかなー、という感じである。

自動車の運転に関しては、人間が使う制御機構を実装しない完全自動運転車が実現して欲しいと思う。

トロッコ問題のような倫理の話を持ち出して、correctnessからrightnessの問題にすり替えるのであれば、ハンドルやブレーキは残すべきだ。しかしそれは、意識のせいでcorrectnessが損なわれる代わりにrightnessを用意しているだけである。もちろん、rightnessを持ち出す方がよい場面もあるが、交通が高速度で広範囲に渡る場合に関しては、そうは思わない。

人間の操作が介入するせいで交通は乱れ、けが人や死者が出る。倫理的判断を組み込めば、rightな損失を取ることで、ある集団にとっての納得は得られるだろうが、その集団が人間全体と一致することはおおよそあり得そうには思えない。冷酷にみえるかもしれないが、correctな損失を取り続けることでしか、自動運転車の運用は続かないと思われる。それは、死の受け入れ方の問題である。

また別の話で、運転をすること自体が心理的身体の維持に役立ち、認知症に至るのを防いでいる側面もあるかもしれない。しかし、心理的身体の維持は別の方法でも行えるので、運転車自身を含む、少なくない物理的身体の損失する可能性をはらんだままにしておく妥当性はないように思われる。

高速度で広範囲な交通の理想形はユートピア=ディストピアである。正義が一意に決まり、correctnessが担保されることで、損失の数は劇的に減るだろう。究極的には、心理的身体だけでなく、物理的身体も消え去る。人間の物理的な移動は、局所的で低速なものに限るのが理想だ。

2016-12-12

レヴュー

今日は設計と研究の両方のレヴューに関して
よい知らせがあった。

設計に関しては、意匠設計者が構造や施工
について案を練ることに熱心だったし、
それに触発されて考えを深めることができた。
審査員からも、まさにその点を評価してもらえた
ことで、手応えが得られたのは嬉しい。

研究に関しては、基礎研究寄りの主題で、面白さが
伝わるかが微妙だったのだが、しっかりと査読者に
読み取ってもらえた。
長らく離れていたこともあり、詰めが甘いのは
直さないといけない。

いずれもレヴュワーが複数いるとはいえ、ある評価軸で
切り取った評価であるため、気は抜けない。
しかし、自分以外の人間に、自分が考えた面白さを
しっかりと伝え切るというのは、面白さを知るのとは
また違った楽しさに溢れている。

このブログにおいて言語化を継続することで、
出力側にも少しずつ慣れてきている。
一先ず、出力結果が無事評価してもらえたことに、乾杯。

空の色

とっても面白い。

物理的身体の外部において、レイリー散乱による特性を
得た情報を、物理的身体の特性を介して抽象することで
青に見える。

知覚の段階においてすら、情報の特性と物理的身体の特性の
影響を受けているのだから、感覚の段階でさらに心理的身体の
特性の影響を受けると、空の色なんて千差万別なはずである。

意識の還元

神経系に生じる活動電位のパターンで意識を説明することは、
ディープラーニングの隠れ層に判断の理由を付けることと
同様の困難さをはらんでいる。

その理由付けを必要としているのは、無意味に耐えられない
人間だけであり、本来理由がないものであるから、そのモデル化
にはある程度の任意性が残る。
そして、その任意性によってモデル化の必然性は弱まり、
結局はその説明を受け入れるか否かというだけの問題に
なってしまうのだ。

それはつまり、相関と因果の違いと同じことだと思うのだが。

自由意思

自由意思の自由度は、理由付けの投機度から生まれる
以外にないと思われる。
リベットの実験で実証されたように、理由付けが事象の
後に起こっていようが、どのような理由でその事象を
解釈するかの選択ができることに、当該意識の自由さが
現れている。

意識は投機的短絡に基づく理由付けによって実装されて
いるから、そもそも定義的に自由なのである。
そして、理由付けによる理由の連鎖の果てに獲得される
主観性は、あらゆる判断の原因として、暫定的に仕立て
上げられるという点でも、責任の担い手として、自由で
あることが要求されるのだ。
責任を問いたいがために自由が想定される。
An At a NOA 2016-09-05 “表現の自由” 

2016-12-11

意味の補完

独り言や車内での通話を耳にしたとき、
無意味に耐えられないことで、理由付けを
施してしまうために、不可避的に余計な
エネルギーを費やしてしまう。

そのエネルギーを節約したいがために、
そういったものに不寛容になってしまうの
かもしれない。

intelligence

artificialでないintelligenceなんてあるんだろうか。
それはつまり、教育という行為をartificialと呼ぶか
否かという問題だろうか。

教育という行為が本当に存在するという信奉と、
人工ではない知能が存在するという信奉は、
両立しないように思われる。

2016-12-10

一面的な最適化

ある方向からだけ見ながら最適化したものは、
とてつもなく脆くなる。

アルゴリズムによる構造体の最適化においては
想定した荷重に対しては最適だが、他の荷重に
対しては脆弱なものに収束することがあり、
それを回避するために冗長性が導入される。
3Dや彫塑でも、ある向きだけから作業していた
のでは、別の方向から見たときの形状が整って
いるかは定かではない。

建築の設計もまた同様で、意匠設計、構造設計、
施工監理、鉄骨製作等の様々な観点から整理
しないことには、よい建築にはならない。
建築の雑誌には、設計サイド、特に意匠設計の
観点からの整理のみが載ることが多いが、
個人的にはそれだけ読んでも「ふーん」くらい
にしか思えない。

思考もまた例に漏れず、多方向からの観点を要する。
これを一人の人間として行うのはとても難しいが、
できるだけ方向を固定化しないようには努めたい。
多方向から並行して最適化したものは、一方向からのみ
見ると最適でない領域が残るため、批判が出るのは
仕方がない。
しかし、一方向だけから最適化したのでは得られない
よさというのは、多くの人間に伝わるものである。
できるだけ多くの視点からの解釈に耐え得るものは、
当人が意図しなかった解釈も呼び込むことで、場所や
時代を超えて残っていくように思われる。

2016-12-09

思考の速さで

思考の速さで思考したい。

この感覚を言語化するのは難しいのだが、この表現が
一番しっくりくる。

道具というのは、物理的身体あるいは心理的身体の
抽象過程を外部化したものである。
思考という、心理的身体による抽象も、外部化された
道具によって部分的に補助されるが、道具の利用は
物理的身体を介することになるため、物理的身体の
抽象による心理的身体の抽象の中断を如何にして減らすか
ということが問題になる。

構造設計で言えば、電卓あるいはPCがその手の道具になる。
RPN電卓に対しては、自分自身の思考の方を適合させる
ことで障壁を下げることができた。
PCではVimとAutoCADに物理的身体を慣らしているが、
できれえばLinuxに移行したいのでCADソフトウェアは
悩みどころだ。
そして、構造解析はstをチューニング中である。
他人が作ったソフトウェアには、物理的身体の方を慣らすしか
ないのに対し、自分で作るソフトウェアは、心理的身体の特性に
合わせて操作方法を変えられる。

究極的には、考え事をするスピードで、設計をする。
それが、思考の速さで思考する、ということだ。

2016-12-08

安全と安心

安全は外部の評価であり、安心は内部の評価である。客観と主観の違いと言い直してもよい。

近代以降、一般性という名の交換可能性を推し進める中で、安心よりも安全が優先されてきたように思われる。その反動として、安心を重視する視点が現れるのはもっともであるが、安心ばかりに振れてもバランスがとれない。

それぞれが内部で安心しているだけでは、共通の基盤がなくなることで生じる齟齬も多くなり得るということは、常に心に留めておくべきである。

スタンドプレー

我々の間には、チームプレーなどという都合のよい
言い訳は存在せん。あるとすれば、スタンドプレー
から生じるチームワークだけだ。
「攻殻機動隊S.A.C.」第5話
スタンドプレーは、その連関をみるものの存在によってのみ
チームワークになる。
伝統的な意識観では、意識はチームプレーを主導するものと
思われているが、むしろチームワークをみるものという方が
妥当なように思われる。

2016-12-05

FPGAの透過的利用

Linux OSからFPGAを透過的に利用する構想。
文字列処理をCPUからFPGAへオフロードで
10倍速になった研究結果をミラクル・リナックスが発表


ハードウェアとソフトウェアの境界は、こうして
徐々に薄れていく。
それは、物理的身体と心理的身体が膠着していく
ことのように思える。

優れた職人の物理的身体は、その作業に特化した様が
「ペンだこ」のようなかたちで表出することがあるが、
そのセンサ特性を手に入れたとして、汎用型の心理的身体は
技術を手に入れることになるだろうか。
無意識は物理的身体に含まれるとすれば、技術としては
手に入った状態と言えるだろうが、それを運用するのは
やはり心理的身体の領分のように思われるので、飲み込みが
早い職人のたまごになる、といったところか。
いくら職人でも、気がつくとものができているという
ことはなく、作業手順は説明ができるが、コツは言語化
できない、ということなのではないかと想像される。
作業手順は心理的身体、コツは物理的身体の領域である。

ゴーストの実在性についての覚書

絞首台の黙示録」のときに書いたゴーストの
実在性について。

物理的身体の完全な複製が行えれば、オリジナルと
コピーの差分は存在しない。
むしろ、差分が存在しないことが完全な複製の
要件である。
その際にゴーストが失われるように見えるとすれば、
それは見る側に存在していたものである。

意識は、入力される情報に秩序が先行して内在されて
いるのを感じるとき、そこに理由をみてしまう。
それは神の意思かもしれないし、他者の意識かもしれない。
あるいは、自らの意識の可能性もある。
理由律に絡め取られたセンサは、原因を求めて彷徨い歩く。
それは、神、他者あるいは自己に出会っただろうか。
An At a NOA 2016-07-23 “ウロボロス

物理的身体の複製によって情報が入力される回路が
分離されると、コピー先の心理的身体で別の抽象が
行われることになり、これは、コピー元の心理的身体
にとっては、外部での秩序形成に相当する。
コピーされた当人は、秩序が外部化されることで、
コピー先の抽象機関は他者に感じられるだろう。
それ以外の人間にとっては、コピーされた時点では
両者に違いがないものの、抽象による変化の蓄積
としての記憶=過去が複数系統に分かれることで、
別の人物へと分離したように感じられるだろう。
しかし、オリジナルとコピーの、どちらかにゴーストが
存在し、もう一方には存在しないとするのは、受け手側の
都合でしかない。
受け手の意識内で、片方がコピーされたものだという
知識が織り込まれることで、その受け手にとっては
ゴーストの複製が失敗することになる。
攻殻機動隊では、ゴーストダビングの過程でオリジナルの
ゴーストが失われる問題が描かれたが、それはつまり、
オリジナルではなくコピーにゴーストを見ることによる、
受け手側でのオリジナルからのゴーストの奪取である。

物理的身体と心理的身体はいずれもセンサ特性を有し、
それによって個が特徴付けられる。
同一のセンサ特性を共有するのであれば、物理的身体や
心理的身体が単数だろうが複数だろうが、一人の人間で
あり続けられるだろう。
臓器移植のような、物理的身体と心理的身体の依存性の問題は、
センサ特性の一致度を担保することで、ぎりぎりのところまで
分離する方向に進むのかもしれない。

AIは抽象機関そのものをつくることでゴーストを立ち上げ
ようとするが、外部に抽象機関を挿入するという点では、
VRもまた、一種のゴーストダビング装置なのかもしれない。

2016-12-04

SHIROBAKO

「SHIROBAKO」を観た。

アニメ制作の現場が主題だが、建築の現場にも
通ずるところが多く、とても感銘を受けた。

建築では施主が原作者やスポンサー、意匠設計が監督や
プロデューサー、構造設計や設備設計が脚本や演出、
現場監督が制作進行、職人が原画や3D、美術、声優等に
あたるだろうか。作監や美監は主任技術者か。
原作者、監督、デスク、作監等が、それぞれ自分の基準を
ベースにプライドをもちつつ、ある部分では頼り、ある部分
では無理を強いながら、一つのよいものを作ろうとする姿は
見習うべきところが多い。

アニメ業界では原画上がりで監督をやったりする人も多い
だろうが、建築では有名な意匠設計者や構造設計者に職人
上がりという人はほとんどいないように思う。
そういう設計者と一緒に仕事をしてみたいとも思うし、自分
自身、木工だけでなく溶接や建方等のものづくりの経験を
もっと積みたい。
まずは、同じ脚本を書くにも、監督やデスクだけでなく、
作監や美監を始めとした職人勢とも話をする機会を、多くの
現場でもてるとよいと思う。

全体のストーリィの他にも、ところどころでものづくりの
よい話が出てくる。
22話に出てくる、藤堂美沙の作った3Dに対する安原絵麻の指摘、
「3Dはコンピュータが自動で中割りをしてくれるでしょ」は、
設計が自動化していく中で、自動化によって省略される部分を
如何に上手く使うかのヒントになる。
テンポやパースが正確すぎると、逆に快感が湧かないんじゃないかな
「SHIROBAKO」22話
その場で藤堂美沙が修正してみせたように、省略された部分を
見つけ、適切な修正を施すことで、コンピュータの処理結果と
して得られる出力でも快感が湧くようなものにはいくらでも
近付けられるだろう。
そのためには、自動化によって省略される部分を意識することと、
必要に応じて自動化部分の較正を行うことを忘れないことだ。
人間が快感を覚えるような出力を調整するための、最も有能な
キャリブレータは、今のところ人間自身なのだから。

2016-12-02

整合性の破綻

意味付けのみに基づく自然な判断機構においては、整合性が破綻しない。それは非常に長い時間スケールにおいて、すなわち、多数の判断機会を確保することで、整合性を担保しながら判断および変化していく。自然の織り成す風景が美しいとすれば、そのような理由の不在による整合性に由来するのだろう。

そこに投機的短絡を持ち込むことで、整合性を破綻させる代わりに、とてつもなく短い時間スケールの中で判断および変化するようになったのが、理由付けに基づく意識という判断機構である。

破綻した整合性を何とか補修しようとする努力としての学問は、その究極として、整合性の復活による自然の美しさの再現を目指すが、ゲーデルの不完全性定理によれば、演繹的な手法は整合性を担保できない範囲を有し、また、整合的であることを自ら示すこともできない。

理由を欲する人間は、AIのはじき出す論理に基づかない整合的な判断を受け入れるのに苦労するだろう。理由付けによってわざわざ崩した判断の整合性を、論理によって再生しようとする様は、とてつもなく滑稽にみえるかもしれない。しかし、その方法によって意識はこれだけ短い時間で多くの判断を下してきたのだ。

では、情報処理能力の発展により、短い時間スケールにおいても多数回の判断が下せるようになったとき、そこに理由を求める理由はなんだろうか。こうして、充足理由律の渦の中に落ち込んでいく人間を描くSFも面白いかもしれない。

2016-12-01

絞首台の黙示録

神林長平「絞首台の黙示録」を読んだ。

途中、畑上ユニットで行われている研究と意識についての
話が展開されるあたりまではものすごく面白い。
でも、最後50〜60ページの展開は期待していたものと
ずれにずれていき、なんだかなという感じだった。

新陳代謝をする物理的身体は、神経細胞や心筋細胞等の
非再生系細胞を除き、6年程度で細胞がすべて入れ替わると
言われている(このあたりの出典を知りたい)。
だとすれば、物理的身体と心理的身体の分離性は明らか
であるように思われる。
ここで言う分離性は、心理的身体が物理的身体のセンサ特性の
影響を受けないという意味ではなく、同じセンサ特性をもつ
物理的身体であれば、構成要素は違ってもよい、という意味だ。

神経系を介して行われる情報処理過程の一部が意識という
心理的身体として発現しており、そのセンサ特性である記憶は
神経系の回路の結線状態として維持されるのであれば、
その状態を複製することで、心理的身体も複製される。

複製が完全であれば、オリジナルとコピーの区別はなく、
複製時点では同じセンサ特性=記憶を有する心理的身体が
誕生する。
そこから先は異なる情報処理をすることで、記憶は少しずつ
ずれていき、同じ意識ではなくなっていく。
情報処理内容を同期することで、一つの人格として維持する
ことは可能かもしれないが、複数の物理的身体に接続された
単一の心理的身体というものが、どのような身体感覚を
有することになるのかは想像するのが難しい。
(いわゆる多重人格の逆の状態である)

畑上ユニットで行われていた研究の究極の目標は、非再生系
細胞も含めた、物理的身体の完全な複製だと解釈できる。
オリジナルをどのように保存するかという問題はあるものの、
新陳代謝のような入れ替えではなく、オリジナルとコピーの
両方を残しておくような複製が可能になれば、上記のような
事態は起こり得る。

オリジナルとコピーのいずれもが、我こそは自分だと言うだろう。
それと対峙し、コミュニケーションをとった相手も、いずれの
ことをも、その人物だと認識できるだろう。
攻殻機動隊のゴーストのような、複製の過程で消滅するような
「何か」を仮定するのは、とても不自然であるように思われる。
それよりも、投機的短絡によって、あらゆることに理由をみてしまう
情報処理過程が、これまでの情報処理に基づいて更新されてきた
センサ特性=記憶によって、それ自身、あるいは、他の情報処理過程
につける理由として、常に同一化されるものだとみなす方が、
よっぽど自然である。
意識とはそういうものだ。

そういう点では、邨江という意識が周囲の人間の思い込みによって
そこに飛んできたというのもわかるのだが、むしろ上記のような
物理的身体の複製に伴う心理的身体の在り方の方を掘り下げた物語を
読んでみたかったな、というところだ。