2017-11-10

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

スティーヴン・グリーンブラット「一四一七年、その一冊がすべてを変えた」を読んだ。

ポッジョ・ブラッチョリーニがルクレティウス「物の本質について」の写本を再発見し、古典古代のエピクロス主義を復活させたことが、ルネサンスのきっかけとなり、キリスト教世界を近代へと逸脱clinamenさせたという物語。逸脱がもたらす変化は、「万物は逸脱の結果として生まれる」というルクレティウスの思想そのものでもある。そのずれはわずかではあるが、創造的破壊となり秩序の固定化を防ぐ。
この逸脱―ルクレティウスはdeclinatio(ずれ)、inclinatio(傾き)、clinamen(傾斜運動)など、さまざまな呼び方をしている―は、ほんのわずかな動き(nec plus quam minimum)である(二巻二四四行)。しかし、絶え間ない衝突の連鎖を引き起こすのにはそれでじゅうぶんだ。
スティーヴン・グリーンブラット「一四一七年、その一冊がすべてを変えた」p.235

一神教あるいは一真教の下で、人間中心あるいは西洋中心の世界観を築いてきた長い期間の後で、さらに六百年を経た現代においてようやく、進化論サイバネティックス思弁的実在論多自然主義などのかたちでルクレティウスの思想へと回帰しつつある。
存在には終わりも目的もない。絶え間ない創造と破壊があるのみで、すべては偶然に支配されている。
同p.234
宇宙は、生成と破壊と再生という絶え間ない過程において、本質的に性的なものだ。
同p.295
著者が言うように、もはやルクレティウスが読まれず、写本再発見の物語が知られないとしても、その思想は主流となったように思う。
古代の詩が今では誰にも読まれぬまま放置され、喪失と復活の物語が次第に忘却の彼方へと消え、ポッジョ・ブラッチョリーニがほぼ完全に忘れ去られる。これらはルクレティウスが近代思想の主流に吸収されたほかならぬ証拠だった。
同p.325
それでもこうして、「喪失と復活の物語」が再構成されたものを読むのは、推測による部分も多いと思うが、読み物としておもしろい。この物語が細部までそのとおりであることが確かめられないにしても、社会的動物である人間にとっては、対話すること自体がおもしろいのである。
最終的な結論ではなく、意見を戦わせることそのものに大きな意味がある。議論すること自体がとても重要なのだ。
同p.91

p.s.
原題「The SWERVE: How the World Became Modern」をこういう邦題に訳してしまうと、解説で池上俊一が指摘するように、この一冊だけによって世界ががらりと変わったという余計な誤解を生むように思う。

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