2018-09-26

機械カニバリズム

久保明教「機械カニバリズム」を読んだ。

自己と他者、主体と客体、文明と未開、社会と自然、現実と虚構、内部と外部、人間と機械。様々な此岸と彼岸の二項対立を頑なに維持したまま此岸から彼岸を望もうとするのが近代的な態度だとすれば、「食人の形而上学」や本書が提示するのは、彼岸から此岸を彼岸としてみる目を通して、彼此が部分的にでもコミュニケーションできる状態を探る中で、それぞれの形を変えていくような態度であり、可塑的な比較やカニバリズムと呼ばれる。

長いこと神の代理を務めてきた「超越的な此岸たる人間」はいなくなり、剛体や弾性体だった「人間」が塑性化することで、いつかウォーカロンが「人間」になるように、「人間」は滑らかに形を変えていく。そもそも、超越的な此岸というルール自体が、近代の慣習に過ぎなかったのだ。

思うに、ルールからの逸脱であるバグをバグでないとみなすという可塑化の契機となる過程は、まさに投機的短絡を理由によって滑らかに接続するという理由付けの過程そのものだ。理由付けの詳細が隠蔽されることで、あたかも此岸だけが理由付けする意識をもった超越的な人間であるかのようにみえるが、どの逸脱を理由でつなぎとめ、どの逸脱をバグとみなすかの判断基準が変化すれば、意識の捉え方も変わり、人工知能に意識があるとされることもあり得るだろう。

人工知能やロボットを含みながら大きく形を変えた人間はどこまで人間と言えるのかという発想自体がとてつもなく近代的だ。現在の人間にとってどれほど人間として受け入れられないものであっても、その時代の「人間」にとっては「人間」であることがあり得るはずだ。その時代の「人間」という語の意味するところは想像を絶するが、想像しようとするだけの好奇心をもつことが、己の可塑性を高めるように思う。

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