2017-12-25

圏論

ここ数日は圏論の本を読んでいる。

圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」
清水義夫「圏論による論理学」
スティーヴ・アウディ「圏論」

「比喩=関手」という理解
西郷甲矢人「すべての人に矢印を―圏論と教育をめぐる冒険」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第12章 p.205
ということを考えると、圏論に関するあらゆる説明が関手であり、いろいろな本の中で少しずつ違う表現で説明されている圏論を理解すること自体が、圏論的なんだろうなと思う。

身体で何かを認識するとか、頭で何かを理解するという抽象過程がそれぞれに関手であり、理由付けによる理解が意味付けによる認識と違うのは、ある関手による理解から別の関手による理解へと、自然変換によって移行できることなのだろうと思う。物理的身体による意味付けの関手圏では、ユクスキュルの環世界のように、元来備えているセンサの特性によって動物や機械が比較的孤立しているのに対し、心理的身体による理由付けの関手圏では、ステレオタイプによって頭が固くなっていなければ、関手同士をつなぐ自然変換が比較的多い、とか。さらに、その自然変換を米田の補題みたいなものでモノであるかのように捉えたものが意識と呼ばれる、とか。

余等化子Qとq: B→Qは、z: B→Zのうちの「常識」とか「慣習」とかに当たる部分で、uq=zという分解は、そういう透明にできる部分を括り出したものなのではないかと思う。
あらゆる対f(a)=g(a)を“同一視”することによって、余等化子q: B→QはBを“潰したもの”と考えることができる。
スティーヴ・アウディ「圏論」p.76
余極限とは、モノを集めて貼り合わせて対象を作る圏論的構成のことです。
春名太一「圏論と生物のネットワーク」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第15章 p.257
その双対である等化子Eとe: E→Aは、
問題の本質を定義として抽出したもの。定義によって「これが本質だ!」と看破することで、問題自身がほとんどそれで解けてしまう
[座談会]「「数学本流」にはなりたくない―今出川不純集会、三たび」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第16章 p.275
という「良い定義」に通ずるものがあるように思う。等化子がデジューレ・スタンダードだとすれば、余等化子はデファクト・スタンダード?

なんだか思いつきで適当なことを書いているように思うが、圏論の説明の関手圏を覗くのは楽しいので、いろいろな説明を読んでみようと思う。

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