2018-10-07

見知らぬものと出会う

木村大治「見知らぬものと出会う」を読んだ。

直接コミュニケーションを取って判断基準を共有することを「見知る」と表現すると、文明とは、見知らぬ人間同士が間接的に判断基準を共有することで密集した状態だと言える。
An At a NOA 2018-06-14 “文明
判断基準という規則性を共有していないもの同士が通信を始めるには、通信可能性の取っ掛かりを探るための投機的な跳躍が必要とされる。その跳躍が滑らかに接続されるソフトランディングの過程が、つまりは「出会い」である。

一方で、一度確立されたと思った通信可能性も、固定化してしまえば逆に通信を不要にしてしまい、通信が継続するには、通信不能にならない範囲での規則性の変化をもたらす応答可能性も必要になる。

通信可能性と応答可能性の狭間で規則性が変化することが、規則性の探索を内向きにも外向きにも困難にし、アルゴリズム的複雑性を計算不能にする。それはつまり、dataとinformationの違いだろう。むしろ、その状況において、当座の解を投機的に決めてしまい、不具合があれば随時更新していくのが本来の姿であり、その過程を形容するのが「正しい」という言葉であるはずだ。

規則性の探索やアルゴリズム的複雑性の計算が可能だとするのは、唯一普遍の「正しい」ものが存在し、そこに向かって収束していくことができるという近代的な発想である。その仮定が成立するのは、時間的にも空間的にも有限な集合についてだけであろう。技術の発達とともに、より広範囲の時間や空間と通信できる可能性が生まれつつある中で、もはやその仮定に起因する不整合は隠し切れなくなってきているように思う。

さまざまなプログラムとパターンの階層において、枠=固定化=通信可能性と投射=発散=応答可能性の間で、壊死も瓦解もしないように規則性が変化しながら通信を続けようとする。その「ゲーム」を「なんとかやっていっている」状態こそ、「生きている」ということだ。

家族、友人、外国人、人工知能、宇宙人。相手が何であろうと、その「ゲーム」を続けようとする志向性が、双方の生命を生み出すだろう。
「接触にそなえたまえ」

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